先日、浜大津で開催された「江若鉄道再現模型運転会」が大盛況理に終わり、西村さん、特派員さんはじめ関係者の皆様大変お疲れ様でした。
私は新幹線の切符まで購入しておきながら、直前になって断念せざるを得ない状況になってしまい、返す返すも残念な思いで一杯である。
江若鉄道廃止時、特派員さんと一緒に北小松学舎での合宿、三井寺下機関区の見学会、贈呈用アルバムの作成、北小松駅でのイベント、最終日11月1日の切符の手配等を行ったことが10年位前のことのように思い出されるが40年以上も経っているのである。
特派員さんも書かれているが、当時は全学封鎖中で撮影に行くのには好都合であったが、就活中のため9月下旬に今の勤務先の入社試験があったりして落着かない一面もあった。内定通知が来たのは廃止日間近の10月20日頃であったと記憶している。
江若鉄道の幾多の思い出の中から、今でも気になっていることを中心に思いつくまま書いてみた。
お座敷気動車キハ17
お座敷気動車のことはご存知の方も多いが、団体専用ではなく通常運用にも入っていた。使いにくかったことも事実で廃止を待たずに廃車となった。車歴は元国鉄キハ41105で、昭和28年に譲り受け、お座敷車への改造は41年10月である。
三井寺下 (43-9-28)
ぎんれい号で使用中、2両目はハフ3/三井寺下 (41-2-16)
一足先の廃車になり解体中/三井寺下 (44-10-10)
キハ23
元国鉄キハ072(キハ42221→42501)で、昭和38年2月9日付遠江二俣区で廃車になり同年中に譲り受けている。
昭和39年12月2日とほぼ1年後の40年11月29日に撮影しているが、エンジンはもとより運転台機器、ヘッドライトがなくキサハ状態であった。譲り受け時よりこのような状態であったのか、入線後間もなく何かの事情で取り外したのか、今でも疑問に思っている。
三井寺下 (39-12-2)
この時点でもキサハ状態/浜大津 (40-11-29)
三井寺下 (43-10-28)
3両編成の先頭に立つキハ23/後にキニ5、ハフ3と続く 叡山 (44-8-16)
キハ24→キハ5124
元国鉄キハ0724(キハ42023→42523)で、昭和37年6月13日付け大垣電車区で廃車になった。廃車後暫く保管され、昭和39年に譲り受けている。
初めて撮影したのは昭和41年2月19日で、貫通扉付に改造された状態で撮影している。この手の改造は時間がかかるため、譲受け後間もなく改造に着手していると思われ、原形で営業したことがあるとすれば、非常に短い期間である。
昭和41年5月にキハ5124に改番され、廃止後加越能鉄道に譲渡され、江若時代の塗装のままで使用されたが、ここも3年後の47年9月16日に廃止され、関東鉄道に譲渡された。
国鉄→江若鉄道→加越能鉄道→関東鉄道と会社を4回変わっているが、4回も変わった例は珍しい。
キハ24/浜大津 (41-2-19)
後はキハ30改めキハ5120/浜大津 (43-9-28)
【加越能鉄道譲渡後】
石動~福野~庄川町で営業していた加越線に配置されキハ162となった。廃止まで江若時代の塗装のままで使用された。
東山見 (47-10-10)
【関東鉄道時代】
常総線に配置されキハ551となった。片運化、ロングシート化、中央扉の両開化、ヘッドライトの位置の変更等が実施された。
ヘッドライトが離れ目から寄り目になり感じが変わった。/水海道 (50-1-2 )
キハ18→キハ5121
江若のキハ42000(キハ07)グループの中では最も早く入線した。昭和23年3月5日付けで事故により廃車になったキハ42054の車体を購入して自社で整備の上昭和28年に竣工した。昭和41年4月近江今津側の運転台を撤去の上、総括制御編成用に改造して同時に車号をキハ5121に改めた。国鉄時代に見られなかったトラス棒が特徴であった。廃止後、関東鉄道に譲渡された。
浜大津 (39-12-2)
キハ5121+ハ5010+キハ5122+キニ13の4連で浜大津に到着 (44-10-4)
関東鉄道に発送される日 /三井寺下 (44-10-30)
【関東鉄道譲渡後】
関東鉄道にはキハ5121、5122、5210、5123、ハ5010の4両が譲渡された。江若時代の車号のままで、5210が常総線、それ以外の車両は竜ケ崎線に配置され、竜ヶ崎線では従来の車両は予備車1両を残して一掃した。朝夕ラッシュ時は(←竜ヶ崎)キハ5121+ハ5010+キハ5122(→佐貫)の3両編成、閑散時はキハ5123で運行され、竜ヶ崎駅に佇むと浜大津駅にいるような感覚に陥った。
昭和46年ワンマン改造時にハ5010が外され2連になり、座席のロングシート化と運転台の右側移設(竜ヶ崎行の場合すべて右側ホームのため)が実施された。
昭和47年1月キハ521に改番、昭和50年新製車体に載せ替え、平成9年3月廃車になった。
佐貫 (45-3-15)
佐貫~入地 (45-3-15)
ワンマン改造後/佐貫 (48-9-26)
キハ19→キハ5122
昭和24年9月30日付けで、佐賀機関区で廃車になったキハ42017を山陽本線小月~西市間を営業していた長門鉄道が譲り受けてキハ11となった。昭和31年5月1日に同鉄道廃止により江若鉄道が譲り受けた。長門鉄道時代にロングシート化、窓に保護棒の取付けが行われており入線後もそのままであったが、キハ18同様トラス棒が取り付けられた。昭和40年12月に浜大津側の運転台を撤去の上、総括制御編成用に改造して車号をキハ5122に改めた。この時点ではキハ18改造のキハ5121が完成していないため、総括制御編成に改造されたキニ6と組んだ。
この車も国鉄→長門鉄道→江若鉄道→関東鉄道と会社を4回変わっている。
全くの余談であるが長門鉄道から購入時に片ボギーデッキ付のコハ6が一緒に付いてきた。(オマケで付いてきたという説がある)昭和32年の夏、高島町の萩の浜にキャンプに行った時、途中で交換した3両編成の最後尾に両端デッキ付の小型車両が連結されていたことを覚えており、これがコハ6であったと思う。
三井寺下機関区で物置として使用されていたのを見ているが、ダルマ(台車は付いていた)には興味なかったのか撮影していないことが悔やまれる。
キハ19時代「こだま」色の時、後はハフ3/浜大津 (39-12-25)
浜大津 (41-2-19)
高島町 (44-10-4)
【関東鉄道譲渡後】
前述のキハ5121と同じ足跡を辿り、昭和47年の改番でキハ522となった。
竜ヶ崎 (45-3-15)
予備車キハ40402との並び/竜ヶ崎 (45-3-15)
キハ40402は昭和6年日本車輌製で牟岐線の前身阿南鉄道キハ201が前身、鉄道省買収によりキハ40510→キハ40307となり、23年7月鉾田線にホハフ402として入線、27年気動車に復帰して竜ヶ崎線に転属した。
検査標記/江若時代の形式を活かしており、L-29SMのLはロングシート、数字(29)は自重、SMは片側貫通路を表す。検査日の標記は三井寺下機関区を竜ヶ崎機関区に書き直しただけで、こんなんありかと思った。(クロスシート車はC、両側貫通車はM、非貫通車はSで、キハ5121はクロスシートのためC-29SM)
ワンマン改造、改番後/佐貫 (48-9-26)
キハ20
昭和34年4月25日付け大垣電車区で廃車になったキハ079(キハ42047→42508)が前身、扉がプレス製のものに取り換えられている。
三井寺下 (44-10-24)
キハ21
昭和35年8月30日付け岡山機関区で廃車になったキハ0738(キハ42050→42537)が前身。
三井寺下 (44-10-5)
キハ22
昭和36年10月14日付け遠江二俣機関区で廃車になったキハ071(キハ42200→42500)が前身。
三井寺下 (43-9-28)
ハニフ10→ハ5010
昭和12年川崎車輌でキニ10として新製された。同一グループのキニ9、10~13は日本車輌製であった。昭和38年にエンジンを降ろしてハニフ10となり、昭和40年に総括編成の中間車として使用するための改造が実施されハ5010となった。通常はキハ5122と5121の中間に連結されたが固定編成ではなく、いずれかが検査、故障の時は両運のキハ5123等に変わることがあった。廃止後、関東鉄道に譲渡された。
浜大津 (39-12-25)
三井寺下 (44-10-5)
関東鉄道に発送される日 /三井寺下 (44-10-30)
【関東鉄道譲渡後】
竜ケ崎線に配置され、江若時代と同様5121と5122の中間車として3連で江若時代の塗装のままで使用さていたが、昭和46年竜ケ崎線ワンマン化の際編成から外され常総線に転属してキサハ71に改番された。幅の狭い扉とクロスシートは乗客の多い常総線では使い勝手が悪く、僅か1年で筑波線に転属して昭和49年3月廃車になった。
竜ヶ崎 (45-3-15)
筑波線に転属後/真鍋 (48-9-26)
キニ6→キハ5123
初めて撮影したのは昭和41年2月15日で貫通扉が設置され総括編成改造後で、キハ19改造のキハ5121と編成を組んでいた。同年4月にキハ5123に改番されている。←浜大津 キハ5124(24)+5120(30)+5123(6)の3連で使用されることが多かったが、固定編成ではないため、5121、5122の代わりにDTD編成に入ることもあった。廃止後、関東鉄道に譲渡された。
キニ6/浜大津 (41-2-16)
三井寺下 (44-10-5)
【関東鉄道譲渡後】
竜ヶ崎線で使用され、閑散時に単行で使用されたが、両端貫通幌付のため、江若時代同様5121、5122の代わりにDTD編成に入ることもあった。昭和46年ワンマン化の際竜ヶ崎寄りの運転台を右側に移設した。昭和47年1月の改番でキハ531となり、昭和52年3月に車体を新製して載せ替えたが、昭和6年川崎車輌の銘板が新製車体に取り付けられていたのが嬉しかった。
竜ヶ崎 (45-3-15)
ワンマン改造、改番後/佐貫 (48-9-26)
隣は予備車のキハ40302で元国鉄キハ0436(昭和9年川崎車輌製)である。
キハ30→キハ5120
昭和38年大鉄車両で新製した。台車は中古品である。両端に貫通扉が有り、トルコン付きであったが総括制御は不能であった。当時他に総括制御が可能な車両がなかったので、特に必要性はなかったのかも知れない。塗装は赤とクリームの「こだま色」で、在来車の一部(キハ11、19、ハフ2、8)も塗り替えたが、471系色が標準色となったため長続きはしなかった。
昭和40年1月総括制御車に改造、同年4月にキハ5120に改番された。廃止後は関東鉄道に譲渡された。
浜大津 (40-3-28)
浜大津 (43-9-28)
三井寺下 (44-10-5)
【関東鉄道譲渡後】
常総線に配置された。竜ケ崎線に配置された車両は江若色のままであったが、さすがに常総線ではそうもいかず関鉄色に塗り替えた上で使用された。乗客の多い常総線では、2扉クロスシート車は使い勝手が悪く、昭和46年筑波線に転属して、47年の改番でキハ511となった。昭和54年4月筑波鉄道に分社の時、ワンマン化の上竜ヶ崎線に転属させる計画があったため移籍されなかったが、竜ヶ崎線に元国鉄キハ20の台車、主要機器を流用して車体を新製したキハ532が投入されたため、引き続き筑波鉄道で使用されることになり、昭和62年4月1日の廃止まで在籍した。
余談になるが、筑波鉄道には元雄別鉄道の車両が5両在籍して主力として活躍していた。江若のC111が昭和33年雄別鉄道に譲渡され、同鉄道廃止まで活躍したことを思うと、江若と雄別の因縁めいたものを感じる。
後は元小田急キハ753/水海道 (45-3-15)
筑波線転属後/真鍋 (48-9-26)
江若鉄道に話題になるとつい熱くなってしまうが、今回はお座敷気動車と総括制御編成に改造された車両、それに関連して前身が元国鉄キハ07の車両について書いた。次回は客車とその関連で快速列車について書いてみたいと思っている。資料の大部分が京都の実家の物置にあるため、手許の僅かな資料と写真を基に記憶の世界で書いたため、誤りや思い違いがあればご指摘いただきたい。
藤本様
貴重な江若の写真、ありがとうございました。私も多くを撮っているのですが、廃止直前ばかりで、ここにある、こだま色のDCも、キサハも、撮っていないどころか、記憶すらありません。
今日、“偲ぶ会”があり、広島から来られた西村さんと「手元の僅かな資料でこれだけ書けるなら、実家にある大部分の資料があれば、どんなスケールになるのか」と驚いていました。
西村さんとは、つぎの企てを考えています。藤本さんにも、ぜひご協力、お願いいたします。
藤本様
浜大津でお会いできなかったのは残念ですが、今回のイベントが思いの外好評だったので、来年の京津線100周年にからめて 今度は浜大津の再現を懇請されています。江若だけではなく 浜大津ターミナル全体のいろいろな角度からの写真も必要なため 特派員氏のコメントにある企画とともに 今後とも情報提供などのご協力をお願い致します。
特派員さん、西村雅幸さん、コメント有難うございます。今回は諸般の事情で何のお手伝いもできず申し訳ございませんでした。
湖西地区の中年以上の方が、今でも江若鉄道のことをよく覚えておられるということは、生活に根付いて大きな役割を果たしていたということに他ならないと思います。
来年は京津線100周年ですか。6年前の総会で浜大津に行った時、あまりの寂れようにびっくりしました。湖西線の影響は大きいと思いますが、地下鉄東西線により京阪本線と分断されてしまった影響も大きいのではないでしょうか。
地下鉄東西線開業時に、京阪が御陵~三条京阪間の営業権を主張しておれば、今の割高な運賃は解消できたのではないかと思います。寝屋川、枚方、伏見と大津、石山との地域間交流はあると思います。三条京阪をノーラッチにして大津まで京阪1本で行けるという意識を持てば乗客が増えると思います。そのためにも浜大津の活性化は必要です。
余談になりますが、我が家からほど近い関東鉄道竜ケ崎線は今年111週年を迎え、11月3日にささやかなイベントが行われました。