お待たせしました、N電

やぼ用で、少し掲載が遅れました。お詫びします。

さて、N電と言われた北野線の市電ですがOBの中で実際に乗ったことがある人は何人いることでしょうか。戦後、酔っぱらった進駐軍の兵隊が無理やり運転して、速度超過で堀川中立売のカーブから堀川へ転落したとか聞いたことがあります。

この絵の背景は西洞院六条あたりで、薮之内千家の土塀です。

お待たせしました、N電」への3件のフィードバック

  1. 背景の藪の内千家さんのお宅は健在なのでしょうか。きっと素晴らしい庭園なのでしょうね。現役時代はこの辺りで何度も仕事をしました。6条通りの道幅の狭さにはびっくりしました。メジャーを当ててみると、なんと1850ミリでした。しかも商店街なのですよ。平安時代は魚棚だったそうです。これに交差している西洞院通りは11m足らず。半分以上N電の敷地となっており、国民車構想が台頭した時期で産業遺産として観光の目玉にする発想等何処へやら……。
    老人は最終日は富山勤務で、盆休みに尼崎に転居した須磨の大人宅に帰郷?し時、その昔を偲ぶことなしでした。一番の思い出は同志社中学入学試験に際し、母に連れられ北野神社へ、その後はN電で京都駅へ出て稲荷神社へ。神頼み2ケ所で無事入学することができました。N電様々です。

  2. N電には小生も少々縁があります。50年前の夏にはカメラ片手にN電を追っかけ回す自分が居ました。先般、某誌に投稿してボツとなった記事の中のN電の項を、以下にチャッカリご披露させていただく非礼をお許し下さい。

    N 電(日本最古の電車)
    車両は全長が9メートルちょっとの単車だったため、走行時にはピッチング、ローリング、ヨーイングの3拍子揃った揺れを伴った。
    このため筆者が乗り納めで満員のデッキ部分へ乗車した時には、屋根と前面窓は有るが乗降口の扉は無く、扉の代わりにクサリ一本が掛けられただけのオープンデッキで、乗車口とは反対側のクサリ際まで押し込まれてとんでもないスリルを味わったものだった。
    余談だが、北野線廃止サヨナラ運転期間には22号車を明治時代風に茶色塗装した復元車が走り、お別れムードを盛り上げていたが、当時筆者が記録しておいた乗車体験記には『横腹に書かれた京電のマークや文字は全て「貼り絵」のように紙に書いたものを切り抜いてセロテープで車体に貼ってあった』と記されており、当時の事が思い出される。

  3. 長老様、河様、
    薀蓄をいただきありがとうございました。
    ウチのお客さんにN電の運転士がいて最近まで来ては市電運転の自慢話をしてくれました。河様がおっしゃる通りくさり一本の転落防止装置?や、手回しブレーキのロックを足で外すすばらしい技術は子供の目にはこの世の物とは思えませんでした。

    長老様、薮之内千家は西本願寺の正式茶道家ですから今も同じたたずまいです。

    ちょうど地下鉄の御池駅で福田君の市電写真展が開かれています。きょう行ってみましたがなかなかの出来映えで、写真を撮ったりメモをとるファンがいました。皆さんも行ってみてください。

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