花巻電鉄軌道(鉛)線


鉛温泉に到着する上り鉄道線用広幅車 道路もここだけ若干広くバスとすれ違えるが 右のミゼットから奥は離合不能である 1960年3月18日

乙訓老人からチョッカイが出た。通常なら須磨から乙訓へ、やれコメントせよ、ソレ何か言えと迫るのに今回は逆だが、事花巻の、それも軌道(鉛)線とあらば、須磨老人が黙っているわけに参らない。早速挑発に乗り、シコシコとキーボードを叩き始めることに。

開業時の電車デハ1 窓数とモニター窓数は通常一致するものだがこれは後者が1個多い

花巻電気として開業以来、盛岡電気工業、花巻温泉電気鉄道、花巻電気鉄道、花巻温泉電鉄、最終が花巻電鉄(1953年6月1日)と社名を変えた。鉄道線は1925年8月1日盛岡電気工業として開業し、軌道線は1921年12月25日同社に合併されたのである。

軌道線は1913年8月3日特許、1915年9月16日西公園-松原間8.2kmを開業した。車両は24人乗り、オープンデッキのデハ1が1両のみ、他に無蓋貨車2両。メーカーは大日本軌道鉄工部(→雨宮製作所)で、恐らく雨宮としては電車の処女作であろう。15馬力×2、営業時間が「自日出、至日没」とあってもたったの4往復で、西公園発7時30分、10時、13時、15時30分、所要41分。松原発は8時41分、11時30分、14時19分、16時36分。こんな列車数でよく電化したと思われるだろうが、元来電気会社だからで、蒸気機関車なら走行用より待機中の保火用石炭の方が沢山要るだろう。電燈用の間隔の広い電柱をで架線を保持したため、盛大にたるみ、最後までポールで過ごし、電車走行を真横から眺めると、ポールの部分だけ架線が持ち上がっていた。

何分共道路が狭く、恐らく15尺=2間半(4.55m)程度しかなかったので、車体幅が5フィート2インチ(1,575mm)と狭いものだった。2両目のデハ2は1918年製、デハ3は1923年製であった。


1926年製サハ2、3 この時点では扉が1枚引戸で開口部が狭い
1926年製デハ4 1928年製のデハ5も同形 後者は竹梯子をサイドに装着して最後まで残存
半鋼製デハ1(軌道線) 西鉛温泉 奥に無蓋車が1両いるが無人停留場である
恐ろしい急カーブにさしかかる鉄道線デハ4 車体幅は2,134mm(7フィート)あり、車体前後も絞ってない 山ノ神-鉛温泉間
この母子は電車が近づいてきて店内に逃避した このあたりは少なくとも道路の広い側の枕木は露出していないが 幅は2間半あるんだろうか 軌間と比較してご推定あれ

この電気軌道は1918年1月1日花巻(後中央花巻)に若干伸び、岩手軽便鉄道と接続。1920年4月志度平-湯口を延長開業。1922年5月1日馬車軌道だった温泉軌道(大沢温泉-鉛温泉)を合併し、その後電化。最終1923年5月4日湯口-大沢温泉に達し、18kmが全通した。

ボギー電車は木製のデハ4が1926年、デハ5が1928年に登場。車体前後を絞り、最大幅は1インチ拡がった5フィート3インチ(1,600mm)である。車輪は一人前の34インチだから、床高は空車で38インチ(965.2mm)。モーターは30馬力×2、定員40人(内座席22人)。


車内幅は間柱内面間で4フィート5インチ1/2(1,359mm)で 座席が左右各背もたれ共1フィートだから 座席間は749mmしかない しかもその後定員を50(内座席28)人に増加させた

恥ずかしながら26年前の拙著『私鉄私鉄紀行 奥の細道(上)』(レイル14号)から引用する。
「(前略)奥行きの恐ろしく浅いロングシートが両側にあり、しかもその上吊革もちゃんと2列に並んでいる。普段はさすがに千鳥にしか人は座れない。すなわち座席定員の半分しか座れない。その間をぬって車掌が乗車券を売りに来る。混んでくるとまさに膝が突き合いへしあいで、結構吊革にも人がぶら下がり、それでいてやっぱり車掌がやってくるのは神技である。ここの車掌はふとった人では絶対に勤まらない。」

1931年6月15日記号番号変更届で2軸車のデハ1をサハ1に、デハ2をデハ1に繰り上げ、サハ1に旧デハ1の台車モーター等を装着しデハ2とした。ところが8月16日に車庫火災があり、デハ1、3、4、サハ1を焼失。電気機関車も焼損したが、翌年復旧している。

1931年新製のボギー車デハ1、3、4は、ほぼ木製デハ4(焼失)、5をそのまま半鋼にしたもので、やはり両端は絞ってあり、その狭い妻面は「義理堅く」3枚窓なのも同じ。これが本稿主題(であるべき)「馬面」電車である。


西鉛温泉を出た「馬面」デハ1+ワ 流石に道路横断部分は併用の法定仕様に「やや」近い

ここになると路面と「軌道施工基盤」が同一=道路の約半分を事実上軌道が排他的に独占し バスやトラックとは離合不能

上の写真は道路が旧態依然―道路幅2間か2間半しかなく、しかも軌道がその約半分を独占使用しているのが分るだろう。本来併用軌道とは、道路を軌道と車馬とが仲良く使えという主旨なのだが。実はこれにも古い歴史?がある。1918年認可当局職員の現地視察復命書を引用する。
「(前略)道路ノ不良ナルニ加ヘ軌道ノ敷設亦頗ル乱暴ニシテ『軌条間ノ全部及其ノ左右各一尺五寸通ハ木石砂利其ノ他適当ノ材料ヲ敷キ鉄軌面ト路面ト高低ナカラシムヘシ』トノ命令書ノ条項ハ熊野停留場附近約半哩間ヲ除キテハ殆ント遵守セラレタル所ナク(尤モ路面ソノモノニ甚シキ高低アリ)枕木面ト路面ト同高ナルヲ常態トシ甚シキニ至リテハ施工基面ト同高ナル場所少ナカラス(殊ニ二ッ堰志度平間ニ於テ甚シ)。」

会社側にも言い分があって、当初は法定通り施工した(という)が、道路の余りの不良ぶりに車馬は少しでも状態の良い軌道上を走行。「電車ヲ避クル際軌道ヲ斜行シテ甚シク軌道ヲ損ゼシメルヲ以テ会社ハ自衛上殊更ニ軌道間ノ土砂ヲ除去」した由。すなわち場所によっては軌道を全く掘り起こして車馬の乗り入れを物理的に排除したわけで、狭い道路の約半分を事実上、排他的に独占使用していたのである。しかも道路管理者からも別段苦情や注意はなかったと見え、実に1969年9月1日の軌道線廃止まで続いた。こんなケースは全国的にもそうザラにあるものではない。

もう一点、この狭い併用軌道に、なぜ前後車体絞りもない、車体幅7フィートの鉄道線電車が平然と走っているのか。実は狭い軌道線電車ですら、カーブでは狭い側の法定残余(3フィート)に5インチ不足していたというのに。

1926年会社は全通により浴客激増輻輳を申し立て、夏季のみ軌道線に鉄道線電車の使用を、いわば「緊急避難」的に申請。「軌道線ノ道路使用幅員ハ之レカ為左右僅カニ9寸ツツ増大」「該軌道布設ノ為メ荷馬車ノ往来ノ如キモ極メテ僅少ニシテ自動車ノ如キハ殆ント往復ナク交通上支障」ないと強弁。10月31日までとの限定ながら、西花巻-西鉛温泉間への広幅車両の乗り入れを勝ち取ったのである。

ところが翌年もシャアシャアと同じ申請をし、当局は「其ノ後道路拡築ノ手続モ採ラス同様ノ申請ヲ為シタルハ穏当ナラス」と、これはマトモな対応だったのだが、どうしたことか1928年10月5日すんなり?認可。恐らく会社は認可の有無などお構いなく運行を続けていたのであろう。しかもこれは爾後完全に既得権となり、我々の時代でも平然と行われ、廃止まで続いたのであった。


鉄道線用広幅付随車に乗っていても、前頭の電車が狭幅なら前の景色が見えるという証拠写真 志度平温泉 こんな駅でも駅員が数名いた 

花巻電鉄デハ1型

私が入院している間のシリーズは3回ありました。正確には秋保電鉄の後にトロリーシリーズが1回、ここから昭和20年代の東京私鉄シリーズが始まっていました。抜けた部分の新聞が産経新聞から届くまでに東急5000型の記事を掲載したものですからちょっと間抜けな事になり、関三平先生の編集に水を差したようになり申し訳なく思っています。

ポール電車シリーズの最後はみちのくの名車、花巻電鉄デハ1型です。乗った方は多くはないでしょうが知らない人はいないと思います。私は乗らなかったが見たことがある派です。乗ったらよかった、と悔やんでいます。

青蛙と赤蛙

東急電鉄初代5000形をなぜ青蛙と言うのだろうか。京都人は市電600形を【青電】と言っていたではないかと、漫才のネタになりそうな話題だ。理屈っぽい江戸人も京都流にすんなり幼児感覚で画期的な新型電車の登場を祝ったのだろう。比良山系一隅の小池が繁殖地として知られている【もりあお蛙】を、息子が小学生の時に見せてやったが、背は青でなく緑であった。

屁理屈はさておいて、1989年GWに九州へ電車の旅をしている。5月2日、仕事を手早く済ませ午後の新幹線で先ず小倉へ、門司港から夜行「かいもん」で西鹿児島へ、午後3時頃に熊本へ移動。翌日午後2時頃に市電で上熊本到着。そこで眼にしたのが【あおがえる】。ピク誌を通じ蛙の上陸は知っていたが、まさか単車で使われているとは……。後の行程もあり走行中の姿は諦め、北熊本の車庫へ向かった。車庫には検修要員の方だけであったが、蛙の運転台増設に至る経過を話していただいた。老人は静岡100形がワンマンカ-となり使われているのだと思っていたのでびっくり仰天となった。休日で要員が2人という事もあり、全身が撮り易い位置への移動は遠慮した。

その4年後、大井川鐵道から伊豆箱根鉄道駿豆本線に行こうと思い、3番電車で新金谷を出発した。吉原で眼にしたのが赤蛙。新幹線利用が多くなった東海道線の旅、岳南鉄道なんて忘れていた。次駅で降りて吉原にトンボ帰り。近郊電車区間並となりこうした事が出来るようになった。戻ってみると次列車が出迎えてくれた。これに乗って途中下車。貨物列車と煙突が背後にあるところで一景、これが今回の一枚となった。その後3回訪れることになった岳南鉄道。2年前の春は雨となり写真どころではなかった。青蛙に復元された編成があると知り終点まで行ってみたが8000系2連のみで、5000系は解体されたのか何処にもなかった。何でも東急電鉄が青蛙については引き取った?とかの話を耳にしたが、どうなのか知りたいものだ。

モノコック構造電車のはしりとして今も現役で残る熊電の2両、今月21日発売のピクトリアル誌№851の表紙を飾っている。米手作市氏の紹介はタイミングばっちり。今後の迷図作家氏の発表を楽しみにしている。河さんのピク誌での国電話も佳境に突入した。

本日は晴天なり、電車をボイコット!

本日は晴天なり、電車をボイコット!

下部が広がり、おっちんすわりの蛙の姿
下部が広がり、おっちんすわりの蛙の姿
この姿が譽・?なのだが、なぜか2パンタとなっている。
この姿が正位なのだが、なぜか2パンタとなっている。
この端面に運転台が増險・?れていた
この端面に運転台が増設されていた
本来こうした2連で走っていると思っていた
本来こうした2連で走っていると思っていた
貨車、煙突、煙の3本柱がここには必要
貨車、煙突、煙の3本柱がここには必要

東急のアバンギャルドな5000型

アバンギャルドを知らなかったので調べました。“前衛的”だそうです。

前回は人気がなかったようですが今回は大東京の渋谷駅前にある人気者です。皆様の薀蓄を楽しみにしております。なお、前回の秋保電鉄のあと、今回の東急までの間に三回の掲載がありましたが私が入院中だったため未投稿です。順次投稿いたします。

ゆりかもめ


建設中の東京湾ゲートブリッジ(恐竜橋)をバックに走る「ゆりかもめ」

4月中旬より勤務場所が「浜松町」から「お台場」に変わった。
新橋から「ゆりかもめ」に乗車するが、お台場海浜公園まで7キロの運賃は310円である。ちなみに6カ月の通勤定期代は50220円で会社的に小さくないコスト増である。私的には通勤時間の増、会社的にはコスト増で良いこと何もなく、あるとすれば唯一「ゆりかもめ」に乗れることだけである。当初は率先して最前部座席に座っていたが、今では空いている座席に座っている。最前部座席の2人掛けの通路側は空いていることが多い。
「ゆりかもめ」のごとき「新交通システム」は趣味の対象にはなり得ないと思っていたが、毎日乗っていると、製造年による差異等が目につき結構面白い。間もなく迎える勤務先からの「戦力外通告」後は、乗車機会は滅多にないだろうし、今のうちに観察、撮影しておくのも悪くはないと思い、コンデジを持参して通勤帰りや外出時に適当に撮影している。
「ゆりかもめ」の紹介かたがた、撮影した画像等をご覧いただければと思う。

【沿 革】
台場地区と都心部を結ぶ交通機関として平成7年11月1日新橋~有明間11.9㎞を開業した。当初の新橋駅は現在よりも100m程手前にあり、平成13年3月22日現在位置まで延伸された。平成18年3月27日有明~豊洲間2.7㎞が延伸開業し、東京メトロ有楽町線、東武東上線、西武池袋線沿線からお台場地区へのアクセスが確立した。

【運 転】
現行のダイヤは平成18年3月24日に改正のもので、平日は早朝、深夜7~10分、朝夕ラッシュ時3~4分、昼間5分、土・休日は、早朝、深夜7~10分、昼間4分間隔となっているが、現在は原発事故の影響により節電ダイヤにより運行されており、朝夕ラッシュ時4分、昼間は平日、休日共に6分間隔である。
始発は新橋駅6時、豊洲駅5時41分と他の鉄道各線と比較すると遅い。終発は新橋、豊洲ともに0時30分(ともに有明止)となっている。(ちなみに私が利用する金町駅の上り始発は4時32分(北千住行)、下り最終は1時13分(松戸行)である)全線の標準所要時間は31分である。早朝、深夜のみ有人運転、それ以外の時間帯は無人運転である。但し、有明駅から車両基地への入出庫は有人運転である。

【運 賃】
運賃は対キロ制で2㎞まで180円、3~5㎞240円、6~8㎞310円、9㎞~15㎞370円である。新橋からの運賃は竹芝まで180円、芝浦埠頭まで240円、台場まで310円、船の科学館以遠は370円、豊洲からは有明テニスの森まで180円、青海まで240円、お台場海浜公園まで310円、芝浦埠頭以遠370円となっている。ちなみにレインボーブリッジを挟む芝浦埠頭~お台場海浜公園間は3.9㎞あり、1駅で240円である。1日乗車券が800円で新橋~豊洲間を通しで乗る客は極めて少ないと思われる。新橋~豊洲間はJRで有楽町まで行き、メトロ有楽町線に乗り換えると130円+160円の290円。更に安い直通ルートは、新橋~業平橋間の都バス「業10」で200円である。

【車 両】
全編成6両固定編成で、平成7年開業時から10年までの間に作られてサイリスタチョッパ制御の7000系18編成と平成11年から18年に作られたVVVFインバータ制御車7200系8編成、計26編成在籍する。
編成と車号の関係は2桁目と3桁目は編成番号を表し、4桁目は号車を表している。例えばトップナンバーの編成であれば
豊洲方から 7011-7012-7013-7014-7015-7016 となっている。
製造年度と編成の関係は以下の通りである。

7000系(1~3次車まで)
1次車 13編成(7011――7016 ~ 7131――7136)/平成7年新橋~有明間開業時に新製した。座席はお台場への行楽客を意識して先頭車の先頭部を除きオール4人掛クロスシートである。シート間隔がクモハ51並に狭く、通勤客は窓際から詰めて着席するが、昼間の一般客は立客がいてもワンボックスに2~3人しか座っていないことが多い。

 


2次車 2編成(7141――7146 ~ 7151――7156)/平成9年新製。
1次車とほぼ同様である。

 
3次車 3編成(7161――7166 ~ 7181――7186)/平成10年新製。
スタイルは1、2次と変わらないが、車内が大きく変化し、扉間の座席がクロスシートと3人掛ロングシートが交互の配置となり、正面にレインボーのストライブが入った。また、ドアが1、2次車がプラグドアに対し、3次車以降は外吊ドアとなった。

 

7200系(4~6次車まで)
4次車 3編成(7211――7216 ~ 7231――7236)/平成11年新製。
制御装置がVVVFインバータに変更されたため、形式が7200形となった。スタイルや座席配置は3次車と同様である。外観からは判らないが722編成から案内車輪が2軸から4軸に変更になった。

 
5次車 3編成(7241――7246 ~ 7261――7266)/平成13年に新製。スタイルや座席配置は4次車と変わらないが、正面のレインボーのデザインが変更された。

 
6次車 2編成(7271――7276 ~ 7281――7286)/平成17年に新製で、翌年3月27日有明~豊洲間の延伸開業に備えて増備された。座席配置が大きく変わり、豊洲方面に向かって左側クロスシート、右側ロングシートとなり、クロスシート部は4人掛と2人掛となった。居住性は向上したが座席定員は減少した。

 



保線車両

【バスとの競合】


お台場と都心を結ぶ都バスの路線が存在し「ゆりかもめ」とはライバル関係にある。運賃は200円均一と安く、所要時間は渋滞がなければ「ゆりかもめ」と変わらないが、本数の点で劣っている。「お台場」=「ゆりかもめ」のイメージを持つ人が多く、利用者は主に地元の人(特に敬老パス使用の老人)が中心である
東京ビックサイトで大きなイベントが開催される時は、東京駅と浜松町駅から臨時バスが大増発され「ゆりかもめ」共々満員で乗客を運び補完関係にある。

〔海01〕
メトロ東西線、都営大江戸線の門前仲町駅から豊洲、お台場海浜公園、船の科学館の各駅を経由してりんかい線の東京テレポート駅を結んでいる。お台場海浜公園駅と東京テレポート駅は徒歩でも7分程度であるが、バスは台場駅、船の科学館駅、テレコムセンター駅とお台場地区を一巡する。お台場海浜公園駅~豊洲駅間の所要時間は15~20分(ゆりかもめ18分)平日の昼間は10分間隔(同6分間隔)、運賃200円(同310円)と、運転間隔以外はゆりかもめより優位に立っている。しかも門前仲町駅から直通するため更に優位である。但し土休日の昼間は15分間隔のため、やや不利である。

 
17年式日野(J-BUS)PJ-KV234L1

 
21年式いすゞ(J-BUS)PJ-LV234L2
〔虹01〕
浜松町駅バスターミナルから、竹芝桟橋、日の出桟橋を通り、レインボーブリッジを渡り、お台場海浜公園駅、船の科学館駅、パレットタウンを経由して東京ビックサイトを結び、一部の便はりんかい線の国際展示場駅まで行く。
お台場地区から浜松町に行くは、「ゆりかもめ」の竹芝で降りて約10分歩くか、新橋でJRか都営浅草線に乗換える必要があり、浜松町に直通するメリットは大きい。昼間の運転間隔は平日20分、土休日15分である。イベント時に運行される臨時便は、途中ノンストップで、船の科学館等を経由せずに直接レインボーブリッジを渡るため、浜松町までの所要時間は約15分である。
余談になるが、港区の公共施設が多数存在する田町、三田地区へのバスの便がなく、芝浦埠頭で降りて約20分歩くか、新橋からJR、都営浅草線の利用となるため、港区でコミュニティーバスを計画しているようである。


10年式日野KC-HU2RCE 
/方向幕にレインボーブリッジが描かれている。

 
19年式日野(J-BUS)PKJ-KU234L2
〔都05〕
東京駅から有楽町駅、銀座4丁目を通り晴海埠頭を結んでいるが、一部の便が土、休日の昼間のみ勝どき駅から分岐して東京テレポート駅まで運転される。本数は少なく約1時間に1本である。終日10~15分間隔で運転されても良さそうに思うが、「ゆりかもめ」に遠慮しているのだろう。
〔都16〕
東京駅八重洲口より月島駅、豊洲駅、深川車庫、有明を通り東京ビックサイトを結んでいる。観光、商業施設のある台場駅の方には行かない。昼間約15分間隔運行されるが八重洲口の始発7時50分、終発17時23分とほぼ日中のみで、他の時間帯は深川車庫止まりである。ビックサイトで大きなイベント開催時には途中ノンストップの直行便が多数運行される。
〔波01出入〕
品川駅からレインボーブリッジを渡り、お台場海浜公園駅を通り東京テレポート駅を結ぶ系統であるが、本来の「波01」(東京テレポート駅~中央防波堤)の出入庫便で平日7往復、土曜祝日3往復半の運転で日曜日運休する。尚、本来の「波01」は土曜と祝日は平日並みに運行されるが、日曜日は僅か1往復のみである。

 
21年式日野(J-BUS)BJG-HUJLFP
〔急行05、急行06〕
「急行05」は錦糸町駅から新木場駅、パレットタウンを経由して日本科学未来館、「急行06」は森下駅から豊洲駅、パレットタウンを経由して日本科学未来館を結んでいる。土曜日、日曜、祝日の昼間約30分間隔で運行される。

 〔京浜急行バス〕
大井町駅から青物横丁駅を通り、首都高速道路湾岸線に入り東京湾海底トンネルを潜り抜けフジテレビ前、台場駅、東京テレポート駅を経由して船の科学館を結んでいる。大井町駅~フジテレビ前間17分と早いが日中の運転間隔が40分のため便利とはいえないが、京急、東急沿線で積極的にPRすれば乗客は増えるのではないだろうか。出入庫系統として大森駅発着便が5往復運行されている。有料道路を走行するが運賃は210円均一である。

 
19年式いすゞ(J-BUS)PJ-LV234L1
横浜駅から首都高速道路湾岸線、東京湾海底トンネルを通りお台場海浜公園駅、東京テレポート駅経由東京ビックサイト行が約1時間間隔で運転されている。観光バスタイプの車両が使用され運賃は800円である。お台場海浜公園駅まで42分、東京ビックサイトまで55分である。ちなみに同一区間を「ゆりかもめ」と「JR」を乗継ぐと運賃820円、所要時間約1時間とほぼ互角である。

 

〔東京ベイシャトル〕

東京テレポート駅からホテル、商業施設、観光施設等を巡回し運賃は無料である。運行にかかる経費はお台場地区の企業や観光施設の協賛金で賄っている。運行時間は11時から19時頃まで約15分間隔の運行である。車両はドイツのネオプラン社とニュージーランドのデザインライン社製が使用されている。運転開始時刻が遅い、運転間隔が15分とやや長いことを差引いても、外国製のバスで無料というのはインパクトが大きい。以前、上野浅草間で運行されていた2階建バスを使用していたことがあったが、乗降に時間がかかる、バリアフリー対応でないこと等で中止となった。

 
ニュージーランド デザインライン社製

 


ドイツ ネオプラン社製

【その他】
〔お台場ダッシュ〕
飯田線の「下山ダッシュ」は有名であるが、「ゆりかもめ」には「お台場ダッシュ」がある。お台場海浜公園駅で降りて青海駅までダッシュし、先程降りた電車に再度乗るというものである。同区間には「台場」「船の科学館」「テレコムセンター」と3つの駅があり、距離にして3.2㎞、所要時間は7分である。一方同区間の直線距離は約800mでしかも迷うことのない一本道のため少し走れば余裕で成功する。
「下山ダッシュ」は、下山村駅から5つ先の伊那上郷駅までの間、直線距離約2㎞を走る。高低差70mの上り勾配で、途中迷い易い箇所がある等難易度は高い。一方電車はその間6.9kmに鼎、切石、飯田、桜町と停車するが、飯田駅での停車時間の長い電車でないと難しいようである。どちらの「ダッシュ」も足に自信のある方は挑戦されては如何だろうか。
〔大船渡線〕
「ゆりかもめ」のことを「大船渡線」と呼ぶ人がいる。お台場地区の観光、商業施設を迂回するため急カーブの連続である。「大船渡線」との決定的に違いは政治路線でないこと。私自身、電話で会社までの道順を聞かれた時、思わず「新橋で大船渡線に乗換えて」と言ってしまった。
〔お台場地区の特徴〕
お台場地区は観光、商業施設の他、オフィスビル、高層マンション、イベント会場等が混在しているため、朝夕のラッシュ時には、オフィスビルへの通勤客、逆に都心への通勤・通学客、昼間は観光客、買物客で終日に亘り乗客が多い。東京ビックサイトでの大規模イベント時は超満員になる。単年度決算では黒字であるが累積赤字を解消するまでには至っていない。

【沿線風景】


汐留駅を発車する新橋行


レインボーブリッジを通過中の新橋行


お台場海浜公園駅付近


お台場海浜公園駅に進入する新橋行


船の科学館駅に進入する豊洲行


船の科学館駅に侵入する新橋行/バックは青函連絡船羊蹄丸、これに乗船して北海道に行かれた方も多いと思う。

電鉄の節電

先日来、関西電力が鉄道各社に節電を要請している事が報道されている。お得意先であり、株主である先に要請をしているが、政府がお触れを出した東京電力の場合と異なり、少し遠慮がちであるように見受けられる。15%の時は戸惑い、5%なら何とかなるとも報じられた。今朝の新聞では10%となった。さて、【13585】で須磨の大人が28年前、カナダ・エドモントン市に長期出張した話を披露してくれた。老人もその頃(1980年1月)、ドイツ・フランクフルト等に業界視察と交流と言う名目で10日間出張したことを思い出した。彼が出張先で、自動車から電車撮影したことを知り敬服している。あの電車はドイツ製で、今や世界で話題となっているLRT のLRV、その”さきがけ”となったものである。彼が28年前に撮影した連接車は、1968年に試作車が出現した。車体はデュワーグ社の製造によるもので、形式はU2、1単位の車体長は23m(連結面間は約24.8m)、巾2.65m、自重29.5t、座席定員64人、出力150kw×2となっている。

老人はフランクフルト4日目に自由行動が許され、吉谷先輩から聞かされていた路下電車探訪をする事にした。前日、市内地図を中央駅の書店で仕入れ、ホテルマンに地下鉄の乗り場を地図にマークしてもらったら、中央駅地下から北の方向目がけてのルートがそうであった。西駅を出てしばらくすると地上に出て国鉄線と合流し専用軌道となった。住宅街の一部は併用軌道、そのうち地下に潜り終点。地上に出てみると市の中心部であった。この時乗ったのがU2であった。真っ赤をベースに腰部をアイボリ-とした、派手な外部塗色はとても印象的であった。そして街並み拝見を始めたのだが、ゲーテ大学近くの交差点でU2が1単位で停車しているのを見つけバカチョンで撮った。今回探して見たけれどもフィルムは出てきたが、写真は見付からない。そこで1990年5月、サンディエゴでのU2をお目にかける。赤1色である。南へはメキシコ国境へ向うが、市街地を外れると貨物線を利用したところもあった。後に東へ延びたルートには行っていないが、大陸横断鉄道の最南端ルートになっているとかで、今もDL牽引の貨物列車との併用区間が随所にあるとか……。U2が登場した頃はまだ超低床車、ステップレスなんて話題になっていなかった。

ここで本題。U2形は2車体連接車で非貫通両運型である。閑散時は1単位でも走れる。今回、関電に節電を要請された電鉄各社は、最も電気を消費するのは列車運行に関わる鉄道部門であろう。間引き運転、ダイヤ変更、減車と、いろんな方法が考えられているが結論はまだのようだ。阪急京阪線の昼間時、「空気を運ぶ車内に見慣れている」老人は、8両固定編成で本線上を走っている普通や準急は果たして減車出来るのかと、ピクトリアル誌の「阪急特集号」を取り出してみた。神宝線共に、以外に生きている運転台付の中間車があることが分った。南海も大丈夫。近鉄は増結用の2連が多い。深刻なのは京阪と阪神だ。京阪は輸送力大増強時代、2600系を除き7、8連固定に編成替えをした結果、中間運転台を客室に改造してしまった。阪神も同様で、大阪なんば線用の1000系が登場する迄は、武庫川線用を除き4、6両編成しかなかった。山陽も神戸電鉄も然り。となると減車可能は阪急、近鉄、南海ぐらいのもので、他は相変わらず「空気を運ぶ」電車が残るようだ。JRは?

ドイツでは地下線でも運転される車両は、貫通式であることが義務付けられていないようだ。そこでU2はラッシュ時3単位で地下線運用されている。路下のため急カーブもある。連結部は長いリーチを生かし急カーブにも対応している。とてもじゃないけれど貫通幌など装備できない。でもこれが効を奏して、簡単に増解結可能となり、効率良い運用が可能となる。節電電車の一つであろう。話題がこじつけとなり申し訳ない。

3単位連結すると65.4mになる

3単位連結すると65.4mになる

陽気な女性運転手の投げ繧・?スを頂戴する
陽気な女性運転手の投げキッスを頂戴する
路面から車内の床まで4段ある
路面から車内の床まで4段ある

とっておきの写真

撮影会では皆様にお世話になりました。電車まつりには鉄道アイドルの斉藤雪乃さんが来ており、丁度撮影会の終わりかけで「最後ですよ~。」の声につられて思わず行ってしまいました。そこをみなさんに見られていたようで写真を出すことになってしまいました。取り敢えず、3枚アップします。ご笑覧ください。 

28年前のエドモントン その2

連日日中(緯度が高いから3時から夜10時ごろまで明るい)は調査に走り回り、夜は夜で延々と喧嘩腰の議論(皆過労と睡眠不足で気が立っている)が重なって雰囲気ギスギス・チームワーク良好ならず。これではいかん、休息も必要と、2交代で32時間ずつの息抜きを提案し、満場一致で可決。半数ずつ、日をずらし正午以降エドモントンを出発し、翌日20時までに帰って来て会議に参加せよ、という次第。

第1班5人は2台のレンタカーに分乗し、国道2号線を一路南へカルガリー目指す。特段に広い片側3車線のモーターウェイだが、中央の分離帯?の幅が100mぐらいあり、のんびり牛が草を食んでいる。カルガリーまで約250km、3時間程だが、一直線に半時間以上走っても、景色は殆ど変わらない。


速度は遅い貨物列車 機関車は総括制御で車掌も前頭機関車に乗っている

並行してカナダ国鉄の線路があるのに、タダでもらった50万1道路地図には記載がない。これは後年ヨーロッパでも同じ体験をした。幸いデイゼル機関車3重連の貨物列車とすれ違ったが、話には聞いていた列車の速度は遅い。貨車はタンカーばかりで、そう長くもなかったが、この時点ではまだコンテナーはまだ普及していなかった。現在なら長いコンテナー列車が走っていることだろう。

このときはかなり遅くバンフーに到着し、バンフー・スプリングスホテルに投宿。超有名だが、全木造の、ドラキュラかお化けが出ても不思議のない古い古い、ミシミシする大きな建物で、カナディアン・ロッキー観光客誘致のため、鉄道会社が開設したものである。扉も蹴破れそうな代物で、宿泊料だけが実に立派であった。

因みに予約は応援に来ていたシアトル駐在員が電話でしてくれたが、その際身分保障にクレジットカードの番号を要求され、唯一所持していた駐在員(彼は泊まらないが)の番号を申告してOK。この当時すでに米国圏では個人小切手からカードの時代になっていたわけで、日本は約20年遅れている。

バンフーの町で遅い夕食をとったが、同行者1名の「たっての希望」で日本人経営レストランへ。ところがメニュー記載価格が日本語と英語とでかなりの格差があるではないか。日本人は値段に頓着なく、涙を流して日本食を食うからだというが、経営者の根性が心底情けない。

時間を惜しみ、高い宿泊料は勿体無いが早朝から出立し、睡眠不足のままカナディアン・ロッキーの早駆けツアーに。ジャスパーを経て、何とか全走行350km以上、刻限までにエドモントンの安ホテルに戻った。生れて初めて氷河も実体験したが、現実はそう綺麗な「富士の白雪」でもなく、案外汚れているものと得心した。これははるか後年見た北欧でも同じだった。


巨大な職用車(だろう) こんなサイドキューポラーで何ほどの視野が確保できるのか

エドモントン駅構内


これも巨大で重い手荷物車 魚腹台枠で恐らく床にはコンクリートが敷いてあるはず

そのほか寸暇を盗んで、本来用事のないエドモントン駅も秘かにひと覗き。巨大な客車が僅かにいた。3軸台車が放り出してあり、ギヤボックスがついている。気動車の駆動軸(古い3軸ボギー客車にエンジンを搭載した例がある)にしてはやたら脆弱だと思ったが、これは車軸発電機だった。サンパチ豪雪の際、ベルト駆動の車軸発電機が凍結して充電できず、バッテリーが消耗して電気が消えた経験があるが、やはり豪雪地帯では、それなりの設備がなされていることを痛感する。


手前に伸びる軸は車軸発電機用

話は前後する(要は小生の興味の順である)が、エドモントン市ではEdomonton Transit と称する、2車体3台車の高床式トラムが一部開通したばかりで、メイン競技場へのアクセスであり、バス同様関係者はIDカードがあれば無料で乗れる。北国だから冷房はなく窓は嵌め殺し、上部のみ内側に少し開く。これを3編成つないで運行していたが、大会が終われば恐らく2両か4両になるのだろう。




お待たせしました!秋保電鉄

一ヶ月あまりパソコンが使えない環境へ出張していました。この間のシリーズを順次掲載します。

帰ってきて投稿欄を見たら長老様方が寂しそうに海外型の話などで無聊を紛らわせておられるのを見て思わず落とすひとしずく!

秋保電鉄に関しては、昔ピクトリアルに廃止した車両をトレーラーに乗せて運んでいる写真が出ていたのを覚えております。

それでは須磨の大老様、乙訓の長老様、よろしくお願いいたします。

旅は道連れ世はクルマ

 若い頃は一人旅がほとんどで、須磨の大人と淡路島に渡った事など稀有の事だった。社会人となり、DRFC仲間と「鉄旅行」をする機会があった。1977年1月に津軽鉄道、南部縦貫鉄道を訪ねた時は斜陽館に泊り、ストーブ列車運休の腹いせは芦野公園での雪合戦となった。こうした旅は「鉄」が欠けても後世に語り継がれるものとなっている。

今回の主役は「ぶんしゅう」氏で、老人は突然「先日の企画乗った」と言って、道連れにして欲しいと頼んだ。あつかましくも3ケ所に行きたいと注文をつけた。①琴電仏生山車庫の「松下さん」に一枚の写真を届けたい。②高架駅となった高知駅が見たい。③善通寺の姉夫婦と会いたい。いずれも1954年8月(高1)の一人旅に関係することであり、そして琴電、琴参、土電、伊予鉄の車庫めぐりが始まった。伊予鉄は先に須磨の大人の写真で車両説明をしたので、今後触れない。残る3線、琴参は富山勤務時代の1963(三八豪雪)年9月15日が最終日となった。その翌年秋に高知出張のおり早朝に善通寺で下車し車庫へ赴き、留置車1両毎に別れを告げた。この話は「関西の鉄道」で紹介したが、いずれ琴参の思い出話は書き残しておこうと思う。

さて今回の注文①だが、2005年秋に高知へ行った帰途に仏生山車庫に立ち寄った。検車庫(西側)内に120号車が整備を終え留置されていた。最初の四国行は京都21時発、夜行普通列車四国連絡宇野行きで早朝高松駅に到着した。仮駅であった高松桟橋駅で車庫の所在駅を聞き出し、ひとまず瓦町駅待合室で仮眠をしている。目覚めて構内で志度線、長尾線、留置線で車両撮影の後、仏生山車庫に行った。車庫長さんに車両のあらましを聞き、最初に撮ったのが120号。陽は西に回り足回りもバッチリで、老人お気に入りの1景である。この時の話を「松下さん」にしたところ、くしくも検車庫内にあった120号を庫外に、それも撮影した位置に異動してもらった。そのお礼に半世紀前の姿をプリントして持って来ると約束をした。2007年GWに行く筈が果せず、晩秋に体調不良となり一人旅にドクターストップがかかった。それが今回、ぶんしゅう氏に道連れとしていただき実現したのである。また松下さんから120号が動態保存対象車になっている事も伺っていた。

次いで②、TMS38号を今も所持している方、池田さんの四国めぐりの稿をご一読いただきたい。四国山脈越えの土讃線では蒸気機関車のトンネル内煙害防止のため後押し運転しており、そのため先頭車となるオハフ61はタイフォンを装備している、との話が出てくる。老人はこれに興味をもち、善通寺から早朝1番列車で高知に向った。途中C58が後部に回ることなしで高知着となり、機関士に質問してみた。「前年、土佐山田→新改間でやっていたが、重油併焼装置をつけることで中止になった。」との答が返ってきた。何度も降り立った高知駅が高架化されると聞き、「土電(とでんではなくとさでんと発音する)の乗降場を引き入れエスカレーターでホームと直結する。」との情報がもたらされた。ホンマかいな?と思っていたら、憶測によるものだと土電の方に知らされた。でも2005年は未だ躯体工事中の真っ盛りで全体像が掴めなかった。それを今回、土電乗降場と天井の高いコンコースを見届けて高知駅見学は終わった。1954年8月の駅前には都電スタイルの205号(蛍橋行)が停車していた。後部に控えている7型は蛍橋行の後を追い桟橋行となる。

そして③、琴参54号は1927年製の路面電車スタイルだが、床高1,000粍の高床車である。扉を開けると3段ステップで客室床面となる。車輪径は858粍、50馬力×2、自重17.5屯。路面区間はシリーズ運転。郊外に出て専用軌道になるとパラレル運転となり、轟音と共に疾走していた。

今回ぶんしゅう氏は、おしゃべりを道連れにしてへきへきしていたに違いない。その昔、老人を道連れにした旦那は「何でも良いから喋ってくれ、横で居眠りされたら今畜生!となる。」と言っていた。世はクルマ時代、有料高速道路1,000円の恩恵に浴し、燃料費込みで5日間1人当たり11,281円の交通費となった。これではクルマ族は鉄道離れして、利用者が減少する筈だ。

①-1 これが老人お気に入りの1景なり

①-1 これが老人お気に入りの1景なり

①-2 3000型は台車以外に窓上R無し迚・?1000型と異なる
①-2 3000型は台車以外に窓上R無し等が1000型と異なる
①-3 角型5000型の貫通扉は扇風機代用になる片引扉
①-3 角型5000型の貫通扉は扇風機代用になる片引扉
①-4 閑散期の急行は500号1両
①-4 閑散期の急行は500号1両
②都電そっくりの土電が高知駅前に
②都電そっくりの土電が高知駅前に
③四国螯・?の南側の街路を走る50型
③四国学院の南側の街路を走る50型

28年前のエドモントン



Baldwin1919年製107号  1C1 元Oakdale & Gulf R.R.

先般クアラルンプール(マレーシア)の、それも37年も前の写真を並べ立て、多分に諸兄の顰蹙を買ったばかりだが、それに懲りずめげず、今度は28年前のエドモントンでの写真を無理やりご覧頂く。エドモントンと聞いてすぐ位置が分る人は少なかろう。カナダには10の州と3の準州があり、総人口は3,300万人程度。

ところがアルバータ州には108万人のカルガリー、104万人のエドモントンの2大都市がある。前者はカナディアン・ロッキー観光=バンフーへの入り口やスキー等で世界的に著名だが、州都はその約300km北のエドモントンで、日本領事館もある。後年ウエスト・エドモントンなる、世界最大のショッピング・モールが出現したが、観光地とはいえない。ただしカナダ北限の大都市ではある。

時は1983年6月、カナダでは最高の季節(のはず)だったが、少し寒い日もあり、若者が上半身裸で走り回ったり、日光浴の一方、結構ぶ厚い防寒衣の老人や、中には毛皮を着た婆さまもいた。広大な町を斜めにノース・サスカチワン河が蛇行しながら横切り、その部分は深い峡谷状を呈し、両岸は超高級住宅地で、日本領事公邸もそこにあった。

小生ともう1人が先遣隊で半月早く現地入りし、ホテルや車、日本人居住者のボランティア通訳を確保。後から来る本隊=2年後神戸で開催するユニバーシアード神戸大会のための、エドモントン大会調査団(事務局及び各競技団体役員)の受け入れと運営に当った。

その間ほぼ睡眠も3~5時間程度。若かったから何とか保ったが、安ホテルに1か月滞在しながら、町の見物をする暇すらなかった。それでも3時間ほど寸暇を盗み、当時開園間もないフォート・エドモントン・パークにだけは行くことができた。

ノース・サスカチワン河に面した広大な地に、1846、1885、1905、1920年の開拓砦や町並みを復元した、素朴で健全、結構見ごたえのあるテーマ・パークで、エンドレスの線路を敷き、本物の蒸気機関車や馬車が園内の交通を担っている。確か当時は週末だけだったかと記憶するが、現在は夏場が毎日、冬場は週末のみ開園のはず。売店の売り子に至るまで、ことごとくボランティアだと聞いたが、皆それなりの時代にふさわしい衣装であったのも印象深い。


入園するとすぐ蒸機列車に乗り園内に向かう 乗車は入園料に含まれる

キャブ略号はEdomonton Yukon & Pacific 蒸機に限らずすべてボランティアによる運営


右の代用客車は無蓋車の改造らしい


手前の建物代わりのカブースは旧カナダ国鉄

コンビネーションコーチは1913年 デイコーチは1914年製

園内交通の駅馬車や荷馬車も無料で乗れる

公園全体がまだまだ建設途上だったが、驚いたことにトラムラインが敷設中で、架線も一部張られていた。その後Edomonton Radial Ry. の路面電車が数両復元されて走行していると聞く。現在では公園外でも、ノース・サスカチワン河にかかる高い鉄橋を含めた線路に世界中から大量のトラムが集められて動態保存。阪堺電車も健在のはずで、このあたりは電車屋さんの解説が欲しい。

CRH380Aに乗って、中国版新幹線の旅 募集!

上海~北京間の中国新幹線開業がもうすぐですが、期待された380km/h走行が300km/hに抑えられました。そこで、現在350km/hオーバーで走行しています上海~杭州間の新幹線乗車を体験するツアーを企画しました。

①予定日;6月13日~19日、または19日~22日の間、3泊4日予定です。
②訪問地;上海鉄道博物館、中国鉄路発祥路線に展示している建設型見学、上海~杭州・南京の乗車。上海の路面電車乗車。
③費用;旅行社のフリープランツアーを利用します。全費用は、約8万円前後の見込みですが、安く出来るように努力します。

既に参加者は、OB3名となっています。この機会に中国の新幹線に乗車体験を希望されます方は、コメントに応募してください。追って、ご連絡をさせていただきます。

37年前のマレーシア鉄道


ムーア風のクアラルンプール中央駅


改札口と言いたいがフリーパス 左のトルコ帽は駅員らしい

RG50氏のマレーシア便り。余命を勘定しだした老人も、最初の海外体験でマレーシアに出張したことがある。指折り数えると、37年前だった。老人がまだ30代後半の元気な時である。仕事はクアラルンプールで開催される見本市へのアテンドと、その2年後事務局の当番が回ってくるので、その会場の選択―具体的には開催地をクアラルンプールにするか、シンガポールにするかの見極めであった。

約1か月の出張だったが、その内往路に台北、バンコック、途中にシンガポール、帰路に香港と、各2泊づつしたので、クアラルンプールには25泊ぐらいした。それも2週間の入国許可しか得られなかったので、途中一旦シンガポールに出国し、マレーシアに再入国(そんなこともあろうかと、ダブルビザを取得していた)。その間ブキット・ビンタン通りのフェデラルホテルに連泊した。

本来の見本市は夕刻から夜遅くまで開催だから、昼間はかなり余裕があるのだが、京阪神と堺の4市グループでの参加(総合事務局はジェトロ)なので、そう勝手な行動もできない。それでもクアラルンプール駅には行った。ムーア風の建物が特色だが、列車は少なく、蒸機は勿論全廃。日本製のステンレス車体気動車が幅を利かしていた。


待合室には蒸機煙突利用の灰皿が

待合室に妙な灰皿が何本もあり、これが蒸機の煙突を再利用したものだった。

シンガポールからマレーシア、タイにつながる鉄道(ミャンマーもだが)はメーターゲージで、連結器はドロップフック式だが、ディーゼルカーは自連である。


ステンレス車体のディーゼルカー




これは客車である インド(行ったことはないが)と同様幕板が広いのは熱さ対策



貨物列車の本数は少ない バックはかつて錫を露天掘りしていた跡

保存蒸機 連結器は英国植民地に多いドロップフック式

それから何十年か。我が家の実力者(ヨメ様)と、キャメロンハイランドからの帰路、クアラルンプールに立ち寄ったことがある。話には聞いていており、シンガポールも然りだが、この都市の発展は凄いもので、超高層ビルやらタワーやら。新交通顔負けの高架トラムやら。老人が過ごした1974年との落差は凄い。ビンタン通りにフェデラルホテルを探したら、高層ホテルの谷間にあるにはあった。かつて屋上に回転レストランがあった―その付近でズバ抜けて高い建物だったのだが。

かつてのクアラルンプール中央駅は放棄され、廃墟と化して、近くに新駅が出来ていた。中心街の広大な芝生広場はそのままだったが、地下がやはり広大な駐車場とレストランが。世の中は三日見ぬ間の桜かな。上海(も行ったことがないが)はもっとすごいんだろうな。

米手作市氏にしがみつく

5年前の今頃、姪の結婚式が成田であり、そのついでに銚子電鉄に47年ぶりに立ち寄り、濡れせんべいを乙訓へ送る手配をしたこと、投稿した。その折に銚電・笠上黒生駅上りホーム側線でデハ101号見つけたと記したように思う。その時の姿を今回紹介しよう。この101号についてはDRFC時代から関心を抱いていた。奧野利夫師匠に特異な構造した台車をつけている電車だ、と聞かされていた。同型台車が花巻電鉄にあることも奧野師匠に教えられた。その花巻電鉄を訪れたのは1959年9月20日と当時の手帳には記されてある。

この日、老人は盛岡から夜行で石越着、栗原電鉄・若柳町にある車庫へ出向き在籍車両調査をさせてもらった。その後、石越を12時20分発117レ青森行普通で花巻に14時49分着であった。到着するや線路をまたいで花巻電鉄の線路にまっしぐら、15時7分発鉛温泉行をとらえるためであった。馬面電車と思いきや、不細工な芋電車(鉄デハ2+サハ3)が出てきたのにはがっかりであった。でも台車は特異な構造のものであることが確認出来て満足であった。こうなれば乗りたい。

車庫で在籍車両など教えてもらい、次の16時発は馬面電車(軌デハ4)単行で、志度平温泉までとのことだったが、委細かまわず乗ることにした。車体幅1,600ミリは車内幅となると1400ミリ程度しかない。座席の奥行きは300ミリ程度だったが、それでも車掌はキップを売りに来た。乗り心地は押して知るべしゴツゴツしたものであった。なぜなら揺れ枕バネがない。これが特異な構造、揺れ枕ナシのボギー台車なのだ。だがその台車を丸裸では見たことがない。それが笠上黒生駅の側線にあるボロボロ姿の101号に装着されていたのだ。

木立の蔭に隠れるように留置されているデハ101号。時が時なら、国が国ならスクラップとなりその生涯を終えていたかもしれないが、この国では朝鮮事変後のように「テーツ、買いまっせぇー」と、自転車でリヤカー引いた鉢巻姿のオッサンは今では現れない。なんとしても台車枠内に首を突っ込んで揺れ枕の有無を、姿を、無いならその代わりになるものを確かめたい。だが諦めた。蜂の巣が台枠にあるのに気付いたからである。家蜂がいる。結婚式に顔を腫らしていくわけに行かない。仕方なく離れて撮るよりしかたが無い。そこで撮れたのが今回の1枚。以来、特異な構造のボギー台車、花巻で乗ることは出来たが肝心な箇所を見ることなく「お迎えの来る日」を待つばかりかと思いきや、哲男さんのお陰で写真で知ることが出来た。でも上からの撮影でないので今ひとつ良く分らない。東武鉄道の門を叩かねばならないのか、その時は哲男さんにエスコートしてもらおう。

さて、揚げ足取るつもりは無いが、花巻電鉄の始発駅は花巻市の都心に当る中央花巻駅で、元岩手軽便鉄道の始発駅でもあった。軽便が改軌するまでは「遠野物語」の出発点を共有したことになるが、軽便の方が先輩である。その後、観光で中央花巻駅跡の近くに行ったことがあるが、往時は花巻市の南西端に位置する場所のように見受けた。家並みの中を西に向かい、国鉄線を越えたところが西花巻。したがってここが創業時の中心で車庫も設けられていた。鉄道線として花巻温泉に向け西北方向に延長されるに従い国鉄駅西側に「花巻駅」が設置され、1931年の車庫火災をきっかけに「花巻」に車庫は移転されたと聞く。1965年7月、東北本線電化工事に合わせ西花巻~中央花巻間は廃止となった。

米手作市さんが身を「しばらく隠すぞよ。その間クローバー会のこと、しっかりたのむぞ!」と仰せられてから間もなく1週間となる。直ぐに乗られずであったが、電車に関係ない方面で2010年のことがまとめられ、デッキにしがみつく行為が可能になった。そして昨日買った鉄道ピクトリアル8月号、なんと我々の仲間になって頂いた「河 昭一郎さん」の玉稿のスタートだ! 内容は先ず手にしてのお楽しみ。売り切れぬうちに本屋へダッシュしよう。

床下を覗き込むも蜂の巣が……

床下を覗き込むも蜂の巣が……

 

やっと出合った特異な台車

しずしずお出ましの芋?電車

トレーラーは揺れ枕付のアーチバー型

 

 

米手作市氏の誘いに乗る(Ⅱ)

毎朝掲示板を開けるのが日課であることは湯口先輩と同じであるが、朝食後6時30分に家を出て、京成バス、JR→メトロ→JRと乗り継ぎ、4月中旬からは更に新橋で「ゆりかもめ」に乗り換えてレインボーブリッジを渡り「お台場」まで1時間30分かけての通勤している。今回は本業多忙により若干乗り遅れてしまった。

雨宮製作所製の台車の件は前回(5月10日【13285】)で湯口先輩が解説されておられるので、関連事項について触れてみたい。

台車の実物は、湯口先輩が記述されている通り、東武博物館と上毛電鉄大胡車庫にそれぞれ保存されており、興味のある方は是非見学いただきたい。東武博物館には雨宮製作所の銘板も展示されている。(上毛電鉄大胡車庫の見学はイベント時以外は事前予約制)

 


上毛電鉄大胡車庫に保存されている台車(平成22年1月3日)

 


東武博物館に保存されている台車と説明板(平成22年5月20日)

花巻電鉄の車両について触れておられるが、この件について若干補足する。
花巻電鉄は西花巻~花巻~花巻温泉間の鉄道線と西花巻~西鉛温泉間の軌道線が存在した。実際の運行は花巻が起点で、軌道線が西花巻~花巻間に乗入れる形を取り、鉄道線の一部列車は西花巻発着で運行されていた。

雨宮製の板枠台車を履いていた車両は、鉄道線デハ1~4と軌道線デハ1、3~5である。鉄道線のデハ1~3は大正14年、デハ4は大正15年に作られたが、3と4が昭和6年8月火災で焼失し、台車を流用して半鋼製車体を新製した。木製のまま残った1と2は昭和34と35年に鋼体化が行われ、全金製の新製車体に乗せ替えてデハ21、22となり軌道線用となった。その際台車が補強されたため形が変化した。

車体幅が極端に狭い軌道線のデハ1、3~5の経歴は複雑で、デハ1、3、4は昭和6年8月火災焼失車の台車を流用して作られた半鋼製車、デハ5は大正15年製の木製車であった。晩年は鉄道線のデハ3、4も軌道線で使用され、本来の軌道線のデハ3、4と車号が重複した。

 
鉄道線用として製作されたデハ4(昭和41年9月3日)

 


湯口先輩が撮影されたデハ2を鋼体化したデハ22(昭和41年9月3日)

 
軌道線デハ5(昭和41年9月3日)/デハ4、5の2両作られたがデハ4は火災焼失のため半鋼製車体を新製した。

 
軌道線デハ1(昭和43年9月3日)/昭和6年焼失車の補充として新製し、消失により欠番となった1を付番

 
軌道線デハ3(昭和40年3月23日)/製作の経緯はデハ1と同じ。花巻駅近くの公園で保存されている。

 
軌道線デハ4(昭和41年9月3日)/デハ5と同時に新製したデハ4の焼失補充として新製。
前述の鉄道線デハ4も軌道線で使用されていたため、スタイルの異なる2両のデハ4が走行していた。

湯口先輩の記述の通り下野電気鉄道は改軌後、昭和14年に日本鉄道自動車が台車のみ引取り、木製車体と組み合わせて銚子電鉄ボデハ101として再起した。唯、昭和14年に木製車体を新製するというのは不自然で、窓配置を見ると1D2332D1と扉間の窓が分割されており、どこかの車体乗せ換えにより不要となった車体を化粧直しして売り込んだ可能性があると思っている。14年後の昭和28年に早くも半鋼製の新製車体に乗せ換えているが、車体が小さいため一貫して予備車的存在であった。写真は2009年8月11日「【4039】銚子電鉄を訪ねて(Ⅱ)」に掲載されているのでご覧いただきたい。
日本鉄道自動車が雨宮製台車を引取ったのは、自社ブランドの台車を製作するためにサンプル目的もあったのではないかと推測している。

昭和17年に納入した草軽電鉄のモハ101~105は、雨宮製類似の自社製の台車を履いている。昭和22年から順次栃尾鉄道(→越後交通栃尾線)に譲渡され、最終的に5両全車が譲渡された。

 
越後交通栃尾線サハ301(昭和48年4月29日)/元草軽モハ103→モハ208
(S25.4)→サハ301(S41.8)

 
サハ303(昭和48年4月29日)/元草軽モハ102→102
(S36.11)→ホハ29(S39.4) →サハ303(S41.12)

 
サハ306(昭和48年4月29日)/元草軽モハ105→モハ200
(S22.6)→サハ306(S41.12)

戦後では平成19年3月末に廃止された「くりはら田園鉄道」の前身、栗原鉄道が電化(昭和25年9月21日直流750V)に際して新製されたモハ2401、2402の2両の台車に使用された。但し、翌年増備されたモハ2403は通常のものになった。同鉄道は、昭和30年9月27日1067㎜に改軌され、ED20形電機は台車枠を広げて引き続き使用されたが、電車は僅か4~5年で失職して下津井電鉄で再起した。下津井電鉄では他車と共通運用するには制御器の交換等大幅な改造が必要なため電装解除してサハとして使用した。

 
サハ1(昭和44年3月18日)/元栗原モハ2401(電装解除されたのみで、車体はほぼ原形のまま使用されていた)

 
サハ2(昭和40年8月18日)/元栗原モハ2402(モハ104+サハ2+クハ25の3両固定編成化の際、車体に大幅に手を加えられた。昭和47年3月末、茶屋町~児島間廃止時にモハ102+サハ3+クハ22の中間に連結されていたサハ3と交代し、平成元年最後の新製車メリーベル号と交代するまで健在であった。

 
サハ2の台車(昭和44年3月18日)

 
【参考】サハ3(昭和44年3月18日)/元栗原モハ2403(モハ102+サハ3+クハ22の3両固定編成化の際、貫通幌の取り付け等が実施された)

DRFC-OBクローバー会の会員へのお知らせ

昨日、DRFC-OBクローバー会の皆様に下記の書類を郵送させていただきました。一両日中にはお手元に届くと思いますので届きましたら、開封していただき内容物をご確認ください。
なお、会員の方で届かない場合は、新役員または管理者までメール、または電話にてご連絡ください。

内容は、下記のとおりです。
1 全体連絡
2 総会の概要
3 会長挨拶
4 会則
5 会計報告
6 パスワード(一部会員)
7 振替用紙(一部会員)

会費未納入の会員の方には、郵便振替用紙を同封しておりますので、6月末日までにお手続き方の程、よろしくお願い申し上げます。
既に第3期会費を納入済みで投稿未登録の会員の方には、「デジタル青信号」への積極的な投稿を願い、ユーザー名・パスワードを割り当てましたご連絡書類を同封しております。近況等、身近なことでもご投稿願えれば幸いです。

乙訓のつぶやき

本来「乙訓の老人のつぶやき」なのかもしれないが、身近なことを少々。

このところ旧京阪、対岸からは5月28日のダイヤ改正の話が聞こえてくるだけである。上り列車も高架線になることで、待避線がどのように使用されるのか、これに関心を寄せている。こちら新京阪線、洛西口駅の高架線化は昨年12月9日に下り線も仮線に移行がなり、工事を一気に進めるべく目下準備が進められている。しかし上り線高架線の構築後、下り線に着手するようで工事完成は平成27年度となっている。完成は5年先とは先の長い話だ。でもこの工事で桂駅下手の山陰街道踏切、洛西口駅上手の物集女踏切での渋滞が解消され結構なことだ。

さて5月14日土日ダイヤ改正で以前報じられた「京とれいん」が走り出す。4月23日、クローバー会総会で乗らなかった方、上りは梅田発0952115213521552の4列車です。河原町まで所要43分、快速急行なのに定期急行の2分後の後追いです。定期特急と比べると茨木市、高槻市、長岡天神が通過になっています。茨木市で普通(高槻市行)が特急待避で8分停車となっています。そして河原町は2番線に入線、折り返しにはたっぷり時間をとっています。河原町発1101130115011642発です。終発を除けば河原町で26分休憩することになり、ご老体を労わる事になります。この列車、土日のみ運転で、ご老体がへたった時はオールロングシート車で代用されるからご容赦を!

続いて朗報。河原町~関西空港間が1300円で乗れるキップが発売されると発表があった。新快速攻勢でやられ放しの民鉄、JR西日本「はるか」と比べると2,000円ばかり安くなるという。お暇な方、計算してみて下さい。これも土日昼間に河原町~天下茶屋間に20分毎に準急を走らせるようになるからだ。新京阪沿線から大阪南へ暇人を引張り込む作戦に関空連絡準急を上乗せした形だが、堺筋の繁華街、日本橋~動物園前間に阪急沿線族がどれだけ関心を寄せているか疑問だ。となると、南海ラピードに連絡する列車は、座席間隔狭い飛行機の愛用者には好評となろうが、思うようにいかぬが世の習い。しばらく静観することにしよう。

 

米手作市氏の誘いに乗る

毎朝この掲示板を開けるのが日課だが、またもや米手作市氏からチョッカイが出たではないか。で、すぐさま乗せられ、いそいそとスキャンする羽目に。

この真四角鉄箱電車に関しては老人の出る幕はない。台車だけである。これは雨宮製作所1926年製で、元来下野電気鉄道デハ103が装着していたものである。独特の板台枠をアングル材で補強、軸バネはウイング。写真は株式会社雨宮製作所の『機関車・車輌案内』(カタログ)掲載で、側面がノッペラボーだが、現実には丸穴が5個開いている。軌間762mm用で、花巻と下野電気の50人乗りボギー電車=花巻は電動機30馬力×2、ギヤ比4.93だが、下野は25馬力×2、6.67。


雨宮カタログの台車 762mm軌間ながら車輪径は1067mm並みの864mm ホイルベースは1,498.6mm 現実には側板に丸穴が5個穿ってある 左上は雨宮製作所の社紋

ところで下野電気鉄道デハ103は、出力とギヤ比以外、盛岡電気工業→花巻温泉電気鉄道(鉄道線)デハ1~4と同じ図面で製造された。下野の写真が得られないので、花巻デハ2で代用しておく。


花巻電鉄デハ2 1960年3月18日湯口撮影 花巻 本来鉄道線用の車両だが オッソロしい急カーブがある狭い併用軌道の軌道線対応のため連結器が独特である 下野電気鉄道デハ103も外見は同一

下野電気鉄道は1929年1067mmに改軌(1943年6月30日東武鉄道に合併)されたから、この電車はたったの3年余しか走行しなかった。その後東武浅草工場で保管され、1939年台車だけ日本鉄道自動車が引き取って1067mm用に改造し、銚子電気鉄道デハボ101に装着して再起した次第である。なお台車は現在東武博物館と上毛電気鉄道で保管されている由。

銚子電鉄101

今週は、なんでも読者の要望で関西から飛び出して銚子まで足をのばされたようです。

前回は読み通り藤本先生と湯口大老が薀蓄を語ってくださいましたが、今回も藤本先生と湯口大老の独壇場かも知れません。

関三平先生によると、“軽便鉄道の台車を国鉄サイズに広げ”た電車と言うことですから車両、台車ともに曰くありげで、ご両所のご高説はなんとしても聞きたいものです。

(おことわり)私が来週よりしばらく留守をいたしますのでこの記事を掲載できません。帰り次第、たまった分を投稿しますのでその間少しお待ち下さい。