湯口先輩が4月19日に投稿された「【13023】和歌山鉄道クハ803」の米手作市様の質問に対する回答の中で「同型車が2両存在し、その内の1両が和歌山鉄道のクハ801となり、もう1両は小湊鉄道のジハ50からハフ50となり生涯を終えた」と解説されておられる。口之津鉄道のキャンセル品を手直しの上、新車として芸備鉄道に売り込んだ話は初めてお聞きして改めて「事実は小説より奇なり」と思った。
小湊鉄道時代の写真は「内燃動車発達史上巻」のP91に湯口先輩が撮影されたハフ50の鮮明な写真が掲載されているのでお持ちの方はご覧いただきたい。
現車は昭和37年3月に廃車されたが、昭和45年3月に訪れた時、車庫の中に昭和36年3月に廃車されたハフ10と共に残っていた。小湊鉄道は廃車しても直ぐには解体しないようで、平成9年3月に廃車となった元三信鉄道買収国電改造のキハ5800が残っている。佐久間レールパークの跡地を整備して、近江鉄道、岳南鉄道、遠州鉄道に残る飯田線所縁の電気機関車と共に保存できないものかと思う。
余談になるが滋賀交通のバスもかつては廃車後直ぐに解体せずに社有地に留置され、寺庄の元本社には戦前製のバスが長い間放置されていた。さすがに今は無いと思うが、最近まで残っていれば福山の「時計と自動車博物館」で復元されていたかもしれない。
小湊鉄道ハフ50 五井(45-3-20)/廃車8年後も残っていた。
ハフ10 五井(45-3-20)/こちらは廃車9年後/昭和5年松井車輌製
【参考】キハ5801(隣がキハ5800)五井(45-3-20)/元三信電鉄デ302→国鉄クハ5801
4月27日に投稿された「【13096】奈良電クハボ601など」は、戦後の混乱期が収まった頃の貴重な画像で、C51100もさることながらオハ70の現役時代、片町線キハ41500等は、よく撮影されたものと思う次第である。撮影された車両の昭和40年代の画像を電車を中心に並べてみた。
3番目のスロハ32は、京都周辺では昭和39年10月のダイヤ改正まで山陰線の811レ(京都9時38分発門司行)に連結されていた。昭和39年から台枠流用でオハネ17の改造種車になるものが出現し、残りも昭和40年格下げでスハ50となった。
スロハ3247 京都 (39-7-26)/昭和40年8月30日付でオハネ172241に改造
スハ502104 仙台 (40-3-22)/元スロハ3252→昭和34年電暖取付スロハ322052→昭和40年3月20日格下)仙山線使用
4番目の近鉄伊賀線のモ5252は湯口先輩の解説の通り元信貴山急行電鉄の車両で昭和5年日本車両製である。同電鉄が戦時中不要不急路線として昭和19年に廃止され、当初南大阪線で使用されていたが昭和21年に伊賀線に転属した。3両新製されたが1両は事故で廃車となり2両が近鉄に引継がれた。湯口先輩が撮影された時点は原形のままであったが後に台車をTR10に取替えた。昭和49年4月8日に訪れた時は、モ5251は元伊勢電のモニ6202と、モ5252は元伊賀鉄道のモニ5184と編成を組んでいた。
これも全くの余談であるが昭和40年代に慶応鉄研さんが誠文堂新光社より発刊された「私鉄ガイドブックシリーズ」の「近鉄」編のモニ6201の解説で「ク5360以外と連結されない」と書かれているにもかかわらず、後ろに連結されているのがモニ6202と思われる車両で思わず苦笑した記憶がある。
9番目の電動貨車は、大正11年藤永田造船所製で5両作られ、後の改番でモト51~55となった。画像の951はモト51に改番され、後にクレーンが取り付けられた。全車昭和44年9月の昇圧まで在籍した。
【参考】モト71 新田辺 (42-10-21)/元奈良電デトボ361(昭和25年近畿車輛製)
10番目の600形4連の急行は、新生駒トンネルが開通するまでは奈良線の主力として、普通から急行まで幅広く活躍していた。800、820形で運行されていた特急の代走でも見たことがある。その後は舞台を京都線、橿原線に移し、1500V昇圧時も全車改造された。
モ625他4連奈良行臨時急行 布施 (39-5-12)/当時急行は鶴橋~石切間ノンストップで布施は通過したが、臨時急行は特急待避のため停車した。
モ608他4連 上鳥羽口~竹田 (44-7-19)/2両目は鋼体化改造車のサ300が連結されている。
次のデハポ1000形は奈良電を代表する車両で、昼間の普通は湯口先輩の画像のように単行で沿線の人から「カラ電」と呼ばれる程乗客が少なかった。昭和40年代になると沿線人口の増加によりラッシュ時に4連の急行が出現し、4基のパンタを上げて走る姿は壮観であった。1500V昇圧時に荷電に改造されたデハボ1016→モ445→モワ61(昭和46年の改番モワ87)以外は全車廃車となった。
モワ87 平端 (49-6-16)/車体にはあまり手が加えられなかったためよく原形を保っていた。
最後の片町線のキハ41500は、非電化区間の写真自体珍しく非常に貴重である。私が知っているのはキハ10、キハ20の頃で、当時(昭和45年頃)の片町線の昼間のダイヤ長尾行と四条畷行が各40分間隔、従って片町~四条畷間20分間隔。長尾行は1本おきに木津行に連絡して長尾~木津間は1時間20分間隔であった。長尾は大阪府、次の大住は京都府で、府境を越えての地域間交流は少なく閑散としていた。
長尾駅に進入するキハ20473 (42-12-10)/架線はホームの直ぐ先で切れている。
長尾駅に停車中の片町行/先頭はクモハ73149以下クモハ41×2+クモハ31+クハ79と続くオール運転台付4M1Tの5両編成。ホームは2面2線で駅舎側の1番線を電車、2番線を気動車が使用していた。四条畷~長尾間の電化は昭和25年12月25日と非常に覚え易い日で、今考えると「先見の明」があったと言えるかも知れないが、当時の輸送量を考慮すると、大物政治家か絡む「政治電化」であったらしい。