お盆休みの13日を利用して、大文字でスカタンな話題を提供する京都へと向かう。烏丸御池で開催の福田静二さんの写真展「市電の記憶 昭和の京都」ならびに五条河原町で開催の佐竹保雄さんの写真展と津田雅司さんの模型運転会共催の「東北を旅して」を鑑賞するためだ。一日に二度楽しめるコスパ満点の機会だ。
大阪市営地下鉄堺筋線日本橋駅から堺筋線に乗る。途中の市営と阪急の運転手が交代する天神橋六丁目駅のすぐ上にある大阪くらしの今昔館では世界的な鉄道マニアと云われる原信太郎翁92歳の特別展示「鉄道模型と極める-関西の鉄道-」が9月4日まで開催されている。ちょうど今日の日経夕刊に原信太郎さんの自作や収集された鉄道模型約六千輛のうち一千輛を順次展示する鉄道模型博物館が横浜市みなとみらい21地区に来年7月を目途に開設されるとの記事が載っていた。天六駅から昔の新京阪線となる。新京阪の旧天六駅ビルは解体中で高層マンションになる。立体交差工事がすすみ三階ぐらいの高架橋が散見する淡路駅で特急?に乗り換えるが盆休みでか混雑していて烏丸駅まで立ち席。しかし良く停車駅がある。京都市営地下鉄にひと駅乗って烏丸御池ギャラリーへ。
写真展の写真はすべてモノクロで福田調ただよう素晴らしいものである。安全地帯に溢れんばかりのお客が市電の到着を待っているのは微笑ましいばかりだ。今でも正月の初詣のときに阪堺電車の住吉大社停留所の安全地帯で、同じ光景が見られる。鉄道写真としてはもちろん、街の情景や服装・建物など記録写真としても貴重なものだ。少し奥まったとこにあるので多くの人に見て貰えないのが惜しい。
過剰装備の背の高い豪華ホームドアが設置された大赤字の地下鉄東西線と馴染めない配色になった京阪電車に乗って清水五条駅へ。地上へ出ると猛暑。報道に寄りますと、この日の京都市は全国二番目の暑さだったとか。二つめの目的地に着くと佐竹さんご夫妻・福田さん・津村さんのお顔を拝することができ、幸運だった。暑さにも負けず佐竹さんはお元気で、直々に写真の説明をしていただけた。懐かしい蒸気機関車や旧型客車列車、大好きだった薄幸のキハ55系準急色の写真を見る。また福田さんには阪堺電車撮影会など情報提供をいただきながら音信不通のお詫びをする。大阪通信員というのに通信しないと風評が立っているとお叱りを受ける。よってこの一文を熱帯夜のなかで発信する次第である。今春定年を迎えた津村さんは模型鉄道の社長に就任し悠々自適とのこと、ご要望があれば出張運転会が可能のようだ。キハ17系気動車・焦げ茶のDF50の牽くスハ32系客車などお若いのに通信員好みの渋い車輌があり気分良好。なお滞在中に、はるばる伊丹市からご婦人がトランクを引いて来場される。朝日新聞の紹介記事を見て、鉄道資料のチャリティに役立てて欲しいと「日本の電車」などの書籍と記念乗車券や東北新幹線開業メダルなどを持参されたのだ。最近お亡くなりになったご主人のものだとか。ちょうどお盆で旦那さまへの良き供養となれば幸いである。通信員のみならず、OB皆様もお盆を機会に、ご家族には収集品を安易に片付け屋などに渡さぬよう一言云っておかれることも肝要ではありましょう。
大谷廟へのお盆のお墓参りなのか五条大橋の東行きは長い渋滞。京阪電車に乗って丹波橋でこれまた良く停まる特急に乗り換える。やってきたのは生き残った8000系。淀駅は高架駅となったが引き込み線などの工事は残っている。高架になったので淀城跡が上から良く見える。また橋本駅横では遊郭だった建物がまだ見える。途中すれ違う旧色の列車がすっかり少なくなっと嘆いているうちに北浜駅から日本橋駅へと戻る。
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広島電鉄の単車
【14623】で関 三平先生の広島電鉄152号のイラストと解説が紹介された。解説文を再掲させていただくと「8月中旬には広島駅頭に立って再び興奮に包まれていた。駅前停留所にはひっきりなしに広電(広島電鉄)の四輪単車が発着して、ある時間帯には単車ばかりという(私にとっては)想像もできなかったシーンが現出されていたからだ。150、200、400、450の4型式あわせて60両強が現役で、『単車祭(?)』の状態になるのは当然の結果だが…。もちろん、全車、原爆の犠牲車だ。
4型式のうち400型、450型は、戦前から始められた鋼製車(木造車からの改造)が完了し、スマートな『広島スタイル』におさまっていた。150型、200型には、原型をとどめた応急復旧車が残り、152号車(イラストの電車)もその1両、屋根がリベット打ちの鋼板屋根に変更されたりしてはいるが、全体として昭和初期鋼製車の原形をよく残している。
長さ約9メートル、70馬力弱の小型車ながら頑張り、広島の街の復興繁栄を見届けて昭和45年までに全車廃車。152号車を含む応急復旧の3両は40年にリタイアした。なおスマートに更新された156号は『被爆単車』として保存され、現在も折にふれて市内を走る」と記されている。
関先生の言われている「単車祭(?)の状態」とは、昭和35年頃ではないだろうか。
また、米手作市様が「今回ばかりは切れが悪いようで、意味の理解できない部分もあります」と言われている部分は、①昭和45年までに全車廃車。②152号車を含む応急復旧の3両は40年にリタイアした。③スマートに更新された156号は「被爆単車」として保存され、現在も折にふれて市内を走る。以上3点の相関関係ではないかと思われるので、それらを含め解説したい。
広島電鉄を初めて訪れたのは昭和40年3月のことで、京都駅23時5分発準急「ななうら」で出発した。準急のため途中停車駅が結構多く、広島到着は6時51分であった。ちなみに帰りは翌日の宮島口13時53分発153系の急行「関門」で帰ったが、広島で通路まで満員となり、宮島口から乗ったのは正解であった。山陽本線は全線電化されていたが、広島以西の貨物列車は殆どD52が牽いていた。私は電車の撮影に専念していたので、そちらは撮影していない。
150形(151~160)
大正15年梅鉢鉄工所で10両作られた。原爆では宮島駅にいた157以外被爆した。昭和23年までに全車復旧したが、昭和27年に152、153、160の3両を除き、車体更新が実施され、自社製の新製車体に乗せ換えた。車体更新されなかった3両は関先生が書いておられる通り昭和40年に廃車。車体更新車も昭和44年から46年にかけて廃車されたが、解体を免れ江波車庫に保管されていた156が昭和62年に複籍を果たし、イベント時に展示走行されている。
156/広島駅 (40-3-27) 一旦廃車になったが、車籍を復活して保存されている。
200形(201~210)
昭和5年日本車輌で10両作られた。原爆で全車被災したが昭和23年までに復旧した。150形と異なり、車体更新されることなく使用され、昭和38年から41年にかけて廃車された。
400形(401~430)
大正11年から昭和2年にかけて大阪市交通局の前身、大阪市交通局から購入した木製車100形を、昭和13年に17両、17年に13両自社製の半鋼製車体で鋼体化した。扉間5枚の大きな窓とノーシル、ノーベッダーの軽快な外観で、次の450形と共に戦前の広電を代表する車両であったが、足回りは旧車のものを流用したため、150形や200形よりも古かった。
原爆では宮島駅にいた417以外被災したが、昭和23年までに復旧した。
昭和31年に420~430の11両が廃車され1部は工作車となった。残りの車両も昭和40年から44年にかけて廃車された。
大きいなガラスの調達が困難なため、窓に桟が入っている車両が少なからず存在した。
409/広島駅 (40-3-27) 1枚ガラス入手難のため、窓に中桟が入っている。
450形(451~465)
昭和12年11月千田車庫の火災で被災した100形11両を昭和14年から15年にかけて自社製の半鋼製車体で鋼体化した。車体は前述の400形と同型であるが車輪径が異なり、床が高くなっている。当初450~460を付番されていたが、450を461に改番した。原爆では全車被災したが、昭和23年までに復旧した。
昭和24年原爆で被災した100形の復旧を兼ねて462~465の車体を新製した。この4両は扉が引戸になった。400形と共に活躍していたが昭和40年に2両、44年に残り13両が廃車となった。
462/広島駅 (40-3-27) 昭和24年製で扉が引戸になっている。
650形(651~655)
被爆電車654についてのコラムが掲載されているので、こちらについても解説する。昭和17年木南車輌で651~655の5両新製。原爆で5両共被災したが昭和23年までに復旧した。655は昭和42年事故で廃車、残る4両は昭和50年にワンマン改造、昭和61年には冷房改造と方向幕の大型化が実施された。654は平成18年老朽化により廃車となり広島市交通科学館で保存、653は休車扱いで千田車庫に保存されている。651と652は現役で朝夕ラッシュ時に使用されており、歴史の生き証人としていつまでも走り続けて欲しいと願っている。また、撮影された方がおられたら是非発表していただきたい。
福田さんの市電写真展
広島電鉄152号
関山のD51三重連 その2
かなり深い積雪だが、線路には雪はない。その中に次々とD51重連列車がやって来る。俯瞰だと広い視野が得られるが、列車に接近した横構図だとかなり狭まり、35mmや28mmレンズの出番になる。
崖の上の、少し広いところで撮影していた時、珍しくも地元の人が話しかけてきた。素朴な老人だと見たが、いやはやどうして、欲だけは見事に突っ張っていたようである。というのは、小生が三脚を立て、マミヤC3に180mmレンズを付けてファインダーを覗いているのを見て、この欲深爺さまは、てっきりこの土地を国鉄が電化工事の為に購入するべく、我々は測量と現地検分に来た者だと信じこんだようである。つまりレンズ交換式2眼レフカメラを、測量機器=まだレーザー光線での測量機などない頃だから、望遠鏡式のトランシットだと思い込んだのであろう。
うっかり小生がその爺さまの相手をしたのが運の尽き。この管首相ですら顔負けしそうな、粘り強く、しつこく、けして諦めないジイさまは、それからずっと小生につきまとい、質問を繰り返し、放してくれなかったからである。
彼が聞きたく、粘りに粘ったのは、いろいろ言辞は弄したが、要するにこの土地を地主はいくらで手放したのか―国鉄はいくらで買うのか、に尽きた。適当にあしらっていたのが、そのうち相手のペースにはまりこみ、当方はしどろもどろ。それでも「滑ったの、転んだの」といなしたり、とぼけたり、風向きを変えようと、それなりに努めはした。ところがドッコイ、そんなヤワな戦術で引っ込むジジイではなかった。
そのうち流石に根負けしたのか、先方は作戦を変えてきた。国鉄は、電化が先か、複線化が先か、とまたもや蝮の粘りで小生にまとわりついたのである。これにも適当にあしらったのだが、温度は低かったから、いくらなんでも脂汗をタラーリ、タラーリとまではいかなかったとはいえ、純朴そのものの小生は、心底くたびれ、疲れ果て、酒でも飲まないと生命すら保証できない疲労困憊常態に陥ったのであった。
それなのに何ぞや。ハタで仔細漏らさず聞いていた某後輩は、時に噴出すのをこらえながら、助け舟も出さず、先輩が塗炭の苦しみからの脱出に必死こいでいるというのに、実に嬉しげにこの一件を楽しんでいたのは、下克上は世の常とは申せ、誠に怪しからん、嘆かわしい次第ではあった。
いよいよ見納め JR東日本203系
JR東日本の203系は、後継の233系2000番台の増備により、7月末日現在残り5編成になり、いよいよ引退時期が迫ってきた。
E233系2000番台は平成21年度に1編成新製され、207系900番台の置換え後、203系を全車(17編成)置換えのため昨年度から順次新製され、現在15編成が運用に就き、残る新製予定車は僅か3編成となった。
一方203系はE233系2000番台の運用開始と共に運用を離脱し、現在運用に就いているのは、0番台のマト53~55、100番台のマト68、69の計5編成であるが、マト53と68は近日中に離脱するといわれている。運用離脱車の内、一部編成はインドネシア(51、52、66編成)とフィリピン(67編成)に譲渡予定で既に搬出された編成もある。
203系は、使用線区が取手~綾瀬~代々木上原間に限られているためか、注目度は今一つであるが、私個人的には昭和58年5月生活拠点を東京に移して以来、通勤でお世話になった車両だけに、時代の流れとはいえ一抹の寂しさを感じている。
「普段乗っている車両は撮影しない」とよく言われるが、103系が正にその通りで、廃車間際になってバタバタと撮影した。203系は103系の轍を踏まないよう普段から撮っておこうと思っていたが、やはり今頃になって出勤途中や、直帰等で早めの帰宅時に撮影している。203系が走行する地上区間(北千住の地下出口から取手まで)は踏切が無く、線路際に高いフェンスが設置されているため、撮影場所はホームの端か歩道橋位しか無い。鉄道雑誌やHP等で大きく取り上げられると「葬式鉄」で混雑が予想されるので、撮影は早目にされることをお勧めする。前述の通り残り5編成と少なくなってしまったため、昼間は全く走っていないこともある。最近の実積では、7月23日(土曜日)朝1編成運用に入っていたが昼間ゼロ、27日(水曜日)昼間3編成運用(1編成は綾瀬~代々木上原間の折り返し)に入り、夕方1編成出庫、28日(木曜日)終日2編成運用、30日(土曜日)朝3編成運用に入っていたが昼間1編成、31日(日曜日)ゼロといった具合で、本当に運次第となった。
松戸駅に到着した54編成(クハ203-4)/方向幕を「回送」にして一坦引上げ
綾瀬駅の引上げ線から1番線に進入する53編成(クハ202-3)/この日は、昼間は綾瀬~代々木上原間の折返し運用に入っていた。
東京メトロ6000系も後継の16000系に置換えられることになり、22年度から新製され24年度までに16本投入される予定で、8編成が完成して運用に就いている。6000系は10両編成が35編成在籍していたが、第10、15、26の3編成が廃車となり15と26編成はインドネシアに譲渡されている。もしかすると日本時代と同様203系譲渡車と一緒に走っているのかも知れない。
第2次試作車の01編成は、車両限界の関係で小田急乗り入れが不可能なため運用に制限があり、その他にもM車とT車の位置、車内の仕様の違い等で早期に運用離脱が予想されたが健在である。但し予備車的な存在となっており、見かけることは少ないが、平日は下記の61S運用で見かけることがある。勿論下記以外の運用に入り、休日や昼間でも見かけることもある。
綾瀬7:47→取手8:03 / 8:11→明治神宮前9:29 / 17:49→代々木上原17:51 / 18:00→我孫子間2往復半運用→綾瀬23:55
松戸駅に進入する第2次試作車01編成/この編成のみ代々木上原寄りがMcである。
北小金~南柏間を走行する13編成/原形の面影を残す2段窓車、但し構造は変更されている。
北小金駅を発車した28編成/更新時にガラス面積の広い扉に取り替えられた。
北小金~南柏間を走行する35編成/平成2年新製のラスト編成。
16000系は、関東では珍しくJR東日本の影響を受けていない電車で、連結面の貫通扉や袖仕切部の一部に強化ガラスを使用している。
松戸駅を発車した08編成/06編成から正面の扉を左寄りに設置
「スーパーひたち」用のE651系、「フレッシュひたち」用のE653系は、来春より新製のE657系に置換えられる予定で既に試運転が始まっている。
E653系はいわき~仙台間の特急に転用されることが発表されているが、久ノ浜~亘理間が東日本大震災と福島原発事故の影響で不通となっており復旧の目処が立っていない。復旧後も4両編成の付属編成で十分なため、7両の基本編成は他線区に転用されることになると思われる。
関山のD51三重連 その1
ダンナ、新兵、ノッポのトリオは松本電鉄浅間線を撮り、記憶は定かでないが(恐らく)やたら大きな安宿―信州会館に泊まり、信越本線田口-関山間を目指した。ネガカバーには1964年3月3日とあるから、世間をお騒がせ?した「サンパチ豪雪・雪中横断記」の1年後である。ダンナと小生はサラリーマン3年兵、もう一人は現役ドーヤン生。
その道中列車を車窓から撮らんとして、いつの間にか機関車がD51の三重連になっているのに気付いた。アタマ2両か1両は回送であろうが、当時三重連として名高かったのは、D51なら東北本線奥中山、芸備線布原、86なら花輪線竜ヶ森で、少なくとも信越本線関山とは、行った人はあんまり、あるいは殆んどいないんじゃないか。
東京の交通100年博
東京都交通局は、明治44年(1911年)8月1日に東京都電気局として発足し、今年で100周年を迎えた。それを記念して両国の江戸東京博物館で「東京の交通100年博~都電・バス・地下鉄の"いま・むかし"~」で開催されている。
土、日は混雑が予想されるため7月28日(木曜日)休暇を取って見学したので紹介する。
館内には実物大の「ヨヘロ」前半部のモックアップをはじめ、系統板、行先板の実物、都電6000形、都バスの模型、円太郎バスの実物等が展示されていたが、「ヨヘロ」以外は撮影禁止であった。
屋外展示場には、函館市交通局から借り入れた「ヨヘロ」改造の除雪車(ササラ電車)、荒川車庫に保存されている「6086」が展示され、こちらは自由に撮影可能であった。
ヨヘロのモックアップ
館内展示で唯一撮影可能であった。「ヨ」は4輪車、「ヘ」はベスティビュール(前面ガラス窓付)、「ロ」は大正6年製を表している。
函館市交通局・雪4
昭和9年函館大火により多数の車両を焼失したため、明治36年か37年に作られた元東京電車鉄道時代の車両を大正9年に「ヨヘロ」に改造した車両を、東京市電より45両購入して200形(201~245)とした。ちなみに「雪4」の前身はラストの245で、昭和12年4月に除雪車に改造されている。除雪車という特殊用途のため、改造時の姿で今日まで生き延びたものと思われる。函館市交通局にはあと1両元ヨヘロの244改造「雪3」が残っている。
6086
普段は荒川車庫に保存されイベント時に展示されている。この車両については【354】(2008-9-29) 【967】(2008-11-3) 【8489】(2010-6-6) に写真と共に紹介されている。昭和24年日本鉄道自動車製で41年に大栄車輌での更新修繕時に方向幕の大型化、窓枠のアルミサッシ化が施行された。昭和45年12月24日付で荒川車庫に転属し、昭和53年4月27日付で廃車になるまで荒川線で活躍した。廃車後は個人の方が保存されていたが、平成20年3月に荒川車庫に移されている。
廃車当時の車内広告がそのまま残されている。
荒川線新装記念乗車券発売と花電車のダイヤが掲載されているポスター
運賃表/普通運賃70円、1日乗車券が400円となっているが、現在は160円と750円である。1日乗車券は都電、都バス、都営地下鉄の他、日暮里舎人ライナーや都バスの青梅地区の多区間も乗車可能である。また都電のみの1日乗車券は400円である。
6086の説明板
はとバスのポスター
6086の横の壁にはとバスのポスターが2枚貼られていた。新幹線0系、初代のスーパーバスが描かれており昭和40年頃のものと思われる。ポスター類は一定期間を過ぎると廃棄されるが、よく残ったと思う。
はとバススーパーバス(46年式B915N/ポスターは初代の車両であるが、写真は昭和46年製の最後の車両。一つ前の窓の大きいタイプは1両保存されている)
モノレールのリバイバルカラー車/–ポスターでは色は判らないが、多分この色であったと思われる。
撮影禁止のため、説明板を書き写していた人がいた。禁止理由は不明であるが、フラッシュ撮影禁止程度にすれば良かったのではないだろうか。
9月10日まで開催されているので、東京周辺にお住いの方には是非お勧めしたい。函館市交通局の「雪4」の見学、撮影だけでも十分価値はあると思う。
初めての汽車一人旅
老人は同志社中学校2年(1952年)の夏休み、はじめて汽車による一人旅をしている。電車では小学校3年(1948年)以来、折に触れ奈良電、近鉄橿原線、同大阪線経由で父親の出生地(奈良県宇陀市古市場)往復を一人でしていた。汽車の旅となると母親の出生地(島根県吉賀町六日市)となり、小学2年の時の往路は父母同行、復路は9歳上の兄の迎えによるもので、以後なく寂しい思いがしていた。小学校の頃から地図を見るのが好きで、父の本棚にあった冨国書房・大日本帝国地理体系を引っ張り出していた。地方鉄道の電化線が赤線となっており、どんな電車が走っているのか、電車少年には興味そそられるものであった。中学2年の社会は地理中心で、フォッサマグナ(中央構造線)なる言葉を知った。その北端が北アルプスと知り日頃、標高1000m以下の山に囲まれての生活だけに高い山が見たかった。
この年は初めてアルバイトをしている。先のアイキャン屋の長女が従兄と結婚、縁類になることにより「たぁちゃん、みたらし団子づくり手伝って」となり、日給200円12日分、2,400円の大枚を手にしたのであった。これをどう使うか、かねて汽車の旅がしたいと願っていた老人は北アルプスと電車(松本電鉄と長野電鉄)、更に東京電車見物の旅の許可を父母に願い出た。父は即座にOK、長野で旅館を手配してくれた。善光寺参道東側”宮林旅館”であった。母は東急沿線大岡山駅近くの従兄に連絡してくれた。
さて中学2年生は盆明けに中央西線の夜行で先ず松本に早朝到着した。駅ホームで洗顔後、2食目の焼きおにぎりをほおばり、関西と違い丸味の少ない高床木造ボギー車で島々線往復をした。外部塗色は濃い茶色一色だった。次いで浅間線、ここは正面幕板(額)が広い高床木造ボギー車で、運転台を兼ねた出入口部が一段下がっているN電並みの車体構造であった。外部塗色は上高地線と同じ、この2線に乗ることが出来た。北アルプス連峰はどうだったか、全く覚えがない。昼飯は多分コッペパンを牛乳と共に腹へ流し込んだのであろう。午後は長野に移動、着いた善光寺の宿では米2合を差し出している。
松本で思い出したのはこの程度だが、実は結婚の翌年(1965年)盆休みに新婚夫婦は浅間線廃止を知らずに松本に来ている。野辺山荘で一泊、翌日は浅間線に乗って八方尾根を望見の後、上高地線で上高地帝国ホテル泊りのコースを画いて松本駅に到着した。駅前に松電の姿がない。この頃は今のように廃止と言って大騒ぎをしていなかった。ぼろ電に乗る楽しみが消えてギャフンとなった。上高地線は全て鋼製車体に更新され、上半薄いグレイ下半水色の塗り分けとなっていた。浅間線の外部塗色も末期は上高地線同様であったのだろう。
ところで老人は「鉄」復帰2年後(1988年)、河原町六角に移った駸々堂地方刊行物コーナーで信濃毎日新聞社・「信州の鉄道物語」を見付けた。趣味界の大御所、小林宇一郎監修とある。即座に買った。そこで松電島々線→浅間線→布引電鉄1~3号となった木造単車の布引時代の写真掲載【①】を見付けた。台車はブリル21E、写真に装着してみれば全体像は想像できる。浅間線時代は写真に見えるステップの下に更に1段、露出型のものがついていた。また別書では浅間線のダブルルーフ2,4号車の竣工時(ホデハ4,5)の図【②】も見付けたので紹介する。車体と台車は九州小倉にあった東洋車両(1924年7月)製で、台車は庄内交通1型と同型であった。いずれお目にかけることになるだろう。最盛期(昭和初期)の時刻表では、浅間温泉初発午前4時48分発から12分毎で終発午後11時48分まで、駅前初発は午前5時10分から12分毎で終発は午前0時10分まで、上り下り共に所要時分は22分、浅間温泉折り返し時分4分、駅前は着発のピストン運転となっていた。廃止直前は早朝、昼間、夜間は24分毎になっており、朝夕最混雑列車の前に横田-駅前間では続行車もあったようだ。
さて長野では長電乗り回し、「牛ではない電車に牽かれて善光寺参り」を果たし、夜行列車で早朝新宿到着となったのである。待合室で少憩後、西口から出て東京で最初に見た私鉄電車が京王電車であった。この時の印象は強烈で今に至るも残っている。25年ばかり前、高橋弘師匠にこの話をしたら師匠も同じ印象を持たれたようで、次にお伺いしたとき、1950年5月撮影の甲州街道上の写真をプリント【③】して待っていて下さった。その時貰った一景を紹介しよう。最古参車2000型である。「京王電車は2扉が似合う」とおっしゃった。
その京王電車の現在の姿、本年7月2日ふと思い立ち中央特快、高尾で下車した。跨線橋から見える京王線ホームには4扉20m車10連が見える。北野から奥は始めてでその昔、中央線から見えた時は確か2連だった記憶がある。長い連絡道?を急いでみたが発車した後のまつり。時刻表を見れば10連は「準特急」であった。次発は10分後の高幡不動行普通。北野で八王子発準特急に連絡とあり、山下りは7000系6連。次いで10連の9000系準特急で調布へ。乗り換えた普通8000系8連で下高井戸へ。いずれも20m4扉車。14m弱の車体に2扉が似合う姿ははるか彼方の物語。この「準特急」は如何なる列車か京都人には分らない。「準特急」氏の解説を待つ。
最後に須磨の大人出題のクイズ、3人は旦那、トオルちゃん、新兵の3人である。わっちゃらは同行していない。浅間線廃止(1964年3月31日)以前のことで、野辺山集合とならずだから3人は木曽森林辺りに行った時ではないだろうか。
おまけに恥ずかしながら自家現像失敗の巻。準特急さん笑ってやって下さい、1959年9月の庄内電鉄モハ7号の姿【④】である。初めての汽車一人旅ではカメラなしであった。
追憶の旅(その3)
早朝から一畑電車で昔をなつかしんだあとは 出雲市から一路益田へ乗り鉄である。当初 乗ったことがない美祢線で厚狭に出ようと計画したところ、現在美祢線は全線バス代行ということで やむなく山口線で瀬戸内へ出ることにしたので まずは益田へ向かう。かつて 夜行の鈍行や急行さんべで石見路に入り C57,D51、DF50を追いかけたなつかしい路線である。当時はDCもあったがまだまだ客レも残っていて 客車の窓から日本海の風景を堪能したものだった。今回はキハ126なる軽快なDC,それも快速アクアライナーと称して 浜田まではかつての急行か準急並みの韋駄天ぶりである。海側の席に陣取って この駅間を歩いたナアと思い出にひたる。唯一 昔と景色が一変してしまっていたのは岡見の三保三隅寄りで 中国電力三隅火力発電所ができて 海岸線を走っていた線路はショートカットのトンネルになってしまったのである。石見路の線路は水面からかなり高い位置を走っているのに 岡見のあたりはめずらしく浜辺を走っていたので ここが気に入って多くの写真を撮ったのだが 埋め立てられて発電所の敷地と化していた。中国電力管内はこの三隅発電所のおかげで 関西電力に融通できるほどの発電能力があって 停電の心配もなく安気に暮らせているので文句は言えないのですが、「今は山中、今は浜・・・」という原風景が損なわれてゆくことについては どうも抵抗があるのは私だけでしょうか・・・・。そう言えば 海岸線に立ち並ぶ風力発電機群も どうもなじめない・・・。
昭和47年3月29日 1896レ D511091 冷蔵車が必ず数両入っていた (退色、変色が進んでいます)
益田からは山口線で一気に新山口まで行き、防府に降り立つ。 泊りを防府にしたのは 防石鉄道の保存車両を見るためである。防府駅の少し西の高架下に小公園があって 2号機、ハ6、ハニフ1が保存されていた。かつては宮市駅にあったのが 今は防府駅近くに移されて メンテもまずまずの状態である。石碑によれば防石鉄道OB会が保存活動をされている由。ハ、ハニフとも車体に車番の標記がないので違和感を感じるが、こうして手を加えられて保存されているのは 結構なことである。
錦川鉄道に行き着くまえに 今回はここまでとします。 アアしんど。
追憶の旅(その2)
旅の初日の泊りは 一畑電車の車庫のある雲州平田のビジネスホテルにしていたので、木次線をあとに松江に向かった。松江駅は高架になっていて 昔の面影はない。宍道湖大橋北詰の末次公園内にある筈のC56131を撮ろうと行ってみたが、どこにも見当たらず、雨も降り出し、暗くなってきたのでC56探しはやめて、一畑の松江しんじ湖温泉駅に向かう。一畑の駅もすっかり変貌していて驚く。
京王5000系の生まれ変わりの2100系に揺られて 宍道湖北岸を雲州平田に向かう。途中 一畑口ではスイッチバックとなる。昭和48年12月(あるいは49年1月)に訪れたときには ここ一畑口で下車してバスで廃線跡を一畑まで往復したのを思い出す。
昭和19年12月10日に営業休止した一畑駅。昭和20年8月に廃止区間3.3Kmのレールは名古屋鉄道に送られたが 発送1週間後に終戦となった。一畑駅の駅舎はしっかり残っていた。
平田のホテルを早朝に出発。平田には車庫があり、以前訪れたときにはED22が健在だったし、多くの貨車も留置されていた。
始発電車で川跡へ向かう。川跡は出雲市行きと出雲大社前行きの分岐駅である。
左から 川跡と出雲大社前を往復している3015+3005、中央は松江から来た特急出雲市行き 旧京王の5000系4連、右は松江行きの3018+3008、 丸いヘッドマークは「しんじ湖ラムサール号」。線路配置は昔のままで、左手にあった貨物ホームがなくなっている程度。ちなみに3000系は旧南海ズームカー。乗り換えのための踏切には遮断機、警報機がなく 駅員がトラロープを張る光景には驚いた。発車しようとしている特急の前を ゆっくりと乗客が渡ってゆくのも のんびりした光景だった。全線にわたって架線柱は今も一畑軽便鉄道時代の14Kgレールを3本組み合わせたものが使われており 歴史を感じさせる。
大社線の途中 高浜駅付近のさとがた保育園にデハ3とデハ6が保存されているので 保育園を訪ねる。声をかけて園内に入ったが、電車を見に来る人が多いのか どうぞどうぞという感じ。
今はなくなってしまった「急行」の看板がなつかしい。雨ざらしはかわいそうだが よく手入れされている。
出雲大社前駅(以前は大社神門駅だった)も殆ど変っていない。上の写真では 右手の側線が機回し線のような配線になっているが今は単純な配線になっている。映画で一躍有名になって 日本最古の電車をウリにしているデハニ52が留置され、社内見学(但し 駅入場券か乗車券が必要)ができるようになっている。平田車庫にもデハニ53が動態保存され 平田駅構内の専用線を体験乗車できるようになっていて、デハニ50は今の一畑にとっては目玉商品になっている。有人駅では記念入場券やキーホルダーをはじめ いろいろなグッズが売られていたり、毎日全線で自転車持ち込み可(300円)だったり イベント電車を走らせたりと集客、売上増への涙ぐましい経営が見て取れる。山陰唯一の私鉄として頑張ってほしいと思いながら 一畑の旅を終えた。
次回は錦川鉄道をご紹介します。
お待たせしました、N電
笠岡にて
須磨老人も撮っていた
元京王電車2110
本日工場入りして検査終了。米手作市様より迷図作家関三平様のシリーズで京王電車2110型がとりあげられた。私が関東に住むようになった時には京王線は既に1500Vに昇圧しており、昇圧前の戦前製の車両はサハ化された車両と元2400型の221型くらいであった。今回とりあげられた2110型の特に後の「たこ坊主」と言われた戦災復旧車は庄内交通鶴岡で撮っている。雨宮製作所製京王電軌119→東急・京王デハ2119→庄内交通モハ7で、ご覧のとおりパンタを降ろした粗悪写真で恐縮であるが、どなたも写真投稿がなかったので敢えて掲載してみた。米手様ご期待の「たこ坊主」にしては平凡な復旧車に見える。京王には他にもっと凄いと言おうか屋根の深い不細工な復旧車が居た。
1972.03.21鶴岡 2枚とも
京王電車デハ2110型
青蛙と赤蛙(その2)
6月20日「【13758】東急のアバンギャルドな5000型」に対し、乙訓の長老より23日「【13805】青蛙と赤蛙」で、熊本電鉄と岳南鉄道に転出した車両の解説があった。
東急5000形は、上記2社の他、長野電鉄、上田交通(現上田電鉄)、松本電鉄、福島交通に転出している。
今回は長野電鉄と上田交通に転出した車両について解説する。
(1) 長野電鉄
長野~善光寺下間の地下化(昭和56年3月1日開通)に伴い、不燃化基準の関係から半鋼製の在来車が使用できなくなるため、昭和52年1月から55年10月にかけて26両入線した。Mc+Tcの2両編成10本とMc+T+Mcの3両編成2本を組み、在来車に代わり普通列車の主力として運行されたが、平成10年の長野オリンピックに向け、平成5年から10年にかけて営団地下鉄日比谷線の3000形との置換えが行われ、平成10年までに廃車となった。
モハ2510+クハ2560が須坂市の「トレインギャラリーNAGANO」の駐車場に保存されている。
モハ2611(元東急デハ5036)+クハ2551(同クハ5155)/昭和52年5月5日 須坂 (最初に入線した車両で、モハ2611はサハ2651+モハ2601と3両編成、クハ2552はモハ2501と2両編成を組んだ)
モハ2501(元東急デハ5035)+クハ2551/平成8年8月24日 屋代
(2)上田交通
昭和61年10月1日別所線1500V昇圧に際し、東急5000形8両(Mc+Tc4編成)と5200形2両(Mc+Tc)の10両が入線し、在来車を置換えた。
平成5年5月28日に元東急7200形のモハ7251+クハ7551~モハ7255+クハ7555の5編成と置換えで廃車となり、僅か6年半の活躍であった。
モハ5001は元東急デハ5001で、廃車後東急に返還され、登場時の姿に復元され保存されていたが、平成18年車体をカットされ、無残な姿で渋谷ハチ公前広場に置かれている。歴史的にも重要な車両が、何故このような結果になってしまったのか、残念を通り越し憤りを感じる。
クハ5053(元東急クハ5163)+モハ5003(同デハ5017)/昭和61年8月24日 上田 (昇圧前で待機中)
モハ5002(元東急デハ5005)+クハ5052(同クハ5162)/昭和62年1月15日 上田 (扉の窓ガラスが原形)
モハ5004(元東急デハ5030)+クハ5054(同クハ5164)/昭和62年1月15日 上田
日本初のセミステンレスカーであるモハ5201(元東急デハ5201)+クハ5251(同デハ5202)は何度が撮影に行ったが振られっぱなしであった。こちらも廃車後モハ5201が東急に返還され現在は東急車両で保存、クハ5251は自社下之郷電車区で保存され、イベント時に一般公開されている。
(3)岳南鉄道補足
昭和56年5月から6月にかけて在来車置換えのため、東急5000形8両(Mc+Tc4編成)入線した。平成8年元京王電鉄3000系改造の7000形に置換えられ廃車されたが、岳南富士岡駅や貨物ヤードに留置され、平成20年夏頃解体された。
モハ5004(元東急デハ5049)/昭和61年8月15日 吉原
クハ5104(元東急サハ5364)/昭和61年8月15日 吉原
クハ5102(元東急サハ5363)+モハ5002(元東急デハ5028)/昭和61年8月15日 岳南富士岡
(4)その他
福島交通に昭和55年12月と57年10月各2両(Mc+Mc)入線しているが撮影していないまま廃車になった。
松本電鉄は昭和61年12月24日1500V昇圧に際し、東急5000形8両(Mc+Tc3編成、Mc+Mc1編成)が入線し、在来車を置換えた。こちらは登山で上高地から入下山の時、何度も乗っているがまともな写真がない。登山と鉄道撮影の両立は極めて難しい。
[番外]東急時代
デハ5030/昭和47年12月17日 多摩川園(上田交通モハ5004で再起)
デハ5042/昭和52年2月12日 田園調布(長野電鉄モハ2613で再起)
江若鉄道三井寺下再現 その10 クイズ解答編
特派員殿のコメントどおりですが、しゃがんでいたご仁は六角通りのY氏でした。その他にT氏の姿も。通りの向こう側の白い上着の人は浄福寺殿でしょう。関東の重鎮お二人の間で 欄干にカメラを乗せてのぞいているのが誰かがわかりません。 うしろの旅館の看板に「休憩所」と書かれています。私が小学生時代を過ごした東山界隈の裏通りには「ご休憩」と小さな看板を出した仕舞屋がたくさんありましたが 子供ごころに「疲れた人が休憩するための家」だろうと思っていたものです。その隣には「桑野造船」の看板が見えます。内陸の大津に造船所?と一瞬思うのですが 琵琶湖に浮かぶ大小の船は湖岸にあった造船所で作られたのでしょうから ここに造船所があっても不思議ではありません。造船と言っても和船だったのかもしれません。
琵琶湖第一疏水をまたぐこの橋は 43年も経った今もそのままの姿で残っており、橋の上からの石坂線の眺めは ポールがパンタには変わっていてもタイムスリップできる風景でした。手前は江若鉄道の鉄橋を遊歩道にした「大津絵橋」です。
(追伸)上の写真の縦横比がおかしいのはご容赦を。拡大すると正常だと思います。
JR東日本のドレミ電車(E501系)
7月16日【14285】で米手作市氏より「京浜急行のドレミ電車」の話題が紹介されたが、JR東日本の「ドレミ電車」を紹介したい。こちらも京浜急行同様、改造により遠からず無くなる運命にあり、8編成中5編成まで改造が進み、残りは3編成である。
E501系とは
交直両用の通勤型車両で平成7年に15両(基本10両編成、付属5両編成各1本)平成9年に45両(基本10両編成、付属5両編成各3本)作られた。
常磐線の上野口は、昭和60年以降取手以北でも住宅の増加、竜ヶ崎に大規模団地の出現等により通勤時間帯を中心に混雑が激しくなってきたため、沿線自治体から取手止まりの快速電車の牛久、土浦までの延伸の要望が出された。直流電車の延伸は、柿岡(石岡市)にある気象庁地磁気観測所の観測障害となるため不可能であるため、交直両用の4扉通勤型車が投入されることになった。当初昼間は基本編成のみの10両、ラッシュ時は付属編成を増結して15両で運転されていたが、程なく終日15両となった。また、トイレがなく、長距離運用には不向きなため、上野~土浦間に限られ、勝田電車区への入出庫は回送であった。
車体の基本設計は当時の京浜東北線の209系とほぼ同じであるが、外板厚を1.5mmに強化された。(209系は1.2mm) また特急通過待ち等による長時間停車時の車内温度確保のため片側4扉の内1カ所を残して締切可能な「3/4扉閉スイッチ」が装備された。
ドイツ・シーメンス社のGTOサイリスタ素子による主変換装置の採用により、発車と停車時に「ソラシドレミファソ~」と音階が聞かれたが、平成18年に付属編成全編成、今年1月基本編成1本(K704)が東芝製のもの取替えられてしまい聞かれなくなってしまった。
現 況
平成19年3月18日のダイヤ改正により、上野発着の中距離電車がE531系に置き換えられ、全列車にグリーン車が連結されるようになったため、運用区間を土浦以北に変更した。それに先立ち平成18年10月~19年2月にかけて基本編成両端のクハ、付属編成下り向きのクハにトイレが設置された。常時連結されていた基本編成と付属編成はそれぞれ単独での使用となった。
走行区間は基本編成が土浦~いわき・草野間、付属編成は土浦~いわき間と水戸線の小山~友部間である。基本、付属共に予備車無しのフルで使用され、検査時等は、415系、E531系が代走する。
以下、無いよりマシ程度の画像であるがご覧いただきたい。
[上野~土浦間で使用の頃]
クハE501-1003/付属編成の先頭車(15号車)で常に土浦寄り先頭に立っていた。(H18-4-8 松戸)
[現 況]
クハE501-4/上野~土浦間で使用されていた時は先頭に出ることはなかった。密連の下に電気連結器が設置されているが、今後使用されることはないだろう。車端にバリアフリー対応のトイレが設置され、その部分の窓が塞がれた。(H21-12-30 勝田)