福島電気鉄道軌道線


朝のラッシュ時福島駅前

電車嫌いとされる老人だが、電車でもある種のジャンルは大好きとは、かねて何度か記した。曰く花巻電鉄軌道線、秋保電気鉄道、駿豆鉄道三島軌道線、静岡鉄道秋葉線、松本電気鉄道浅間線等々。それに(正直言えば)京阪電鉄京津線もそうか。今回は福島電気鉄道軌道線を。撮影は1961年2月28日、ほんの1時間余に過ぎない。

この電車は、元来信達軌道と称す2フィート6インチ軌間の蒸気動力軌道で、開業は1908年4月14日だが、すぐ大日本軌道に併合され、その福島支社に。1918年1月8日再び信達軌道として譲渡=地元資本で独立。ところが1922年5月蒸気機関車の排出火の粉で沿線鎌田村80棟焼失の大火災を惹起し、憤激した住民が妨害し18日間運行がストップするという、恐らく他例の無い大事件になった。

以後赤字続きで、1924年には資本金100万円に対し424,742円の繰越損金を抱えるに到る。その窮状からの脱出は、佐伯宗義が専務に就任し、半額減資の上増資、それに多額の借入金とで不採算区間をばっさり切り捨て、1067mm改軌と電車化を果たしたからである。地元は蚕糸で豊かであったとはいえ、これだけの大鉈を振るえる人物はわざわざ富山県から招聘せねばならなかった。

ついでにいえば改軌工事は陸軍鉄道聯隊の演習として実施してもらったのだが、道路そのものの拡幅には到らず、電化はしても車体巾は軽便時代の5フィート6インチ(1,676mm)のままである。道路拡幅の場合その土地は軌道事業者が自前で購入し、竣功と同時に無償で道路管理者の所有に帰すのが軌道法の決まりである。

佐伯宗義はその後故郷の富山県下の鉄道を併合し、富山地方鉄道を作り上げる。敗戦後は国会議員の傍ら富山-金沢間を結ぶ加越能鉄道の実現に邁進し、土地もかなり取得した由だが、国鉄北陸本線の電化で挫折した。輸送機工業1953年製加越能鉄道加越線のディーゼルカー、キハ15001の台車がFS13で、いつでも電車に改造できる設計だったのも、その名残であった。


真冬なのに冷しラーメン 冷麦の看板とはこれ如何に

電車が離合している間路上交通はほぼストップする

それはさておき、この電気軌道は勿論単線で、要所に離合設備があるのだが、朝夕のラッシュには5両の電車がゾロゾロと続行運転をするのが有名だった。どっちからも5両づつが離合するのはかなりの奇観壮観ではあった。例えば茨城交通水浜線でも似た風景ではあったが、確か3両続行が関の山で、5両続行というのはここだけではないか。

小生は当時この電車そのものにはさしたる感傷も興味もなかったが、ただただ5両続行なるののを見たかっただけである。というのも、かの「東北の電車」を「青信号」に連載した若かりし乙訓老人の縄張りと固く信じていたからでもある。だから撮影もものの1時間余、それでも福島駅前から2.9kmの祓川までは歩いて往復した。今から思えば片道ぐらい乗車したらよかったのだが、貧乏ドーヤン生にはその10円が惜しかったのである。


左の建物にある「トーハツ」の看板はバイクメーカーの東京発動機 大阪発動機(ダイハツ)はまだ健在だが

バスが道路の残り巾でやっとこさ通り抜けている


この道路巾だから、電車がおれば自動車は片側しか通行できない

軌道線の廃止は1967年9月16日(聖光学園前-湯野町)、1971年4月12日(軌道線全部)であった。詳しくは乙訓老人が黙っておれまいて。ご老人よ!出番でっせ!

今でも気になる江若鉄道(Ⅲ)


気動車のトレーラーとして使用中のオハ1957/浜大津 (40-3-18)

今回は廃止時に在籍していた客車を話題にした。
オハ1957~1960、オハ2763~2765の7両の客車が在籍した。昭和40年頃まで日常的に朝夕の快速列車に、オハ1957~1960は気動車のトレーラーとしても使用されていたが、走行部分の老朽化や総括編成の登場等により、快速列車での使用を取り止め、速度制限(65㎞/H)を設けて夏季の水泳シーズンの臨時列車にのみ使用されるようになった。水泳臨時列車専用のように記されている書物やネットが散見されるが、大きな間違いであり注意が必要である。
【オハ1957~1960】
オハ1957~1959は、明治35年関西鉄道四日市工場製の木製客車ホハ102~104を大鉄車両で車体を新製して鋼体化した車両である。オハ1960は昭和36年大鉄車両で新製した車両であるが、昭和30年廃車になったホハ101の台枠と近鉄名古屋線の改軌で不要となった台車を再利用している。
車体は1両毎に細部が異なる。
〔オハ1957〕(形式オハ1900)
昭和32年(1957年)ホハ104を鋼体化したもので、座席はロングシートである

三井寺下 (41-11-27)
〔オハ1958〕(形式オハ1910)
昭和33年(1958年)ホハ103を鋼体化したもので、近江今津側が正面2枚窓の非貫通で車掌室が設置されている。座席は扉間クロスシートである。

三井寺下 (41-11-27)

貫通側/三井寺下 (43-5-18)

堅田 (44-10-4)
〔オハ1959〕(形式オハ1910)
昭和35年(1960年)ホハ102を鋼体化したもので、浜大津側が正面2枚窓の非貫通で車掌室が設置されている。座席はオハ1958同様扉間クロスシートである。

堅田 (44-10-4)
〔オハ1960〕(形式オハ1960)
前述の通り、昭和36年大鉄車両で新製車。ホハ101の台枠と近鉄名古屋線ク6561形の台車K-67を再利用している。座席は扉間クロスシートである。


堅田 (44-10-4)

【オハ2763~65】
元国鉄オハ27(オロ31の格下車)で昭和39年に譲り受けた。車歴は下記の通りである。
オロ31110(昭和3年日本車輌)→オハ27110→江若オハ2763
オロ3192(昭和3年日本車輌)→オハ2792→江若オハ2764
オロ31117(昭和3年川崎車輌)→オハ27117→江若オハ2765
いずれもトイレ、洗面所を撤去して63と65に車掌室を設置している。
〔オハ2763〕

快速列車に使用中/浜大津 (41-12-8)
〔オハ2764〕

快速列車に使用中/浜大津 (41-11-29)

高島町 (44-10-4)
〔オハ2765〕

高島町 (44-10-4)

【列車の画像】
〔快速列車〕
昭和41年頃迄DD13牽引の快速列車が1往復運転されていた。当時の時刻表が手許になく、昭和44年6月時点の時刻表では、上りは近江今津発6時40分で途中新旭、安曇川、高島町、北小松、比良、蓬莱、和邇、堅田、雄琴温泉、滋賀、三井寺下に停車して浜大津着は8時5分、下りは浜大津17時55分、近江今津着19時15分で、所要時間は普通列車より約10分早く、通勤快速とでも云うべき列車であった。
5両編成で浜大津寄りからオハ1900番台3両+オハ27形2両が基本であったようであるが、一度だけオハ1900番台2両+オハ27形3両を見たことがある。

快速列車は浜大津駅到着以外撮影していないが、無いよりマシと思っていただきたい。
DD1352+オハ1959+オハ1960+オハ1958+オハ2764+オハ2763/浜大津 (41-12-8)

DD1352/浜大津 (41-12-8)
〔気動車のトレーラー〕

キハ51+オハ1960+キニ4 / 浜大津 (40-3-11)

キハ19+オハ1957+キハ12 / 浜大津 (40-3-18)
いずれも近江今津からDDT編成で到着後、三井寺下に回送のため先頭のDを反対側に連結したところ。
〔水泳臨〕

DD1352の引く近江舞子行回送列車/滋賀~叡山 (44-8-16)

水泳帰りの客で満員の浜大津行/滋賀~叡山 (44-8-16)


DD1351の引く浜大津行/滋賀~叡山 (44-8-16)

伊香保の電車(Ⅱ)


正門の扉が開いていると電車が見える。

 昨年の9月30日/乙訓の長老【15051】「老人伊香保温泉に遊ぶ」、10月4日/西村雅幸氏【15086】「伊香保の電車」等で、渋川市内に保存されている「伊香保の電車」が話題に上がったが、年末の12月26日(月曜日)仕事で高崎に行った時、早めに出かけて見学した。
場所は渋川駅から徒歩15分位の渋川~高崎間のバス道路沿いにあり、「平形眼科」の大きな看板があり直ぐに判った。立派な門を入り受付けの方に来意を告げると「どうぞ」と云うことで車内を含めて見学することができた。

東武伊香保線の廃止は昭和31年12月28日で、廃止後半世紀以上経過しているにもかかわらず非常に美しい状態で保存されている。屋根のない所でこれだけの状態を保つため日常的にメンテナンスがしっかり行われており、保存されておられる方の並々ならぬ熱意を感じた。

 車体は戦後の更新修繕で丸屋根になっているが外吊りの扉はそのままである。

 車内

 運転台付近

 
 行先板

平形眼科の全景

もう1両の保存車
渋川駅から徒歩5分位の公園にD51724が保存されている。こちらも保存状態は良好である。

年初めの外回り鉄はじめ

KAWANAKAです。

七草粥を食べる時期が終わったので、あけましておめでとうではないですが、仕事を利用した外回り鉄の初めです。会社恒例の豊川稲荷詣でが毎年年初めの週末にあり、小生は2回目の参加です。幹部が夜にホテルアソシアで新年会をして、あくる日ゴルフをするというものです。嫌味を聞かされますがタダ酒飲めるのとタダゴルフ(小生は参加しない) ができて休日勤務になりますからそれなりの価値はあります。

今年は豊川からどのようにして帰宅しようかと思いましたが、準特急先輩の記事を見て、中津川経由(経由といえるかどうか)で帰ることとし、中津川まで行くなら長電に立ち寄ろうと思って立寄り外回り鉄をしました。豊川までの新幹線が老年切符に化けて追加費用なしです。

中津川: 準特急先輩に貨物の時刻をお聞きしてお稲荷さんのパワーでイザ出発。ところが中央線は休日ウヤが多く、中津川で丁度時間を持て余していそうな赤線帽子のエライさんに、時刻を聞き午後から外回り鉄をはじめました。聞けば1325上り、1525下り、1630下り、同時刻1630に遅れている上りが来るかも知れない(中津川通過時刻)とのこと。予定していた釜戸は諦めてスーツにコート、かばん、革靴で落合川から少し中津川寄りに戻って撮影することにしました。かつて若かりし時に訪れたときとは様変わりであるが、それでもすかたんを幾つかしましたが外回り鉄としての使命を少し達成しました。

御なじみの場所での見飽きた写真なので、ちょっと違った写真を掲載。股覗き状態での山が新雪を被って綺麗です。

長野: 夜遅く、帰宅途中の長野で途中下車。お宿は少しロケには高いかと思った朝付き5000円のホテルの投宿。手違いから部屋がなく、スイートで勘弁? してくれと言う。応接セット、広いバス、クローゼットがあり、こんなことならもっと早くチェックインすれば良かった。

翌日は、長電2000系で、HPによれば206レ(須坂0801→長野0829)、203レ(長野0847→須坂0913)とあります。バイキング朝食を大急ぎで流し込み(沢山食べておくと昼食のコストと時間が省略できる)、昨日と同じくスーツにネクタイ(寒いから)、革靴、コート、かばんで現場へ。

かなりの人出であったが、3月に本当の最終であるので、意欲のある人は廃線になる屋代線の撮影を兼ねて行かれてはどうであろう。

写真は朝陽を出たとことの203レの1枚であるが、英語のヘッドマーク。後尾は当地で有名なトンガラシ屋の八幡屋磯五郎の広告のヘッドマークで同じく英語版、トンガラシの絵入りである(実際に行って見てください)。何でも売ってしまいそうな長電であるがようやる。

(こんなこととはイザ知らず、走り去る電車の逆光写真を超トリミング。ぼやぼや写真で恐縮)

外回り鉄はここまで、鹿渡、屋代線・・・と興味はあるが、後の祟りを恐れて老年切符で帰ることにした。カバンには持って行っても良いというホテルのパンがわんさか。かじりながらのエコノミー帰路となりました。

ところが・・・、篠ノ井線を通過中、姨捨に下りたくなって下車。知らんうちに姨捨公園というのがあって安易に写真が撮れるという。あやかって次の電車までの時間を使って1枚。あまりに安易。あまりに来る車両が詰まらんし、寒い。帰ることに。

なお、下の写真は2人は何の関係もなく、前後の写真から判断すると偶々そういう場面になっただけ。小生は電車が来ても鉄でない人は、みんな反対の景色の方を見ている、というのを撮ろうとしただけであります。

人を写したのでついでに1枚。

長野駅での見送りの風景。子沢山になった奥さんを置いての別れ風景。子供はお父さん?がどこに乗っているのかわからなくて単に手を振っている。奥さんの里が長野で、旦那が名古屋かどこかに行くのかな?、しかし明日はまだ休み。てな、ことを考えて、あんまり高給ではなさそうな奥さんの風貌を見て色々想像した。苦労かけるねえ・・・。がんばろう。いやー、鉄道は良いねえ。

・・・で、脱線しましたが、外回り鉄初めはこれにて終了。久し振りの中央西線であるが考えてみれば、JJR東海の合理化も流石であるが金は持っているんでしょうね。富の再配分を何とかならんものかと。不当に高い(と小生は考えている)新幹線でシコタマ儲け、殆ど国鉄の車両を駆逐し終わって(次はどうしようというのでしょうか)、只管、鉄を無味乾燥なものにしている東海。

年明け、色々考えさせられるよそ道帰宅2日の外回り鉄でありました。

謹賀新年/竜ヶ崎線



年の初めは辰(=竜)年に因んで、昨年開業111周年を迎えた関東鉄道竜ヶ崎線の近況等をお伝えしたい。
竜ヶ崎線は常磐線佐貫駅と竜ヶ崎市の中心部を結ぶ僅か4.5㎞の路線で、ほぼ中間地点に入地駅(棒線のため交換不能)がある。全線の所要時間は7分で朝夕のラッシュ時間帯は約20分、それ以外は約30分間隔で運行されている。一列車の往復運行のため、20分間隔の時は両端駅での折返し時間が3分しかなく極めて慌ただしい。
配置車両はキハ532、2001、2002の3両で、ラッシュ時2連、それ以外の時間帯は単行でワンマン運転を実施している。
龍ヶ崎市内に大規模団地や大学が出来たため人口は増加しているが、竜ヶ崎駅から離れているため乗客の増加には繋がっていない。竜ヶ崎~取手間にはバスが運行されており、常磐線の本数が少なかった時代は、バスで取手に出て本数が多く確実に座れる国電に乗り換える人が多かった。常磐線交流区間の運転本数が増加して佐貫駅に停車する電車が増えると竜ヶ崎線の乗客も増加し、バスは1~2時間に1本程度にまで減少している。

歴史は古く明治33年8月14日に762㎜の龍崎鉄道として開業し、大正4年7月に1067㎜に改軌、戦時中の昭和19年5月13日鹿島参宮鉄道に移譲、昭和40年7月1日鹿島参宮鉄道と常総筑波鉄道が合併して関東鉄道となり同社竜ヶ崎線となった。
昭和46年8月1日よりワンマン運転を開始したが、普通鉄道としては日本初と言われている。

竜ヶ崎駅の看板 
(H23-11-23)


竜ヶ崎駅(H23-11-23)

〔現有車両〕
キハ532(キハ532形)
旧国鉄キハ20の台車、機関、主要機器を流用して昭和56年新潟鐵工所製で新製した。キハ2000形が登場するまでは主力として活躍した。現在は予備車的な存在となったが原則として第1、第3土曜日と第2、第4日曜日の9時~14時頃まで定期運用に入っている。キハ2001と2002のいずれかが検査に入ると朝夕ラッシュ時にキハ2000形と2連で走る。

竜ヶ崎駅進入
(H9-5-5)

竜ヶ崎駅進入/2両目はキハ2002 
(H23-11-23)

キハ532+キハ2002/竜ヶ崎~入地 
(H23-11-23)

キハ532+キハ2002/佐貫~入地 
(H23-11-23)
竜ヶ崎に向かって左側/後ろのキハ2002には乗務員室扉が無い。

車内は新京成の800形と似ている。蛍光灯は30
Wの短いものが間隔を空けて設置されている。

 キハ2001、2002(形式キハ2000形)
平成9年新潟鐵工所製の新製車である。竜ヶ崎線はホームが竜ヶ崎に向かってすべて右側のため、竜ヶ崎寄りの運転台が右側にあり、左側には常務員用扉がない。朝夕2連、昼間単行で主力として活躍しているが、前述のようにいずれかが検査に入るとキハ532との混色編成が登場する。

キハ2001/竜ヶ崎 
(H23-11-23)

 
キハ2002+キハ532/竜ヶ崎~入地 
(H23-11-23)


〔過去の車両〕
自分で撮影した車両のみ紹介する。
4号機関車
大正14年川崎造船所製のC形機関車で、現在は龍ヶ崎市歴史民俗資料館に保存、展示されている。

竜ヶ崎 
(S50-1-3)

DC201
常総筑波鉄道時代に昭和28年新三菱重工三原製作所製のL形機である。常総線で貨物列車を牽引していたが、昭和43年竜ヶ崎線に転属した。47年貨物列車廃止後は保線工事列車に使用されていたが49年に廃車となった。

佐貫 
(S45-3-15)

キハ305
昭和10年日本車輌で常総鉄道キホハ61として新製、窓が小さく幕板の広いスタイルはお世辞にもスマートとは言えない。昭和30年に筑波線に転属、31年にキハ305に改番、昭和40年に竜ヶ崎線に転属した。
湯口先輩の「内燃動車発達史/上巻」のP72に新製時の写真が掲載されているのでご覧頂きたい。



竜ヶ崎 
(S41-3-12)

キハ40202
昭和6年日本車輌製で、牟岐線の中田~羽ノ浦間の前身阿南鉄道キハ201として新製、昭和11年7月1日鉄道省に買収されてキハ40510に、更に改番でキハ40307となった。昭和23年鹿島参宮鉄道に売却されてホハフ402となり鉾田線で使用、昭和27年気動車に復活して竜ヶ崎線に転属した。
「内燃動車発達史/上巻」のP279に湯口先輩が昭和30年に竜ヶ崎駅で撮影された写真が掲載されているのでご覧頂きたい。


竜ヶ崎 (S45-3-15)

キハ41302
昭和9年川崎車輌で鉄道省キハ41070として新製、昭和27年エンジンを日野DA55に換装してキハ41599に、昭和30年DMF13に換装してキハ41355に、昭和32年4月の称号改正でキハ0436となった。昭和35年4月25日付け武蔵五日市支区で廃車になり、同年12月に鹿島参宮鉄道が譲受け、竜ヶ崎線に配置された。
昭和46年8月のワンマン化の際も改造され昭和57年1月まで在籍した。

竜ヶ崎 
(S41-3-12)

竜ヶ崎駅進入 
(S41-3-12)

竜ヶ崎 
(S50-1-3)

キサハ41801
昭和8年日本車輌製で鉄道省キハ41070として新製、昭和27年エンジンを日野DA55に換装してキハ41502に、昭和29年DMF13に換装してキハ41322に、昭和32年4月の称号改正でキハ0423となった。昭和37年3月31日付勝浦機関区で廃車になり、昭和39年に鹿島参宮鉄道が譲受け、エンジンを撤去の上竜ヶ崎線に配置された。昭和45年に常総線に、その後筑波線に転属して昭和54年3月に廃車になった。

竜ヶ崎 
(S41-3-12)/塗装は黄色一色であった。

筑波線転属後/真鍋
(S49-8-26)

キハ521、キハ522
元江若鉄道キハ18→キハ5121→キハ521、キハ19→キハ5122→キハ522の車体乗せ替え後。車歴等は11月25日付【16203】「今でも気になる江若鉄道」をご覧いただきたい。

キハ521/竜ヶ崎 
(S63-5-18)

キハ522/竜ヶ崎 
(S63-5-18)

キハ522/竜ヶ崎 
(H9-5-5)
この時は前面に貫通幌が付いており3連運用があったのかも知れない。

キハ531
元江若鉄道キニ6→キハ5123→キハ531の車体乗せ替え後。

竜ヶ崎 
(S63-5-18)

キハ531の銘板

車体乗せ替え後も「昭和6年川崎車輌」の銘板が残っていた。

〔「竜ヶ崎」と「龍ヶ崎」〕
「竜」と「龍」の使い分けを考察すると極めて曖昧であることが判る。市名は「龍ヶ崎市」で「龍」を使用しており、市立の小学校は「龍ヶ崎小学校」と「龍」を使用しているが、県立高校は「竜ヶ崎第一高校」と「竜」を使用している。私立の幼稚園、保育園は「龍」と「竜」が入り乱れている。警察は「竜ヶ崎警察署」JAは「JA竜ヶ崎市」、都市再生機構(元日本住宅公団)は「竜ヶ崎ニュータウン」で、その中に「龍ケ岡」と「北竜台」と2つの地域があり、「龍」と「竜」が入り乱れている。

更に最も不可解なのが竜ケ崎駅の看板で、「崎」をよく見ると「﨑」を使用している。古い切符を見ると「龍ヶ崎」となっており、いつのまにか「龍」の字が複雑なため簡単な「竜」にしたというのが真相ではないだろうか。駅の看板の「﨑」を不思議に思う人はいないのだろうか。

〔竜ヶ崎ニュータウンのバス〕
竜ケ崎ニュータウン行のバスは佐貫駅から出ており、「竜」のイラストのバスが使用されている。但し専用車ではないため標準色のバスが使用されたり、「竜」のバスが他の路線に使用されることもある。
元々関東鉄道と茨城観光自動車の共同運行であったが、茨城観光自動車が平成13年6月に廃業したため関東鉄道の単独運行になった。関東鉄道は「いすゞ」茨城観光は「日野」を使用していたが塗装は共通で、茨城観光廃業後は関東鉄道が車両を引き取った。

土浦22か1711/関東鉄道赤竜/7
式U-LV324K(
H8-1-15) 佐貫

土浦22か1710/関東鉄道青竜/7年式U-LV324K
(H8-1 -15) 佐貫

土浦22か1715/茨城観光自動車赤竜
/7年式U-HT2MMAA(H9-5-5)正直車庫

土浦22か1714/茨城観光自動車青竜
/7年式U-HT2MMAA(H8-1-15) 佐貫

昭和40年前後の浜大津界隈(Ⅱ)


交差点を通過する三条行急行。右端に京阪バスのボンネットバスが見える。
(39-8-2)

今回は、前回に続いて電車と難問のバスの画像をお目にかける。バスについては、昭和40年前後は少しは興味があったが、撮影は全くしていないので、昭和50年頃撮影した中から昭和45年頃までに製作された車両を紹介する。

【電車】

 浜大津折り返しの穴太行の352/西村雅幸氏がコメント欄に書かれた「渡り線の位置」の件、この写真でお判りいただけると思われる。当時は引き上げ線がなく本線上で折り返していた。浜大津駅統合後、京津線の浜大津止まりの準急は到着後、一旦坂本方面の線路に転線して石山寺行を通した後、石山寺方面の線路に転線、坂本行通過後、再度転線するという面倒なことをしていた。
(43-9-25)

 356+357の坂本行/この時点ではバックの商工中金ビルは4階建
(43-9-28)

 262+261の浜大津折返しの坂本行 (49-12-8)

 交差点を通過する308+307の三条行準急
(55-1-6)

上栄町から浜大津方面を望む/306+305の三条行準急
(51-2-11)

【バス】
当時、浜大津に発着していたバスは、江若の他、京阪バス、近江バス、滋賀交通、国鉄バスの4社で、主力は江若、京阪、近江の3社であった。国鉄バスは江若と相互乗り入れで小浜~浜大津間を2往復運行していた。江若は京阪三条~小浜間を2往復運行し、4時間弱で結んでいた。

バスの写真の前に登録番号(ライセンスナンバー)について少し解説する。
現在の「京都200か2012」のプレートを例に取ると、上段の陸運事務所略号の後の3桁の登録番号は平成11年に制定されたもので、それ以前は「京22か2011」のように2桁で、陸運事務所にコンピュータが導入された昭和45年9月~46年4月頃(全国一斉に導入されたのではなく、都道府県により差がある)から付番されたものである。更にそれ以前は「京2か1011」のように1桁であった。
2桁の時代は下2桁の42と49を欠番にして登録順にナンバーを交付していたが、1桁時代はナンバーを特定のバス会社に割当てしていた地域があった。

滋賀県では昭和37年12月から橙色の「滋2あ」ナンバーは廃止されて、緑色の「滋2い」ナンバーへの付け替えが行われ、江若には「滋2い1001~」割り当てられた。ちなみに「滋2い1~」は近江、「滋2い801~」は京阪バスに割当てられている。余談であるが昭和44年に京阪バスの「滋2い846/38年式BXD30」を譲り受けているが、使用の本拠地が滋賀県内と変わらないため登録番号はそのままで、見る人が見れば、京阪中古であることは一目瞭然であった。
昭和42年12月に割当てナンバーは廃止になり、「滋2い2501~」の届け出順に付番されることになった。

〔江若バス〕
滋2い1035廃車体/いすゞBB751(37年式新日国工業)

 昭和47年4月に廃車されたが、安曇川営業所に残っていた。昭和46年勤務先のキャンプの下見でサンケイバレイに行った時、京阪三条から乗車した小浜行がこのタイプであった。
(54-3-3 安曇川営業所)

滋2い1038廃車体/いすゞBB751(37年式日産車体)

BB751のラスト3両(10
37~1039)は社名変更により日産車体製となった。廃車は昭和47年4月である。(54-3-16 堅田)

滋2い1079/日野RB10(41年式金産)

54年2月廃車
(50-5-18 安曇川駅)

滋2い1077廃車体/日野RB10(41年式富士重工)

 52年7月廃車
(54-3-3 安曇川営業所)

滋2い2715/いすゞBU05D(44年式川崎重工)

鉄道廃止時に代行輸送用として大量に作られたワンマン車である。滋2い27
01~2705、2708~2719、2721~2723の20両在籍し、代行輸送終了後も主力として活躍した。(55-1-6 浜大津)

滋2い2739/いすゞBU05(44年式川崎重工)

鉄道廃止時に代行輸送用として作られたツーマン車である。滋2い27
06、2707、2720、2733~2740の11両在籍した。代行輸送終了後、前後扉のワンマン車に改造して引き続き使用される予定であったが、実際に改造されたのは「滋2い2737」1両のみで、他の車両は譲渡された。(49-12-19 堅田駅)

滋2い2737/いすゞBU05(44年式川崎重工)

上のグループ改造車である。改造が中止となったのは、費用が掛かりすぎるためと言われている。
(55-1-6 浜大津)

〔京阪バス〕
滋2い 858/ふそうMR480(38年式三菱重工)

中1扉のツーマン車で、石山駅~上千町・岩間寺間で昭和51年頃まで使用されていた。
(51-3-23 浜大津)


バックビュー

滋2い 884/ふそうMR620(40年式クレハ)

ふそうの中型車の元祖。ボンネットと共通運用で長等公園~浜大津~朝日ヶ丘住宅等で使用されていた。当時としては斬新なスタイルであった。
江若にも同型車が1両(滋2い1065)在籍して、和邇~途中線等で使用されていたが、スプリングの破損事故があり早々に姿を消した。悪路の走行には不向きであったのかも知れない。(50-3-2 浜大津)

滋2い 888/いすゞBXD30(40年式帝国)
 
昭和51年頃まで長等公園~浜大津~朝日ヶ丘住宅、石山駅~大石~曽束間で使用されていた。
(49-12-15 浜大津)

滋2い2589/いすゞBU10(43年式川崎重工)

京阪バスではリヤエンジン車のいすゞは珍しかった。
(50-3-2 浜大津)

滋2い2762/ふそうMR470(42年式クレハ)

後部の窓が独立窓から連続窓に替わって間もない頃の車両で、後部の形状から「クレハの丸型」と呼ばれていた。
(51-3-23 浜大津)

滋22か 379/ふそうMR480(40年式クレハ)

前述の38年式の代替のため門真支所から転属してきた車長の短い車両。元の登録番号は「大阪2あ 126」である。
(50-1-1 浜大津)

滋22か 381/ふそうMR470(40年式三菱)

中1扉のツーマン車で比叡山線で使用されていた。座席は定期観光車と同じであったため、春、秋の休日には定期観光で使用されることもあった。「滋22」の登録番号は京都営業所からの転属車のためで、元は「京2い1268」であった。
(50-1-1 浜大津)

〔近江バス〕
滋2い 358/ふそうMAR470(39年式クレハ)

元貸切車に中央に扉を取付け路線車に改造した。エアサスで座席は貸切時代のままのリクライニングシートのため乗り心地は良かった。名神大津より大津駅、浜大津、堅田を経由して琵琶湖大橋を渡り守山駅行で、現在は堅田駅~守山駅間の運行となっている。
(49-12-15 浜大津)

滋2い 427/ふそうMAR470(42年式クレハ)

前中扉のワンマン車で、エアサスであった。
(49-12-15 浜大津)

滋2い2693/ふそうMR470(44年式クレハ)

前後扉のワンマン車で後部扉が引戸である。
(50-3-2 浜大津)

滋2い2864/ふそうMR470(45年式クレハ)

前後扉のワンマン車で後部扉が折り戸である。
(54-11-18 浜大津)

〔滋賀交通〕
水口から栗東インター~大津インター間名神高速道路を走行して浜大津までと、一部の便は自社の自動車教習所まで運行していた。また、水口~京都駅八条口間の運行もあり、大津市内や京都に向かう人にとっては乗換えが無いため便利な存在であったが、マイカーの普及による乗客減により廃止された。

滋2い2838/ふそうMR520(45年式三菱)

滋賀交通は車長の短いMR520が主力であった。
(51-3-23 浜大津)

 滋22か 631/ふそうB805L(43年式三菱)

昭和52年に貸切車に後部扉を設置して路線車に改造した。座席は貸切時代のリクライニングシートのままであった。
(54-11-18 浜大津)

都電荒川線のクリスマス

12月22日と23日の16時~18時まで、荒川車庫に於いて正面にリースを取付けた花電車がクリスマスツリーと共に展示された。22日に会社帰りにコンデジで撮影したので報告方々ご覧いただきたい。運転されなかったのは残念であるが、今後もこのような形で活用されることを期待したい。


16時30分、現地到着直後の撮影。


到着1時間後17時30分頃撮影

8809との並び

梅小路機関車舘での「蛍の光」

梅小路機関車間の開館は1972年と記憶するが、1975年の大晦日、民放TV共同での「行く年来る年」の極めつけは梅小路機関車舘での、蒸機汽笛による「蛍の光」だった。この曲は8音階でできているから、8両の蒸機の汽笛共鳴室の容量を加減して1両1音とし、山本直純が指揮して、オーケストラをからませ「蛍の光」を演奏したのである。つまりは8両の蒸機に同時に火を入れたことであり、当然組合も、機関士や助手のOBたちも、全力を挙げ協力したのは間違いない。

これをM君が録音し、そのテープを貰っていた。最近はアナログテープを聴くこともほとんどなく、先だってテープデッキを使おうとすると、中に入れたままのテープ再生は出来るが、取出しが不能。当然交換もできない。修理に出すと直るかどうかといわれ、1万円ぼったくられたが、目出度く再生は復活。

で、本日何十年ぶりかで、M君のテープを再生してみた。後期高齢者の身体各部は老朽疲弊甚だしく、パッキンがことごとく劣化し、尾篭な話だがありとあらゆる排泄部がよろしくない。要は「締り」が悪い。当然涙腺(これも排泄部に違いなかろう)も著しく脆くなっており、すぐ泪が出るのは「生来」感受性が高いからだと強弁しているが、老齢劣化には違いない。

36年ぶりのテープは幸い健在だった。蒸気機関車の汽笛で音楽を演奏するというアイディアも良かったが、「蛍の光」の何ともいえない哀愁と蒸機の汽笛とのマッチが言葉に尽せない。

そういえばM君はDRFC-OB会に顔を見せなくなって久しいが、元気で商売に励んでいるんだろうなぁ。

連接車2

 年末の駆け込み投稿で賑わっております。大変結構なことですが、おかげで先日の連接車1もはるか彼方に追いやられてしまいました。私も駆け込みで連接車2を登場させます。前回は名古屋市電で終わりましたので今回は同じ名古屋の名鉄を採り上げました。

           1973.3.4 谷汲線更地2151+連接車401

           単車を改造して連接車にしたもの

 

          2005.3.6 美濃町線上芥見 岐阜行き880形 

          880形は美濃町線廃止後福井鉄道に譲渡 

 

          2005.3.6 美濃町線上芥見 関行き875+876 

          元札幌市A841+A842

年末の広島

KAWANAKAです。

暮れも押し迫ったときに如何にも内容の乏しい投稿で申し訳ないが、仕事の合間をみて老年切符など利用してうろついています。ぶんしゅう氏には遥かにスケールが及びませんが、今月の初め広島にふらりと行ってきたのでお付き合いを。

実は関東支部の会合でI氏の広電写真に触発されて俄かに京都市電に会いたくなり出かけた次第。

そのことを西村氏に伝えたところ、多忙な中、三原でミニロケをご一緒することになった次第。氏は三原に居を構えられているが糸崎でお会いすることにした。昔、40年以上前2人で夏のくそ暑い中、降り立ったのが印象に残っており、会うなら糸崎ということにした次第。糸崎は知らないうちに無人になり、あまりの変貌振りに驚いたのであるが最近の人件費削減は凄まじいものがある(東京地下鉄でも長大編成のワンマンが進んでいるのでびっくりすることはないかもしれないが)。

西村氏推薦の目玉は、キハ47のマリンビューで電化の呉線を走っている唯一のDC。三原まで下った列車は広島へ向けての発車まで時間が長いので、三原のたった呉線の1線を明けるために忠海まで行って折り返すというスジになっていて(これは後ほど西村氏が確認)都合4本キャッチできる。

西村氏のパジェロでロケをさせて頂いたので、その1枚を掲載。小生は結局、折り返しに乗って広島へ向かうことにした。西村氏は所要のため広島には同行できなかったが、如何にも氏の人柄の丁寧な案内に感謝した次第。ご存知かどうか知れないが氏は野鳥や辻堂の研究でもそれなりの成果を出しており、改めて幅の広いのに感心した次第(その後、ロケで気になって仕方がなくなった)。

広島へは夕刻の到着、宿の袋町まで歩きながら撮影。

駅前ではお目にかかれなかった京都市電にやっと会えた。

あくる日、夜明け、車に被られないうちに撮影。撮りたかった如何にも広島らしい2枚を掲載。

ついでで申し訳ないが、往年の市電の風景を彷彿させる2枚。

約800枚の写真が残ったが、ロケの報告を兼ねて掲示させていただいた。

改めて西村氏に礼を言いたいと思う。

連接車1

 米手作市様より出し惜しみすることなく発表するように言われた。西鉄と今回の名古屋市電の拙作をとりあえずのせることとする。尚、車両の解説は知識がないので割愛させていただく。

 

 1967.9.8 西鉄大牟田線銀水~東甘木 502ABC 福岡方面各駅停車

 

 1973.4.11 大牟田線宮の陣 501ABC 大牟田行き各駅停車

 

 1967.9.7 北九州線八幡駅前 3車体連接の1057ABC

 

 1967.9.7 北九州線八幡駅前 2車体連接の1037AB

 

 

 

 名古屋市電2写真は1968.11.8撮影 3006 2705 場所は高辻か沢上町

名古屋市電のびわこ号?

今年最後の掲載です!連接車で市電があったのですね。先の西鉄と言い、この名古屋市電と言い、当会には応援してくれる地元出身者が少ないようで、今回も反応の薄さが危惧されます。大脇仙人~!、藤本さん!乙訓の長老様、誰でもいいから解説して下さい。ここも1000リンギット賭けます。

阪神電鉄国道線(2)

 1945(昭和20)65日、B29から投下された焼夷弾が東神戸の街に雨霰の如く降りかかりました。小生の御年5歳前の、神戸の大空襲。当時日本の大都市の中で、神戸は最大の被害を受けました。近くの六甲山麓にあった高射砲は全く届かず、弧を描いて落ちるばかり(昼間は見えないが、夜間に見た大人の話)。

 神戸市灘区徳井町の我が家も全焼、自宅庭の防空壕を出て逃げました。見慣れた豆腐屋の中が真っ赤でした。途中石屋川かどうかわからないが、防空頭巾の上から消防団員に水をかけてもらい、母子3人(父はラバウルに応召)で逃げ延び、着いたのが御影公会堂でした。迎えに来た芦屋の祖母に連れられ、電線の垂れ下がった国道を徒歩で、同じく国道線の森市場まで行き、そこで暫く暮らしました。

 同じ日、同じ状況で御影公会堂に逃げ延びた主人公の話が、小説およびアニメ「火垂るの墓」です。小生より10歳年長の作者野坂昭如氏が、小生の近くにいたことになります。
 
 そんな話はとっくの昔。平和な時代になり、国道線を撮影したのがそれから16年後です。写真はその徳井からスタートして東に向かいます。

 開通時に設置された停留所の安全地帯は(前回の尼崎玉枝橋の写真を見て下さい)は、戦争中に軍により撤去されました。なんでも阪神国道がほぼ直線であった為に、いざという時飛行機の滑走路にするとか。けれど戦後も、停留所は復活されませんでした。写真のように道路上に、ただ白線で四角を描いたのみです。

 201201号。西向き、東神戸行き。1942年汽車製造・東京製。基本的な装備品やデザインは71形に同じですが、正面のデザインがやや平たくなりました。野田東神戸間の通し運転です。家並みの後方に六甲山が迫ります。
 
 当時の国道の詳しい記憶はありません。現代の国道を徳井から御影方面に進みます。
下の写真、右後方かすかに御影公会堂の先端が見えます。公会堂をバックにちゃんと電車を撮影するべきだったのに、目的が明確でなかった頃の撮影でして、今になって後悔頻りです。

 

 開通時のポールは、1949年Yゲルに付け替えられました。電車の神戸寄りに付けられています。

 

 201213209と共に戦後の1948年に製造。国道線最後の新造車となりました。野田側だけに連結器が付いています。連結器付の車両は数少なくなっていまして、今回紹介の中でもこの213207号車だけです。東向き、野田行きです。

 灘高前、甲南学園前を通り過ぎて、鳥居は三王神社です。阪神淡路大震災では本殿や鳥居など境内の大半が倒壊。社務所や隣接する宮司さんの家も倒壊し、確かご家族の方が亡くなられたと記憶しています。

車両は、3190号。19291930年製造。製造時は3150号でしたが90号に改番されています。当初稼働していた2台電動機の1型(全部で50両)および51型(全部で16両)に代わり投入されました。4台の電動機を装備して長距離運転(わずか26kmですが)に備えたそうです。台車はボールドウィン64-20R、この台車は全形式共通です。
7177号。1937年合計10両製造されました。電動機4台装備、長さ14m近くの大型路面電車でした。側面の半分以上を窓が占めていて、車内が明るく、斬新なデザインは当時画期的だったと思われます。誰の命名か、金魚鉢というニックネームを貰っていました。平たいスマートなベンチレーター、ドアの開閉と連動するホールディング・ステップも装備していました。西向き。

 当時、神戸市の東端、東灘区。芦屋市との境界に近づいて来ました。

 

201214号は、戦時中の1943年汽車製造製です。東向き、野田行き。

 途中の芦屋市、西宮市の西部を飛越して、いきなり上甲子園に達しました。甲子園線との分岐点です。右の鉄柱に駅名票が見えます。赤の地色に白の駅名が描かれていました。

201203号は1942年、メーカーは上記に同じ、やはり戦時中製造です。野田-西宮間の区間運転車。

 カラー版の登場です。これまでの撮影時期から4年後、1968年撮影です。電車は後方の甲子園線へのポイントを通過、東に向かいます。

 武庫川の西側です。201204号が、武庫川の武庫大橋に向かい緩やかな傾斜を登ります。右手辺りに確か甲子園ホテル(阪神電鉄経営)がある筈です。

 204号の後ろ姿。右手に武庫大橋と、松の木が数本見えます。

 こちらは坂を下って西向き、東神戸行きの207号。先の213号同様連結器が付いています。右手松の木の前にある大看板は「阪神競馬場へ8km」の案内です。

 207号が丁度、大橋の中央付近を西に進みます。この頃はまだ車の通行が少なく橋は広々としていました。上の写真の1コマ前。撮影場所は行政区画上、西宮市。南側から北東方向を見ています。

東神戸行き206号。撮影は日曜日でして、やはり車が少なかった頃です。武庫川の両岸は共に(西宮市、尼崎市)松の木が沢山あり、これは半世紀後の今も変わっていません。撮影場所は行政区画上、尼崎市、北側から南西方向を見ています。

武庫川を渡り、さらに東に進み、東大島。車両は東向き、野田行きです。子供たちの頭のはるか上まで窓が拡がっています。いかに背の高い窓か、よく判ります。

 写真はここまでです。これから先の野田方面までは全く撮影していません。残念です。
下は国道線の未使用の軟券です。

次回は、甲子園線と71、74号車の保存(尼崎市の公園)写真です。
地図は、参考文献1「輸送奉仕の五十年」阪神電気鉄道株式会社より、引用しました。

連接電車の急行列車・西鉄500型

先週の京阪びわこ号に続く「連接車」シリーズで西鉄500型。

と言っても西鉄とは全く無縁で知識もなし。むかしむかし、博多へ行ったとき、tsurukame氏の支配下にある金魚鉢似よく似た連接市内線を見たような見なかったような、程度。当会には西鉄マニアは居なかったようで、おそらく今回は盛り上がらずに終わることに1万ウオン賭けましょう。

 

阪神電鉄国道線(1)建設目的

   大御所、乙訓の老人からバトンタッチを受け、阪神電鉄国道線の一部を紹介します。悔いが残るのですが撮影しているのは、神戸市灘区八幡(やわた)から尼崎市西大島と、国道線の支線である甲子園線の上甲子園-甲子園間です。東神戸付近と西大島から東部野田方面を撮っていません。

 小生の幼少は国道線と共にあると言っても過言でないのに、それにチャンスもあったのに、撮影していなくて返す返すも残念です。悔いの多い人生、中でも最たるものの一つです。 

 そして小生、長じてから疑問であったのが、国道線建設の目的でした。関西における官設鉄道と私設鉄道、あるいは私設鉄道同士間の激烈な競争は敢えて言うまでもありません。阪神間はその最たるもの、皆様よくご存じの事柄です。大正年間、官設はまだ電化していないが、阪神電鉄、箕面有馬電気軌道の競争です。その中にスピード競争で勝ち目がない道路併用軌道線(阪神国道線)を何故に建設したのかです。

手許に三つの文献があります。これらに上記の疑問を解決してくれる記述がありました。

『輸送奉仕の五十年』(阪神電気鉄道、昭和30年) (文献1)と表記する。
『阪神電気鉄道八十年史』(阪神電気鉄道、昭和60年) (文献2)と表記。
『図説尼崎の歴史・下巻』(尼崎市、平成19年) (文献3)と表記。

文献1から引用します。

『国道線の開通 昭和のはじめに本線に並行して国道線が開通した。陸の大動脈阪神国道の完成に伴う副産物であった。それまでの阪神両都を結ぶ道路は昔「西の道」と言われた2間ほどの旧国道で、牛馬でさえ行き違いにひと苦労、そこへトラックなどの激増で全くの飽和状態になったため、大正8年大阪、兵庫の両政府が相協力して建設することに決定した。爾来七星霜、同151225日、あたかも昭和と改元されたその日から公用に供された。幅員15間(淀川以東は12間)、延長628町(約7キロ)、ほとんど直線的に阪神間の郊野を貫いた坦々たるアスファルトの新国道は、2,000万円の巨費を投じただけに、名実ともに東洋一の大道路として世人の目をみはらせたものである。

当社はその重要性に鑑み、いち早く大正92月にこの国道上に軌道施設を出願して122月に特許された。この為国道の幅員も急に3間広げることに変更された。(中略)軌道施設工事はわずか6ヶ月間の突貫工事をもって昭和2517日に完工した。翌5月18日新装の武庫大橋畔において国道と軌道の合同竣工式が挙げられ、運賃決定で当局と合意後の71日から開業したのである。 


                               
    
 
 野田阪神・東神戸間約26キロにわたり、国道の中央に施設された複線軌道には15mという日本で最も長い軌条を用い、鉄骨組立の側柱には煌煌と照明灯が輝きわたって大国道に美観をそえた。車庫は浜田の田んぼの中に設けられたが、路面電車のこととて30両の車両はすべて低床ボギー車で、これも日本最初のドアー・ステップ連動装置をするなど数々の新機軸が試みられた。しかし当時はまだ沿道に人家も少なく、神戸終点の連絡も悪く、阪神国道電軌の経営は危ぶまれた。
(以下略)』(文献1

  建設の様子が記載されていますが、疑問点の解消はできていません。                                                          

 

 相前後しますが、文献2に、明治43年初め頃からの電鉄株の急騰を背景に、出願ブームが起りつつあった当時の様子が記述されています。 

布引を起点として山手を通過し、西宮に達するという計画の灘循環電気軌道に、

『箕面有馬電軌は、大正元年819日、いち早く十三・門戸間の新線を出願し、灘電と接続することを企てた。電光石火の対応によって、阪神間の直通路線を入手しようと考えたのである。』(文献2 

その後、灘電が資金難となり、

『その買収・路線免許取得をめぐる係争のさなか、大正62月、箕電は灘電の軌道施設特許譲渡の認可を得、大正712月、箕電の勝訴が確定した。かくして、大正97月、灘循環線(現在の阪急神戸線)は開通し、当社の強力なライバルとして立ち現われることになった。』(文献2 

こうして、スピード競争はもとより多面的に、阪神・阪急のライバル活動が開始されて行きます。その後のことは読者ご存じの通りです。

 さらに文献2の、別の個所には

『併用軌道線の縮小と廃止 国道線は,昭和2当社子会社である阪神国道電軌㈱によって開通し、ほどなくして当社合併した。(中略)国道線は、阪神国道新設して、本線防衛という政策づき(註:下線は筆者挿入軌道敷当社費用負担によって,道路上建設された。(中略)併用軌道の輸送量は、戦中と終戦後20年代半ば頃にピークを記録して以後減少に転じていた(中略)30年代に始まったモータリーゼーションの進展によって、経営は困難の度合いを深めていった。』(以下略) 

と、新設国道に他社線が先に進出し、阪神本線に悪影響が及ぶ前の対抗処置だったことが明記されています。これが新設国道線に、阪神電鉄が道路併用軌道線を建設した真実であり、「建設目的は何か」という筆者の疑問への解答です。

国道線の経営が初めから楽ではなかったことも同時に伺えます。客が多かった時期はほんの一時期でした。
文献3に、

『鉄道と道路  現尼崎市域においては、(中略)明治38年には阪神電鉄が開業し、尼崎町中心部と大阪・西宮・神戸といった東西の市街地が結ばれます。大正期から昭和初年にかけては、これらに加えてさらに2本の重要な東西交通幹線である、阪急電鉄と阪神国道が開通することになります(中略)。 こうして開通した阪急神戸本線や阪神国道の沿線には、宅地開発や耕地整理がすすめられ、新たな市街地が形成されていきました。    

 開通当時、国道線の沿線は農村的雰囲気が漂っていましたが、大庄〔おおしょう〕村や小田村などで耕地整理が行なわれて急速に住宅化がすすんだこともあり、昭和10年代には利用者が大幅に増加していきます。戦争をはさんで、昭和20年代半ばにピークを記録しています。
 この時期、国道線の主力となったのは昭和12年製の阪神71型でした。屋根まで届くような縦長の窓が連なっているのが特徴で、流線型の開放的なガラス張りのデザインから「金魚鉢」との愛称で親しまれました。新時代の到来を予期させる、先進的な路面電車でした。

ところが、高度経済成長期に入るとともに、利用者数は減少に転じます。自動車の普及によって道路混雑が激しくなり、定時運行がままならなくなったのです。市内で一番利用者が多かったのは難波〔なにわ〕停留所でしたが、昭和27年に14,691人いた乗客数が、昭和37年には2,211人と半減。やがて、国道2号や周辺道路が渋滞する原因として、国道線がやり玉にあげられるようになります。累積赤字の負担に耐えかねていた阪神電鉄はもちろん、兵庫県や尼崎市も、廃止やむなしという方向へと流れていきました。 

昭和493月に上甲子園~東神戸間が廃止され、残っていた野田~上甲子園間も、昭和50年に営業を取りやめました。最終営業日の55日は、名残を惜しむ市民で終日ごった返しました。なお、金魚鉢こと71型電車は、市内の水明〔すいめい〕公園と蓬川〔よもがわ〕公園に保存されています。』(文献3)  

とあり、建設の過程、その後の状況、廃止前後の様子が記述されています。

 今回は国道線建設の目的や、その当時および戦後の様子と写真を文献から引用して紹介しました。次回は小生の写真で、
 第2回:八幡から西大島まで、カラー写真を交えて紹介します。
 第3回:甲子園線のカラーと7174の保存の様子を紹介します。

また地震体験!

 連日高尚な記事が続くデジタル元祖青信号に個人的な「すかたん旅行」を披露するのはいささか気が引けるがお許し願いたい。今年は3月11日の地震で大変な年であった。私も「地震体験」という題でデジ青に投稿した。横須賀田浦の梅林であの大地震に遭遇し、横浜まで20kmを歩いた話であったが、また、同じ様な体験をしたので馬鹿(あほ)な行動を報告する。

 朝、八王子から老春切符で塩尻経由で行くと12時48分に中津川に到着できる。今夏と同じルートで勝手を知ったコースである。今や貴重となった中央西線のEF641000重連が3本撮れる。13時13分始発の名古屋行きの快速まで広々としたホーム横の留置線の車両を撮影できるおまけつきで好都合である。その留置車両を1両、1両ゆっくりと撮影し終えてさぁー目的の列車に乗ろうとした時に何かざわざわとした音を感じた。最初は高速道路の車が隊列を組んで走行している音かなと思った。そのうちに架線がびゅんびゅんうなって一発ドカッと腹に響く様な揺れがきた。3月11日の長く続いた大揺れに比べて今回は一発だけであったがびっくりした。駅事務所に行くと倉本~釜戸間が線路点検で運休するという。点検により土砂崩れや架線切れを発見すると復旧に長時間がかかるとの説明があった。バスは1時間か2時間に1本くらい恵那まであるという。あとはタクシーであるが、貧乏旅行には使えない。今日の目的地はその釜戸で最近は名古屋近郊の手軽な撮影地としてよく紹介されている。釜戸は私の生誕地でもある。しかし、中津川~釜戸間は22.4kmある。線路に沿って歩いているうちに復旧するだろうと思い、どうせ歩くなら中仙道の宿場町見物をしようと歩き始めた。今日は豊中にホテルを予約してあるが、今日中に何とか着くだろうと心配であったが楽観的に考えた。途中バス停を見ると1時間に1本恵那まで行っていることが確認できたので美乃坂本から恵那まで360円で乗る。恵那からは瑞浪方向にバスがあることを期待したがない。恵那から武並にかけて峠があり、きつい坂を登ったのでD51時代は大変であったろうなと妙な感心をする。峠を越えたあたりで日没。釜戸手前では道を間違えて車の多い19号に出る。暗くて危ないので再び旧道に戻り、18時半頃に釜戸駅に到着。結局17.2km歩いたことになる。駅に着くや「ワイドビューしなの10号」が5時間遅れで通過。やっと復旧したのだ。そして名古屋行きは18時40分頃到着する。その後順調に走ったが最後の金山~名古屋間でまた30分かかってしまった。イライラしながら大阪には23時半に到着。23時48分発阪急宝塚行き最終急行にかろうじて間に合った。乙訓の老人様からよく「(お迎えが近いんやから)あまり無理すんなよ」といわれたことを思い出す。地震は13時1分の発生で震源地は恵那付近で震度4であったと人から聞いた。

11.12.14 中津川駅  右は乗る予定であった13時13分発快速名古屋行き2726Mクハ312ー404

 

翌日は福知山線生瀬~武田尾間6.4Kmの廃線跡探訪と草野~古市間での撮影をして京都七条の総本家さんの二人写真展をのぞいてきた。拙写併載する。

11.12.15     C54,C55,C57,C11等が走った廃線跡。懐中電灯忘れてえらい目にあう。トンネル内がカーブしており真暗闇でこわかった。右は武庫川渓谷。

11.12.15  草野~古市 2733M 丹波路快速篠山口行き223系

昭和40年前後の浜大津界隈

西村雅幸氏が引き続き浜大津のジオラマを製作されるとのこと、完成を楽しみにしていると共に今度こそ見学に行きたい。

浜大津交差点では何度も撮影しているが、どうしても車両中心になり、お役に立てるかどうか判らないが、取りあえず周囲の風景が写っているものを撮影日順に貼り付けた。
私的には昭和39年の秋頃、京阪の行先板が終点表示から起終点に変わったことが印象に残っている。
石坂線】



13 (39-8-2)


41+43/30形は標準色に塗り替えられ、撮影時点で特急色で残っていたのはこの編成のみであった。(39-8-2)

221(39-8-2)

17/17と18は丸屋根に改造されていた。行先板は起終点表示に変わっている。(39-12-2)

303/近江神宮前行は従来からの終点表示であった。(39-12-2)

3022/中央にパンタがあり、時折本線の乗り入れていたのを学校帰りに実見している。(39-12-2)

 15+16 (40-1-2)

 17+18/2連の時は同じ丸屋根改造車の18と組んだ。
(40-3-18)

 204+205(40-4-2)

 201(41-1-23)

 206(42-5-13)

355/浜大津止りは終点表示 (44-4-10)

272+271/時代は昭和50年代後半まで飛ぶが坂本と石山寺は単独表示に戻った。(56-1-23)

359+360/現在の浜大津駅建設中 (56-1-23)

358+357/以前とは逆に浜大津~坂本間の折り返しが起終点表示となった。(56-1-23)

【京津線】

25 (38-12-25)

56/京阪バスのボンネットバスが写っている。(38-12-25)

22 (39-8-2)

72/寝屋川工場で牽引車として健在 (39-8-2)

273+274 (39-10-2)

22/錦織工場に回送のため渡り線を走行中 (39-12-2)

23 (40-3-18)

55 (40-8-13)

301+302/車体新製直後 (40-8-13)

275+276 (41-1-23)

82/80形はポール時代が最も美しい。(43-5-18)

270+271 (56-1-23)

269+268/浜大津折り返し準急は起終点表示 (56-1-23)

関東鉄道水海道車両基地公開イベント

11月3日、関東鉄道車両基地公開イベントが開催され、午前中時間があったので覗いてみた。
東京都内から水海道は遠いイメージがあるが、つくばエクスプレスの開業により吃驚するほど近くなった。しかし、茨城県、関東鉄道の沿線と聞いただけで遠いイメージを持ってしまうのはやむを得ないかもしれない。

自宅近くのバス停から京成バスに乗ると10分でつくばエクスプレスの八潮駅に到着するが30分間隔と本数が少ないため自転車で行った。程なく来た各駅停車は20分で守谷に到着、関東鉄道に乗り換えて15分で水海道に到着した。関東鉄道は本数が少ないというイメージがあるが取手~水海道間は昼間1時間に4~5本運行されており、守谷~水海道間は始発の下館行が加わるため非常に便利である。水海道には9時30分に到着し、自宅からの所要時間は50分であった。

会場の車両基地まで歩けば20分かかるが、無料シャトルバスが運行されており、10分で到着し、開場前であったが鉄道用品販売コーナーには行列ができていた。
 会場には、DD502、キハ002+キハ001、キハ2102+キハ2101、キハ5002が並べられ、キハ101が乗車会に使用、キハ5002の後ろに綱引き用としてキハ2302+キハ2301、会場の入口に10月10日のお別れ運転で営業を終了したキハ358+キハ3511がさよなら運転時のヘッドマークを付けて停められており、車内には活躍していた頃の写真とヘッドマークが展示されていた。
展示車両の紹介方々、常総線で活躍中の車両を紹介する。

【DD502】
昭和31年製というから車齢56年である。日本車輌で作られたセミセンターキャブのロッド式機関車である。昭和49年貨物営業廃止後は工事列車、新製車の下館からの搬入、イベント時の体験乗車等に使用されてきたが最近休車になった。貴重なディーゼル機関車初期の車両であり是非復活していただきたいものである。


【キハ002+キハ001/形式キハ0】
昭和57年から59年にかけて元国鉄キハ20のエンジン、台車等を流用して新潟鐵工所で車体を新製した。001~008の8両作られ、片運の2両固定編成である。平成9年から10年にかけて冷房改造、17年にはワンマン改造が実施されたが、最近はラッシュ時以外使用されることは少ない。


【キハ2102+キハ2101/形式キハ2100】
平成6年から8年にかけて新潟鉄工所で2101~2112の12両作られた。片運の2両固定編成で、この形式から新塗装になった。平成15年にワンマン改造が実施され主力として活躍中である。
画像は入区してきたキハ2110+2109


【キハ2302+キハ2301/形式キハ2300】
平成12年~14年にかけて新潟鉄工所で2301~2310の10両作られた。在来車との併結は考慮されずに作られ、電気指令式ブレーキを採用している。片運の2両固定編成で主力として活躍中である。

【キハ5002/形式キハ5000】
常総線では最も新しい車両で、平成21年に新潟トランシスで2両作られた両運車である。写真のように新塗装になり、在来車の一部も同様の塗装に変更されている。

 【キハ101/形式キハ100】
元国鉄キハ3055(昭和41年日本車両製)で平成3年2月JR九州より譲り受けた。最終配置は長崎機関区であった。当日は乗車会に使用され、車両基地内約100m間を往復していた。
もう1両のキハ102は元国鉄キハ3096(昭和41年新潟鐵工所製)で平成4年5月JR九州より譲り受けた。最終配置はキハ101と同じ長崎機関区であった。
2両が交代でほぼ毎日下記ダイヤで運行されている。基本的に月曜日と火曜日はキハ102、それ以外の日はキハ101で運行されている。
水海道10:34(土休日は10:33)→下館11:2411:42(土休日は11:44)→水海道12:36

 


【キハ358+キハ3511】
車両の解説は、11月16日【16043】「関東鉄道キハ350形(元国鉄キハ35)営業運転終了」に書かれているので省略するが、10月10日の「さよなら運転」時のヘッドマークを取付けて展示された。車内にはかつて使用されたヘッドマークや写真が展示されギャラリーになっていた。



 10月10日ラストランの時のサボ

車内に展示されていたヘッドマーク



車内に掲示されていた写真



 
  
特急「しもだて」のヘッドマークを付けたキハ3511

「特急しもだて」は実際に運転されていた列車で、昭和32年7月1日より約5年間運転されていた。当初は下館~取手間を途中黒子、下妻停車で60分で結んだ。(後に石下、水海道が追加)

下館、下妻地区から東京方面は、水戸線で小山に出て東北本線、下妻から茨城急行のバスで北越谷に出て東武鉄道のルートと競合関係にあったが、昭和34年宇都宮電化により小山経由のルートが優位に立った。一方下妻からのバスルートは交通量の増加により定時運転が困難になると乗客減となり、岩井で系統が分断されてしまい、遂に下妻~岩井間は廃止され、更に北越谷~岩井間も野田市で系統分断されてしまった。(運賃は直通客が不利にならないよう通しで計算される)
 
 平成17年8月24日「つくばエクスプレス」開業後は、守谷経由「つくばエクスプレス」ルートが優位に立ち、下館~水海道間の増発、下館~守谷間に快速列車の設定が実施された。それに引き替え、守谷~取手間とつくば~東京駅間の高速バスは大幅に乗客減となり、これが鹿島鉄道廃止の原因にもなった。
展示車両以外の各形式について
【キハ310形/キハ311~318】
昭和51年から54年にかけて元国鉄キハ16、17のエンジン、台車等を流用して大栄車輌(311、312)新潟鐵工所(313~318)で車体を新製した。キハ0形と異なり、改造車扱いで車籍を引き継いでいる。台車はラストのキハ318以外は種車のDT19、TR49を履いていたが、昭和58年にDT22、TR51に履き替えた。(キハ318は国鉄時代に履き替え済み)平成11年と14年に冷房改造と方向幕設置によるヘッドライトの移設、17年にはワンマン改造が実施されたが、最近はラッシュ時以外使用されることは少ない。キハ311と312は平成8年3月に廃車されている。
  

改造前のキハ313(58-5-5)/台車は履き替え前のDT19、TR49

【キハ2200形/キハ2201~2204】
平成9年と10年に各2両ずつ水海道~下館間のワンマン運転用に新製された両運車で、キハ2100形をベースにワンマン運転時の利便性の向上のため前後の扉を車端に設置している。キハ2202は最新のキハ5000形と同様の塗装に変更した。


【キハ2400形/キハ2201~2206】
平成16年~18年に各2両ずつ水海道~下館間のワンマン運転用に新製された両運車で、スタイルは前述のキハ2200形と大幅な変化はないが、ベースがキハ2300形のため、在来車との併結はできない。

 ★つくばエクスプレス★
当日はつくばエクスプレスの守谷総合基地の一般公開も実施されており、会場から無料シャトルバスが運行されていたので帰りに立ち寄った。こちらは物凄い人出で、関東大手私鉄のグッズや地元の食品販売のブースが立ち並びお祭り広場のような騒ぎのため、展示されていた電車を撮影して早々に退散した。

【TX-1000系】
秋葉原~守谷間の直流区間専用車で6両編成が14本在籍する。


【TX-2000系】
秋葉原~つくば間で使用される交直両用車で6両編成が20本在籍する。時間帯によりヘッドマークが取替えられていた。
 

昭和44年10月10日 「びわこ号」追っかけ撮影記


 浜大津交差点手前

12月5日【16406】米手作市様の「びわこ号がもう一度見られる?」の記事から、大津の86様が翌日の【16426】「びわこ号の思い出」を投稿されたが、その中で「びわこ号」が石坂線で定期運用に就いていたことを初めて知り、地元の方の情報の重要性を再認識した次第である。
多分、「びわこ号」の石坂線運用の話題は鉄道雑誌に取り上げられたことは無かったと思うがどうであろうか。
61が昭和42年12月、62が昭和43年12月に廃車された後、63が常時錦織に停められていたことは石坂線の車窓から確認していたが、石坂線で定期運用に入っているとは夢にも思っていなかった。

 昭和44年10月10日、鉄道友の会京都支部で「びわこ号」の乗車・撮影会が実施されることを、当時支部長をされていた大西顧問からお聞きした。詳しい時刻等もお教えいただいたので特派員さんはじめ何名かの方と撮影に出かけた。

最初に三条京阪で撮影後、多分走って東山三条に移動して撮影。「びわこ号」は一旦四宮車庫に入庫して撮影会が行われるため、電車で浜大津に先回りして到着を待った。四宮車庫での撮影会はパンタが上がったそうである。電車で錦織車庫に移動し、友の会が引き揚げた後まったり撮影した。当時は頼めば快く車庫内に入れてくれたよき時代であった。

 その後、江若鉄道の線路際まで歩き、走行中の列車やDC251牽引の貨物列車を撮影後、滋賀駅から江若に乗り三井寺下で降りて車庫で撮影後帰宅した。昼飯を食べた記憶がないので、多分「飯より鉄道」であったのであろう。

 大津の86様も書いておられるが、来年は京津線100周年の節目の年、可能であれば動かなくても構わないので、京阪特急色の「びわこ号」を四宮か錦織に里帰りさせて展示していただければと大いに盛り上がるのではないだろうか。我々の世代は「びわこ号」は京津線が似合うと思っている。

三条駅進入


東山三条通過

 浜大津交差点手前

 浜大津駅進入

 京津線から石坂線への渡り線

 錦織車庫

 中間台車


 車内

記念撮影(当時の錚々たるメンバーの揃い踏み)
 
 【以前に撮影したもので比較的マシな写真】

 浜大津を発車した三条行普通
(40-1-2)

 浜大津交差点
(40-1-2)

 東山三条
(41-2-12)

 東山三条
(41-2-12)/隣に三条行の63が見える。

 東山三条
(41-2-12)

 関 三平さんのイラストは「運転席正面の窓がおかしいでっせ」等とツッコミは入れないこと。
この時代、正面の運転席窓が本線の1000形と同じ構造になっている。44年の写真では、通風口が設置されたものに取り替えられていることが判る。(全車取り換えられたのか、63だけかは不明)

 

 

びわこ号の思い出

先日の江若鉄道に続き、今度はびわこ号と、地元民にとって懐かしい話題が続きます。私は大津駅の近くに住んでいますが、小さいころは京都に行くときは大抵の場合京津線を使っていました。昭和40年ころの時刻表を見ると、当時の国鉄は日中1時間に2~3本程度、これに対して京津線は急行、普通が1時間に3本ずつ、急行といっても所要時間は3分しか違いませんから、どちらに乗っても変わりません。また、京都駅周辺は丸物しかなく、買い物、遊びは河原町ですから、利便性からも京津線に軍配があがります。

小学校の遠足となると貸切電車で最寄の上関寺(昭和46年8月廃止)から乗車します。このときに乗ったのがびわこ号、当時はもう通常の運用からは外れていたのではないでしょうか。高校生時代には石坂線で通学していましたが、朝のラッシュ時は錦織車庫に転属になったびわこ号が走っており、ちょうど学校にぎりぎりに着く時間の電車がびわこ号でよく利用しました。石坂線沿線は高校が5つあり、通学時間帯は超満員、乗車駅の島ノ関で乗れずに遅刻したこともたびたびありました。

その当時はSLブームが起こった時代で、地元の旧型電車にはあまり興味がなく、残念ながら地元にいながら、ほとんど写真がなくて、古いネガを見ると錦織車庫で撮った数枚の写真があるだけで走行中の写真は見当たりませんでした。

びわこ号復活の話はうれしいことですが、地元民として残念なのは寝屋川市と京阪がタイアップしてやるとの事、今となっては大津線への乗り入れは不可能となっているものの、来年は大津線100周年でもあり、錦織車庫で復元して大津線で動かしたいところでした。

昭和43年8月錦織車庫にて