関先生の記事によると、この当時(昭和30年前後)の関東私鉄車両は意欲的な物が多かったのがよくわかります。関西でも阪神や京阪にはその後の電車を大きく変える新技術が試されていました。ただ顔だけは関東ほど86を気にしていたかは疑問です。権威に弱い関東と権威ほど見て見ぬふりをする関西の違い、といえば関東の人に怒られるでしょうか?
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都電荒川線「2011路面電車の日」記念イベント
「花100」と阪堺カラーの「7511」(方向幕は「あびこ道」を表示
6月13日「【13564】阪堺電車撮影会開催!」で小西啓文氏が「阪堺電車祭り」をレポートされたが、東京都交通局でも6月12日、荒川車庫で記念イベントが開催された。当日、午前中のみではあるが時間が空いていたので見学に行った。
内容は、東京交通局が100周年を迎えたので「都営交通100周年記念」と「都電×阪堺線100周年記念」のヘッドマークを装着した8800形、秋以降に運行予定の花電車、3月に引退した7500形の展示が行われた。例年通り「都電広場」横に交通局グッズを販売するブースの他に、東関東大震災で大きな被害を受けた「ひたちなか海浜鉄道」と「三陸鉄道」のグッズ販売ブースが設置された。特に「ひたちなか海浜鉄道」は社長自ら社員の方と共に来所され、正午から会場で挨拶をされた。
イベントは10時に開始され「都営交通100周年記念」のヘッドマークを付けた8807と「都電×阪堺線100周年記念」のヘッドマークを付けた8805が展示された。
11時からは7510を改造した花電車「花100」が展示された。東日本大震災により花電車の運行中止を検討されたようであるが、秋以降に運行されることになった。
12時から「ひたちなか海浜鉄道」の吉田社長の挨拶があり、3月13日限りで運行を停止した7511と7512がヘッドマーク付きで展示されたが、残念ながら時間切れのため撮影はできなかった。代わりに現役時代最後の写真を貼っておく。7511は3月13日営業運転最終日、7512は震災当日出勤途中に撮影した。
荒川車庫には、7505、7515、7520が解体されずに残っている。展示された7511、7512は3月31日付で廃車されている。
「ひたちなか海浜鉄道」と「三陸鉄道」のブースで僅かでも復興に足しになればと思い、買物をした。「ひたちなか海浜鉄道」では「阿字ヶ浦―勝田」(裏面は那珂湊)のサボを購入したが包装紙が無く、むき出しのまま持ち帰るハメになり、都電の車内はともかく、町屋からの地下鉄、JRの車内では他の乗客から怪訝な目で見られていたに違いない。ちなみに値段は3500円であった。
同鉄道は、地震で壊滅的な被害を受けたが、6月25日に那珂湊~中根間の1駅のみであるが復旧し、1日2往復運転が再開された。7月3日には勝田~平磯間の復旧工事が完成し営業が再開される予定である。残る平磯~阿字ヶ浦間も7月末には復旧工事が完成する予定で、全線の営業再開まであと一息である。その時には、懐かしい国鉄カラーの気動車や、はるばる三木鉄道から輿入れたミキ300に会いに行きたいと思っている。
遅延回復運転中2 京成1600型
花巻電鉄軌道(鉛)線 その2
軌道線デハ3の室内 座席奥行はもたれとも304.8mm その間隔は座席の約倍
仕掛け人の米手作市氏から、軌道線デハ5の「側面に竹梯子」とは何ぞやとのご質問が出た。写真が見つからないが、木製車体のデハ5は現役を外れて架線修理車になっており、その際使用する竹梯子を側面窓下に釣って―引っ掛けていたのである。
某氏から、写真はもっとある筈。出し惜しみするなとの警告?メールも。はいはい、出しますとも。ただ例のネオパンSSヴィネガー・シンドロームでネガは散々で見る気もしないが、幸いプリントしてアルバムに貼り付けていたので、ピント精度は当然落ちるが、それからのスキャンでご覧頂くことにする。なお前回軌道線半鋼ボギー車を、木製デハ4、5とほぼ同じと記したが、木製ボギー車は窓が2個×5、半鋼ボギー車は吹き寄せなしの10個等間隔である。
1926年雨宮製24人乗りサハ2 扉が2枚引戸に改造され開口部がやや拡げられている
サハ3 車体はサハ2とほぼ同じだが妻面が電動車と同じでボギー化改造されている
両側に民家がつらなり拡幅不能の西公園石神間 道路幅は2間半=15尺=4.55mだろう
先回は終点近くの狭い箇所をご覧いただいたが、今回は起点に近い狭隘箇所を。写真で見るとそれほどとも思えないかもしれないが、軌間が762mmだから、それを物差しとすれば、恐らくこれは当時としても「広くない」基準である「2間半」と思われる。なお機械関連では早くからフィート・インチ法を使ったが、土木関係では長らく尺・間・町・里が幅を利かし、川幅や橋梁長にも間(=6尺)が使われた。フィート・インチとの混同も多く、2フィート6インチを「2尺5寸」とする公文書などに事欠かない。
この区間は先回の鉛-西鉛間よりはマシだが それでも「なるべく」軌道内に車馬が入ってほしくない気持ちがありあり。それでもバスやトラックには、この道しかない。電車が来れば離合は「かなり」難しい。
離合設備があり駅員もいる石神 乗降用に木箱がおいてある 右は岡持を下げた出前のおばさん
デハ4とデハ1 狭幅車+広幅サハ同士の離合 やってくるデハ1(右)牽引の半鋼サハから「前の景色が見える」のが納得されよう
本来「路面と同一」であるべきレール面はこんな状態(まだいい方)
路面は不陸(ふりく=土木用語で平らならざる状態)続きで、雨上がりだから水溜りだらけ。車が通る度にその泥水を浴びる周囲の家も泥だらけ。この箇所はそれでも若干拡幅されており、何とか電車とバスと離合できるが、バス同士だと片方は軌道内に踏み入らざるを得ない。だから線路班が土を均しているのだが、さしたる効果があるとも思えない。
遅延の回復運転中!5/30分 東武5700系
花巻電鉄軌道(鉛)線
鉛温泉に到着する上り鉄道線用広幅車 道路もここだけ若干広くバスとすれ違えるが 右のミゼットから奥は離合不能である 1960年3月18日
乙訓老人からチョッカイが出た。通常なら須磨から乙訓へ、やれコメントせよ、ソレ何か言えと迫るのに今回は逆だが、事花巻の、それも軌道(鉛)線とあらば、須磨老人が黙っているわけに参らない。早速挑発に乗り、シコシコとキーボードを叩き始めることに。
開業時の電車デハ1 窓数とモニター窓数は通常一致するものだがこれは後者が1個多い
花巻電気として開業以来、盛岡電気工業、花巻温泉電気鉄道、花巻電気鉄道、花巻温泉電鉄、最終が花巻電鉄(1953年6月1日)と社名を変えた。鉄道線は1925年8月1日盛岡電気工業として開業し、軌道線は1921年12月25日同社に合併されたのである。
軌道線は1913年8月3日特許、1915年9月16日西公園-松原間8.2kmを開業した。車両は24人乗り、オープンデッキのデハ1が1両のみ、他に無蓋貨車2両。メーカーは大日本軌道鉄工部(→雨宮製作所)で、恐らく雨宮としては電車の処女作であろう。15馬力×2、営業時間が「自日出、至日没」とあってもたったの4往復で、西公園発7時30分、10時、13時、15時30分、所要41分。松原発は8時41分、11時30分、14時19分、16時36分。こんな列車数でよく電化したと思われるだろうが、元来電気会社だからで、蒸気機関車なら走行用より待機中の保火用石炭の方が沢山要るだろう。電燈用の間隔の広い電柱をで架線を保持したため、盛大にたるみ、最後までポールで過ごし、電車走行を真横から眺めると、ポールの部分だけ架線が持ち上がっていた。
何分共道路が狭く、恐らく15尺=2間半(4.55m)程度しかなかったので、車体幅が5フィート2インチ(1,575mm)と狭いものだった。2両目のデハ2は1918年製、デハ3は1923年製であった。
1926年製サハ2、3 この時点では扉が1枚引戸で開口部が狭い
1926年製デハ4 1928年製のデハ5も同形 後者は竹梯子をサイドに装着して最後まで残存
半鋼製デハ1(軌道線) 西鉛温泉 奥に無蓋車が1両いるが無人停留場である
恐ろしい急カーブにさしかかる鉄道線デハ4 車体幅は2,134mm(7フィート)あり、車体前後も絞ってない 山ノ神-鉛温泉間
この母子は電車が近づいてきて店内に逃避した このあたりは少なくとも道路の広い側の枕木は露出していないが 幅は2間半あるんだろうか 軌間と比較してご推定あれ
この電気軌道は1918年1月1日花巻(後中央花巻)に若干伸び、岩手軽便鉄道と接続。1920年4月志度平-湯口を延長開業。1922年5月1日馬車軌道だった温泉軌道(大沢温泉-鉛温泉)を合併し、その後電化。最終1923年5月4日湯口-大沢温泉に達し、18kmが全通した。
ボギー電車は木製のデハ4が1926年、デハ5が1928年に登場。車体前後を絞り、最大幅は1インチ拡がった5フィート3インチ(1,600mm)である。車輪は一人前の34インチだから、床高は空車で38インチ(965.2mm)。モーターは30馬力×2、定員40人(内座席22人)。
車内幅は間柱内面間で4フィート5インチ1/2(1,359mm)で 座席が左右各背もたれ共1フィートだから 座席間は749mmしかない しかもその後定員を50(内座席28)人に増加させた
恥ずかしながら26年前の拙著『私鉄私鉄紀行 奥の細道(上)』(レイル14号)から引用する。
「(前略)奥行きの恐ろしく浅いロングシートが両側にあり、しかもその上吊革もちゃんと2列に並んでいる。普段はさすがに千鳥にしか人は座れない。すなわち座席定員の半分しか座れない。その間をぬって車掌が乗車券を売りに来る。混んでくるとまさに膝が突き合いへしあいで、結構吊革にも人がぶら下がり、それでいてやっぱり車掌がやってくるのは神技である。ここの車掌はふとった人では絶対に勤まらない。」
1931年6月15日記号番号変更届で2軸車のデハ1をサハ1に、デハ2をデハ1に繰り上げ、サハ1に旧デハ1の台車モーター等を装着しデハ2とした。ところが8月16日に車庫火災があり、デハ1、3、4、サハ1を焼失。電気機関車も焼損したが、翌年復旧している。
1931年新製のボギー車デハ1、3、4は、ほぼ木製デハ4(焼失)、5をそのまま半鋼にしたもので、やはり両端は絞ってあり、その狭い妻面は「義理堅く」3枚窓なのも同じ。これが本稿主題(であるべき)「馬面」電車である。
西鉛温泉を出た「馬面」デハ1+ワ 流石に道路横断部分は併用の法定仕様に「やや」近い
ここになると路面と「軌道施工基盤」が同一=道路の約半分を事実上軌道が排他的に独占し バスやトラックとは離合不能
上の写真は道路が旧態依然―道路幅2間か2間半しかなく、しかも軌道がその約半分を独占使用しているのが分るだろう。本来併用軌道とは、道路を軌道と車馬とが仲良く使えという主旨なのだが。実はこれにも古い歴史?がある。1918年認可当局職員の現地視察復命書を引用する。
「(前略)道路ノ不良ナルニ加ヘ軌道ノ敷設亦頗ル乱暴ニシテ『軌条間ノ全部及其ノ左右各一尺五寸通ハ木石砂利其ノ他適当ノ材料ヲ敷キ鉄軌面ト路面ト高低ナカラシムヘシ』トノ命令書ノ条項ハ熊野停留場附近約半哩間ヲ除キテハ殆ント遵守セラレタル所ナク(尤モ路面ソノモノニ甚シキ高低アリ)枕木面ト路面ト同高ナルヲ常態トシ甚シキニ至リテハ施工基面ト同高ナル場所少ナカラス(殊ニ二ッ堰志度平間ニ於テ甚シ)。」
会社側にも言い分があって、当初は法定通り施工した(という)が、道路の余りの不良ぶりに車馬は少しでも状態の良い軌道上を走行。「電車ヲ避クル際軌道ヲ斜行シテ甚シク軌道ヲ損ゼシメルヲ以テ会社ハ自衛上殊更ニ軌道間ノ土砂ヲ除去」した由。すなわち場所によっては軌道を全く掘り起こして車馬の乗り入れを物理的に排除したわけで、狭い道路の約半分を事実上、排他的に独占使用していたのである。しかも道路管理者からも別段苦情や注意はなかったと見え、実に1969年9月1日の軌道線廃止まで続いた。こんなケースは全国的にもそうザラにあるものではない。
もう一点、この狭い併用軌道に、なぜ前後車体絞りもない、車体幅7フィートの鉄道線電車が平然と走っているのか。実は狭い軌道線電車ですら、カーブでは狭い側の法定残余(3フィート)に5インチ不足していたというのに。
1926年会社は全通により浴客激増輻輳を申し立て、夏季のみ軌道線に鉄道線電車の使用を、いわば「緊急避難」的に申請。「軌道線ノ道路使用幅員ハ之レカ為左右僅カニ9寸ツツ増大」「該軌道布設ノ為メ荷馬車ノ往来ノ如キモ極メテ僅少ニシテ自動車ノ如キハ殆ント往復ナク交通上支障」ないと強弁。10月31日までとの限定ながら、西花巻-西鉛温泉間への広幅車両の乗り入れを勝ち取ったのである。
ところが翌年もシャアシャアと同じ申請をし、当局は「其ノ後道路拡築ノ手続モ採ラス同様ノ申請ヲ為シタルハ穏当ナラス」と、これはマトモな対応だったのだが、どうしたことか1928年10月5日すんなり?認可。恐らく会社は認可の有無などお構いなく運行を続けていたのであろう。しかもこれは爾後完全に既得権となり、我々の時代でも平然と行われ、廃止まで続いたのであった。
鉄道線用広幅付随車に乗っていても、前頭の電車が狭幅なら前の景色が見えるという証拠写真 志度平温泉 こんな駅でも駅員が数名いた
花巻電鉄デハ1型
青蛙と赤蛙
東急電鉄初代5000形をなぜ青蛙と言うのだろうか。京都人は市電600形を【青電】と言っていたではないかと、漫才のネタになりそうな話題だ。理屈っぽい江戸人も京都流にすんなり幼児感覚で画期的な新型電車の登場を祝ったのだろう。比良山系一隅の小池が繁殖地として知られている【もりあお蛙】を、息子が小学生の時に見せてやったが、背は青でなく緑であった。
屁理屈はさておいて、1989年GWに九州へ電車の旅をしている。5月2日、仕事を手早く済ませ午後の新幹線で先ず小倉へ、門司港から夜行「かいもん」で西鹿児島へ、午後3時頃に熊本へ移動。翌日午後2時頃に市電で上熊本到着。そこで眼にしたのが【あおがえる】。ピク誌を通じ蛙の上陸は知っていたが、まさか単車で使われているとは……。後の行程もあり走行中の姿は諦め、北熊本の車庫へ向かった。車庫には検修要員の方だけであったが、蛙の運転台増設に至る経過を話していただいた。老人は静岡100形がワンマンカ-となり使われているのだと思っていたのでびっくり仰天となった。休日で要員が2人という事もあり、全身が撮り易い位置への移動は遠慮した。
その4年後、大井川鐵道から伊豆箱根鉄道駿豆本線に行こうと思い、3番電車で新金谷を出発した。吉原で眼にしたのが赤蛙。新幹線利用が多くなった東海道線の旅、岳南鉄道なんて忘れていた。次駅で降りて吉原にトンボ帰り。近郊電車区間並となりこうした事が出来るようになった。戻ってみると次列車が出迎えてくれた。これに乗って途中下車。貨物列車と煙突が背後にあるところで一景、これが今回の一枚となった。その後3回訪れることになった岳南鉄道。2年前の春は雨となり写真どころではなかった。青蛙に復元された編成があると知り終点まで行ってみたが8000系2連のみで、5000系は解体されたのか何処にもなかった。何でも東急電鉄が青蛙については引き取った?とかの話を耳にしたが、どうなのか知りたいものだ。
モノコック構造電車のはしりとして今も現役で残る熊電の2両、今月21日発売のピクトリアル誌№851の表紙を飾っている。米手作市氏の紹介はタイミングばっちり。今後の迷図作家氏の発表を楽しみにしている。河さんのピク誌での国電話も佳境に突入した。
東急のアバンギャルドな5000型
ゆりかもめ
建設中の東京湾ゲートブリッジ(恐竜橋)をバックに走る「ゆりかもめ」
4月中旬より勤務場所が「浜松町」から「お台場」に変わった。
新橋から「ゆりかもめ」に乗車するが、お台場海浜公園まで7キロの運賃は310円である。ちなみに6カ月の通勤定期代は50220円で会社的に小さくないコスト増である。私的には通勤時間の増、会社的にはコスト増で良いこと何もなく、あるとすれば唯一「ゆりかもめ」に乗れることだけである。当初は率先して最前部座席に座っていたが、今では空いている座席に座っている。最前部座席の2人掛けの通路側は空いていることが多い。
「ゆりかもめ」のごとき「新交通システム」は趣味の対象にはなり得ないと思っていたが、毎日乗っていると、製造年による差異等が目につき結構面白い。間もなく迎える勤務先からの「戦力外通告」後は、乗車機会は滅多にないだろうし、今のうちに観察、撮影しておくのも悪くはないと思い、コンデジを持参して通勤帰りや外出時に適当に撮影している。
「ゆりかもめ」の紹介かたがた、撮影した画像等をご覧いただければと思う。
【沿 革】
台場地区と都心部を結ぶ交通機関として平成7年11月1日新橋~有明間11.9㎞を開業した。当初の新橋駅は現在よりも100m程手前にあり、平成13年3月22日現在位置まで延伸された。平成18年3月27日有明~豊洲間2.7㎞が延伸開業し、東京メトロ有楽町線、東武東上線、西武池袋線沿線からお台場地区へのアクセスが確立した。
【運 転】
現行のダイヤは平成18年3月24日に改正のもので、平日は早朝、深夜7~10分、朝夕ラッシュ時3~4分、昼間5分、土・休日は、早朝、深夜7~10分、昼間4分間隔となっているが、現在は原発事故の影響により節電ダイヤにより運行されており、朝夕ラッシュ時4分、昼間は平日、休日共に6分間隔である。
始発は新橋駅6時、豊洲駅5時41分と他の鉄道各線と比較すると遅い。終発は新橋、豊洲ともに0時30分(ともに有明止)となっている。(ちなみに私が利用する金町駅の上り始発は4時32分(北千住行)、下り最終は1時13分(松戸行)である)全線の標準所要時間は31分である。早朝、深夜のみ有人運転、それ以外の時間帯は無人運転である。但し、有明駅から車両基地への入出庫は有人運転である。
【運 賃】
運賃は対キロ制で2㎞まで180円、3~5㎞240円、6~8㎞310円、9㎞~15㎞370円である。新橋からの運賃は竹芝まで180円、芝浦埠頭まで240円、台場まで310円、船の科学館以遠は370円、豊洲からは有明テニスの森まで180円、青海まで240円、お台場海浜公園まで310円、芝浦埠頭以遠370円となっている。ちなみにレインボーブリッジを挟む芝浦埠頭~お台場海浜公園間は3.9㎞あり、1駅で240円である。1日乗車券が800円で新橋~豊洲間を通しで乗る客は極めて少ないと思われる。新橋~豊洲間はJRで有楽町まで行き、メトロ有楽町線に乗り換えると130円+160円の290円。更に安い直通ルートは、新橋~業平橋間の都バス「業10」で200円である。
【車 両】
全編成6両固定編成で、平成7年開業時から10年までの間に作られてサイリスタチョッパ制御の7000系18編成と平成11年から18年に作られたVVVFインバータ制御車7200系8編成、計26編成在籍する。
編成と車号の関係は2桁目と3桁目は編成番号を表し、4桁目は号車を表している。例えばトップナンバーの編成であれば
豊洲方から 7011-7012-7013-7014-7015-7016 となっている。
製造年度と編成の関係は以下の通りである。
7000系(1~3次車まで)
1次車 13編成(7011――7016 ~ 7131――7136)/平成7年新橋~有明間開業時に新製した。座席はお台場への行楽客を意識して先頭車の先頭部を除きオール4人掛クロスシートである。シート間隔がクモハ51並に狭く、通勤客は窓際から詰めて着席するが、昼間の一般客は立客がいてもワンボックスに2~3人しか座っていないことが多い。
2次車 2編成(7141――7146 ~ 7151――7156)/平成9年新製。
1次車とほぼ同様である。
3次車 3編成(7161――7166 ~ 7181――7186)/平成10年新製。
スタイルは1、2次と変わらないが、車内が大きく変化し、扉間の座席がクロスシートと3人掛ロングシートが交互の配置となり、正面にレインボーのストライブが入った。また、ドアが1、2次車がプラグドアに対し、3次車以降は外吊ドアとなった。
7200系(4~6次車まで)
4次車 3編成(7211――7216 ~ 7231――7236)/平成11年新製。
制御装置がVVVFインバータに変更されたため、形式が7200形となった。スタイルや座席配置は3次車と同様である。外観からは判らないが722編成から案内車輪が2軸から4軸に変更になった。
5次車 3編成(7241――7246 ~ 7261――7266)/平成13年に新製。スタイルや座席配置は4次車と変わらないが、正面のレインボーのデザインが変更された。
6次車 2編成(7271――7276 ~ 7281――7286)/平成17年に新製で、翌年3月27日有明~豊洲間の延伸開業に備えて増備された。座席配置が大きく変わり、豊洲方面に向かって左側クロスシート、右側ロングシートとなり、クロスシート部は4人掛と2人掛となった。居住性は向上したが座席定員は減少した。
【バスとの競合】
お台場と都心を結ぶ都バスの路線が存在し「ゆりかもめ」とはライバル関係にある。運賃は200円均一と安く、所要時間は渋滞がなければ「ゆりかもめ」と変わらないが、本数の点で劣っている。「お台場」=「ゆりかもめ」のイメージを持つ人が多く、利用者は主に地元の人(特に敬老パス使用の老人)が中心である
東京ビックサイトで大きなイベントが開催される時は、東京駅と浜松町駅から臨時バスが大増発され「ゆりかもめ」共々満員で乗客を運び補完関係にある。
〔海01〕
メトロ東西線、都営大江戸線の門前仲町駅から豊洲、お台場海浜公園、船の科学館の各駅を経由してりんかい線の東京テレポート駅を結んでいる。お台場海浜公園駅と東京テレポート駅は徒歩でも7分程度であるが、バスは台場駅、船の科学館駅、テレコムセンター駅とお台場地区を一巡する。お台場海浜公園駅~豊洲駅間の所要時間は15~20分(ゆりかもめ18分)平日の昼間は10分間隔(同6分間隔)、運賃200円(同310円)と、運転間隔以外はゆりかもめより優位に立っている。しかも門前仲町駅から直通するため更に優位である。但し土休日の昼間は15分間隔のため、やや不利である。
21年式いすゞ(J-BUS)PJ-LV234L2
〔虹01〕
浜松町駅バスターミナルから、竹芝桟橋、日の出桟橋を通り、レインボーブリッジを渡り、お台場海浜公園駅、船の科学館駅、パレットタウンを経由して東京ビックサイトを結び、一部の便はりんかい線の国際展示場駅まで行く。
お台場地区から浜松町に行くは、「ゆりかもめ」の竹芝で降りて約10分歩くか、新橋でJRか都営浅草線に乗換える必要があり、浜松町に直通するメリットは大きい。昼間の運転間隔は平日20分、土休日15分である。イベント時に運行される臨時便は、途中ノンストップで、船の科学館等を経由せずに直接レインボーブリッジを渡るため、浜松町までの所要時間は約15分である。
余談になるが、港区の公共施設が多数存在する田町、三田地区へのバスの便がなく、芝浦埠頭で降りて約20分歩くか、新橋からJR、都営浅草線の利用となるため、港区でコミュニティーバスを計画しているようである。
10年式日野KC-HU2RCE /方向幕にレインボーブリッジが描かれている。
19年式日野(J-BUS)PKJ-KU234L2
〔都05〕
東京駅から有楽町駅、銀座4丁目を通り晴海埠頭を結んでいるが、一部の便が土、休日の昼間のみ勝どき駅から分岐して東京テレポート駅まで運転される。本数は少なく約1時間に1本である。終日10~15分間隔で運転されても良さそうに思うが、「ゆりかもめ」に遠慮しているのだろう。
〔都16〕
東京駅八重洲口より月島駅、豊洲駅、深川車庫、有明を通り東京ビックサイトを結んでいる。観光、商業施設のある台場駅の方には行かない。昼間約15分間隔運行されるが八重洲口の始発7時50分、終発17時23分とほぼ日中のみで、他の時間帯は深川車庫止まりである。ビックサイトで大きなイベント開催時には途中ノンストップの直行便が多数運行される。
〔波01出入〕
品川駅からレインボーブリッジを渡り、お台場海浜公園駅を通り東京テレポート駅を結ぶ系統であるが、本来の「波01」(東京テレポート駅~中央防波堤)の出入庫便で平日7往復、土曜祝日3往復半の運転で日曜日運休する。尚、本来の「波01」は土曜と祝日は平日並みに運行されるが、日曜日は僅か1往復のみである。
21年式日野(J-BUS)BJG-HUJLFP
〔急行05、急行06〕
「急行05」は錦糸町駅から新木場駅、パレットタウンを経由して日本科学未来館、「急行06」は森下駅から豊洲駅、パレットタウンを経由して日本科学未来館を結んでいる。土曜日、日曜、祝日の昼間約30分間隔で運行される。
〔京浜急行バス〕
大井町駅から青物横丁駅を通り、首都高速道路湾岸線に入り東京湾海底トンネルを潜り抜けフジテレビ前、台場駅、東京テレポート駅を経由して船の科学館を結んでいる。大井町駅~フジテレビ前間17分と早いが日中の運転間隔が40分のため便利とはいえないが、京急、東急沿線で積極的にPRすれば乗客は増えるのではないだろうか。出入庫系統として大森駅発着便が5往復運行されている。有料道路を走行するが運賃は210円均一である。
19年式いすゞ(J-BUS)PJ-LV234L1
横浜駅から首都高速道路湾岸線、東京湾海底トンネルを通りお台場海浜公園駅、東京テレポート駅経由東京ビックサイト行が約1時間間隔で運転されている。観光バスタイプの車両が使用され運賃は800円である。お台場海浜公園駅まで42分、東京ビックサイトまで55分である。ちなみに同一区間を「ゆりかもめ」と「JR」を乗継ぐと運賃820円、所要時間約1時間とほぼ互角である。
〔東京ベイシャトル〕
東京テレポート駅からホテル、商業施設、観光施設等を巡回し運賃は無料である。運行にかかる経費はお台場地区の企業や観光施設の協賛金で賄っている。運行時間は11時から19時頃まで約15分間隔の運行である。車両はドイツのネオプラン社とニュージーランドのデザインライン社製が使用されている。運転開始時刻が遅い、運転間隔が15分とやや長いことを差引いても、外国製のバスで無料というのはインパクトが大きい。以前、上野浅草間で運行されていた2階建バスを使用していたことがあったが、乗降に時間がかかる、バリアフリー対応でないこと等で中止となった。
【その他】
〔お台場ダッシュ〕
飯田線の「下山ダッシュ」は有名であるが、「ゆりかもめ」には「お台場ダッシュ」がある。お台場海浜公園駅で降りて青海駅までダッシュし、先程降りた電車に再度乗るというものである。同区間には「台場」「船の科学館」「テレコムセンター」と3つの駅があり、距離にして3.2㎞、所要時間は7分である。一方同区間の直線距離は約800mでしかも迷うことのない一本道のため少し走れば余裕で成功する。
「下山ダッシュ」は、下山村駅から5つ先の伊那上郷駅までの間、直線距離約2㎞を走る。高低差70mの上り勾配で、途中迷い易い箇所がある等難易度は高い。一方電車はその間6.9kmに鼎、切石、飯田、桜町と停車するが、飯田駅での停車時間の長い電車でないと難しいようである。どちらの「ダッシュ」も足に自信のある方は挑戦されては如何だろうか。
〔大船渡線〕
「ゆりかもめ」のことを「大船渡線」と呼ぶ人がいる。お台場地区の観光、商業施設を迂回するため急カーブの連続である。「大船渡線」との決定的に違いは政治路線でないこと。私自身、電話で会社までの道順を聞かれた時、思わず「新橋で大船渡線に乗換えて」と言ってしまった。
〔お台場地区の特徴〕
お台場地区は観光、商業施設の他、オフィスビル、高層マンション、イベント会場等が混在しているため、朝夕のラッシュ時には、オフィスビルへの通勤客、逆に都心への通勤・通学客、昼間は観光客、買物客で終日に亘り乗客が多い。東京ビックサイトでの大規模イベント時は超満員になる。単年度決算では黒字であるが累積赤字を解消するまでには至っていない。
【沿線風景】
電鉄の節電
先日来、関西電力が鉄道各社に節電を要請している事が報道されている。お得意先であり、株主である先に要請をしているが、政府がお触れを出した東京電力の場合と異なり、少し遠慮がちであるように見受けられる。15%の時は戸惑い、5%なら何とかなるとも報じられた。今朝の新聞では10%となった。さて、【13585】で須磨の大人が28年前、カナダ・エドモントン市に長期出張した話を披露してくれた。老人もその頃(1980年1月)、ドイツ・フランクフルト等に業界視察と交流と言う名目で10日間出張したことを思い出した。彼が出張先で、自動車から電車撮影したことを知り敬服している。あの電車はドイツ製で、今や世界で話題となっているLRT のLRV、その”さきがけ”となったものである。彼が28年前に撮影した連接車は、1968年に試作車が出現した。車体はデュワーグ社の製造によるもので、形式はU2、1単位の車体長は23m(連結面間は約24.8m)、巾2.65m、自重29.5t、座席定員64人、出力150kw×2となっている。
老人はフランクフルト4日目に自由行動が許され、吉谷先輩から聞かされていた路下電車探訪をする事にした。前日、市内地図を中央駅の書店で仕入れ、ホテルマンに地下鉄の乗り場を地図にマークしてもらったら、中央駅地下から北の方向目がけてのルートがそうであった。西駅を出てしばらくすると地上に出て国鉄線と合流し専用軌道となった。住宅街の一部は併用軌道、そのうち地下に潜り終点。地上に出てみると市の中心部であった。この時乗ったのがU2であった。真っ赤をベースに腰部をアイボリ-とした、派手な外部塗色はとても印象的であった。そして街並み拝見を始めたのだが、ゲーテ大学近くの交差点でU2が1単位で停車しているのを見つけバカチョンで撮った。今回探して見たけれどもフィルムは出てきたが、写真は見付からない。そこで1990年5月、サンディエゴでのU2をお目にかける。赤1色である。南へはメキシコ国境へ向うが、市街地を外れると貨物線を利用したところもあった。後に東へ延びたルートには行っていないが、大陸横断鉄道の最南端ルートになっているとかで、今もDL牽引の貨物列車との併用区間が随所にあるとか……。U2が登場した頃はまだ超低床車、ステップレスなんて話題になっていなかった。
ここで本題。U2形は2車体連接車で非貫通両運型である。閑散時は1単位でも走れる。今回、関電に節電を要請された電鉄各社は、最も電気を消費するのは列車運行に関わる鉄道部門であろう。間引き運転、ダイヤ変更、減車と、いろんな方法が考えられているが結論はまだのようだ。阪急京阪線の昼間時、「空気を運ぶ車内に見慣れている」老人は、8両固定編成で本線上を走っている普通や準急は果たして減車出来るのかと、ピクトリアル誌の「阪急特集号」を取り出してみた。神宝線共に、以外に生きている運転台付の中間車があることが分った。南海も大丈夫。近鉄は増結用の2連が多い。深刻なのは京阪と阪神だ。京阪は輸送力大増強時代、2600系を除き7、8連固定に編成替えをした結果、中間運転台を客室に改造してしまった。阪神も同様で、大阪なんば線用の1000系が登場する迄は、武庫川線用を除き4、6両編成しかなかった。山陽も神戸電鉄も然り。となると減車可能は阪急、近鉄、南海ぐらいのもので、他は相変わらず「空気を運ぶ」電車が残るようだ。JRは?
ドイツでは地下線でも運転される車両は、貫通式であることが義務付けられていないようだ。そこでU2はラッシュ時3単位で地下線運用されている。路下のため急カーブもある。連結部は長いリーチを生かし急カーブにも対応している。とてもじゃないけれど貫通幌など装備できない。でもこれが効を奏して、簡単に増解結可能となり、効率良い運用が可能となる。節電電車の一つであろう。話題がこじつけとなり申し訳ない。
とっておきの写真
28年前のエドモントン その2
連日日中(緯度が高いから3時から夜10時ごろまで明るい)は調査に走り回り、夜は夜で延々と喧嘩腰の議論(皆過労と睡眠不足で気が立っている)が重なって雰囲気ギスギス・チームワーク良好ならず。これではいかん、休息も必要と、2交代で32時間ずつの息抜きを提案し、満場一致で可決。半数ずつ、日をずらし正午以降エドモントンを出発し、翌日20時までに帰って来て会議に参加せよ、という次第。
第1班5人は2台のレンタカーに分乗し、国道2号線を一路南へカルガリー目指す。特段に広い片側3車線のモーターウェイだが、中央の分離帯?の幅が100mぐらいあり、のんびり牛が草を食んでいる。カルガリーまで約250km、3時間程だが、一直線に半時間以上走っても、景色は殆ど変わらない。
速度は遅い貨物列車 機関車は総括制御で車掌も前頭機関車に乗っている
並行してカナダ国鉄の線路があるのに、タダでもらった50万1道路地図には記載がない。これは後年ヨーロッパでも同じ体験をした。幸いデイゼル機関車3重連の貨物列車とすれ違ったが、話には聞いていた列車の速度は遅い。貨車はタンカーばかりで、そう長くもなかったが、この時点ではまだコンテナーはまだ普及していなかった。現在なら長いコンテナー列車が走っていることだろう。
このときはかなり遅くバンフーに到着し、バンフー・スプリングスホテルに投宿。超有名だが、全木造の、ドラキュラかお化けが出ても不思議のない古い古い、ミシミシする大きな建物で、カナディアン・ロッキー観光客誘致のため、鉄道会社が開設したものである。扉も蹴破れそうな代物で、宿泊料だけが実に立派であった。
因みに予約は応援に来ていたシアトル駐在員が電話でしてくれたが、その際身分保障にクレジットカードの番号を要求され、唯一所持していた駐在員(彼は泊まらないが)の番号を申告してOK。この当時すでに米国圏では個人小切手からカードの時代になっていたわけで、日本は約20年遅れている。
バンフーの町で遅い夕食をとったが、同行者1名の「たっての希望」で日本人経営レストランへ。ところがメニュー記載価格が日本語と英語とでかなりの格差があるではないか。日本人は値段に頓着なく、涙を流して日本食を食うからだというが、経営者の根性が心底情けない。
時間を惜しみ、高い宿泊料は勿体無いが早朝から出立し、睡眠不足のままカナディアン・ロッキーの早駆けツアーに。ジャスパーを経て、何とか全走行350km以上、刻限までにエドモントンの安ホテルに戻った。生れて初めて氷河も実体験したが、現実はそう綺麗な「富士の白雪」でもなく、案外汚れているものと得心した。これははるか後年見た北欧でも同じだった。
巨大な職用車(だろう) こんなサイドキューポラーで何ほどの視野が確保できるのか
エドモントン駅構内
これも巨大で重い手荷物車 魚腹台枠で恐らく床にはコンクリートが敷いてあるはず
そのほか寸暇を盗んで、本来用事のないエドモントン駅も秘かにひと覗き。巨大な客車が僅かにいた。3軸台車が放り出してあり、ギヤボックスがついている。気動車の駆動軸(古い3軸ボギー客車にエンジンを搭載した例がある)にしてはやたら脆弱だと思ったが、これは車軸発電機だった。サンパチ豪雪の際、ベルト駆動の車軸発電機が凍結して充電できず、バッテリーが消耗して電気が消えた経験があるが、やはり豪雪地帯では、それなりの設備がなされていることを痛感する。
話は前後する(要は小生の興味の順である)が、エドモントン市ではEdomonton Transit と称する、2車体3台車の高床式トラムが一部開通したばかりで、メイン競技場へのアクセスであり、バス同様関係者はIDカードがあれば無料で乗れる。北国だから冷房はなく窓は嵌め殺し、上部のみ内側に少し開く。これを3編成つないで運行していたが、大会が終われば恐らく2両か4両になるのだろう。
お待たせしました!秋保電鉄
旅は道連れ世はクルマ
若い頃は一人旅がほとんどで、須磨の大人と淡路島に渡った事など稀有の事だった。社会人となり、DRFC仲間と「鉄旅行」をする機会があった。1977年1月に津軽鉄道、南部縦貫鉄道を訪ねた時は斜陽館に泊り、ストーブ列車運休の腹いせは芦野公園での雪合戦となった。こうした旅は「鉄」が欠けても後世に語り継がれるものとなっている。
今回の主役は「ぶんしゅう」氏で、老人は突然「先日の企画乗った」と言って、道連れにして欲しいと頼んだ。あつかましくも3ケ所に行きたいと注文をつけた。①琴電仏生山車庫の「松下さん」に一枚の写真を届けたい。②高架駅となった高知駅が見たい。③善通寺の姉夫婦と会いたい。いずれも1954年8月(高1)の一人旅に関係することであり、そして琴電、琴参、土電、伊予鉄の車庫めぐりが始まった。伊予鉄は先に須磨の大人の写真で車両説明をしたので、今後触れない。残る3線、琴参は富山勤務時代の1963(三八豪雪)年9月15日が最終日となった。その翌年秋に高知出張のおり早朝に善通寺で下車し車庫へ赴き、留置車1両毎に別れを告げた。この話は「関西の鉄道」で紹介したが、いずれ琴参の思い出話は書き残しておこうと思う。
さて今回の注文①だが、2005年秋に高知へ行った帰途に仏生山車庫に立ち寄った。検車庫(西側)内に120号車が整備を終え留置されていた。最初の四国行は京都21時発、夜行普通列車四国連絡宇野行きで早朝高松駅に到着した。仮駅であった高松桟橋駅で車庫の所在駅を聞き出し、ひとまず瓦町駅待合室で仮眠をしている。目覚めて構内で志度線、長尾線、留置線で車両撮影の後、仏生山車庫に行った。車庫長さんに車両のあらましを聞き、最初に撮ったのが120号。陽は西に回り足回りもバッチリで、老人お気に入りの1景である。この時の話を「松下さん」にしたところ、くしくも検車庫内にあった120号を庫外に、それも撮影した位置に異動してもらった。そのお礼に半世紀前の姿をプリントして持って来ると約束をした。2007年GWに行く筈が果せず、晩秋に体調不良となり一人旅にドクターストップがかかった。それが今回、ぶんしゅう氏に道連れとしていただき実現したのである。また松下さんから120号が動態保存対象車になっている事も伺っていた。
次いで②、TMS38号を今も所持している方、池田さんの四国めぐりの稿をご一読いただきたい。四国山脈越えの土讃線では蒸気機関車のトンネル内煙害防止のため後押し運転しており、そのため先頭車となるオハフ61はタイフォンを装備している、との話が出てくる。老人はこれに興味をもち、善通寺から早朝1番列車で高知に向った。途中C58が後部に回ることなしで高知着となり、機関士に質問してみた。「前年、土佐山田→新改間でやっていたが、重油併焼装置をつけることで中止になった。」との答が返ってきた。何度も降り立った高知駅が高架化されると聞き、「土電(とでんではなくとさでんと発音する)の乗降場を引き入れエスカレーターでホームと直結する。」との情報がもたらされた。ホンマかいな?と思っていたら、憶測によるものだと土電の方に知らされた。でも2005年は未だ躯体工事中の真っ盛りで全体像が掴めなかった。それを今回、土電乗降場と天井の高いコンコースを見届けて高知駅見学は終わった。1954年8月の駅前には都電スタイルの205号(蛍橋行)が停車していた。後部に控えている7型は蛍橋行の後を追い桟橋行となる。
そして③、琴参54号は1927年製の路面電車スタイルだが、床高1,000粍の高床車である。扉を開けると3段ステップで客室床面となる。車輪径は858粍、50馬力×2、自重17.5屯。路面区間はシリーズ運転。郊外に出て専用軌道になるとパラレル運転となり、轟音と共に疾走していた。
今回ぶんしゅう氏は、おしゃべりを道連れにしてへきへきしていたに違いない。その昔、老人を道連れにした旦那は「何でも良いから喋ってくれ、横で居眠りされたら今畜生!となる。」と言っていた。世はクルマ時代、有料高速道路1,000円の恩恵に浴し、燃料費込みで5日間1人当たり11,281円の交通費となった。これではクルマ族は鉄道離れして、利用者が減少する筈だ。
28年前のエドモントン
Baldwin1919年製107号 1C1 元Oakdale & Gulf R.R.
先般クアラルンプール(マレーシア)の、それも37年も前の写真を並べ立て、多分に諸兄の顰蹙を買ったばかりだが、それに懲りずめげず、今度は28年前のエドモントンでの写真を無理やりご覧頂く。エドモントンと聞いてすぐ位置が分る人は少なかろう。カナダには10の州と3の準州があり、総人口は3,300万人程度。
ところがアルバータ州には108万人のカルガリー、104万人のエドモントンの2大都市がある。前者はカナディアン・ロッキー観光=バンフーへの入り口やスキー等で世界的に著名だが、州都はその約300km北のエドモントンで、日本領事館もある。後年ウエスト・エドモントンなる、世界最大のショッピング・モールが出現したが、観光地とはいえない。ただしカナダ北限の大都市ではある。
時は1983年6月、カナダでは最高の季節(のはず)だったが、少し寒い日もあり、若者が上半身裸で走り回ったり、日光浴の一方、結構ぶ厚い防寒衣の老人や、中には毛皮を着た婆さまもいた。広大な町を斜めにノース・サスカチワン河が蛇行しながら横切り、その部分は深い峡谷状を呈し、両岸は超高級住宅地で、日本領事公邸もそこにあった。
小生ともう1人が先遣隊で半月早く現地入りし、ホテルや車、日本人居住者のボランティア通訳を確保。後から来る本隊=2年後神戸で開催するユニバーシアード神戸大会のための、エドモントン大会調査団(事務局及び各競技団体役員)の受け入れと運営に当った。
その間ほぼ睡眠も3~5時間程度。若かったから何とか保ったが、安ホテルに1か月滞在しながら、町の見物をする暇すらなかった。それでも3時間ほど寸暇を盗み、当時開園間もないフォート・エドモントン・パークにだけは行くことができた。
ノース・サスカチワン河に面した広大な地に、1846、1885、1905、1920年の開拓砦や町並みを復元した、素朴で健全、結構見ごたえのあるテーマ・パークで、エンドレスの線路を敷き、本物の蒸気機関車や馬車が園内の交通を担っている。確か当時は週末だけだったかと記憶するが、現在は夏場が毎日、冬場は週末のみ開園のはず。売店の売り子に至るまで、ことごとくボランティアだと聞いたが、皆それなりの時代にふさわしい衣装であったのも印象深い。
入園するとすぐ蒸機列車に乗り園内に向かう 乗車は入園料に含まれる
キャブ略号はEdomonton Yukon & Pacific 蒸機に限らずすべてボランティアによる運営
手前の建物代わりのカブースは旧カナダ国鉄
コンビネーションコーチは1913年 デイコーチは1914年製
園内交通の駅馬車や荷馬車も無料で乗れる
公園全体がまだまだ建設途上だったが、驚いたことにトラムラインが敷設中で、架線も一部張られていた。その後Edomonton Radial Ry. の路面電車が数両復元されて走行していると聞く。現在では公園外でも、ノース・サスカチワン河にかかる高い鉄橋を含めた線路に世界中から大量のトラムが集められて動態保存。阪堺電車も健在のはずで、このあたりは電車屋さんの解説が欲しい。
CRH380Aに乗って、中国版新幹線の旅 募集!
上海~北京間の中国新幹線開業がもうすぐですが、期待された380km/h走行が300km/hに抑えられました。そこで、現在350km/hオーバーで走行しています上海~杭州間の新幹線乗車を体験するツアーを企画しました。
①予定日;6月13日~19日、または19日~22日の間、3泊4日予定です。
②訪問地;上海鉄道博物館、中国鉄路発祥路線に展示している建設型見学、上海~杭州・南京の乗車。上海の路面電車乗車。
③費用;旅行社のフリープランツアーを利用します。全費用は、約8万円前後の見込みですが、安く出来るように努力します。
既に参加者は、OB3名となっています。この機会に中国の新幹線に乗車体験を希望されます方は、コメントに応募してください。追って、ご連絡をさせていただきます。
KTM原寸大画像です。
37年前のマレーシア鉄道
ムーア風のクアラルンプール中央駅
改札口と言いたいがフリーパス 左のトルコ帽は駅員らしい
RG50氏のマレーシア便り。余命を勘定しだした老人も、最初の海外体験でマレーシアに出張したことがある。指折り数えると、37年前だった。老人がまだ30代後半の元気な時である。仕事はクアラルンプールで開催される見本市へのアテンドと、その2年後事務局の当番が回ってくるので、その会場の選択―具体的には開催地をクアラルンプールにするか、シンガポールにするかの見極めであった。
約1か月の出張だったが、その内往路に台北、バンコック、途中にシンガポール、帰路に香港と、各2泊づつしたので、クアラルンプールには25泊ぐらいした。それも2週間の入国許可しか得られなかったので、途中一旦シンガポールに出国し、マレーシアに再入国(そんなこともあろうかと、ダブルビザを取得していた)。その間ブキット・ビンタン通りのフェデラルホテルに連泊した。
本来の見本市は夕刻から夜遅くまで開催だから、昼間はかなり余裕があるのだが、京阪神と堺の4市グループでの参加(総合事務局はジェトロ)なので、そう勝手な行動もできない。それでもクアラルンプール駅には行った。ムーア風の建物が特色だが、列車は少なく、蒸機は勿論全廃。日本製のステンレス車体気動車が幅を利かしていた。
待合室に妙な灰皿が何本もあり、これが蒸機の煙突を再利用したものだった。
シンガポールからマレーシア、タイにつながる鉄道(ミャンマーもだが)はメーターゲージで、連結器はドロップフック式だが、ディーゼルカーは自連である。
ステンレス車体のディーゼルカー
これは客車である インド(行ったことはないが)と同様幕板が広いのは熱さ対策
貨物列車の本数は少ない バックはかつて錫を露天掘りしていた跡
保存蒸機 連結器は英国植民地に多いドロップフック式
それから何十年か。我が家の実力者(ヨメ様)と、キャメロンハイランドからの帰路、クアラルンプールに立ち寄ったことがある。話には聞いていており、シンガポールも然りだが、この都市の発展は凄いもので、超高層ビルやらタワーやら。新交通顔負けの高架トラムやら。老人が過ごした1974年との落差は凄い。ビンタン通りにフェデラルホテルを探したら、高層ホテルの谷間にあるにはあった。かつて屋上に回転レストランがあった―その付近でズバ抜けて高い建物だったのだが。
かつてのクアラルンプール中央駅は放棄され、廃墟と化して、近くに新駅が出来ていた。中心街の広大な芝生広場はそのままだったが、地下がやはり広大な駐車場とレストランが。世の中は三日見ぬ間の桜かな。上海(も行ったことがないが)はもっとすごいんだろうな。
米手作市氏にしがみつく
5年前の今頃、姪の結婚式が成田であり、そのついでに銚子電鉄に47年ぶりに立ち寄り、濡れせんべいを乙訓へ送る手配をしたこと、投稿した。その折に銚電・笠上黒生駅上りホーム側線でデハ101号見つけたと記したように思う。その時の姿を今回紹介しよう。この101号についてはDRFC時代から関心を抱いていた。奧野利夫師匠に特異な構造した台車をつけている電車だ、と聞かされていた。同型台車が花巻電鉄にあることも奧野師匠に教えられた。その花巻電鉄を訪れたのは1959年9月20日と当時の手帳には記されてある。
この日、老人は盛岡から夜行で石越着、栗原電鉄・若柳町にある車庫へ出向き在籍車両調査をさせてもらった。その後、石越を12時20分発117レ青森行普通で花巻に14時49分着であった。到着するや線路をまたいで花巻電鉄の線路にまっしぐら、15時7分発鉛温泉行をとらえるためであった。馬面電車と思いきや、不細工な芋電車(鉄デハ2+サハ3)が出てきたのにはがっかりであった。でも台車は特異な構造のものであることが確認出来て満足であった。こうなれば乗りたい。
車庫で在籍車両など教えてもらい、次の16時発は馬面電車(軌デハ4)単行で、志度平温泉までとのことだったが、委細かまわず乗ることにした。車体幅1,600ミリは車内幅となると1400ミリ程度しかない。座席の奥行きは300ミリ程度だったが、それでも車掌はキップを売りに来た。乗り心地は押して知るべしゴツゴツしたものであった。なぜなら揺れ枕バネがない。これが特異な構造、揺れ枕ナシのボギー台車なのだ。だがその台車を丸裸では見たことがない。それが笠上黒生駅の側線にあるボロボロ姿の101号に装着されていたのだ。
木立の蔭に隠れるように留置されているデハ101号。時が時なら、国が国ならスクラップとなりその生涯を終えていたかもしれないが、この国では朝鮮事変後のように「テーツ、買いまっせぇー」と、自転車でリヤカー引いた鉢巻姿のオッサンは今では現れない。なんとしても台車枠内に首を突っ込んで揺れ枕の有無を、姿を、無いならその代わりになるものを確かめたい。だが諦めた。蜂の巣が台枠にあるのに気付いたからである。家蜂がいる。結婚式に顔を腫らしていくわけに行かない。仕方なく離れて撮るよりしかたが無い。そこで撮れたのが今回の1枚。以来、特異な構造のボギー台車、花巻で乗ることは出来たが肝心な箇所を見ることなく「お迎えの来る日」を待つばかりかと思いきや、哲男さんのお陰で写真で知ることが出来た。でも上からの撮影でないので今ひとつ良く分らない。東武鉄道の門を叩かねばならないのか、その時は哲男さんにエスコートしてもらおう。
さて、揚げ足取るつもりは無いが、花巻電鉄の始発駅は花巻市の都心に当る中央花巻駅で、元岩手軽便鉄道の始発駅でもあった。軽便が改軌するまでは「遠野物語」の出発点を共有したことになるが、軽便の方が先輩である。その後、観光で中央花巻駅跡の近くに行ったことがあるが、往時は花巻市の南西端に位置する場所のように見受けた。家並みの中を西に向かい、国鉄線を越えたところが西花巻。したがってここが創業時の中心で車庫も設けられていた。鉄道線として花巻温泉に向け西北方向に延長されるに従い国鉄駅西側に「花巻駅」が設置され、1931年の車庫火災をきっかけに「花巻」に車庫は移転されたと聞く。1965年7月、東北本線電化工事に合わせ西花巻~中央花巻間は廃止となった。
米手作市さんが身を「しばらく隠すぞよ。その間クローバー会のこと、しっかりたのむぞ!」と仰せられてから間もなく1週間となる。直ぐに乗られずであったが、電車に関係ない方面で2010年のことがまとめられ、デッキにしがみつく行為が可能になった。そして昨日買った鉄道ピクトリアル8月号、なんと我々の仲間になって頂いた「河 昭一郎さん」の玉稿のスタートだ! 内容は先ず手にしてのお楽しみ。売り切れぬうちに本屋へダッシュしよう。