10月10日【15353】「デジ青で外回り鉄」でkawanaka_t氏より出張時業務終了後に海土有木で撮影された画像を紹介があったが、用務先が千葉県市原市方面の場合は小湊鉄道に行かれる方が多いようである。前回の私の場合は業務終了予定時刻を15時頃と予想して、上総山田~光風台間の養老川鉄橋か、上総牛久~上総川間間で撮影しようと思っていたところ、午前中に終わったため大原まで横断することができた。
小湊鉄道を初めて訪れたのは昭和45年3月のことで、キハ200形は201~206の6両のみで、それ以前に製作された車両も日常的に運用に就いており、特に元国鉄キハ41000形はキハ200形と共に主力として活躍していた。撮影した画像から当時を振り返ってみた。
キハ100形(100、101)
昭和8年に2両新製された16m級車で、同じ年に新製された鉄道省のキハ36900形(→キハ41000形)と同サイズであった。当初の呼称は「ジハ」であった。ジハ100が川崎車輌、ジハ101が日本車輌で作られた。当初はガソリンエンジン(コンチネンタル16H)であったが、昭和16年に天然ガス動車となり、昭和25年に日野DMF54Iに換装されディーゼル化、昭和31年にDMF13に換装された。
湯口先輩の「内燃動車発達史・上巻」のP90にジハ101の新製時の写真、P91に昭和34年に撮影されたジハ100の写真が掲載されているのでご覧いただきたい。運転席窓の庇は、戦後の車体更新、ヘッドライトの移設時も撤去されず、この車のトレードマークになっていた。キハ200形の増備により、昭和47年2月廃車になった。
キハ41000形(41001~41004)
昭和24年、国鉄で廃車になったキハ41000形を4両譲受け、25年に富士産業で機関を日野DA55に換装の上使用した。昭和30年にはDMF13に換装した。主力として活躍したが、キハ200形の増備により41003、41004が昭和48年7月に、41001、41002が50年5月に廃車になった。
キハ6100形(6100、6101)
国鉄で廃車になったクハ6100形の6100と6101を昭和31年3月に譲り受け気動車に改造した。クハをキハに変えただけで車号はそのままである。
クハ6100形は元青梅電鐡のモハ100形で、101、102が大正15年日本車輌、103~106が昭和3年川崎造船所で作られた。青梅電鐡は昭和19年4月1日鉄道省に買収されたが、電気機器の相違から同年11月に電装解除されクハとなった。戦後も早い時期に整理の対象になり、昭和28年6月1日の改番まで残ったのは元モハ102のクハ6100とモハ104のクハ6101の2両のみで昭和30年1月廃車になった。佐竹先輩の「私鉄買収国電」のP27にクハ6100、P28にクハ6101の写真が掲載されているのでご覧いただきたい。
気動車への改造は6100が日本車輌、6101は帝国車両で行われ、正面窓は当時流行の2枚窓になった。他車がツートンカラーに変更後も茶色のままで、晩年は貨物列車の牽引に使用されていた。廃車は6100が昭和49年10月、6101が昭和52年12月である。
キハ5800形(5800、5801)
国鉄で廃車になったクハ5800形の5800、5801を昭和35年2月に譲り受け気動車に改造した。クハをキハに変えただけで車号はそのままである。
クハ5800形(5800~5804)は元三信鉄道のデ301形(301~305)であるが、車歴を辿ると大正3年まで遡る。飯田線天竜峡~三河川合間の三信鉄道は、昭和7年10月天竜峡~門島間の開業を皮切りに部分開業を重ね昭和12年8月大嵐~小和田間の開通により全通した。この開通により現在の飯田線の豊橋~辰野間が結ばれた。
クハ5800、5801の前身は鉄道省の大正3年日本車輌製のモニ3009、3010で、昭和9年9月廃車後、三信鉄道に譲渡され、昭和11年4月日本車輌で鋼体化の上、デ301、302となった。扉間には窓に合わせたゆったりしたクロスシートが並ぶ車内は長距離運転に相応しいものであった。昭和18年8月1日辰野~天竜峡間の伊那電鉄、三河川合~大海間の鳳来寺鉄道、大海~豊橋間の豊川鉄道と共に買収され飯田線となった。
301は昭和26年12月、302は27年1月に電装解除の上、片運化されクモハ(クハ代用のモハ)301、302となり、昭和28年6月1日の改番でクハ5800、5801となった。クハ化の際に連結器が密連になり、伊那松島区の配置となりモハ14等の国鉄型モハとMT編成を組み、中部天竜~名古屋間の臨時快速「天竜号」に使用されることもあった。昭和34年2月全車廃車され、5800、5801が小湊鉄道、5802が伊豆箱根鉄道、5803、5804が大井川鉄道で再起した。
飯田線時代のクハ5800、580iの写真は「私鉄買収国電」のP103に掲載されているのでご覧いただきたい。
キハ5800は平成9年6月30日付けで廃車され、現在も五井機関区で保管されているが、私鉄時代の飯田線の生き証人として電車に復元の上、然るべき場所(例えば佐久間レールパーク跡地に飯田線所縁の車両を集めて博物館を作る等)で保存できないものかと思う。
キハ5801は昭和52年12月に廃車されている。
キハ200形(201~214)
昭和45年3月時点では201~206の6両在籍していたが、その後の増備車も含めて解説する。
キハ20と同系であるが最大の違いは、窓配置もさることながら、ロングシートと自動扉ではないだろうか。余談になるが8月30日に乗車時、上総中野を発車後のアナウンスの前に元国鉄で使用していたものと同じメロディー(♪パパパパパーン・♪パパパパーン・♪パパパパパパパパーン)が流れ思わず感激した。
201、202が昭和36年12月、203、204が38年4月、205、206が38年12月、207~210が45年12月、211、212が50年3月、213、214が52年10月に作られ、メーカーはすべて日本車輌である。45年製の207以降は扉の形状が変わり、211以降は窓がユニットサッシになっている。209と210以外は冷房改造されており、209は休車となっている。
電車改造の気動車
気動車改造の電車は、戦後電化したローカル私鉄を中心によく見られたが、その逆は非常に少ない。車体構造が電車と気動車とでは全く異なり、車体が重く無理をしてエンジンを取り付けても出力不足となるからである。国鉄でも北海道でオハ62とオハフ62にエンジンを取付けてキハ40(→キハ08)、キハ45(→キハ09)を製作したが、重すぎて狩勝峠が越せない等の運用上の支障があり早くに姿を消した。キハ6100、6101、キハ5800、5801の4両は数少ない改造例として貴重な存在である。
他の改造例は、南武線の前身の南武鉄道のクハ210形の213、214(昭和15年木南車輌製)が、23年に関東鉄道の前身の常総筑波鉄道に貸し渡され、25年に正式に譲渡後、客車(ホハフ201、202)として使用、28年自社で気動車化してキハ40084、40085となった。常総線で使用されていたがキハ40084は44年筑波線に転属、47年に2両とも廃車となった。いずれも元買収国電というのが興味深い。
入線しなかったDL
非電化の私鉄では大抵貨物列車の牽引用に蒸気機関車を保有し、時代の流れと共にDLと交替した。小湊鉄道はDLを購入せずキハ6100、6101を貨物列車の牽引に使用した。貨物の量もさほど多くなく、重量の重いキハ6100は機関車代わりに丁度よかったのかもしれない。
蒸気機関車は1号機、2号機(大正13年ボールドウィン製)B104(明治27年ベイヤーピーコック製)の3両が千葉県の文化財に指定され、五井機関区の敷地内に屋根付で保存されている。
交換駅について
五井~上総中野間は39.1㎞あるが、五井~上総牛久間16.4㎞間の途中駅6駅の内交換ができないのは上総三又のみで、これも近々交換駅に改良される予定になっている。一方、上総牛久~上総中野間22.7㎞間の交換可能駅はゼロでこの間は1列車しか入れない。かつては上総鶴舞(上総牛久から2つ目)、高滝(同4つ目)、里見(同5つ目)、月﨑(同7つ目)、養老渓谷(同9つ目)とほぼ1駅毎に交換可能であった。養老渓谷以外は分岐器をロックしてあるだけであり、近々里見駅の交換復活工事が予定されているが、さほど難しい話ではないと思われる。