「和歌山鉄道クハ803など」他を拝読して

湯口先輩が4月19日に投稿された「【13023】和歌山鉄道クハ803」の米手作市様の質問に対する回答の中で「同型車が2両存在し、その内の1両が和歌山鉄道のクハ801となり、もう1両は小湊鉄道のジハ50からハフ50となり生涯を終えた」と解説されておられる。口之津鉄道のキャンセル品を手直しの上、新車として芸備鉄道に売り込んだ話は初めてお聞きして改めて「事実は小説より奇なり」と思った。
小湊鉄道時代の写真は「内燃動車発達史上巻」のP91に湯口先輩が撮影されたハフ50の鮮明な写真が掲載されているのでお持ちの方はご覧いただきたい。
現車は昭和37年3月に廃車されたが、昭和45年3月に訪れた時、車庫の中に昭和36年3月に廃車されたハフ10と共に残っていた。小湊鉄道は廃車しても直ぐには解体しないようで、平成9年3月に廃車となった元三信鉄道買収国電改造のキハ5800が残っている。佐久間レールパークの跡地を整備して、近江鉄道、岳南鉄道、遠州鉄道に残る飯田線所縁の電気機関車と共に保存できないものかと思う。
余談になるが滋賀交通のバスもかつては廃車後直ぐに解体せずに社有地に留置され、寺庄の元本社には戦前製のバスが長い間放置されていた。さすがに今は無いと思うが、最近まで残っていれば福山の「時計と自動車博物館」で復元されていたかもしれない。

 
小湊鉄道ハフ50 五井
(45-3-20)/廃車8年後も残っていた。

 
ハフ10 五井
(45-3-20)/こちらは廃車9年後/昭和5年松井車輌製

 
【参考】キハ5801(隣がキハ5800)五井
(45-3-20)/元三信電鉄デ302→国鉄クハ5801

4月27日に投稿された「【13096】奈良電クハボ601など」は、戦後の混乱期が収まった頃の貴重な画像で、C51100もさることながらオハ70の現役時代、片町線キハ41500等は、よく撮影されたものと思う次第である。撮影された車両の昭和40年代の画像を電車を中心に並べてみた。

3番目のスロハ32は、京都周辺では昭和39年10月のダイヤ改正まで山陰線の811レ(京都9時38分発門司行)に連結されていた。昭和39年から台枠流用でオハネ17の改造種車になるものが出現し、残りも昭和40年格下げでスハ50となった。

 
スロハ3247 京都
(39-7-26)/昭和40年8月30日付でオハネ172241に改造

 
スハ502104 仙台
(40-3-22)/元スロハ3252→昭和34年電暖取付スロハ322052→昭和40年3月20日格下)仙山線使用

4番目の近鉄伊賀線のモ5252は湯口先輩の解説の通り元信貴山急行電鉄の車両で昭和5年日本車両製である。同電鉄が戦時中不要不急路線として昭和19年に廃止され、当初南大阪線で使用されていたが昭和21年に伊賀線に転属した。3両新製されたが1両は事故で廃車となり2両が近鉄に引継がれた。湯口先輩が撮影された時点は原形のままであったが後に台車をTR10に取替えた。昭和49年4月8日に訪れた時は、モ5251は元伊勢電のモニ6202と、モ5252は元伊賀鉄道のモニ5184と編成を組んでいた。
これも全くの余談であるが昭和40年代に慶応鉄研さんが誠文堂新光社より発刊された「私鉄ガイドブックシリーズ」の「近鉄」編のモニ6201の解説で「ク5360以外と連結されない」と書かれているにもかかわらず、後ろに連結されているのがモニ6202と思われる車両で思わず苦笑した記憶がある。

 
モ5251+モニ6202 上野市
(49-4-8)

 


モ5252+モニ5184 上野市
(49-4-8)

9番目の電動貨車は、大正11年藤永田造船所製で5両作られ、後の改番でモト51~55となった。画像の951はモト51に改番され、後にクレーンが取り付けられた。全車昭和44年9月の昇圧まで在籍した。

 


上 モト51 下 モト54 西大寺
(42-10-21)

 
【参考】モト71 新田辺 
(42-10-21)/元奈良電デトボ361(昭和25年近畿車輛製)

10番目の600形4連の急行は、新生駒トンネルが開通するまでは奈良線の主力として、普通から急行まで幅広く活躍していた。800、820形で運行されていた特急の代走でも見たことがある。その後は舞台を京都線、橿原線に移し、1500V昇圧時も全車改造された。

 
モ625他4連奈良行臨時急行 布施
(39-5-12)/当時急行は鶴橋~石切間ノンストップで布施は通過したが、臨時急行は特急待避のため停車した。

 
モ608他4連 上鳥羽口~竹田 
(44-7-19)/2両目は鋼体化改造車のサ300が連結されている。

次のデハポ1000形は奈良電を代表する車両で、昼間の普通は湯口先輩の画像のように単行で沿線の人から「カラ電」と呼ばれる程乗客が少なかった。昭和40年代になると沿線人口の増加によりラッシュ時に4連の急行が出現し、4基のパンタを上げて走る姿は壮観であった。1500V昇圧時に荷電に改造されたデハボ1016→モ445→モワ61(昭和46年の改番モワ87)以外は全車廃車となった。

 
モ433他4連 上鳥羽口~竹田 
(44-7-22)

 
モワ87 平端 
(49-6-16)/車体にはあまり手が加えられなかったためよく原形を保っていた。

最後の片町線のキハ41500は、非電化区間の写真自体珍しく非常に貴重である。私が知っているのはキハ10、キハ20の頃で、当時(昭和45年頃)の片町線の昼間のダイヤ長尾行と四条畷行が各40分間隔、従って片町~四条畷間20分間隔。長尾行は1本おきに木津行に連絡して長尾~木津間は1時間20分間隔であった。長尾は大阪府、次の大住は京都府で、府境を越えての地域間交流は少なく閑散としていた。

 


長尾駅に進入するキハ20473
(42-12-10)/架線はホームの直ぐ先で切れている。

 
長尾駅に停車中の片町行/先頭はクモハ73149以下クモハ41×2+クモハ31+クハ79と続くオール運転台付4M1Tの5両編成。ホームは2面2線で駅舎側の1番線を電車、2番線を気動車が使用していた。四条畷~長尾間の電化は昭和25年12月25日と非常に覚え易い日で、今考えると「先見の明」があったと言えるかも知れないが、当時の輸送量を考慮すると、大物政治家か絡む「政治電化」であったらしい。

 
長尾駅/大都市近郊のターミナル駅とはとても思えない。

能勢電51号 最後の日々

米手作市先輩が、能勢電の記事を投稿されていましたので、触発され投稿します。

昭和56年12月19日、氷雨のような雨の降る日を最後に、能勢電 川西能勢口~川西国鉄前間が廃止されました。

私は、当時、高校三年生。受験シーズンの一ヶ月前でしたが、居ても立っても居られず、親の目を盗んで、51号に別れを告げにいきました。最終日とあって、車内は、ラッシュ時並の大混雑でした。

その二ヶ月前の昭和56年10月23日朝が少し寒く感じられる秋晴れの日の朝。黙々と働く51号を撮りにいきました。通勤時間帯でしたが、人影もまばらでした。今考えると、当時でさえ、何ゆえ残っていたのか不思議なくらいの区間でした。当時は、51号が主に使用されており、ごくたまに61号が走ることがあったようですが、私は、51号しか撮影していません。最終日も51号でした。運転は、朝夕だけ昼間は川西能勢口駅の西の端に留置され、昼寝していました。

51型の背景に写っている大きな農業倉庫とケヤキの大木、グランドは、今では、マンションと阪急百貨店となり、往時の偲ぶのは、線路敷き利用した道路ぐらいでしょうか?

並走(その2)

準特急先輩から先日この掲示板で紹介されていた。NNコンビの片割れです。総会のときに「先日のデジ青の並走のやつ見ましたよ、私は近鉄のくらいしかないですね。」とお話しすると是非とも掲載せよ、とのお言葉でしたので仰せに従い掲載してみます。撮影したときは仕事がヒマだった頃で週に何回かカバンにカメラをしのばせ大阪近郊を徘徊しておりました。メインは吹田に午後立て続けに2本到着するEF65牽引の貨物列車でしたが何ヶ月も追いかけているとかなりの釜を撮影してしまい、合間に私鉄の撮影などもするようになりました。京阪・南海などを撮影し近鉄を撮影となったときに効率よく撮影できる場所はどこかいなと考えました、奈良線・大阪線の並走区間ならええやろと一番最初に頭に浮かんだ今里駅に行きましたが、ホームが狭く躊躇してしまい鶴橋駅に戻りましたがいまひとつ納得のいくアングルが得られず結局今里駅に舞い戻り撮影しました。当初、並走を撮影するつもりはなかったので個別に車輌を撮影していましたが1時間ほどしたときに何かのタイミングでカメラのフレームに4線の車輌がいっぺんに納まるチャンスが1度だけありました。そのときの写真がこちらです。最近は仕事が忙しくこのようなことはできなくなりましたが時々懐かしく思い出しています。こういうのを見ると何気ない記録が重要なんだと再認識してしまいます。
07.10近鉄大阪線今里-布施
               07.10近鉄大阪線今里-布施

江若鉄道三井寺下駅再現(その8)

クローバー会総会、懇親会での久方ぶりの鉄分補給のせいか、翌朝も早くから目が覚めて 午後の浜大津での打ち合わせまでの時間を有効に使おうと 朝食もそこそこに湖西線の電車に乗り込む。湖西線の景色を見るのは初めてである。山科からトンネルを出て大津市内を抜けてゆくが 高層ビルが立ち並ぶ風景に驚く。江若廃止から もう50年以上経っているのだから当然の変化なのでしょうが、50年間 時計が停まっていた身には軽いショックでした。高島市駅付近を散策後、近江今津まで足を伸ばし、往時を偲ぶ。また湖西の景色を楽しんで大津京まで引き返して下車。ここから線路跡を浜大津まで歩くことにする。皇子山総合運動公園と皇子山中学の間の道を進み 三井寺下駅跡に近づいてゆく。すると見覚えのある土蔵が目に飛び込んできた。廃車になった貨車などの留置線横にあった蔵に違いなく、興奮する。写真を撮っていると 通行人から不審の眼を向けられる。蔵は少し改修されてはいるものの くぐり戸のある塀も当時のままで よく50年も残っていてくれたと感激。このあとゆっくりと三井寺下跡、疏水の鉄橋など思い出を確かめながら浜大津に到着。浜大津ターミナルや湖岸の風景の変わり様に改めて過ぎし年月を感じる。沖中先輩、福田氏と合流し 秋の運転会の打ち合わせに臨む。「浜大津なつかしの写真展と鉄道模型走行会」は一応 10月29日から11月3日までの6日間の予定となった。いよいよ話が具体化し、後には引けない状況となり工事にもはずみがつく。三原に帰って やはりあの蔵のことが忘れられず、3連休を利用して再現してみました。

平成23年4月24日撮影

昭和43年5月17日撮影

平成23年5月2日復元

というようなわけでまた一つ三井寺下の再現がすすみましたが、三井寺下構内に隣接した民家群をこの調子で再現するのは容易ではなく(日本家屋は瓦屋根を含め、細工が面倒で大変)、今秋とは言わずゆっくりと気の向くままに再現してゆきます。秋の運転会に向けて クローバー会の皆様には何かとお世話になりますが、よろしくお願いします。

能勢電60型は京都市電514型の仲間?

今回は能勢電60型です。関三平先生の話を読めばなんだか市電の500型の電装品を使った514型と似ていますね。境遇が似ているせいか、絵で見ても形も似ているような気がします。

能勢電といえば藤本さんが頭に浮かびました。

心を一つにして

何気なく見ていたテレビ番組、1年かかるであろうと言われていた東北新幹線の復旧が50日でなり、青森から鹿児島がつながったことが報じられていた。このためには全国から3000人の鉄道マンが集められ不眠不休の工事に当たったと言う。英国の鉄道関係者はこんなこと欧州では考えられないと、つぶやいたとか。心ないアナウンサーは「アメリカでは2年かかる」だろうと言った。これはさておき、日本の鉄道技術はこれで世界でまたもや一段と株が上がるであろう。別の番組では地震を感知する装置が東京・青森間で60か所近く設置されており、先震を感知するや全線にわたり非常ブレーキが作動するシステムになっていると報じていた。これで中越大震災の時の様な脱線事故が防げたと言う。そして、阪神淡路大震災の時は土木構築物の損傷が大きく、復旧に日数を要したと言う。日進月歩の例え通り、新幹線の復旧は早くできたが、その動力源となる【電気】の問題で常磐線の復旧工事に着手出来ないのは片腹痛い。常磐線沿線には日本の基幹産業の担い手である生産工場が多い。今わかったことは環境問題、地球規模での資源問題の事を考えても、鉄道の果たす役割が大きいことであろう。JR貨物の存在を忘れてはならない。そして「第3セクター鉄道」とJR線の関係だ。レイルがつながっているのは極わずかではないか。国土交通省にレイルの幅が一緒なら「いざ」と言う時のためつないでおけ係を設置したらどうだろうか。そして米手作市さんが言っていたDL、これも何らかの方法で保有が必要だ。日頃は遊覧線で運転してはどうだろうか。日本はとあるメーカーさんの「ジャスト イン タイム」に、政治を始め何もかも流されてしまった結果が、震災後の日本の姿を露呈しているようにも思える。いま日本国民に求められるのは「心を一つ」にして、震災復興に立ち向うことであろう。我々が愛する鉄道の役割は大きい。邪魔しないように心がけよう。

年金たいくつ男の戯言

 今回の総会は雨にも負けず大盛況であった。新会長からは「学生時代の友人で今でも付き合いのあるのは1~2名だが、同好会のOBは別で、このような気の置けない仲間との交流は今後も続けていきたい」と、この様な趣旨のご挨拶があった。全く同感である。鉄道趣味は一人でもやっていけるし、また、そのようにやっている人も沢山おられると思うが、DRFC-OB会クローバー会に入って活動する方がより楽しいし、老後の人生に大変有意義であると感じているのは私だけではないと思う。今回は神奈川、千葉、静岡、愛知、富山、広島と遠方各地からも大勢参加され親しく歓談させていただいた。改めて当会の層の厚さを感じた次第である。東京から京都での会合は新幹線利用の日帰りで十分可能であるが、いつも日帰りでは勿体無く感じ、今回もその前後は好きな撮り鉄を楽しんだので報告させていただく。

2011.4.22 千代川~八木 5006M「きのさき6号」183-701と231M221系

 

総会前日は乙訓一派のK、F両氏と紀勢線からやってきた振り子電車の姿を求めて山陰線、福知山線を訪問した。昭和47年に廃線となった篠山線の線路跡を探しながら、篠山口到着の頃には豪雨となってしまった。幸いなことにK氏が車から撮影できるように気をつかってくれぐうたら撮影ができた。しかし、一向に雨の止む気配がないのでお孫さんの相手で多忙な乙訓の老人様をお呼びして中国料理による情報交換会を行った。私も当時の乙訓郡神足に凡そ2年住んでいたので準一派として参加させてもらった。

 

2011.4.23 梅小路蒸気機関車館のC612

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  総会当日は役員さんの粋なはからいで阪急6300系の「京とれいん」に乗車。嵯峨野のジオラマ見学(一部はトロッコ列車乗車)、梅小路蒸気機関車館見学を行った。梅小路は卒業以来始めての訪問である。当日の運転はハンサムボーイのC612で45年前の見にくい写真であるが併せてのせたみた。この日も終日雨で特に嵐山の渡月橋、丹波口駅→蒸気機関車館→京都タワーはまるで雨中の行軍であった。

2011.4.24 三田~道場 3006M 「こうのとり6号」183-705

 

総会終了時に若くて活動的なN・Nコンビから「明日中山寺7時に来いへんか」と声がかかる。えらい早い時間に何すんのやと躊躇したが、呼ばれるうちが華やなと思い行くことにした。目的はどうやら振り子電車の記録のようだ。総会翌日は雨こそ止んだが曇天で時折太陽が顔を出す程度。太陽がのぞいた時の183系を披露する。いずれにしても天気は今一であったが、楽しい総会および撮り鉄であった。皆さん御世話になり有り難うございました。報告が遅くなりお詫び申し上げます。

追伸:またも振り子電車と1965.9.3撮影の一ノ関~有壁のC612の144レの説明のところがうまくいかず見苦しくてこれまたお詫び致します。

奈良電クハボ601など

先日のDRFC総会時、小生投稿#12892(2011.4.7)の奈良電気鉄道クハボ601撮影日(1952年12月14日)は確かか、とのお尋ねを受けた。改造前の姿なので、番号ごとの改造時期を知るためだそうである。ネガは古いのが幸いし、フジでもビネガー・シンドローム発生のかなり前の製品だから、事なきを得ている。この日は山科-草津線-関西線-奈良線という、学割での一周で、撮影日に間違いないと確言しておく。

で、事のついでに当日のネガをスキャンする気になり、またまた諸兄のご高覧を強要する羽目に。各コマ全て、すさまじい傷やらスクラッチだが、これは当時写真屋で売っていた、35mm極安パトローネ入りフイルムだからである。太秦の映画会社のカメラマンが、撮影中中途半端に残ったフイルム(残尺という)をくすね、ボスカメラマンの管理下新米の助手が写真屋に売りに行き、酒盛りの原資とする。写真屋では、何度使いまわしたかも知れぬ古パトローネに詰め、小生のような、カネのない手合いが買って、ヒトコマずつ大事に撮影する、という連鎖である。

かなりはデジタル修正したが、遂に根が尽きた。一部は修正が至らないままの見苦しい写真だが、58年以上前の、まだ敗戦後の混乱を若干は引き摺っていた時代として、ご寛容ありたい。なお当時純正の富士35mmパトローネ入り(日中装填と称した)は340円で、FPとSPとの2種類があり、感度は32と64。コダックXXだと500円以上した。10円で国鉄が8kmまで乗れた時代―現在なら8kmは190円である。この非純正フイルムは150円だったかと記憶するが、高校生には大変な出費である。現像代はブローニーが30円、35mmが50円で、自分で現像しだしたのも、少しでも安く上げるためであった。


草津線列車C51100 何やら25%方「お召し」仕様の様な そうでないような

フイルム自体は当然未使用だが、それを詰めたパトローネのテレンプが何回もの使用で劣化し、遮光にやっと耐えていたのと、詰めたのも写真屋の新米丁稚である。なお映画用のフイルムはパーフォレーションの形状が、我々が使うスチル写真用と若干違うことは遥か後年に知った。


関西線でのスロハ

伊賀上野での近鉄伊賀線 旧信貴山急行電鉄の電動車+吉野鉄道の制御車

オハ70 奈良

入換中の6847 型式6760

この日の撮影は草津線のC51100に始まり、伊賀上野で近鉄伊賀線の旧信貴山急行の電車、奈良では型式6760や、狭い窓ガラスがさらに左右に二分され、敗戦後の雰囲気をたっぷり残しているオハ70を。また近鉄奈良線と関西線との立体交差地点で、先般ご覧頂いた奈良電クハボ601やら、近鉄奈良線電車を。保線用無蓋電車の左に学生帽をかぶった高校生が写っているが、彼が一緒に東京まで行ったのに、上野駅で意気阻喪して帰ってしまった、上京中学時代の親友H君で、彼は鴨沂高校、小生は朱雀高校であった。佐竹先輩と小生に久しぶりに会うため、一度サカタニでの写真展打ち上げに顔を出してくれたことがある。


保線用の無蓋電動車951 保線に当るのもすべて正社員ばかり

近鉄奈良線631

これも懐かしい奈良電気鉄道1001

片町線のキハ41500形式

すべての写真の天部が詰まっており、パンタが切れたりしているのは、先回記したように、なまじファインダーにパララックス矯正装置があり、接写でそれを使った後、100%戻し忘れるためである。

嵐電が新京阪と互角の戦い!?

クローバー会総会でもこのシリーズが大人気でした! もちろん作者の関三平先生についてです。画家であるのは間違いないとして、「鉄道についてもただ者ではない」「生半可なことを書くのははばかれる」など賛辞と尊敬の言葉があふれていました。しかし、実像は誰も知らず、改めて出版されたとき買いたいというのが大勢の意見でした。出版が待ち遠しいですね。

さて、今回はポール電車シリーズの横綱、京福電車嵐山線、通称“嵐電”です。私など、市電の姉様ぐらいにしか思っていませんでしたが関先生は「新京阪嵐山線に対抗して善戦した」私鉄だといいます。と、なると市電の姉様ではなく、今で言う「阪急のライバル」ということではありませんか!

皆様のご意見はいかがでしょうか?

そうそう、総会の時に「最近、電車の大御所・河様のご意見がないが、お前がなにかしでかしたのではないか?」と疑われてしまいました。ご覧になっておられましたらご意見などお書き願えませんか?失礼なことでもありましたらその旨お申し付け下さい。すぐに謝ります。お待ちしております。

和歌山鉄道クハ803など


片上鉄道キハニ120 1937年10月14日和気 牧野俊介撮影

片上鉄道キハニ120組立図 

米手作市氏、畏れ多くも乙訓ご老人までが露払いして下さったからには、黙っているわけに参らず、須磨老人から一言を。この流線形クハ803は加藤車輛製作所1936年8月製、片上鉄道キハニ120が前身である。加藤製としては1か月後の能登鉄道キホハニ2と共に、個性の強い流線形で、運転席窓の庇が特徴だが、車体実幅が2,200mmと狭いのに幕板が広く、屋根も深く、鈍重―スマートとは申しかねる。扉下、荷台にも踏み板を盛大に張り出し、最大幅は2,640mm。50人乗り、機関は戦前私鉄中型車標準のウォーケシャ6SRL、エアブレーキを装着し、手動ワイパーがある。塗装も木部がニス塗り。

1942年に代燃ガス炉設置、1946年には多度津工場で機関を下ろし、台枠を補強して客車化、1948年3月12日手荷物室を撤去しフハ120に。1955年2月ナニワ工機で制御装置を付し和歌山鉄道クハ803に。


これは乙訓ご老人ご撮影のクハ803

和歌山電軌クハ801 ←国鉄キハ5020←芸備鉄道キハ3 日車1929年12月製 本来両ボギー2個機関で製造 一旦口之津鉄道に納品されたがキャンセルされ 日車に出戻って1個機関片ボギーに改造し 新車と称して芸備に納品された代物

和歌山電軌クハ802 ←片上鉄道キハニ102 日車1931年製

なお和歌山鉄道は乙訓のご老人お書きの通り、1941年12月東和歌山-伊太祈曾間を600V電化、1年後大池、さらに1年後貴志と2年かかって全線の電化を果たした。当初はオリジナルのガソリンカーを電車にしたが、淡路鉄道方式ではなく、マトモな電車用の台車(南海のお古)と交換している。半鋼ボギー車ばかりでなく、木製鋼板張り(俗に謂う「偽スチール」あるいは「鉄面皮」)の丸山車輛製2軸車キ101~103のうち、キ103を加藤車輛製作所でボギー化、片側扉を広げたモハニ103なんて代物もあった。芸備鉄道買収の片ボギー車キハ5020にポールとコントローラーを付したクハ801もでっち上げ、これはかなりあとまで健在だった。


和歌山電軌モハ201 ←和歌山鉄道オリジナルのキハニ201 小島栄次郎工業所製とされるのは メーカーたる松井車両製作所が当時手形不渡りを出して銀行取引停止中だったため 

敗戦後は江若鉄道が、国鉄キハ41000形式を獲得した代償供出によるキニ1、2(川車)をモハ205、206にし、片上キハニ102をクハ802に、など。これらの旧ガソリンカーの一群は乙訓ご老人が以前この欄に写真を出して御座る。他には旧京浜やら阪急やら阪神やら南海やらのボロ電車をかき集め(いずれも供出だから状態は推して知るべし)るなどしたが、そっちは須磨老人の受持外である。

ともかく東の雄上田丸子電鉄には及ばないまでも、百鬼夜行の旧ガソリンカー天国=西の雄だったのは確かである。小生の撮影は和歌山電気軌道となってからの1959年7月16日で、紀勢本線全通初日を撮影、御坊臨港鉄道、有田鉄道、野上電鉄を撮っての帰路で、和歌山電軌軌道線の2軸単車は終点でまだポール回しをやっていた。

その前日、自宅から山科駅までの間に大雨に遭遇し、傘がなく川にはまった状態で猿股までぬれたまま亀山でステホ、幸い風邪も引かず翌朝は体温で衣服は乾いていた。しかし靴はチャップリンが「黄金狂時代」で、ナプキンをして大真面目な顔で食べ、腹を抱えさせられた靴同様、水を含んでブカブカ・チャプチャプ、軟らかくなり何やら白い粉を吹いていた。確か新宮だったかの機関区構内の靴屋で応急処置をしてもらった記憶がある。

なおモハ205のみは1952年12月28日で、得体の知れない映画用(当然安いが感度も判らない)35mmフィルムだったので、傷だらけである。


モハ205 ←江若鉄道キニ1 川崎車両1931年製 撮影時点和歌山電軌に合併され1か月が経過しているが 社紋は和歌山鉄道のまま 

和歌山電軌モハ601 車体は旧阪急

モハ601+クハ802

和歌山鉄道モハ300車体 南海軌道線57を高床化したもの

桜前線追っかけ2011年 Part2 えちぜん鉄道、福井鉄道

第2日目 4月15日

①三国港 6:33(えちぜん鉄道)→7:21 福井
②福井駅前 8:16(福井鉄道)→9:01越前武生9:08→10:09 田原町
③ 田原町 10:18(えちぜん鉄道)→10:58 三国港

昨夜は、芦原温泉にあるセントピアあわらでゆっくり身体の疲れを癒してから「道の駅 みくに」で泊まりました。夜明けとともに起きて周囲を見ますと、隣の秋田ナンバーをはじめ5台の宿泊車がいました。多分例年と比べると少ないようです。
すぐに約10分ほどにある越前鉄道三国港駅へと向かいました。



▲ 6:13、えちぜん鉄道三国港駅に到着。1番電車は出た後でした。以前にDRFC-OB会の旅でご同行させて以来の訪問です。駅前のパーク&ライドに車を置いてゆっくりと駅周辺を散歩した後、6:33発の632Mに乗車して今日撮影する鉄路のロケハンに向かいました。

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三川合流部での四線併走

ご無沙汰しております。先日病院から逃げ帰ったばかりのぷるぷるです。

併走・競争が話題になっていますが、準特急様がコメントでおっしゃっているのはここのことでしょうね。現場は京阪橋本駅から徒歩約10分、狩尾(とがのお)神社という小さな神社の社殿の裏です。 撮影日は2009年5月30日まだ元気だった頃で、数時間の粘りが出来ました。一枚目の写真、丁度旧3000系がやってきましたが、川向こうには何も走っていません。

 

二枚目、京阪機関車トーマス号(上り)と新幹線。

 

三枚目、京阪旧塗色2200系(上り)と新幹線。

 

四枚目、川向こうで新幹線(下り)と在来線雷鳥のすれ違い。と言うわけで阪急の絡みはありません。悪しからず。

なお、この場所から拙宅、すなわち橋本工房まで直線距離100m余りですので撮影のあとにでも是非お立ち寄り下さい。但し、通院のため午前中留守にすること多々ありますので事前のご予約を。

 

 

並走1件

準特急さんの並走写真を拝見して 思い出したのが上毛電鉄と東武の並走シーンです。高崎での4年間の単身生活の楽しみは 上毛、上信、秩父、わたらせなどの私鉄めぐりで 上毛にも足しげく通いました。上毛は天王宿-赤城間、東武桐生線は相生-赤城間ということになります。いずれも単線区間で列車本数も少なく、たまたま並走(に近い)シーンを撮影できました。

まず 中央前橋行きのクハ721+デハ711が通り過ぎます。後ろから東武5652・・・が追ってきます。

東武が通り過ぎるのを待って 線路内に入って後追いで撮ったのが下の写真です。

 

撮影日時は平成11年8月29日です。

被災後一部区間を走らせていた三陸鉄道

週明けの新聞広告で「被災鉄路再生の行方」のタイトルが眼についた。以前、掲示板で紹介された「週刊東洋経済」誌である。あれ以来交通関係誌が特集された号は愛読している。先のタイトルは40頁、その44頁には「被災者の足に」に大奮闘の三陸鉄道。震災で大打撃を受けたにもかかわらず5日後に一部運転再開。赤字会社なのに運賃無料。三陸鉄道の矜持がここにある。との小見出しが踊っていた。知らなかった。三陸海岸べりの鉄路は津波の猛威の前に壊滅したものと思っていた。NHKの報道番組ではJRに関する報道が中心で、こと三陸鉄道についてはコンクリート橋の崩壊の姿が大きく取り上げられていたのが印象に残っていただけである。ところが北リアス線は久慈-陸中野田間(11.1km)を3月16日に運転再開させたと言う。次いで宮古-田老間(12.7km)を3月20日、田老ー小本間(12.4km)3月28日に開通させた。車両基地は久慈にあり、宮古側には1両しか残って居らず、それでもって1日3往復の運転しかできないとか。南リアス線はいまだに不通のままのようだが、いずれ朗報が聞かれるであろう。運転再開に当り三陸鉄道は3月一杯、運賃無料とした。分断区間、不通区間の運転再開については触れられていないが、第三セクタ-では、転換当初は好成績を上げていたのが、いつの間にか赤字となり、横浜未来博からの払い下げ車を活用するなど話題を振りまいていたが、今回の災害復旧で、国がどのような条件で手を差し伸べるのか、見守って生きたいと思っている。

併走、競走、激走!

 東京では7日に大きな余震があったが、昨日、今日とまた余震が頻発しており、落ち着かない日が続いている。加えて福島原発の見通しが立たず、最悪の状態である。放射能の影響度がよくわからず、何を食ったり飲んだりしたらいいのか、夏場の電力不足は大丈夫なのか、毎日心配の連続である。こんな時はパーと表題のような内容を報告してみたい。

①京王、小田急の永山から新宿寄りに二つのトンネルがある。その二つのトンネルの間が京王、小田急両社の電車が併走してくるのを俯瞰撮影できる場所で、その名も「電車見橋」と言う。散歩がてらに時々行ってみるが、なかなか難しい。トンネルから両車が並んでくれば「よっしゃー」で、気合が入るが、先頭車の顔に架線柱が邪魔しないようにするのが大変で、結局、デジカメを乱写して運に任せるしかない。

09.12.10 永山~若葉台・はるひ野 小田急1000新百合ヶ丘行き、京王8000若葉台行き

②有名撮影地浜名湖鉄橋で117系を撮影中、突然、新幹線が並んだ。これも「よっしゃー」の気合。「併走」ではあるが、「競走」にならず、「激走」とでもしたい。残暑厳しく熱中症に注意した。

10.9.1新居町~弁天島 300系「ひかり513号」新大阪行き、945M豊橋行き116-26

③列車本数が多い所では併走をキャッチするのはそれ程難しくはない。この写真は後追いのため、もう一つ面白くない。JR西の東海道、近鉄、京阪、東武、小田急等同一方向に2列車がピタリと並んでくるのは面白い。どなたか発表願いたい。

10.5.25 東神奈川~横浜 東京行きE231系、快速八王子行き205系

 ④併走の極め付け阪急十三。私鉄王国の一端をうかがわせるシーンで、他国人はこれを見てうなる。ここも毎回同時刻に梅田を出発するので1時間も居れば、一つくらいはましなのが撮れる。

10.8.14 京都行き特急9401、宝塚行き急行5145、新開地行き特急8103

 ⑤看板特急の併走を狙った。平日なので難波10時発を狙うしかない。ところが、この日は「こうや3号」はもたついて出遅れる。「ラピート29号」鉄仮面が新今宮に到着する頃、「こうや3号」は未だ隣の今宮戎を通過中。このホームは非常に狭くて危険で撮り難く、その上、105ミリレンズでは苦しくて手前の電線をカットできなかった失敗作。

10.10.1 新今宮 「ラピート」50706、「新こうや」30004

 ⑥王子駅近接の高層ビル北トピアからの撮影でここも鉄道を見る名所となっている。新幹線と在来線が並んで走るので飽きないが、ここも特に新幹線の顔に架線柱がかからないようにしたい。「併走」と言うよりも「乱走」である。

10.9.11 「Maxやまびこ116号」+「つばさ116号」、「とき331号」

 ⑦この撮影の2日後に乙訓の老人、逗子の旦那とこの蒲田駅を1往復半する。何でも目的は以前撮り損なった7000系を捕獲するとのことであった。蒲田駅を池上線と多摩川線が毎回同時に出発するので、成功確率は高い。しかし、阪急十三の様な充実感はない。

11.4.6 蒲田 池上線1023、多摩川線7910

奈良電クハボ601


高校1年生の時、クハボ601を撮っていたことを思い出しました。近鉄奈良線は元来が600V軌道で、奈良の街中へは、ゴロゴロと道路中央の併用軌道で進入していました。国鉄奈良線を立体交差する跨線橋手前での撮影(1952年12月14日)で、画面天部がやたらと息苦しいのは、なまじファインダーに手動パララックス矯正装置があり、台車などを至近距離で撮影した後、ほぼ100%それを戻し忘れることによるものです。

奈良電クハボ600形の通風口

2月28日米手作市様が紹介された「【11969】奈良電クハボ600型」の中で「こんな通風口あったかな?」と書込みされておられる件について、私の知る範囲で書いてみたい。

「クハボ600形」については、関 三平氏の解説文の通りであるが、少し補足させていただくと、昭和29年特急運転開始に際して新製されたデハボ1200形(1201、1202)と組む制御車としてクハポ602、603を扉間の戸袋窓部分を除き転換クロス化した。昭和38年10月1日近鉄と合併時の改番で、クハボ601→ク583、602→581、603→582となった。

昭和39年10月京都~橿原神宮駅間の有料特急運転時(6往復)にデハボ1201、1202→モ681、682、デハボ1352、1353→モ692、693を窓の固定化、座席の転換クロス化、冷房の取り付け等の改造を行い、一応大阪線の有料特急車レベルに改装した。 

この時、モ692、693は電装解除されてク581、582となった。個人的には「冷房とおしぼりサービス位で誰が乗るねん」と思っていたところ走り出すと意外に好評で、12月1日には京都~奈良間の特急5往復増発された。この時予備車を確保するためにモ691、ク581、ク582を特急用として整備されたが、あくまで予備車という割切りのため改造は最小限に留められた。

ク581は元モ692の電装品で電動車化してモ684に、モ691はモ683に、ク582はク583改番され、モ684+ク583+モ683の3連を組み「予備特」と呼ばれた。更に増発されると「予備特」を含めて3編成がフルに運転され、「予備特」が「予備特」でなくなってしまったため、扉間転換クロスのモ671+モ672(元奈良電鉄デハボ1102+1103)がマルーンのまま特急マークをつけて「予備予備特」として待機した。

車体を新製してモ600形の電装品を流用して作られた18000系、京都~伊勢間の直通特急用に新製された18200系、18400系が登場すると、定期運用から外れて本来の「予備特」に戻り、団臨にも使用されるようになった。

昭和44年9月21日奈良線、京都線、橿原線が支線も含めて1500Ⅴ昇圧時にこの編成も昇圧改造され、モ683の橋原寄りの運転台撤去、モ684の京都寄り運転台撤去による中間車化、ク582の方向転換が実施され、モ683+モ684+ク583となった。昭和47年に一般車に格下げされ、塗装がマルーンになり主に団臨に使用されていたが、昭和51年3月に廃車になった。(車齢が新しいモ683は大阪線に転属して電装解除の上、ク1322となり「鮮魚列車」に使用された) 

一般車として残ったク583 (元クハボ601)は、前述のク582→ク583に改番時にク595に改番して引続き急行以下の列車に使用され、昭和44年9月1500V昇圧時ク308に改番され、元奈良線のモ653改造のモ408と2連を組み生駒、田原本線用になった。

以上、近鉄に超詳しい方を差し置いてごちゃごちゃ説明したが、通風口の結論は「予備特」となったクハボ602とクハボ603は改造時に撤去、一般車として残ったクハボ601は廃車時まで存在した。

 
モ684(元ク581←クハボ602) 西大寺/昭和44年5月18日

 
ク583(元ク582←クハボ602)西大寺/昭和44年5月18日

 
1500Ⅴ昇圧時に方向転換、一般車に格下げされマルーン一色となったク583  玉川工場/昭和50年1月15日

 
【参考】モ683(元モ691←デハボ1351)+ク583+モ684  西大寺/昭和44年5月18日

 
【参考】モ692+モ691(元デハボ1352+元1351) 丹波橋/昭和39年5月15日  モ692は有料特急に格上げ改造されク581となった。

 
最後まで一般車であったク595(元ク583←クハボ601) 西大寺/昭和44年5月18日  通風口はしっかり残っていた。

関三平氏がいう、“超弩級”の一角を占める重量級の登場です。子供の頃、八尾に住む伯父の家に行くときに上六でよく見ました。といっても、片眼の2200が印象に残っているだけですが・・・。京阪や阪急では見られない20m級の緑色の車体はとてつもなくカッコイイ電車でありました。

京阪電車と和歌山

老人は学者ではなく一介の鉄道趣味者であり、沿線住民でもないのに幼児から京阪電車に拘ってきた。米手作市さんから京阪と和歌山の関係を解説せよとの希望があった。幸いなことに京阪電車のご厚意により「京阪100年のあゆみ」が送られてきた。50年史「鉄路五十年」と比べると、和歌山との関わりがコンパクトに、分かり易く紹介されている。

和歌山との関わりについて50年史では、毎期12%の配当を続けている和歌山水力電気(株)が業容拡大のために資本増強を図るため大阪電燈(株)との合併の斡旋を、京阪の重役に依頼してきたことに始まると記している。京阪は開業時、営業成績が振るわない時があったが、それを救ったのが配電事業であった。和歌山水力電気からの話が耳に入った当時の社長は和歌山出身であり、他所に紹介するより京阪が資本調達に応じようではないかとなり、19227月に合併(買収)してしまった。そして和歌山支店を設置、県下で発電、配電事業に加え電気鉄道(軌道)経営をする事になった。2010年(京阪開業100年)年賀状に、新造35年後の姿(1960年撮影)の、和歌山軌道線100号を、京阪本線100号代用車として使った。

和歌山支店の経営は順調であったが、京阪は新京阪鉄道建設による借金地獄解消のため三重合同電気に和歌山での事業を売却することになった。この時の社長は三重合同電気の社長を兼ねており「和歌山支店を切り離して金に替えることが、京阪自体の財政を整理する第一歩」と考えていたそうだ。和歌山支店の事業譲渡は19305月に行われ、8年余に及ぶ京阪マークは紀州から消えた。

これにより京阪本体は救われた。そして新京阪鉄道は本家京阪に加えられたのであった。そこで阪和電鉄について言及したいのだが、50年史、100年史では余り触れられていない。阪和と言えば竹田辰男さんの研究が知られており、老人の出る幕ではない。僅かに頭に残っているものを中心に綴ってみる。

阪和電鉄(株)は和歌山県下の企業家に加え大阪財界人の手で設立されたのは19264月であった。設立時の資本金は2,000万円で、京阪は40万株(15円)の内1万株(2.5%)引き受けたとされている。会社設立の翌年、金融危機があり、払い込みは順調でなかった様だ。会社設立時の筆頭株主は南紀方面に航路を持つ大阪商船で、払い込み失権株分を大阪商船と京阪が引き受け、京阪及びそのグループの株式保有量は15%であったと言う話を何処かで聞いた。そのためか、京阪からは当時の社長が取締役として名を連ねていた。

和歌山で配電事業を展開していた京阪は、営業戦略として出資者となったのであろうが、経営にどれだけ関与したのかは50年、100年史共に触れられていない。ただ車両の電気機器について、京阪と同じメーカー東洋電機(株)であった。これを介して何らかの関係があったのではないかと思われる。東洋電機設立時の社長は、京阪開業時の専務取締役を務めた渡辺嘉一氏である。京阪は開業時、代表取締役社長を置いていない。東京財界と大阪財界の関係を勘案して社長を置なかった様だ。その渡辺氏は開業を見届けるや会長となり東京に戻ってしまった。その後、渡辺氏は東洋電機(株)を19186月に設立し、英国デッカー社の電鉄電気用品製造と独自に開発した製品で今日の地歩を固めた。

東洋電機(株)の最初の製品、DK9C形の納入先は京阪であり、今も密接な関係にある。この東洋電機は鉄道省への製品納入について大変な苦労を重ねた事が東洋電機50年史では紹介されている。大容量電動機や電動カム制御器を始め、自動扉開閉器などユニークな製品が開発され、実用化された。当時の最大の需要先は鉄道省であったが、先発メーカーの高いハードルに阻害され、その成果を鉄道省への納入で発揮できなかった悔しさは、民有鉄道で花が咲いたように思える。その先兵隊となったのが京阪であり、新京阪での採用であった。そのグループに阪和電鉄も入っていたのは、京阪-渡辺ライン上にあると思う。渡辺氏の来歴は今回100年史で初めて知った。

和謖・?100号:1958.12.25 撮影

和歌山100号:1958.12.25 撮影

和謖・?100号:1960.05.15 撮影
和歌山100号:1960.05.15 撮影

アイキャン電車とは

変【12628】関西急電アイキャン色

アイスキャンデー色が話題になっていたそうだが、老人は退院後ボランティアに追いまくられ、その前のP-6の時もさぼってしまった。期変わりと共にまたまた多忙な日を送る事になるので一気に昔話を展開することにしよう。

アイスキャンデーのことを京の童は「アイキャン」と言っていた。アイキャン省電が出現したのは昭和24年9月15日のダイヤ改正の時だと、我が奧野利夫師匠は書き残してくれている。鉄道省から公社になった頃だから国電とするのが本当だろうが、こげ茶色の省電の中にあって4両1編成、流線型モハ52003+サハ48035+サハ48033+モハ52004の鮮やかな色の急電が京都-神戸間を走り出した時は、省電ファンならずとも大騒ぎとなった。老人はこの時小学校5年であった。

アイキャン屋と名付けられ、紙芝居屋と同じくジャランジャランと鐘を鳴らしつつ自転車でやってくる物売りのオッサンの商品・アイスキャンデーを収納したアイスボックスは水色であった。この色が急電の色に似ているとした名付け親がいたようだ。この年はよほど残暑が酷かったのか、印象深く語りつがれた。翌年8月から急電は関西急電色、モハ80系の湘南型に変わっている。僅か1年の命であった塗り分けであったが京都人にも強烈な印象を残して阪和線に落ちていった。

落ちた先に同じアイキャン色モタ303+クタ501+モタ302が頑張っていた。こちらの登場は流線型より3ケ月早かったとか。阪和線の山手からは青い海がこの頃は見えたのであろうか。少なくとも青の濃淡の塗り分けは大阪湾や紀伊水道の青い海を象徴しているように思われる。それが京阪神間の餓えた都会人からすれば、アイキャン屋の箱に写ってしまったのかも知れない。

さて、昭和25年前後、アイキャン屋全盛期であった。老人の縁類になる下鴨神社の「みたらし茶屋」を名乗る京菓子舗・亀屋粟義も、京菓子の原料は統制品であり入手ままならず、夏にはアイキャン製造機と言っても簡単なものだが、同じ町内の肉屋の冷凍機製造と修理を手掛ける業者に作らせ、初夏から初秋にかけて京菓子など目もくれず空と温度計を睨みつつ、アイキャン製造に励んでいた。おじさんが自慢することが一つあった。「うちのアイキャンは京菓子の色粉使ってから色と香りが良い!」であった。薄い水色とピンクの2色とほのかな香り。これが自慢であった。ただし甘味料の方は砂糖を使うわけにいかず、サッカリンでなかったと思っている。

アイキャン箱は近所の指物大工が作り、すのこの下に氷2角置いてアイキャンを30本ばかり重ねて、売り子のおっちゃんが下鴨を廻っていた。今は昔の話、大変な脱線となってしまった。