闘病中のTさんから懐かしく、また、楽しかったあの頃の台車の話が届きました。メールで1~2回やり取りをした後の文章です。本人ご了解のもとに原文を紹介します。
「阪急2800はミンデンドイツばかりだったので、2804ができるまでは、わざわざ1300急行のエコノミックトラックで帰宅したことがあります。京阪1900はシンドラKS70が大半ですが、アルストーム1906は最高。小田急のアルストームもよかった。名鉄も。阪急814のゲルリッツはダイナミック。阪急660のブリルは最高!そう、610は中型として、いい車両でしたね。山陽電鉄のOK型はズシンズシン。近車のシュリーレンも力作。ああ、いい時代だった。ありがとう。思い出したよ。」
私見です。乗り心地と言う観点から見ますと台車の要素は大きいと思いますが、路盤・線路状態、電動車か付随車か、MT比率、ブレーキ方式・出力等車両性能、車両構造、乗客数、列車速度、運転の仕方等々様々な状況によっても微妙に違うのでしょうね。国鉄客車オハ61の乗り心地がいいと言う人がいますが、うなずける点もあると思います。技術的なことはよくわかりませんが、京阪の1900が京都市電と平面クロスする所でもスムーズな乗り心地を感じましたし、阪急京都線は路盤が悪く10メートルレールが存在したとも聞いておりますがスピード満点でそれが乗り心地の悪さをカバーした様な気がします。小田急は狭軌ですが、昔から路盤がよかったのか直線区間が多いのか、空気バネでない2400でも乗り心地は悪くなかったです。1960年代後半ですが、あの時代は昭和初期の吊り掛け車に混じって各社競って製作した高性能車が多く見られ、その台車にも空気バネ等試行錯誤のあとが見られ、見ていて興味をそそられました。Tさんはベッドの上で打ち込んで送信されたものと推察しますが、凄い記憶力と気力に感銘を受けました。
準特急さん、
Tさんのメールを掲載してくれてありがとう。
ご存じない方もいるので少し説明をします。Tさんは元私鉄の社員でした。体調をこわして手術をして膵臓と脾臓を摘出しています。一時は歩くこともままならなかったのですがクローバー会の行事に出始めてから元気を取り戻し、佐竹さんの林間学校での強化合宿や旅行にも参加するところまで復活しました。でも夏の暑さには勝てず、毎年8月は三朝にある大学病院の分院にリハビリ入院して温泉でのリハビリをしていました。そんなときに行政改革とかで温泉の分院が通院だけになったため調べたあげく今年から白浜の温泉病院に入院することになりました。やっと入った8月の14日に突然意識不明になり救急車で紀伊田辺の国立病院へ転院しました。数日ぶりで意識が回復したらICUで面会禁止だったのです。彼からの“怪しいメール”が届いたのはこの頃でした。
台風が接近する中、会員の一人と一緒に病院を見舞いました。彼はか細い声で「もう死ぬかも知れないと覚悟を決めました。だからせめて食えるだけ食ってやろうと思います」というので「そうや、何でも食え。何が食いたい?この辺やったら“清姫一夜寿司”はどうや?」と勧めましたがゼリーを食べる、といって枕元のゼリーカップを見せてくれました。その枕元には、今夜はおかゆ・120gとありましたので少し安心して帰途につきました。
次の日に電話をもらいましたが打って変わった元気な声で、少しだけど立てました。京都の病院への転院も決まりました。と喜んでいました。それが今週か来週です。
帰ってきたら、また行って冷やかしてやろうと手ぐすね引いております。参加希望者はお申し込みください。
彼には「病状を含んで掲示板に何を公開しても文句は言うな」と尋ねましたところ、彼も「私には個人情報はありません」と快諾してくれましたことを申し添えます。
米手作市様
早速のコメント有り難うございます。私が人生の中で気を失いかけたのは2年程前にJR京浜東北線上中里駅近くの国立印刷局病院で痔の手術のため麻酔をかけられた時ですが、彼の場合は生死をさ迷う大変な状況であったことがよくわかりました。何度もメールでやり取りをしていますが、「くれぐれも無理せんでくれ」と毎回付け加えております。しかし、今日も長文のメールが来ていました。
要約すると①一概に言えないが京阪が柔で、阪急が剛、乗り心地は圧倒的に京阪 ②阪急FS345ミンデンは台車自体に振動吸収力が無く当時の新式台車としては最低クラスでこれが標準台車で暗黒時代になり2800の2ドアクロスには恥ずかしい乗り心地だった
③阪急1300のエコノミカル台車の方が空気バネである分まだましで、2804はシンドラ空気バネでこれのみ京阪並み ④京阪1900は柔らか過ぎで、3扉化で硬くしても酔うという乗務員が居た ⑤ピンクの内装車(1810)も酔いに影響あり
何だか当時のBOXにおける京阪・阪急戦の再現を感じる内容で懐かしい。
ウ~ム、これは病気のなせる技の無意識・うわごととしてもかなり強烈!阪急一家としても反論があるに違いない。意識が回復したら「ここはどこ?そんなことは思っていても言ったことはない」などと言いかねないから今の内に反論すべし。
準特急さま、どうぞ!!
老人も参戦しよう。阪急が京阪分離の際に「新京阪」を離さなかったが、その時に放ったお言葉の一つに「脆弱した線路の復旧については旧京阪線に専念してもらう」とあり、新京阪線は京阪神急行が責任を持つとあったがが宝塚線に集中、昭和2~3年開通以来の50kgレールを良いことにして大幅な改修をしなかった。そのため新京阪線の乗り心地は一段と悪化してしまったのである。新幹線の先行工事区間を代行地固めをしていた時、ある日の1600系強力4連(170kW×8)急行に乗り合わせた事があるが、大山崎を出るやあっと言う間に120キロに達し、水無瀬通過はなんと130キロオーバーとなった。その時の滑るような乗り心地、土砂を含んだ玉砂利と継ぎ目が丸くなった50kgレールと比べると夢心地であった。1300系にも悪名高いエコノミカル台車があったと思うが、この台車にしても夢心地。ただし、唸りは170kW級であっても、さっぱりスピードが上がらぬ特急、国鉄や京阪を舐めていた?のかもしれない。
老人が乙訓郡のウサギ小屋に転居したのは1967年春、河原町通りに17分で出られることに着眼したことにある。その時、旦那に「裏切りもの!」と罵られた。
準特急氏が乙訓郡に下宿されたのは、このころではないかな?
米手作市様
Tさんの言われることにほぼ同じ考えです。ただ、旧1810のピンク色の内装に酔うと言うのはFさんが言ったとかメールにありましたが、Tさんの冗談と思います。 ピンク色の内装は営団(現東京メトロ)丸の内線の300~500にもあった様に思います。南米ブエノスアイレスに行った車両ですね。その後はピンク色はあまり見かけなかったのですが、最近の小田急の千代田線乗り入れの4000が少しピンクっぽい色だったと思います。内装と言えば座席や床、天井を含め阪急が最もいいように感じます。米手様は阪急はババ色の車内と言われておりましたが、確かに旧型車は高い窓とともにやや暗い車内イメージはありました。しかし、2000系列以降の明るい木目印刷は見事です。JALの内装などを担当したM先生と言うデザイナーの方とホテルの内装や家具の仕事をしたことがありますが、先生は電車の内装は関西がいいと言われていましたが、阪急あたりのことを指して言ったのだと思います。 阪急も最近の9000系列や更新車は、また、ババ色が復活している様にも見えます。個人的に車両の内装は暖色系が好みですが、安っぽいのを使うと日焼けして色落ちしてかえってみっともなくなります。京王の6000系までの車両は薄茶か肌色ですが、日焼けすると見られたものではありません。比較的内装の綺麗な阪急での2300等高齢車に乗って木目印刷の内装を見ると寄る歳を感じます。昔一時寒色が流行りました。京急の1000や小田急の2400、2600、5000、8000が寒色系ですが車内照明用の蛍光灯がむき出しなのでグレードは落ちますが暗さは助けられています。小田急は暖色に変えた車両もあります。蛍光灯にカバーをかけるのは関西私鉄(南海はむき出しもある)とJRのグリーン車、新快速使用車両などに多いようですが、蛍光灯が離れていてカバーをつけると車内が暗くて案外陰気になり易いものです。間接照明もグレードは上がりますが、暗くて実用的でない車両も見かけます。米手様、オハ61などは白熱灯がとんでいる上にカバーがついており非常に暗く、あれで目を悪くした人も多いと思いますね。
乙訓の老人様
電車の鬼と言われ、また、内装にお詳しい老人様の参戦は嬉しくもあり、身震いしております。新京阪の路盤の悪さと新幹線上を走った阪急1600の話よくわかりました。おっしゃられるとおり1967年頃に神足の南側の学生用アパートに下宿しました。「1日1鉄」と言う言葉がありますが、これは最近売り出しの鉄道写真家が実行している1日1回は鉄道写真を撮ることをモットーとするという意味です。私は最初宇治に下宿したのですが、距離の割りに通学時間がかかり過ぎで直ぐに学校近くの漬物店に移りました。しかし、徒歩通学もいいようで面白くなく、1日1鉄(私の場合は撮り鉄ではなく、乗り鉄)でP6やクモハ54に乗ることに満足を感じていました。神足の木造学生アパートにテレビはなく、澤村さんがラジオをつくってプレゼントしてくれました。
T君とは電鉄会社在職時代から年賀状他で交流があり、老人の幼馴染もT君が同志社の後輩である事で何かと気にしてくれたようです。運輸から開発に配置転換された時はとてもショックだったようで、その後に手術をうけたと思います。
老人は幼い時にアデノイド摘出、高校時代に鼻柱骨湾曲症の手術を局部麻酔で受けていますが、今冬の手術は全身麻酔で、痛くも痒くもなかった、これが感想です。
麻酔医の「これからはじめます」「御願いします」の会話の後はコトン。気付いて「今何時?」「18時30分です」コトン。次は「今何時?」「3時です」は女性の声だった。ここで麻酔は切れたようだった。延べ18時間幽冥の世界だった。
内臓を摘出したT君の不安、これを和らげてやるのは彼の好きな話に乗ってやることが一番だと思います。台車の写真を撮ったことある会員諸君、それにまつわる話をてんこ盛りしましょう。準特急さん、貴方と同じ悩みを抱えたもう一人の老人がおりますよ。互いに悩みをぶつけ合う事でストレス解消になるのですよ。