スカイレールをご存じですか

沖縄モノレールの藤本氏のコメントを受けて、広島にしかないローカルな乗り物をご紹介します。かつて西の箱根と呼ばれ D52やEF59が活躍した瀬野-八本松の あの瀬野駅から北側の住宅団地を結ぶモノレールとロープウエイの合体したような乗り物です。正式名称は「広島短距離交通瀬野線」ですが、スカイレールみどり坂線、あるいは単にスカイレールと呼ばれています。1998年にセキスイハウスと青木建設が瀬野駅北側の高台に住宅団地(スカイレールタウンみどり坂)を開発し、瀬野駅と団地間を結ぶ公共の乗り物として開業しました。1998年8月28日に開業、もと瀬野機関区があってEF59が並んでいた駅北側に建てられた駅が「みどり口」、中間駅が「みどり中街」、終点が「みどり中央」で 全長1.3kmの 軌道法に則ったれっきとした鉄道です。特徴は最大263パーミルの急勾配です。ロープウエイは風に弱く カーブができませんが、スカイレールは懸垂型モノレールのようなもので風には強く、ロープ牽引で急坂登坂、曲線走行ができます。駅構内はリニアモーター駆動です。座席8席、総定員25名の小さなゴンドラ2両が行ったり来たりしています。1999年には鉄道友の会ローレル賞も受賞していますが、あまりにローカルな乗り物のため知られていないと思います。私も開通直後に一度乗ったきりです。

定員25名。夜遅くなると狭い車内は個室のような感じになって 若い女性には不人気。今は団地内に小学校ができたので廃止されたが、以前は小学生通学専用便も運転されていた。下の写真は開通直後のため まだ家は少ししか建っていないが 今は景色も変わっているだろう。

主に軌道関係を神戸製鋼所が、車両を三菱重工三原製作所が製作した。下は開通を伝える社内報(三原通信 1998年10月号)です。

残念ながら後続の受注工事はなく、全国でここだけの乗り物になっています。広電の路面電車撮影などのついでに、瀬野まで足を延ばして 話のタネに乗ってみられるのも一興かも。当地へお越しの節は 是非ご連絡下さい。

連接車6

東西の私鉄特急列車にも連接車がある。何れも単に連接車というよりもその時代を代表する私鉄高性能特急車両であり、新しい試みが随所に見られる興味深い車両である。

近鉄では1958年に7連で中間に3車体4台車連接構造を持つ10000系初代ビスタカーを登場させた。このような意欲的な車両は見ていて飽きない。続いて翌1959年には改良されたビスタカー決定版10100系が3車体4台車構造でデビューした。詳しいことは当会の田淵仁さん著の「近鉄特急」JTBキャンブックスを参照していただきたい。

 

1968.11.8 伊勢中川 宇治山田行き特急後部モ10001 中間の3両が連接車

           1968.9.19  八木駅 ク10005

中間のク10005でビスタードームを持つ。  左の車両サ10004との間にシュリーレン空気バネの連接台車が見える。

 

  1968.9.19 三本松 10102+10202+10303  上本町行き特急

上本町よりが非貫通流線型で宇治山田よりが貫通形タイプ。三本松駅は今でもこの風景は変わっていない。

 

1968.11.8  伊勢中川付近 宇治山田行き特急 宇治山田よりの貫通タイプモ10100形

 

 

小田急ロマンスカーといえば展望席のある連接車のイメージが強い。しかし、10000の後に続く20000、30000、60000は連接車ではない。2004年度登場の50000は落ち込んでいる箱根への誘客のためか伝統的な展望席連接構造で真っ白で目立つ派手なイメージの車両である。

 

 1969.11.16  鶴川~多摩川学園前 下り「さがみ」 3055~3051

3000系(SE)は1957年の登場で国鉄線で高速試験運転を行った話題豊富な車両。本来は8車体の連接車であるが、そのネガが見つからない。これは「えのしま」、「あさぎり」、「さがみ」などに使われた5連の姿で迫力がなく申し訳ない。大井川鉄道に譲渡されたものもあるが短命に終わった。産業遺産として海老名で1編成保存されており、鉄道フェスタなどで見ることができる。台車はシュリーレン。

 

 

  1999.6.19 秦野~東海大学前 「さがみ62号」新宿行き 

梅雨空の中、最後の活躍をしていた3100(NSE)。 3100系(NSE)の登場は1963年で3000系同様オルゴール電車であったが騒音としての苦情が多かったのかやめてしまった。台車はミンデンドイツ。

 

 2010.12.10 鶴川~玉川学園前 「はこね15号」箱根湯本行き7801

1980年登場の7000系(LSE)は3月ダイヤ改正で残るがこの塗装は消えるとか。台車はアルストームリンク。

 

 2010.11.5 渋沢~新松田 「はこね15号」箱根湯本行き7804

 

 

  2010.12.10 鶴川~玉川学園前 「はこね25号」箱根湯本行き10011

10000系(HiSE)は1987年登場だが3月のダイヤ改正で消える。2編成が譲渡先の長野電鉄で活躍中。台車はアルストームリンク。

 

 

  2010.2.20 相武台前~座間 「はこね27号」箱根湯本行き50902

足回りにスカートをつけて点検もし難いのではないかと思うがこういう個性的な車両は面白い。

 

 012.2.8 鶴川~玉川学園前 「はこね27号」箱根湯本行き中間車50202

50000系(VSE)の台車はボルスタレス。

沖縄

犬伏です。
先日 関東支部新年会の席で もっと気楽な内容でよいのでぜひデジ青に投稿せよとのお達しをいただき、最近 関東連絡網に投稿の記事再掲を含めて デジ青に投稿させていただきたいと思います。よろしくお願いします。
先週仕事で沖縄へ行き 空き時間にモノレールを写しましたので紹介させていただきます。
沖縄のモノレールは2003810日に那覇空港から首里の間が開通しました。戦前の鉄道は大戦中に破壊されその痕跡はほとんど残っていません。車社会となってしまった沖縄は交通渋滞がひどく特に通勤時は大変でした。いまさら鉄道でもないのではといわれる中のモノレール開通でしたが 那覇の街と人とそれに観光客にもなじんで それなりに役に立っているようです。7日は気温は22度でしたが小雨でこの時期なかなかきれいな青空は見られません。   

 
 
 
 

 

   

 最南端の赤嶺駅で那覇空港越しに海が見えるのですが・・・・。天気が良ければいい絵になりそうです。台風対策か駅の網入りガラスが残念です。

 
 

 

 

 ワンマン運転のため運転手は駅到着時車掌の役も行うため 島式ホ-ムの多いここの車両は右運転台となっています。
窓ガラスが雨に濡れてすれ違う車両が少しかすんでいます。
 
 

おもろまち駅から那覇市内方向です。 軌道のカーブがきれいです。

 

牧志駅近くの公園に桜が咲いているのが見えました。沖縄の桜は赤っぽい色の緋寒桜で1月中旬から2月上旬にかけて咲くのですが 桜の名所は北部に多くて那覇市内には少なく、モノレールと一緒に写せるところがあるとは思っていませんでした。さっそくその牧志公園で写したのが次の写真です。

モノレールと桜と高層マンションです。
小雨がときどき降る中でしたのでストロボ使用です。
青空の下で機会があればまた写したいと思います。
車両は2両編成13本が在籍しています。路線の延長計画もありますがまだ実現しそうにありません。もうすぐ10年になります。なかなか乗車人数は伸び悩んでいるようですが 運営面や人々の意識としてはやっと軌道に乗ってきたような感じがします。
 
 
 
 

 

 

 


 

 

写真展を見て

 恒例の第3回DRFCクローバー会写真展が開催された。2日目の2月15日、わくわくする気持ちを抑えながら会場に向った。

 会長さんから現役生まで幅広い層からの参加があり、出品数も多くボリューム感があった。今回は全体に実力アップされ、素晴らしい作品が多かった様に思う。

 「鉄路輝く」の部では単なる鉄道車両風景ではなく、各自が感じたもの、感動したものを表現しようとした努力の跡が随所に見られた。 私自身、刺激を受けて「よし、今度はあのような写真に挑戦してみよう」と思う作品が何点かあったが、考えてみると超炎天下の海外での奮闘撮影、旅先でのちょっとした人との触れ合い、夕暮れや夜の撮影等々には鋭いカメラアイ、感性と体力、気力が必要である。私の年齢ならもう無理かもしれない。脱帽である。

 一方、被災地復興に関連した「東北の鉄道」の部では秀麗な磐梯山麓のD50列車や貴重な過去の記録もあり、また、少数民族と東風3型のカラー等々国宝級(?)作品が見られたのもクローバー会の特徴である。

 諸準備を担当された皆様に改めて感謝申し上げる。願わくば、これら作品をコンパクトにしたものでも結構なのでデジ青か何かに掲載してもらえないかと思った次第である。また、応募作品を審査された委員の方々の総合評価、準備等の苦労話、今後の方向性等も会期終了後にでも発表していただければ幸いである。いずれにしても遠くから来てでも充分見る価値のある写真展であった。

次回も期待したい。

2012.2.15夕刻  烏丸御池ギャラリー

特別展:横浜にチンチン電車が走った時代

2月14日夜、都庁地下のトンカツ屋に5人のクローバー会関東支部会員がお集まり下さり、老人と共に新年会が開催されました。話題は関東一円の鉄道に及びましたが、関西人としてうらやましいのはJR東日本が種々の動力車を動員して企画臨時列車を走らせていることでした。電車ファンの端くれの老人は、あの185系特急車7連が関西国電快速塗り分けで現れた時、「やったなぁ」と思ったものです。それが今春のダイヤ改正でもう1本増えるとか。今度はスカ色だと噂されているそうです。

15日はみなとみらい線:日本大通り駅下車3番出口0分(これは?)、横浜都市発展記念館で開催中の横浜「路面電車」物語-市電が廃止されて40年-【横浜にチンチン電車が走った時代】を拝観に行って参りました。3番出口につなげる建物の隣が発展記念館で、少し戸惑いました。平日であり会場は閑散としていましたが、それが幸いして90分たっぷり横浜の歴史の一端を知ることが出来ました。関東大震災、世界大戦による空襲と、2回の火災による壊滅が遭ったのにも係らず、よくぞこれだけの写真が集まったものと感動を覚えながらの一時でした。戦後の記録は高名な長谷川弘和先生提供品が中心でした。JTB Can Books「横浜市電が走った街 今昔」が老人の京都市電の半年後に発刊されましたが、その内容が京都と比べ横浜が豊かであるので恥じ入った思い出があります。その原本を今回拝見しているのだと心に言い聞かせながら、ポン友と言って下さった吉川文夫さんを偲ぶ一時ともなりました。実はみなとみらい線開業の頃、吉川さんに連れられこの界隈に来ていたのです。宿泊していたホテルから電話しましたら、「みなとみらい線に初乗りに行きませんか」と誘われたのです。「お身体大丈夫ですか、喜んでお供します」となり、横浜駅西口で奥様からバトンタッチとなり、向った展覧会会場は今回と同じビルであった様に思います。その内容が何だったか、思い出せません。鉄道関係であったことは確かです。

他府県人の入場料は300円です。でも値打ちがあります。会期は41日迄ですが、行くなら33日以降に行くのがベストです。4階でコーナー展・都市シリーズ「京都」~日本の路面電車発祥の地~(仮)が重なります。開館時間は930430、休館日は毎週月曜日(祝日の場合は次の日)となっています。

 

東急デハ3450形


  片運化され、貫通幌付となったデハ3467
(47-12-17/大岡山)

関 三平先生の「昭和の電車」シリーズは、関西から東京西郊に舞台を移されたようである。東急の電車を意識して撮影したのは、デハ3300形と玉川線くらいで、今回の「デハ3450形」は、戦前の東京横浜電鉄の代表的車両であったことくらいのことしか知らないが、ついで撮影の写真が何枚か出てきたので貼り付けた。

デハ3450形(デハ3450~3499)
昭和6年から11年にかけて50両作られた。両運、非貫通車であったが、戦後の車体更新で大部分の車両の片運化、正面貫通化、窓の拡大化等が行われ、実施時期による仕様の相違等があり、1両毎に細部が異なる状態であった。
昭和56年から廃車が始まり平成元年には営業運転を終了したが、トップナンバーのデハ3450は、原形に戻して「電車とバスの博物館」に保存、東急車両製造の牽引車として使用されていたラストのデハ3499が「デハ3499保存会」により群馬県内で保存されている。
デハ3456
 

  片運改造のみで、運転台側は非貫通のまま (
52-2-12/大岡山)

デハ3468

 片運、貫通化改造されて幌付き(
47-12-17/旗の台)

デハ3484

 片運、貫通化改造されているが幌なし(
47-12-17/旗の台)

【その他の旧形車両】
デハ3500形(デハ3501~3522)
昭和14年にモハ1000として22両新製、改番でデハ3500形となった。事故復旧車のデハ3508以外は非貫通であった。
デハ3507

 
52-2-12/田園調布)

デハ3509

 ヘッドライト移設車 (
52-2-12/多摩川園)

デハ3512

 
52-2-12/多摩川園)

デハ3600形(デハ3601~3615)
昭和23年から24年にかけて戦災焼失した国電を譲受け復旧した車両である。
デハ3603

昭和24年、台枠を利用して新日国工業で車体を新製した。(
52-2-12/多摩川園)

デハ3601

旧国電モハ31087の事故復旧車であったが、昭和39年東横車両で車体を新製した。昭和57年廃車になり弘南鉄道に譲渡された。(
52-2-12/多摩川園)

クハ3770形(クハ3771~3782)
前述のデハ3600形同様戦災焼失した国電を譲受け復旧した車両である。
クハ3780

昭和24年、台枠を利用して新日国工業で車体を新製した。(
52-2-12/多摩川園)

デハ3700形(デハ3701~3715)
昭和22年規格A´型として新製されたが、車体老朽化により昭和36年東横車両で車体を新製した。昭和50年と55年に名鉄に譲渡された。
デハ3713

 
52-2-12/多摩川園)東急の旧形車は、もっとキッチリ撮影された方がおられると思うので、是非発表をお願いしたい。

 

 

こんなん、出てきました。(1) DRFC OB CLUB NO.1

 家の中を片付けていると、いろいろなものが出来きました。昔、買った雑誌や旅行などで使った切符、ネガなど・・・。見ているとあの時はあんなんあったんやな~。そんな事を思ってしまうのも、年のせいかなと考えてしまいます。 

 それでは今回はまさかこんなものを残しておいたのかと見てびっくりした代物です。それはDRFC OB CLUB NO.1とNO.2会報などです。NO.1は1985年11月22日の日付で26年が経っています。多分、OB会総会に参加した時にもらったではないかと思いますが、定かではありません。

 NO.1の大見出しは「あーあ吉谷さん逝く!」で、さらに中見出しは「すかたん列車赤信号を暴走」「極楽本線へ異線進入す」と続き、記事の最後は「オッサン、帰って来いや!」で締めくくっています。これには1985年11月19日付の毎日新聞大阪版の記事が転載されています。この新聞記事が吉谷さんのことがかなり詳しく書かれてあったのは、びっくりしました。写真に写っているのが1985年2月20日発の第1「すかたん列車」で同じ年の11月17日には4次元線へ経路変更したようです。なんか、上方落語の地獄八景亡者戯みたいなやな~。吉谷さんは「鉄道ファン」に吉谷さんらしい内容のエッセイが投稿されていました。これはまた別の機会に紹介することにしまっさ。

 NO.2はDRFC30周年としてマイテ492を走らせることについてのOBと現役との話し合いのやり取りを赤裸々に記録されたものであります。

 もうひとつはDRFCが出来るまでのいきさつと創成期のDRFCを知る上で貴重な歴史的史料です。30周年記念号である青信号57号にも「同志社大学鉄道同好会30年の軌跡」として書かれてあるが、この史料にはDRFCが出来た頃についてエピソードも含めて書かれてあり、読み物としてもおもしろく、DRFC重要文化財として保管することにしました。しかし、4次元鉄道の列車に乗ったらいずれ捨てられるやろな~。

では、つぎの掘り出し物はなんでしょう。

東急3450型、全く知らない電車です!

関先生の作品を見ているとあることに気づきました。見送り写真(後尾から先頭方向を撮る)が多いことです。普通は向かってくる列車を頭から撮るのですが、なにかこだわりがあるのか技術的な理由があるのでしょうか?写真班の方で分かる方教えて下さい。

クローバー会写真展準備完了

まもなく開催される「クローバー会写真展」に展示する会員の作品をパネルに貼る準備作業が市内某所で秘密裏に開かれた。

手配師のF氏によって集められた人夫は5人、ほとんどが未経験者で一時間をかけてで理解させた。作業を始めるとそこはベテラン、二人一組になり手際よく処理して行き18時40分には110枚の作品を完成できたのは鬼の監督と、トリミング指導の人間国宝氏の尽力によるものである。

会員各氏は友人知己を誘い合わせて見に行って下さい。

2月14日~28日 地下鉄烏丸御池駅ギャラリーにて開催です。

今でも気になる江若鉄道(Ⅴ)

今回は湖西線開業後も残っていた元江若鉄道の堅田駅と近江今津駅を紹介する。

旧堅田駅
撮影日は湖西線開業後の昭和50年9月28日である。湖西線の駅は約300m近江今津寄りの山側に新築されたため、江若鉄道時代の旧駅舎がそのまま残り、看板を「本堅田」に取換えバスターミナルとして使用されていた。堅田から生津、途中、葛川細川方面と安曇川方面はここが始発であった。

 駅舎を島式ホームに見立てたため、駅舎側から乗れるように、右側通行で進入した。

 停車中のバスは、車体が小さい43年式BA20で、元安曇川営業所の所属で勾配区間用にギヤレシオを変更して、比良駅(鉄道廃止後は比良舞子口)~比良リフト間で使用されていた。湖西線開業後は乗客が増えたため大型車に置換えられ、堅田営業所に転属して堅田~生津・途中間等で使用された。奥に見えるのは整備工場である。

旧近江今津駅
撮影日は昭和50年5月18日である。廃止後5年半経過しているが、駅舎、機関庫がほぼ原形のまま残り、「近江今津駅」の看板もそのままであった。
この時点では、国鉄バス近江今津営業所は隣接した場所にあったが、程なく国鉄近江今津駅の琵琶湖側に移転した。

 江若鉄道が営業していた頃と全く変わっていない。

 元のホーム側から見た駅舎

 「近江今津駅」の看板もそのまま

 機関庫

国鉄バス若江線について
江若鉄道と関係が深かった国鉄バス若江線について少し触れておきたい。
江若鉄道の延長として「江若線」とならずに「江」と「若」がひっくり返って「若江線」(読み方は「わかえ線」ではなく「じゃっこう線」)となったのは若狭側から開業したことによる。昭和10年12月20日省営自動車小浜自動車所が開設され、新平野駅~若狭熊川間が開業、昭和12年12月21日若狭熊川~近江今津間が開業して江若鉄道と結ばれた。江若鉄道が近江今津まで開業したのは昭和6年1月1日のことで、省営自動車を介して若狭と結ばれるまで約7年を要したことになる。

戦後、昭和31年5月1日から江若と国鉄バスの相互乗入れが実施され、江若バスが2往復小浜まで乗り入れる代わりに、国鉄バスも2往復浜大津まで乗り入れた。江若バスは始発が京阪三条で、京都市内から小浜までの直通ルートとなった。湖西線開業後は国鉄バスの浜大津乗入れは廃止され、江若バスは安曇川始発で存続したが平成9年3月8日に廃止された。

大阪、京都と小浜を結ぶ幹線ルートとして位置付けられ、早くから冷房車が投入されたが、最近では近江今津駅までマイカーで出る人が増えたこと、大阪~小浜間に近鉄バスと福井鉄道バスの共同運行で高速バスが開業したことで乗客は減少している。小浜駅と上中駅の「みどりの窓口」では若江線経由の鉄道連絡乗車券を販売している。同様の例は白馬駅でアルピコ交通の長野行特急バスと長野駅からの新幹線の直通切符を販売しており、東京~白馬の移動はこのルートが一般的になった。
〔国鉄バスの形式〕
車両の解説の前に、国鉄バスの形式について簡単に説明する。国鉄バスも鉄道同様車両の転属が全国規模で頻繁にあったため、登録番号ではなく、局番と呼ばれる形式と番号で管理されていた。鉄道車両の場合は、アルファベット、カタカナと数字の組み合わせであるが、バスの場合は、電話番号と同じく3桁の数字ハイフォン4桁の数字で表示されていた。(例537-3016)第1位は車体長または用途を表しており、下記の通り分類される。
1/車幅長2300mm・全長7000mm・定員29名以下
2/車幅長2300mm・全長8400mm未満
3/車幅長2300mm以下・全長8400mm以上9800mm以下
4/車幅長2300mm超・全長8400mm以上9800mm未満
5/車幅長2300mm超・全長9800mm以上
6/中長距離・観光用
7/高速用

第2位は座席の形状を表す。
1/横向シート(ロングシート)
2/横向き、前向き混用シート
3/前向きシート
4/リクライニングシート

 第3位はエンジンメーカーを表す。
1/いすゞ、2/ニッサン、3/トヨタ、4/三菱ふそう、5/プリンス、6/その他国産、7/日野、8/民生(日産ディーゼル)、9/外車、0/その他

 第4位は年式表す。西暦年号の末尾の数字。

第5位~7位はその年の登録順に付番されるが、バネの種類と冷房装置の有無により始番が次のように規定される。
板バネ/001、冷房付板バネ/401、/501空気バネ、冷房付空気バネ/901
以上のことを念頭に置いて写真を見ていただくと解りやすいと思う。

〔国鉄バスの車両〕
滋22か・・95 (521-1019)/46年式いすゞBU10(帝国自動車工業)

「いすゞ」と「帝国」の組み合わせは民営では少ないが、国鉄バスでは多数存在した。グリーンとクリームの濃淡の旧塗装時代
(50-5-18)

滋22か・・97 (521-1021) )/46年式いすゞBU10(帝国自動車工業)

近江今津から琵琶湖北岸の集落、海津、永原、飯ノ浦を経由する木ノ本行。(近江今津~木ノ本間は琵琶湖線)木ノ本には近江今津営業所の支所があり、琵琶湖線と柳ケ瀬線を担当していた。(50-5-18)

滋22か・384 (637-4401) /48年式日野RC300(帝国自動車工業)

第1位の数字が「6」の中長距離用で、前中扉のワンマンカーであるが、窓が引き違い(メトロ窓)で冷房付きである。このタイプは
44014403の3両在籍した。(54-3-3)

滋22か・411 (641-9911) 44年式いすゞBH20P(川崎重工業)

オバQ形車体で東名高速線の中短距離用として
99119930の20両作られたが、トイレがないため早々に一般路線に転用された。方向幕には「東京駅」「静岡駅」「東名静岡」「沼津駅」等があった。車内設備が良いので貸切に使用されることが多かった。この車のことを「ハイウェイオバQ」と呼ぶ人がいるが、本当の「ハイウェイオバQ」は車長が長くトイレ付のBH50Pのことである。(50-5-18)

滋22か・423 (537-3016) /48年式日野RC300(帝国自動車工業)

近江今津駅を発車した小浜行。車体は前述の「滋22か・・95」と似ているが、こちらはエンジンメーカーが「日野」でライトの形や後部の形状が異なる。このタイプは
3003300930153019の12両在籍した。(50-5-18)

 滋22か・458 (527-5001) 50年式日野RE100(帝国自動車工業)

 
狭隘路線用のツーマン車で1形式1両の珍しい車両である。 (54-3-18)

滋22か・539 (537-6409) /51年式日野RC300(帝国自動車工業)

前中扉の一般的な車両であるが、重要路線である若江線用のため冷房付で、背もたれの高い2人掛け座席と通路部分に補助席が設置されていた。
64096414の6両在籍した。(59-1-1)

滋22か・668 (537-8403) 53年式日野RC301(日野車体工業)

前述の51年式と同タイプであるが、窓が上下共サッシュになった。座席は51年式と同じである。
84038406の4両在籍した。(59-1-1)

滋22か1011 (531-3478) 58年式いすゞK-CJM520(富士重工)

スタイルが今風になってきた。座席は背もたれの高い2人掛けと通路部分に補助席が設置されていた。
34783480の3両在籍した。(59-3-23)

滋22か1014 (647-3975) 58年式日野K-RC721P(日野車体工業)

貸切と兼用で使用された。1形式1両であった。
(59-3-23)

石2う1563 (631-9903) 44年式いすゞBU20P(富士重工)

近江今津営業所の管轄路線にマキノと国境にスキー場があり、スキーシーズンは他の営業所から車両を借入れて臨時便が増発された。この車両は穴水営業所からの借入車で、
99019905の5両在籍した。 (54-3-3)

名古屋22か1657(537-3017) /48年式日野RC300(帝国自動車工業)

名古屋営業所からの借入車で
3003300930153019の12両在籍した。(55-3-22)

〔江若バスの車両〕
江若は安曇川駅~近江今津駅~小浜駅~小浜港間を2往復運行され、社名の面目を保っていたが、前述の通り平成9年3月8日付けで廃止され、若狭には行かなくなってしまった。
若江線に運用されていた車両の一部を紹介する。

滋22か・・35/44年式ふそうMAR470(三菱)

昭和51年5月、京阪バスから譲り受けた車両で、「奥琵琶湖定期観光バス」の予備車を兼ねていた。この車両の経歴は複雑で、昭和44年9月、「京2い1373」京都定期観光バスの車両として誕生。45年12月ワンマン改造後翌年1月に大津営業所に転属して「滋22か・・35」となった。京津国道線を中心に使用され、観光シーズンには京都定期観光バスの応援に行くこともあった。江若に入線後も使用の本拠地が滋賀県のため登録番号の変更はされなかった。尚、京阪バスには同形車が「京2い1374→滋22か38」、「京2い1375→滋22か36」と2両在籍したが、昭和54年12月に廃車になった。
(55-3-22)

参考:京阪バス時代の滋22か・・35

 (50-3-2
/浜大津)

滋22か・・79/46年式いすゞBU05(西日本車体工業)


西工のカマボコ形車体で、滋22か・・75~80の6両在籍し、全車安曇川営業所の所属であった。上は近江今津から若江線の保坂から国道367号線(通称鯖街道)を南下、椋川集落を経由して朽木を結んでいた路線である。
下の車両の方向幕「今津西町」は元江若鉄道の近江今津駅である。(54-3-3/朽木学校前・下 55-3-22/安曇川営業所)

滋22か・212/47年式日野RE100(帝国車体工業)

滋22か・207~213の7両在籍し全車安曇川営業所の所属であった。
(55-6-14)
 

滋22か・651/53年式いすゞBU04(川重車体工業)

座席が改良され、背もたれが高くなった。同時に新製された滋22か・652は堅田営業所に配置された。
(54-3-3)

 滋22か・723/54年式日野RE101(日野車体工業)

この年式以降方向幕が大きくなった。同時に新製された滋22か・724と共に安曇川営業所の所属であった。
(54-3-3)

滋22か・725/54年式いすゞBU04(川重車体工業)

1形式1両で安曇川営業所の所属であった。
(54-3-3)

滋22か・779/54年式日野RC301(日野車体工業)

若江線(江若では小浜線と呼んでいた)のサービスアップを目的として作られた車両で安曇川営業所初の冷房車ある。国鉄バスは早くから冷房車を投入する等サービスアップに努めていたが、江若は座席こそ良くなったが冷房車がなく、夏ともなれば乗客が江若便を敬遠する傾向にあった。国鉄バスとの格差を解消するために冷房車を投入した。車体も特注で座席と窓が一致している。滋22か・778、779の2両在籍した。
(59-3-23)

連接車5

前回の広島電鉄、筑豊電鉄に続き今回も連接車天国の江ノ島電鉄を発表する。単線ながら12分おきに、それも来る電車、来る電車、形や色が違うので面白いと言えば面白いが、何となくケバケバ電車が多い様に見える。本来の江ノ電カラーの方が落ち着いていて好きだ。

2010.5.31 稲村ケ崎付近 藤沢行き305・355・501・551

現役最古参でしぶとく残っている人気者。300形は複雑な改造の過程があるがこの305は新造に近い。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜 1002・1052・10・50

1979年登場でブルーリボン賞をもらったとか。ブルーリボン賞は豪華な車両が多く、通勤車両や路面タイプはローレル賞と思い込んでいたので驚きである。

 

2012.2.2 腰越付近 鎌倉行き2002・2052連結部分

後方は義経、弁慶ゆかりの満福寺。 頼朝の拒絶により足止めをくった所。

 

 

2012.2.2 鎌倉高校前 →1552・1502・1151・1101 藤沢行き

嵐電カラーは期限延長なのか今でも見ることができる。尚、この日偶然にも横浜在住のIさんが多忙な仕事の合間をぬって全く同じ場所で黄昏のいい写真を撮られている。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜  藤沢行き2002・2052・21・61

この電車は下枠交差式パンタグラフ。 比較的落ち着いたカラーであるがコカコーラの宣伝が邪魔で残念である。

2012.2.2  峰ケ原信号所 2002・2052中間台車

 

2010.5.31  稲村ケ崎~七里ケ浜 藤沢行き10・50

1997年登場のレトロ調の電車。都電にも似たようなコンセプトの車両があった。シングルアームパンタグラフ装備。

 

2012.2.2 稲村ケ崎付近 鎌倉行き61・21・2052・2002  

江ノ電は嵐電と共同宣伝の提携をしているが、阪急とも同様の話でもあったのか。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜 鎌倉行き62・22 

61・21は2002年、62・22はその翌年登場。 このようなラッピング等宣伝がないオリジナルカラーの方が落ち着いて綺麗に感じる。歳のせいかな。また、単線ローカル電車の写真には2両編成くらいが丁度よい。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜 鎌倉行き552・502 

連接車らしい写真が撮れる場所は狭い所を走る江ノ電では少ない。やっとそれらしいのが撮れたと思ったら前パン(シングルアームパンタ)が切れてしまった失敗作。500形(2代目)はステンレス製。502Fは2008年登場で江ノ電では最も新しい。

 

1970 稲村ケ崎~七里ガ浜 鎌倉行き303

同じ300形でもこの番号あたりになるとよくわからない。江ノ電では元玉電の600形は撮影したが、元山梨交通800形は撮影できなかった。

 

1970 稲村ケ崎 藤沢行き502

1956年登場でヨーロッパスタイルといわれたが今は廃車され足回りが20形に流用された。

 

以上、江ノ電連接車を取り急ぎ発表したが、形や色が多過ぎて全部掲載するとご迷惑がかかるので特に1000系列のうち1100、1200等は色違いも含めてカットした。

奈良電デハボ1200登場!

懐かしの奈良電!

思い出せば紀元節が復活した年に柏原神宮まで乗ったのが最初でした。奈良電はよく乗りましたが、久津川にいた友人の家を訪ねるためで、特急に乗ることは無く、奈良電らしからぬ明るい社内とクロスシートにかかった白いカバーに感激したものでした。

もっともこれは近鉄になってからで、この絵にある奈良電色ではありませんでした。近鉄特急の色でありながら車体幅やキハ20のような窓に旧型車の匂いがして特急料金を取られるのが不服ではありました。

 

アルミカーについてのつぶやき

暫くおとなしくしていた。その間、福島電鉄、連接車やアルミカーと、参入したい話題が続発したが投稿出来なかった。アルミカーについては、澤村君とこんな会話を交わしたことがある。京阪5000系の事だが、「台枠もアルミと言う話を耳にしたが、本当か?」と尋ねた。暫くして「台枠、正面の工作共にアルミニュームです。」との返事を貰った。続けて「でないと座席昇降装置、付加された4扉分の装置類を含め、T車で自重25頓(補機積載車)の数値をクリアすることなど不可能です。正面の形状、庇があるのはアルミ板工作上から考え出されたことで、意匠上の理由だけではないのです。」と教えられた。前代未聞の座席昇降装置付き5扉車の設計について京阪車両部と川重設計部は、アルミニューム構体製作について知恵を絞り切った事であろう。5000系の竣工は197012月だから、DRFC1967年生の澤村君は入社前で、入社後の彼に老人は質問をぶつけたようだ。

ダブルデッカー試作が宮下社長に認められた頃、「次は5000系の更新です。」と言いだした。第1編成が終わったころ「台枠、大丈夫だったか?」と尋ねてみた。「川重の専門屋が後20年は大丈夫と言ってくれましたのでヤレヤレです。」と晴れやかな顔をしていた。この後、6000系をはじめ新造車は全てアルミカーが続くのだから、当事者は気になって当然の事である。玄人の澤村君と素人で野次馬精神旺盛な老人の間で、京阪5000系について2人が特別に話題にした事であった。

車両構造について、どのように、何を基準として分類すればよいのだろうか。鉄道車両の車体構成材進歩の道筋を追ってみると木材、木材と鋼鉄材の混用、鋼鉄材、金属材等の過程を辿っている。鋼鉄は金属材だが、20世紀前半は金属材の中でも独立した存在であったが、20世紀中期から他の金属材と混用されるようになった。その中でアルミニュームが車両の軽量化で注目を浴びるようになり、今日を迎えている。

車両構造上、最も重要視されているのは台枠である。木造建築で言えば土台である。これの良し悪しが出来栄えに、寿命に大きく影響する。さて栃尾鉄道のモハ210号はどんな構造材と仕上げ材でもって製作されたのだろうか。山陽電鉄のアルミカーは、台枠を始め構造材はすべてアルミニュームだと社員さんから聞いたことがある。日本では戦時体制下、ドイツからアルミ合金であるジュラルミンを輸入して軍用航空機に使用しようとしたが、工作技術伴なわず断念したと兄から聞かされたことがある。それが戦後、鋼板代わりに使用され「ジュラ電」登場となったようだ。

栃尾鉄道はどのようなルートでアルミニューム板を入手したのか、それを車体のどの部材として使用したのか、日本最初のアルミ製電車として相応しい条件を備えていたのか、謎の残る話題である。老人は1959年、東北旅行の帰途に栃尾電鉄に立ち寄っているが、長岡-悠久山間往復を夕方しただけで車庫には寄らず仕舞いであった。こんな先進的な車両があるなら長岡でステーションホテルするのであったと、今になって悔いている。こんな事を思い付いた。新潟、富山県は大河による水力発電国である。阿賀野川水域では忌まわしい産業公害の加害者として昭和電工の名が出てくる。同社は戦前期にアルミニューム精錬に成功したようだ。富山では黒部川、庄川の下流域でアルミ精錬、加工業者の名が認められる。アルミ精錬、加工には莫大な電力を必要とするが、新潟では昭和電工が製品販路開発のため県下の企業である栃尾電鉄に、試験使用を委託したとしたら出来すぎる話となるかな? 想像することは当っても外れても楽しい。

さて近鉄名古屋線の6531号の写真を1枚見付け出した。ご要望にお応えできるかどうか……。他の車両も高橋弘さんにプリントしてもらったが、どなたかにプレゼントしたので手許にない。再プリント待ちにさせて下さい。ありがたい事にNEOPAN SSはしっかり残っている。

 

近鉄名古屋線クハ6531号、1958.11.03

近鉄名古屋線クハ6531号、1958.11.03

連接車4

今回は連接車の多い広島電鉄と筑豊電鉄を採り上げてみた。

広島電鉄には皆さんよくご存知の通り京都市の1900形をはじめ各地の路面電車を元の色のままで走らせる等興味深いものがある。最近はヨーロッパスタイルとでも言おうか長い新型連接車も見られ、私のような何でも屋にはとてもその全容を把握するのは無理である。広島県在住の方や路面電車のご専門の方々のコメントをお待ちしたい。尚、新型と表現したが、最近よく使われるLRTなのか軽快電車なのか今一よくわかっていないのであえて使わなかった。新型路面電車の中にはLRTや軽快電車でないものもあるのであろう。

1977.10.8  宮島線井口付近 2505

1961年~66年に製造され後に3100形に改造された。改造されずに廃車されたものもある。この時は荒手車庫で阪急から譲渡された今津線500形、嵐山線210形を撮影することが主目的であった。後方には併走する山陽本線が見られるが、まだEF58や80系が走っていた。

1977.10.8 荒手車庫 西鉄1203

西鉄福岡市内線から譲渡された頃の姿と思われる。後に広島電鉄3000形となった。

2008.9.8 胡町 3007

元西鉄福岡市内線1101、1201、1301形を改造、3007ACBは元西鉄1305A・1207B・1305B

2008.9.8 八丁堀~胡町 3703

 

2008.9.7 紙屋町西 3803

 

2008.9.7  宮島線阿品東 3904

暑い1日だったがこの電車の時は御日様が隠れた。

 

2008.9.7  原爆ドーム前~紙屋町西 3952

この日はセ・リーグで行ったことがなかった広島市民球場で阪神戦を見るのが目的であった。広島城を見学してぶらぶらと球場のあたりを歩いていたら「1番センター赤星」のアナウンス。この日はナイターでなくデイ・ゲームであった。ホテルに戻ってお色直しすることも出来ず、そのまま重いリュックで球場へ行く。この日も阪神は負けた。確か巨人に13ゲーム差をひっくり返された年と思う。

 

2008.9.8  銀山町 5107 

5連接車で何となくヨーロッパで見かけるスタイルである。顔は西武の30000に似ている様な気がする。

 

筑豊電鉄という名前は最近まで知らなかった。西鉄の子会社で1956年3月に開業しているので最近できた電鉄会社ではない。何しろ鉄道趣味という厄介な病にかかった頃は蒸機第一で、筑豊といえば猫もしゃくしもC55やD50を追っかけ、北九州電化にもあまり目を向けなかった。ましてや筑豊電鉄なぞ存在すら知らなかった。1964年10月の交通公社の時刻表が手元にあるが、それによると黒崎~筑豊直方70円、朝夕通勤時は2~3分毎、日中5~10分毎とある。JR直方からかなり離れた遠賀川の畔に高架の筑豊直方駅があった。大きな川に小さな電車では撮影するにも感が狂ってしまう。来る電車来る電車皆連接車でしかも吊り掛け車と聞く。スタイルはカルダン車なのだが。

2010.11.19  筑豊直方~感田 黒崎駅行き2003

西鉄軌道線1000系列を譲り受けて3両連接車に改造したもの。

 

2010.11.19  筑豊直方~感田 筑豊直方行き3005

2000形を車体更新したもの。乗客が少ないのか広電の長編成化とは反対に短編成化されている。

 

 

今でも気になる江若鉄道(Ⅳ)


 近江舞子~北小松間 (41-4-29)
 
今回は貨物列車と貨車を話題にした。
我々団塊世代が現役の頃は貨物列車が1往復運行されており、廃止1年前の43年8月19日のダイヤは下記の通りであった。
〔下り301貨〕浜大津9:15→叡山9:40/9:50→堅田10:06/10:15→和邇10:27/10:40→高島町11:22/11:35→安曇川11:45/1205→新旭12:10/12:20→近江今津12:30
〔上り302貨〕近江今津14:00→新旭14:10/14:20→安曇川1426:14:45→高島町14:55/15:06→和邇15:46→堅田15:58/16:10→叡山16:25/16:35→浜大津16:58  
上記の他、三井寺下、滋賀、雄琴温泉、真野、近江木戸、比良、近江舞子、北小松、饗庭に停車し、日吉、蓬莱、近江舞子南口、白髭、北饗庭は通過した。
時刻の表示されている駅は貨物ホームがあり車扱い(1車貸切)を含め貨物全般を取り扱い、その他の停車駅は小口貨物のみ取り扱っていたと思われる。

【貨物列車】

 浜大津駅での入替作業
(40-12-8)

 霧の浜大津駅で発車待ち
(41-1-31)

 浜大津~三井寺下間の琵琶湖疏水の鉄橋 
(41-2-19)

 滋賀~叡山
(44-10-14)

 滋賀~叡山
(44-10-10)

 日吉~雄琴温泉
(44-10-5)

 蓬莱~近江木戸
(44-10-18)

 蓬莱~近江木戸
(44-10-26)

 近江舞子~北小松
(41-4-29)

 北小松~高島町
(44-10-4)

北小松~高島町
(44-10-5)

 高島町駅
(44-10-5)

 水尾~安曇川
(44-10-24)

【ディーゼル機関車】
DD1351
昭和32年12月汽車会社製で国鉄のDD13に先立って新製され、試作的要素が強かった。廃止後別府鉄道に譲渡された。

 高島町 (44-10-4)

DD1352
昭和37年5月汽車会社製で国鉄DD13112~264とばば同形である。廃止後岡山臨港鉄道に譲渡された。

 三井寺下機関区 (44-10-3)

 DC251
昭和35年帝国車輌製で、昭和39年3月31日付で廃止された熊延鉄道DC251として新製され、同年8月27日付で江若鉄道が購入した。DD13と共に貨物列車の牽引に使用され、特に水泳シーズンはDD13が臨時の客車列車に使用されるため、貨物列車は本機の独壇場であった。元機関士の方のお話では乗り心地は最悪で、腸が捻じれる思いであったとか。廃止後は紀州鉄道に譲渡された。

 

 
  三井寺下機関区 (44-10-3)

【貨車】
貨車については手許に資料がないため画像のみとする。
ワ2(形式ワ1形1~7)

 三井寺下
(44-11-1)

ワ102(形式ワ100形100~105)

 三井寺下
(40-8-13)

ワ150(形式ワ150形150~152)

  三井寺下
(41-2-16)

ワム11(形式ワム11形11~13)

  三井寺下
(44-10-10)

 ワム13
ワム11と同じ形式に分類されているが形が異なる。

 三井寺下
(44-10-10)

ワフ450(形式ワフ450形)

 三井寺下
(40-8-13)

 三井寺下
(44-10-12)

ワフ280(形式ワフ280形)
昭和19年汽車会社製、元国鉄ワフ28054

  三井寺下
(44-10-24)

トム306(形式トム300形300~307)

 近江今津
(44-10-11)

【ディーゼル機関車その後】
3両の機関車は全機譲渡され、社紋を取り換えたのみで同一車号で活躍した。しかし、譲渡先鉄道の廃止や貨物営業の廃止により姿を消した。

DD1351
別府鉄道に譲渡され、土山線の重量貨物を引いて活躍したが、昭和59年2月1日廃止により廃車になった。


 別府港
(49-5-12)

DD1352
岡山臨港鉄道に譲渡されたが、昭和59年12月30日廃止により、水島臨海鉄道に譲渡された。同鉄道では部品取りとなり車籍には入らなかった。

  南岡山
(49-5-12)

DC251
紀州鉄道に譲渡されたが、昭和59年2月1日貨物営業廃止により、同年7月廃車になった。

 紀伊御坊
(52-1-16)

DC301
昭和29年新三菱三原車輌製で、昭和39年DC251と代替で別府鉄道に譲渡された。DD1351と再会したが、昭和53年4月廃車になった。
DC301の江若鉄道時代の画像は、湯口先輩投稿の10月29日【15831】「江若鉄道廃止以来42年」に掲載されているのでご覧いただきたい。

 別府港
(44-10-21)

近鉄名古屋線ク6561形について

1月10日【17372】「今でも気になる江若鉄道(Ⅲ)」で乙訓の長老より「オハ1960」台車についてコメントをいただき、一寸と気になったので手持ちの資料で確認した。当会には近鉄に詳しい方が多数おられるので間違い等があれば訂正をお願いしたい。

〔ク6561形〕
ク6561形は、昭和27年近畿車両で名古屋線急行用として6561~6565の5両新製された車両で、扉間転換クロスシート車であった。
昭和33年にク6561が運転台撤去の上トイレを設置、扉を両端に移設して特急用に整備されサ6531となった。
昭和34年11月19日から27日にかけて実施された改軌工事により名古屋線の標準軌化が完成したが、その際ク6562とサ6531は台車を近畿車両製K-67から同社製のKD-31Bに履替えた。
この時に放出された台車と近江今津に保管されていたホハ101の台枠を利用して江若鉄道のオハ1960が製作された。

 冨吉(
43-4-29

〔サ6531形〕
ク6561がサ6531に改造された経緯は、昭和28年に特急用としてモ6421形とク6571形が各5両ずつ新製、昭和30年に増結用としてモ6426が増備され、その相棒として昭和33年にク6561を改造してサ6531が作られた。
昭和35年新ビスタカーの増備によりモ6421形、ク6571形と共に扉を増設して一般車に格下げ改造が実施され、特急用であった期間は僅か2年であった。
長老に於かれましては、その貴重な画像の公開を是非お願いしたい。

 冨吉(
43-4-29

〔その他の車両〕
近鉄に詳しい方を差し置いて、同時期に撮影した名古屋線車両の画像を何枚か貼り付けた。

モ6304(モ6301形)
名古屋線名古屋~桑名間の前身関西急行電鉄モハ1形として昭和13年に10両新製。昭和16年の改番でモ6301形6301~6310となった。扉間転換クロスシートを装備し、戦後特急復活時には特急にも使用されたが、昭和31年ロングシート化された。

 白塚(
43-2-13

モ6316(モ6311形)
6311~6315は昭和17年、6316~6320は19年に新製され、前車は扉間転換クロス、後車はロングシートであったが、昭和31年に扉間転換クロスに改造された

 白塚(
43-2-13

モ6334(モ6331形)
戦後の昭和23年、6331~6340の10両新製された。扉間固定クロスシートであった。

 白塚(
43-9-28

モ6338(モ6331形)
昭和37年、車体を20mに延長して中央に両開きの中扉を設置した。

 白塚(
43-9-28

モ6267(モ6261形)
昭和22年、戦災車モニ6251、6255の改造名義でモ6261、6262と新製車としてク6321~6325の7両作られた。ク6321~6325は昭和33年に電装され、モ6263~6267となった。

 白塚(43-9-28

 モ6421(モ6421形)
昭和28年特急専用車としてモ6421~6425、ク6571~6575の10両、昭和30年にモ6426が新製された。10100系新ビスタカー、10400系エースカーの増備により中扉を設置して一般車に格下げられた。画像のモ6421はク6571と共に養老線から大井川鉄道に譲渡されたが、現在は休車となり千頭に留置されており再起の見込みは薄い。

 白塚(
43-2-13

モ6431(モ6431形)
昭和33年大阪線の旧ビスタカー10000系と同時期に新製された特急専用車で、モ6431、6432、ク6531、6532の4両作られた。10000系がWN駆動であったのに対し吊掛式であった。昭和40年早くも中扉を設置して一般車に改造された。

 白塚(
43-2-13
ヘッドライト2灯化後

 白塚(
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特急時代のク6581
内部、八王子線撮影時の「ついで撮影」。他の車両も真面目に撮影しておくべきだったと悔やまれる。

 四日市(
40-5-23

モ6447+ク6547(モ6441形+ク6541形)
昭和33年、元伊勢電気鉄道(以下伊勢電と略す)モニ6231形を解除して大阪線モ1460形と同形の車体を新製した。10編成作られた。検車区では6441系を「デラ」、新性能の1601系を「ラビ」と呼んでいたが、「デラ」は「デラックス」、「ラビ」は「ラビット」の略と思われる

 四日市(40-5-23

モニ6226(モニ6221形)
昭和4年伊勢電デハ二221形として6両新製。昭和7年「デ」を「モ」に変更、昭和16年3月15日関西急行成立時にモニ6221形6221~6226となった。昭和34年の名古屋線改軌時より養老線への転属が始まり、最終的には全車養老線で使用された。モニ6226は窓改造が実施され下段固定上段下降となった。

 白塚(
43-4-29

ク6461(ク6461形)
昭和4年伊勢電ハ461形として3両新製、直ぐにクハ461形に変更、昭和16年の改番でク6461形となった。窓上に半月形の飾りがあったが後に撤去された。昭和42年に運転台を撤去してサ6461形となった。

 四日市(
40-5-23

サ6451(サ6451形)
昭和3年伊勢電ハ451形付随車として3両新製、翌年運転台を取りつけてク451形、昭和16年の改番でク6451形、昭和42年運転台撤去でサ6451形となった。

 冨吉(
43-4-29

サ6471(サ6471形)
昭和5年伊勢電が桑名~大神宮前間全通時にクハ471形として3両新製、昭和16年の改番でク6471形となった。昭和22年6月有料特急運転開始時に特急用となったが、昭和36年一般車に格下げとなった。昭和39年に運転台が撤去されサ6471形となった。

 白塚(
43-9-28

ク二6481(クニ6481形)
昭和5年伊勢電が桑名~大神宮前間全通時にデハ二231形として12両新製、昭和16年の改番でモニ6231形となった。電装品をモ6441形に流用、南大阪線の「かもしか号」用に改造、伊賀線、養老線に転属で、最終的に名古屋線にクニ6481~6484の4両が残った。

 白塚(
43-4-29

ク6503(ク6501形)
昭和4年、吉野鉄道の301形として14両新製、称号はサハであるが実体はクハであった。関西急行鉄道開業時に名古屋線に転属した。昭和16年の改番でサハ301~310はク6501形6501~6510、サハ311~314はク5511~5514を経てク6511~6514となり、後日古巣の南大阪、吉野線に転属した。
ク6503は事故復旧時に車体更新が実施され、画像のスタイルになった。

 白塚(
43-2-13

モ6253(モ6251形)
昭和5年、参宮急行デニ2000形として8両新製、昭和11年に狭軌化され名古屋線に転属、昭和16年の改番でモニ6251~6258となった。戦災で6251と6255を焼失(後にモ6261、6262として復旧)、車体更新で荷物室を廃止してモ6251形となった。荷物室扉を客室扉に変更したので変則3扉車になった。

 冨吉(
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モ6257(モ6251形)
ヘッドライト未改造車。名古屋線の張上げ屋根の車両はヘッドライトの2灯化が行われ、優美なスタイルが崩れてしまった。

 冨吉(
43-4-29

モ2217+モ2243
名古屋線広軌化後、大阪線の2200形が入線するようになった。2200形と2227形の豪華な2両編成であるが、2217は昭和5年製で2扉クロスシートは3扉ロングシートに改造されている。

 白塚(
43-9-28

モ2243(モ2227形)
2200形(新)とも呼ばれる車両で昭和14年と16年に20両新製された。戦後も特に大きな改造は行われず、最後まで扉間転換クロスシートであった。画像のモ2243は片運化時にヘッドライトを増設している。

 白塚(
43-9-28

ク3115(ク3110形)
昭和16年、モ2227形の制御車としてク3110~3114の5両新製された。昭和38年から40年にかけて中央に両開き扉を増設した。

 四日市(
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デ21(形式デ21)
昭和4年、元伊勢電521号機として日本車輌で新製、電装品は東洋電機製である。名古屋線改軌時に本機も改軌された。この時改軌されたのはデ2(昭和2年川崎造船製)、デ21、デ32(昭和23年三菱重工製)の3両で、デ2は塩浜工場の入替、デ21とデ32は保線工事に使用された。

 白塚(
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トムフ7152

 白塚(
43-2-13

 

 

本邦初のアルミカー

「新年第1回は山陽電鉄のアルミカー」の湯口先輩のコメントを拝読して胸が透く思いであった。と言うのも「アルミボディ電車の最初は山陽電鉄」の記事に対し、いつも「日本初のアルミボディ電車は越後交通のモハ210でっせ」と心の中で叫んでいたからである。
という訳でモハ210と電装解除後のクハ112の画像をご覧いただきたい。

 長岡駅/43-9-30

 
 下長岡/48-4-29

越後交通栃尾線には特徴ある車両が多数在籍していたが、その中で両端デッキ付のモハ209を紹介する。昭和27年自社工場製でモーターは平行カルダンの55.95kW×2と吊掛式42kW×2の双方を持つという変わった機構で、ラッシュ時には客車を4~5両引き、正に機関車兼用の電車であった。

 長岡駅/4
7-4-30

銚子電鉄の近況


君が浜~海鹿島間を走行するデハ1002

年末の12月29日、銚子電鉄を訪れたので報告したい。
現在の在籍車両は、デハ801(元伊予鉄道モハ106)、デハ1001、デハ1002(元営団地下鉄2040、2046)、デハ2001+クハ2501、デハ2002+クハ2502(元伊予鉄道モハ822+クハ852←京王電鉄デハ2070+サハ2575、モハ823+クハ853←デハ2069+サハ2576)の7両の電車とデキ3、ユ101である。
デハ801は一昨年9月23日にデハ701と一緒に「さよなら運転」を行ったが、廃車にはならずに車籍が残り客扱いはしないがイベント時に動いている。ユ101は長らく外川駅に留置されていたが現在は笠上黒生駅の側線に留置されており、再起の見込みは極めて薄い。

当日は、デハ1002とデハ2002+クハ2502が稼働していたが、年末のためか観光客は少なく、単行で丁度良い程度の乗客数であった。
デハ1002は、丸の内線方南町支線時代の塗装に変更され、11月26日から運用に就いており、車号に因み1002部限定で記念乗車券が販売されている。デハ1002の前身は銀座線の2000形の2040であるが昭和43年5月に方南町支線用として丸の内線に転属した。もう1両のデハ1001は元2000形2046でこちらは最後まで銀座線の所属であった。

平成22年1月23日に「さよなら運転」を行ったデハ702はデハ701と共に笠上黒生駅の側線に留置されていたが、11月8日の夜「ポッポの丘」(10月9日【15231】「房総半島横断の旅」参照)に向けて搬出された。「ポッポの丘」では再塗装等整備の上12月16日から一般公開されおり、近々見に行きたいと思っている。

外川駅の側線に留置されているデハ801。予備車として残されており、再度勇姿が見られるかもしれない。

丸ノ内線方南町支線時代の塗装に塗り替えられた。/笠上黒生

塗装変更のポスター

記念乗車券発売のポスター

笠上黒生駅に進入するデハ2002+クハ2502

デハ2002



 デハ2002の車内

 クハ2502の車内



 デハ2001+クハ2501

 デハ1001

 笠上黒生駅の側線で放置状態のユ101


本社、車庫等銚子電鉄の中枢機関がある仲ノ町駅


唯一の交換駅 笠上黒生駅

 【耳寄り情報】
JR東日本千葉支社では1月14日から3月31日まで「パワフル×スマイル千葉フリーパス」を発売している。通用期間は1月14日から3月11日までの土休日、3月17日から31日までの毎日で、千葉県内のJR、銚子電鉄、小湊鉄道、いすみ鉄道の全線が乗り放題で1800円である。但し発売箇所が千葉県内JRの有人駅に限られており、都内からの場合は松戸、市川、南流山のいずれかの駅で途中下車して購入する必要がある。松戸~銚子間の片道運賃は1890円、松戸~大原間は同1590円であり、上記私鉄を訪れる場合はおススメある。また「青春18」と異なり特急券を買えば特急にも乗車可能である。

新年第一回は山陽電鉄アルミカー

関三平画伯の「昭和の電車」シリーズも新年再開です。

山陽2000系だったか分かりませんが、扇形の模様の入った車体の電車を見たことがありました。tsurukame先輩、湯口先輩、ご解説お願いします。場所柄、前歯堅造氏あたりが適任なのだがあいにく彼は国鉄のスハ43にしか興味がなく、かつて「急行つるぎを愛する会」を一人で創ったぐらいだから山陽電車には興味はなさそうである。

連接車3

今回は福井鉄道である。福井鉄道は福井駅前の路面軌道しか見ておらず高速で走る姿がなく申し訳ない。

 

      1967.9.14 市役所前 急行福井行きモハ202-2+202-1

 当時は地方私鉄の雄のような存在で連接車の紹介では必ず顔を出していた。 1960年より日本車両で3編成つくられ現在も現役と聞く。後に両端台車はJR113系のものに交換されたり、冷房化により概観に変化が現れたが、この写真は新製時に近いものである。この車両に乗ったことがないので大きなことは言えないが、WN駆動、固定クロスシートの意欲的な急行用車両で綺麗な湘南スタイルの電車と私は思う。尚、この時はゼミ旅行で立山に行った帰りに福井に立ち寄ったもので、路面電車の撮影はその後も駅前で済ませて数だけ稼ぐというぐうたら撮影が多い。

 

      2011.9.6 市役所前 越前武生行き 772 

1987年に日本車両で4編成つくられ2005年まで名鉄岐阜市内線揖斐線直通に使われた車両。側窓は当初からの冷房車のため、固定式である。それにしても見事なカラーリングの車両である。ところで「大人の休日クラブ」を利用すると東京から出てきて福井で2時間ほど撮影してその日のうちに帰ることができる。それも安い料金で。時間的に大変便利で有難いがはるばる来た感じは失せる。

 

                 2011.9.6 公園口付近 越前武生行き「日通号?」 770

撮影中京浜東北色の車両が来た。同じく名鉄から譲渡されてきた770であるが、ごらんの通り、日通の広告電車。赤字経営では背に腹は替えられず広告も重要な収入源と思うが、何となくその会社の魂を売ったようで寂しい。最近は大手私鉄でもどんどん広告電車が走っており撮る方は興醒めである。

 

 

    2011.9.6 本田四ツ辻 福井駅前経由田原町行き886

 路面を歩いていて本田四ツ辻という停留所に来た。どうやらこの先が専用軌道といおうか高速鉄道線に入るようで写真はまさに今路面に入るところである。車両はこれも名鉄美濃町線で使われていたもので1980年日本車両で5編成つくられた。デジ青[17097]連接車2で紹介した名鉄時代のものと比べると福井カラーは実に爽やかである。

 この他に福井鉄道にはモハ160形という古い車両を2両組み合わせてつくった連接車が存在し、161-2が福井市下馬公園に、161-1が越前市旧南越線村岡駅跡に保存されていると聞く。現役時代を含めカメラに収められた方もおられよう。請発表。福井といえば阪急のK氏の故郷。最近、京都での懇親会で元気なお顔をデジ青で拝見させていただいたが、見てるかな。見てないやろな。