おまたせしました!京阪2000系

やっと京阪2000系が登場しました。新型という意識がありますが、登場が昭和34年とか。もうそんなになるのか、と感慨を持ちますが当時とすれば先進のデザインだったと改めて感心しました。薀蓄はお任せしますが澤村氏の逝去が悔やまれて仕方ありません。

1 thought on “おまたせしました!京阪2000系

  1. ある時期、京阪馬鹿と自称していた老人は、関東の電車ファンに馬鹿なことを言うなとののしられ、馬鹿を引き下げた。馬鹿は死ななきゃ直らないと関東の芸人が言ったので乗っただけの話であるのに、ぼろくそにやられ頭に来た!
    それはそれとして、スーパーカーは今や省エネ電車としてちやほやされているが、本来は阪神ジェットカーに負けまいとして計画された。沿線に香里団地が出来、男山以南が住宅地化されても特急ダイヤ保持を至上命令として、高加減速車として設計が進められた。2期車竣工後のダイヤ改正では昼間時、枚方市を特急が通過1分後区間急行として、後続の急行に追い上げられること無しに守口に逃げ込むという韋駄天ぶりを発揮した。これが特急20分毎の時代。15分毎になり待避駅は大和田となったが、スーパー運用の区間急行は健在であった。京都方面では、市バスの伏見稲荷線が対抗馬として名乗り上げてきた。そこで昼間、朝ラッシュ時の4連スーパー運用を3本、普通で三条方面に上げ、分割2連を三条・宇治線に投入、特急待避を深草から丹波橋に変更、宇治では1分で折り返しのスーパー運用となったが、悲しいことに中書島で宇治線から上り線に入る分岐器部分が逆カントのため、二回脱線事故を起こし中止となった。電力回生率は当初17%とも言われたが、回生制動中に至近に力行車が居れば、また変電所の吸い上げがうまく行けば……、所定の回生効果が発揮できたとも言われている。いずれにせよ日本では平坦線で最初に成功したことには誰もケチは付けられないと、馬鹿は思っている。

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