能勢電60型は京都市電514型の仲間?

今回は能勢電60型です。関三平先生の話を読めばなんだか市電の500型の電装品を使った514型と似ていますね。境遇が似ているせいか、絵で見ても形も似ているような気がします。

能勢電といえば藤本さんが頭に浮かびました。

能勢電60型は京都市電514型の仲間?」への2件のフィードバック

  1. 確かにスタイルは市電514形の後期車(516・517)と似ていますね。能勢電には50形、60形やP-4、P-5一族に魅力を感じていたため、京都からは決して近い場所ではありませんでしたが、京阪沿線の高校時代から、DRFC入会後は準特急様とよく通いました。初めて妙見口駅に降りた時、京都ナンバーの京都交通のバスが停まっていたのには吃驚しました。(バス停の名称は「吉川」で方向幕は括弧書きで「能勢電」と表示)このバスで亀岡に行くことができました。バスが駐車している土地は京都交通の所有で、ここを使用の本拠地とする大阪ナンバーの貸切バスがあり、かつては能勢町内の森上と祇園を亀岡経由で結ぶ急行バスが運転されていました。能勢と亀岡は古くから地域間交流があり、大正2年に摂丹鉄道が吉川~亀岡間の免許を取得、能勢電でも昭和24年12月に吉川~亀岡間の敷設特許を申請して認可されています。(昭和26年6月に計画中止)また、京都交通が解散するまで、京都駅と妙見山上を結ぶバスが休日と1日に1往復運転され、京都市内から妙見山への参拝客の足としての機能を果たしておりました。京都交通が諸般の事情で解散して京阪グループの京阪京都交通になった時、能勢町内の他の路線とともに不採算路線として廃止されてしまいました。それにしても関 三平先生の知識は相当なものです。

  2. 藤本哲男氏が「能勢と亀岡は古くから地域間交流があり」「大正2年摂丹鉄道免許」と記されている。この区間にはいくつかの鉄道計画があり、ことごとく実現していない。

    1913年1月10日摂丹鉄道免許は、亀岡-吉川間14哩25鎖、資本金80万円だったが、1915年亀岡-東郷間、50万円に短縮、1918年には妙見鉄道に改称し、軌間も762mm、20万円に。1919年4月7日免許失効が官報公告され、この時は1067mmとある。

    その後1921年大阪のメリヤス商、田中胡四郎なる、相当に胡散臭い人物が代表で、軌間1067mm、亀岡-本郷町、本梅村-篠山町間、東郷村-妙見山は索道の亀能鉄道を発起し、1922年10月27日株式会社設立登記。亀岡町-東郷村(自動車鉄道)、東郷村-妙見山(索道)免許。1924年8月19日本梅村-篠山町間は競願になった篠山鉄道が免許を得た。田中は1924年4月25日には丹波口-渡月小橋、桂-亀岡間の京亀鉄道を申請。

    自動車鉄道とは、矢沼伊三郎が輸入する、米国製ディーゼル・エルダー貨物自動車のシャシーに車体を架設したレールバスで、矢沼はこの軽資本による自動車鉄道を日本中に普及させるべく、超人的な活躍をしていた。鹿島軌道、九十九里軌道等は元来この仕掛けからで発足したもので、開業済の安濃鉄道も乗せられかけている。

    亀能鉄道は1927年1月29日京畿鉄道に改称届出。この間役員は1人を除きすべて東京在住者になり、その交代も相次ぎ、詐欺同然の胡散臭い鉄道計画の典型的な一例である。免許を失効しかけると、沿線町村長を口説き(騙し)、敷地等を寄付、株式引受け等で協力するから、と請願させてもいる。またこの種の鉄軌道には「お決まり」である「電化」も謳いあげている。

    さらには1932年4月15日京都鉄道に改称し、一部工事を間組に発注するなど、建設の気配を見せ、免許失効を逃れ続けたが、工事代金を支払わず間組から破産を申し立てられ、1932年4月26日破産宣告。監督官庁へは用地25%取得、土工35%完了と報告しているが、ほぼ全てが虚偽だった。1933年8月4日竣功延期申請が却下され、11月14日許可で起業廃止。従業員は給料も貰えず悲惨な状態で放り出され、監督庁に陳情した記録がある。

    この間1927年2月1日桂-亀岡の免許を取得、1928年3月22日西塩小路-桂、京極村-深草村にも免許を申請したが、却下。新京阪電気鉄道に対する利権確保目的と思われる。

    田中胡四郎は免許下附前の身元調査で「俗ニ会社屋ト称スル人物 メリヤス製造業 信用薄シ」とある。大阪千日前土地建物㈱監査役、城崎温泉土地建物㈱同、金港温泉㈱取締役などでもあった。

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