東急デハ3450形


  片運化され、貫通幌付となったデハ3467
(47-12-17/大岡山)

関 三平先生の「昭和の電車」シリーズは、関西から東京西郊に舞台を移されたようである。東急の電車を意識して撮影したのは、デハ3300形と玉川線くらいで、今回の「デハ3450形」は、戦前の東京横浜電鉄の代表的車両であったことくらいのことしか知らないが、ついで撮影の写真が何枚か出てきたので貼り付けた。

デハ3450形(デハ3450~3499)
昭和6年から11年にかけて50両作られた。両運、非貫通車であったが、戦後の車体更新で大部分の車両の片運化、正面貫通化、窓の拡大化等が行われ、実施時期による仕様の相違等があり、1両毎に細部が異なる状態であった。
昭和56年から廃車が始まり平成元年には営業運転を終了したが、トップナンバーのデハ3450は、原形に戻して「電車とバスの博物館」に保存、東急車両製造の牽引車として使用されていたラストのデハ3499が「デハ3499保存会」により群馬県内で保存されている。
デハ3456
 

  片運改造のみで、運転台側は非貫通のまま (
52-2-12/大岡山)

デハ3468

 片運、貫通化改造されて幌付き(
47-12-17/旗の台)

デハ3484

 片運、貫通化改造されているが幌なし(
47-12-17/旗の台)

【その他の旧形車両】
デハ3500形(デハ3501~3522)
昭和14年にモハ1000として22両新製、改番でデハ3500形となった。事故復旧車のデハ3508以外は非貫通であった。
デハ3507

 
52-2-12/田園調布)

デハ3509

 ヘッドライト移設車 (
52-2-12/多摩川園)

デハ3512

 
52-2-12/多摩川園)

デハ3600形(デハ3601~3615)
昭和23年から24年にかけて戦災焼失した国電を譲受け復旧した車両である。
デハ3603

昭和24年、台枠を利用して新日国工業で車体を新製した。(
52-2-12/多摩川園)

デハ3601

旧国電モハ31087の事故復旧車であったが、昭和39年東横車両で車体を新製した。昭和57年廃車になり弘南鉄道に譲渡された。(
52-2-12/多摩川園)

クハ3770形(クハ3771~3782)
前述のデハ3600形同様戦災焼失した国電を譲受け復旧した車両である。
クハ3780

昭和24年、台枠を利用して新日国工業で車体を新製した。(
52-2-12/多摩川園)

デハ3700形(デハ3701~3715)
昭和22年規格A´型として新製されたが、車体老朽化により昭和36年東横車両で車体を新製した。昭和50年と55年に名鉄に譲渡された。
デハ3713

 
52-2-12/多摩川園)東急の旧形車は、もっとキッチリ撮影された方がおられると思うので、是非発表をお願いしたい。

 

 

こんなん、出てきました。(1) DRFC OB CLUB NO.1

 家の中を片付けていると、いろいろなものが出来きました。昔、買った雑誌や旅行などで使った切符、ネガなど・・・。見ているとあの時はあんなんあったんやな~。そんな事を思ってしまうのも、年のせいかなと考えてしまいます。 

 それでは今回はまさかこんなものを残しておいたのかと見てびっくりした代物です。それはDRFC OB CLUB NO.1とNO.2会報などです。NO.1は1985年11月22日の日付で26年が経っています。多分、OB会総会に参加した時にもらったではないかと思いますが、定かではありません。

 NO.1の大見出しは「あーあ吉谷さん逝く!」で、さらに中見出しは「すかたん列車赤信号を暴走」「極楽本線へ異線進入す」と続き、記事の最後は「オッサン、帰って来いや!」で締めくくっています。これには1985年11月19日付の毎日新聞大阪版の記事が転載されています。この新聞記事が吉谷さんのことがかなり詳しく書かれてあったのは、びっくりしました。写真に写っているのが1985年2月20日発の第1「すかたん列車」で同じ年の11月17日には4次元線へ経路変更したようです。なんか、上方落語の地獄八景亡者戯みたいなやな~。吉谷さんは「鉄道ファン」に吉谷さんらしい内容のエッセイが投稿されていました。これはまた別の機会に紹介することにしまっさ。

 NO.2はDRFC30周年としてマイテ492を走らせることについてのOBと現役との話し合いのやり取りを赤裸々に記録されたものであります。

 もうひとつはDRFCが出来るまでのいきさつと創成期のDRFCを知る上で貴重な歴史的史料です。30周年記念号である青信号57号にも「同志社大学鉄道同好会30年の軌跡」として書かれてあるが、この史料にはDRFCが出来た頃についてエピソードも含めて書かれてあり、読み物としてもおもしろく、DRFC重要文化財として保管することにしました。しかし、4次元鉄道の列車に乗ったらいずれ捨てられるやろな~。

では、つぎの掘り出し物はなんでしょう。

東急3450型、全く知らない電車です!

関先生の作品を見ているとあることに気づきました。見送り写真(後尾から先頭方向を撮る)が多いことです。普通は向かってくる列車を頭から撮るのですが、なにかこだわりがあるのか技術的な理由があるのでしょうか?写真班の方で分かる方教えて下さい。

クローバー会写真展準備完了

まもなく開催される「クローバー会写真展」に展示する会員の作品をパネルに貼る準備作業が市内某所で秘密裏に開かれた。

手配師のF氏によって集められた人夫は5人、ほとんどが未経験者で一時間をかけてで理解させた。作業を始めるとそこはベテラン、二人一組になり手際よく処理して行き18時40分には110枚の作品を完成できたのは鬼の監督と、トリミング指導の人間国宝氏の尽力によるものである。

会員各氏は友人知己を誘い合わせて見に行って下さい。

2月14日~28日 地下鉄烏丸御池駅ギャラリーにて開催です。

今でも気になる江若鉄道(Ⅴ)

今回は湖西線開業後も残っていた元江若鉄道の堅田駅と近江今津駅を紹介する。

旧堅田駅
撮影日は湖西線開業後の昭和50年9月28日である。湖西線の駅は約300m近江今津寄りの山側に新築されたため、江若鉄道時代の旧駅舎がそのまま残り、看板を「本堅田」に取換えバスターミナルとして使用されていた。堅田から生津、途中、葛川細川方面と安曇川方面はここが始発であった。

 駅舎を島式ホームに見立てたため、駅舎側から乗れるように、右側通行で進入した。

 停車中のバスは、車体が小さい43年式BA20で、元安曇川営業所の所属で勾配区間用にギヤレシオを変更して、比良駅(鉄道廃止後は比良舞子口)~比良リフト間で使用されていた。湖西線開業後は乗客が増えたため大型車に置換えられ、堅田営業所に転属して堅田~生津・途中間等で使用された。奥に見えるのは整備工場である。

旧近江今津駅
撮影日は昭和50年5月18日である。廃止後5年半経過しているが、駅舎、機関庫がほぼ原形のまま残り、「近江今津駅」の看板もそのままであった。
この時点では、国鉄バス近江今津営業所は隣接した場所にあったが、程なく国鉄近江今津駅の琵琶湖側に移転した。

 江若鉄道が営業していた頃と全く変わっていない。

 元のホーム側から見た駅舎

 「近江今津駅」の看板もそのまま

 機関庫

国鉄バス若江線について
江若鉄道と関係が深かった国鉄バス若江線について少し触れておきたい。
江若鉄道の延長として「江若線」とならずに「江」と「若」がひっくり返って「若江線」(読み方は「わかえ線」ではなく「じゃっこう線」)となったのは若狭側から開業したことによる。昭和10年12月20日省営自動車小浜自動車所が開設され、新平野駅~若狭熊川間が開業、昭和12年12月21日若狭熊川~近江今津間が開業して江若鉄道と結ばれた。江若鉄道が近江今津まで開業したのは昭和6年1月1日のことで、省営自動車を介して若狭と結ばれるまで約7年を要したことになる。

戦後、昭和31年5月1日から江若と国鉄バスの相互乗入れが実施され、江若バスが2往復小浜まで乗り入れる代わりに、国鉄バスも2往復浜大津まで乗り入れた。江若バスは始発が京阪三条で、京都市内から小浜までの直通ルートとなった。湖西線開業後は国鉄バスの浜大津乗入れは廃止され、江若バスは安曇川始発で存続したが平成9年3月8日に廃止された。

大阪、京都と小浜を結ぶ幹線ルートとして位置付けられ、早くから冷房車が投入されたが、最近では近江今津駅までマイカーで出る人が増えたこと、大阪~小浜間に近鉄バスと福井鉄道バスの共同運行で高速バスが開業したことで乗客は減少している。小浜駅と上中駅の「みどりの窓口」では若江線経由の鉄道連絡乗車券を販売している。同様の例は白馬駅でアルピコ交通の長野行特急バスと長野駅からの新幹線の直通切符を販売しており、東京~白馬の移動はこのルートが一般的になった。
〔国鉄バスの形式〕
車両の解説の前に、国鉄バスの形式について簡単に説明する。国鉄バスも鉄道同様車両の転属が全国規模で頻繁にあったため、登録番号ではなく、局番と呼ばれる形式と番号で管理されていた。鉄道車両の場合は、アルファベット、カタカナと数字の組み合わせであるが、バスの場合は、電話番号と同じく3桁の数字ハイフォン4桁の数字で表示されていた。(例537-3016)第1位は車体長または用途を表しており、下記の通り分類される。
1/車幅長2300mm・全長7000mm・定員29名以下
2/車幅長2300mm・全長8400mm未満
3/車幅長2300mm以下・全長8400mm以上9800mm以下
4/車幅長2300mm超・全長8400mm以上9800mm未満
5/車幅長2300mm超・全長9800mm以上
6/中長距離・観光用
7/高速用

第2位は座席の形状を表す。
1/横向シート(ロングシート)
2/横向き、前向き混用シート
3/前向きシート
4/リクライニングシート

 第3位はエンジンメーカーを表す。
1/いすゞ、2/ニッサン、3/トヨタ、4/三菱ふそう、5/プリンス、6/その他国産、7/日野、8/民生(日産ディーゼル)、9/外車、0/その他

 第4位は年式表す。西暦年号の末尾の数字。

第5位~7位はその年の登録順に付番されるが、バネの種類と冷房装置の有無により始番が次のように規定される。
板バネ/001、冷房付板バネ/401、/501空気バネ、冷房付空気バネ/901
以上のことを念頭に置いて写真を見ていただくと解りやすいと思う。

〔国鉄バスの車両〕
滋22か・・95 (521-1019)/46年式いすゞBU10(帝国自動車工業)

「いすゞ」と「帝国」の組み合わせは民営では少ないが、国鉄バスでは多数存在した。グリーンとクリームの濃淡の旧塗装時代
(50-5-18)

滋22か・・97 (521-1021) )/46年式いすゞBU10(帝国自動車工業)

近江今津から琵琶湖北岸の集落、海津、永原、飯ノ浦を経由する木ノ本行。(近江今津~木ノ本間は琵琶湖線)木ノ本には近江今津営業所の支所があり、琵琶湖線と柳ケ瀬線を担当していた。(50-5-18)

滋22か・384 (637-4401) /48年式日野RC300(帝国自動車工業)

第1位の数字が「6」の中長距離用で、前中扉のワンマンカーであるが、窓が引き違い(メトロ窓)で冷房付きである。このタイプは
44014403の3両在籍した。(54-3-3)

滋22か・411 (641-9911) 44年式いすゞBH20P(川崎重工業)

オバQ形車体で東名高速線の中短距離用として
99119930の20両作られたが、トイレがないため早々に一般路線に転用された。方向幕には「東京駅」「静岡駅」「東名静岡」「沼津駅」等があった。車内設備が良いので貸切に使用されることが多かった。この車のことを「ハイウェイオバQ」と呼ぶ人がいるが、本当の「ハイウェイオバQ」は車長が長くトイレ付のBH50Pのことである。(50-5-18)

滋22か・423 (537-3016) /48年式日野RC300(帝国自動車工業)

近江今津駅を発車した小浜行。車体は前述の「滋22か・・95」と似ているが、こちらはエンジンメーカーが「日野」でライトの形や後部の形状が異なる。このタイプは
3003300930153019の12両在籍した。(50-5-18)

 滋22か・458 (527-5001) 50年式日野RE100(帝国自動車工業)

 
狭隘路線用のツーマン車で1形式1両の珍しい車両である。 (54-3-18)

滋22か・539 (537-6409) /51年式日野RC300(帝国自動車工業)

前中扉の一般的な車両であるが、重要路線である若江線用のため冷房付で、背もたれの高い2人掛け座席と通路部分に補助席が設置されていた。
64096414の6両在籍した。(59-1-1)

滋22か・668 (537-8403) 53年式日野RC301(日野車体工業)

前述の51年式と同タイプであるが、窓が上下共サッシュになった。座席は51年式と同じである。
84038406の4両在籍した。(59-1-1)

滋22か1011 (531-3478) 58年式いすゞK-CJM520(富士重工)

スタイルが今風になってきた。座席は背もたれの高い2人掛けと通路部分に補助席が設置されていた。
34783480の3両在籍した。(59-3-23)

滋22か1014 (647-3975) 58年式日野K-RC721P(日野車体工業)

貸切と兼用で使用された。1形式1両であった。
(59-3-23)

石2う1563 (631-9903) 44年式いすゞBU20P(富士重工)

近江今津営業所の管轄路線にマキノと国境にスキー場があり、スキーシーズンは他の営業所から車両を借入れて臨時便が増発された。この車両は穴水営業所からの借入車で、
99019905の5両在籍した。 (54-3-3)

名古屋22か1657(537-3017) /48年式日野RC300(帝国自動車工業)

名古屋営業所からの借入車で
3003300930153019の12両在籍した。(55-3-22)

〔江若バスの車両〕
江若は安曇川駅~近江今津駅~小浜駅~小浜港間を2往復運行され、社名の面目を保っていたが、前述の通り平成9年3月8日付けで廃止され、若狭には行かなくなってしまった。
若江線に運用されていた車両の一部を紹介する。

滋22か・・35/44年式ふそうMAR470(三菱)

昭和51年5月、京阪バスから譲り受けた車両で、「奥琵琶湖定期観光バス」の予備車を兼ねていた。この車両の経歴は複雑で、昭和44年9月、「京2い1373」京都定期観光バスの車両として誕生。45年12月ワンマン改造後翌年1月に大津営業所に転属して「滋22か・・35」となった。京津国道線を中心に使用され、観光シーズンには京都定期観光バスの応援に行くこともあった。江若に入線後も使用の本拠地が滋賀県のため登録番号の変更はされなかった。尚、京阪バスには同形車が「京2い1374→滋22か38」、「京2い1375→滋22か36」と2両在籍したが、昭和54年12月に廃車になった。
(55-3-22)

参考:京阪バス時代の滋22か・・35

 (50-3-2
/浜大津)

滋22か・・79/46年式いすゞBU05(西日本車体工業)


西工のカマボコ形車体で、滋22か・・75~80の6両在籍し、全車安曇川営業所の所属であった。上は近江今津から若江線の保坂から国道367号線(通称鯖街道)を南下、椋川集落を経由して朽木を結んでいた路線である。
下の車両の方向幕「今津西町」は元江若鉄道の近江今津駅である。(54-3-3/朽木学校前・下 55-3-22/安曇川営業所)

滋22か・212/47年式日野RE100(帝国車体工業)

滋22か・207~213の7両在籍し全車安曇川営業所の所属であった。
(55-6-14)
 

滋22か・651/53年式いすゞBU04(川重車体工業)

座席が改良され、背もたれが高くなった。同時に新製された滋22か・652は堅田営業所に配置された。
(54-3-3)

 滋22か・723/54年式日野RE101(日野車体工業)

この年式以降方向幕が大きくなった。同時に新製された滋22か・724と共に安曇川営業所の所属であった。
(54-3-3)

滋22か・725/54年式いすゞBU04(川重車体工業)

1形式1両で安曇川営業所の所属であった。
(54-3-3)

滋22か・779/54年式日野RC301(日野車体工業)

若江線(江若では小浜線と呼んでいた)のサービスアップを目的として作られた車両で安曇川営業所初の冷房車ある。国鉄バスは早くから冷房車を投入する等サービスアップに努めていたが、江若は座席こそ良くなったが冷房車がなく、夏ともなれば乗客が江若便を敬遠する傾向にあった。国鉄バスとの格差を解消するために冷房車を投入した。車体も特注で座席と窓が一致している。滋22か・778、779の2両在籍した。
(59-3-23)

連接車5

前回の広島電鉄、筑豊電鉄に続き今回も連接車天国の江ノ島電鉄を発表する。単線ながら12分おきに、それも来る電車、来る電車、形や色が違うので面白いと言えば面白いが、何となくケバケバ電車が多い様に見える。本来の江ノ電カラーの方が落ち着いていて好きだ。

2010.5.31 稲村ケ崎付近 藤沢行き305・355・501・551

現役最古参でしぶとく残っている人気者。300形は複雑な改造の過程があるがこの305は新造に近い。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜 1002・1052・10・50

1979年登場でブルーリボン賞をもらったとか。ブルーリボン賞は豪華な車両が多く、通勤車両や路面タイプはローレル賞と思い込んでいたので驚きである。

 

2012.2.2 腰越付近 鎌倉行き2002・2052連結部分

後方は義経、弁慶ゆかりの満福寺。 頼朝の拒絶により足止めをくった所。

 

 

2012.2.2 鎌倉高校前 →1552・1502・1151・1101 藤沢行き

嵐電カラーは期限延長なのか今でも見ることができる。尚、この日偶然にも横浜在住のIさんが多忙な仕事の合間をぬって全く同じ場所で黄昏のいい写真を撮られている。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜  藤沢行き2002・2052・21・61

この電車は下枠交差式パンタグラフ。 比較的落ち着いたカラーであるがコカコーラの宣伝が邪魔で残念である。

2012.2.2  峰ケ原信号所 2002・2052中間台車

 

2010.5.31  稲村ケ崎~七里ケ浜 藤沢行き10・50

1997年登場のレトロ調の電車。都電にも似たようなコンセプトの車両があった。シングルアームパンタグラフ装備。

 

2012.2.2 稲村ケ崎付近 鎌倉行き61・21・2052・2002  

江ノ電は嵐電と共同宣伝の提携をしているが、阪急とも同様の話でもあったのか。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜 鎌倉行き62・22 

61・21は2002年、62・22はその翌年登場。 このようなラッピング等宣伝がないオリジナルカラーの方が落ち着いて綺麗に感じる。歳のせいかな。また、単線ローカル電車の写真には2両編成くらいが丁度よい。

 

2012.2.2 稲村ケ崎~七里ケ浜 鎌倉行き552・502 

連接車らしい写真が撮れる場所は狭い所を走る江ノ電では少ない。やっとそれらしいのが撮れたと思ったら前パン(シングルアームパンタ)が切れてしまった失敗作。500形(2代目)はステンレス製。502Fは2008年登場で江ノ電では最も新しい。

 

1970 稲村ケ崎~七里ガ浜 鎌倉行き303

同じ300形でもこの番号あたりになるとよくわからない。江ノ電では元玉電の600形は撮影したが、元山梨交通800形は撮影できなかった。

 

1970 稲村ケ崎 藤沢行き502

1956年登場でヨーロッパスタイルといわれたが今は廃車され足回りが20形に流用された。

 

以上、江ノ電連接車を取り急ぎ発表したが、形や色が多過ぎて全部掲載するとご迷惑がかかるので特に1000系列のうち1100、1200等は色違いも含めてカットした。

奈良電デハボ1200登場!

懐かしの奈良電!

思い出せば紀元節が復活した年に柏原神宮まで乗ったのが最初でした。奈良電はよく乗りましたが、久津川にいた友人の家を訪ねるためで、特急に乗ることは無く、奈良電らしからぬ明るい社内とクロスシートにかかった白いカバーに感激したものでした。

もっともこれは近鉄になってからで、この絵にある奈良電色ではありませんでした。近鉄特急の色でありながら車体幅やキハ20のような窓に旧型車の匂いがして特急料金を取られるのが不服ではありました。

 

アルミカーについてのつぶやき

暫くおとなしくしていた。その間、福島電鉄、連接車やアルミカーと、参入したい話題が続発したが投稿出来なかった。アルミカーについては、澤村君とこんな会話を交わしたことがある。京阪5000系の事だが、「台枠もアルミと言う話を耳にしたが、本当か?」と尋ねた。暫くして「台枠、正面の工作共にアルミニュームです。」との返事を貰った。続けて「でないと座席昇降装置、付加された4扉分の装置類を含め、T車で自重25頓(補機積載車)の数値をクリアすることなど不可能です。正面の形状、庇があるのはアルミ板工作上から考え出されたことで、意匠上の理由だけではないのです。」と教えられた。前代未聞の座席昇降装置付き5扉車の設計について京阪車両部と川重設計部は、アルミニューム構体製作について知恵を絞り切った事であろう。5000系の竣工は197012月だから、DRFC1967年生の澤村君は入社前で、入社後の彼に老人は質問をぶつけたようだ。

ダブルデッカー試作が宮下社長に認められた頃、「次は5000系の更新です。」と言いだした。第1編成が終わったころ「台枠、大丈夫だったか?」と尋ねてみた。「川重の専門屋が後20年は大丈夫と言ってくれましたのでヤレヤレです。」と晴れやかな顔をしていた。この後、6000系をはじめ新造車は全てアルミカーが続くのだから、当事者は気になって当然の事である。玄人の澤村君と素人で野次馬精神旺盛な老人の間で、京阪5000系について2人が特別に話題にした事であった。

車両構造について、どのように、何を基準として分類すればよいのだろうか。鉄道車両の車体構成材進歩の道筋を追ってみると木材、木材と鋼鉄材の混用、鋼鉄材、金属材等の過程を辿っている。鋼鉄は金属材だが、20世紀前半は金属材の中でも独立した存在であったが、20世紀中期から他の金属材と混用されるようになった。その中でアルミニュームが車両の軽量化で注目を浴びるようになり、今日を迎えている。

車両構造上、最も重要視されているのは台枠である。木造建築で言えば土台である。これの良し悪しが出来栄えに、寿命に大きく影響する。さて栃尾鉄道のモハ210号はどんな構造材と仕上げ材でもって製作されたのだろうか。山陽電鉄のアルミカーは、台枠を始め構造材はすべてアルミニュームだと社員さんから聞いたことがある。日本では戦時体制下、ドイツからアルミ合金であるジュラルミンを輸入して軍用航空機に使用しようとしたが、工作技術伴なわず断念したと兄から聞かされたことがある。それが戦後、鋼板代わりに使用され「ジュラ電」登場となったようだ。

栃尾鉄道はどのようなルートでアルミニューム板を入手したのか、それを車体のどの部材として使用したのか、日本最初のアルミ製電車として相応しい条件を備えていたのか、謎の残る話題である。老人は1959年、東北旅行の帰途に栃尾電鉄に立ち寄っているが、長岡-悠久山間往復を夕方しただけで車庫には寄らず仕舞いであった。こんな先進的な車両があるなら長岡でステーションホテルするのであったと、今になって悔いている。こんな事を思い付いた。新潟、富山県は大河による水力発電国である。阿賀野川水域では忌まわしい産業公害の加害者として昭和電工の名が出てくる。同社は戦前期にアルミニューム精錬に成功したようだ。富山では黒部川、庄川の下流域でアルミ精錬、加工業者の名が認められる。アルミ精錬、加工には莫大な電力を必要とするが、新潟では昭和電工が製品販路開発のため県下の企業である栃尾電鉄に、試験使用を委託したとしたら出来すぎる話となるかな? 想像することは当っても外れても楽しい。

さて近鉄名古屋線の6531号の写真を1枚見付け出した。ご要望にお応えできるかどうか……。他の車両も高橋弘さんにプリントしてもらったが、どなたかにプレゼントしたので手許にない。再プリント待ちにさせて下さい。ありがたい事にNEOPAN SSはしっかり残っている。

 

近鉄名古屋線クハ6531号、1958.11.03

近鉄名古屋線クハ6531号、1958.11.03

連接車4

今回は連接車の多い広島電鉄と筑豊電鉄を採り上げてみた。

広島電鉄には皆さんよくご存知の通り京都市の1900形をはじめ各地の路面電車を元の色のままで走らせる等興味深いものがある。最近はヨーロッパスタイルとでも言おうか長い新型連接車も見られ、私のような何でも屋にはとてもその全容を把握するのは無理である。広島県在住の方や路面電車のご専門の方々のコメントをお待ちしたい。尚、新型と表現したが、最近よく使われるLRTなのか軽快電車なのか今一よくわかっていないのであえて使わなかった。新型路面電車の中にはLRTや軽快電車でないものもあるのであろう。

1977.10.8  宮島線井口付近 2505

1961年~66年に製造され後に3100形に改造された。改造されずに廃車されたものもある。この時は荒手車庫で阪急から譲渡された今津線500形、嵐山線210形を撮影することが主目的であった。後方には併走する山陽本線が見られるが、まだEF58や80系が走っていた。

1977.10.8 荒手車庫 西鉄1203

西鉄福岡市内線から譲渡された頃の姿と思われる。後に広島電鉄3000形となった。

2008.9.8 胡町 3007

元西鉄福岡市内線1101、1201、1301形を改造、3007ACBは元西鉄1305A・1207B・1305B

2008.9.8 八丁堀~胡町 3703

 

2008.9.7 紙屋町西 3803

 

2008.9.7  宮島線阿品東 3904

暑い1日だったがこの電車の時は御日様が隠れた。

 

2008.9.7  原爆ドーム前~紙屋町西 3952

この日はセ・リーグで行ったことがなかった広島市民球場で阪神戦を見るのが目的であった。広島城を見学してぶらぶらと球場のあたりを歩いていたら「1番センター赤星」のアナウンス。この日はナイターでなくデイ・ゲームであった。ホテルに戻ってお色直しすることも出来ず、そのまま重いリュックで球場へ行く。この日も阪神は負けた。確か巨人に13ゲーム差をひっくり返された年と思う。

 

2008.9.8  銀山町 5107 

5連接車で何となくヨーロッパで見かけるスタイルである。顔は西武の30000に似ている様な気がする。

 

筑豊電鉄という名前は最近まで知らなかった。西鉄の子会社で1956年3月に開業しているので最近できた電鉄会社ではない。何しろ鉄道趣味という厄介な病にかかった頃は蒸機第一で、筑豊といえば猫もしゃくしもC55やD50を追っかけ、北九州電化にもあまり目を向けなかった。ましてや筑豊電鉄なぞ存在すら知らなかった。1964年10月の交通公社の時刻表が手元にあるが、それによると黒崎~筑豊直方70円、朝夕通勤時は2~3分毎、日中5~10分毎とある。JR直方からかなり離れた遠賀川の畔に高架の筑豊直方駅があった。大きな川に小さな電車では撮影するにも感が狂ってしまう。来る電車来る電車皆連接車でしかも吊り掛け車と聞く。スタイルはカルダン車なのだが。

2010.11.19  筑豊直方~感田 黒崎駅行き2003

西鉄軌道線1000系列を譲り受けて3両連接車に改造したもの。

 

2010.11.19  筑豊直方~感田 筑豊直方行き3005

2000形を車体更新したもの。乗客が少ないのか広電の長編成化とは反対に短編成化されている。

 

 

今でも気になる江若鉄道(Ⅳ)


 近江舞子~北小松間 (41-4-29)
 
今回は貨物列車と貨車を話題にした。
我々団塊世代が現役の頃は貨物列車が1往復運行されており、廃止1年前の43年8月19日のダイヤは下記の通りであった。
〔下り301貨〕浜大津9:15→叡山9:40/9:50→堅田10:06/10:15→和邇10:27/10:40→高島町11:22/11:35→安曇川11:45/1205→新旭12:10/12:20→近江今津12:30
〔上り302貨〕近江今津14:00→新旭14:10/14:20→安曇川1426:14:45→高島町14:55/15:06→和邇15:46→堅田15:58/16:10→叡山16:25/16:35→浜大津16:58  
上記の他、三井寺下、滋賀、雄琴温泉、真野、近江木戸、比良、近江舞子、北小松、饗庭に停車し、日吉、蓬莱、近江舞子南口、白髭、北饗庭は通過した。
時刻の表示されている駅は貨物ホームがあり車扱い(1車貸切)を含め貨物全般を取り扱い、その他の停車駅は小口貨物のみ取り扱っていたと思われる。

【貨物列車】

 浜大津駅での入替作業
(40-12-8)

 霧の浜大津駅で発車待ち
(41-1-31)

 浜大津~三井寺下間の琵琶湖疏水の鉄橋 
(41-2-19)

 滋賀~叡山
(44-10-14)

 滋賀~叡山
(44-10-10)

 日吉~雄琴温泉
(44-10-5)

 蓬莱~近江木戸
(44-10-18)

 蓬莱~近江木戸
(44-10-26)

 近江舞子~北小松
(41-4-29)

 北小松~高島町
(44-10-4)

北小松~高島町
(44-10-5)

 高島町駅
(44-10-5)

 水尾~安曇川
(44-10-24)

【ディーゼル機関車】
DD1351
昭和32年12月汽車会社製で国鉄のDD13に先立って新製され、試作的要素が強かった。廃止後別府鉄道に譲渡された。

 高島町 (44-10-4)

DD1352
昭和37年5月汽車会社製で国鉄DD13112~264とばば同形である。廃止後岡山臨港鉄道に譲渡された。

 三井寺下機関区 (44-10-3)

 DC251
昭和35年帝国車輌製で、昭和39年3月31日付で廃止された熊延鉄道DC251として新製され、同年8月27日付で江若鉄道が購入した。DD13と共に貨物列車の牽引に使用され、特に水泳シーズンはDD13が臨時の客車列車に使用されるため、貨物列車は本機の独壇場であった。元機関士の方のお話では乗り心地は最悪で、腸が捻じれる思いであったとか。廃止後は紀州鉄道に譲渡された。

 

 
  三井寺下機関区 (44-10-3)

【貨車】
貨車については手許に資料がないため画像のみとする。
ワ2(形式ワ1形1~7)

 三井寺下
(44-11-1)

ワ102(形式ワ100形100~105)

 三井寺下
(40-8-13)

ワ150(形式ワ150形150~152)

  三井寺下
(41-2-16)

ワム11(形式ワム11形11~13)

  三井寺下
(44-10-10)

 ワム13
ワム11と同じ形式に分類されているが形が異なる。

 三井寺下
(44-10-10)

ワフ450(形式ワフ450形)

 三井寺下
(40-8-13)

 三井寺下
(44-10-12)

ワフ280(形式ワフ280形)
昭和19年汽車会社製、元国鉄ワフ28054

  三井寺下
(44-10-24)

トム306(形式トム300形300~307)

 近江今津
(44-10-11)

【ディーゼル機関車その後】
3両の機関車は全機譲渡され、社紋を取り換えたのみで同一車号で活躍した。しかし、譲渡先鉄道の廃止や貨物営業の廃止により姿を消した。

DD1351
別府鉄道に譲渡され、土山線の重量貨物を引いて活躍したが、昭和59年2月1日廃止により廃車になった。


 別府港
(49-5-12)

DD1352
岡山臨港鉄道に譲渡されたが、昭和59年12月30日廃止により、水島臨海鉄道に譲渡された。同鉄道では部品取りとなり車籍には入らなかった。

  南岡山
(49-5-12)

DC251
紀州鉄道に譲渡されたが、昭和59年2月1日貨物営業廃止により、同年7月廃車になった。

 紀伊御坊
(52-1-16)

DC301
昭和29年新三菱三原車輌製で、昭和39年DC251と代替で別府鉄道に譲渡された。DD1351と再会したが、昭和53年4月廃車になった。
DC301の江若鉄道時代の画像は、湯口先輩投稿の10月29日【15831】「江若鉄道廃止以来42年」に掲載されているのでご覧いただきたい。

 別府港
(44-10-21)

近鉄名古屋線ク6561形について

1月10日【17372】「今でも気になる江若鉄道(Ⅲ)」で乙訓の長老より「オハ1960」台車についてコメントをいただき、一寸と気になったので手持ちの資料で確認した。当会には近鉄に詳しい方が多数おられるので間違い等があれば訂正をお願いしたい。

〔ク6561形〕
ク6561形は、昭和27年近畿車両で名古屋線急行用として6561~6565の5両新製された車両で、扉間転換クロスシート車であった。
昭和33年にク6561が運転台撤去の上トイレを設置、扉を両端に移設して特急用に整備されサ6531となった。
昭和34年11月19日から27日にかけて実施された改軌工事により名古屋線の標準軌化が完成したが、その際ク6562とサ6531は台車を近畿車両製K-67から同社製のKD-31Bに履替えた。
この時に放出された台車と近江今津に保管されていたホハ101の台枠を利用して江若鉄道のオハ1960が製作された。

 冨吉(
43-4-29

〔サ6531形〕
ク6561がサ6531に改造された経緯は、昭和28年に特急用としてモ6421形とク6571形が各5両ずつ新製、昭和30年に増結用としてモ6426が増備され、その相棒として昭和33年にク6561を改造してサ6531が作られた。
昭和35年新ビスタカーの増備によりモ6421形、ク6571形と共に扉を増設して一般車に格下げ改造が実施され、特急用であった期間は僅か2年であった。
長老に於かれましては、その貴重な画像の公開を是非お願いしたい。

 冨吉(
43-4-29

〔その他の車両〕
近鉄に詳しい方を差し置いて、同時期に撮影した名古屋線車両の画像を何枚か貼り付けた。

モ6304(モ6301形)
名古屋線名古屋~桑名間の前身関西急行電鉄モハ1形として昭和13年に10両新製。昭和16年の改番でモ6301形6301~6310となった。扉間転換クロスシートを装備し、戦後特急復活時には特急にも使用されたが、昭和31年ロングシート化された。

 白塚(
43-2-13

モ6316(モ6311形)
6311~6315は昭和17年、6316~6320は19年に新製され、前車は扉間転換クロス、後車はロングシートであったが、昭和31年に扉間転換クロスに改造された

 白塚(
43-2-13

モ6334(モ6331形)
戦後の昭和23年、6331~6340の10両新製された。扉間固定クロスシートであった。

 白塚(
43-9-28

モ6338(モ6331形)
昭和37年、車体を20mに延長して中央に両開きの中扉を設置した。

 白塚(
43-9-28

モ6267(モ6261形)
昭和22年、戦災車モニ6251、6255の改造名義でモ6261、6262と新製車としてク6321~6325の7両作られた。ク6321~6325は昭和33年に電装され、モ6263~6267となった。

 白塚(43-9-28

 モ6421(モ6421形)
昭和28年特急専用車としてモ6421~6425、ク6571~6575の10両、昭和30年にモ6426が新製された。10100系新ビスタカー、10400系エースカーの増備により中扉を設置して一般車に格下げられた。画像のモ6421はク6571と共に養老線から大井川鉄道に譲渡されたが、現在は休車となり千頭に留置されており再起の見込みは薄い。

 白塚(
43-2-13

モ6431(モ6431形)
昭和33年大阪線の旧ビスタカー10000系と同時期に新製された特急専用車で、モ6431、6432、ク6531、6532の4両作られた。10000系がWN駆動であったのに対し吊掛式であった。昭和40年早くも中扉を設置して一般車に改造された。

 白塚(
43-2-13
ヘッドライト2灯化後

 白塚(
43-9-28
特急時代のク6581
内部、八王子線撮影時の「ついで撮影」。他の車両も真面目に撮影しておくべきだったと悔やまれる。

 四日市(
40-5-23

モ6447+ク6547(モ6441形+ク6541形)
昭和33年、元伊勢電気鉄道(以下伊勢電と略す)モニ6231形を解除して大阪線モ1460形と同形の車体を新製した。10編成作られた。検車区では6441系を「デラ」、新性能の1601系を「ラビ」と呼んでいたが、「デラ」は「デラックス」、「ラビ」は「ラビット」の略と思われる

 四日市(40-5-23

モニ6226(モニ6221形)
昭和4年伊勢電デハ二221形として6両新製。昭和7年「デ」を「モ」に変更、昭和16年3月15日関西急行成立時にモニ6221形6221~6226となった。昭和34年の名古屋線改軌時より養老線への転属が始まり、最終的には全車養老線で使用された。モニ6226は窓改造が実施され下段固定上段下降となった。

 白塚(
43-4-29

ク6461(ク6461形)
昭和4年伊勢電ハ461形として3両新製、直ぐにクハ461形に変更、昭和16年の改番でク6461形となった。窓上に半月形の飾りがあったが後に撤去された。昭和42年に運転台を撤去してサ6461形となった。

 四日市(
40-5-23

サ6451(サ6451形)
昭和3年伊勢電ハ451形付随車として3両新製、翌年運転台を取りつけてク451形、昭和16年の改番でク6451形、昭和42年運転台撤去でサ6451形となった。

 冨吉(
43-4-29

サ6471(サ6471形)
昭和5年伊勢電が桑名~大神宮前間全通時にクハ471形として3両新製、昭和16年の改番でク6471形となった。昭和22年6月有料特急運転開始時に特急用となったが、昭和36年一般車に格下げとなった。昭和39年に運転台が撤去されサ6471形となった。

 白塚(
43-9-28

ク二6481(クニ6481形)
昭和5年伊勢電が桑名~大神宮前間全通時にデハ二231形として12両新製、昭和16年の改番でモニ6231形となった。電装品をモ6441形に流用、南大阪線の「かもしか号」用に改造、伊賀線、養老線に転属で、最終的に名古屋線にクニ6481~6484の4両が残った。

 白塚(
43-4-29

ク6503(ク6501形)
昭和4年、吉野鉄道の301形として14両新製、称号はサハであるが実体はクハであった。関西急行鉄道開業時に名古屋線に転属した。昭和16年の改番でサハ301~310はク6501形6501~6510、サハ311~314はク5511~5514を経てク6511~6514となり、後日古巣の南大阪、吉野線に転属した。
ク6503は事故復旧時に車体更新が実施され、画像のスタイルになった。

 白塚(
43-2-13

モ6253(モ6251形)
昭和5年、参宮急行デニ2000形として8両新製、昭和11年に狭軌化され名古屋線に転属、昭和16年の改番でモニ6251~6258となった。戦災で6251と6255を焼失(後にモ6261、6262として復旧)、車体更新で荷物室を廃止してモ6251形となった。荷物室扉を客室扉に変更したので変則3扉車になった。

 冨吉(
43-4-29

モ6257(モ6251形)
ヘッドライト未改造車。名古屋線の張上げ屋根の車両はヘッドライトの2灯化が行われ、優美なスタイルが崩れてしまった。

 冨吉(
43-4-29

モ2217+モ2243
名古屋線広軌化後、大阪線の2200形が入線するようになった。2200形と2227形の豪華な2両編成であるが、2217は昭和5年製で2扉クロスシートは3扉ロングシートに改造されている。

 白塚(
43-9-28

モ2243(モ2227形)
2200形(新)とも呼ばれる車両で昭和14年と16年に20両新製された。戦後も特に大きな改造は行われず、最後まで扉間転換クロスシートであった。画像のモ2243は片運化時にヘッドライトを増設している。

 白塚(
43-9-28

ク3115(ク3110形)
昭和16年、モ2227形の制御車としてク3110~3114の5両新製された。昭和38年から40年にかけて中央に両開き扉を増設した。

 四日市(
40-5-23

デ21(形式デ21)
昭和4年、元伊勢電521号機として日本車輌で新製、電装品は東洋電機製である。名古屋線改軌時に本機も改軌された。この時改軌されたのはデ2(昭和2年川崎造船製)、デ21、デ32(昭和23年三菱重工製)の3両で、デ2は塩浜工場の入替、デ21とデ32は保線工事に使用された。

 白塚(
43-2-13

トムフ7152

 白塚(
43-2-13

 

 

本邦初のアルミカー

「新年第1回は山陽電鉄のアルミカー」の湯口先輩のコメントを拝読して胸が透く思いであった。と言うのも「アルミボディ電車の最初は山陽電鉄」の記事に対し、いつも「日本初のアルミボディ電車は越後交通のモハ210でっせ」と心の中で叫んでいたからである。
という訳でモハ210と電装解除後のクハ112の画像をご覧いただきたい。

 長岡駅/43-9-30

 
 下長岡/48-4-29

越後交通栃尾線には特徴ある車両が多数在籍していたが、その中で両端デッキ付のモハ209を紹介する。昭和27年自社工場製でモーターは平行カルダンの55.95kW×2と吊掛式42kW×2の双方を持つという変わった機構で、ラッシュ時には客車を4~5両引き、正に機関車兼用の電車であった。

 長岡駅/4
7-4-30

銚子電鉄の近況


君が浜~海鹿島間を走行するデハ1002

年末の12月29日、銚子電鉄を訪れたので報告したい。
現在の在籍車両は、デハ801(元伊予鉄道モハ106)、デハ1001、デハ1002(元営団地下鉄2040、2046)、デハ2001+クハ2501、デハ2002+クハ2502(元伊予鉄道モハ822+クハ852←京王電鉄デハ2070+サハ2575、モハ823+クハ853←デハ2069+サハ2576)の7両の電車とデキ3、ユ101である。
デハ801は一昨年9月23日にデハ701と一緒に「さよなら運転」を行ったが、廃車にはならずに車籍が残り客扱いはしないがイベント時に動いている。ユ101は長らく外川駅に留置されていたが現在は笠上黒生駅の側線に留置されており、再起の見込みは極めて薄い。

当日は、デハ1002とデハ2002+クハ2502が稼働していたが、年末のためか観光客は少なく、単行で丁度良い程度の乗客数であった。
デハ1002は、丸の内線方南町支線時代の塗装に変更され、11月26日から運用に就いており、車号に因み1002部限定で記念乗車券が販売されている。デハ1002の前身は銀座線の2000形の2040であるが昭和43年5月に方南町支線用として丸の内線に転属した。もう1両のデハ1001は元2000形2046でこちらは最後まで銀座線の所属であった。

平成22年1月23日に「さよなら運転」を行ったデハ702はデハ701と共に笠上黒生駅の側線に留置されていたが、11月8日の夜「ポッポの丘」(10月9日【15231】「房総半島横断の旅」参照)に向けて搬出された。「ポッポの丘」では再塗装等整備の上12月16日から一般公開されおり、近々見に行きたいと思っている。

外川駅の側線に留置されているデハ801。予備車として残されており、再度勇姿が見られるかもしれない。

丸ノ内線方南町支線時代の塗装に塗り替えられた。/笠上黒生

塗装変更のポスター

記念乗車券発売のポスター

笠上黒生駅に進入するデハ2002+クハ2502

デハ2002



 デハ2002の車内

 クハ2502の車内



 デハ2001+クハ2501

 デハ1001

 笠上黒生駅の側線で放置状態のユ101


本社、車庫等銚子電鉄の中枢機関がある仲ノ町駅


唯一の交換駅 笠上黒生駅

 【耳寄り情報】
JR東日本千葉支社では1月14日から3月31日まで「パワフル×スマイル千葉フリーパス」を発売している。通用期間は1月14日から3月11日までの土休日、3月17日から31日までの毎日で、千葉県内のJR、銚子電鉄、小湊鉄道、いすみ鉄道の全線が乗り放題で1800円である。但し発売箇所が千葉県内JRの有人駅に限られており、都内からの場合は松戸、市川、南流山のいずれかの駅で途中下車して購入する必要がある。松戸~銚子間の片道運賃は1890円、松戸~大原間は同1590円であり、上記私鉄を訪れる場合はおススメある。また「青春18」と異なり特急券を買えば特急にも乗車可能である。

新年第一回は山陽電鉄アルミカー

関三平画伯の「昭和の電車」シリーズも新年再開です。

山陽2000系だったか分かりませんが、扇形の模様の入った車体の電車を見たことがありました。tsurukame先輩、湯口先輩、ご解説お願いします。場所柄、前歯堅造氏あたりが適任なのだがあいにく彼は国鉄のスハ43にしか興味がなく、かつて「急行つるぎを愛する会」を一人で創ったぐらいだから山陽電車には興味はなさそうである。

連接車3

今回は福井鉄道である。福井鉄道は福井駅前の路面軌道しか見ておらず高速で走る姿がなく申し訳ない。

 

      1967.9.14 市役所前 急行福井行きモハ202-2+202-1

 当時は地方私鉄の雄のような存在で連接車の紹介では必ず顔を出していた。 1960年より日本車両で3編成つくられ現在も現役と聞く。後に両端台車はJR113系のものに交換されたり、冷房化により概観に変化が現れたが、この写真は新製時に近いものである。この車両に乗ったことがないので大きなことは言えないが、WN駆動、固定クロスシートの意欲的な急行用車両で綺麗な湘南スタイルの電車と私は思う。尚、この時はゼミ旅行で立山に行った帰りに福井に立ち寄ったもので、路面電車の撮影はその後も駅前で済ませて数だけ稼ぐというぐうたら撮影が多い。

 

      2011.9.6 市役所前 越前武生行き 772 

1987年に日本車両で4編成つくられ2005年まで名鉄岐阜市内線揖斐線直通に使われた車両。側窓は当初からの冷房車のため、固定式である。それにしても見事なカラーリングの車両である。ところで「大人の休日クラブ」を利用すると東京から出てきて福井で2時間ほど撮影してその日のうちに帰ることができる。それも安い料金で。時間的に大変便利で有難いがはるばる来た感じは失せる。

 

                 2011.9.6 公園口付近 越前武生行き「日通号?」 770

撮影中京浜東北色の車両が来た。同じく名鉄から譲渡されてきた770であるが、ごらんの通り、日通の広告電車。赤字経営では背に腹は替えられず広告も重要な収入源と思うが、何となくその会社の魂を売ったようで寂しい。最近は大手私鉄でもどんどん広告電車が走っており撮る方は興醒めである。

 

 

    2011.9.6 本田四ツ辻 福井駅前経由田原町行き886

 路面を歩いていて本田四ツ辻という停留所に来た。どうやらこの先が専用軌道といおうか高速鉄道線に入るようで写真はまさに今路面に入るところである。車両はこれも名鉄美濃町線で使われていたもので1980年日本車両で5編成つくられた。デジ青[17097]連接車2で紹介した名鉄時代のものと比べると福井カラーは実に爽やかである。

 この他に福井鉄道にはモハ160形という古い車両を2両組み合わせてつくった連接車が存在し、161-2が福井市下馬公園に、161-1が越前市旧南越線村岡駅跡に保存されていると聞く。現役時代を含めカメラに収められた方もおられよう。請発表。福井といえば阪急のK氏の故郷。最近、京都での懇親会で元気なお顔をデジ青で拝見させていただいたが、見てるかな。見てないやろな。

 

 

福島電気鉄道軌道線


朝のラッシュ時福島駅前

電車嫌いとされる老人だが、電車でもある種のジャンルは大好きとは、かねて何度か記した。曰く花巻電鉄軌道線、秋保電気鉄道、駿豆鉄道三島軌道線、静岡鉄道秋葉線、松本電気鉄道浅間線等々。それに(正直言えば)京阪電鉄京津線もそうか。今回は福島電気鉄道軌道線を。撮影は1961年2月28日、ほんの1時間余に過ぎない。

この電車は、元来信達軌道と称す2フィート6インチ軌間の蒸気動力軌道で、開業は1908年4月14日だが、すぐ大日本軌道に併合され、その福島支社に。1918年1月8日再び信達軌道として譲渡=地元資本で独立。ところが1922年5月蒸気機関車の排出火の粉で沿線鎌田村80棟焼失の大火災を惹起し、憤激した住民が妨害し18日間運行がストップするという、恐らく他例の無い大事件になった。

以後赤字続きで、1924年には資本金100万円に対し424,742円の繰越損金を抱えるに到る。その窮状からの脱出は、佐伯宗義が専務に就任し、半額減資の上増資、それに多額の借入金とで不採算区間をばっさり切り捨て、1067mm改軌と電車化を果たしたからである。地元は蚕糸で豊かであったとはいえ、これだけの大鉈を振るえる人物はわざわざ富山県から招聘せねばならなかった。

ついでにいえば改軌工事は陸軍鉄道聯隊の演習として実施してもらったのだが、道路そのものの拡幅には到らず、電化はしても車体巾は軽便時代の5フィート6インチ(1,676mm)のままである。道路拡幅の場合その土地は軌道事業者が自前で購入し、竣功と同時に無償で道路管理者の所有に帰すのが軌道法の決まりである。

佐伯宗義はその後故郷の富山県下の鉄道を併合し、富山地方鉄道を作り上げる。敗戦後は国会議員の傍ら富山-金沢間を結ぶ加越能鉄道の実現に邁進し、土地もかなり取得した由だが、国鉄北陸本線の電化で挫折した。輸送機工業1953年製加越能鉄道加越線のディーゼルカー、キハ15001の台車がFS13で、いつでも電車に改造できる設計だったのも、その名残であった。


真冬なのに冷しラーメン 冷麦の看板とはこれ如何に

電車が離合している間路上交通はほぼストップする

それはさておき、この電気軌道は勿論単線で、要所に離合設備があるのだが、朝夕のラッシュには5両の電車がゾロゾロと続行運転をするのが有名だった。どっちからも5両づつが離合するのはかなりの奇観壮観ではあった。例えば茨城交通水浜線でも似た風景ではあったが、確か3両続行が関の山で、5両続行というのはここだけではないか。

小生は当時この電車そのものにはさしたる感傷も興味もなかったが、ただただ5両続行なるののを見たかっただけである。というのも、かの「東北の電車」を「青信号」に連載した若かりし乙訓老人の縄張りと固く信じていたからでもある。だから撮影もものの1時間余、それでも福島駅前から2.9kmの祓川までは歩いて往復した。今から思えば片道ぐらい乗車したらよかったのだが、貧乏ドーヤン生にはその10円が惜しかったのである。


左の建物にある「トーハツ」の看板はバイクメーカーの東京発動機 大阪発動機(ダイハツ)はまだ健在だが

バスが道路の残り巾でやっとこさ通り抜けている


この道路巾だから、電車がおれば自動車は片側しか通行できない

軌道線の廃止は1967年9月16日(聖光学園前-湯野町)、1971年4月12日(軌道線全部)であった。詳しくは乙訓老人が黙っておれまいて。ご老人よ!出番でっせ!

今でも気になる江若鉄道(Ⅲ)


気動車のトレーラーとして使用中のオハ1957/浜大津 (40-3-18)

今回は廃止時に在籍していた客車を話題にした。
オハ1957~1960、オハ2763~2765の7両の客車が在籍した。昭和40年頃まで日常的に朝夕の快速列車に、オハ1957~1960は気動車のトレーラーとしても使用されていたが、走行部分の老朽化や総括編成の登場等により、快速列車での使用を取り止め、速度制限(65㎞/H)を設けて夏季の水泳シーズンの臨時列車にのみ使用されるようになった。水泳臨時列車専用のように記されている書物やネットが散見されるが、大きな間違いであり注意が必要である。
【オハ1957~1960】
オハ1957~1959は、明治35年関西鉄道四日市工場製の木製客車ホハ102~104を大鉄車両で車体を新製して鋼体化した車両である。オハ1960は昭和36年大鉄車両で新製した車両であるが、昭和30年廃車になったホハ101の台枠と近鉄名古屋線の改軌で不要となった台車を再利用している。
車体は1両毎に細部が異なる。
〔オハ1957〕(形式オハ1900)
昭和32年(1957年)ホハ104を鋼体化したもので、座席はロングシートである

三井寺下 (41-11-27)
〔オハ1958〕(形式オハ1910)
昭和33年(1958年)ホハ103を鋼体化したもので、近江今津側が正面2枚窓の非貫通で車掌室が設置されている。座席は扉間クロスシートである。

三井寺下 (41-11-27)

貫通側/三井寺下 (43-5-18)

堅田 (44-10-4)
〔オハ1959〕(形式オハ1910)
昭和35年(1960年)ホハ102を鋼体化したもので、浜大津側が正面2枚窓の非貫通で車掌室が設置されている。座席はオハ1958同様扉間クロスシートである。

堅田 (44-10-4)
〔オハ1960〕(形式オハ1960)
前述の通り、昭和36年大鉄車両で新製車。ホハ101の台枠と近鉄名古屋線ク6561形の台車K-67を再利用している。座席は扉間クロスシートである。


堅田 (44-10-4)

【オハ2763~65】
元国鉄オハ27(オロ31の格下車)で昭和39年に譲り受けた。車歴は下記の通りである。
オロ31110(昭和3年日本車輌)→オハ27110→江若オハ2763
オロ3192(昭和3年日本車輌)→オハ2792→江若オハ2764
オロ31117(昭和3年川崎車輌)→オハ27117→江若オハ2765
いずれもトイレ、洗面所を撤去して63と65に車掌室を設置している。
〔オハ2763〕

快速列車に使用中/浜大津 (41-12-8)
〔オハ2764〕

快速列車に使用中/浜大津 (41-11-29)

高島町 (44-10-4)
〔オハ2765〕

高島町 (44-10-4)

【列車の画像】
〔快速列車〕
昭和41年頃迄DD13牽引の快速列車が1往復運転されていた。当時の時刻表が手許になく、昭和44年6月時点の時刻表では、上りは近江今津発6時40分で途中新旭、安曇川、高島町、北小松、比良、蓬莱、和邇、堅田、雄琴温泉、滋賀、三井寺下に停車して浜大津着は8時5分、下りは浜大津17時55分、近江今津着19時15分で、所要時間は普通列車より約10分早く、通勤快速とでも云うべき列車であった。
5両編成で浜大津寄りからオハ1900番台3両+オハ27形2両が基本であったようであるが、一度だけオハ1900番台2両+オハ27形3両を見たことがある。

快速列車は浜大津駅到着以外撮影していないが、無いよりマシと思っていただきたい。
DD1352+オハ1959+オハ1960+オハ1958+オハ2764+オハ2763/浜大津 (41-12-8)

DD1352/浜大津 (41-12-8)
〔気動車のトレーラー〕

キハ51+オハ1960+キニ4 / 浜大津 (40-3-11)

キハ19+オハ1957+キハ12 / 浜大津 (40-3-18)
いずれも近江今津からDDT編成で到着後、三井寺下に回送のため先頭のDを反対側に連結したところ。
〔水泳臨〕

DD1352の引く近江舞子行回送列車/滋賀~叡山 (44-8-16)

水泳帰りの客で満員の浜大津行/滋賀~叡山 (44-8-16)


DD1351の引く浜大津行/滋賀~叡山 (44-8-16)

伊香保の電車(Ⅱ)


正門の扉が開いていると電車が見える。

 昨年の9月30日/乙訓の長老【15051】「老人伊香保温泉に遊ぶ」、10月4日/西村雅幸氏【15086】「伊香保の電車」等で、渋川市内に保存されている「伊香保の電車」が話題に上がったが、年末の12月26日(月曜日)仕事で高崎に行った時、早めに出かけて見学した。
場所は渋川駅から徒歩15分位の渋川~高崎間のバス道路沿いにあり、「平形眼科」の大きな看板があり直ぐに判った。立派な門を入り受付けの方に来意を告げると「どうぞ」と云うことで車内を含めて見学することができた。

東武伊香保線の廃止は昭和31年12月28日で、廃止後半世紀以上経過しているにもかかわらず非常に美しい状態で保存されている。屋根のない所でこれだけの状態を保つため日常的にメンテナンスがしっかり行われており、保存されておられる方の並々ならぬ熱意を感じた。

 車体は戦後の更新修繕で丸屋根になっているが外吊りの扉はそのままである。

 車内

 運転台付近

 
 行先板

平形眼科の全景

もう1両の保存車
渋川駅から徒歩5分位の公園にD51724が保存されている。こちらも保存状態は良好である。

年初めの外回り鉄はじめ

KAWANAKAです。

七草粥を食べる時期が終わったので、あけましておめでとうではないですが、仕事を利用した外回り鉄の初めです。会社恒例の豊川稲荷詣でが毎年年初めの週末にあり、小生は2回目の参加です。幹部が夜にホテルアソシアで新年会をして、あくる日ゴルフをするというものです。嫌味を聞かされますがタダ酒飲めるのとタダゴルフ(小生は参加しない) ができて休日勤務になりますからそれなりの価値はあります。

今年は豊川からどのようにして帰宅しようかと思いましたが、準特急先輩の記事を見て、中津川経由(経由といえるかどうか)で帰ることとし、中津川まで行くなら長電に立ち寄ろうと思って立寄り外回り鉄をしました。豊川までの新幹線が老年切符に化けて追加費用なしです。

中津川: 準特急先輩に貨物の時刻をお聞きしてお稲荷さんのパワーでイザ出発。ところが中央線は休日ウヤが多く、中津川で丁度時間を持て余していそうな赤線帽子のエライさんに、時刻を聞き午後から外回り鉄をはじめました。聞けば1325上り、1525下り、1630下り、同時刻1630に遅れている上りが来るかも知れない(中津川通過時刻)とのこと。予定していた釜戸は諦めてスーツにコート、かばん、革靴で落合川から少し中津川寄りに戻って撮影することにしました。かつて若かりし時に訪れたときとは様変わりであるが、それでもすかたんを幾つかしましたが外回り鉄としての使命を少し達成しました。

御なじみの場所での見飽きた写真なので、ちょっと違った写真を掲載。股覗き状態での山が新雪を被って綺麗です。

長野: 夜遅く、帰宅途中の長野で途中下車。お宿は少しロケには高いかと思った朝付き5000円のホテルの投宿。手違いから部屋がなく、スイートで勘弁? してくれと言う。応接セット、広いバス、クローゼットがあり、こんなことならもっと早くチェックインすれば良かった。

翌日は、長電2000系で、HPによれば206レ(須坂0801→長野0829)、203レ(長野0847→須坂0913)とあります。バイキング朝食を大急ぎで流し込み(沢山食べておくと昼食のコストと時間が省略できる)、昨日と同じくスーツにネクタイ(寒いから)、革靴、コート、かばんで現場へ。

かなりの人出であったが、3月に本当の最終であるので、意欲のある人は廃線になる屋代線の撮影を兼ねて行かれてはどうであろう。

写真は朝陽を出たとことの203レの1枚であるが、英語のヘッドマーク。後尾は当地で有名なトンガラシ屋の八幡屋磯五郎の広告のヘッドマークで同じく英語版、トンガラシの絵入りである(実際に行って見てください)。何でも売ってしまいそうな長電であるがようやる。

(こんなこととはイザ知らず、走り去る電車の逆光写真を超トリミング。ぼやぼや写真で恐縮)

外回り鉄はここまで、鹿渡、屋代線・・・と興味はあるが、後の祟りを恐れて老年切符で帰ることにした。カバンには持って行っても良いというホテルのパンがわんさか。かじりながらのエコノミー帰路となりました。

ところが・・・、篠ノ井線を通過中、姨捨に下りたくなって下車。知らんうちに姨捨公園というのがあって安易に写真が撮れるという。あやかって次の電車までの時間を使って1枚。あまりに安易。あまりに来る車両が詰まらんし、寒い。帰ることに。

なお、下の写真は2人は何の関係もなく、前後の写真から判断すると偶々そういう場面になっただけ。小生は電車が来ても鉄でない人は、みんな反対の景色の方を見ている、というのを撮ろうとしただけであります。

人を写したのでついでに1枚。

長野駅での見送りの風景。子沢山になった奥さんを置いての別れ風景。子供はお父さん?がどこに乗っているのかわからなくて単に手を振っている。奥さんの里が長野で、旦那が名古屋かどこかに行くのかな?、しかし明日はまだ休み。てな、ことを考えて、あんまり高給ではなさそうな奥さんの風貌を見て色々想像した。苦労かけるねえ・・・。がんばろう。いやー、鉄道は良いねえ。

・・・で、脱線しましたが、外回り鉄初めはこれにて終了。久し振りの中央西線であるが考えてみれば、JJR東海の合理化も流石であるが金は持っているんでしょうね。富の再配分を何とかならんものかと。不当に高い(と小生は考えている)新幹線でシコタマ儲け、殆ど国鉄の車両を駆逐し終わって(次はどうしようというのでしょうか)、只管、鉄を無味乾燥なものにしている東海。

年明け、色々考えさせられるよそ道帰宅2日の外回り鉄でありました。

謹賀新年/竜ヶ崎線



年の初めは辰(=竜)年に因んで、昨年開業111周年を迎えた関東鉄道竜ヶ崎線の近況等をお伝えしたい。
竜ヶ崎線は常磐線佐貫駅と竜ヶ崎市の中心部を結ぶ僅か4.5㎞の路線で、ほぼ中間地点に入地駅(棒線のため交換不能)がある。全線の所要時間は7分で朝夕のラッシュ時間帯は約20分、それ以外は約30分間隔で運行されている。一列車の往復運行のため、20分間隔の時は両端駅での折返し時間が3分しかなく極めて慌ただしい。
配置車両はキハ532、2001、2002の3両で、ラッシュ時2連、それ以外の時間帯は単行でワンマン運転を実施している。
龍ヶ崎市内に大規模団地や大学が出来たため人口は増加しているが、竜ヶ崎駅から離れているため乗客の増加には繋がっていない。竜ヶ崎~取手間にはバスが運行されており、常磐線の本数が少なかった時代は、バスで取手に出て本数が多く確実に座れる国電に乗り換える人が多かった。常磐線交流区間の運転本数が増加して佐貫駅に停車する電車が増えると竜ヶ崎線の乗客も増加し、バスは1~2時間に1本程度にまで減少している。

歴史は古く明治33年8月14日に762㎜の龍崎鉄道として開業し、大正4年7月に1067㎜に改軌、戦時中の昭和19年5月13日鹿島参宮鉄道に移譲、昭和40年7月1日鹿島参宮鉄道と常総筑波鉄道が合併して関東鉄道となり同社竜ヶ崎線となった。
昭和46年8月1日よりワンマン運転を開始したが、普通鉄道としては日本初と言われている。

竜ヶ崎駅の看板 
(H23-11-23)


竜ヶ崎駅(H23-11-23)

〔現有車両〕
キハ532(キハ532形)
旧国鉄キハ20の台車、機関、主要機器を流用して昭和56年新潟鐵工所製で新製した。キハ2000形が登場するまでは主力として活躍した。現在は予備車的な存在となったが原則として第1、第3土曜日と第2、第4日曜日の9時~14時頃まで定期運用に入っている。キハ2001と2002のいずれかが検査に入ると朝夕ラッシュ時にキハ2000形と2連で走る。

竜ヶ崎駅進入
(H9-5-5)

竜ヶ崎駅進入/2両目はキハ2002 
(H23-11-23)

キハ532+キハ2002/竜ヶ崎~入地 
(H23-11-23)

キハ532+キハ2002/佐貫~入地 
(H23-11-23)
竜ヶ崎に向かって左側/後ろのキハ2002には乗務員室扉が無い。

車内は新京成の800形と似ている。蛍光灯は30
Wの短いものが間隔を空けて設置されている。

 キハ2001、2002(形式キハ2000形)
平成9年新潟鐵工所製の新製車である。竜ヶ崎線はホームが竜ヶ崎に向かってすべて右側のため、竜ヶ崎寄りの運転台が右側にあり、左側には常務員用扉がない。朝夕2連、昼間単行で主力として活躍しているが、前述のようにいずれかが検査に入るとキハ532との混色編成が登場する。

キハ2001/竜ヶ崎 
(H23-11-23)

 
キハ2002+キハ532/竜ヶ崎~入地 
(H23-11-23)


〔過去の車両〕
自分で撮影した車両のみ紹介する。
4号機関車
大正14年川崎造船所製のC形機関車で、現在は龍ヶ崎市歴史民俗資料館に保存、展示されている。

竜ヶ崎 
(S50-1-3)

DC201
常総筑波鉄道時代に昭和28年新三菱重工三原製作所製のL形機である。常総線で貨物列車を牽引していたが、昭和43年竜ヶ崎線に転属した。47年貨物列車廃止後は保線工事列車に使用されていたが49年に廃車となった。

佐貫 
(S45-3-15)

キハ305
昭和10年日本車輌で常総鉄道キホハ61として新製、窓が小さく幕板の広いスタイルはお世辞にもスマートとは言えない。昭和30年に筑波線に転属、31年にキハ305に改番、昭和40年に竜ヶ崎線に転属した。
湯口先輩の「内燃動車発達史/上巻」のP72に新製時の写真が掲載されているのでご覧頂きたい。



竜ヶ崎 
(S41-3-12)

キハ40202
昭和6年日本車輌製で、牟岐線の中田~羽ノ浦間の前身阿南鉄道キハ201として新製、昭和11年7月1日鉄道省に買収されてキハ40510に、更に改番でキハ40307となった。昭和23年鹿島参宮鉄道に売却されてホハフ402となり鉾田線で使用、昭和27年気動車に復活して竜ヶ崎線に転属した。
「内燃動車発達史/上巻」のP279に湯口先輩が昭和30年に竜ヶ崎駅で撮影された写真が掲載されているのでご覧頂きたい。


竜ヶ崎 (S45-3-15)

キハ41302
昭和9年川崎車輌で鉄道省キハ41070として新製、昭和27年エンジンを日野DA55に換装してキハ41599に、昭和30年DMF13に換装してキハ41355に、昭和32年4月の称号改正でキハ0436となった。昭和35年4月25日付け武蔵五日市支区で廃車になり、同年12月に鹿島参宮鉄道が譲受け、竜ヶ崎線に配置された。
昭和46年8月のワンマン化の際も改造され昭和57年1月まで在籍した。

竜ヶ崎 
(S41-3-12)

竜ヶ崎駅進入 
(S41-3-12)

竜ヶ崎 
(S50-1-3)

キサハ41801
昭和8年日本車輌製で鉄道省キハ41070として新製、昭和27年エンジンを日野DA55に換装してキハ41502に、昭和29年DMF13に換装してキハ41322に、昭和32年4月の称号改正でキハ0423となった。昭和37年3月31日付勝浦機関区で廃車になり、昭和39年に鹿島参宮鉄道が譲受け、エンジンを撤去の上竜ヶ崎線に配置された。昭和45年に常総線に、その後筑波線に転属して昭和54年3月に廃車になった。

竜ヶ崎 
(S41-3-12)/塗装は黄色一色であった。

筑波線転属後/真鍋
(S49-8-26)

キハ521、キハ522
元江若鉄道キハ18→キハ5121→キハ521、キハ19→キハ5122→キハ522の車体乗せ替え後。車歴等は11月25日付【16203】「今でも気になる江若鉄道」をご覧いただきたい。

キハ521/竜ヶ崎 
(S63-5-18)

キハ522/竜ヶ崎 
(S63-5-18)

キハ522/竜ヶ崎 
(H9-5-5)
この時は前面に貫通幌が付いており3連運用があったのかも知れない。

キハ531
元江若鉄道キニ6→キハ5123→キハ531の車体乗せ替え後。

竜ヶ崎 
(S63-5-18)

キハ531の銘板

車体乗せ替え後も「昭和6年川崎車輌」の銘板が残っていた。

〔「竜ヶ崎」と「龍ヶ崎」〕
「竜」と「龍」の使い分けを考察すると極めて曖昧であることが判る。市名は「龍ヶ崎市」で「龍」を使用しており、市立の小学校は「龍ヶ崎小学校」と「龍」を使用しているが、県立高校は「竜ヶ崎第一高校」と「竜」を使用している。私立の幼稚園、保育園は「龍」と「竜」が入り乱れている。警察は「竜ヶ崎警察署」JAは「JA竜ヶ崎市」、都市再生機構(元日本住宅公団)は「竜ヶ崎ニュータウン」で、その中に「龍ケ岡」と「北竜台」と2つの地域があり、「龍」と「竜」が入り乱れている。

更に最も不可解なのが竜ケ崎駅の看板で、「崎」をよく見ると「﨑」を使用している。古い切符を見ると「龍ヶ崎」となっており、いつのまにか「龍」の字が複雑なため簡単な「竜」にしたというのが真相ではないだろうか。駅の看板の「﨑」を不思議に思う人はいないのだろうか。

〔竜ヶ崎ニュータウンのバス〕
竜ケ崎ニュータウン行のバスは佐貫駅から出ており、「竜」のイラストのバスが使用されている。但し専用車ではないため標準色のバスが使用されたり、「竜」のバスが他の路線に使用されることもある。
元々関東鉄道と茨城観光自動車の共同運行であったが、茨城観光自動車が平成13年6月に廃業したため関東鉄道の単独運行になった。関東鉄道は「いすゞ」茨城観光は「日野」を使用していたが塗装は共通で、茨城観光廃業後は関東鉄道が車両を引き取った。

土浦22か1711/関東鉄道赤竜/7
式U-LV324K(
H8-1-15) 佐貫

土浦22か1710/関東鉄道青竜/7年式U-LV324K
(H8-1 -15) 佐貫

土浦22か1715/茨城観光自動車赤竜
/7年式U-HT2MMAA(H9-5-5)正直車庫

土浦22か1714/茨城観光自動車青竜
/7年式U-HT2MMAA(H8-1-15) 佐貫