朝のドラマで、主人公が岸和田と母方の出所の神戸を往復するシーンがたびたび出てきます。その移動に使う電車がその時代を上手く表しているのですが、どうもその電車は京阪の60・びわこ号らしいのですが誰か知りませんか?
この絵は、ちょうど今話題になっている江若の浜大津駅が後ろに見えています。ちょうど三条方向へ坂を登るところでしょう。
ところでここにも書かれていますが、本当にびわこ号はまた走るのでしょうか?澤村さんは無理だと言っていましたが、どなたか本当のところを教えてください。
最近の駅は、都市部を中心に橋上駅化や高架化により、駅舎がなくなる傾向にあるが、できるだけ意識をして撮影するようにしている。それでも撮影の中心が列車や車両になるため、つい忘れてしまうことが多い。
江若鉄道の末期、有人駅の入場券は全駅集めたが、駅の写真までは撮影しようと思わなかったのであろう。僅かであるが撮影した駅をご覧いただきたい。
浜大津
国鉄から借物の駅舎/39-11-29
駅構内/44-10-26
入換え作業中のキハ51/40-8-13
膳所方面から望む/44-10-26
踏切を通過して浜大津駅に到着。廃止間際のため、後ろは更地になっているが、以前はこの場所に江若バスのターミナルがあった。浜大津には京阪バス、近江バスが頻繁に発着していたが、当時専用のターミナルを持っていたのは江若バスだけである。/44-10-10
踏切を挟み、左がバスターミナル、右が駅であった。/40-3-18
41-11-27
43-9-28
列車の最後部の窓からの撮影。/44-10-14
臨時列車と交換のためホームの無い所に停車した近江今津行。乗客は梯子を使って乗車している。/44-10-10
真野
撮影したのは駅名板のみ。バックに琵琶湖大橋が見える。/44-10-26
蓬莱
近江今津
44-10-12
降雪地帯のため機関庫があった。/44-10-12
始発列車があった和邇駅、朽木方面行バス乗換駅の安曇川駅は拠点駅らしい雰囲気を持っていたが撮影していない。新旭駅も貨物営業をしており、比較的大きな駅であった。
駅舎及び構内、関連施設等を撮影された方は是非発表をお願いしたい。
東京都交通局では10月1日を「荒川線の日」に制定し、毎年この日に近い休日に荒川車庫でイベントを実施している。
今年は10月1日(土曜日)に開催され、都営交通100周年記念の「花電車」撮影会と出発式が実施され、多くの人で賑わった。
荒川車庫の賑わい
Gゲージの模型
普段は荒川遊園地内の下町の都電ミニ資料館に展示されている都電の模型が特別に展示された。沿線にお住いの77歳の大工さんの作品で、車体はペーパーと一部ベニヤ板製で、車内も精巧にに作られている。「車号がちゃいまっせ」等とツッコミは入れないように。
花電車
都営交通100周年を記念して、7500形(7510)を改造して作られた。当初は6月5日、11日、12日、7月23日、8月27日に運行される予定であったが、東日本大震災の影響により、10月1日、10日、16日、23日、30日に延期された。
バースデーケーキをイメージして装飾されており「花電車」と言うより「デコレーション電車」の電車がふさわしいと思う。
検査標記には「ケーキ」と表示されている。
本物のチョコレートと間違う位よく出来ている。
6000形と8800形
浅草線5000系と大江戸線12-000形
ヨヘロ形と日暮里舎人ライナー
円太郎バスと現在の都バス
小台/余談であるが小台で都バス「東43」系統/東京駅丸の内北口行に乗換えができる。
花電車の直前に来た9001
町屋駅前/地元の人が多数カメラを向けている。
花電車のポスター
JR西日暮里駅のポスター/「都電荒川線は山手線大塚駅、京浜東北線王子駅の乗り換えが便利です」と書かれているが、千代田線に乗れば次の駅が町屋である。
夜も見に行ったが撮影していないので、撮影された方は是非発表をお願いしたい。
阪神電車の急行運転1921年6月1日からである。この時の最新車両は301型で、藤井信夫さんは「2両連結で梅田-三宮間を56分で結ぶ急行運転を開始して」と、紹介している。301型はバンドン式連結器を装備し制御方式はGE-MK総括制御器であった。急行運転開始に間に合った増備車は311、321形の20両で、その後に331形40両、鋼製車371形20両が増備された。また、開業時の1号型の増備車10両を総括制御車に1915年に改造したことを、高間恒雄さんは阪神電車形式集・1で紹介している。後に41~50号にまとめられ、1923年に連結運転可能な車体を新製して291形になった。車両構造上、連結運転に不向きであったようで、1号型時代は連結運転されていないようだ。まとめてみると、50ph車で連結運転可能な301~390号と291~300号100両が急行にも運用された訳だ。
371形(後の601形)が登場した頃、国道拡幅がきまり、岩屋から三宮へは地下線化されることになった。それに合わせ急行用と名付けた401形30両が製造された。車体寸法は先の371形同様であったがボギーセンター間距離が延長、乗降扉部床段差とホールディングステップが廃止された。これは急行停車駅の乗降設備が改良された事を物語る。そして何よりもグレードアップしたのは主電動機の出力アップで48.5kw×4となり、制動装置はAMMとなった。制御器と連結器がMKとバンドンのコンビになったのは、301~330号のものを流用したのではないかと、高間さんは解説している。MKは後に東芝PC-5自動進段式になった。この401形は1929年、801型801~830号に改番され、続いて831形10両が1928年、翌年10両増備で831~850号の20両となった。先の801形と車体寸法に変化はないが、「たまご」型は平凡な平妻になった。主要機器や性能は801形と同じである。
三宮地下線化開通は1933年6月であった。これを前に住吉-石屋川間の高架線化が完成、急行は阪神間を48分、普通58分となった。地下線対応の車両は鋼製(内装は木造でもOK)車が要求された。この時点での鋼製車601形20両、801形30両、831形20両、鋼体化車901形が1932年10両、1001形は1931~1933年間の20両、計100両であった。残る木造車50両の鋼体化工事が完了したのは1936年12月、全て1101系となった。
急行用の増備851形は1936年の登場である。1933年から始まった1101系のスタイルとなり、両妻間寸法は13mから14m車体となり、窓配置は車掌台横に小窓を加えている。扉間幕板部に明り取り窓があり、貫通扉折戸のガラス窓が上下に延長され「喫茶室」とか「床屋」と言われた。そして巧みに運転台機器を覆った曲面仕切り板、おかしな運転姿勢となった601、801形の運転機器配置と比べると、851形7両、1937年製造の861形17両は戦前製阪神の代表車と言われた。戦時体制下での増備車881形30両の明り取り窓はなく、851、861、881形54両の走行用機器は、共通化されていた。
神戸市内高架線、地下線化で線路条件は一段と向上した。それを期してスピードアップと増発が実現した。特急が設定され阪神間35分の韋駄天走りとなったのである。この時の急行は45分、普通55分の所要時分となった。特急、急行は12分毎、普通は6分毎となり、“待たずに乗れる阪神電車”はここに誕生したのである。そして1934年6月、特急、普通共に6分毎に、急行を廃止してしまった。この時の途中停車駅は野田、尼崎、西宮、甲子園、芦屋、御影で、元町延長は1936年3月であった。
この時期、車両がどのように運用されていたかは老人の年令では知る由もない。高間さんの形式図集・1では、851形が登場の頃までは1101シリーズが3連で走る特急が紹介されている。初期の急行では601形3連の姿もある。これからみると急行系と普通系は混用されていたようだ。それが明確に分離したのは戦後になってからであろうと思われる。また、601、801、831形の新造時はブルー1色であったという話だ。酒井福三翁からは阪神電車の話なると、ブルー1色の話がよく出てくる。それほどに1924年生まれのポン友は魅了されたようだ。
レールロード社・“阪神電車形式図集”の助けを借りて、くどくど書いたものだ。高間恒雄さん有難う。DRFC現役時代には、京阪と共に拘ってきた。お後はthurkameさんにバトンタッチしよう。
藤本哲男氏の何時もながらのファイトとエネルギーは凄い。9月に後期高齢者になってしまったこの老人には羨ましい限りである。
ところで♯16203の「今でも気になる江若鉄道」で当方が「気になった」ことを。長門鉄道から江若にやってきた小型の旧ガソリンカーだが、長門の記号番号でならキコハ1/ハフ2→コハ6を混同されてはいないか。どちらも加藤車輛製作所製のマイナーな小型で幅も狭いガソリンカーなのだが、キコハ1は両端荷台つきのボギー車で端面はややきつい目のカーブ3枚窓(中央は狭い)、窓は下段上昇式。元キコハ2のハフ2→コハ6は片ボギー車で、ガソリンカー時代はボギー側に片荷台があったが、ハフ化で撤去した。端面がフラットで2枚窓、下降窓。
長門鉄道キコハ1 1955.3.18小月 湯口 徹撮影
江若鉄道ハフ2 入籍手続きをしないまま水泳客輸送にも使っていた 1957.2.15 三井寺下 湯口 徹撮影
江若がキハ42017→キハ11と共に購入したのは、コハ6ではなくキコハ1の方で、これが荷台つきのままハフ2と付番されたが、車籍に編入手続をしないまま。そのくせ夏の書入れ時にはちゃっかり使っていた。荷台に若者が乗るのを防ぐため、嵩上げしており、ちゃんと車体の塗り分けに合わせていた。
先日、浜大津で開催された「江若鉄道再現模型運転会」が大盛況理に終わり、西村さん、特派員さんはじめ関係者の皆様大変お疲れ様でした。
私は新幹線の切符まで購入しておきながら、直前になって断念せざるを得ない状況になってしまい、返す返すも残念な思いで一杯である。
江若鉄道廃止時、特派員さんと一緒に北小松学舎での合宿、三井寺下機関区の見学会、贈呈用アルバムの作成、北小松駅でのイベント、最終日11月1日の切符の手配等を行ったことが10年位前のことのように思い出されるが40年以上も経っているのである。
特派員さんも書かれているが、当時は全学封鎖中で撮影に行くのには好都合であったが、就活中のため9月下旬に今の勤務先の入社試験があったりして落着かない一面もあった。内定通知が来たのは廃止日間近の10月20日頃であったと記憶している。
江若鉄道の幾多の思い出の中から、今でも気になっていることを中心に思いつくまま書いてみた。
お座敷気動車キハ17
お座敷気動車のことはご存知の方も多いが、団体専用ではなく通常運用にも入っていた。使いにくかったことも事実で廃止を待たずに廃車となった。車歴は元国鉄キハ41105で、昭和28年に譲り受け、お座敷車への改造は41年10月である。
三井寺下 (43-9-28)
ぎんれい号で使用中、2両目はハフ3/三井寺下 (41-2-16)
一足先の廃車になり解体中/三井寺下 (44-10-10)
キハ23
元国鉄キハ072(キハ42221→42501)で、昭和38年2月9日付遠江二俣区で廃車になり同年中に譲り受けている。
昭和39年12月2日とほぼ1年後の40年11月29日に撮影しているが、エンジンはもとより運転台機器、ヘッドライトがなくキサハ状態であった。譲り受け時よりこのような状態であったのか、入線後間もなく何かの事情で取り外したのか、今でも疑問に思っている。
三井寺下 (39-12-2)
この時点でもキサハ状態/浜大津 (40-11-29)
三井寺下 (43-10-28)
3両編成の先頭に立つキハ23/後にキニ5、ハフ3と続く 叡山 (44-8-16)
キハ24→キハ5124
元国鉄キハ0724(キハ42023→42523)で、昭和37年6月13日付け大垣電車区で廃車になった。廃車後暫く保管され、昭和39年に譲り受けている。
初めて撮影したのは昭和41年2月19日で、貫通扉付に改造された状態で撮影している。この手の改造は時間がかかるため、譲受け後間もなく改造に着手していると思われ、原形で営業したことがあるとすれば、非常に短い期間である。
昭和41年5月にキハ5124に改番され、廃止後加越能鉄道に譲渡され、江若時代の塗装のままで使用されたが、ここも3年後の47年9月16日に廃止され、関東鉄道に譲渡された。
国鉄→江若鉄道→加越能鉄道→関東鉄道と会社を4回変わっているが、4回も変わった例は珍しい。
キハ24/浜大津 (41-2-19)
後はキハ30改めキハ5120/浜大津 (43-9-28)
【加越能鉄道譲渡後】
石動~福野~庄川町で営業していた加越線に配置されキハ162となった。廃止まで江若時代の塗装のままで使用された。
東山見 (47-10-10)
【関東鉄道時代】
常総線に配置されキハ551となった。片運化、ロングシート化、中央扉の両開化、ヘッドライトの位置の変更等が実施された。
ヘッドライトが離れ目から寄り目になり感じが変わった。/水海道 (50-1-2 )
キハ18→キハ5121
江若のキハ42000(キハ07)グループの中では最も早く入線した。昭和23年3月5日付けで事故により廃車になったキハ42054の車体を購入して自社で整備の上昭和28年に竣工した。昭和41年4月近江今津側の運転台を撤去の上、総括制御編成用に改造して同時に車号をキハ5121に改めた。国鉄時代に見られなかったトラス棒が特徴であった。廃止後、関東鉄道に譲渡された。
浜大津 (39-12-2)
キハ5121+ハ5010+キハ5122+キニ13の4連で浜大津に到着 (44-10-4)
関東鉄道に発送される日 /三井寺下 (44-10-30)
【関東鉄道譲渡後】
関東鉄道にはキハ5121、5122、5210、5123、ハ5010の4両が譲渡された。江若時代の車号のままで、5210が常総線、それ以外の車両は竜ケ崎線に配置され、竜ヶ崎線では従来の車両は予備車1両を残して一掃した。朝夕ラッシュ時は(←竜ヶ崎)キハ5121+ハ5010+キハ5122(→佐貫)の3両編成、閑散時はキハ5123で運行され、竜ヶ崎駅に佇むと浜大津駅にいるような感覚に陥った。
昭和46年ワンマン改造時にハ5010が外され2連になり、座席のロングシート化と運転台の右側移設(竜ヶ崎行の場合すべて右側ホームのため)が実施された。
昭和47年1月キハ521に改番、昭和50年新製車体に載せ替え、平成9年3月廃車になった。
佐貫 (45-3-15)
佐貫~入地 (45-3-15)
ワンマン改造後/佐貫 (48-9-26)
キハ19→キハ5122
昭和24年9月30日付けで、佐賀機関区で廃車になったキハ42017を山陽本線小月~西市間を営業していた長門鉄道が譲り受けてキハ11となった。昭和31年5月1日に同鉄道廃止により江若鉄道が譲り受けた。長門鉄道時代にロングシート化、窓に保護棒の取付けが行われており入線後もそのままであったが、キハ18同様トラス棒が取り付けられた。昭和40年12月に浜大津側の運転台を撤去の上、総括制御編成用に改造して車号をキハ5122に改めた。この時点ではキハ18改造のキハ5121が完成していないため、総括制御編成に改造されたキニ6と組んだ。
この車も国鉄→長門鉄道→江若鉄道→関東鉄道と会社を4回変わっている。
全くの余談であるが長門鉄道から購入時に片ボギーデッキ付のコハ6が一緒に付いてきた。(オマケで付いてきたという説がある)昭和32年の夏、高島町の萩の浜にキャンプに行った時、途中で交換した3両編成の最後尾に両端デッキ付の小型車両が連結されていたことを覚えており、これがコハ6であったと思う。
三井寺下機関区で物置として使用されていたのを見ているが、ダルマ(台車は付いていた)には興味なかったのか撮影していないことが悔やまれる。
キハ19時代「こだま」色の時、後はハフ3/浜大津 (39-12-25)
浜大津 (41-2-19)
高島町 (44-10-4)
【関東鉄道譲渡後】
前述のキハ5121と同じ足跡を辿り、昭和47年の改番でキハ522となった。
竜ヶ崎 (45-3-15)
予備車キハ40402との並び/竜ヶ崎 (45-3-15)
キハ40402は昭和6年日本車輌製で牟岐線の前身阿南鉄道キハ201が前身、鉄道省買収によりキハ40510→キハ40307となり、23年7月鉾田線にホハフ402として入線、27年気動車に復帰して竜ヶ崎線に転属した。
検査標記/江若時代の形式を活かしており、L-29SMのLはロングシート、数字(29)は自重、SMは片側貫通路を表す。検査日の標記は三井寺下機関区を竜ヶ崎機関区に書き直しただけで、こんなんありかと思った。(クロスシート車はC、両側貫通車はM、非貫通車はSで、キハ5121はクロスシートのためC-29SM)
ワンマン改造、改番後/佐貫 (48-9-26)
キハ20
昭和34年4月25日付け大垣電車区で廃車になったキハ079(キハ42047→42508)が前身、扉がプレス製のものに取り換えられている。
三井寺下 (44-10-24)
キハ21
昭和35年8月30日付け岡山機関区で廃車になったキハ0738(キハ42050→42537)が前身。
三井寺下 (44-10-5)
キハ22
昭和36年10月14日付け遠江二俣機関区で廃車になったキハ071(キハ42200→42500)が前身。
三井寺下 (43-9-28)
ハニフ10→ハ5010
昭和12年川崎車輌でキニ10として新製された。同一グループのキニ9、10~13は日本車輌製であった。昭和38年にエンジンを降ろしてハニフ10となり、昭和40年に総括編成の中間車として使用するための改造が実施されハ5010となった。通常はキハ5122と5121の中間に連結されたが固定編成ではなく、いずれかが検査、故障の時は両運のキハ5123等に変わることがあった。廃止後、関東鉄道に譲渡された。
浜大津 (39-12-25)
三井寺下 (44-10-5)
関東鉄道に発送される日 /三井寺下 (44-10-30)
【関東鉄道譲渡後】
竜ケ崎線に配置され、江若時代と同様5121と5122の中間車として3連で江若時代の塗装のままで使用さていたが、昭和46年竜ケ崎線ワンマン化の際編成から外され常総線に転属してキサハ71に改番された。幅の狭い扉とクロスシートは乗客の多い常総線では使い勝手が悪く、僅か1年で筑波線に転属して昭和49年3月廃車になった。
竜ヶ崎 (45-3-15)
筑波線に転属後/真鍋 (48-9-26)
キニ6→キハ5123
初めて撮影したのは昭和41年2月15日で貫通扉が設置され総括編成改造後で、キハ19改造のキハ5121と編成を組んでいた。同年4月にキハ5123に改番されている。←浜大津 キハ5124(24)+5120(30)+5123(6)の3連で使用されることが多かったが、固定編成ではないため、5121、5122の代わりにDTD編成に入ることもあった。廃止後、関東鉄道に譲渡された。
キニ6/浜大津 (41-2-16)
三井寺下 (44-10-5)
【関東鉄道譲渡後】
竜ヶ崎線で使用され、閑散時に単行で使用されたが、両端貫通幌付のため、江若時代同様5121、5122の代わりにDTD編成に入ることもあった。昭和46年ワンマン化の際竜ヶ崎寄りの運転台を右側に移設した。昭和47年1月の改番でキハ531となり、昭和52年3月に車体を新製して載せ替えたが、昭和6年川崎車輌の銘板が新製車体に取り付けられていたのが嬉しかった。
竜ヶ崎 (45-3-15)
ワンマン改造、改番後/佐貫 (48-9-26)
隣は予備車のキハ40302で元国鉄キハ0436(昭和9年川崎車輌製)である。
キハ30→キハ5120
昭和38年大鉄車両で新製した。台車は中古品である。両端に貫通扉が有り、トルコン付きであったが総括制御は不能であった。当時他に総括制御が可能な車両がなかったので、特に必要性はなかったのかも知れない。塗装は赤とクリームの「こだま色」で、在来車の一部(キハ11、19、ハフ2、8)も塗り替えたが、471系色が標準色となったため長続きはしなかった。
昭和40年1月総括制御車に改造、同年4月にキハ5120に改番された。廃止後は関東鉄道に譲渡された。
浜大津 (40-3-28)
浜大津 (43-9-28)
三井寺下 (44-10-5)
【関東鉄道譲渡後】
常総線に配置された。竜ケ崎線に配置された車両は江若色のままであったが、さすがに常総線ではそうもいかず関鉄色に塗り替えた上で使用された。乗客の多い常総線では、2扉クロスシート車は使い勝手が悪く、昭和46年筑波線に転属して、47年の改番でキハ511となった。昭和54年4月筑波鉄道に分社の時、ワンマン化の上竜ヶ崎線に転属させる計画があったため移籍されなかったが、竜ヶ崎線に元国鉄キハ20の台車、主要機器を流用して車体を新製したキハ532が投入されたため、引き続き筑波鉄道で使用されることになり、昭和62年4月1日の廃止まで在籍した。
余談になるが、筑波鉄道には元雄別鉄道の車両が5両在籍して主力として活躍していた。江若のC111が昭和33年雄別鉄道に譲渡され、同鉄道廃止まで活躍したことを思うと、江若と雄別の因縁めいたものを感じる。
後は元小田急キハ753/水海道 (45-3-15)
筑波線転属後/真鍋 (48-9-26)
江若鉄道に話題になるとつい熱くなってしまうが、今回はお座敷気動車と総括制御編成に改造された車両、それに関連して前身が元国鉄キハ07の車両について書いた。次回は客車とその関連で快速列車について書いてみたいと思っている。資料の大部分が京都の実家の物置にあるため、手許の僅かな資料と写真を基に記憶の世界で書いたため、誤りや思い違いがあればご指摘いただきたい。
その1で旧型車は2分類されるとした。新造当初から分類されたのではなく、阪神電車の歩みに関係している。阪神電車は1905年4月12日、大阪市西梅田町-神戸市雲井町間を開業した。当時の国道2号(摂津街道-西国街道)を部分的に掬うように軌道敷を建設し、軌道条例を満たしたことで知られている。そのため随所に道路併用軌道や急曲線が混在し、運転条件向上に弊害があった。開業期の車両は併用軌道でも乗降に便宜を図るため固定ステップを設けた。運転環境を向上させるには、併用区間を廃し停留所の乗降施設を車両の床高に近づける事が要求された。同条件にあった京阪電車は急行停車駅を高床乗降ホームに改修、専用車100号型を1917年に新造した。その後、全駅をこの方式への改修工事に着手、開業以来の1号型は運転台を兼ねた乗降台下に可動式ステップの増設工事をした。これは高床ホームでステップを引き出し対応するものであり、1922年6月に工事施工車37両の竣成届けを大阪府警に提出している。また急行用100号型の新造は23両で打ち切られ、1号型の走行装置を再用し、急行型車体を新造した設計変更名義車が46両投入された。これからみれば京阪は、1922年に全駅で高床ホームによる乗降が可能になったと思われる。「思われる」としたのは京阪50年史を始め100年史でも記載がないからで、運輸面から言えば重要事項であると思っている。
さて阪神の場合はどうであったか、京阪が高床車を導入した頃の日本は日露戦争不況から立ち直り、第一次世界大戦の渦中にあり、重工業地帯が関西では阪神沿線を中心に形成された。そのため阪神の乗客増は1913年と比較すると1919年には3倍になっていた。当然、車両増備は図られたが、車体製造は出来ても走行装置は日本の技術が未熟のため欧米からの輸入に頼り、車両増備はままならない状況にあった。増発が出来ない阪神は、1919年6月に千鳥式運転を編み出し、急場を凌いだ事が知られている。京阪並みの両端デッキなしで中央扉がある最初の車両、301型301~310号は1920年7~9月製造であった。その後は311、321型311~320号、321~330の20両は1921年10月、331型331~370号の40両は1921年10~12月に製造され、一私鉄が年間60両も量産したのは注目される。そして2年後の1923年1、5月に291型291~300号10両が増備され、更に翌1924年には高速電車では日本最初の鋼製車371型371~390号20両が製造された。こうした車両増備が相次ぎ開業以来の1号型50両は姿を消し、51号型16両は北大阪線に移った。
1920年から1924年の5年間で100両の新造車(291型は総括制御器を1型41~50号から転用)を取り揃えた阪神の勢いには圧倒される。これら100両に共通するものは全車両端扉部にホールデンステップがあり、車体両妻が半円形で、後に「たまご」型と言われた。301形のみ正面3ツ窓ダブルルーフで、他はシングルルーフ5ツ窓であった。主電動機は37.3kw(600V)×4個、制御器はGE-MK又はPC、東芝RPCであったが、後に291形のMKを除き自動進段型に統一された。連結器はトムリンソンとなっている。制動装置は不明だが、直通方式に非常弁を追加したもので、4連化の時にSME→AMMとあるからWH方式を採用していたのではなかろうか。
大量の新造車が揃い千鳥式運転は中止となり、1921年6月1日から急行列車が設定された。道路併用区間は住吉以西に残ったが、一部区間では時速35哩(56km)運転、2両連結も認められた。そして住吉-石屋川間の高架線は1929年7月に完成、続いて岩屋―三宮間の地下線工事も着手され、1933年6月開通となった。これでホールデングステップ使用区間は解消された。地下線開通に合わせ、本線系統で使用される木造「たまご」型291~370号の80両は、全て鋼製車体に取り替えられる事になった。こうして出力50hp×4の車両群は、後に普通系と呼ばれることになった。それらは、1931年:1001~1010の10両、1932年:901~910(後に700形と改番)、1013、1014、1017~1020の16両、1933年:1011、1012、1015、1016、1101~1110の14両、1934年1111~1137、1140の28両、1935年:1138、1139の2両、1936年:1141~1150の10両、6年に亘り80両の鋼体化名義車両を生み出したのである。これらは1001形、901型、1101形、1111形、1121形、1141形と分類されている。1001形は2両連結を建前とした広幅貫通路、901形は支線用の両運転台車、1101形以降は汎用車として両運両貫通車、1111形以降は扉間幕板部明り取り窓を設置した。(つづく)
土木学会中国支部が創立70周年記念として今月発刊された「中国地方の選奨土木遺産」という冊子を取り寄せました。土木学会は毎年 全国で20件程度の 歴史的価値がある土木遺産を選んでいるらしく、中国地方分をくわしく解説した冊子でした。その表紙が山陰本線須佐ー宇田郷間にある惣郷川橋梁です。
私はこの橋を含む宇田郷駅周辺の海岸線が気に入って 何度か訪ね、蒸機、DF50,DCなどを撮影した思い出があります。童謡「汽車」の歌詞 「今は山中、今は浜、今は鉄橋渡るぞと 思う間もなくトンネルの・・・・」のごとく まさに日本ののどかな風景がそこにあったからです。
この2枚は昭和49年1月5日の撮影です。ゆるい弧を描き、あたりの風景に溶け込んだこの橋が昭和6年に着工され、昭和8年2月の山陰本線全通の最後の難工事だったとは、全く知らず この冊子を見て知った次第です。平成13年に土木遺産として認定されています。
ということで、鉄道関連の歴史的遺産は各地に多く残されていますが、これらを訪ねる旅もまた一興と思う次第です。ちなみにこの中国地方分ではその他に
(1)岡山市 岡山電軌も上を走る京橋 (2)山陽本線三石周辺のレンガ橋梁群(山陽鉄道の遺産) (3)浜田市郊外の未成線(今福線)のコンクリートアーチ橋群 が登録されています。
では全国ではどうなのかと調べてみたところ、中国地方以外で18件の鉄道関連土木遺産が登録されていました。「阪急大宮駅と大宮・西院間の地下線路」「梅小路機関車庫」なども含まれています。興味のある方は「土木学会」のホームページですぐに調べられますので、見てください。
裏縦貫なんて言葉もすっかり聞かなくなったが、「日本海」には急行時代、特急時代各1往復している。ほかに寝台電車での臨時第二日本海に新潟から乗ったことがある。急行時代とは1960年11月ドーヤン4年生の時、「青信号」用に「レールバス」を徹夜でガリ版筆耕していた。ところがどうしても北海道簡易軌道のレールバス図面が2枚入れたくなり、といって金はなし。小学生の頃から集めていた切手を売ッ払い、その金で学割北海道均一周遊券を買い、その晩日本海に乗った、という無鉄砲な図面取材旅行であった。元来小生は準急すら絶対に乗らない主義だったが、この時は別売りだった急行券が抱き合わせ=イヤでも急行券含みの値段になっていたのである。ただ道内駅員や車掌にはそれが全く教育されておらず、うんざりするほど急行券を買え、急行料を払え/馬鹿抜かせ、二重取りするのか、とやりあい、何度怒鳴ったことか。
特急は遥か後年、1977年の1月である。重沢旦那の肝煎りで、OBメンバーが大挙津軽、南部縦貫に出かけた。小生はその時伊丹の奥に住んでいて、一人だけ大阪から日本海に乗車。菊正宗4合瓶を持参し、メンバーで酌み交わす予定であった。ところが大阪を出るや否や、諸賢に飲用頂く「水薬に、万一にも粗相があってはならじと、利き酒をしたのは確かである。そのうち世の中には不思議なこともあるもので、京都に着いて皆が乗り込んできた時には、その4合瓶は何故かカラになっていた。34年後の今でも不思議で仕方がない。それから何分か停車する度に、誰かが駅のキオスクに走って全員の水分補給に努めた。尤も旦那は全く「水薬」を受け付けないが。
往路の「日本海」ハネ 同席のお客さんは迷惑しただろう すんまへん 反省してます
秋田でT君合流
結構深い雪だった
DL牽引混合列車
ラッセル列車がやってきた
混合列車とDCの離合
これは不思議な列車
客車は旧西武の電車でウエバスト暖房が入る
五所川原機関区
全く火の気のない寒々としたオハ31車内で「もっと暖かそうな顔をしろ!」
約1名はすっかり酩酊していた
確か秋田でT君が合流し、一同打ち揃って津軽鉄道へ。ストーブ列車は残念なことに成人の日で運休だったが、オハ31の車内に入り、「皆暖かそうな顔をしろ」と誰かが命じ、火が入っている積りの記念撮影を。現実の車内は冷え冷えもいいとこで、ゴム長の雪が床に白々としていた。泊まったのは太宰治ゆかりの宿だった。
次の日はどこか失念したが東北本線の駅からタクシーで宿へ。翌朝もタクシーで駅に向かい、南部縦貫鉄道に。乙訓老人はここをパスして十和田観光電鉄に行った筈である。
野辺地駅 バックは有名な鉄道防雪林
西千曳駅 かつては東北本線の駅だった
帰路も特急日本海のハネ。ついつい酒盛りになり、車掌が苦い顔で「宴会ですか」と言ったのが忘れられない。借り切りではないから、他のお客さんにはご迷惑を掛けたと、今頃になって反省している。諸兄、車内のマナーは守りましょうぞ。数を頼んだ狼藉はいけません。厳に慎まれたい。
そうそう、思い出した。メンバーの一人がリュックサックに入れ、何と何と、コーヒーメーカーを持参していた。特急内某所から100Vを借用し、我々にモーニングコーヒーをサービスしてくれた。その御仁も写っているが、サテ誰でしょう?
昨日のニュースで「特急日本海が廃止されるかも」と出ていました。ちょうどその日、東海道線を大阪へ下るEF81に牽かれたブルートレインを見ました。中学生になった頃、あさかぜが20系になってそれを見るため夜行列車に乗って八本松で降りて夜明けのあさかぜを撮ったのを懐かしく思い出します。余談ながら、このとき家出少年と間違えられたのか警官に誰何されたり、八本松の線路端では奇妙な車が行ったり来たりしているのに出くわした。それはカバーをつけたままで走っているようで不思議に思ったのだが後に発売されたマツダキャロルという自動車だとずいぶん後になってからわかりました。
あの頃の鉄道は本当に輝いていました。われわれは日本の鉄道の一番いい時期を生きてきたのかも知れませんね。
下館駅にて 真岡鉄道モオカ633と関東鉄道キハ101
関東鉄道キハ350形が10月10日の「さよなら運転」(事前予約制)を最後に営業運転を終了した。キハ350形は、常総線の旧型車の置換えのため昭和62年から平成5年にかけて国鉄清算事業団とJR東日本からキハ35、キハ36を購入してキハ351~3523としたもので、キハ351、355~357、3518の5両が元キハ36、それ以外の車両は元キハ35である。
元キハ30のキハ301~316と共に常総線の主力として活躍し、平成元年から冷房改造、一部の車両は平成5年から走行エンジンをDMH17HからDMF13HZへの換装が実施されたが、新型車との置換えにより平成10年10月31日付でキハ356(元国鉄キハ3626)、キハ357(元国鉄キハ3615)を皮切りに廃車が始まり、平成23年4月時点で、キハ353(元国鉄キハ35183)、354(同35190)、358(同35118)、3511(同35187)、3518(同3617)、3519(同35163)、3520(同35134)、3521(同35170)の8両が残っていたが、運用に就いていたのはキハ358とキハ3511の2両のみであった。
関東鉄道では、7月22日(金曜日)から8月28日(日曜日)まで、金曜日は水海道13:34→下館14:24/14:39→水海道15:37、土曜日と日曜日は水海道15:29→取手16:01/16:19→水海道16:51/17:00→取手17:31/17:47→水海道18:19のダイヤで運行して、9月10日の事前予約制の「さよなら運転」で営業運転を終了する予定であったが、急遽10月9日までの土、日、祝日に運転されることになり、更に水海道~取手間2往復の前に水海道10:33→下館11:24/11:42→水海道12:36のダイヤが追加された。
9月10日に予定されていた「さよなら運転」は「レトロ列車乗車会」として、キハ3511+キハ358の前にキハ101(元国鉄キハ3055)を連結して3連で運転された。
9月3日(土曜日)と10月2日(日曜日)に撮影に出掛けたのでその時の画像をご覧いただきたい。
10月10日の「さよなら運転」に乗車された方は是非その時のレポートをお願いしたい。
【9月3日】
この日は午後から出かけて、車窓から我孫子~天王台間の電留線に停車中の203系マト55を撮影した。キハ3511+キハ358は、稲戸井~戸頭間、戸頭~南守谷間、寺原駅、西取手駅で撮影した。寺原駅で偶然準特急さんとお会いして稲戸井駅までご一緒したが、守谷~新守谷間で撮影されたようであった。
稲戸井~戸頭間
戸頭~南守谷間
【10月2日】
この日はデカンショまつり号さんに便乗させていただいた。大宝駅で合流して、駅の下妻寄り、下館~大田郷間と水海道機関区の近くの踏切で撮影した。機関区のフェンス越しに休車中のキハ350を撮影後、水海道から2本目の取手行きで乗り納めをした。
この日はキハ101(元国鉄キハ3055)も運用に就いており、大宝駅の下妻寄りと南石下~三妻間で撮影した。
元キハ30の100形は101と102の2両が在籍し、現在もほぼ毎日下記ダイヤで運用に就いている。101は朱一色、102(元国鉄キハ3013)は常総筑波鉄道時代の塗装で、原則として月、火は102、それ以外の日は101が運用に就いている。
水海道10:34(土休日は10:33)→下館11:24/11:42(土休日は11:44)→水海道12:36
大宝駅
太田郷~下館間
水海道機関区付近
水海道駅進入
大宝~下妻間(バックは筑波山)
南石下~三妻(バックは石下城)
キハ101(元国鉄キハ3055)
キハ102(元国鉄キハ3013)
キハ358の車内
キハ3511の車内 (クロスシート横の空間はトイレの撤去跡)
【休車中のキハ350形】
キハ354+キハ353(平成15年11月に開業90周年記念で旧塗装に変更)
キハ3519(キハ3518と共に平成18年11月映画ロケ用に塗装変更)
キハ3518(連結面の窓配置から元キハ36形であったことが判る)
キハ301(元国鉄キハ3016で、昭和61年7月筑波鉄道に譲渡されキハ301となったが、翌62年3月末廃止に伴い常総線に移動後、平成17年11月に廃車になった。解体されずに残っているが荒廃が進んでいる)
国鉄時代全く人気がなかったキハ35系列であるが、姿を消すとなるとやはり寂しい思いがする。人気がなかった理由として、トイレの横以外はオールロングシート、機能一点張りのスタイル等もあるが、使用線区のミスマッチもあったのではないだろうか。当初の目的通り湊町~奈良間のような大都市近郊は良かったが、名古屋~湊町間、京都~福知山間のように長い距離を走ると評判が悪くなるのは当然であった。昭和41年3月の小雪が舞う寒い日の夕方、新見~津山間で乗車したことがあり、駅毎に寒風が広い扉から容赦なく舞い込み、停車時間の長い交換駅では車掌が乗客が来るたびに扉の開閉を行っていた。
キハ30形は、関東鉄道キハ101、102の他、久留里線にキハ3062、98、100の3両が健在で、日常的に運用に入っており、今のところ置換え計画は発表されていないが、来年度以降大きな変化があるものと思われる。
【キハ900形】
正面のスタイルがキハ35とそっくりな車両が在籍したので紹介する。
昭和38年日本車輌で新製されたキハ901、902で、正面以外は大幅に異なり、片開きの3扉、台車は空気バネのNA305Aとキハ35より高級な造りであったが、平成7年廃車になった。撮影時の昭和45年3月15日は中間にキサハ61を挟み、DTDで運転されていた。
キサハ61はキハ41002(元国鉄キハ41124/昭和10年大宮工場製)を昭和37年事故復旧時にキサハ化したもので、台車はキハ41021と振替えている。
地鉄サンクスデー開催!
富山地鉄を舞台にした映画「RAILWAYS 愛を伝えられない大人たちへ」の公開を記念して稲荷町車両基地の電車展示、撮影会とトークショーが10月23日にありました。NHKのニュースを見て知り、稲荷町の車庫が住んでいるところから地鉄電車の線路に沿って10分のところなので昼食を食べてから行ってきました。小雨が降っていましたが、家族づれや鉄道ファンで盛況でした。
▲ 稲荷町車庫では家族づれや鉄道ファンでにぎわっていました。レッドアローと記念写真を撮る人も・・・
トークショーでは映画のプロデューサーである安部秀司さんと映画に出演され新人運転手役の中尾明慶さんが招かれていました。話のなかでプロデューサーの阿部さんは電車が好きで模型を作ったことがあると話されていたので、前作の映画で一畑電鉄を舞台にした事や今回の富山地鉄を選ばれていることからなるほどと思ったしだいです。新米運転手の設定が東京の所沢出身で西武のレッドアローにあこがれていて、その運転手になりたいために富山に来たということになっているそうです。
▲ 車庫内でのトークショー会場 電車の前でトークショーが開催されました。開始前の写真ですが、開始されると立ち見の人が多くいて、大変盛況でした。
富山地鉄の方から聞きましたが、そのレッドアローですが当初は3両編成でしたが、ワンマン化のために現在は2両編成になっています。しかし、映画の封切りを記念して12月ごろから3両編成を復活させるそうです。映画も夫が定年をむかえた夫婦の話で、私も同じような状況であるので興味があり、ぜひとも見ようと思っております。富山で11月19日より先行ロードショーがあるので、見に行こうと思っております。
模型の走っている喫茶店ブルートレイン
富山に来てから通勤で車で通っている道路沿いにブルートレインという喫茶店が気になっていました。どうも店内でHOの模型を走らせているようで、長男が富山に来たのを機会に一緒に行ってきました。
店内の壁際を一周するようにレイアウトがあり、お客さんが来ると模型を運転してくれます。カウンターと椅子席があり、椅子席は写真のように客車のようになっており、窓の外側を模型が走っているようになっています。模型は完成車両と自作車両があり、自作車両は昔の富山電鉄の電車とか、富山港線の旧型電車がありました。マスターにいつごろから始められたんですかとたずねたところ、30年前からはじめたと言われていました。
場所は地鉄市内電車の安野屋停留所のある安野屋交差点から南北の通りある通称けやき通りを南に少し行ったところで西側の並びにあります。富山に行かれた時によってみてはいかがでしょうか。
河さん、準特急さんの要望に応えるべく1959年前後のNEOPAN SSを透かし見て選び出してみた。画調が一定しないのは、その日の天候に勘頼みの露出が追随しなかったこと、自家現像によるスカタン等、もろもろの原因に起因する事であるのでお許し下さい。(その1)は尼崎車庫での撮影である。この時期、老人以外にも車庫訪問した先輩方が沢山おられ、同じ角度で撮影された画も多い。珍しいものではないと思うがその昔、須磨の大人が「50年もすれば貴重な記録になる」と言って、預けておいたフィルムを渡してくれた事が思い出される。ほとんどオシャカになった中で、先日紹介の淡路交通、神戸電鉄は生き残り組の一齣である。
阪神電車本線系の客車は普通系と急行系に分類される。1959年10月1日現在(以下、基準日)のメモに基付いて話を進めてみよう。普通系とされた車種は601、701、1001、1101、1111、1121、1141号型の7群である。共通点は主電動機が37.3Kw(600V)×4個、連結器がトムリンソン、制御器が701号型を除きGE、東芝のPCかPM型自動加速式、制動装置はAMMで、SMEであったものは戦後AMMに改造、長編成化に備えた。701号型は支線用で、主電動機出力は同様、制動装置はRL-7型非常弁付きの直通制動(SME)、制御器はGE・MK 型手動加速式であった。基準日には709号1両が貨車(事業用・救援車)として残存していた。1958年度末に702、707の2両が残っていたが、1959年5月7日廃車となり本線系統(伝法、海岸、武庫川線を含む)から姿を消している。急行系は801、831、851、861、881号型の5群で、共通点は主電動機が48.5kw(600V)×4個、連結器はバンドン、制御器はGE、東芝のPCかPM型自動加速式、制動装置はAMMであった。
基準日に本線上をどれだけ疾走していたのか、普通系は601号型原型12両復旧型6両、1001号型7両、1101号型系47両、計72両で、急行系は801型原型25両、復旧型4両、831型原型14両、復旧型6両、851型7両、861型16両、881型29両、計101両、合計173両となる。3車種について原型と復旧型があるが、復旧型とは被災車復旧に当り車体前頭(乗務員室部分)に手を加えたものである。その姿は写真を見て頂ければ一目瞭然である。被災とは火災、戦災などで焼失した車両を、一旦廃車手続きをした後に復帰させ、台枠などを再用し新設計の車体を造ったものである。終戦直後の混乱期、新車は63形以外認められない時代にとった苦肉の策である。
尼崎車庫へ調査に伺った時、目に止まった車両を許可なしに撮影した。咎められることなく、京阪守口車庫での行為と同じである。今では考えられないことが許され(放任)ていたことになる。比較的写りの良いものとしたので全型式となっていないが、欠けたものは(その2)の走行写真でお許しを乞うことにしよう。尚、5001、5002号は新造ジェットカーと併結可能工事のため入場中のもので、残念ながら走行する姿を見つけることは出来なかった。
烏丸車庫の廃車群
西村雅幸さんの大奮闘で浜大津のイベントは幕を閉じた。今回の様に感動の場の連続は生まれて初めてであった。西村さん、ご苦労さまでした。暫くゆっくり休養なさって下さい。
200形の廃車群で車号が分かるのが北端の215と南端の203である。215の廃車日付は1953年7月1日付、203は1954年5月15日付となっている。1954年は老人が洛北高校入学の年で、須磨の大人は朱雀高校最終学年(高3)と思われる。下総町電停(西南角には鞍馬口病院、東南角は交通局鞍馬口変電所)東入る南側に木造2階建ての近畿予備校があった。老人の実兄も1年お世話になった当時、京都で最も著名であった予備校であった。話はそれたが、廃車日付からみれば1954年葵祭頃には並べられていたのであろう。
1953年度廃車5両209、215、217、258、268に見合う新車は3月登場の800形866~870の5両、1954年廃車8両203、204、242、246、264、274、278、293に見合う新車は5月登場の871~880の10両となる。2年度に亘りに廃車となったものの内、9両が烏丸車庫に集められ部品取りや解体の日を待っていたのであろう。部品取りと言うのは1955年12月新製の881~890は、制御器その他、再使用可能なものを外し次期の新車に再利用されたのであった。鉄や金属類は専門業者に、木部は風呂屋に払下げられた。老人の下鴨の生家の隣家(南側)は稲荷湯と言う銭湯、風呂屋であった。中高校のころ時々風呂屋の親父(石川県出身)は烏丸車庫からゴムタイヤの荷車で、200型の木部廃材を運び込み燃料としていた。因みに302は1958年4月3日廃車となっている。
「諸悪の根源」と言われたブリル79E型に似た住友製鋼所製の台車を採用した200、300形、前後左右によく揺れゆれた。でも1形のブリル21E形の前後の揺さぶりよりましだったかな?江若鉄道の事と言い、久しぶりに半世紀以前の事を思い出すことが出来た。
西村さん、有難う!よくやって下さった。1本〆をする前に聞いた話では有料入場者数は987人、これに招待者数を加えると優に1,000人を超えた訳だ。江若鉄道関係の伝播は、新聞で知った人が電話で次々と伝えて言ってくださった力によるものが大きいと思う。これこそが、鉄道が地域に密着している最高の事例と言えるのではないか!
ぶんしゅう氏からドイツ鉄道のローカル線事情を、とお尋ねがあった。老人は1988年に路面電車同好会に入会して以来、ドイツ市電の姿を知りたいと思った。従って彼の要望に応えることが出来ないと思うのだが、2003年ドイツ一周旅行をした時、各地の駅で見たローカル線で走っているであろうと思われる気動車を紹介しよう。
お多分に漏れずドイツのローカル線もほとんどが非電化線である。本線筋が民有化された後、閑散線(旧東ドイツ圏に多い)は第3セクターとなり、それらの新しい車両は白に緑の塗分けが多いので見分け易い。ドイツでローカル線用と言えば日本のキハ01のモデルとなった4輪車が知られているが、2003年初めて旧東ドイツ圏でお目にかかったが、事業用車として側線で昼寝をしている姿のみであった。4輪車については、須磨の老人が詳しいので蘊蓄を語ってくれると思う。
老人が初めて見ることが出来た気動車は1996年、シュトラスブルグ(フランス領、本来語尾はブールと発音する)から国境であるライン河を越えて最初の駅、ケールで行き違った国境連絡列車であった。フランス、ドイツの国境区間は交流ながら電圧が異なり、ローカル列車はDCによる運転もあり、写真①628系と称する2両固定編成が運転されていた。2両の内1両の区画1/3が1等、1/3・2等、1/3自転車持込スペースであった。2003年には旧東ドイツ圏ハレ→ハルバーシュタット間でも乗ったが、なかなかの優れものであった。発車は押ボタン、運転手は窓から半身を乗り出し後方確認である。最大速度は120キロ、自動運転である。停車はオフとした後、横のボタンを押し減速、更に別のボタンを押す。日本の様に階段緩めをして停車寸前に全緩めチョイ入れの名人芸なしで、ガガガッゴッツンで停車した。液体式か電気式なのか分からぬままである。
後日ウルムからフライブルグへ向かう途中、ドナウ川源流沿いの曲がりくねった区間でも乗った。途中駅で小学生の団体が30人ばかり乗って来た。座席のない子供たちは我々が乗っている合造車になだれ込み、無人の1等座席をてんでんに占拠してしまった。そこへ大柄のおばちゃん車掌が出現、子供たちを2等車に追い込んだ。後で見に行くと3人掛けで収まっていた。教師は知らん顔、これがドイツ流らしい。これらの2両編成、1996年に乗った時は白に窓廻り淡青の2トーンであったが、民有化(ドイツ鉄道)後、写真②赤主体に裾まわり白の標準色となり、旧東ドイツ圏でも見られるようになった。非電化ローカル線の標準的な列車編成は、写真③DL牽引の客車列車で、これはペンテルツーク(振子:行ったり、来たり)運転、最後尾車は制御車なのである。
ドイツ中部ライプチィッヒから西へ約50㎞、ナウムブルグと言う人口3万の元城下町がある。この町の市電はイヴェントに合わせての不定期運転。RE(地域急行、日本なら快速)で到着したらホーム反対側に、写真④低床4輪車が停車していた。車体長は確実に10m超のもので日本ならボギー車となるものだ。このあたりの第3セクターが、ドイツ鉄道の駅に乗り入れているのであった。これは日本にない姿である。
ドレスデンから西へ100km強、ツビカウと言う人口11万の都市がある。駅に到着すれば反対ホームに、写真⑤3車体連接車が停車中。よく見れば前後は1軸台車。中央は4軸ボギー構造になっている。このDCが駅外れから、写真⑥3線軌条で市の中心部に乗り入れている。そして、この第3セクターは市電乗り入れのみならず、大都市へ直行するため、写真⑦本線急行用DCも保有していた。
ドレスデンから西へ245km、エルフルトと言う人口20万人の都市がある。駅の東隣にインターシティホテルがあり、駅から南へ電車通りを5分も歩けば繁華街(居酒屋あり)であり、とても便利なところだ。老人は朝9時20分に駅ホームに出てみたら、写真⑧満員の大型DC重連が到着した。まず人が出て、次いで自転車族が降車するのを目の当たりにした。第3セクターに転換された沿線からの通勤客であった。これと同型車両を環境都市で知られるフライブルグでも見た。テレビ放映では、休日はDCで郊外へサイクリングに行くのが楽しみだ、との市民の声が紹介されていた。