関先生の絵を見ていて気がついたのですが、色が少し薄いように思いました。8月に佐竹先輩の写真展で乙訓の長老様とこの色の話になりましたが、この色合いを言葉で説明するのは難しい、と言うことが結論でした。また、先生の絵は後ろ姿が多いのにも気がつきました。写真を元にしておられるのかと思いますが珍しいのではないでしょうか。今回の「近鉄ラビットカー」も見送りです。ところで今回の絵の中で右遠方から接近してくる電車が気になりました。
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203系撮影奮闘記
藤本哲男さんがデジタル元祖青信号に[14985]「カウントダウンとなった203系」9月23日を発表された。その衝撃的な題に煽られた訳ではないが、マト55(クハ203-5~クハ202-5)がお別れヘッドマーク(以下HMとする)付きで9月26日まで走るとのことでそいつをキャッチすることにした。私は203系に限らず絶滅が予想される車両は人がわんさと押しかける前に撮っておこうと日頃思っているが、お別れHMが付くとなるとそれはそれなりの記録となるので撮っておきたい気が起こり、今回も何度か挑戦することになった。今はいろいろな情報が簡単に入手できるので目的の車両が来るか来ないかはそう苦労しなくてもよいが、私は元来そういうことに無頓着でぶらっと出かけるのが常である。このため大勢撮影者が居る所に行って始めて何が来るか確認したことは何度もある。今回もまず9月17日(土)に松戸の陸橋に出かけてみた。陸橋の階段には既にそれらしき人が数人居て場所が占領された感があり、気の弱い私は橋の上から一人広角で狙う事にした。しかし、この日はHMなしのマト54の後追いで不完全燃焼に終わる。残暑厳しい日であった。次に22日(木)に再度同じ場所に行ってみた。今度は陸橋の階段から狙うため500ミリを持参した。市川から自転車で来た若者曰く「今日は203は来ませんよ!」。この言葉で悪い予感が当たる。そう言えば各駅のホームの端にはカメラ持った人が居なかった。今日は平日だから人が少ないのであろうと思っていたが、最近は平日でも居るので、それが居ないと言うことは来ないということである。折角の望遠レンズ持参なので特急列車や231系、531系、メトロ6000系等の撮影に切り替える。この日も暑さが身にしみる1日であった。その翌日23日は金曜日であるが祝日。今日は祝日なのでサービスで走るやろうと思い出発。各駅のホームの端にはそこそこ居る。金町でねばったが撮影者が徐々に減っていく。若者に今日来るのか聞いて見ても要領を得ない返事。諦めて飛鳥山の都電を撮ってとぼとぼ帰る。藤本さんはデジ青に追加の情報をコメントととして出してくれており、26日以降にも残る可能性を示唆されている。しかし、私の休みは来週は少ない。24日夜遅く「えい」とばかりに藤本さんにメールで聞いてみる。翌25日(日)は午前中は町内会の会館の清掃がある。近所付き合いは大切だが早めに切り上げて家に戻ると藤本さんから即返事の電話あり。「今日走る!」とのこと。目的のHM付きマト55の記録さえできればいいので一番近い代々木上原の到着、出発時間を聞く。常磐線が自分の庭である藤本さんは直ぐに正確な時間を教えてくれた。到着まで1時間しかないので現場に急ぐと大勢の人だかり。今日は間違いないと安心する。しかし、目的のマト55が到着する時に出発列車と重なってアウト。渋々次の入線に期待をかける。こちら側も大勢居たが罵声が飛び交う程でもなく無事に記録できた。ほっとして家路につく。藤本さんには今回大変御世話になりました。有り難うございます。今日の記録と丁度1年前に撮った203系をのっけます。
2011.9.25 代々木上原 JRクハ203-5、メトロ6011、小田急30053えのしま22号
2011.9.25 代々木上原 入線するマト55先頭クハ203-5我孫子行き
2010.9.22 北小金~南柏 マト51 我孫子行き後追いクハ202-1
カウントダウンとなった203系
8月8日の「【14562】いよいよ見納めJR東日本203系」で203系の現況をお伝えしたが、その後も海外譲渡が続き、マト54とマト55の2編成が残るのみとなった。一方代替となるE233系2000番台の増備も順調に進み、9月22日より17編成が運用に加わった。
9月1日よりマト55に「さよなら」のヘッドマークが取り付けられ引退は現実のものとなり、亀有駅に掲示されたポスターによると最終日は9月26日となっていた。つまり今日から3日後である。
一昨日22日は54、55ともに運用に入っていたが、55の一部車両のクーラーと照明が不調になった。台風でダイヤが大幅に乱れたが2編成とも松戸に入庫した。
台風の接近が帰宅時間と重なったため、関東在住の方は大変な目に遭われた方も多いと思われるが、私の場合は15時30分にお台場の勤務先を出たが「ゆりかもめ」は10分間隔の有人運転で「レインボーブリッジ」を徐行運転で走行。新橋で乗り換えた山手線は当初順調に走っていたが、秋葉原で東京駅で架線に障害物が付着したとのことで抑止。約40分後に運転開始の見通しが立たないとのアナウンス。日比谷線に行くとホーム混雑のため改札制限。つくばエキスプレスはすんなり乗れて北千住で下車。千代田線ホームに行くと常磐線直通運転中止で綾瀬止まり。駅高架下のバスターミナルは大混雑であったが、東武バスの葛飾車庫行の2台目にやっと乗れ、葛飾車庫から約30分歩いて自宅に辿り着いたのは19時30分であった。
昨日22日は、54のみ01運用に入っていたが、この運用を最後に松戸入庫後幕を外していたとの情報もある。また、55については代替のE233系2000番台の18編成が未着のため修理されるとは思うが、こちらも微妙なところである。
以上のような状況により、26日までどころか最悪の場合、今日以降運用に入るかどうかも怪しくなってきた。(今日は運用に入っていない)唯、前述のように代替車が未着のため26日以降も運用される可能性もあり、こちらを期待したい。
〔マト55編成〕
澤村さん 見てください
老人は幻を追い、夢を見たのか
先日の【14871】コメントで、阪急京都線1600系強力4連(170kW×8)が、新幹線の経路となるべし線路上を時速120km超で走ったことを投稿した。さっそく準特急氏から、1600系の主電動機はデイ100のものを使ったから150kWではないか、ピクトリアル私鉄巡りではいずれも170kWにはなっていないとの指摘を受けた。はて、与太ネタをコメントしたのか、気になって眠れなくなってしまった。話の発端は高校生(1954年・昭和29年)になった頃、O師匠から「特急用のデイ115~117の内、115と116号の主電動機は710形と同じ170kwだ」と聞かされた。デイが特急用から外れたのは1300形の登場による。1300形はご存知の如く軽量設計による京都線用高性能車両のはしりである。これの車体とデイの更新工事の際に、制御車化したデイから外ずした電装機器を組み合わせ仕立上げたのが1600系である。その中には特急専用車であった115、116号の170kw主電動機が含まれているとされ、1600系に強力編成ありと、評判になった。
老人が新幹線となる線路上をすべる様に疾走する1600系4連の急行に乗った話をT師匠にしたところ、「それが強力1600系だ!」と言われた。だが車号は思い出せない。
710系は711~715編成までが170kw主電動機で新造され、716、717編成は150kw編成であったとも聞いた。後に3扉改造の時に170kwに統一されたようだ。このあたりの説明がピクトリアル誌では山口益生さんの説明がある。失礼ながら奥歯に物が挟まったような言い回しでもあり、なにか事情があったのではないかと勘ぐっている。
強力デイのことは故羽村先輩との間でも話題となった。こんな話を持ち出せば故高橋正男先輩に「ええ加減にしてくれ!」と怒鳴られそうだ。老人がデイの特急に初めて乗ったのは同志社中学入学の年(1951年)、秋の彼岸に兄に連れられ大阪の電車見物に行った帰途、天六-大宮間であった。主電動機が何型かは知らなかったが、10m長の50㎏レールの乗り心地は決して良いものではなかった。故人となられたO、T師匠、羽村、高橋両先輩、老人は今こんなことで悩んでいるのですが……。
ホル7530
ホル7530のもっといい写真がありました。佐竹保雄先輩1955年12月2日、やはり隅田川用品庫での撮影で、江本氏とは反対サイド、台車もばっちりです。この一連の作業局型ボギー車は、ダブルルーフながら極めて浅いのが特徴です。この佐竹氏写真でもやっぱりナル7530とレタリングされていますが、ホルが正しいです。
台車はホイルベース7フィートのミッドランド製でしたが、写真からは明治44年式と思しきものに振替えられています。長軸のTR11と比べるとずっと軽そうですが、こんな台車の既製品はありますまいから、TR11でも仕方ないですね。
ついでにこの配給車改造に最も近い姿=ホニ5910形式を、昭和3年版形式図下巻から、コピーしてご覧に供します。同じ英国製台車でもホイルベースが5フィート6インチの車両もあった(右台車)ことが分ります。
故澤村氏の模型
[14942]西村雅幸氏投稿、故澤村氏製作途上の客車ですが、ホル7500形式は7534がラストナンバーだったかと記憶します。で、久方ぶりに木製客車アルバムを引っ張り出し、埃を払って、繰ってみるとホル7530が窓配置上で該当しそうです。写真は江本広一氏1956年4月20日隅田川での撮影ですが、3月31日付で廃車処分されていました。現車には「ナル」とありますが、これは「ホル」の書き間違えかと思います。
経歴は新橋工場1901年製造、鉄道作業局フボ1→ホニ8800(形式8800)→ホニ5910(5910)→ホヤ6764(6760)→となり、荷物車として生れています。
澤村氏へのいい功徳になりますから、是非屋根、デッキ、台車をつけて完成させてください。出来たら是非この掲示板でのご披露もお願いします。デッキ、台車の詳細等が必要でしたら、お申し出下さい。同系車の写真あるいは図面を探しますから。
Re.高松琴平のとんでもクハ
昭和28年廃車後も残っていた11000形 (44-3-19) 仏生山
高松琴平電鉄のワフ改造のクハの件は、須磨と乙訓の両長老から詳細な解説がされており、私ごときが出る幕ではないが、昭和44年3月に撮影した画像をお目にかけたい。
廃車後、物置として使用するには手頃なサイズであったためか長く残り、瓦町変電所で使用されていた車体は平成3年頃まで残っていたそうである。
画像を通り、この時点では線路の上に乗っており、ダルマにはなっていなかったが、車号は長年風雨にさらされた結果であろうかどこにも残っていなかった。
それにしても終戦直後の琴平線は「人が乗れさえすれば何でも良い」というほど車両不足に陥っていたことが伺える。乗り心地の悪さもさることながら、夏は車体の外板から直接熱が伝わる上に、窓が小さいので蒸し車内は風呂状態、冬は冷蔵庫状態であったと思われる。
鉄ピク誌の1989年3月臨時増刊号に吉川文夫氏が「電車になった貨車/高松琴平電気鉄道11000形」のタイトルで、亀井一男氏が昭和24年6月に撮影された写真と共に解説されているのでお持ちの方はご覧いただきたい。
乙訓の長老の解説に出てくる「国電のお古2000形」についても触れると、仙石線の前身宮城電鉄の買収車で、大正15年日本車輌でサハ301~303として新製され、車体は木製であった。昭和18年運転台を取付けクハ301~303となった。昭和27年10月廃車後、翌28年3月に高松琴平電鉄入りして2000形(210、220、230)となり琴平線で使用されていた。
昭和32年に230が鋼体化改造され、Hゴム支持の2段窓(通称バス窓)を持つ近代的な車体になったが、台枠以下と屋根を流用したため、トラスバーが残るアンバランスなスタイルになった。昭和40年に220が鋼体化の上電動車化され67となった。窓、扉等を原形のサイズに合わせたため、窓の小さい古めかしいスタイルとなった。210は鋼体化改造をされることなく昭和44年に廃車となった。
220を鋼体化の上電動車化した67 (44-3-19) 瓦町
11000形ほどではないが、もう少しで「とんでもクハ」になりかけた車両を紹介しよう。昭和39年に国鉄からオハ31の137と299を購入してデッキ部分を乗務員室にして側面の扉を2カ所開ける予定で工事を進めていたところ、車体の老朽化があまりにも激しかったためか、旧車体を廃棄して新たに車体を新製した。台枠以下は流用しているので、何となく元オハ31の面影が残っている。
【14829】のコメントで米手作市様が触れておられるキワ90について画像を貼っておく。
昭和35年ローカル線の効率化を目的として2両新製した「有蓋気動貨車」で、当時気動車用の標準機関であったDMH17C(180PS)を搭載した全長8mの2軸車であった。
宮崎機関区に配置され妻線で使用されていたが、牽引力不足等で実用化に至らず、昭和44年にキワ902が房総電化の際に事業用車(装柱車)キヤ901に改造、残るキワ901は引き続き宮崎機関区に留まったが昭和46年に廃車された。
台車の話
闘病中のTさんから懐かしく、また、楽しかったあの頃の台車の話が届きました。メールで1~2回やり取りをした後の文章です。本人ご了解のもとに原文を紹介します。
「阪急2800はミンデンドイツばかりだったので、2804ができるまでは、わざわざ1300急行のエコノミックトラックで帰宅したことがあります。京阪1900はシンドラKS70が大半ですが、アルストーム1906は最高。小田急のアルストームもよかった。名鉄も。阪急814のゲルリッツはダイナミック。阪急660のブリルは最高!そう、610は中型として、いい車両でしたね。山陽電鉄のOK型はズシンズシン。近車のシュリーレンも力作。ああ、いい時代だった。ありがとう。思い出したよ。」
私見です。乗り心地と言う観点から見ますと台車の要素は大きいと思いますが、路盤・線路状態、電動車か付随車か、MT比率、ブレーキ方式・出力等車両性能、車両構造、乗客数、列車速度、運転の仕方等々様々な状況によっても微妙に違うのでしょうね。国鉄客車オハ61の乗り心地がいいと言う人がいますが、うなずける点もあると思います。技術的なことはよくわかりませんが、京阪の1900が京都市電と平面クロスする所でもスムーズな乗り心地を感じましたし、阪急京都線は路盤が悪く10メートルレールが存在したとも聞いておりますがスピード満点でそれが乗り心地の悪さをカバーした様な気がします。小田急は狭軌ですが、昔から路盤がよかったのか直線区間が多いのか、空気バネでない2400でも乗り心地は悪くなかったです。1960年代後半ですが、あの時代は昭和初期の吊り掛け車に混じって各社競って製作した高性能車が多く見られ、その台車にも空気バネ等試行錯誤のあとが見られ、見ていて興味をそそられました。Tさんはベッドの上で打ち込んで送信されたものと推察しますが、凄い記憶力と気力に感銘を受けました。
都電荒川線100周年記念イベント
8月7日【14525】でお知らせした通り、東京都交通局は8月1日に創業100周年を迎えたが、都電荒川線は前身の王子電気軌道により明治44年8月20日飛鳥山上(現在の飛鳥山)~大塚間を開業以来100年を迎えた。これを記念して8月20日に荒川車庫でイベントが実施され、9001と9002号車に簡単な装飾とヘッドマークが取り付けられた。荒川線にとっては「交通局100周年」よりこちらの方が意義深いと思われる。
当日、たまたま午前中時間が空いていたので、イベント前にスカイツリーを入れて撮影をしようと思い早めに家を出たが、金町駅に着くと203系マト55編成が我孫子行で来たので思わず乗ってしまった。我孫子駅の入線を撮影しようと思い、松戸で降りて快速に乗り換えた。我孫子駅の入線を撮影後、再度快速で松戸に引き返し入線を撮影後、マト55編成に乗り町屋で下車した。
都電のりばに行くと、展示予定の9001が団体客を乗せて到着、直ぐに客を乗せたまま折り返した。荒川車庫に到着すると9002が装飾して停められており、隣に先程の9001が並べられた。その後7023に「都営交通100周年」のヘッドマークを取り付けて並べられた。イベント終了後は、9001は飛鳥山まで改装後大塚駅前行で、9002は「がんばろう日本」のヘッドマークを付けて三ノ輪橋行で営業運転に入った。
イベント前に貸切運用に入った9001
9001と9002の並び
9002と9001のヘッドマークが取替えられた。
「がんばろう日本」のヘッドマークを付けた9002
・車両の動き
7000形の7004が3月31日付で廃車になり7000形は21両となった。それでも最大勢力で誇っている。
在りし日の7004 (20-6-16 飛鳥山)
現在の在籍車両は下記の通りである。
7000形(21両)7001~7003 7005 7007 7009 7010 7013 7015 7016 7018 7019 7023 7024~7027 7029~7031
8500形(5両)8501~8505
9000形(2両)9001 9002
8800形(10両)8801~8810
花100形(1両)花101
高松琴平のとんでもクハ
失礼しました。この6両の種車は、新製車ではなく、国鉄払下げの中古ワフ25000形式だそうです。中の1両1140は、ご覧のようにブリル台車に履き替えていました。乗り心地が悪かったからでしょう。晩年は貨車として使ったといい、事情は知りませんが恐らく、熊延鉄道ハ50、51(これは新製貨車を流用)同様、認可当局は客車としてではなく、「目下の情勢では貨車で客扱いするのは差支えない」と、妙な理屈で貨車として認可したんじゃないかと思います。
どんな色であったかは分りません。元来小生は色盲ではないのですが、色彩センスに極めて乏しく、永年モノクロ専門だったためか、およそ車両の色を覚えていないのです。上の写真からは、貨車並みの黒とも、錆びて茶色になっているとも思えませんが。
これはなんだ?長老様!
尾道鉄道の記録資料発刊について
モロハ50?
再び近鉄、でも木造車 モ1型
訃報 澤村達也氏(’67年度生)、ご逝去
当会会員の澤村達也(’67年度)さんが、8月23日01時17分にご逝去されました。
ここ数年来、ご病気のためにご療養を続けられておられましたが、 残念ながら完治かなわず帰らぬ人となられました。
故人は、根っからの鉄道マニアで鉄道模型の達人であり、製作を享受された会員の方も多いと思います。実車も設計され、ご生涯にわたって鉄道発展に尽くされました。会員皆様方には、ご乗車の度に思い出されることと思います。
このホームページ「デジタル青信号」立ち上げでのメンバーでもありました。
つつしんで、故人のご冥福をお祈り申し上げます
【お通夜・告別式】
・お通夜 8月25日(木) 18時~19時
京都駅八条口より徒歩約5分。開式60分前と30分前に八条口発の送迎バス有。
最後の夏
今日の関東地方は、しとしとと雨の降り続く日曜日となりました。
その雨の中、8月で定期運用から離脱する国鉄型車両を追いかけました。
一つは、JR東日本の113系。もう一つは、関東鉄道のキハ350形です。
早朝、土砂降りの中、成田線大戸~下総神崎間を行く113系です。晴れていたら、結構人が集まったかもしれませんが、雨でしたので、私のほか一人だけでした。8月末で、定期運用から撤退とのことですから、この区間を走るのは、あと何回でしょうか?鹿島貨物を待つ間、いつも顔を合わせていましたが、ここで、出会うのも最後かもしれません。正に涙雨です。
一旦自宅に戻り、午後、再度出陣です。まだ、雨はしとしとと降り続いています。
7月22日金曜日から8月28日の金土日曜日に、キハ350形が限定運用で、走っています。今日を逃すと、来週の3日間しかありません。
守谷~新守谷間を行くキハ350形です。随分田舎のようですが、つくばエクスプレスの走る守谷駅のすぐ近くです。
小絹~水海道間の水海道車両基地の脇を行く、キハ350形です。後輩が見守っています。
バリバリの現役時代は、どちらかといえば、あまり写す気にならなかったような車両たちですが、今の車両と比べたら、個性的で温かみのあるような気がします。
来週がラストチャンスです。
天気がよければ、最後にもう一度会いたいものです。
有難うございました 高橋弘さん
訃報に接し、鉄道趣味の先達であり、師匠と仰いでいた方が次々と逝去され寂しい思いがしてならない。
高橋さんと同席となったのは1955年12月、奥野さん宅であった京都鉄道趣味同好会忘年会の時であった。この時、父は高校2年生に一升瓶を持っていけと言って渡してくれた。この忘年会には大橋さん、中谷さんも参加され、同好会会務と会誌「急電」発行についての打合せも行われたように思う。
忘年会は高山さんを含め6人、私は最年少で高山さんと高橋さんに挟まれ小さくなっていた。一升瓶を持ちこんだことで大いに盛り上がり、高橋さんから訪問された各地の電車話をお聞きする事ができた。私も姉が四国・善通寺で所帯を持ち、1954、1955年の夏休みに四国を巡った話をしたところ、興味をもって聞いて頂けた。その時、琴平参宮電鉄創業期の木造4輪車を撮りそこなった話をしたようで、後に3景の写真をそれぞれ2枚ずつ頂いた。この時「沖中君が琴参電車の紹介を何処かでする機会があったら自由に使ってくれたら良いよ」とおっしゃった。その3景は次のとおりである。
① デハヨ型26号、撮影地は琴参琴平駅。高橋さんが東山中学5年秋(1949年と思われる)、修学旅行で四国へ行れた時のもので、夜行で高松に上陸、屋島と栗林公園に行き琴平で1泊、琴平神宮参拝後に撮影したとの説明があった。フィルムは映画用をライカ1型のパトローネに詰め込んだもので粒子が粗く、大きい写真は掲載に向かないから気をつけるように言われた。
以前、1954年夏に樫藪変電所横に留置されている竹製はしごを括りつけた27号を撮りそこなったと「デ元青」に記したが、それと同型車である。デハヨ型は5期に亘り新造されたが、その最終期1925年4月梅鉢鉄工所で製造された5両、24~28号の内の1両が26号である。廃車は1954年4月21日付けで28号と同時であり、27号は架線修理車として残されたが1955年3月末に廃車解体。開業期の車両はこの時点で見られなくなった。
② 和歌山鉄道モハ50号、於:東和歌山駅、1952年2月24日撮影。「琴参の2軸車改造とは思えない車体ですが、台車も改造か?」との高橋さんのコメント入りである。この50号は琴参のトップバッター、開業した1922年10月22日の祝賀電車となったものである。1939年10月に和歌山鉄道に売却されたデハヨ型は4両、11~13、15号の4両であった。燃料事情から水力発電が豊富な和歌山では、アメリカから原油を差し止められるやいなや、一早く鉄道電化に着手した。ノンステップ化、連結器取り付けなどの改造後50~53号と付番され、1941年12月末の電化工事の完成を待って1942年正月から使用開始となった。私は松電、長電、東京の電車見物を終えた後、国電モハ52が阪和線で特急運転している奧野さんに教わり、天王寺を朝9時過ぎ発で乗りに行っている。その時、この50号が東和歌山構内で貨車入換作業をしているのを見ていた。50号は旧11号の旧番号持つ。つまり1号車なのである。26号と11号は正面の横樋が曲線と直線の相違以外に、出入口が3ステップと2ステップの違いもあり、開業時の5両のうち4両はいち早く売却の憂き目にあった。
③ デハ56号、撮影場所と時は26号同じ。琴参は昭和期に入り乗客数が急上昇している。琴平急行電鉄開業もあり「金毘羅参り」が頂点に到達した頃、車両増備が図られた。結果は南海鉄道軌道線の余剰車両、元阪堺電鉄1型(1911年製)5両(15、17、29、37、39号車)の導入であった。1935年9月に購入され1936年2月に使用認可を得ている。南海側では50~54号と付番して出荷したと伝えられているが、すでに琴参には50形51~54号が存在しており、60形55~59号に改番された。導入後の写真では阪堺時代同様オープンデッキであったが、後に折畳扉を取り付けた。この5両は戦後鋼体化されているが、撮影された1949年の56号は鋼体化工事前である。
頂いた3枚の写真の説明はこれ位として、”参ったぁー”となった事が1件ある。2002年のことだったと記憶するのだが、高橋さんは鉄道友の会シルバー賞の栄誉に浴された。その祝賀会が二条駅北の弥栄会館で開催された。私は富山時代の2年間だけ入会しただけだったが、祝賀会の案内状が舞い込んだ。過去の短期間の会員であるのに関わらず、案内をいただいた事に感動を覚えると共に即座に出席の返事を出させていただいた。当日、受付で席札を貰ってびっくり!「A」となっているではないか。名札を探したら高橋さんの隣席ではないか。もう一方の隣席は吉川文夫さんとなっていた。これは何かの間違いではないかと、テーブル「B」におられた高山さんに問い質しに行った。いとも簡単に「あ々、あれかいな、あんたは付き合いが古いし、なんかあった時お互いに遠慮もないと思って吉川君とで挟んでおいた。」といわれた。この時、持病と言っておられた腰痛に悩んでおられた頃でもあった。大変な役を仰せつかったものだと思いながら、高山さんの願いを果たすべく高橋さんの手足となって動いたつもりであったが、終わりの方は旧知の人に久しぶりに会って「飲ん兵衛」になっていたかも知れない。その節は高橋さん、ごめんなさい。また天国でお会いしましょう。吉川さんをはじめ天下の「電車好き」が集まって語り合いましょう。
高橋 弘氏を悼む
51年半前の高橋 弘氏 両備バス西大寺鉄道会陽特別運転の日 1960年2月12日
佐竹保雄先輩と並び、在京都―関西、いや日本有数の、それも昨日や今日デビューしたんじゃない、筋金入りの鉄道カメラマン、高橋 弘が亡くなった。79歳であった。180cmを超える長身だけでなく、100kgも超える堂々たる体躯、それで温厚、誠実なお人柄だった。タカハシ写真館のご当主だけに、気楽トンボの我々と違い、せいぜい夜行で1日行程ぐらいと、行動範囲はそう広くはなかったが、関東から山陽路ぐらいまで、丹念に足を運んで居られ、行動力は人後に落ちなかった。1950年代自転車に小型エンジンを搭載した簡易バイクが流行ったが、それで北丹、加悦鉄道まで行かれた由だし、そのバイクが「ポキンと折れました」という話も、彼氏のボリュームを考慮すれば、さして不思議でもない。
車種に好き嫌いせず、何でも熱心・丹念に撮っておられたが、やはり一番好きだったのは電車、それも路面電車だったような気がする。別段メモをされている印象はないのだが、実に記憶がよく、車歴に詳しかった。それに細かいところにも気がつき、あの電車の台車はどうだった、あれのどこが変わっていたとか、それもけして吹聴するのではなく、メモもなくさりげなく記憶を披露されるのに、何度も感心し、脱帽した記憶が尽きない。
彼氏とは何度か山陽路の撮影をご一緒させて頂いた。気楽トンボの小生は、先に出発してステホを重ね、約束の場所で落ち合う。彼氏は仕事を済ませ、夜行でやってくるのである。ご一緒した先は尾道鉄道、井笠鉄道、両備バス(西大寺鉄道)などなど。西大寺・観音院の年に一回の大祭である会陽(えよう=俗に天下の奇祭「裸まつり」)の時も、小生は前日から行っており、彼氏と落ち合って岡山電軌、後楽園駅、終点西大寺車庫、沿線などで一緒に撮影した。彼氏は単端式2両がボギー客車5両を牽く「会陽特別列車」を、三脚に乗せた単レンズの8mmエルモのスプリングモーター一杯撮影しながら、スチルカメラの両刀使いもされていた。一連の8mmは小生が何度かお借りしてコンパでも上映したから、記憶が残る人もいるはずである。
両備バス後楽園駅構内 オーバーコートで撮影する高橋 弘氏 1960年2月12日
東山五条のお店で、暗室に入れてもらったことがある。ご父君の代から使っているという、陶器のバットには銀が随所で光っていた。冬だったが、暗室内のコンロには薬缶がのり、湯気を噴いている。現像液のバットは一回り大きいバットに漬けられ、時折薬缶の湯を注いで適温を保つ仕掛けである。四つ切バットで全紙までなら四つ折、六つ折してOKとのこと。小生は六つ切りバットで半切ぐらいはこなしていたが、もっと大きい印画紙だと、スポンジに現像液を染ませ、それで印画面を拭く名人芸もあるのだそうだ。
鉄道だけでなく、音楽、ステレオにもご造詣が深かった。アカイ900(分る人は手を挙げて=まだテレコが凄く高価だった時期、アマチュアでも手が出る価格で販売されたオープンリールのテープデッキ自作キット)も難なく組み上げ、ステレオが全盛になるとやはり自作のアンプとスピーカーシステムを聞かせていただいた記憶もある。
ここ10年ぐらいはご健康が優れず、正直やや痛々しかったが頭はしっかりしておられた。お目にかかったのは1908年12月7日、関東と関西の仲間が寄っての忘年会が関西受け持ちで湯の花温泉であり、翌日大津魚忠では、ご子息修氏のご配慮で弘氏も同席され、昼食をご一緒したのが最後になった。その折西大寺鉄道に行った記憶―一人でなら到底あんな列車を撮影できなかったと話されたのが忘れられない。こっちこそ、本当に有難うございました。得がたい先輩をまた一人失った。
江若鉄道三井寺下再現 その11
レイアウト工事の方は 見通しがついてきましたので、たまっていた車両の塗装工事を進めています。連日の猛暑で、盛んに熱中症予防が叫ばれているなか 当鉄道の塗装工場には手動式塗装機・・・・・スプレー缶というものが世の中に出回る前には 殺虫剤も手押しの噴霧器でした・・・・しかなく、20両近くの塗装作業は熱中症との戦いの様相を呈しております。第1陣として4両の蒸気機関車が塗装工場を出ました。旧宇部鉄道から来た短命の100号機、最後まで残った6号機、江若夏の陣で活躍した1118号機、そしてC111の4両です。C111はウオームギアの調達が難航しモーターを仕込んでない無火機ですが、その他の3両は試運転調整も終えて 出番を待つ状態です。
続いて塗り分けのない客車群、塗り分けの面倒な気動車の順に塗装工事を進めることにします。