高校1年生の時、クハボ601を撮っていたことを思い出しました。近鉄奈良線は元来が600V軌道で、奈良の街中へは、ゴロゴロと道路中央の併用軌道で進入していました。国鉄奈良線を立体交差する跨線橋手前での撮影(1952年12月14日)で、画面天部がやたらと息苦しいのは、なまじファインダーに手動パララックス矯正装置があり、台車などを至近距離で撮影した後、ほぼ100%それを戻し忘れることによるものです。
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奈良電クハボ600形の通風口
2月28日米手作市様が紹介された「【11969】奈良電クハボ600型」の中で「こんな通風口あったかな?」と書込みされておられる件について、私の知る範囲で書いてみたい。
「クハボ600形」については、関 三平氏の解説文の通りであるが、少し補足させていただくと、昭和29年特急運転開始に際して新製されたデハボ1200形(1201、1202)と組む制御車としてクハポ602、603を扉間の戸袋窓部分を除き転換クロス化した。昭和38年10月1日近鉄と合併時の改番で、クハボ601→ク583、602→581、603→582となった。
昭和39年10月京都~橿原神宮駅間の有料特急運転時(6往復)にデハボ1201、1202→モ681、682、デハボ1352、1353→モ692、693を窓の固定化、座席の転換クロス化、冷房の取り付け等の改造を行い、一応大阪線の有料特急車レベルに改装した。
この時、モ692、693は電装解除されてク581、582となった。個人的には「冷房とおしぼりサービス位で誰が乗るねん」と思っていたところ走り出すと意外に好評で、12月1日には京都~奈良間の特急5往復増発された。この時予備車を確保するためにモ691、ク581、ク582を特急用として整備されたが、あくまで予備車という割切りのため改造は最小限に留められた。
ク581は元モ692の電装品で電動車化してモ684に、モ691はモ683に、ク582はク583改番され、モ684+ク583+モ683の3連を組み「予備特」と呼ばれた。更に増発されると「予備特」を含めて3編成がフルに運転され、「予備特」が「予備特」でなくなってしまったため、扉間転換クロスのモ671+モ672(元奈良電鉄デハボ1102+1103)がマルーンのまま特急マークをつけて「予備予備特」として待機した。
車体を新製してモ600形の電装品を流用して作られた18000系、京都~伊勢間の直通特急用に新製された18200系、18400系が登場すると、定期運用から外れて本来の「予備特」に戻り、団臨にも使用されるようになった。
昭和44年9月21日奈良線、京都線、橿原線が支線も含めて1500Ⅴ昇圧時にこの編成も昇圧改造され、モ683の橋原寄りの運転台撤去、モ684の京都寄り運転台撤去による中間車化、ク582の方向転換が実施され、モ683+モ684+ク583となった。昭和47年に一般車に格下げされ、塗装がマルーンになり主に団臨に使用されていたが、昭和51年3月に廃車になった。(車齢が新しいモ683は大阪線に転属して電装解除の上、ク1322となり「鮮魚列車」に使用された)
一般車として残ったク583 (元クハボ601)は、前述のク582→ク583に改番時にク595に改番して引続き急行以下の列車に使用され、昭和44年9月1500V昇圧時ク308に改番され、元奈良線のモ653改造のモ408と2連を組み生駒、田原本線用になった。
以上、近鉄に超詳しい方を差し置いてごちゃごちゃ説明したが、通風口の結論は「予備特」となったクハボ602とクハボ603は改造時に撤去、一般車として残ったクハボ601は廃車時まで存在した。
モ684(元ク581←クハボ602) 西大寺/昭和44年5月18日
ク583(元ク582←クハボ602)西大寺/昭和44年5月18日
1500Ⅴ昇圧時に方向転換、一般車に格下げされマルーン一色となったク583 玉川工場/昭和50年1月15日
【参考】モ683(元モ691←デハボ1351)+ク583+モ684 西大寺/昭和44年5月18日
【参考】モ692+モ691(元デハボ1352+元1351) 丹波橋/昭和39年5月15日 モ692は有料特急に格上げ改造されク581となった。
京阪電車と和歌山
老人は学者ではなく一介の鉄道趣味者であり、沿線住民でもないのに幼児から京阪電車に拘ってきた。米手作市さんから京阪と和歌山の関係を解説せよとの希望があった。幸いなことに京阪電車のご厚意により「京阪100年のあゆみ」が送られてきた。50年史「鉄路五十年」と比べると、和歌山との関わりがコンパクトに、分かり易く紹介されている。
和歌山との関わりについて50年史では、毎期12%の配当を続けている和歌山水力電気(株)が業容拡大のために資本増強を図るため大阪電燈(株)との合併の斡旋を、京阪の重役に依頼してきたことに始まると記している。京阪は開業時、営業成績が振るわない時があったが、それを救ったのが配電事業であった。和歌山水力電気からの話が耳に入った当時の社長は和歌山出身であり、他所に紹介するより京阪が資本調達に応じようではないかとなり、1922年7月に合併(買収)してしまった。そして和歌山支店を設置、県下で発電、配電事業に加え電気鉄道(軌道)経営をする事になった。2010年(京阪開業100年)年賀状に、新造35年後の姿(1960年撮影)の、和歌山軌道線100号を、京阪本線100号代用車として使った。
和歌山支店の経営は順調であったが、京阪は新京阪鉄道建設による借金地獄解消のため三重合同電気に和歌山での事業を売却することになった。この時の社長は三重合同電気の社長を兼ねており「和歌山支店を切り離して金に替えることが、京阪自体の財政を整理する第一歩」と考えていたそうだ。和歌山支店の事業譲渡は1930年5月に行われ、8年余に及ぶ京阪マークは紀州から消えた。
これにより京阪本体は救われた。そして新京阪鉄道は本家京阪に加えられたのであった。そこで阪和電鉄について言及したいのだが、50年史、100年史では余り触れられていない。阪和と言えば竹田辰男さんの研究が知られており、老人の出る幕ではない。僅かに頭に残っているものを中心に綴ってみる。
阪和電鉄(株)は和歌山県下の企業家に加え大阪財界人の手で設立されたのは1926年4月であった。設立時の資本金は2,000万円で、京阪は40万株(1株5円)の内1万株(2.5%)引き受けたとされている。会社設立の翌年、金融危機があり、払い込みは順調でなかった様だ。会社設立時の筆頭株主は南紀方面に航路を持つ大阪商船で、払い込み失権株分を大阪商船と京阪が引き受け、京阪及びそのグループの株式保有量は15%であったと言う話を何処かで聞いた。そのためか、京阪からは当時の社長が取締役として名を連ねていた。
和歌山で配電事業を展開していた京阪は、営業戦略として出資者となったのであろうが、経営にどれだけ関与したのかは50年、100年史共に触れられていない。ただ車両の電気機器について、京阪と同じメーカー東洋電機(株)であった。これを介して何らかの関係があったのではないかと思われる。東洋電機設立時の社長は、京阪開業時の専務取締役を務めた渡辺嘉一氏である。京阪は開業時、代表取締役社長を置いていない。東京財界と大阪財界の関係を勘案して社長を置なかった様だ。その渡辺氏は開業を見届けるや会長となり東京に戻ってしまった。その後、渡辺氏は東洋電機(株)を1918年6月に設立し、英国デッカー社の電鉄電気用品製造と独自に開発した製品で今日の地歩を固めた。
東洋電機(株)の最初の製品、DK9‐C形の納入先は京阪であり、今も密接な関係にある。この東洋電機は鉄道省への製品納入について大変な苦労を重ねた事が東洋電機50年史では紹介されている。大容量電動機や電動カム制御器を始め、自動扉開閉器などユニークな製品が開発され、実用化された。当時の最大の需要先は鉄道省であったが、先発メーカーの高いハードルに阻害され、その成果を鉄道省への納入で発揮できなかった悔しさは、民有鉄道で花が咲いたように思える。その先兵隊となったのが京阪であり、新京阪での採用であった。そのグループに阪和電鉄も入っていたのは、京阪-渡辺ライン上にあると思う。渡辺氏の来歴は今回100年史で初めて知った。
アイキャン電車とは
変【12628】関西急電アイキャン色
アイスキャンデー色が話題になっていたそうだが、老人は退院後ボランティアに追いまくられ、その前のP-6の時もさぼってしまった。期変わりと共にまたまた多忙な日を送る事になるので一気に昔話を展開することにしよう。
アイスキャンデーのことを京の童は「アイキャン」と言っていた。アイキャン省電が出現したのは昭和24年9月15日のダイヤ改正の時だと、我が奧野利夫師匠は書き残してくれている。鉄道省から公社になった頃だから国電とするのが本当だろうが、こげ茶色の省電の中にあって4両1編成、流線型モハ52003+サハ48035+サハ48033+モハ52004の鮮やかな色の急電が京都-神戸間を走り出した時は、省電ファンならずとも大騒ぎとなった。老人はこの時小学校5年であった。
アイキャン屋と名付けられ、紙芝居屋と同じくジャランジャランと鐘を鳴らしつつ自転車でやってくる物売りのオッサンの商品・アイスキャンデーを収納したアイスボックスは水色であった。この色が急電の色に似ているとした名付け親がいたようだ。この年はよほど残暑が酷かったのか、印象深く語りつがれた。翌年8月から急電は関西急電色、モハ80系の湘南型に変わっている。僅か1年の命であった塗り分けであったが京都人にも強烈な印象を残して阪和線に落ちていった。
落ちた先に同じアイキャン色モタ303+クタ501+モタ302が頑張っていた。こちらの登場は流線型より3ケ月早かったとか。阪和線の山手からは青い海がこの頃は見えたのであろうか。少なくとも青の濃淡の塗り分けは大阪湾や紀伊水道の青い海を象徴しているように思われる。それが京阪神間の餓えた都会人からすれば、アイキャン屋の箱に写ってしまったのかも知れない。
さて、昭和25年前後、アイキャン屋全盛期であった。老人の縁類になる下鴨神社の「みたらし茶屋」を名乗る京菓子舗・亀屋粟義も、京菓子の原料は統制品であり入手ままならず、夏にはアイキャン製造機と言っても簡単なものだが、同じ町内の肉屋の冷凍機製造と修理を手掛ける業者に作らせ、初夏から初秋にかけて京菓子など目もくれず空と温度計を睨みつつ、アイキャン製造に励んでいた。おじさんが自慢することが一つあった。「うちのアイキャンは京菓子の色粉使ってから色と香りが良い!」であった。薄い水色とピンクの2色とほのかな香り。これが自慢であった。ただし甘味料の方は砂糖を使うわけにいかず、サッカリンでなかったと思っている。
アイキャン箱は近所の指物大工が作り、すのこの下に氷2角置いてアイキャンを30本ばかり重ねて、売り子のおっちゃんが下鴨を廻っていた。今は昔の話、大変な脱線となってしまった。
長野電鉄から転入した上田交通の車両
千曲川の鉄橋を渡るモハ5261 上田~城下/昭和61年3月16日
tsurukame先輩が書き込みされた【12122】「雪景色・番外 長野電鉄2000、600形」の関連で長野電鉄から転入した上田交通の車両について紹介したい。撮影できなかった車両(モハ612→モハ5271)の写真は、犬伏孝司氏よりご提供いただいた。
長野電鉄は、昭和56年3月1日長野~本郷間の地下化に伴い、不燃化基準により地下乗入が不可能な車両は、河東線(屋代~須坂)で使用する車両を除き、順次廃車となった。その中で、モハ102、モハ201、モハ604、モハ611、モハ612の5両は、上田交通に譲渡され、部品取りとなったモハ611以外の4両が別所線で再起した。
当時、別所線ではラッシュ時にモハにクハまたはサハを増結していたが、サハの場合は運転台が無いため、終着駅ではモハを先頭に付け替える必要があり、機回し線がある上田はともかく、別所温泉は留置線を利用して複雑な入換作業が必要であった。この4両の増備によりサハとクハの一部が廃車となり、これらの作業が不要となった。昭和61年10月1日の1500Ⅴ昇圧により廃車となったが、モハ604→クハ271は長野電鉄に里帰りして、モハ604に復元の上、小布施駅構内の「長電電車の広場」で保存されている。
旧番対照は下記の通りである。(左/長野電鉄・右/上田交通)
モハ102→クハ261・モハ201→モハ5261・モハ612→モハ5271・モハ604→クハ271
【車両の概要】
①クハ261(旧長野電鉄モハ102)
大正15年6月汽車会社で須坂~権堂間の開業に備えて作られた車両で、モハ101、102の2両在籍した。半鋼製車初期の製品で台枠にトラス棒が付いている。昭和53年9月に廃車となりモハ102のみ上田交通に譲渡されたが暫く手が付けられず、昭和55年3月になって電装解除の上、両運のクハとなった。
②モハ5261(旧長野電鉄モハ201)
昭和8年4月汽車会社製で長野電鉄では1形式1両であった。前述のクハ261とはよく似たスタイルであるが、台枠にトラス棒が無い、リベットが少ない、扉間の窓の並びが均等の違いが見られる。長野電鉄の廃車時期はクハ261と同じであるが、こちらは直ぐに整備され、昭和53年12月に竣工した。
上田/昭和61年8月24日(モハ5261+クハ291の2連)
③モハ5271(旧長野電鉄モハ612←モハ602)
④クハ271 (旧長野電鉄モハ604)
昭和2年川崎造船所製の全鋼製車でモハ601~604の4両作られた。阪急600形、西武151形とは同形である。昭和41年に601と602のパンタ側(長野向き)の運転台の拡張工事が実施され、乗務員室扉の設置、客室扉の移設が行われた。昭和55年に4両共廃車となり、モハ603を除く3両が上田交通に譲渡された。
モハ612は昭和56年8月にモハ5271として竣工、モハ604は昭和58年7月になって電装解除の上クハ271として竣工した。モハ611は改造されることなく部品取りとして長電時代の塗装のままで上田原検車区に留置されていた。
モハ5271 上田/昭和58年7月8日 犬伏氏撮影
(上田側は原形、別所温泉側は長野電鉄時代に改造)
モハ611 上田原/上 昭和60年1月15日 下/昭和61年3月16日
(モハ611は改造されずに部品取り車になっていた)
【元東急の車両】
元長野電鉄の車両と前後して東急から譲渡された車両についても触れておきたい。
①デハ3310・クハ3661・クハ3772
昭和50年12月朝ラッシュ時の輸送力増強のために東急からデハ3310+クハ3661を借入れ、昭和54年4月正式に譲り受けた。
東急デハ3300形は目蒲電鉄から引継いだ車両で、元鉄道省の木製車を昭和11年から15年にかけて川崎車輛で鋼体化したもので、当初3301~3311の11両在籍していたが3302と3303の2両は戦災に会い9両が残った。晩年は3両×3本が池上線で使用されていた。
上田交通では平日朝ラッシュ時に上田原→中塩田→上田→上田原の限定運用で使用していたが、正式譲受け後連結面にも運転台を設置して単行で使用可能なように改造したが、使用実績は極めて少なかった。
[参考]東急デハ3307+3306+3308 旗の台/昭和47年12月17日
クハ3660形は2両在籍し、名義上は昭和22年に元京浜急行の木製車クハ5213、5222を更新したことになっているが、実際には車体新製車である。(台車は中古品)借入直前は田園都市線で使用されていた。昭和58年10月老朽化のため廃車となり、次に述べるクハ3772と交替した。
クハ3770形は戦災で焼失した国電を購入して自社で復旧した車両で、クハ3772の前身はクハ65147とされている。昭和36年東横車輛で全金製の新製車体と乗せ換えた。昭和58年10月クハ3661の代替として入線したが、1500Vに昇圧のため僅か3年で廃車になった。
②クハ291、クハ292
昭和58年10月東急5000系の中間車サハ5358(昭和31年/東急車両製)、サハ5371(昭和33年/東急車両製)の上田寄りに運転台を取り付け入線した。前述のクハ3772同様僅か3年で廃車になった。
阪和モタ303
JR貨物、不屈の鉄道魂 壁乗り越え被災地へ燃料
我らの仲間が復旧に善戦しているJR貨物、今日のネットニュース、ビジネス1に出ていたので転載します。末尾の記者さんの署名記事です。JR貨物、がんばれ!S君、がんばれ!
(以下転載)
被災地の燃料不足が深刻化する中、ガソリンと軽油を積み込んだ「石油列車」が19日夜、盛岡貨物ターミナル駅(盛岡市)に滑り込んだ。震災後初めてとなる列車による燃料の大量輸送。輸送を担ったJR貨物には、被災によるルート変更、迅速なタンク貨車の手配などさまざまな課題がのしかかった。
◆正規ルートは壊滅
新宿駅近くにあるJR貨物本社。1カ月前に移転したばかりの真新しいオフィスは、震災以来、沈痛な空気に包まれていた。首都圏と東北を結ぶ東北線、迂回路(うかいろ)の常磐線が深刻なダメージを受け、東日本がほぼ機能不全の状態に陥っていたのだ。
テレビに映る被災地の惨状に社員は声を失った。さらにガソリンスタンドは長蛇の列、ストーブの燃料もない避難所には雪が積もっていた。燃料を早期に大量輸送できるルートが求められているのは明らかだった。
14日夕、4階の会議室に各部署の主要メンバー30人が集まった。狭い室内に沈黙が続く中、誰かが声を上げた。「石油を運ぶぞ。日本海側から」。応じる声がすぐに上がった。社員の“鉄道魂”に火がついた瞬間だった。
◆「思いは同じだ」
盛岡貨物ターミナル駅には、タンク貨車からタンクローリーに石油を移す施設がある。かろうじて“生きている”日本海側の線路を使い盛岡まで運ぶ。そこからタンクローリーで、被害の少ない内陸部の道路を南下、東に方向転換し、ピンポイントで最大の被災地、三陸沿岸集落に輸送する案が持ち上がった。
昼夜を問わずに断続的に開かれた対策会議で、いくつもの課題が浮き彫りになった。運行管理の担当者は「日本海ルートで石油を運んだ実績がない」と天を仰いだ。
重いタンク貨車に、レールや橋脚が耐えられないかもしれない。技術担当者がすぐに線路の管理者であるJR東日本に電話を入れた。「タンク貨車が通れるか、至急シミュレーションしてほしい」
こうした試算は通常、長期間かかるが、JR東から返事が来たのは翌日だった。「大丈夫だ。いける」。答えを聞いたJR貨物の担当者はJR東の迅速な対応に「輸送にかける思いは同じだ」と胸が熱くなった。
■発送前倒し 応えたJX
次は積み荷の手配だ。15日、営業担当者は、恐る恐る連絡を入れた。相手は元売り最大手のJX日鉱日石エネルギー。どの元売りも製油所が停止するなど、大打撃を受けていた。「輸送できます。いつから(石油を)出せますか」。相手は待っていたかのように応えた。「19日に出せる」
その夜のJR貨物の会議で、ある幹部が思わぬことを口にした。「18日に出せないか」。その場に居合わせたある営業担当の男性社員は「政府の意向だ」と感じ取った。JXもあらゆる手を打ち、18日に間に合わせた。
横浜市の根岸製油所で燃料を積み、丸1日かけて盛岡に運ぶ。青写真はできた。しかし、技術担当者は「できるだけ軽いタンク貨車を使うべきだ」と主張した。線路の耐性への疑念が消えなかったのだ。
コンテナリース会社、日本石油輸送には40年以上前から使われ、退役間近のタンク貨車「タキ38000型」が36両残っていた。積載量は少ないが、一番軽い。「できるだけかき集めてほしい」。JR貨物の要請で、17日までに18両が集まった。
18日午後7時44分、電気機関車「EF210型」に牽引(けんいん)され、ガソリン、軽油合計792キロリットル、タンクローリー40台分を積んだタンク貨車18両が、根岸駅を出発した。列車には8人のベテラン乗務員が交代で乗り込んだ。「乗務員は担当区間では踏切や信号はもとより、レールの状況も正確に記憶している」(同社広報)。不測の事態に備え、短い距離で運転を代わる万全の体制を敷いた。
タンク貨車が盛岡駅に到着したのは19日午後10時過ぎ。待ちわびた多くのタンクローリーに石油が次々に充填(じゅうてん)され被災地へ向け走り出す。バトンは確かに引き継がれた。21日からは1日2便に増便しており、25日からは根岸→郡山(福島県郡山市)への輸送も始める。
収益悪化や設備の老朽化などをたびたび指摘されてきたJR貨物だが、日本の非常時に鉄道輸送の存在感を見せつけている。(高山豊司)(以上、転載終わり)
JR西で運行削減?
新聞報道によると、今般の大震災の影響でJRーWでも列車運行本数を5~30%削減すると言うことです。
節電か?と思いきや、なんとモーターのブラシが不足だとか!記事によるとなんでも直流モーターのブラシを作っているのが浪江にある日立化成の工場で、原発に近く被害も大きいため製造が中断しているそうです。でも、これほどの大量の電車を運休にしなければならないほど消耗するものでしょうか?
カツミや天賞堂のモーターに詳しいぷるぷるさん、説明をお願いします。
さようなら 都電7500形
この度の東日本大震災で被災された皆様に心からお見舞い申し上げます。鉄道はじめ公共交通機関の一日も早い復旧と被災地の復興を祈念し、投稿を再開させていただきます。
都電荒川線で最後まで残っていた7511と7512の2両が3月13日を最後に営業運転を休止し、当日はお別れ式が実施される予定になっていた。
最終日2日前の3月11日(金曜日)、撮り納めと乗り納めをしようと思い、フレックスで10時出社にした。いつもの時間(6時40分)に家を出て町屋で都電に乗換え荒川車庫前で下車。三ノ輪橋方面行が順光になるが、この時間帯は正面に電柱の影が写ってしまうが贅沢は言っておられない。ラッシュのピークのため電車は3~4分間隔で次々に来るので効率がよい。町屋駅前行で来た7511を撮影したところで、横の道路から車庫内を覗くと、廃車済みの7520に「さよなら」のヘッドマークが取り付けられているのが見えた。恐らく13日のお別れ式に7511、7512と共に展示されるのであろう。三ノ輪橋行で来た7512を撮影後、町屋駅前で折り返してきた7511が大塚駅前行で来たので乗車、飛鳥山で降りて折り返してくるのを待とうとも思ったが、乗り納めで大塚駅前まで乗車して、荒川車庫前行で折り返して行くところを撮影した。次の電車で新庚申塚まで戻り、徒歩連絡の都営地下鉄三田線西巣鴨駅から芝公園駅近くの勤務先に向かい、予定通り10時に到着した。7511、7512の撮影、7511の乗り納めと予定通りの結果であったが、何か寂しいものがあり、あわよくばもう一度乗ってみたいと思った。
いつも通り慌しく仕事を進めているうちに、14時46分やや大きな横揺れを感じた。揺れはどんどん大きくなり、立っていられない状態になり、マジでヤバイと思った。揺れが収まり、テレビをつけてみると東北地方を震源地とする大地震が発生し、東京は震度5強とのことであった。自宅に電話をするが繋がらない。やっと繋がったと思ったら誰も電話に出ない。暫く経って再度電話をすると、嫁さんと子供は亀有の大手スーパーに併設されている映画館で鑑賞中に地震に遭遇し、余震が続く中を2時間かけて歩いて帰ってきたとのこと。自宅は建物の損傷はないが、家の中は書棚が転倒し、棚や箪笥の上のものは全部落下、食器棚の中のガラス製品が多数破損している。はよ帰ってアンタの本を片付けてちょうだいとのこと。鉄道の運転再開まで時間がかかるので、約20キロの道程を歩いて帰ろうと思い、外に出たところで「ビル管」から津波警報が出たので3階以上に避難したほしい。また警報が解除になっても余震が収まるまで外には出ないで欲しいと言われ、仕方なく4階の事務所に逆戻り。事務所から海岸までは500m程である。
16時30分頃都電と都バスの運転再開が伝えられた。都バスが動けば、さほど遠くない新橋まで歩き、業平橋行に乗り途中の言問橋で金町行に乗り換えれば帰ることができる。暫くすると都バスで帰ろうとして事務所を出た人が戻ってきた。ひどい渋滞と長蛇の行列を見て諦めたとのこと。事務所前の渋谷行のバスも渋滞のため全然動かない。この時点で都バスルートは諦めた。招集がかかり、大阪の本社からの指示で食料を確保せよとのことであった。事務所周辺のコンビニは既に売り切れとの情報で、少し離れた住宅街に行くと、パン、おにぎり類はすべて売り切れ。辛うじて残っていた弁当、カップ麺を必要数購入した。21時を過ぎた頃が都営地下鉄、東京メトロを中心に運転再開のニュースが入り、半数以上の人が帰宅したが、混雑のため電車に乗れず事務所に逆戻りした人、超満員の電車で行けるところまで行き、深夜の道を歩いて帰った人、途中で帰宅難民になった人等まともに帰れた人は殆どいなかった。余震の度にロッカー類が揺れる音と、携帯電話のエリアメールの音で眠れなかったが、暖房が効き食料が充分にあるのは有難かった。
翌12日、ニュースではJR各線は7時頃から、山手線は8時頃から運転再開と報じていた。都営地下鉄は昨夜の段階でほぼ全線で運転再開、私に関係する東京メトロ千代田線は代々木上原~霞が関間のみ開通していた。9時30分に事務所を出て混雑を避けるため都営三田線芝公園駅から昨日の逆ルートで帰ることにした。三田線は昨夜のうちに開通しているので乗客はさほど多くなくほぼ平常通り運転されていた。都電荒川線は山手線の高田馬場~巣鴨間の代替交通機関として超満員であったが、5~6分間隔でほぼ平常通り運転されていたが、「町屋駅前~大塚駅前間の区間運用」(土休日に三ノ輪橋~早稲田間の通し運用2~3本間に運転される)の運休と明日の「7500形さよならイベントは中止となり、グッズのみ販売」とのアナウンスがあった。ちなみに山手線外回りが運転再開したのはこの日の午後であった。この時点では、千代田線は代々木上原~霞ヶ関間の折り返し運転のため飛鳥山で途中下車して撮影しながら時間調整することにした。大地震の翌日にもかかわらず何人かの撮影者がいたのには驚いたが、自身も同類のため人のことは言えない。撮影していた人に7500形の運行状況を聞いたところ、間もなく7511が貸切で来るとのこと。撮影後荒川車庫前に移動して戻りを待ったがここで入庫した。乗客は10人程で2家族の貸し切りであった。運行状況のアナウンスがあり、千代田線は綾瀬まで全線再開したとのことであった。町屋駅に到着すると、綾瀬駅混雑による運転見合わせのため京成への振替乗車が行われていた。普通八千代台行(6両編成)が直ぐ来たが成田空港から海外に行く人も結構乗っており超満員であった。高砂で乗り換えた金町行は通常15分間隔のところ1本間引きで30分間隔となっていたのとメトロからの振替乗車の乗客で満員で、金町に到着したのは13時であった。
当日の京成電鉄の運転状況は、本線上野~八千代台間と押上線がオール各駅停車で約20分間隔、金町線30分間隔、八千代台~成田空港間と千葉・千原台線は終日運休、北総鉄道は高砂~印西牧の原間、成田スカイアクセスは印西牧の原~成田空港間それぞれ約40分間隔で折返し運転され、東京~成田空港間の足は辛うじて確保されていた。
最終日の13日、イベントは中止されたが、この日のみ発売の「記念1日乗車券」を購入するため荒川車庫に行った。入口のところにヘッドマークが取り付けられた7520が綺麗な姿で停められていた。一方本日限りで引退する7511と7512は終日町屋駅前~大塚駅前間の運用に入り最後の雄姿を見せてくれた。13時過ぎ、一昨日乗り納めをした7511が来たので、町屋駅前まで本当に最後の乗り納めをした。そして7500形の昭和37年から半世紀に亘る活躍の歴史が静かに終了した。
当日イベントは中止になったが、この日のために美しく整備された7520を入口近くの撮影可能な位置に停車、7511、7512を大塚駅前~町屋駅前間を終日運行させて多くの人が乗車、撮影可能なように配慮された関係者の皆様に敬意を表したい。
最終日の表情(上/町屋駅前で折り返し 中/荒川車庫前発車 下/町屋駅前発車)
7511車内のポスター
在りし日の7500形
原形時代
昭和37年に7501~7510が日本車両、7511~7520が新潟鐵工所で新製され青山車庫に配置された。昭和43年9月青山車庫廃止により7501~7510が荒川車庫、7511~7520が柳島車庫に転属、昭和47年柳島車庫廃止により7517と7519が廃車になり、残り8両が荒川車庫に転属した。
昭和52年2月12日 荒川車庫前/事務所の建物は「都電おもいで広場」の位置にある。
ワンマン改造後
昭和52年10月からワンマン運転開始に伴い改造されることになった。(完全ワンマン化は昭和53年4月)7000形は車体を新製したが、ワンマン機器設置とホーム嵩上げによる車体改造に留まった。7509と7514は改造されずに廃車された。
車体更新後
昭和59年から冷房装置搭載に伴い車体更新が実施され新製車体に乗替えられた。7502、7504、7508の3両は対象外となり、7502と7508は廃車、7504は朝のラッシュ時のみ使用されたが平成13年に廃車後「都電おもいで広場」で保存されている。集電装置は当初ビューゲルであったが、程なくパンタグラフに換装された。
思い出の風景
荒川遊園地の送迎バス
沿線の荒川遊園地に7500形をモデルにして作られた送迎バスが存在した。こちらは一足早く姿を消したようである。
気仙沼在住、ネットの友人が被災されました
東日本大震災で被害にあわれた方々に心からお見舞い申し上げます。大変な状況です。平穏なこちら我々が、被災地に対して申し訳なく思うほどです。
拙著HPを通じて交流のある気仙沼在住の方が被害に遭われましたがネットで無事が確認できました。震災当日夕刻に、NTTドコモに発信登録されていましたのをgoogle の検索で見つけました。そしてNTTドコモで携帯番号を入力し登録内容を読みました。自宅は破壊、祖父母の行方が不明とのことです。自宅はホントに海岸近くでした。
たった3分ほどで検索できたgoogle のスピード、力に改めて感心しました。しかしHP掲載に際し許可を戴いた釜石の岩手東海新聞社、本の著者元釜石市長菊池様の安否も心配です。
気仙沼の友人は、拙著HP大船渡線を見られ、自身の大船渡線HPに、小生の蒸機写真の提供を依頼され、送付して以来の交流でした。そして、50年前の写真と同じ地点で、現在の鉄道風景を撮影比較し、アップされていました。デジ青『雪景色』の続きで、次回大船渡線に50年前と近年の、今昔定点対比写真を投稿の予定でした。この方にデジ青への掲載許可を快く戴いた直後の震災でした。
従って、投稿は延期しました。しかも春が近づいて来ましたので『雪景色』の続きは来冬です。大船渡・釜石・山田・米坂・飯山・宮津線などが残りました。東北地方の各線、そして飯山線の被害も甚大です。
また近年、私が撮影に出かけている4つの鉄道の内、3つが被害を受けて運転休止となりました。真岡鉄道、ひたちなか海浜鉄道、鹿島臨海鉄道大洗鹿島線です。殊に海岸近くを走る、後者2つの鉄道はどうなっているのでしょうか。一日も早く復旧して再び撮影できることを期待して止みません。
地震体験
さて、地震のあった11日は朝から好天に恵まれたので、逗子のTさんの案内で横須賀市田浦の梅林を見に出かけた。ここは下を京浜急行が走っており、それを俯瞰撮影できる場所である。メモを見ると縦位置の写真はその場を去る前の14時32分に撮影したもの。京急の誇る2扉クロスシートの快速特急である。この撮影の後、JR田浦駅に向ってしばらく歩いている時に、Tさんが「あー地震や!揺れている!揺れている!」の声に始めて地震の発生に気づいた。この時は長いこと続くことと揺れがおさまらないので、もっと大きくなると危ないと恐怖感を感じた。電柱が倒れたり、民家の屋根瓦等が落ちてきたらこれを避けないといけない。年配の女性はしゃがみこんでいる。道路横の駐車場の車も揺れている。随分長い時間揺れを感じたが、ようやくおさまってきたころ、自宅の近い、それでも後で聞いたら6kmもあるTさんと別れた。この先はどうなっているかわからないが、横浜まで歩こうと考えた。昨年5月に小田原~三島の東海道旧道箱根八里を歩いたことがあるからその2/3くらいなら何とかなると思い、歩き続けた。横浜を選んだのは夜に動き出した時に相鉄、東急、京急、JRの選択肢が増えるからである。また、明日は勤務があるから早く帰りたいと言う気持ちがそうさせたのかもしれない。国道16号線は車が大渋滞で歩いた方が早いくらいである。金沢八景手前では横位置の写真のブルーの606-1の試運転車が金沢文庫から折り返して来たのか地震で停車中で技術員が乗っているのが見える。金沢八景付近は停電で年配の駅員さんは津波の心配があるので横浜市大へ避難の誘導をすると言うが、一向に誘導しないので食料品確保に商店街に向かう。1軒営業していた弁当屋は私の前で商品は終わり。仕方なくほかの店で100円ケーキ4個買う。携帯電話は通じないが、公衆電話はかかる。家では「ホテルに泊まって来い」と言う。徐々に暗くなってきて、一時雪が舞ってきた。横浜市営地下鉄の吉野町駅に寄って見るが、鉄道は全部アウトとのこと。しかし、22時頃には京王線は走ったようであるが、ここは神奈川県の情報。関内で夜明かしするレストランを探す。「ガスト」は15人待ちで営業は2時までなので24H営業の「わたみん家」で朝までねばることにする。大きな余震が続くのが気味が悪い。4時過ぎに店内に居た若者の情報で相鉄、小田急、京王が走り始めたということがわかり、これなら何とかなる目処はついたので、4時半に店を出た。横浜まで再び歩く。横浜ではJRは動いていないが、東横線と京急が動いたことがわかり、インストラクターにはとりあえず京急で川崎に向うように勧めて別れる。横浜5時半の東横線各停で渋谷に出て、井の頭、京王で家に戻る。シャワーを浴びてお色直しして出勤。
さて、連日凄い惨事がテレビ放映されているが、特に津波の恐ろしさは想像を絶する。それに、福島の原発事故。こんなにもろいものなのか、どうすることも出来ないのか。これは予想もしない出来事で大迷惑。
私事で恐縮であるが、震災を受けた東北の人から見れば小さいことであるが、不便なことと心配ごとは
①計画停電の影響で鉄道の運行が不安定なため、早めに起きて出勤せざるを得ない。入場規制も経験した。
②ガソリンが底をついてきたが、営業中のスタンドは長蛇の列。
③米、カップ麺、餅類等を中心に食料品不足。
④乾電池や湯たんぽなどがない。
⑤経験したことがない余震が今日も続いている。もうあれ以上のものは絶対来ないか。
⑥原発は30km外は本当に大丈夫か、風向き等によって影響は無いのか。
いろいろ心配してもしようがないが、店舗の営業時間も不安定で、店内照明は間引きて暗い。しかし、節電行為は致し方ないし、協力せざるを得ない。今日は南大沢の駅前で助け合い義援金に少しであるが協力。そんなことしか出来ない。アメリカは日本のこの様な非常時に略奪が無いことに驚いて感心しているが、この日本の秩序はいい伝統としていきたい。
お待ちかね!阪急P-6
雪景色・番外 長野電鉄2000、600型
ちょうど50年前の1961年3月6日撮影の長野電鉄です。関東での法事の後、長野・北陸周りで帰りました。その時、湯田中近辺で撮影、特急『よこて』長野行きが坂を下って来ました。2005+2053+2006で4編成あった内のC編成。もう既に廃車になっていますね。
続いて600型が坂を下ってました。この写真の車番は不明です。
再び600型604号の登場です。604号はその後の改番で612号となったのでしょうか。乙訓の老人に教えてもらったのですが、もし612号ならば、その後上田電鉄に行き、5271号となった車両ではないでしょうか。604⇒612の点が不明瞭です。しかも5271号ならその後再び長野電鉄に戻り、今は展示されているそうです。車両は製造当時としては珍しい全鋼製車両だそうで、リベットが良く目立ちます。
電車の行く雪景色は、あまり撮影していません。デジ青のトップページ画像で、消えゆく電車を見て、湯田中での撮影を思い出しフィルムを取り出しましたが、相当に傷んでいました。フィルムに柔軟性が無く、パリパリでした。幸い電車の部分に黒斑やひび割れはありませんでしたが、周りの痛みは修正しました。
43年前の神戸電鉄
菊水山駅を通過するデ109+デ105 (昭和43年4月20日)
神戸電鉄を初めて訪れたのは現役時代の昭和43年4月20日で、2週間前の4月7日に開業した神戸高速鉄道の見学も兼ねていた。午前中に菊水山と鈴蘭台で撮影し、午後は山陽電鉄に移動して電鉄須磨~須磨浦公園間で撮影した。
当日撮影した車両の画像で当時を偲んでいただければ幸いである。
デ109+デ105(デ101形)
デ1形とデニ11形(共に昭和3年日本車輌製)は既になく、翌年増備されたデ101形(101~110)が最古参であった。1形との相違点は車長が僅かに長くなり、台車がD16に変更された程度である。
デ202+ク151(デ201形)
昭和23年から24年にかけて川崎車両で201~208の8両が作られた。デ202の後ろに連結されているのは元神中鉄道キハ51(昭和11年日車製)のク151である。
デ211+デ212(デ211形)
昭和26年三木線延長時に川崎車両で211~213の3両が作られた。
ク131(ク131形)
戦時中の昭和18年に元神中鉄道キハ33、34(昭和11年日車製)を購入して制御車に改造した。
デ302+デ301(デ300形)
昭和35年川崎車両で作られた神戸電鉄初の高性能車で、301+302、303+304の2編成作られた。座席は扉間クロスシートであったが、昭和46年に3扉ロングシート化が行われた。
デ312+デ311(デ300形)
前述のデ301~304の増備車として昭和37年川崎車両で311+312、313+314、315+316の3編成作られた。前面貫通、座席がロングシートになったため、車号を311以降に付番した。
デ861、デ864(デ860形)
昭和41年から43年にかけてデ1形、デ101形の主要部品を流用して作られた車両で、新製車と同一スタイルのため素人目には新車に見える。861~865の5両が作られ、861~864が両運、865は神戸向きの片運であるが、有馬側に簡易運転台が設置されている。
デ1002+デ1001、デ1006+デ1005(デ1000形)
昭和40年から43年に作られた高性能車で扉が両開きとなった。1001+1002のように2両ユニットになり、5編成10両作られた。
デ1051(デ1050形)
デ1000形ユニットのラッシュ時増結車として1051~1058、1060、1062、1064の11両作られた。奇数車が有馬向き、偶数車が神戸向きの片運車であるが、反対側には簡易運転台が設置されており、ヘッドライト、尾灯も付いている。
ED2001
昭和24年三菱重工三原工場で作られた電気機関車で近々引退が噂されている。これ以下の画像は10年後の昭和53年4月23日道場南口駅での撮影である。
トム521
製造年、製造所は不明である。車端に控室が設置されており、ワイパーが取り付けられている。
バス
電車から「西日本車体工業」のカマボコ形以前の旧ボディーのバスが停まっているのが見えたので途中下車して撮影した。バス部門は平成10年9月30日に「神鉄バス」に分社化されている。
兵2あ2709
38年式MR470、車体は西日本車体工業である。「神戸ナンバー」の前は「兵ナンバー」であったことがわかる。「兵ナンバー」はその後「神戸ナンバー」と「姫路ナンバー」に分かれた。
50年前の神戸電鉄
迷図作家さんの力作、神戸電鉄デニ11型への関心が薄いと心配して頂いている。京都人は有馬温泉を大阪や神戸の奥座敷としか心得ていないようで、地下駅から出発する電車を知らず、関心が薄いのかも知れない。ゴルフブームの中で知った京都人も多いようである。
淡路島を訪ねようとした京都の学徒は、行きがけの駄賃に関東からやって来た気動車くずれと、7月入線のロマンスカー撮影を試みた。それには地下駅は不適であるのは自明のことで、tsurukame氏を案内人にしたようだ。その地下駅の地上から歩き出し、最初のトンネル付近(地形図A)は×とし、一山越して(地形図B)地点に移動した。さっそく電車青年が目的としていたロマンスカーが現れ、更に思いもよらない電動貨車もやってきてホクホク顔になった。
ところが気動車青年が目的としていた関東ものがやって来ない。場所を替えようと再度山越えを試みるが、夢野台火葬場(現在は廃場)の正面に出てしまった。これはおかしいぞと、陽当り方向を目指すうちに線路際に辿りついた。上り方(三田方面)は順光となり誠に具合が良い(地形図C)。ただし線路際は断崖絶壁となっている。それを下り、細い水路を渡り対岸をよじ登れば視野は拡がる。これだ!となりコンクリートブロックに挑戦した。対岸の小高い土盛でしばらく待つうちに、関東ものクハ132号を従えたモハ208号が湊川へ下って行った。もちろん折り返しを待つ。試運転のため直ぐに戻ってきた。
電車少年はそれから動くことなく、展望車改造クハ141号、もう一つの関東もの「びわこ型」クハ151号のお出ましを待ったが、現れずフィルム消化に励んだのみに終わった。その最後の1コマに迷図作家さんがモデルにされたデニ14号の姿があった。
老人が鉄ちゃんに復活したのは1986年夏、吉谷和典さん逝去半年後のことであった。四散していたフィルム(NEOPAN SS)が手許に戻ってきた。その中に1960.11.03と04があった。DRFC時代にプリントしたことがない。高橋弘さんにお願いして、初めて見るプリントを手にして、「この崖は何処だろう」と首を捻った。フィルムのコマ順で長田の先と見当付けたが、何処か分からない。
そのころ業界2団体の世話役をしており、会議のため有馬温泉へ出向く機会が年1度以上あった。まだ現役バリバリであったので、昼食後に出向き先等から阪急芦屋川かJR芦屋から芦有バス利用で会議の席(温泉宿)に駆けつけることが多かった。阪神大震災の前年、新開地から久しぶりに山岳電車に乗ってみた。長田を前に沿線開発のすさまじさに驚いた。震災後、沿線で幾つか復興工事のお手伝いをする機会があり、長田から丸山に向け線路沿い道路を歩いてみたが、崖であったであろう位置は土砂や廃材で埋められ、雑草が覆い面影はなかった。線形も少し直線化されたようで変化が見られるが、その頃カブリツキから撮った1カットを紹介しよう。地形図【神戸丸山衝上断層】の位置である。
山陽電鉄道路併用軌道追加
豚か猪かそういう類の動物はおだてられると木に登ると聞いたことがありますが、TSURUKAME先輩からお前の撮ったのも投稿せいと言われ、恥ずかしながらコメントで書いた住友生命をバックにした、人がうろついている古い写真を掲載します。何れも1966年7月27日の撮影で電鉄兵庫駅付近と思われます。
3両目は更新車、所謂偽新車と思われますが、よくわかりません。
画面が見づらくて恐縮です。右に女子高生、左に神戸のお兄さんと買い物のおばあさんが写っています。路面電車の風景ですね。
右の建物が住友生命。因みに今でも保険は住友生命に入っております。この頃、山陽の3000系は南海の6001系、7001系と同じようなシールドビーム2個のライトでそれが離れている豚鼻。関係者や好きな人が居たら申し訳ありませんが、好きになれませんでした。しかし、アルミ合金の電車は数少なく、高級な車両に見えました。
毎度の弁解になりますが、フィルム保存が悪く、スキャン等の技術力が無いので恥ずかしい写真で、申し訳ありません。米手作市さんがおっしゃられるようにこの時は全くのついでの写真で、感激はありませんでしたが、後にその車両や風景がえらい貴重になることもあるようです。国鉄で言えば103、113系、キハ58系等は撮る対象ではなく、単なる移動車両でした。それが、なくなる頃になると新製時からの度重なる改造等で変化に富み、昔の旧型国電を追っかける気分になっていることに気づきます。さらに今、反省していることは車両以外に駅舎や人物や車等ももっと入れておけばよかったと言うことです。デジカメ時代なのでコンデジを含めて乱写しておくのも後々撮っといてよかったと言うことになると思います。失礼しました。
厳寒の中国蒸機撮影速報
奈良電クハボ600
前回の神戸電鉄デニ11は人気がなかったのか、どなたも書き込みがなかったが今回は私でも知っている電車。
奈良電は、京都に住んでいる市民にとっては「田舎電車」の雰囲気が未だに消せない思い出の電車。子供の頃、久津川に住んでいた同級生の家に行くのに乗ったり奈良へ行くのに乗ったりしたが、阪急とは比べものにならないし、京阪と比べても古色蒼然とした車両で奈良にふさわしい電車と子供心に納得していました。最近久津川の同級生とその話をしていて「奈良電は扉を手で開ける」といったら「それは京阪の車両で、奈良電は自動やった!」と反論されました。どうもイメージで言っていたようで、デハボ1000は自動扉で京阪の乗り入れ車両(200系?300系?)が手動だったらしい。このクハボ600は1200型とつながって特急として走っていたのに乗った記憶があります。でも、こんな通風口があったかな?
飯山線1962.3.4その2
先回が2月6日だったから、3週間近く開が抜けてしまった。その間山陽200、300型なんぞの夾雑物?(失礼)があって、ピントも外れてしまったが、思い出して「その2」を続ける。
十日町を過ぎると、やがて越後鹿渡、越後外丸、越後国を越え信濃国に入ったところが森宮野原と、いずれも豪雪地帯が続く。我々は8時51分越後鹿渡で214レから下車。下り列車は10時08分だから、時間はたっぷりある。ともかくモーニングコーヒーと朝飯の支度を。腹が減っては戦は出来ぬ。
291レを待っている間に野うさぎが1匹我々の視野を横切っていった
4人ほどが雪壁に段をつけていたのは どうやら人道確保=線路を歩かれないように らしい
292レで越後外丸に移動
太陽が出て雪がまばゆく 露出にとまどう
飯山線はいわずもがなだが、戦時中の1944年6月1日飯山鉄道の買収で、線路規格は低くC56が活躍している。何分ともこんな山中を延々と走りぬけ、日本有数の豪雪地帯だから、採算がいいはずはなく、戦前は地方鉄道補助の大口常連=毎年度20~30万円程度を受領していた。
機関車は日車製27tCタンク機1~3、日立製42t1C1の11~15で、後者は国有化で形式2950、2950~2954に。ガソリンカーはボギー車7両全部が上田丸子鉄道で付随車で再起したのは先に記した。他に2軸車が1両(←南総鉄道キハ103)いたが、買収されず、日立航空機立川工場で工員輸送に当たり、敗戦後も残存していた由だが、見損ねたのが残念である。
客車はボギー車は木製と半鋼車で、前者は国鉄制式車より窓が一つ少ない=便所はあるのに、通常便所になるデッキ寄りの独立した1個の窓がないのである。なぜか国鉄に編入されず、高知鉄道や三井鉱山に再起したが、高知には遂に行かず仕舞い、三井は半鋼車体に改造後しか見ていないのが何とも残念至極、口惜しい。
半鋼ボギー客車はは独特のスタイルで冴えたデザインではないが、国鉄半鋼雑形に編入。2軸木製車もオリジナルは屋根のやや深い個性のあるもので、これは松尾鉱山鉄道で見ることができた。