今回は湖西線開業後も残っていた元江若鉄道の堅田駅と近江今津駅を紹介する。
旧堅田駅
撮影日は湖西線開業後の昭和50年9月28日である。湖西線の駅は約300m近江今津寄りの山側に新築されたため、江若鉄道時代の旧駅舎がそのまま残り、看板を「本堅田」に取換えバスターミナルとして使用されていた。堅田から生津、途中、葛川細川方面と安曇川方面はここが始発であった。
駅舎を島式ホームに見立てたため、駅舎側から乗れるように、右側通行で進入した。
停車中のバスは、車体が小さい43年式BA20で、元安曇川営業所の所属で勾配区間用にギヤレシオを変更して、比良駅(鉄道廃止後は比良舞子口)~比良リフト間で使用されていた。湖西線開業後は乗客が増えたため大型車に置換えられ、堅田営業所に転属して堅田~生津・途中間等で使用された。奥に見えるのは整備工場である。
旧近江今津駅
撮影日は昭和50年5月18日である。廃止後5年半経過しているが、駅舎、機関庫がほぼ原形のまま残り、「近江今津駅」の看板もそのままであった。
この時点では、国鉄バス近江今津営業所は隣接した場所にあったが、程なく国鉄近江今津駅の琵琶湖側に移転した。
江若鉄道が営業していた頃と全く変わっていない。
元のホーム側から見た駅舎
「近江今津駅」の看板もそのまま
機関庫
国鉄バス若江線について
江若鉄道と関係が深かった国鉄バス若江線について少し触れておきたい。
江若鉄道の延長として「江若線」とならずに「江」と「若」がひっくり返って「若江線」(読み方は「わかえ線」ではなく「じゃっこう線」)となったのは若狭側から開業したことによる。昭和10年12月20日省営自動車小浜自動車所が開設され、新平野駅~若狭熊川間が開業、昭和12年12月21日若狭熊川~近江今津間が開業して江若鉄道と結ばれた。江若鉄道が近江今津まで開業したのは昭和6年1月1日のことで、省営自動車を介して若狭と結ばれるまで約7年を要したことになる。
戦後、昭和31年5月1日から江若と国鉄バスの相互乗入れが実施され、江若バスが2往復小浜まで乗り入れる代わりに、国鉄バスも2往復浜大津まで乗り入れた。江若バスは始発が京阪三条で、京都市内から小浜までの直通ルートとなった。湖西線開業後は国鉄バスの浜大津乗入れは廃止され、江若バスは安曇川始発で存続したが平成9年3月8日に廃止された。
大阪、京都と小浜を結ぶ幹線ルートとして位置付けられ、早くから冷房車が投入されたが、最近では近江今津駅までマイカーで出る人が増えたこと、大阪~小浜間に近鉄バスと福井鉄道バスの共同運行で高速バスが開業したことで乗客は減少している。小浜駅と上中駅の「みどりの窓口」では若江線経由の鉄道連絡乗車券を販売している。同様の例は白馬駅でアルピコ交通の長野行特急バスと長野駅からの新幹線の直通切符を販売しており、東京~白馬の移動はこのルートが一般的になった。
〔国鉄バスの形式〕
車両の解説の前に、国鉄バスの形式について簡単に説明する。国鉄バスも鉄道同様車両の転属が全国規模で頻繁にあったため、登録番号ではなく、局番と呼ばれる形式と番号で管理されていた。鉄道車両の場合は、アルファベット、カタカナと数字の組み合わせであるが、バスの場合は、電話番号と同じく3桁の数字ハイフォン4桁の数字で表示されていた。(例537-3016)第1位は車体長または用途を表しており、下記の通り分類される。
1/車幅長2300mm・全長7000mm・定員29名以下
2/車幅長2300mm・全長8400mm未満
3/車幅長2300mm以下・全長8400mm以上9800mm以下
4/車幅長2300mm超・全長8400mm以上9800mm未満
5/車幅長2300mm超・全長9800mm以上
6/中長距離・観光用
7/高速用
第2位は座席の形状を表す。
1/横向シート(ロングシート)
2/横向き、前向き混用シート
3/前向きシート
4/リクライニングシート
第3位はエンジンメーカーを表す。
1/いすゞ、2/ニッサン、3/トヨタ、4/三菱ふそう、5/プリンス、6/その他国産、7/日野、8/民生(日産ディーゼル)、9/外車、0/その他
第4位は年式表す。西暦年号の末尾の数字。
第5位~7位はその年の登録順に付番されるが、バネの種類と冷房装置の有無により始番が次のように規定される。
板バネ/001、冷房付板バネ/401、/501空気バネ、冷房付空気バネ/901
以上のことを念頭に置いて写真を見ていただくと解りやすいと思う。
〔国鉄バスの車両〕
滋22か・・95 (521-1019)/46年式いすゞBU10(帝国自動車工業)
「いすゞ」と「帝国」の組み合わせは民営では少ないが、国鉄バスでは多数存在した。グリーンとクリームの濃淡の旧塗装時代 (50-5-18)
滋22か・・97 (521-1021) )/46年式いすゞBU10(帝国自動車工業)
近江今津から琵琶湖北岸の集落、海津、永原、飯ノ浦を経由する木ノ本行。(近江今津~木ノ本間は琵琶湖線)木ノ本には近江今津営業所の支所があり、琵琶湖線と柳ケ瀬線を担当していた。(50-5-18)
滋22か・384 (637-4401) /48年式日野RC300(帝国自動車工業)
第1位の数字が「6」の中長距離用で、前中扉のワンマンカーであるが、窓が引き違い(メトロ窓)で冷房付きである。このタイプは4401~4403の3両在籍した。(54-3-3)
滋22か・411 (641-9911)/ 44年式いすゞBH20P(川崎重工業)
オバQ形車体で東名高速線の中短距離用として9911~9930の20両作られたが、トイレがないため早々に一般路線に転用された。方向幕には「東京駅」「静岡駅」「東名静岡」「沼津駅」等があった。車内設備が良いので貸切に使用されることが多かった。この車のことを「ハイウェイオバQ」と呼ぶ人がいるが、本当の「ハイウェイオバQ」は車長が長くトイレ付のBH50Pのことである。(50-5-18)
滋22か・423 (537-3016) /48年式日野RC300(帝国自動車工業)
近江今津駅を発車した小浜行。車体は前述の「滋22か・・95」と似ているが、こちらはエンジンメーカーが「日野」でライトの形や後部の形状が異なる。このタイプは3003~3009・3015~3019の12両在籍した。(50-5-18)
滋22か・458 (527-5001)/ 50年式日野RE100(帝国自動車工業)
狭隘路線用のツーマン車で1形式1両の珍しい車両である。 (54-3-18)
滋22か・539 (537-6409) /51年式日野RC300(帝国自動車工業)
前中扉の一般的な車両であるが、重要路線である若江線用のため冷房付で、背もたれの高い2人掛け座席と通路部分に補助席が設置されていた。6409~6414の6両在籍した。(59-1-1)
滋22か・668 (537-8403)/ 53年式日野RC301(日野車体工業)
前述の51年式と同タイプであるが、窓が上下共サッシュになった。座席は51年式と同じである。8403~8406の4両在籍した。(59-1-1)
滋22か1011 (531-3478) / 58年式いすゞK-CJM520(富士重工)
スタイルが今風になってきた。座席は背もたれの高い2人掛けと通路部分に補助席が設置されていた。3478~3480の3両在籍した。(59-3-23)
滋22か1014 (647-3975) / 58年式日野K-RC721P(日野車体工業)
貸切と兼用で使用された。1形式1両であった。(59-3-23)
石2う1563 (631-9903)/ 44年式いすゞBU20P(富士重工)
近江今津営業所の管轄路線にマキノと国境にスキー場があり、スキーシーズンは他の営業所から車両を借入れて臨時便が増発された。この車両は穴水営業所からの借入車で、9901~9905の5両在籍した。 (54-3-3)
名古屋22か1657(537-3017) /48年式日野RC300(帝国自動車工業)
名古屋営業所からの借入車で3003~3009・3015~3019の12両在籍した。(55-3-22)
〔江若バスの車両〕
江若は安曇川駅~近江今津駅~小浜駅~小浜港間を2往復運行され、社名の面目を保っていたが、前述の通り平成9年3月8日付けで廃止され、若狭には行かなくなってしまった。
若江線に運用されていた車両の一部を紹介する。
滋22か・・35/44年式ふそうMAR470(三菱)
昭和51年5月、京阪バスから譲り受けた車両で、「奥琵琶湖定期観光バス」の予備車を兼ねていた。この車両の経歴は複雑で、昭和44年9月、「京2い1373」京都定期観光バスの車両として誕生。45年12月ワンマン改造後翌年1月に大津営業所に転属して「滋22か・・35」となった。京津国道線を中心に使用され、観光シーズンには京都定期観光バスの応援に行くこともあった。江若に入線後も使用の本拠地が滋賀県のため登録番号の変更はされなかった。尚、京阪バスには同形車が「京2い1374→滋22か38」、「京2い1375→滋22か36」と2両在籍したが、昭和54年12月に廃車になった。(55-3-22)
参考:京阪バス時代の滋22か・・35
(50-3-2/浜大津)
滋22か・・79/46年式いすゞBU05(西日本車体工業)
西工のカマボコ形車体で、滋22か・・75~80の6両在籍し、全車安曇川営業所の所属であった。上は近江今津から若江線の保坂から国道367号線(通称鯖街道)を南下、椋川集落を経由して朽木を結んでいた路線である。下の車両の方向幕「今津西町」は元江若鉄道の近江今津駅である。(上54-3-3/朽木学校前・下 55-3-22/安曇川営業所)
滋22か・212/47年式日野RE100(帝国車体工業)
滋22か・207~213の7両在籍し全車安曇川営業所の所属であった。(55-6-14)
滋22か・651/53年式いすゞBU04(川重車体工業)
座席が改良され、背もたれが高くなった。同時に新製された滋22か・652は堅田営業所に配置された。(54-3-3)
滋22か・723/54年式日野RE101(日野車体工業)
この年式以降方向幕が大きくなった。同時に新製された滋22か・724と共に安曇川営業所の所属であった。(54-3-3)
滋22か・725/54年式いすゞBU04(川重車体工業)
1形式1両で安曇川営業所の所属であった。(54-3-3)
滋22か・779/54年式日野RC301(日野車体工業)
若江線(江若では小浜線と呼んでいた)のサービスアップを目的として作られた車両で安曇川営業所初の冷房車ある。国鉄バスは早くから冷房車を投入する等サービスアップに努めていたが、江若は座席こそ良くなったが冷房車がなく、夏ともなれば乗客が江若便を敬遠する傾向にあった。国鉄バスとの格差を解消するために冷房車を投入した。車体も特注で座席と窓が一致している。滋22か・778、779の2両在籍した。(59-3-23)