私と江若鉄道

総本家青信号特派員さまの記事に、当時を思い出して資料をあさってみました。

私も1030日、111日と撮影に行っていました。当時高3で、30日は木曜日、授業が終わって出かけたのか、浜大津駅付近で撮影、111日は三井寺-滋賀の間と最終のサヨナラ列車を浜大津で撮影していました。沿線風景もなくお見せできるような写真はありませんので、江若鉄道にちなんだグッズを紹介させていただこうと思います。

廃線の日から何日か経ったある日、父が大きな紙包みを持って帰ってきました。何かと思って開けてみると、江若鉄道のサボと三井寺下駅?にあった「危険品ご注意」の看板、それに乗車券が何枚か入っていました。父の知り合いに江若鉄道の本社の事務の方がいて、私が鉄道趣味だということを知ってくれたのです。

サボは写真の3種類、1枚は総本家青信号特派員さまも「江若あれこれ話しその1」で触れられている快速「ひら号」、裏面が、冬のスキーシーズンに同様に運転された快速「マキノ号」、もう1枚はただの快速となっていますので、朝の浜大津行き、夕方の近江今津行き各1本定期運行されていた(廃止時)快速に使われていたものと思います。

危険ご注意の看板は上に鎖、または針金でぶら下げるようになっているので、改札口の上にあったのではないかと思います。

また、切符はいろいろありましたが、面白いものをあげてみました。上段左は当時の国鉄との連絡切符、江若は昭和22年から40年まで膳所駅に乗り入れしていましたが、本数少なく、この切符の連絡は大津駅、徒歩で15分程度かかる離れた駅を連絡する切符でした。上段右は、普通の硬券ですがよく見ていただくと運賃20円と書いた上に運賃変更のスタンプが押してあります。日付は昭和441026日となっており、いつから運賃改定されたのか分かりませんが、昭和424月の時刻表見ると既にこの区間運賃は30円となっていて2年以上経っているのにまだ以前印刷したものが残っていたのです。

左中、下段は京阪との連絡切符で、これは浜大津の駅が京阪、江若で隣接しているため、本来の形かと思いますが、近江木戸は快速も止まらない駅で、わざわざ大阪からの連絡切符を作るような需要があったとは思えません。また、右中、下段は駅名が記入できるようになっているのですが、本来は中段の形で、堅田駅に常備されていて、発売の際に行き先をスタンプ、または手書きで書いたと思われますが、下段のものはどの駅に置いてあったのでしょうか?

今回のイベント案内いただき、久しぶりに私の青春時代も思い出させてくれました。最後に廃止翌日の新聞の切り抜きを添付しました。当日楽しみにしております。

昭和45年3月の小湊鉄道

10月10日【15353】「デジ青で外回り鉄」でkawanaka_t氏より出張時業務終了後に海土有木で撮影された画像を紹介があったが、用務先が千葉県市原市方面の場合は小湊鉄道に行かれる方が多いようである。前回の私の場合は業務終了予定時刻を15時頃と予想して、上総山田~光風台間の養老川鉄橋か、上総牛久~上総川間間で撮影しようと思っていたところ、午前中に終わったため大原まで横断することができた。

 小湊鉄道を初めて訪れたのは昭和45年3月のことで、キハ200形は201~206の6両のみで、それ以前に製作された車両も日常的に運用に就いており、特に元国鉄キハ41000形はキハ200形と共に主力として活躍していた。撮影した画像から当時を振り返ってみた。

 キハ100形(100、101)
昭和8年に2両新製された16m級車で、同じ年に新製された鉄道省のキハ36900形(→キハ41000形)と同サイズであった。当初の呼称は「ジハ」であった。ジハ100が川崎車輌、ジハ101が日本車輌で作られた。当初はガソリンエンジン(コンチネンタル16H)であったが、昭和16年に天然ガス動車となり、昭和25年に日野DMF54Iに換装されディーゼル化、昭和31年にDMF13に換装された。
湯口先輩の「内燃動車発達史・上巻」のP90にジハ101の新製時の写真、P91に昭和34年に撮影されたジハ100の写真が掲載されているのでご覧いただきたい。運転席窓の庇は、戦後の車体更新、ヘッドライトの移設時も撤去されず、この車のトレードマークになっていた。キハ200形の増備により、昭和47年2月廃車になった。

 キハ41000形(41001~41004)
昭和24年、国鉄で廃車になったキハ41000形を4両譲受け、25年に富士産業で機関を日野DA55に換装の上使用した。昭和30年にはDMF13に換装した。主力として活躍したが、キハ200形の増備により41003、41004が昭和48年7月に、41001、41002が50年5月に廃車になった。

 キハ6100形(6100、6101)
国鉄で廃車になったクハ6100形の6100と6101を昭和31年3月に譲り受け気動車に改造した。クハをキハに変えただけで車号はそのままである。
クハ6100形は元青梅電鐡のモハ100形で、101、102が大正15年日本車輌、103~106が昭和3年川崎造船所で作られた。青梅電鐡は昭和19年4月1日鉄道省に買収されたが、電気機器の相違から同年11月に電装解除されクハとなった。戦後も早い時期に整理の対象になり、昭和28年6月1日の改番まで残ったのは元モハ102のクハ6100とモハ104のクハ6101の2両のみで昭和30年1月廃車になった。佐竹先輩の「私鉄買収国電」のP27にクハ6100、P28にクハ6101の写真が掲載されているのでご覧いただきたい。
気動車への改造は6100が日本車輌、6101は帝国車両で行われ、正面窓は当時流行の2枚窓になった。他車がツートンカラーに変更後も茶色のままで、晩年は貨物列車の牽引に使用されていた。廃車は6100が昭和49年10月、6101が昭和52年12月である。

  キハ5800形(5800、5801)
国鉄で廃車になったクハ5800形の5800、5801を昭和35年2月に譲り受け気動車に改造した。クハをキハに変えただけで車号はそのままである。
クハ5800形(5800~5804)は元三信鉄道のデ301形(301~305)であるが、車歴を辿ると大正3年まで遡る。飯田線天竜峡~三河川合間の三信鉄道は、昭和7年10月天竜峡~門島間の開業を皮切りに部分開業を重ね昭和12年8月大嵐~小和田間の開通により全通した。この開通により現在の飯田線の豊橋~辰野間が結ばれた。
クハ5800、5801の前身は鉄道省の大正3年日本車輌製のモニ3009、3010で、昭和9年9月廃車後、三信鉄道に譲渡され、昭和11年4月日本車輌で鋼体化の上、デ301、302となった。扉間には窓に合わせたゆったりしたクロスシートが並ぶ車内は長距離運転に相応しいものであった。昭和18年8月1日辰野~天竜峡間の伊那電鉄、三河川合~大海間の鳳来寺鉄道、大海~豊橋間の豊川鉄道と共に買収され飯田線となった。
301は昭和26年12月、302は27年1月に電装解除の上、片運化されクモハ(クハ代用のモハ)301、302となり、昭和28年6月1日の改番でクハ5800、5801となった。クハ化の際に連結器が密連になり、伊那松島区の配置となりモハ14等の国鉄型モハとMT編成を組み、中部天竜~名古屋間の臨時快速「天竜号」に使用されることもあった。昭和34年2月全車廃車され、5800、5801が小湊鉄道、5802が伊豆箱根鉄道、5803、5804が大井川鉄道で再起した。
飯田線時代のクハ5800、580iの写真は「私鉄買収国電」のP103に掲載されているのでご覧いただきたい。
キハ5800は平成9年6月30日付けで廃車され、現在も五井機関区で保管されているが、私鉄時代の飯田線の生き証人として電車に復元の上、然るべき場所(例えば佐久間レールパーク跡地に飯田線所縁の車両を集めて博物館を作る等)で保存できないものかと思う。
キハ5801は昭和52年12月に廃車されている。

 キハ200形(201~214)
昭和45年3月時点では201~206の6両在籍していたが、その後の増備車も含めて解説する。
キハ20と同系であるが最大の違いは、窓配置もさることながら、ロングシートと自動扉ではないだろうか。余談になるが8月30日に乗車時、上総中野を発車後のアナウンスの前に元国鉄で使用していたものと同じメロディー(♪パパパパパーン・♪パパパパーン・♪パパパパパパパパーン)が流れ思わず感激した。
201、202が昭和36年12月、203、204が38年4月、205、206が38年12月、207~210が45年12月、211、212が50年3月、213、214が52年10月に作られ、メーカーはすべて日本車輌である。45年製の207以降は扉の形状が変わり、211以降は窓がユニットサッシになっている。209と210以外は冷房改造されており、209は休車となっている。

 

電車改造の気動車
気動車改造の電車は、戦後電化したローカル私鉄を中心によく見られたが、その逆は非常に少ない。車体構造が電車と気動車とでは全く異なり、車体が重く無理をしてエンジンを取り付けても出力不足となるからである。国鉄でも北海道でオハ62とオハフ62にエンジンを取付けてキハ40(→キハ08)、キハ45(→キハ09)を製作したが、重すぎて狩勝峠が越せない等の運用上の支障があり早くに姿を消した。キハ6100、6101、キハ5800、5801の4両は数少ない改造例として貴重な存在である。

 他の改造例は、南武線の前身の南武鉄道のクハ210形の213、214(昭和15年木南車輌製)が、23年に関東鉄道の前身の常総筑波鉄道に貸し渡され、25年に正式に譲渡後、客車(ホハフ201、202)として使用、28年自社で気動車化してキハ40084、40085となった。常総線で使用されていたがキハ40084は44年筑波線に転属、47年に2両とも廃車となった。いずれも元買収国電というのが興味深い。

 入線しなかったDL
非電化の私鉄では大抵貨物列車の牽引用に蒸気機関車を保有し、時代の流れと共にDLと交替した。小湊鉄道はDLを購入せずキハ6100、6101を貨物列車の牽引に使用した。貨物の量もさほど多くなく、重量の重いキハ6100は機関車代わりに丁度よかったのかもしれない。

 蒸気機関車は1号機、2号機(大正13年ボールドウィン製)B104(明治27年ベイヤーピーコック製)の3両が千葉県の文化財に指定され、五井機関区の敷地内に屋根付で保存されている。

交換駅について
五井~上総中野間は39.1㎞あるが、五井~上総牛久間16.4㎞間の途中駅6駅の内交換ができないのは上総三又のみで、これも近々交換駅に改良される予定になっている。一方、上総牛久~上総中野間22.7㎞間の交換可能駅はゼロでこの間は1列車しか入れない。かつては上総鶴舞(上総牛久から2つ目)、高滝(同4つ目)、里見(同5つ目)、月﨑(同7つ目)、養老渓谷(同9つ目)とほぼ1駅毎に交換可能であった。養老渓谷以外は分岐器をロックしてあるだけであり、近々里見駅の交換復活工事が予定されているが、さほど難しい話ではないと思われる。

続・阪神電車の追加

10月3日の【15073】「阪神ジェットカー5211型」の記事からtsurukame先輩投稿の「阪神電車3011および5200系」「阪神ジェットカー、御影-石屋川間高架上」、乙訓の長老投稿の「阪神電車の追加」、河 昭一郎様、準特急様のコメント等を興味深く拝読させていただいた。

私も僅かであるが撮影した記憶がありネガ探しをした。京都から阪神電車までは遠かったのと、我々世代が撮影した頃は魅力の小型車は第一線を退き、ラッシュ時と武庫川線で細々と運行されていた程度で、本線はオール新性能車となっていたことも足が遠のく原因であったと思われる。一方国道線は、運行回数が極端に少なかった上甲子園以西は別にして、北大阪線、甲子園線を含めて割に訪れているのは、元々路面系が好きであったのと、金魚鉢の魅力に惹かれたからであろう。

5108+5201+5202 (昭和40年11月6日/野田)



 当時本線普通は早朝、深夜2連、それ以外の時間帯は3連であった。

  5236他3連(昭和39年11月3日/野田)
 
 5231形は5201形の増備車として昭和36年~38年にかけて1500Ⅴ昇圧即応車として24両作られ、昇圧後は2両固定編成になった。

5151他4連(昭和52年4月17日/西宮)

 昭和39年に1500Ⅴ昇圧即応車として、昇圧後も奇数編成時の単独走行可能車両としてわずか2両作られた。

3512+3511の西大阪線特急(昭和40年11月6日/甲子園)
 昭和40年9月から49年11月まで運転され、途中停車駅は尼崎、西宮、三宮であった。現在の近鉄奈良線直通快速急行の元祖とも言うべき列車であったが、乗客が少なく9年で廃止された。

3501形(3501~3520)は両運の3301形(3301~3304)と共に昭和33年から34年にかけて新製された優等列車用の車両である。

7810-7910+7909-7809の特急(昭和40年11月6日/甲子園)

7801形と7901形はラッシュ時の準急、急行に運用されていた小型車の代替として昭和38年から46年に作られ、
Mc車の7801形とT車の7901形がユニットを組み、Mc-T-T-Mcの4連で使用されていた。
初期に作られた車両はラッシュ用として割切りから、車体は簡素な作りで、乗務員扉の後ろの窓部分に座席がなく、車内の蛍光灯はカバーがなく間隔が空いており、T車の台車は小型車のものを流用した。完成後はラッシュ時のみならず、昼間の特急、急行にも日常的に使用されていた。画像の7810-7910+7909-7809は昭和38年川崎車輌製である。

7812-7912+7911-7811の急行(昭和40年11月6日/野田)
 
7812-7912は昭和39年汽車会社製、7911-7811は昭和39年川崎車輌製である。
 

853単行の武庫川線(昭和39年11月4日)
851形(851~857)は昭和11年日本車輌製で、その後作られた861形(861~867)、881形(881~910)と共に戦後3011形が登場するまでの間、阪神を代表する車両であった。
左側の線路は、戦時中西ノ宮~洲崎間に建設された貨物線の名残で3線式である。

今度は阪急2100

京都線の2300に乗ったのは大宮から東へ河原町までの延伸が完成したときでした。高校の授業を抜け出して、阪急からもらった「全線無料券」を使ってのただ乗り旅行に出かけました。といっても時間の関係で梅田折り返しがせいぜいだったのが今でも残念でなりません。

このとき乗ったのが2300、京阪の2000や阪神の5200と同じ高性能電車に地下鉄の開通と相まって新時代の空気を胸一杯に吸い込んだのを覚えています。しかし、下降式窓なのがなぜか古いイメージで、市電の500型と同じやな、とおかしな感心もしました。

おまたせしました!京阪2000系

やっと京阪2000系が登場しました。新型という意識がありますが、登場が昭和34年とか。もうそんなになるのか、と感慨を持ちますが当時とすれば先進のデザインだったと改めて感心しました。薀蓄はお任せしますが澤村氏の逝去が悔やまれて仕方ありません。

阪神電車の追加

その昔のものが総本家さんの所に保管されていました。残念ながら5001+5002はないとの事。そのうち富士写真店さんに探してもらいましょう。ヘッドマークは古いほうが精悍ですね。何しろ梅田・三宮間25分で走ったのです。それも正真正銘のノンストップ特急だったのです。元町までが27分。この頃の阪急特急はまだ三宮の手前、春日野道あたりを走っていたのですが、残念ながら阪神は地下線のため置き去りにした阪急を見ることは不可能でした。この301形(3011系とも言う)のシートが沈み込むようなクッションで、これも忘れられない思い出です。国電の急行電車はこの頃、阪神間何分で走っていたのでしょうか?モハ52、80系共に旧性能車時代ですが、私鉄には負けていなかったように思います。
1958年は旧ヘッドマークで3連だった。(甲蜷・?下り先端)

1958年は旧ヘッドマークで3連だった。(甲子園下り先端)

1959年秋には4連3本3連1本に組み替えられた。
1959年秋には4連3本3連1本に組み替えられた。
ステンレス車体の試作を汽車会社に提案されたが・・・・・・
ステンレス車体の試作を汽車会社に提案されたが・・・・・・
どこかの大螯・?研が見螯・?来ていた。台車はKS59.空気バネ。
どこかの大学鉄研が見学に来ていた。台車はKS59.空気バネ。

伊香保電車の絵はがき

[15364]伊香保電車のバスカードを藤本哲男氏が紹介されました。この中の1枚を見て 一連の絵はがきが手元にあることを思い出しました。あかぎ出版が製作された絵はがきです。高崎の書店で入手したものです。その包装(カラー)と7枚の絵はがきを紹介します。高崎銀行街を行く19号の写真がバスカードのものと同じです。

 

撮影場所と撮影者はそれぞれの写真に添え書きされていますが、あいにく撮影年月日は不明です。

このあかぎ出版からは他にも「アプトの道 碓井線」の8枚組絵はがきや写真集「足尾線の詩 思い出のSLと子供たち」が発行されています。足尾線の写真集 (A5版112ページ 1800円)は総本家特派員殿はじめ諸兄好みの 人のいる鉄道風景が数多く収録された好著です。ご希望があれば貸し出し致します。なおあかぎ出版の住所は下記のとおりです。

〒379-2301群馬県太田市藪塚本町大字藪塚1499-6 fax 0277-78-6273    akagipbl@bi.mbn.or.jp

伊香保の電車のバスカード

9月30日、乙訓の長老投稿の【15057】「老人、伊香保温泉に遊ぶ」に関連して、西村雅幸さんが10月4日【15086】「伊香保の電車について」で平形眼科医院に保存されている電車の紹介があった。東武鉄道伊香保線、渋川~伊香保間が廃止されたのは昭和31年12月29日で、実に半世紀以上に亘って保存されているが、普段のメンテナンスが行き届いており極めて良好な状態である。
電車廃止後は東武鉄道のバスに代替されたが、群馬県内のバス路線撤退により、グループ会社の関越交通に引継がれた。
電車の伊香保終点の場所は、バスターミナルの下の原沢医院の辺りだそうである。
昨年所用で高崎行った時、駅前のバス案内所に伊香保軌道線のバスカードが販売されていたので購入した。発売元は関越交通であるが、群馬県下の殆どのバス会社で使用可能である。

 
 伊香保線の前身は伊香保電気軌道として明治43年渋川駅前~伊香保間を開業し、大正2年11月に渋川駅前~伊香保間12.6㎞を開業した。撮影場所の八幡裏は渋川駅前から2.9㎞の地点で、市街地を過ぎて本格的な山登りに差し掛かった地点である。
 

 

高崎線は群馬馬車鉄道として高崎~渋川間を軌間576㎜で開業し、明治41年8月高崎水力電気に吸収合併、明治43年9月全線電化と1067㎜に改軌が完成した。営業キロは20.9㎞で写真の九蔵町は高崎駅前から1.2㎞の地点である。 

渋川駅~伊香保温泉間は現在でも1時間に3本程度運行されている。伊香保温泉終点のバス停は温泉街の中心で、ロープウェイのりばに隣接した地点である。
距離は短いが観光路線のため、東武時代は貸切り改造車も使用されていた。

  東武の伊香保温泉バス停 (昭和59年10月23日)

  東武時代の前後扉の路線車 (昭和59年12月27日)

 
    貸切車を転用した車両 (昭和59年8月25日)

 

   貸切車に中扉を増設した車両  (昭和60年7月28日)

高崎駅からは群馬バスが運行されており、新幹線利用の場合、上越線に乗り換えることなく、直接伊香保温泉にアクセスできるが、1日5往復(土休日は伊香保方面6本)と本数が少ないのが難点である。伊香保温泉のバス停は関越交通とは別の場所で温泉街の中心からは少し離れている。関越交通の一部の便がここまで乗り入れており、バス停の名称は伊香保榛名口となっている。

  群馬バスの伊香保温泉バス停(昭和60年1月15日)

  群馬バスのターミナルに乗入れた東武バス。バス停の名称は伊香保榛名口(昭和60年1月15日)

  群馬バスの車両。東急グループのロゴが付いているが、現在はグループから分離されている。(昭和59年10月23日)

デジ青で外回り鉄

KAWANAKAです。

昔(1966)には、青信号の弟分「補機」が誕生し小回りの利いた発行がされていた。今では関東のDRFC連絡網として、デジ青の弟分というべきe-drfcが会員中で存在している。そのなかで寝台特急「曙太郎」(初代)氏が「外回りをすると、色んな風景に出合います。それがサラリーマンのオイシイところなのか?。最近撮った「外回り鉄」の一部をどうぞ。」と書き込みをされていて、外回りの時にふとであった風景を描写されている。

小生と高校時時代から同期であるF本氏も、仕事が早く片付いたし帰るのには時間があったからと、本人は外回り鉄と称していないがデジ青で掲載されています。

小生もそんなに外回り鉄の機会に恵まれているのではないですが、また内容はアカデミックでもないですが、それでも外回り鉄をします。みなさん停年になった人は別としてやはり外回り鉄と思いますが、小生も先日外回り鉄の機会に恵まれたので、帰るのに時間があったわけではないが回った。

10月3日、五井に出張があって、15時に現場解散となった。みなさん五井から東京へ向かわれれたのですが、小生は別れて何処まで行けるかと小港鉄道に乗ることにした。丁度良い時間に列車があって、海士有木くらいが限界と考えて日が傾きかける時間に動き出した。

海士有木は2つめの駅で、小港の雰囲気が味わえる最短の場所であると思った。

では外回り鉄をどうぞ。

海士有木から歩いて1分。上総村上の踏み切りから次の下り列車。この踏み切りは至って交通量が多く、道路を渡るのが一苦労。

車両が見えてかかなり経ってから警報機がなり、言わば詰まらん写真ですが撮り放題。見ると向こうに彼岸花が咲いている。まだ明るいのでつぎはそれを入れようと・・・。

ところが現場は側溝があり水が溜まっている。小生は大体水に落ちる性質なので諦めて反対側へ、秋の夕暮れが近いなかを捕ることができました。手前に季節の花があればよかったですが。

あとは駅へ戻ります。線路が綺麗です。

帰りの時間まで少し時間があります。もう1本撮ってから。

海士有木の小さな駅に五井行きが入ってきました。乗客は2人、社内には数人がいました。

それまでの時間、平日は有人、休日は無人、土曜は半分だけ有人の駅の業務委託を受けたおばさん駅員と雑談で時間を潰します。乗客とはみんな顔見知りで、帰ってきた客にお帰りと声を掛けたりしている。都会では見えられないこの風景が懐かしい。

いよいよ乗車の列車が来ます。閑散としたホームに入線の単行を撮ろうとしたら年配の乗客が・・・。おばさん「ちょいと写真と撮っているから下がってあげなさいよ」、おじさん、乗ることに一生懸命で聞こえません。

少し先頭が画面から出たところで、ライトのハレーションが起こらないこと確認して1枚。この日最後の撮影です。雰囲気が出たでしょうか。

急いでこの列車に乗って、おせわになったおばさんを1枚。

外回り鉄は仕事の疲れを忘れさせますね。おばさん、またお世話になります。

外回り終了です。

阪神ジェット・カー、御影-石屋川間高架上

 前回に続き、5100系、5200系です。デジタル青信号の投稿ついでに、保存の阪神フォルダ内を見ていたら、新しい発見がありました。
 1962.3.25撮影、
御影駅西方、石屋川駅まで続いている留置線、施設完成前の高架上です。 また、このフィルムは、ビネガーシンドロームなど、全く影響がない正常な状態のFuji Neopan ss safty  です。たくさんのビネガーシンドローム被害のフィルムの中に、こんなのがあるから、いよいよもってビネガーシンドロームが解らなくなります。 1. 5100系、5101 、石屋川駅寄り

 関係者でもない私が、どのようにしてこの地点に行ったか覚えていません。昨今では撮影不可能な位置です。当時とは言え、まさかホーム端から歩いたとは思えず、高架下の昇降階段から昇ったのではないかと思われます。また、この場所も阪神大震災では大きな被害を受けました。

 

 

2.  52005214他、石屋川-御影駅の中間辺り

 3.  5200系5212他、御影駅近く

房総半島横断の旅Ⅰ


 
上総中野駅での小湊鉄道といすみ鉄道の乗り継ぎ

 8月25日、所用で千葉県市原市に行った。葛飾区からはさほど遠くはないが、HPの表紙を飾っていた幕張車両センターの113系が撮影できるかもしれないと思い、早めに千葉駅に到着したが、来るのは元京浜東北線の209系ばかりであった。直ぐに撮影を切り上げて内房線の電車で木更津に行くと、久留里線のキハ3062+キハ381003の2連が到着したところで、大急ぎで撮影後、五井駅近くの用務先に向かった。

 所用は順調に捗り午前中に終わり、このまま帰るには早過ぎるので小湊鉄道といすみ鉄道を乗り継ぎ房総半島を横断して帰ろうと思った。駅で「房総半島横断切符」を購入する時「パワフル×スマイルちばフリーパス」のポスターが目に留まった。内容は千葉県内と鹿島線の鹿島サッカースタジアムまでのJRの普通列車、小湊鉄道、いすみ鉄道、銚子電鉄が乗り放題で、特急券を買えば特急にも乗車可能で値段は1800円というものであった。「横断切符」は1600円で途中下車自由であるが、200円プラスするだけで松戸まで乗れるので、早速購入して小湊鉄道のホームに行くと11時40分発の上総牛久行が発車するところであった。車両はキハ202(昭和36年日車製)で座席が半分位埋まる位の乗客であった。27分で到着すると駅前には大多喜行のバスが停車しており、5名の乗客が乗り換えた。また後続の上総中野行に乗り換える客が4名いた。

 ところで五井から上総中野まで行く列車は、平日は9時22分、12時21分、16時の3本しかない。一つ手前の養老渓谷行が5本、途中の上総牛久行が20本、里見行が1本、早朝の上総牛久発上総中野行が1本である。土曜日と休日は上総中野行が6本、養老渓谷行が3本となる。
一方、上総牛久~大多喜間にはバスは8往復(休日6往復)運行されている他に牛久~小湊、勝浦間の急行バス5往復も利用可能で、所要時間、運賃共にバスの方が断然有利である。(鉄道は最も接続の良いもので70分、運賃1250円、バスは普通便40分、急行は途中ノンストップで23分、運賃680円)

昭和50年4月時点の列車本数は、上総中野行13本、養老渓谷行3本、上総牛久行平日5本、休日2本で、上総牛久を境に五井方面は乗客が著しく増加し、上総中野方面は全くその逆になったことが判る。
五井~上総牛久間には上総村上、海土有木、上総三又、上総山田、光風台、馬立と6駅あるが、上総三又以外全部交換可能で、上総三又も近々交換可能する工事が開始される。一方上総牛久以遠は、途中駅のポイントを全部鎖錠して、上総中野までを一閉塞としたため、この区間は1列車しか入線できなくなっている。行楽シーズンの増発もままならない状況のため、近々里見駅の交換を復活させる工事が開始される予定である。養老渓谷発五井行が10名程の乗客で到着したので、次に乗る上総中野行のこの程度の乗客数だろうと思っていたところ、ほぼ満席であった。この先は無人駅が続くが、春には桜が美しいところである。養老渓谷で10名程降りたが、いくら夏休み中とは言え、平日でこの状態とは驚きであった。養老渓谷を発車したところで車掌嬢が切符の回収にきたが、ほとんどが「パワフル×スマイルちばフリーパス」を持っており、「房総半島横断切符」の乗客もいた。暫くすると乗り継ぎのいすみ鉄道が到着したが、こちらもほぼ満員であった。いすみ鉄道は車両が小さいので写真を撮っていると座れないのではないかと思ったが、何とか座れた。いすみ鉄道のホームの横の線路が小湊鉄道と繋がっており、その気になれば直通運転は難しい話ではない。

 14時丁度にそれぞれ満員の乗客を乗せた双方の列車がタイフォンを軽く鳴らして発車した。大多喜駅では車庫からキハ52が顔を出しており、途中下車して撮影しようかと思ったが、夕方までに帰る必要があったので今回はパスして大原まで乗車した。千葉行の普通列車までの間、駅近くの踏切で撮影後帰宅した。

 
 「パワフル×スマイルちばフリーパス」のポスター/千葉県内のJR、小湊鉄道、いすみ鉄道、銚子電鉄が乗り放題で1800円は安い。また、特急券を買えば特急に乗車可能というのは「青春18」より使い勝手が良い。


 
C439編成クハ2092157/113系に替わって房総の普通列車の主力となった元京浜東北線の209系。ラッシュ時には京浜東北線時代と同じ10両編成が見られる。



キハ3062、下 キハ30100/木更津派出にキハ30の62、98、100の3両が配置され久留里線で使用されている。旧塗装に変更されておりファンには人気が高い。冷房は無いが夏でも日常的に使用されている。
小湊鉄道五井機関区/車両は昭和36年から52年にかけて6次に分けて製作されたキハ200形(201~214)に車種統一されている。209と210以外は冷房改造されている。209は休車中。


最初に乗車した五井駅11時40分上総牛久行のキハ202隣の無蓋車はバッファーの跡があり相当古い。

上総牛久駅で折り返すキハ202/昭和36年日本車両製の1次車で車齢は50年を超えているが手入れが良いため古さを感じない。 上総牛久駅

 手書きの高速バスの時刻表/五井~羽田空港間は頻繁に運行されている。上総牛久駅からは羽田空港経由横浜行が5往復運行されている。


 上総牛久駅 


 
五井~新宿間の高速バスのポスター


 上総中野行と交換の養老渓谷発五井行が10名程の乗客で到着/キハ214(昭和52年日本車両製)


 ほぼ満席で上総中野に到着したキハ212(昭和52年日本車両製)


 
上総中野駅/左の建物はトイレ

  
 間もなく上総中野駅に到着するいすみ鉄道キハ206


 キハ206/昭和63年3月国鉄木原線から転換時にキハ101~107として富士重工で新製。当初はセミクロスシートであったが、ロングシートに改造時にキハ201~207に改番。キハ204は余剰のため廃車になり、上総中川駅の近くの「ポッポの丘」で売店として使用されながら保存されている。左側の線路は小湊鉄道と繋がっている。


 
大多喜駅で交換したキハ205


 大原駅/JRの駅とは分離されている。


 特急「わかしお13号」/大原

房総半島横断の旅Ⅱ


 ポッポの丘の住人達


8月30日は夏休みであった。前回(8月25日)大多喜で見たキハ52125に是非乗ってみたいと思っていたので、再度房総半島を横断することにした。幸いこの日の午前中キハ52125が大多喜~大原間を臨時普通列車で運転されるので、大原から入り、撮影後に乗車して、上総中川駅近くの地元の卵や農産物の販売施設「ポッポの丘」で売店として使用されている車両を見学後、上総中野から小湊鉄道で五井に抜けるコースを考えた。ネックとなるのが小湊鉄道の運転本数で、上総中野発の列車は6時55分、10時45分、14時、17時15分の4本しかなく、14時発に照準を合わせて、沿線での撮影はパスして次回とした。

金町から下り電車に乗り、次の松戸で「パワフル×スマイルちばフリーパス」を購入した。新松戸、海浜幕張、蘇我、上総一ノ宮の各駅で乗り換え、大原に10時33分に到着し、10時39分発いすみ鉄道上総中野行に乗り換えた。次の西大原で降りて、大多喜方面に1キロほど歩いたところでキハ52125を撮影したが、普通列車として運転されているためヘッドマークはない。駅に戻り大原で折り返してきたキハ52に乗車したところ、同社の鳥塚社長が車掌として乗務しておられた。次の上総東で交換待ちの時に「社長さん自ら車掌をされて恐縮しています」と声をかけたところ「結構楽しいですよ」と答えられた。扉の開閉、車内アナウンス、観光案内、車内補充券、記念乗車券の販売と大忙しであったが、社長自ら車掌をされている会社は、観光鉄道ではあるかもしれないが、通常の鉄道ではここだけであろう。
車内は大糸線時代と全く変わらないが、ポスターは更に古い国鉄時代のものに取り換えられており、それもきわめて貴重なものばかりで感激する。通常ポスター類は掲示期間が過ぎると廃棄されてしまうので、本当によく残ったものと思う。これらのポスターを見るだけでもキハ52に乗る価値はあると思った。
上総中川で降りる時に社長(兼車掌)にDRFCクローバー会会員であることと「デジタル青信号」のことを伝えたところ「是非また来てください」と言われ、「今度は仲間と来ます」と答えた。
駅前の道路を大原寄りに少し戻り、踏切を渡って約15分歩いた最初の信号の所で、丘の上に元北陸鉄道のモハ3752といすみ鉄道のキハ204が見えた。更に歩くこと10分で「ポッポの丘」に到着した。ここは「ファームリゾート鶏卵牧場」の販売施設として5月1日にオープンしたもので、庭先卵や地元農家の野菜等が保存車両の車内で販売されている。いすみ鉄道キハ204、北陸鉄道モハ3752、万葉線デ7052の3両が販売施設として利用され、元JR西日本の小型DLが動態保存されており、ポッポ=蒸気機関車はない。北陸の車両が房総にあるのも不思議な感じがしないでもないが、往復1時間弱かけても見学に行く価値は十分あり、今後大切に保存されることを切に願う次第である。
駅に戻り、ほぼ満席の上総中野行(キハ202)に乗り、上総中野で8分で接続の14時発五井行(キハ212)に乗り継いだ。こちらもほぼ満席で、途中駅からの乗車もあり立客も出る程であった。折角の機会であるので途中で降りて撮影したいが、景色の良い上総牛久までは列車本数が少なく帰りが遅くなってしまう。最初の交換駅は上総山田のため、手前の光風台で降りて上総山田~光風台間の養老川の鉄橋で撮影しようと思ったが、時間的に厳しいので更に一つ手前の馬立で降りて、撮影場所探しでウロウロしている間に列車が来てしまった。次の列車で五井に行き、乗車したキハ207、入替中のキハ206+キハ213を撮影した。
113系はネット上では内房線と外房線で走ることになっており、今朝は本千葉駅で待っていたのであるが、来たのは209系であった。もう一度千葉駅に行き、来なければ諦めようと思った。案内表示を見ると17時10分発成東行が3扉8両となっており、待つことにした。その間211系が2本発車したがカメラを向けている人は見なかった。こちらも間もなく千葉地区から転属の予定で、行き先は中央東線とも新潟地区とも言われており、まだ決定には至っていないようである。
到着ホームの先端にはすでに多くの人がいたが、皆さんヘッドマークが目当てなのであろう。私自身も半ば諦めていたので最後になって撮影できたのは本当にラッキーであった。

 2日間とも房総半島を駆け足で横断したが、来春は横断しなくても、菜の花、桜を入れてまったりと撮影をしたいと思っている。小湊に行かない小湊鉄道と木更津に行かない旧国鉄木原線(→いすみ鉄道)が上総中野でドッキングした時点でお互いに工事を止めてしまい、その後も名前だけが残ったというのが何ともユニークで、もし両線ともに予定通り完成していたら上総中野は房総半島の一大ターミナルになっていただろう等と想像を巡らせた。 


 「パワフル×スマイルちばフリーパス」の広告/蘇我


 キハ52125/西大原~上総東


 キハ207/上総東


 キハ52125/上総東




 車内のポスター


 ポッポの丘/上総中川駅から徒歩25分


 協三工業製のDL/動態保存で約50mの線路を走る
 
  いすみ鉄道キハ204(昭和63年富士重工)


 北陸鉄道モハ3752(昭和26年広瀬車両)/加南線のクロスシート車として新製、昭和39年石川総線に転属し、その時にロングシート化された。昭和58年に車体更新され現在のスタイルとなり、平成19年10月に廃車になった。


 万葉線(←加越能鉄道新湊線)デ7052(昭和36年日本車両)/窓配置が不自然なのは富山地鉄市内線のデ7000形の中扉の位置を後部に変更したためであるが、何故最初から前後扉車として作らなかったのか不思議である。


 キハ212(昭和50年日本車両)/上総中野
 満員のため冷房が効かなかったため窓が全て開いている。


 馬立駅


 キハ211(昭和50年日本車両)/馬立~上総牛久


 キハ207(昭和45年日本車両)/五井


 クハ113-2049他8連/千葉(千葉寄りの先頭車)
 
 クハ113-242/千葉(銚子寄りの先頭車)


 クハ210-3040他5連/千葉
211系は5両編成17本配置され、総武本線、成田線で使用されているが、間もなく209系に置き換えられ他線区に転属する。


 
クモハ211-3040/千葉
廃車になった201系のパンタを増設した車両が9編成存在する。

 
 ありがとう113系記念弁当

駅風景 富山地鉄五百石駅

初めての投稿で失礼します。先輩諸氏の投稿内容がすばらしいので、ちょっと恥ずかしいですが、富山地鉄の駅が、なにやら趣きがあるので、なくならないうちに写真に撮っていた矢先に、新しい駅舎に建て替えるために五百石駅の駅舎がなくなりました。虫の知らせか、解体工事開始の1ヶ月前にあたる今年の2月6日に写真を撮りに行けたのでホットしています。

外観は左右対称のモダンな感じで、特に正面の車寄せの上にある屋根の形がモダンな雰囲気を出しています。富山地鉄の他の駅でも、このような屋根の駅があります。この駅舎は昭和6年(1931年)生まれで今年で80歳でした。車寄せの屋根を支える柱もしっかりしており、80歳とは思えません。

立山線の前身は立山軽便鉄道として大正2年に滑川から五百石間で開業したものです。富山の出版社桂書房から出版されている草卓人著の「富山廃線紀行」で立山軽便鉄道の項で開業当初の五百石駅は現在の駅の北東にある立山製紙の工場内であったと記載されています。この本によるとその後、富山市へ直行できないために乗客減となって経営改善のため富山地鉄の前身である富山電気鉄道と合併をします。これが昭和6年で、この時にこの駅舎が生まれたと思われます。駅の位置も現在の位置に変わったと思われます。

 

富山軽便鉄道は五百石駅から先は立山駅(たちやまと読む)が終点で、現在の岩峅寺駅のところでした。現在の富山地鉄五百石と岩峅寺の区間は立山軽便鉄道の線路を改軌、電化されたものです。

五百石駅の周辺には立山町役場があり、立山町の中心地となっています。駅員さんに話を聞くと、立山町役場に行く人が時々終点の立山アルペンルート出発点である立山駅まで行く人が時々あるそうです。考えてみれば、事情を知らなかったら立山町役場の最寄り駅が名前が同じ立山駅と思うのは無理もないことだと思います。まさか、五百石駅が最寄り駅とはとは思わないでしょう。

富山地鉄では旧駅舎を記念して「ありがとう五百石駅舎記念乗車券・入場券」として乗車券2枚、入場券1枚で700円で発売しています。台紙付で切符は硬券で駅舎の絵がかかれたものです。詳しくは富山地鉄のホームページにありますので興味のある方は一度見てください。また、「富山廃線紀行」は興味深い本で富山の桂書房から出版されており、ホームページもありますので、これも一度見てください。10月8日時点で残部小となっていました。やはり、このような本は売れるようです。

 

 

 

 

昔の出来事-九州

KAWANAKAです。

引越しを繰り返し、東西に出張所(最近は高崎も追加)を持っているとどこに何を仕舞い込んでいるのか分からなくなりました。整理しなければ・・・と思いネガなんかを整理し始めていますが、準特急先輩が佐土原のC61と言われるので探しました。

ネガはまだどこかのダンボールに入っているのか追跡できていませんが、古いアルバムが書籍の中からでききてその中に写真がありました。ネガが出てきたら改めてとなりますが、今から40年前の出来事を掘り返してみたいと思います。

写真がボヤボヤなのでアルバムの落書きと合わせて撮影しそれをPCの画面で再生しました。鑑賞に耐えない内容ですが、古い時代のDRFC卒業してOBとなったころの出来事としてみていただければと思います。昭和47年の5月の頃と思います。

 

これが、準特急先輩が拘っている場面です。真ん中に準特急先輩が写っています。3人は小生とy川氏、準特急先輩です。青井岳鉄橋の下(だったか)にある国民宿舎での書き込みを掲載しています。このC61が復活することになるとはユメユメ思っていませんでしたが。

 

南九州から始まった旅は中九州へ。準特急先輩の書き込みとその証拠写真。撮影場所もきちんと記録されています。

 

最後は北九州へ、準特急先輩はつばめ→新幹線で帰京され、残りはy川氏の会社の寮に泊まって撮影を続けることに。ところがy氏は休暇は罷りならん、出社せよとの社命。仕方なく小生は単身で冷水を通り熊本から阿蘇経由で大分に戻りフェリーで帰阪することになりました。

昔の話です。鉄道そのものとは余り関係がないかもしれませんが、写真、集めた硬券の入場券や冷水、高森の思い出やもろもろのものが生涯の宝物となっています。

阪神電車3011および5200系

久しぶりに投稿します。3012他3011系編成、梅田行き特急の後部です。
手ブレの写真、おまけにフィルムの痛みが酷いものです。
本線甲子園-久寿川間、1961年2月19日。

5216+5215神戸方面に向かっています。前部です。
行き先、列車種別共に表示がありません。
同上区間、同じ。
解説を、詳しい方にお願いします。

5001(初期)型(通称アマガエルとか)の写真は、持ち合わせがありませんでした。

追伸
3月以来、超多忙で本誌投稿がままなりませんでした。
10月にそれらから解放されました。時々投稿を再開します。宜しくお願いします。

京阪電車、ノンストップを走らせる!

さる10月3日、京阪電鉄は来る10月22日~12月4日までの全土、日、祝日において京橋~七条間において上り2臨時列車でノンストップ特急を走らせると発表した。1950年9月1日に開始した戦後のノンストップ運転は2000年6月30日を最後に終わりを迎えたが、改めて観光シーズンの旗手として復活するとは誠にめでたいことである。淀屋橋(9:36、10:06発)を出ると北浜、天満橋、京橋、七条、祇園四条、三条に停車、終着・出町柳まで58分の所要時間で走る。

さて注目のノンストップ区間のの所要時分だが、1956年3月ダイヤ改正では43.9㎞を34分30秒で走った。区間平均速度はなんと76.3㎞/hであった。以後の特急の所要時分、速度はこの数値を僅かに上下するにとどまった。今回、44㎞、43分となっている。平均速度は61.4㎞と大幅に及ばないのは残念。来年も行楽シーズンには運転し、列車名を公募するとしている。果たしてどんなネーミングとなるだろうか。鳩特急が亀特急とならぬように祈っている。

阪神ジェットカー5201型

本来なら乗る機会もない阪神電車だが、この電車には思い出があります。

それは中学に入って間もない頃、叔父が阪神鳴尾に住んでいたため休みになると遊びに行っていました。大阪駅まで国鉄で行って阪神電車に乗り換えると遙か彼方だった神戸が急に身近に感じられ、大冒険に出かけたような高揚感に満たされたのです。そんなある時、茶色い古い電車に混じって明るい赤や青の帯もまぶしい新車が入ってきました。乗ってびっくり、発車すると一気に加速して身体が吹っ飛びそうになりました。次の駅に止まる各停に乗ったつもりが通過するのかと焦りかけたそのとき、駅の中間まで過ぎたあたりで急ブレーキ!(そう思えるほど驚いた)無事停止位置に止まりました。このときの驚きは今でも忘れません。その後、国鉄環状線にも90系(後の101系)が入ったので早速乗りましたが、ジェットカーほどの加減速感はなく、国鉄ファンの私はがっかりしたのを思い出しました。

老人、伊香保温泉に遊ぶ

9月22日~26日間、お兄さん(老人のこと)の快気祝いを兼ねて秘湯巡りをするから出てらっしゃい、と義妹から誘いがかかった。連れ合いは即座に乗ったようで、「5日間休める?」と言った。「3日なら休めるが……」と声を濁した。同業者とのクルマの旅は楽しいが、車中女性3人と義弟(市川市民)の4人の喧噪にさらされるのは辛いなぁーと、一瞬思った。でも23~24日は付き合う、25日は伊香保電車の遺構が残っているようなら訪ねてみたい、これを条件に参加することにした。老人の連れ合いは22日に、老人は23日朝の出発で昼に白岡着。14時頃市川市民夫婦到着、そこで白岡町民夫婦(義妹とその旦那様)のBOXCARで15時に伊香保に向け出発となった。

経路は北関東自動車道で、地名ではJR両毛線や上毛電鉄のルートを走り、高崎から関越自動車道に入ったようだ。途中、田圃の真ん中のICで降りて宇宙船まがいの展望風呂で汗を流した。これでは秘湯とは言えんだろうなと大笑いになった。夕暮れの中、渋川ICから伊香保温泉へ向かう途中、右折するや右左折を繰り返し、義妹夫婦の借り別荘に到着。丘の斜面にコンクリート製の基礎を作り、その上にバス・トイレ付2DKを2層乗せた別荘である。義妹の旦那様の趣味は絵を画く事で、定年後は見晴らしの良いところで余生を送りたいと言っていた。今年10月末に契約解除するにあたり「お兄さんの快気祝いでご招待」となった次第。

24日、先ず秘湯巡りである。国道17号を分け入り三国峠直下で左へ細道を辿る”法師温泉”である。以前テレビで紹介され、一度は行ってみたい温泉であった。10:30~13:30間のみ1000円で日帰り入湯が可能である。入湯後11:45集合で伊香保温泉行かと思ったら、途中、月夜野温泉に寄ると言う。また入湯かいなと言ったら、「与謝野晶子記念館」見学だとのこと。運転手である旦那と老人の連れ合いが示し合わせたようだ。共に立命館大学二部文学部卒である。13:15いよいよ伊香保へ向けて出発かと思ったら、渋川郊外の水沢うどん街道で昼食だと言う。長いものには巻かれろ、伊香保温泉着は15:15になってしまった。

とにかく情報を得ねばならない、ロープウェイの駅に観光案内所があるというので急いだ。案内所の女性は50過ぎの方。「電車が登って来ていた話は知っていますが、その遺跡めいたものは何も残っていないようです。駅跡など全く分りません。」と気の毒そうに言った。その後、案内コーナー外にいた年寄りに声をかけてくれた。「O×さん、貴方若い頃、東武さんに勤めていたのじゃないの。」「おう、そうだよ、何か……」「この方、京都から電車のことで訪ねて来たのよ、何か覚えていない?」「電車のことか、古い話だなぁ、昭和31年一杯で終わった。伊香保の駅と車庫跡は下のバス乗り場になってしまい、何も分らん。線路跡も道路と関係なしだから何処を走っていたか全く分らん。渋川市内は道路脇だったから、ここがそうだといえるが、その場へ行かないと無理だな。そうだ、平形(ひらかた)先生の庭に1台保存されているが、わしは先生と無縁だから、どうすれば見られるか分らん。」

お年寄りは電車と関係ない、現在伊香保温泉のボランティア案内人をしている元東武鉄道社員であった。こんな会話を隣で聞いていた義妹が言った。「お兄さん、平形眼科なら知ってるわ、これから買い物に行く食品スーパー隣、マルエドラック横に平形眼科の大きな看板があるわ!」

これで1件落着になる筈であった。温泉元湯に入り、温泉饅頭を賞味してから買い物に行こうと言い出した輩がいたが、義妹が17時閉店の土産物屋に行こうと言い、16:40に温泉を離れた。土産物屋に立ち寄り、平形眼科の大看板向かいの駐車場に着いたのは17:15、夕暮れは迫って来る。大きなお屋敷だ。国道17号を渡りお屋敷への右カーブとなった進入路を上り詰めると、立派な八脚門が構えていた。その脇の隙間から電車の屋根が見えた。「あった!よかった、来たかいがあった。」

旦那様が「兄貴よ、此処から庭に入れるよ、中に入って撮って来ようか。」老人は「ちょっと待て、こちらの門は閉まっており、診察時間のみ門は開きますとなっている。」義妹は「電話をかけて了解を貰ったら?」市川市民は電話番号を調べてくれた。0279(22)0073である。掛けて見るが応答がない。3度試み諦めた。裏口から入って撮るという旦那様を制止、「警備保障に加入していたらどうする。たかが昔の電車1台、されど1台だよ、通報されたら代表者の老人の身元を言わねばならない。電車に肖像権があるかどうかは知らないが、公道から見える場所にあるならよいが、私有地に置かれているものだけに持ち主の許可を得ることが第一、クラブの誰かが撮りに来てくれるよ、今日はこれまで。」

JR渋川駅で下車、西へ(市役所通り)、三国街道(国道17号)交差点を左折、南下すると前方に平形医院眼科の看板が見える。お屋敷南端の道路を右にとれば八脚門が見える。徒歩15~20分か?訪問は診察時間内が良いと思われる。

 

作讌・?の入口から見る

 

高崎駅周辺が騒がしい

KAWANAKAです。

久し振りに投稿します。高尚な記事を持ち合わせていませんが、現住所が大阪、税金は千葉県に納めている関係上、両方に少しづつジャブを入れています。

高崎辺りが騒がしいとコメントが出ていましたので参加します。

23日の用事を済ませて東下りしたのですが、家内が高崎にいる愚息夫婦+孫に会うので付き合えという。仕方がないので折角の休日、高崎(実際は新前橋)の愚息宅へお邪魔することになった。

家内を家に残し、愚息の車で折角来たのだからC58位見せろ!ということで孫を家に放ったらかしで出ました。愚息の運転でとにかく線路脇に行け、いうことで、まず1枚。詰まらん拙写でC58というのがわからん。

 

場所は残念ながら車で移動のため見当がつきません。記録を見ると11:49の時刻がありますので大体は分かります。名古屋からの同業者が1人だけ居て、ススキが伸びすぎているからとハサミでチョキチョキキ切ってごらんのようになりました。最近は脚立を持って大汗かいている御仁が増えているが、はさみはなるほどと感心した次第。

水上では物凄い人。近寄ることもできず、駅の反対側に回って、今度は転車台で回るC58とD51を。ついでに秋の雰囲気と言うことでススキを入れた写真を。人が多くて小生の腕ではこの位しか撮れませんでしたが・・。

 

その後、新前橋の家に戻り、孫の相手をして飽きたころ、帰ってくるD51+C58を撮って終わりとしました。今度はC58というのが分かりますね。

ま、じいじの役は不完全かも知れんが果たして、煙のにおいも嗅げたし良かったと言うべきでしょう。そのほかの戦果もクローバー会のメンバーが補足しているので良いとしましょう。

翌日は帰る前に、今度はC61+D51というので、迂回のカシオペアをキャッチしたから帰阪した。C61は元祖青信号を飾っているので拙写は省略。また、お別れの113系も行きたかったのですが、佐倉にいた関係でゲップが出るほど下手な写真を撮ったので自分を慰めることとします(機会を見て、追悼の平常拙写を投稿します)

また、突然出没しますのでよろしく。

エリトリア 未開の大地への鉄道の旅 Part1 旅立ち

9月24日 第1日目

① 自宅 5:40→長岡天神 5:57(阪急)→南茨木(大阪モノレール)→大阪空港
② 伊丹 8:20(JL3002)→ 9:40 成田 12:15(JL407)→17:20 フランクフルト

芭石鉄道で知り会い”春から夏への中国鉄路の旅”でご一緒させていただいたW大鉄研OBのO氏から次回もご一緒しましょうとお誘いを受けていました。煙が見えてドラフトが聞こえれば、いつでもどこへでも参りますよと気軽に返事しておりましたら早速、9月にエリトリアへ行くことに決めましたが、ご都合はいかがですかと具体的なお誘いが参りました。

エリトリア”・・・??? 聞いたことがありません。一体どこにあるのかとネットで見て、初めて国境紛争や内戦が最近多いアフリカと知りました。場所は、外務省のHPはこちら
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