やったぁー!なでしこ日本!

世は節電ムード。これをネタに銭儲けに専念する輩も多い。老人は深夜なら後ろ指差されまいと、今朝も午前3時起床、テレビの前にかじりついた。沈滞ムードを一掃する快挙に4時間もかじりついてしまった。さて、7月13日、関西電力はJR西日本に節電を鉄道各社に要請しない旨、申し入れたと朝日夕刊トップ記事で報じられた。その2日後の夕刊16面2段見出しで阪急神戸線車両減で節電、と報じられた。「お〃やるか、阪急は!」の気持ちになった。その昔、電鉄各社は電力費低減のため工夫をこらしたものだ。1951年4月、京阪特急が1700系4連で登場した時、三条発車は4連、折り返し天満橋発は2連であった。1957年3月、急行が5連で運用されるようになった時、1000・1500・1200+1200・1000の組成で三条出発、折り返し天満橋発は3連と2連に分割され急行発車後1分遅れで、2連となった普通が発車する運用ががあった。共に終端駅で増解結を繰り返しながら列車運用をして、乗客の増減に応じ効率良い電力消費をしていたのである。

ところがATS設置の頃から状況に変化が見られるようになった。長編成組成も一因だが、固定編成が常識となり、運転台付き電動車が車両費節減につながるとして新造が抑えられてきた。それが空気を運ぶ列車増加につながっている。今回の阪急の処置は当然である。京都線も大市交乗り入れ列車を含め6連とすれば良いと思う。嵐山線も6300系は昼寝して7200系増結用2蓮で十二分だ。こうした動きの中で大飯原発故障運転中止が報じられた。阪急の選択は正しかったのである。このところ本線、副本線上での増解結は混乱を招くとして避けられる傾向にあるが、各社共々に工夫を凝らし減便ではなく先ず減車にに取り組んでみてはどうだろう。欧米では15分毎なら頻発運転なのだそうだ。関西は10分毎に慣らされてきた。東京は何でも3分毎だそうだ。行儀よく座れば快適な車内保持は確実に出来る。つぎはどこだろうか。

松本電鉄浅間線 その3

先回最後の俯瞰写真に関し、急カーブとの関連がよく分らんとのご指摘があり、改めてもう1コマ俯瞰写真を入れておく。またこのカーブ半径を5鎖と記したのは大間違いで、28mmレンズのため大きく、広く見えるはするが、1鎖(20m強)程度であろう。

左下が松本駅。 この地図では浅間線がまだ駅に突っ込んだまま終点になっているが、市街を真っ直ぐ右(東)に向かい、直角に曲がって上(北)へ。このカーブのすぐ下にある「文」マークが教頭先生にお付き添いを頂いた女子高校(もしや彼は我々が女子生徒に何か悪さをしないかと心配したのではあるまいか。杞憂以外の何者でもないのに)。松本駅からカーブして左上に向かうのは上高地線である。

併用軌道は横田までで、以遠は新設軌道になる。横田には車庫があり、2回目の離合が行われ、乗務員も交代。松本に向かう乗客は結構あって、温泉行きだけでない、地域の交通手段であることが分る。


横田の駅と車庫 車両は6両中昼間4両が稼動しづめで2両が予備


乗務員も横田で交代


スタフを扱うのは本来運転手の業務のはずだが

横田以遠は新設軌道になる

横田の次に運動場前で3回目の離合。ここは運動イベントがない限りほぼ乗降はなく、単なる離合所である。


運動場前での離合


終点浅間温泉に着く


のんびりした風情

右の若者は誰でしょう

この線は一段高い温泉旅館街に突き当たっておしまい

プラットホームを歩く一見山行きのような若者は誰でしょう

電車の番号について記しておくと、ホデハ2、4、6、8、10、12の6両で、当初4~8、10だったが、5を2、7を10、10を12に改番し、全部偶数ばかりとしたのである。鉄道線たる上高地線は反対に全部奇数に揃えた。かように奇数、偶数で所属を示すのは、古くは官設鉄道の機関車でで行われ、九州の北筑軌道(→博多電気軌道→九州水力電気と所有者は変わったが、蒸気動力3フィート線は終始北筑線と通称)では、客車が奇数、貨車が偶数だったらしい。

メーカーは改番後で示すと2、4が東洋車両1924年、6、8、10が汽車東京1927年、12が日車1929年製。いずれもガラス風防がある開放デッキだったと思われるが、密閉式に改造。それでもデッキと客室に段差があるのは前に記した通り。

こののどかな浅間線は1964年4月1日廃止されたが、リポート等はなぜか極端に少ない。なおご覧頂いた写真は複数回にわたっており、小生1人/ダンナとワッチ(若かりし日の乙訓老人)と小生/ダンナと新兵(これは誰か当ててください)と小生/という撮影であった。小海線撮影の前後に訪れたケースでは、信州会館なる、やったら滅多ら大きな山男用宿泊施設に宿泊し、夜半にいささか怪ぬ見世物を覗いた記憶もある。入り口で呉れた紙切れには、新宿行夜行列車の時間と、駅までの略図があり、大方の客筋が分るが、「親切を絵に描く」とはまさしくこれだと、痛くその商才に感じ入ったことであった。

浅間温泉では場慣れしたダンナの誘導で、地元民専用の安い回数券をタバコ屋で求めて住民用浴場に。素朴な湯殿では、むき出しの鉄パイプから温泉が掛け流しされ、木札に墨痕淋漓「湯口で頭髪や入歯を洗わないで下さい」。これは小生が記してこそジョークになる。

松本電鉄浅間線 その2


学校前の離合所 電車左の蒲鉾型コンクリート工作物は恐らく戦時中の公共防空壕であろう

紙芝居めいた「次回予告」をしてしまったが、松本を出て最初の離合場所が学校前である。その名に違わずいくつかの高校などがかたまっていたように記憶し、旧制松本高等学校も確かこの一帯だったんじゃないか。


運転台をピッタリ合わせ 通票(スタフ)を交換する

停車位置がズレると 片方の乗務員が下車せねばならない

ここの急カーブを何とか立体的に撮れないものかと思案し、道路に沿った恐ろしく古い木造の校舎に目をつけた。記憶が薄れているが、確か女子高校だったような気がする。職員室に乗り込み、「若干の言語」を弄して報道機関カメラマンであるかの如き印象を教頭に与え(嘘はついていないから念の為。彼が勝手にそう誤解しただけ)、学校内立ち入り=足場確保の承認を得た。それでも教頭はかなりの猜疑心にかられたようで、撮影中ずっと付き添っていた。これも確たる記憶がないが、重澤旦那、吉田、小生の3人=リュックサックに登山靴かキャラバンシューズ、山行きともつかず、カメラマンとも思えない風体はともかく、人品骨柄卑しからぬ気品を感じたことは間違いなかろう。幸い10分毎に離合写真が撮れる。


停留場名が「学校前」だけあってこの周辺は学校だらけ

で、2階と3階から、この急カーブを曲がる電車が目出度く撮影できた。恐らく半径は10鎖=20mか、フランジがこすれるキィーキィーキィーという音が、終日絶えないわけである。上から見下ろすと、台車がグイと振られ、あたかも車体からはみ出しているかの如し。

またまた蛇足だが、欧州の旧市街ではこの程度のカーブは珍しくも何ともないのに、ついぞキィーキィーは聞いたことがない。鹿島雅美氏に伺うと、未明―初発より早く、人力でレールのフランジ接触部分に油を塗っているからに過ぎず、作業員は殆どが北アフリカ系だそうな。そういえば、パリ街中のプチホテルに泊まった際、同行のとんでもない早起き「偉いさん」に未明の散歩を付き合わされたことがある。無人の街路の皿溝に満々と水が流れ、やはり北アフリカ系の作業員が道路のゴミをその流れに掃きこんでいた。

現在この箇所をグーグルで検索・拡大すると、どうやらピッカピカの松本秀峰中等教育学校が、足場を借りた学校の後裔らしい。何でも中高一貫6年制の私立学校で、それもつい昨年ぐらいに開校したとか。バス停の名称は城南高校前て、この時の面影はない。

話を戻して、ここで直角に曲がった線路は無舗装の地道中央を北に向かう。こんな俯瞰は足場がないと撮れない。大きな木造建築はみんな学校である。


無舗装の道幅は約7m=4間道路なのであろう

福井鉄道・琴電の元京浜急行

7月7日の「京浜急行140型」に対し、翌日には両長老から書込みがあり、DRFCクローバー会の実力を改めて感じた。 

福井鉄道は昭和23年福井地震で焼失車両が発生したのに加え、同じ年に南越線が電化したため電車の絶対数が足りず、相当無理をして入線させたものと思われる。使用できたのは車体のみで台車、電装品は別のところから調達する必要があった。
昭和42年3月時点では、電装解除されたハ102が南越線のラッシュ時増結用として辛うじて生き残っていた。尚、福井鉄道モハ101、モハ103の実物の写真を見たのは初めてである。

 
ハ102 昭和42年3月20日  社武生

琴電に関しては乙訓の長老の詳細な解説がすべてであり、簡易鋼体化された64、車体を新製した62、72を新製車体に載せ換え電装した65の画像を貼り付ける。

 


64  昭和44年3月20日 長尾/台車は原形のテーラー台車である。

 
62  昭和44年3月20日 瓦町/昭和28年に自社で車体を新製した。

 
65  昭和44年3月20日 瓦町/昭和35年に72を鋼体化(車体新製)の上電装した。

昭和34年11月京浜急行120形を6両譲受け、昭和36年に自社工場で鋼体化の上、10形(11、12)/電動車、90形(91~94)/制御車となった。長老が撮影された、上から2番目の仏生山での京浜急行128の画像は鋼体化改造前である。
改造により正面5枚窓は失われたが、屋根のカーブはそのままで原形の面影が多分に残っていた。

 
11 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ127、乗務員扉がなく乗務員室は極めて狭い。

 
93 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ124

 
94 昭和44年3月20日 瓦町/元京浜急行クハ123

 
94の台車

 
33(元阪神910)との並び

福井鉄道の旧京浜


福井鉄道南越線モハ103 

乙訓ご老人の投稿があって、待てよ、確か須磨老人も福井で撮ってる筈と、限りなく薄れた記憶を搾り出すと、1958年7月30日南越線でモハ103を、翌年4月3日鯖浦線でモハ101を撮っていた。高松琴平同様、京浜電気鉄道の新車導入に対する代償=「供出」で、当然ながら最も古い車両を手放したのである。詳細は乙訓老人か、藤本哲男氏にお願いしたい。元来この老人がなんでこんな電車を撮っているんだといわれそうだが、話は簡単―木製車だからでありますよ。中央扉が真ん中にないのが福井での特徴みたいですね。


福井鉄道鯖浦線モハ101

他に例を見ないオデコ・京浜140型

DRFCが結成される前の1958年春休み、3度目の東京電車見物に出かけている。当時のメモによれば4月4日東武西新井工場、5日雨につき京成全線乗りまわし、6日交通博物館、7日小田急経堂工場、そして相模鉄道5000形乗車、8日京浜川崎車庫と金沢文庫車庫となっていた。140型は最初の東京電車見物、1952年の時に見ており、230型の中間車として使用されていた。今回、他に例を見ないオデコ(関西ではデボチン)と紹介され、このオデコ「高松で見たぞ」となり探してみた。①高琴電鉄モハ21号である。吉川さんの記述によれば、開業期の1号型を大正期1926年に車体更新したものだと紹介されている。デ14形14~17号のうち16号のようだ。東急合併時には5110形5113号、京浜分離後は113号となり、四国に渡ることになった。

このスタイルなら「もう1丁あったぞ!」と探し出したのが1959年夏、京都駅で貨物列車の最後尾に繋がれ高松へ回送される姿を見た②128号。この120形は1921年藤永田造船製造のデ40形がスタートで、デボチン拡大初代となる。しかもタマゴ型5窓、関西スタイルがプロトタイプとなった。他に例を見ないオデコになったのは、正面に行き先方向幕を移したことが拡大理由だそうだ。京浜電車は窓高が大きいことで評判を呼んだが、そのはしりが後に120型となったデ40形と言えよう。その発展型が140形で、制御車として先頭に出るようになったのは120形引退が引き金になった様だ。120形は1958年に5両、翌年6両の廃車、その6両のうち2両が回送されている姿を、老人は図らずも目撃したのであった。高松では後に鋼体化、10形2両、60形4両となった。

1958年4月車両基本編成表では川崎車庫に140形は153~160号の8両が配属されており、そのうち2両が293+159(+261)、296+160(+271)-()内は朝夕ラッシュ時の増結車-の2編成となり、閑散時に140形の運転台が風を切ることになった。残る6両は230形に挟まれ本線用となっていた。川崎車庫所属車に120形11両中6両が大師線用として残り、そのうち123、124、126、128が3扉車290形とカップルとなり、先の140形組み込み編成と共に3扉車6本、ラッシュ時は2扉車230形の増結を得て威力を発揮したのであった。131号は266と編成を組み大師線用、127号も262と組み予備車となっていた。これがDRFC発足当時のデボチン電車の実態と言えるであろう。

ついでに京浜電車から終戦直後、63供出車として高松へ送られた電車は21号以外に7両あった。老人が瓦町駅待合室での仮眠から目覚めた時、始めて撮影した元京浜電車2両を紹介しよう。③70形71号は大正初期に製造されたデハ29型に始まる正面が丸い3ツ窓木造車の後身である。中央窓の上部が丸く左右の窓もカーブがきつく印象深い。72号と2両あった。④60形61号は70形の電動車で、4両の内3両は原型の木造車体を簡易鋼体化の結果、正面の特長あるスタイルは失われた。残る1両は鋼体を新造した正面2ツ窓d2D6D2dの近代的なスタイル、2電圧対応型の今後の琴電の標準車になる筈であった62号であった。更に1両、琴平線用に61号と同スタイルの制御車15000形1510号があった。いつのまにか600V用になり73号になっていた。これで7両となる。

先の記述の中で141形は140形、仕事と孫の付き合いは7/1~3であったこと、訂正します。

①デボチンの広さもさることながら、台枠もおもしろそうだ

①デボチンの広さもさることながら、台枠もおもしろそうだ

②仏生山到着後8ケ月後、ボ繝・?繝・?姿となった。
②仏生山到着後8ケ月後、ボロボロの姿となった。
③譽・?荳・?窓はイケメン(長身男前)運転士用に採用

③正面中央窓はイケメン(長身男前)運転士用に採用

④原型の姿が失われた簡易鋼体化
④原型の姿が失われた簡易鋼体化

井笠鉄道矢掛線1964年6月


乗客7人(含小生)でのんびり走るホジ8

西村雅幸氏の中国新聞連載特集紹介を見て、矢も盾もたまらなくなって47年前のネガを探すことに。井笠鉄道は高校生だった1954年以来、何回行ったか思い出せないぐらいだが、矢掛線に乗ったのは1964年6月11日の1回だけである。既に笠岡-井原の本線ではホジ1~3、101、102が主力になり、かつて矢掛線でも働いたジ14~16(旧神高鉄道=両備鉄道が国有化されて改軌、取り残された神辺-高屋間が神高鉄道になり、1940年1月1日井笠鉄道が買取)は、本来の神辺線に戻っていた。従って矢掛線は本線で出番が激減したホジ7~9のうち、1両が往復していた。


矢掛到着 バスの基地でもある この屋根の骨組が今も残る

矢掛到着のホジ8 右のホハ3はラッシュ時の増結用

折り返し列車はワを1両連結した混合列車に

ラッシュ時はそれなりの乗客がある筈だが、昼日中とあってホジ8単行の車内は閑散そのもの。折り返し北川行はワを1両連結した混合列車になり、北川のひとつ手前の備中小田でちょっとした椿事?が。男女3人が、びっくりするくらい大きなコモ包みの小荷物を荷台に積み込むべく、待ち構えていたのである。こんな小さな駅でも駅員が居り、小荷物の重量を測る秤も鎮座している。


備中小田での珍騒動 貨車に積めばよさそうなものだが 車掌の表情をご推定あれ

そのコモ包みがご覧の代物だから、ちょっとやそっとで積み込めない。おまけに列車を待たせたまま平然と荷札をつけたりしている。当然停車時間が長くなり、北川での本線との連絡に遅れないかと車掌はヤキモキ、イライラ。写真からもその憮然たる表情がありありと読み取れよう。


やっと北川到着 コモ包みの大きさをご確認あれ

まあ3~4分かかって何とか積み込んだが、北川ではそれを下ろすのに手すきの駅員を呼び集める騒ぎに。笠岡行きとの接続も約3分遅れで辛うじて維持され、めでたく井笠鉄道のこの日の平和は回復されたのであった。


手すきの駅員を動員して荷物を半分下ろした時 笠岡行本線列車が到着

左がやはり客車、貨車1両を連結した笠岡行混合列車 左が矢掛線ホジ8

この矢掛線の廃止は神辺線とも1967年4月1日、本線たる笠岡-井原間は4年後の1971年4月1日である。蛇足になるが、井笠鉄道の矢掛-備中小田-井原-高屋-湯野というコースは、国道486号線と並行するが、これはかつての「山陽道」なのである。井笠鉄道廃止前から井原線の建設が続けられ、長い中断があって第三セクター井原鉄道として、この旧山陽道ルートで開業したのが1999年1月11日。

また高屋のすこし西が岡山、広島の県境だから、かつての神高鉄道はたったの7.93kmのくせに、広島・岡山の2県にまたがる鉄道であった。これも蛇足だが、2県にまたがる軽便は、筑後軌道、両備鉄道(神高鉄道)、三井鉱山(神岡軌道→鉄道)、草津軽便鉄道(最終草軽電気鉄道)しかないことは、意外に知られていないのではないか。

早く起きた朝は

先輩方の投稿の流れを切るようで申し訳ありません。デカンショ祭り号さんや準特急先輩の関東での活躍を羨ましく思いながら、ここのところ土曜日に出勤が続き代休がたまってきたので思い切って平日に休むことにしました。いつ休むか考えましたが丁度今日に2つのイベント(?)があることを思い出し天気が良いことを願いつつ休みをとりました。そのイベントはひとつは関西で唯一のワム貨物列車6170レの撮影、もうひとつは鉄道には関係ありませんがボーイング787が伊丹空港に飛来するということで見てみたいということでした。昨日夕方から降り出した雨は夜半にはかなり強くなり雷まで鳴り出す始末で明朝は駄目かもと思いつつ天気予報をみると夜中には雨がやんで明け方には晴れるかもというありがたい予報だったので早めに就寝しました。朝4:30に起床すると雨は上がり雲も切れ日が当たりそうな空模様です。早速着替えて車で出発しました。向かうは山崎のカーブです。ワム貨物の6170レは以前から走行しているのは知っておりましたが、火・木・土の早朝5:30頃梅田貨物駅を出発し吹田信号所を5:52発で稲沢まで走行しています。このため撮影時期が限られており実は撮影したことがありませんでした。牽引機はEF66で数年前までは梅小路(現京都貨物駅)までもう1両回送のEF66がつくため重連だったようですがカメラの性能的に撮影が難しい列車だったのですがいつかは撮影したいと思っていました。昨年SRC(スーパーレーカーゴ)を撮影にこの山崎まで来たのですが、そのときは痛恨のエラーで帰ってしまい悔しい思いをしましたのでリベンジも兼ねておりました。高速の早朝割引を利用し山崎ICで降りて目的地に着いたのは5:30頃でしたが平日でしかも牽引機が130号機だったためか先客は1名のみ、好みのポジションを決めて待ちます。6:00頃には線路にも日が当たりはじめ光線を期待しますが雲も多く予断を許さない状態です。列車は6:13頃にワム独特のジョイント音を残し定刻で通過していきました。残念ながら日は当たりませんでした。余韻に浸る間もなく移動を開始します。次の目的は伊丹空港です。ボーイング787は次世代を担う中型機として開発され日本の川重や東レなどの企業も参加し35%の部品が国産というジェット機です。機体は従来のアルミ合金から炭素繊維合板になり軽量化がはかられ燃費が向上し航続距離も飛躍的に伸びています。全日空がローンチカスタマーとして最初に導入するため今回、お披露目とともに各空港の設備試験や訓練も兼ねてシアトルから7/3に羽田に飛来しました。日本では伊丹、関空、岡山、広島、中部の各空港で設備の試験をするのですが、伊丹には7/5の7:30に到着し11:30に羽田に向け出発の予定がANAのHPに公開されていましたのでかなりの人出になることは覚悟していました。7:00過ぎに伊丹空港の進入路に当たる千里川に到着しましたが流石に飛行機撮影の方々のベストポジションは超満員で少し離れたところに場所をとりましたが鉄道と違い上を向いて撮影するのと被写体が大きいのでポジションの自由は利きます。肝心の機体は7:30を過ぎても一向に来る気配がありません。30分ほど過ぎた8:04頃に着陸しました。伊丹スカイパークや展望デッキも大勢の方が待ち受けていたようでした。ちなみに千里川土手は多分150~200名程度の人出だったと思います。到着10分前には警察の方が違法駐車は至急移動するようにと廻っておりました。私は一旦家に帰り11:30の出発に合わせて伊丹スカイパークに行きましたがやはり200名位はいたのではないかと思います、出発も無事見送ることができました。その後散髪屋に行けば今日の予定は終了だったのですが火曜日定休でこちらは持ち越しになりました。

松本電鉄浅間線 その1

電車嫌いのヘソ曲がりだの、「新しいものについていけないだけの、単なる頑迷なジジイ」だのと云われているらしい。その幾分かは当っているのが忸怩たる思いだが、この老人とて、頭から電車が嫌いというわけではない。分野によっては好きなものもあるが、極めて限られる。例示すれば花巻軌道線、秋保電鉄、駿豆三島軌道線、静岡鉄道秋葉線、それに今回の松本電鉄浅間線など=のどかで時代離れした電車であることが共通する。花巻、秋保は既にご高覧賜ったので、今回は浅間軌道線を押し付けがましく、しつこく。

筑摩電気鉄道の軌道線として、1922年3月9日特許、軌間1067mm、5.2km。開業時は鉄道線の2軸単車デハ1~3を路面乗降改造して投入したが、2年で布引電気鉄道(小諸-島川原、7.5km)に売り飛ばす。後しばらく鉄道線の2軸車デハ11がはいったこともあるが、最後まで木製ボギー車で終始した。なお布引電気鉄道は経営不振で、ガソリンカーに変更を申請しながら、無手続でレールも撤去し、1936年認可当局が現認したら、橋桁も売り飛ばし、車両は影も形もなかったとある。1936年10月28日免許取消処分された。

本題の筑摩電気鉄道は1932年12月2日松本電気鉄道に改称したが、浅間軌道線は同年起点を約100m延伸して松本駅に近くなった。さらに敗戦後の1949年駅前北側に隣接した停留場を設け、我々が知っている起点の「松本」がこれである。ついでながら、「日本鉄道旅行地図帳6号」(新潮社)では「松本駅前」とするが、「地方鉄道軌道一覧」や「鉄道停車場一覧」、「帝国鉄道年鑑」等はことごとく「松本」だけである。電車の方向幕、サイドの行先札、乗車券も同様だから、「松本」が正しいのであろう。


恐ろしく素朴な「松本」出札口と出入口

その「松本」だが、実に素朴なものだったのは、写真をご覧頂ければ納得されよう。ちゃんと出札所があるが、改札口はなく、集札時の柵だけ。切符は半硬券だが、出札時パンチを入れて発売。車内で車掌から買うとパンチなしだったと記憶する。


本通から急カーブを2回繰り返して松本駅前(画面左)の「松本」へ

一応舗装されてはいるようだがご覧の有様

松本駅前で2回90度曲がって市内の目抜き?通りをゴロゴロと約1.4km行くと最初の離合地点である「学校前」。朝夕20分毎、日中10分毎の頻発だから、撮影するのに退屈することはなかった。運転席にはちゃんとタブレット(もどき)を積んでいるが、閉塞はこれ以上簡単にできないスタフ式だから、単に「通票」を交換するだけで、玉、キャリア共タブレット式と同じものを使っている。


流石に花巻軌道線などとは違って車内は充分広く膝が当ることはない

路面からは踏み段を2段上がって運転台 それからもう1段上がって客室となる 運転席には通票が

こっちは後部 いわゆるH棒はこんな狭い代物だが運転手の「もたれ」にはなる


松本駅前から約1.4kmの「学校前」に最初の離合設備がある このすぐ先に思わずエッという急カーブが待ち構えているが 次回のお楽しみに

布引電気鉄道デハ1~3竣功図 浅間線のデハ1~3を再び鉄道線用に改造している

昭和40年頃大船から明石に転属した車両について

クハ76305の話題が出たので、その関連事項について書いてみたい。

横須賀線の113系化に伴い、余剰となった車両が明石に転属して京都~西明石間の大阪緩行線で使用されたが期間は非常に短かった。
昭和39年8月にモハ70077、078、089、090の4両が転属し、昭和41年5月(090のみ41年8月)中央西線用として大垣に再転属するまで在籍した。
昭和40年2月にモハ70038、039、040、059、060、061とサハ58000、011、020、021の10両が転属、更に7月にモハ70037、104、105、106とクハ76032、305の6両が転属、モハ70とクハ76は昭和41年4月(70038、039、040、059)と5月に大垣に、サハ58は昭和41年8月(58000、011)12月(020、021)に岡山に再転属するまで在籍した。サハ58は元流電一族の中間車で、クハ76305と共に情報が何も無い中で初めて見た時は卒倒寸前であった。(決してオーバーな表現ではない)
以下写真と共に解説する。

クハ76305
昭和32年汽車会社製、新製以来横須賀線で使用されていたが、昭和40年7月明石に転属、写真のように塗装を茶色に変更した。わずか10カ月後の41年5月大垣に転属して再びスカ色になった。一時期浜松~米原間でも使用されたが、昭和53年12月廃車になった。

 
41年2月14日  京都駅

 
再びスカ色となった中央西線時代  49年3月4日 名古屋駅 

クハ76032
昭和26年日立製、横須賀線から76305と共に昭和40年7月明石に転属して41年5月大垣に再転属した。塗装は76305と同様、茶色に塗られ、大垣転属時再度スカ色になった。関西時代のネガ紛失のため中央西線に転属後の写真を貼り付けた。写真のように正面窓は最後まで木枠であった。

 
49年3月4日 名古屋駅 

モハ70105
昭和26年川崎製、当初明石に配置されたが、昭和37年4月横須賀線用として大船に転属、昭和40年7月古巣の明石に転属して41年5月大垣に再転属した。当初スカ色のままで使用され、後日茶色に塗替えられたが僅かな期間に再度スカ色になった。

 

 
先頭車はクハ68050、3両目はモハ70106である。40年8月28日  京都駅

モハ70037
昭和26年川崎製、昭和40年7月大船から明石に転属、41年4月大垣に再転属した。

 
41年4月8日  京都駅

サハ58000
昭和11年川崎車輌で流電第1編成のサハ48029として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年1月大船工場で3扉化してサハ58000となった。40年2月明石に転属、41年8月岡山に再転属して山陽本線岡山周辺のローカル、宇野線、赤穂線で使用され、51年9月廃車になった。

 
41年7月31日  京都駅

サハ58011
昭和12年8月日本車輌で合いの子第2編成のサハ48033として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和38年11月大船工場で3扉化してサハ58011となった。40年2月明石に転属、41年8月岡山に再転属して、58000と同様に使用され51年6月廃車になった。トイレ付であったが明石時代は閉鎖されていた。

 


上/40年3月13日、下/40年8月28日 京都駅

サハ58020
昭和12年3月日本車輌で流電第2編成のサハ48030として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年1月大船工場で3扉化してサハ58020となり、40年2月明石に転属、41年12月岡山に再転属して52年3月廃車になった。

 
41年10月11日 京都駅

サハ58021
昭和12年3月日本車輌で流電第3編成のサハ48030として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年3月大船工場で3扉化してサハ58021となり、40年2月明石に転属、41年12月岡山に再転属して52年3月廃車になった。

 


上/41年10月11日 京都駅  下/49年11月23日 岡山駅

直接岡山に転属した車両
サハ58010、58050、クモハ51206、51208の4両は明石を経由せずに直接岡山に転属した。

サハ58010
昭和12年8月日本車輌で合いの子第1編成のサハ48032として誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年1月大船工場で3扉化してサハ58010となった。39年8月6岡山に転属、山陽本線ローカル、宇野線、赤穂線で使用され51年10月廃車になった。

 
49年11月23日 岡山駅

サハ58050
昭和12年3月川崎車輛で流電第3編成のサロハ66017として誕生、昭和18年10月戦時改造でサハ48035となった。昭和31年12月横須賀線用として大船に転属した。昭和38年11月大船工場で3扉化してサハ58050となった。39年8月岡山に転属して51年9月廃車になった。

 


47年2月6日 岡山駅

クモハ51206
モハ43024として昭和9年2月川崎車輛で誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和38年10月大船工場で3扉化してクモハ51206となった。39年8月岡山に転属して51年9月廃車になった。

 


上/40年8月1日 笠岡駅  下/49年11月23日 岡山駅

クモハ51208
モハ43032として昭和9年8月川崎車輛で誕生、昭和25年9月横須賀線用として田町(後に大船)に転属した。昭和39年3月大船工場で3扉化してクモハ51208となった。同年8月岡山に転属して51年8月廃車になった。昭和48年11月頃から翌年2月頃まで明石に貸し出され緩行線で使用されたが、この時期昼間はオール103系の運用となっており、旧形の運用は朝と夕方以降に限られていた。

 

 
上/47年2月6日 岡山駅  下/49年1月21日 京都駅

遜色急行 113系 急行 伊豆

昨日7月2日と本日7月3日、東京~伊東間で、幕張の113系4連×2本(116編成横須賀色+117編成湘南色)を使用した団体臨時列車「113系で行く 急行伊豆の旅」が運転されました。

手近に済まそうと、昨日、早起きして、田町駅東京方で撮影してきました。(蛇足ながら、準特急先輩は、景色の良いところに遠征されたようです。)列車出発二時間半前に、田町に到着しましたが、既に、先客が4名。最終的には、20名程度になりました。

列車は、東海道線のE231系・211系・185系。東海道新幹線の300系・700系・N700系。京浜東北線のE233系。山手線のE231系とひっきりなしに往来しますが、あまり面白味の無いものばかりです。

写欲が湧くのは、185系・211系・300系でしょうか?

300系は、1時間に一本程度しか走ってきません。

その中で、偶然、485系「NO・ DO・KA」が走ってきました。

さて、本題の113系急行伊豆の話です。

以前、鉄道ピクトリアル NO.768 2005年11月号で「遜色急行」という特集がありましたが、その中には、113系で運転された記録はありません。

まあ、人気の113系にあやかったものだと思いますが、急行らしいのは、前面幕と、横サボのみで、車内設備はもちろんのこと、運転時間も快速以外何者でもありませんでした。まさに「遜色急行」でした。ちょっと無理があったように思います。快速「中伊豆レジャー号」でもよかったのでは・・・

ただ、それだと急行料金取れませんが・・・

折角なら、正面を153系か165系の塗わけにして欲しかったのは、私だけでしょうか?

震災の影響で中止となりましたが、185系湘南色の「いでゆ」の方が、まだ、筋が通っている気がします。

実際に運用された、豊田の115系6連を使用した急行「かいじ」「かわぐち」。新前橋の115系を使用した急行「ゆけむり」「あかぎ」「なすの」。幕張の113系を使用した急行「うち房」も期待したいところです。

藤本さんに答える

“ところで河様、昭和41年3月頃ピク誌の「読者短信」に京都駅の3番線と4番線の間の留置線で撮影されたクハ76305の写真を投稿されておられませんでしょう。古いピク誌は京都の実家にあり確認はできていませんが、多分同じ日に私も撮影しています。”

早速探しましたらこれが見つかりました。藤本さんの記憶の写真がこれなら多少違っています。茶坊主が写っているのは1966年2月号でした。前後の号ではこれしかありません。しかもご指摘のクハ76305ですからこれのことでしょう。

撮影場所は京都駅ではなく芦屋駅で、撮影者も河様ではなく山本克彦氏でした。でも周囲の写真は懐かしい物ばかりですね。

梯子をくくりつけた電車

窓間柱を利用したくくりつけは1954年8月、琴参電鉄樫藪変電所に留置されているデハヨ27号で最初に見た。
5年後、9月15日に山形交通三山線を訪問、間澤終点(車庫所在)では工事用車が目の前で窓間柱と扉の保護棒を利用してくくりつけ、作業に出掛けて行った。先のデハヨ撮影に1955年行ったら廃車解体スミであった。
102号は工事用となっており、車内はノンシート

102号は工事用となっており、車内はノンシート

入口の取っ手と窓荳・?に繝・?プ掛してぶら下げた
入口の保護棒と窓中柱にロープ掛してぶら下げた

定時に回復いたしました。相模5000型

関先生の記事によると、この当時(昭和30年前後)の関東私鉄車両は意欲的な物が多かったのがよくわかります。関西でも阪神や京阪にはその後の電車を大きく変える新技術が試されていました。ただ顔だけは関東ほど86を気にしていたかは疑問です。権威に弱い関東と権威ほど見て見ぬふりをする関西の違い、といえば関東の人に怒られるでしょうか?

都電荒川線「2011路面電車の日」記念イベント


「花100」と阪堺カラーの「7511」(方向幕は「あびこ道」を表示

6月13日「【13564】阪堺電車撮影会開催
!」で小西啓文氏が「阪堺電車祭り」をレポートされたが、東京都交通局でも6月12日、荒川車庫で記念イベントが開催された。当日、午前中のみではあるが時間が空いていたので見学に行った。


内容は、東京交通局が100周年を迎えたので「都営交通100周年記念」と「都電×阪堺線100周年記念」のヘッドマークを装着した8800形、秋以降に運行予定の花電車、3月に引退した7500形の展示が行われた。例年通り「都電広場」横に交通局グッズを販売するブースの他に、東関東大震災で大きな被害を受けた「ひたちなか海浜鉄道」と「三陸鉄道」のグッズ販売ブースが設置された。特に「ひたちなか海浜鉄道」は社長自ら社員の方と共に来所され、正午から会場で挨拶をされた。

イベントは10時に開始され「都営交通100周年記念」のヘッドマークを付けた8807と「都電×阪堺線100周年記念」のヘッドマークを付けた8805が展示された。

11時からは7510を改造した花電車「花100」が展示された。東日本大震災により花電車の運行中止を検討されたようであるが、秋以降に運行されることになった。 

12時から「ひたちなか海浜鉄道」の吉田社長の挨拶があり、3月13日限りで運行を停止した7511と7512がヘッドマーク付きで展示されたが、残念ながら時間切れのため撮影はできなかった。代わりに現役時代最後の写真を貼っておく。7511は3月13日営業運転最終日、7512は震災当日出勤途中に撮影した。


 荒川車庫には、7505、7515、7520が解体されずに残っている。展示された7511、7512は3月31日付で廃車されている。

 

「ひたちなか海浜鉄道」と「三陸鉄道」のブースで僅かでも復興に足しになればと思い、買物をした。「ひたちなか海浜鉄道」では「阿字ヶ浦―勝田」(裏面は那珂湊)のサボを購入したが包装紙が無く、むき出しのまま持ち帰るハメになり、都電の車内はともかく、町屋からの地下鉄、JRの車内では他の乗客から怪訝な目で見られていたに違いない。ちなみに値段は3500円であった。

同鉄道は、地震で壊滅的な被害を受けたが、6月25日に那珂湊~中根間の1駅のみであるが復旧し、1日2往復運転が再開された。7月3日には勝田~平磯間の復旧工事が完成し営業が再開される予定である。残る平磯~阿字ヶ浦間も7月末には復旧工事が完成する予定で、全線の営業再開まであと一息である。その時には、懐かしい国鉄カラーの気動車や、はるばる三木鉄道から輿入れたミキ300に会いに行きたいと思っている。

 

遅延回復運転中2 京成1600型

掲示板ではまだ花巻が話題の中心ですが遅れの回復のため先を急ぎます。

東京の私鉄電車は私には同じに見えてしまいます。先の東武5700と今回の京成1600は関先生の絵だけ見ると同じ電車が2週続いて掲載されたのかと思ったほど似ています。

花巻電鉄軌道(鉛)線 その2


軌道線デハ3の室内 座席奥行はもたれとも304.8mm その間隔は座席の約倍

仕掛け人の米手作市氏から、軌道線デハ5の「側面に竹梯子」とは何ぞやとのご質問が出た。写真が見つからないが、木製車体のデハ5は現役を外れて架線修理車になっており、その際使用する竹梯子を側面窓下に釣って―引っ掛けていたのである。

某氏から、写真はもっとある筈。出し惜しみするなとの警告?メールも。はいはい、出しますとも。ただ例のネオパンSSヴィネガー・シンドロームでネガは散々で見る気もしないが、幸いプリントしてアルバムに貼り付けていたので、ピント精度は当然落ちるが、それからのスキャンでご覧頂くことにする。なお前回軌道線半鋼ボギー車を、木製デハ4、5とほぼ同じと記したが、木製ボギー車は窓が2個×5、半鋼ボギー車は吹き寄せなしの10個等間隔である。


1926年雨宮製24人乗りサハ2 扉が2枚引戸に改造され開口部がやや拡げられている

サハ3 車体はサハ2とほぼ同じだが妻面が電動車と同じでボギー化改造されている

両側に民家がつらなり拡幅不能の西公園石神間 道路幅は2間半=15尺=4.55mだろう

先回は終点近くの狭い箇所をご覧いただいたが、今回は起点に近い狭隘箇所を。写真で見るとそれほどとも思えないかもしれないが、軌間が762mmだから、それを物差しとすれば、恐らくこれは当時としても「広くない」基準である「2間半」と思われる。なお機械関連では早くからフィート・インチ法を使ったが、土木関係では長らく尺・間・町・里が幅を利かし、川幅や橋梁長にも間(=6尺)が使われた。フィート・インチとの混同も多く、2フィート6インチを「2尺5寸」とする公文書などに事欠かない。

この区間は先回の鉛-西鉛間よりはマシだが それでも「なるべく」軌道内に車馬が入ってほしくない気持ちがありあり。それでもバスやトラックには、この道しかない。電車が来れば離合は「かなり」難しい。


離合設備があり駅員もいる石神 乗降用に木箱がおいてある 右は岡持を下げた出前のおばさん

デハ4とデハ1 狭幅車+広幅サハ同士の離合 やってくるデハ1(右)牽引の半鋼サハから「前の景色が見える」のが納得されよう

本来「路面と同一」であるべきレール面はこんな状態(まだいい方)

路面は不陸(ふりく=土木用語で平らならざる状態)続きで、雨上がりだから水溜りだらけ。車が通る度にその泥水を浴びる周囲の家も泥だらけ。この箇所はそれでも若干拡幅されており、何とか電車とバスと離合できるが、バス同士だと片方は軌道内に踏み入らざるを得ない。だから線路班が土を均しているのだが、さしたる効果があるとも思えない。

遅延の回復運転中!5/30分 東武5700系

今回からが東京私鉄シリーズです。関先生のタイトルは“猫ヒゲ”とありますが、絵を見たらトトロにでてくる猫バスを思い出しました。この当時はみんな86系のまねをしたものですね。2両で扉が3箇所とは!京阪の5000型はどうなるのでしょうか?