阪神電車112型

阪急202号に続くは阪神だろうと思いながら、総本家宅裏庭の離れ屋に1月26日隔離され、配管サイセイ工事を受けていた。無事2月14日竣工検査合格となり乙訓の陋屋に戻ることが出来た。予想通り「気分は鯉の吹き流し」の素晴らしいタイトルで紹介された事が、枕元にthurukame氏からお見舞いメールで2月2日に届いた。老人撮影の写真も2月19日に到着、やっと紹介できるようになった。

日本最初の都市間急行電車として1905年に開業した阪神電鉄は1911年4月、自社事業用ボギー電動無蓋貨車1両101型101号を竣工させた。これも日本最初であった。その独創的なスタイルが迷図作家の手によって紹介されたのであった。設計目的は電柱や建設資材運搬用で、貨物台寸法は長さが約10.3m、運転台は中央に1ケ所、しかも運転台下が空白といったものであった。工事区間で見通しが効き前後の小運転に便利なように、運転台の位置を高くしたものと考えられる。

同型の増備は1912年8月112型112、113号、1931年?月112型114、115号、1956年9月121型121号の3回、5両に及んだ。101号は1929年1月30日付で111型111号に車両番号は変更された。1933年3月全線パンタグラフ統一でパンタ化された。廃車は111号(1953年)、112、121号(1958年)、113~115(1967年:昇圧)の順である。1938年1月許可で、ポールと救助器取付で国道線や甲子園線など軌道併用線でも使用された。

老人が112型の存在を知ったのは1958年初夏である。先日(2010.12.07)急逝された奥野利夫氏から阪神電鉄の小型車全廃計画を聞かされ、車両調査と撮影をしておこうと思い立ち尼崎車庫を訪ねることにした。氏に車両課の方を紹介して頂き、創業以来の車両調査を始めた。当時、奥野氏の名は私鉄関係でも轟渡っており、最初の訪問で現有車両の型式図を閲覧させていただき、2度目の時には開業時の客車のみならず貨車関係も見せて頂いた。絹布のトレーシングペーパーに烏口による1/30の原図などが保存されていた事が今も頭に残っている。第1号車は111型111号に改番された後に廃車となったが、後身が112型として3両残っていることを教えられた。その日は生憎全車、工場建屋内にあり見るだけであった。しかし、1年待てば屋外で撮影可能になると教えられ、その日を待つことにした。

その日は1959年10月24日に実現した。須磨の爺やも同行してくれたように記憶している。1年待った理由は当時、尼崎車庫は高潮対策として工場、検修施設の嵩上げ工事をしており、その後は伝法線沿いに留置される予定だと聞かされた。急行系3301、3501型に続きジェットカー量産型の搬入があり、試運転開始の報を得て出向いたら、教えられた位置に113~115号の3両が留置されていた。

113号:車体は日本車両で新製され、台車や機器類は手持ち品が再用された。当初ブリル-27G1であった台車は電気機器類などと共に1955年にブリルMCB型に変更された。この時の大きな出来事は運転台出入口が出来たことで、それまでは妻面窓から出入りしていたそうだ。新設された出入口の高さも1550粍程度で、連結器も緩衝器もない。後にレィル運搬車牽引用簡易連結器を取り付けた(緩衝器共)と言うが、見たことなしである。

114号:車体は藤永田造船所の新製、台車や電気機器類も113号同様の経過を辿るが、改造は1年早い。理由は1954年の特急用大型車300型導入に伴ない、車両限界測定車に改造された事による。更に2年後、盆踊りの櫓まがいのものが組み立てられ、架線作業兼用車に変身した。タンクが取り付けられたが用途は聞き忘れた。車庫用地嵩上げ地区最北端線に救援車709号と共に留置されていた。

115号:車体製造は114号同様である。その他は113号同様であった。

高松琴平電鉄デカ1号:1957年9月、仏生山工場で出会った。運転台は自家製。台車はペックハム製で珍しい。鯉のぼりの為には竿が必要。このデカは今も生き残っている筈。いずれまた……。

レイルロード社の阪神電車形式集は高間恒雄氏の大変な努力で刊行された。老人のDRFC時代の思い出話も役立ったかもしれない。素晴らしい書籍を作ってくれた高間さん有難う、万歳!

113号

113号

113号・運転台扉に注目
113号・運転台扉に注目
114号
114号
114号伝法方から見る
114号伝法方から見る
115号
115号
高琴電鉄デカ1
高琴電鉄デカ1

雪景色・花輪線に想う

turukame先輩の投稿「雪景色・花輪線」の素晴らしい列車寫真に混じってヒュッテの室内画像がありました。ヒュッテはダブルルーフのオハ31系客車4輛ほどを、台車代わりに積み上げた枕木のうえに線路横にならべたものです。やまぶき色車体に窓周り青色に塗ってあり、遠目には側線に列車が停まっているように見えます。一輛は食堂、他は宿舎としてスキーや八幡平の観光に供されていたのです。竜が森は1960年代に数回同好会合宿が行われています。
1967年正月休みを利用し、一年先輩のローズ山下氏とともに大阪から米坂線・八郎潟を撮影し竜が森へとたどり着いたのです。スパッツを着けカンジキを履いた雪装備で線路脇をとぼとぼと歩いていると、ドケーと大きな声が聞こえました。雑誌鉄道ファンの撮影地ガイドにも載った好適地なので正月の雪のなかにも先客があったのです。掃き溜めではなく、雪の中にturu一羽というところです。雪深い東北の片田舎でバッタリお会いするとは思いもしませんでした。ヒュッテに戻り、縄張りを荒らしたことを詫び、一献をかたむけ手打ちを期して記念に撮った写真です。網棚からはローズさん愛用の望遠付ザンザブロニカが吊され、卓上には通信員愛用のペンタックスSV・SPが見え、コニパンSS・サクラカラーが装填されています。「彼らは雪に消えていった」と腹立ちが44年後もまだおさまらないように愛想無く記述いただいていますが、竜が森を後にしたふたりはその後常磐線の平と四ツ倉の間で大型蒸機大好きのローズ氏とC62を撮影しました。ローズ氏は全国各地で蒸機を沢山撮り溜めされてるので発表いただきたいものです。
なお、投稿のなかに総天然色画像で到着した気動車(キハユニ26他)に乗り込むスキー客を撮ったものがありますが、そのとき通信員は先頭車を正面線路上から撮影していました。その一枚が2006年10月のクローバー会写真展「鉄路輝く・記憶に残る昭和の鉄道風景」に「全員乗せてくださいね」の題名で展示いただきました。マイカーや宅配便の無かった時代に、スキー場で過ごした人々がスキーを抱えて14:27発の列車に殺到しているところです。次の盛岡行きは16:51分で積み残されると大変です。日帰りの人は随分早い列車で来たのでしょう。
また写真展が開催されるそうですが、準備いただく方々はもとより力作をお持ちの方々よろしくお願いいたします。

和田岬線


兵庫駅に進入する和田岬線DEプッシュプル列車 朝の上り、夕方の上りはほぼ空車である

この時点まだ旧ヤードに機回り線その他も若干残るが その後完全に撤去され再開発で高層住宅が立ち並んでいる 和田岬線発着も半高架ホームに

 和田岬線とは俗称で、正式には山陽本線の一部である。山陽鉄道時代からあって、かつては蒸気動車も運行していた。敗戦後はB50、その後鐘付で知られた8620が長らく働き、DD13を経てDE10が前後に付いたプッシュプルトレインに。そしてキハ35が取って代わり、さらに電化されて電車が。

地表の和田岬線ヤードから高架への接続ランプ線があり、かつてこの区間貨車押し上げ専用にD50が駐在していたのは以前に記した。高架の海側に35kgレールの線が1本あって5線になっており、兵庫-新長田間で列車線が電車線をくぐって山側になるのに並行し、鷹取に達する。すなわちこの35kgレールの線は、和田岬線-鷹取間のかつては貨物、その後は和田岬線電車を引き揚げる専用線なのである。勿論川車新製車の甲種輸送用にも使われる。

阪神淡路大震災の復旧時、この兵庫(高架上)-の線にも架線を張り、本線を1本ずつ復旧する助けとした。その後完全復旧後も架線は取り外されないまま。キハ35が老朽すると、何と和田岬線そのものも電化し、兵庫の和田岬線用ホームも半高架化し電車を投入。


兵庫を出るとぐるりと向きを変え和田岬に 阪神高速高架の向こうは川崎車両


プッシュプル列車和田岬に到着 この時点では折り返し列車の乗り込む通勤客も若干ある

乗客は100%定期客で、それも大方が三菱造船所の職員である。終点はかつて道路を横断して直接三菱に入っていたいたのも短縮し、道路の手前でカット。現在では完全無人駅になり、乗車券自販機もなく、定期客以外は和田岬から無札乗車せざるを得ないが、兵庫に「関所」があって、清算するようになっている。

いくら歴史があっても、肝心の三菱の通勤客が減り続けて、この線が黒字とは到底思えないが、先述のように山陽本線の一部なので、ここだけの収支や採算等は公表されていない。小生などは(電化前)三菱に線路をタダで呉れてやり、三菱に運行させりゃいいと思っていたが、国鉄―JRは何故か律儀に運行を継続。

三菱にしたら、職員の通勤手当が安くて済む=神戸市海岸線経由だと神戸か新長田からの定期券を上乗せせねばならないから、大助かりなのであった。逆に神戸市交通局は海岸線の開通で、当然和田岬線は廃止されると信じて三菱従業員輸送を見込んでおり、完全にアテが外れた。

それが今回和田岬線が急に廃止の方向に向かって進み出したのは、恐らく三菱神戸が大縮小ないし廃止されるからであろう。そんな事態が遠からず来ることは分かっているはずなのに、電化までして三菱に義理立てし続けたJRは理解を超える。廃止後は川車の甲種輸送もなくなるのか。随分少なくはなったが、鷹取で新製電車の一列を見るのは楽しいのだが。

なおこの写真撮影は1987年4月18日である。


片側のみ中央に引戸を設けた通勤専用客車オハ64車内 吊革はともかく窓の保護棒は超満員を想定しているが 三菱の職員が減り続け かつての超混雑を見ることはなかった

「23」の車号を持つ車両

1月2日【11147】でtsurukame先輩より山陽電鉄モハ2011で新年のご挨拶があった。平成23年も2月中旬となったが、平成の年号に因み「23」を名乗る車両を探してみた。

国鉄車両
電気機関車にED23があったが、廃車が昭和35年と早く、1形式1両で最終配置区が久里浜支区であった。私鉄の機関車では北陸鉄道にED231があり、昨年10月25日【10022】「昭和40年代の北陸鉄道金石線」で紹介しているのでご覧戴きたい。
電車ではクモル23、気動車ではキハ23、客車ではナハネフ23とオリエントエキスプレスが運行された時に控車として使用されたオニ23が挙げられるが、ナハネフ23を取上げた。

クモル23
昭和34年から38年までの間にクモハ11とクモニ13を改造して生れた配給車で、000~003、010、050、060の7両在籍した。種車、改造時期、工場によりスタイルは1両毎に異なっていた。その中で003、050、060の3両を紹介する。
クモル23003
昭和38年、元モハ34010を改造したクモニ13008を幡生工場で再改造した。(46-1-15 大阪駅)

 
クモル23050
昭和36年、鋼体化改造のクモニ13027を豊川分工場で再改造した。写真のように正面窓が大きく改造されている。(45-11-22  豊橋機関区)

 
クモル23060
昭和38年、鋼体化改造のクモニ13022を吹田工場で再改造した。鋼体化改造も吹田工場で行われており、ヘッダーが乗務員扉の上まで巻いているのが特徴である。(47-1-4 向日町運転所)

 

キハ23
昭和41年から44年にかけて作られた両運転台付の近郊型気動車で、113系に準じた座席が設置されていた。暖地向けの0番台が33両、寒冷地向けの500番台が21両新製され、暖地向けは主に中国地方で、寒冷地向けは主に陸羽東・西線で使用された。(48-1-28 上/キハ236他4連中島駅・下/キハ2329他2連中島~上八木)

 

ナハネフ23
「富士」と「はくつる」用として昭和39年~45年に1~20の20両が日本車両で新製された。その後昭和43年にナハフ21から4両改造されナハネフ23501~504となった。画像は「みずほ」に連結されていたナハネフ239である。(41-10-13 京都駅)

 

私鉄車両
ずばり「23」が付番されている車両を集めてみた。

京阪電鉄京津線 23
この車両に関しては説明不要であろう。この時期行先板が起終点表示になっていた。(40-3-18 浜大津)

 
江若鉄道 キハ23
元国鉄キハ072(昭和12年/川崎車輌製)で昭和38年に購入した。入線直後の状況は不明であるが、昭和39年から40年頃までエンジンがなくトレーラーで使用されていた。(上・中/40-11-14 浜大津 下/44-10-12  三井寺下)

 


越後交通栃尾線 ニフ23
元草軽電鉄のコワフ115(昭和17年/日本鉄道自動車製)を昭和35年12月に購入した。製造年はこの手の車両としては比較的新しく貴重な草軽電鉄の生残りであった。(41-9-7 長岡)

 
伊豆箱根鉄道大雄山線 クハ23
元国鉄の木製車クハ23を西武鉄道から譲受けたモハ237の車体を利用して昭和35年に鋼体化したものである。同様に元伊那電鉄買収車モハ45はモハ236の車体を利用して鋼体化し、モハ45+クハ23で揃った編成を組んだ。固定編成ではなく、編成をバラして他の車両と編成されていることもあった。西武鉄道モハ236、237は昭和3年川崎造船所製で、同形車は弘南鉄道、近江鉄道、大井川鉄道でも見られた。(45-11-22 大雄山)

 
静岡鉄道静岡線 モハ23+クハ23
昭和35年自社長沼工場で新製された。足回りこそ中古品であるが、自家製としてはよく出来ていると思う。(45-3-10 長沼)

 
静岡鉄道駿遠線 ハ23
静岡鉄道にはもう1両「23」を名乗る車両が駿遠線に在籍した。大正2年名古屋電車製作所で中勢鉄道ロハ8として新製、昭和17年に三重鉄道に売却されホハ18に、合併で三重交通となりサハ364となり、駿遠線には昭和26年に入線した。その後自社工場で鋼体化改造され写真のスタイルとなった。(41-3-9 新藤枝)

 
野上電鉄 モハ23
車体は元阪急1形の26で、昭和32年関西交通工業で改造の上入線している。屋根は丸屋根となり窓が大きくなった結果、スタイルが大きく変わってしまった。(50-8-24 日方)

 
大分交通耶馬渓線 ハニフ23
元九州鉄道の車両で明治23年小倉工場製と言われている。耶馬渓鉄道時代の昭和7年に入線し、昭和40年9月廃車になった。(39-8-18 中津)

 

「23」の車号を持つ車両をいくつか紹介したが、数字遊びの一つとして見ていただければ結構かと思う。一畑電鉄、琴電は前後の「22」「24」は撮影しているが「23」は撮影していない。もとより車号を意識したり、全車両撮影を目指していた訳ではなく、今日に至るまで適当に撮影しているだけのため、これは致し方ない。諸兄が撮影された「23」や「2011」にまつわる車両を是非発表いただければと思う。

京阪バスのトレーラーバス

【11106】「『びわ湖の銀嶺へ』/昭和22年12付き26日の新聞広告」で、湯口、沖中両大先輩よりトレーラーバスについての貴重な体験談をコメント戴いた。私自身は写真でしか見たことがなく、戦後の混乱期に大活躍した位の知識しかないが、約30年位前に名古屋大学鉄研OBのO.A氏と一緒に京阪バス本社を訪問した時に見せていただいた資料等で概略が判明したので報告する。本書込みに当ってもO.A氏より多大なご協力を戴き改めて御礼を申し上げる。
昭和26年10月30日時点で次の8組が在籍した。(前がヘッド、後がシャーシ)

1)京滋営業所4組
①滋101+滋126(1947年式定員/81名)→昭和27年3月登録替/滋2-1011+滋2-1012
②京1080+京1081(1947年式定員/82名)→昭和27年3月登録替/京2-20454+京2-20455
③大2301+大2311(1947年式定員/85名)→昭和27年3月登録替/大2-4521+大2-4522
④京1078+京1079(1948年式定員/58名)→昭和27年3月登録替/京2-20452+京2-20453

2)大阪営業所3組
①大2302+大2312(1947年式定員/70名)→昭和27年3月登録替/大2-4523+大2-4524
②京1132+京1133(1949年式定員/63名)→昭和26年11月登録替/大2-4525+大2-4526
③京1134+京1135(1949年式定員/63名)→昭和26年11月登録替/大2-4527+大2-4528

3)観光課1組
京1127+京1128(1949年式定員/63名)→昭和27年3月登録替/京2-20456+京2-20457
京滋営業所の「大ナンバー」、大阪営業所の「京ナンバー」は転属車と推定される。京滋営業所は昭和27年1月組織改正で京都営業所と大津営業所に分かれるが、トレーラーバスは全車大津営業所の所属となった。京滋営業所の①と④以外は昭和27年に廃車や売却で姿を消してしまい、生き残った①と④は昭和31年6月まで使用され10月に廃車となった。昭和25年頃から通常のバスの車体が大型化すると、小回りが利かず走行可能な道路が限定され、かつ運転操作が難しいトレーラーバスは急速に姿を消してしまった。また、昭和25年4月14日に横須賀発三崎行の京浜急行のトレーラーバスが、乗客が投捨てたタバコのマッチが別の乗客が持ち込んだガソリンに引火して火災爆発事故を発生させ、運転士が気付くのが遅れたため多数の死傷者が出たことも廃車を早めた原因の一つとなった。ちなみにこの事故により「道路運送」と「旅客運送」の関連法案が改正され「危険物車内持込厳禁」となった。

ボンネットバス
我々の世代ではトレーラーバスの撮影は無理であるが、ギリギリ間に合った「ボンネットバス」の画像をアップしたのでご覧戴きたい。

枚方営業所
私市駅→八の坪・八の坪→大和田駅のルートで1日3往復運行されていた。八の坪は奈良市に隣接した田原地区の地名である。ワンマン化の時に京阪交野→下田原→山口川→中番→滝寺→逢坂→大和田駅と田原地区を一巡する直通運行に変更された。昭和53年6月から55年3月まで、職場が大和田駅~巣本~門真団地線の途中停留所にあり、気が向いた時に大和田駅18時40分発の京阪交野行きの最終バスに乗り、交野線経由で帰ったりしていた。清滝団地を過ぎると乗客は数人となり、山口川でほぼゼロ、田原地区を一巡後真っ暗な磐船街道を私市駅経由で京阪交野まで走行した。

 


満員で大和田駅に到着、折り返しの八の坪行もほぼ満員で発車した。
大阪22あ1500/40年式BXD30、登録番号が新しい(昭和49年9月登録)のは、大津営業所からの転属車のためで、元は「滋2い875」であった。(50-5-5)

京都営業所
朝夕のみ運行の山科駅~寺内町間で使用されていた。

 
京2い1394/38年式BXD30、車体は帝国自動車工業製
(49-12-19)

 
京2い1396/40年式BXD30、車体は川崎航空機製
(49-12-19)

 
京津線の踏切を渡りバスターミナルに到着。
(50-5-11)

 
事業用となり白ナンバーになった「京22や6」/38年式BXD30、車体は川崎航空機製(
50-3-30/三条京阪)

大津営業所
長等公園~浜大津~国鉄大津駅~朝日ケ丘住宅間と石山駅~大石小学校前~曽束間で使用されていた。

 


滋2い886/40年式BXD30、車体は川崎航空機製
(50-3-9 下50-3-2)


滋2い888/40年式BXD30、車体は帝国自動車工業製 
(50-3-9)

 
滋2い887/40年式BXD30、車体は帝国自動車工業製 
(50-4-20)

昭和51年旅客営業停止後事業用として京都営業所に転属「京22や180」となった。昭和53年3月「京都定観50周年」に際し、「おいでやす京都号」として定期観光用に復活して「京22か1981」に、イベント終了後再度事業用となり「京22や304」に、62年10月に枚方営業所に転属して「京22か4264」となり、京都競馬場開催日に職員詰所として使用。この時は京阪バスカラーに戻っていた。廃車後、愛知県のバス愛好家に引取られ、当初は京阪バスカラーのままであったが、現在は名古屋市バスの旧塗装になり、「ボン太号」の愛称で名古屋地区のイベントに参加し、元気に姿を見せている。10年位前小牧空港から地下鉄藤ヶ丘駅まで乗せてもらったが、車齢30年とは思えないほどよく走った。

 
京22や180 
(52-3-6)

 


京22か1981「おいでやす京都号」
(53-4-29)

山陽電車200型

 湯口先輩、後出しですみません。山陽電車と聞けば、黙ってはおれず遅ればせながら投稿しました。
▼先ずは、件の山陽電鉄カラーの塗り分け200型、3扉車。塗装まだ新しい頃、須磨浦公園-塩屋間、1963.1.1撮影。後方の建屋は須磨浦公園駅、階上から鉢伏山上へのロープウェイが発着しています。

▲▼その1年前、100型、200型の暗黒ぶどう色塗装車、同号車、同区間。後方の国鉄山陽本線はまだ複線です。普段波静かな須磨浦に、冬季で白波が立っていました。1962.1.1撮影。
▼同じく200型、206+207、2扉車、同じ区間、1962.1.1撮影。

 さてこの、200型ですが、ここに良い文書と図面がありますので紹介します。
それは職員であり、かつ鉄道ファンでも有名な亀井一男さんや佐々木さんによって記述されたと思える一文が、当時の山陽電車の社報に掲載されていました。少し長文です。無断転載ですが、出所を明示、50年前の文書に免じてお許し下さい。200型の功績と大型化への苦心が描かれています。
山陽電気鉄道株式会社・社報臨時号No.6(昭和36年9月)より、8・9頁を抜粋しました。本文および形式図は原文のままです。

200型車両の大型化改造
200型の生い立ち
 昭和11年、まだ山陽電車という名よりも宇治電とか兵電とか当社の前身の呼名の方が、耳慣れていた頃、この200型は生まれました。当時は神戸姫時間の直通は全ていまの100型総数35両が単車で運転しており、神戸明石間には、通称バッテラと呼ばれた木造社31両が運転されていました。この木造車は明治43年から大正10年までの間に製造されたもので、そのうち7両の車体を新品と置き換え、台車や制御装置を大改造したのがこの200型です。続いて昭和13年に、同型で更に5両の更新が行われ、また昭和16年網干線の開通に対処して、新車として3両が完成し、いまの2扉200型15両が揃ったわけです。

 そのころ流線型という言葉がはじめて普及し、空気抵抗など全く関係のなさそうな低速の市内電車まで、猫も杓子も前面を曲面にするのが流行となり、この車も御同様にそのまねがしてありますが、形として大変まとまっていて、流線型流行時代の電車の前面の傑作の一つに数えられています。

 しかし、700型のような大型車や、2000型のような高性能車が、国鉄や大手各社同様にとばすことになろうとは、夢にも思わぬ当時のことですから、最大幅2m400にも足りぬせまい車体で、一方駅員無配置があたりまえだったので乗務員が集札に便利なように出入口は両端にだけあり、全く現代の混雑時には縁のない構造になっています。

現在の200型
 戦時中の輸送に応ずるため、その後に引続いて新造された200型19両は片側3扉となり、2扉3扉あわせて現在の34両が終戦までに揃いました。ところが、最初の12両は軌道線の車体更新車で600V専用であったので、戦争中もあまり無理な使い方をしなかったせいか、あるいは製作当時の技術が戦前では最も円熟した時代のものであったためか、車体の状況は現在でももっとも良好であります。

きらわれる200型
 残念ながら、現在の200型2扉車はきらわれ者です。毎朝のラッシュ時には、下りの閑散なところを走らされたり、ごく短距離のローカル運転や、予備者としてお茶をひいています。それは、扉が車の両端にだけあって、しかも車幅が狭く、お客様が中央まで入ってくださらないので、出入口付近がひどく混雑しながら中央部は空いていて、結局の収容力が最も少なく、乗降時間も長くかかるという不便さのためです。

 それでは215号以降の車のように中央に扉を設けたら解決するのでしょうか。それには3扉の200型が愛される200型であるのかを考えてみればわかります。今年(筆者注:昭和36、1961年)の末には100型がすっかり姿を消して270型に生まれ変わりますし、来春には(同、昭和37、1962年)新車6両が登場しますと、客車総計122両中、小型車は200型34両だけになります。つまり大型3に対して小型1の割合です。ラッシュには大型車でも満員のダイヤへ、ときどき小型車がまぎれ込みますと扉の数が3つあっても、からだの小さい200型では乗れる限度がありますから、それだけ混雑もひどく、或いは積み残しも多いわけです。からだが小さい限り、扉の数を一つ増やしたくらいで安心はできません。

 また小型車は3両連結にしたら大型車2両連結と同じくらいの輸送力になるのではないかと考えられます。200型を3両連結することができればそれほど簡単なことはありません。しかし残念ながらそれが大変なのです。かりに2両連結3列車を3両連結2列車にすると、たちまち別に1列車を新造せねばなりません。電車は大きくても小さくても、1両はまちがいなく1両ですから、保守費も税金も利子も電力料もみな両数に比例して増加します。それも我慢するとしましょう。法律によって3両以上連結するにはブレーキは自動制動でなければなりません。またすべて貫通式にしなければなりません。

 ところが200型は小さくて自動ブレーキ装置が床下へ入りきりません。またその昔、併用軌道の路面から昇降する構造だったため、台車が中央に寄り過ぎていて、台車から車端までの長さがなみはずれて長く、貫通幌をつないでスムーズにカーブを通ることができません。となれば3両連結もそう容易なことではないわけです。

200型の再生
 なんとしても200型は小さすぎます。中央に扉をつけてもすぐゆきづまりがくるでしょう。さりとて3両連結するには大改造が必要ですし、車両数も増やさねばなりません。270形式の車体を新造してのせかえるにはまだ惜しい気がします。そこで中央扉をつけ、3両以上連結できるよう改造する費用にもう少し足して、巾も大型車なみにひろげれば250型と同じ能力になるのではないかということになりました。これはなかなかむつかしい作業ですが不可能ではありません。いまその具体的な工作方法を車両部で研究しています。出来上がりの姿は、長さは15mで小型車並み、側面の形は3扉の200型に似たかたち、正面は270型そのまま、と考えていただければよいと思っています。そしてとりあえず、250型と同様に大型車2連として使用もできますし、必要に応じ3両編成でも運転できることになります。
第4時輸送力増強計画の車両関係工事の一部として、来春から夏にかけて6両の工事が完成する予定になっています。

 かっての花形であったこの車も会社の発展に伴って、老朽化する以前にこうして姿をかえてゆくことになりました。この機会にその過去の功績をかえりみ、また将来の活躍を期待したいと思います。(原文のまま)
 ▼最後にステップの位置が、判り易い斜め上からの写真です。電鉄須磨駅にて。
手前が下り明石行き200型2扉車、奥が上り兵庫-姫路間の各停200型、第4次製造型。

▼下り明石行きの後部です。右の信号所の建物は使われていませんが現在も残っています。
1961.2.19撮影。

次回は、200型の改良300型について予定をしています。

老人も撮っていた山陽電気鉄道


山陽電気鉄道200 1958.2.27 西新町

226 同

米手作市氏はかなりのへそ曲がりで、かつ妙なところに気付く御仁なのであろう。老人にとってはどうでもいい、標準軌電車のテールライトの位置なんぞで、ナイーブで老い先短い老人を悩ますのであるから。お蔭で老人は、確か俺だって、山陽電気鉄道は何度か撮ったことがある筈と、皆無に等しい記憶のきれっぱしを必死に搾り出す羽目に。これで寿命が縮んだらどうしてくれる。確かにテールライトは上にあったが。

探すとあったあった。1952、1958年に撮っていることとは撮っていたのだが、およそ興味がなく、いままでほぼプリントとは無縁であった。で、先ずは200型とその一統の1958年の姿をご覧頂き、その後はエイ面倒くせェ、全部ぶちまけちまぇ、と、例により「これでもか」とアップしてご笑覧に供する。解説はどなたかにお願いしたい。老人はヘトヘトに疲れて、一刻も早く「水薬」(厚生省でなく財務省所管の)を飲みたいのであります。


224 須磨浦 1958.3.9

355と貨車ワフ603 姫路 1952.9.23

特急829 姫路 1952.9.23

11車体 西新町 1958.3.9

20車体 西新町 1958.3.9
357 西新町 1958.3.9

2004 西新町 1958.2.27

特急2006 須磨浦 1958.3.9

特急2007 一ノ谷 1958.3.9 

特急822 須磨浦 1958.3.9

特急824 須磨浦 1958.3.9

特急827 須磨浦 1958.3.9

特急2701 須磨浦 1958.3.9 山陽本線はまだ複線で、国道にはバーハンドルオート3輪がのんびりと 道路に白線なんぞ引いてない

確か西代でもロクサンの残滓を撮った記憶があるのだが、今日は探す気力がない。また後日に(ナヌ?もう結構だと!それなら余計探し出してやるゾ) 老人はへそ曲がり=それなら米手作市氏と同じだが=なのであります。

須磨が電車を?


山陽電気鉄道203

米手作市氏からのお名指しは身に余る光栄といいたいが、その実この老人に、事もあろうに電車―それも軽便ならイザ知らず、標準軌間電車の解説をせよとは、そりゃ余りといえばあんまりな、ミスキャストもいいとこじゃござんせんか。勘ぐれば、日ごろ歳を笠に着た大言壮語が目に余り、乙訓ご老人がおとなしくせざるを得ないこの時期に、一発かまして恥をかかそうという魂胆と見たが。いや歳をとると人間僻みっぽくなるものであります。

なるほど現在は、恐らく誰よりも山陽電気鉄道の近く住んではおるが、申し訳ないが日頃は目にする電車毎に、気の毒なぐらい乗客が少ないと気をもんでいるぐらい。明石以西はもう少しマシだろうが、少なくとも明石以東は、JRにほぼ完膚なきまでに打ちのめされているのである。JRの須磨海浜公園駅新設で、ある程度利用があった須磨水族園団体客や海水浴客までJRが分捕り、対抗上終日月見山に特急を停車させているが、到底歯が立たない。

閑話休題(=「それはさておき」と読む)、米手氏から頂戴した「お題」だが、正直よく知らない。まあ川崎車両特有というか、あんまり褒められんというべきかの流線形電車ではある。日車は「びわこ」号で独特の流線型を創出し、なぜか電車はそれっきりで、あとは気動車に移された。川車は江若キニ10でその亜流を造り、その後こんなスタイルの電車にしたんじゃないかと思うが、全くの見当外れかもしれない。少なくとも扉上から妻面にかけての、幕板と屋根との仕切りカーブは江若キニ10の流れであろう。

元来この電鉄の兵庫-須磨間は兵庫電気軌道として1910年3月15日開業し、1917年4月12日明石に達している。1927年1月1日宇治川電気に合併し、1933年6月6日山陽電気鉄道に譲渡。兵庫駅前の路上を発し、東尻池で神戸市電と平面交差、併用軌道と新設軌道を交えて須磨へ。一ノ谷付近でまた国道2号線上をゴロゴロと西へ向かい、また新設軌道、併用軌道で明石へ。

明石以西は神戸姫路電気鉄道として1923年8月19日明石-姫時間を一気に開業。その後宇治川電気合併→山陽電気鉄道という流れだが、こっちは地方鉄道で1500V。ところが明石以東は軌道で当然600V、路面乗降停留場も多く、車体幅も狭い。この200型は201~207が1936年、208~212は1938年製で、扉下に踏込と折り畳みステップがあり、路面からだと都合3段上らねばならない。まあこれは京阪京津線や福井電鉄、京王電鉄やら、類例はいくらでもある。明石で線路を接続し、西新町にデッドセクションを設けていた(そうな)。

話を敗戦後に飛ばすと、戦災による車両の著しい不足=非常事態とあって、何と標準軌間なのにモハ63が割り当てられ、20両を投入。明石以東の軌道区間も車両、建築定規を拡大し、老人も路面を行く63を見て正直肝を潰さんばかりだった記憶がある。一ノ谷前後の併用軌道区間も山側に移設され、今日の山陽電気鉄道になった、というお話。「お題」とは限りなく関係が薄そうだが。ついでながらこの区間が地方鉄道になったのは、実に1977年度なのである。

手元に恐らく谷川義春氏撮影と思われる写真があるので添付しておく。200型は1枚しかないので、31、32(1920年梅鉢製)は「おまけ」である。



これは舞子のあたり?かと思うが、電柱にご注目あれ。旧併用軌道で使った溝付レールを2本束にして使っているが、同様の電柱は現在でも塩屋の東方に見られるので、ご興味ある方はどうぞ。

山陽200型

 

乙訓の長老様の分解交番検査は無事済んだとの話を聞いて安心しております。あとは組み立てるだけとか。まもなくぴかぴかのニスの香りもすばらしく出庫されることと思います。

その間、山陽電車といえば須磨の大老様に解説をお願いできないでしょうか?できれば軌道線対応のステップのついていた当時の写真もあれば(いや、必ずある)見せてください。京都の人間から見れば山陽電鉄も神戸電鉄も区別がつきません。関大と関学がわかりにくいように・・・

飯山線1962.3.4


逆光の中214レと上越線734レ=越後川口 自分でも大好きな写真の一枚なんだが 

やったら寒い日が続いたと思ったら、昨今は3月下旬並みの暖かさ。北陸の大雪も一段落したようだが、1月末9歳上の姉の葬儀で上京した際は、往路新幹線が名古屋で7分、新横浜で2分遅れていたが、東京には定時着。当然ながら関東圏では、北陸の大雪など、どこの話?全く関心がない。48年前のサンパチ豪雪の際と同じである。

諸兄の素晴らしい雪中写真がいくつか出て、そういやぁ、俺もサンパチや杉津、大桐以外、重澤旦那と飯山線に行ったことがあったなぁ。結構写真も撮ったなぁと、限りなく薄れ行く記憶を搾り出した。時は1962年3月4日、つまりサラリーマン初年兵の終わり近くであった。ルートも全く記憶がないのだが、撮影順序からは、急行「北陸」で長岡へ、上越線642レで越後川口へ、目的たる飯山線214レに乗車した、としか考えられない。


越後川口で214レに乗り込む 天気は「いまいち」
発車待ちの214レ

十日町で215レと離合

十日町で トンビや角巻なる和式防寒衣が健在だった
十日町での離合 214レは14分 215レは31分停車する

十日町発車前の214レ
その間入換も行われていた

一路鹿渡目指す214レ

なおその後の飯山線(に限らないが)はダイヤ改正毎に列車がキハ化され、C56牽引列車は減る一方である。この日は当初天気が「いまいち」だったが、幸いその後回復したのは、新島譲の加護か、天が「自ら助くる者を助けた」か。

雪景色(2)矢立峠・青森県側

下の2枚は、峠を越え、青森県側で大晦日に撮影した補機付きです。
 1966
年元日、矢立温泉、鉄橋を行く列車が見える寒い部屋で起床。朝食もそこそこに出かけました。雪は止んで少し青空が見えたが、すぐにまた雪空になって来ました。
  国道を通り津軽湯ノ沢方面に向け峠を下ります。この日もダイアは雪で乱れていました。トンネルを出たところのカーブが今日の撮影の中心地です。
  DF50曳く急行『第1津軽』が峠を下りました、補機は峠の登り列車にも付きません。『出世列車』と呼ばれた「津軽」、上下・第12の計4本があります。間違っても『出征列車』と呼ばないでください。後部から順に、マニ、オロネ、オロ、オハネ2両、その前はナハ10系ですか。補機が付かないのは相当軽量化された編成なのでしょうか。客車に詳しい会員諸氏へ、編成に間違いはないでしょうか。

普通列車も補機付で登って来ます。せっかくの補機をと意気込むが巻き上がる粉雪と蒸気が邪魔になります。

上り急行日本海が登ってきました。オユ、オロ61、スハネ30などが見えます。秋田で1両を、新潟からはさらに2両を増結、編成方向を逆にして大阪に向かいます。


  雪国で、見て楽しいのは、天気のよい日の墨絵のような山々、雪によく映える蒸気機関車。逆に辛いのは寒さ。特に風には弱かった。粉雪や弱い吹雪程度なら大丈夫でも、強い風と吹雪には参ることが多かった。現代のように手軽で便利な使い捨てカイロなどがない時代で、「桐灰懐炉」なるものを携帯していました。ハッキン懐炉もまだない時代です。『フーフー』しながら灰の先に上手に火を付け、上下に針のついた細長い空間に収め、金属製で外側に繊維粉が糊着(フロッキー加工と呼ぶ)された金物の容器のふたを閉めて使う代物でした。肌に近づければとても熱いし、服の上からではなかなか温まらない代物、それでも寒さを少しばかり凌いだのでありました。  それに吹雪では、遠景の見通しが利かず、写真も良く撮れません。

峠を下り、140分遅れの客車で碇ヶ関に着きました。碇ヶ関の構内風景です。
矢立峠も二度訪れたのですが、翌年は吹雪が激しくて結局、陣場駅近くで撮影するのみでありました。 
 次回は花輪線です。偶然にも当会会員とばったり出くわすことがありました。ローズ・Yさんと現在の大阪通信員さんです。お楽しみに。

半世紀前の淡路交通(5)


洲本駅で発車待ちのモハ二2006+クハ111

乙訓の長老より3回に亘り淡路交通の車両について詳細かつ解かり易く解説いただいた。鋼体化改造のように大きく手を加えた場合、改造費は資本的支出とみなされ、現在簿価に加算された再評価価格で減価償却が行われることが判る。また、(4)の準特急様が書き込みされた、昭和40年度新入生歓迎旅行のコース、見学先等、企画された方のセンスの良さは、さすがDRFCであると思った。長老の解説を少しだけ補足させていただきたいと思う。

モハ二1003
、廃線時まで在籍し、半鋼製に改造されていたが南海のタマゴ型の原形をよく残していた。(40-6-6 宇山)

 

モハ609+モハ610
阪神から来たモハ609と610は淡路交通の付番方式ではモハ1012、1013となるべきところ、車体に609、610の切抜番号がしっかり貼り付けられていたので、それを活かしたとのことであった。長老が撮影されたパンタ側の写真は非常に珍しい。(40-6-6 賀集)

 

モニ500
長老の解説の通り元国鉄の配給車モヤ4004で、事業用車が譲渡された例は非常に珍しい。長老が撮影された時と比較すると台車が振替えられているが、モハ二1005が鋼体化された時に振替えられたものと思われる。(40-6-6 宇山)

 

モハ1010+モハ1011
昭和41年10月1日廃止後、当時輸送力増強を進めていた水間鉄道に譲渡され、同社のモハ362、363として再起した。使用期間は短く、昭和46年11月、南海電鉄が1500Ⅴ昇圧により不要となった1200形導入による車種統一で廃車となった。

 

 


上/淡路交通時代(40-6-6 宇山) 中/貝塚駅に進入するモハ362+モハ363、下/モハ363
 (45-5-24)

鉄道廃止後はバス専業となり、昭和60年6月8日の大鳴門橋開通により淡路~徳島間、平成10年4月5日の明石海峡大橋開通により翌日の6日より淡路~大阪・神戸間の高速バスの運行を開始した。島内のローカルバスはマイカーの増加や過疎化により乗客の減少が続いているが、淡路~阪神間の高速バスは好調のようで株主配当を行っている。他社と比較すると車両の代替が早く6~10年で実施している。バスの寿命は通常15年前後であるが、6~8年目に再生工事(鉄道車両の更新修繕に相当)を行い、更に4~5年後に再々生工事が行われるが、淡路交通の場合は再生工事を行わずに廃車している。車齢が新しいため他社で再起することが多く、関東では東野交通、松本電鉄、ホテルグリーンプラザ上越の送迎車で見られた。(これらは偶然見たもので、探せば他にもあるかも知れない)

東野交通
平成6年に購入した「栃木22う733」と「栃木22う736」の2両が在籍した。2両共60年式P-LV314Mで、前車は宇都宮営業所西原車庫の所属で宇都宮~真岡間等で、後車は真岡営業所益子車庫所属で宇都宮~益子間等で使用されていた。宇都宮市内で初めて見た時「なんで淡路島のバスがここで走ってるんやろ」と不思議に思った。(H6-9-11 西原車庫)

 

松本電鉄
平成6年に老朽車の代替として60年式P-LV314M、平成9年に2年式U-LV324Mを購入し、松本地区で使用されていた。(H9-8-10 松本駅前)

 
60年式P-LV314M

 
2年式U-LV324M

グリーンプラザ上越
上越国際スキー場の中にあるリゾートホテルで、61年式P-LV314Mが1両在籍し、越後湯沢駅~ホテル間の送迎バスとして使用されていた。(H10-3-15 越後湯沢駅前)

半世紀前の淡路交通(4)

1965年4月28日~29日にDRFC恒例の新入会員歓迎旅行が四国・淡路方面で開催された。入会して始めての行事参加であり、緊張しながら京都21時35分発645レ宇野行き夜行に乗った。当時は国鉄大型蒸機に夢中になっており、何でC58と気動車王国の四国や田舎電車の淡路に行くのか多少不満であった。しかし、今になってみるとよくここを選んでくれたと感謝したい。前回の淡路交通(3)でカラー写真を掲載されている大阪通信員さんと同じ写真があるので、おそらく通信員さんが選び、新入会員を引っ張っていってくれたものと思う。宇野から宇高連絡船で高松に渡り、高松5時25分発125レで阿波池田に向った。DRFCは日頃から行いのいい人ばかりで終日雨。池田の駅前大衆食堂で朝食後、8時47分発324レで徳島に向う。徳島で8620を撮ったりしているが、それから先は鳴門に出て船で福良に着いたはずだが、記憶が無い。淡路交通ではFさんが列車交換する毎に対向する車両を撮っていたが、雨の中を周囲を気にせず「窓を開けてくれ」と言うのを軽蔑の眼差しで見ていたことを覚えている。宇山車庫では数枚撮影したのみであるが、一部掲載させていただく。宇山の後も21時頃に神戸に着いたがその間全く記憶にない。その後、島の電車は再訪してでも記録しておけばと悔やんでいるが、あれもこれもできないのでせめて見た、撮ったでもいいとしよう。

1965.4.29 宇山 台車に群がるDRFC参加メンバー

今は第一線から引退されている方もおられるが、今尚毎回飲み会に顔を出される方も見える。

 

1965.4.29 宇山 2007

ご説明によるとキハニ6→モハニ2007(1948.9)ということですか。台車が電車タイプではないので元キハニは何となくわかりますが。

 

1965.4.29 宇山 元阪神609+610

乙訓の老人さんが2度撮られた阪神電車。同じ車両を譲渡先等他の場所で再び撮るのは感激ものですね。ところでこの車両が阪神で活躍していた頃のダイナマイト打線は別当、藤村、土井垣で真っ黒なユニホームを着た時代もあったと思います。古い話で恐縮です。

「堺まつり」のデト11

昭和50年10月19日のこと、何を思ったのか、朝から阪堺線の撮影に出かけた。新今宮→南霞町から阪堺線に乗り住吉で下車。交差点で何枚か撮影後、我孫子道まで来たところ、反対側のホームにデト11の花電車が停車しており急遽下車して撮影。次の電車で大和川を渡って堺市内に入り宿院で下車して撮影した。
この日が「堺まつり」であったことは全く知らずラッキーであった。当日は東湊~住吉間の臨時を含めて増発され終日賑わっていた。

【デト11】
関さんが書かれておられる通り、昭和27年足回りや機器類は旧車の余剰品を流用して帝国車輛で新製されている。この手の車両は実用一点張りのものが多いが、丸味を帯びたフロント等しゃれたスタイルで、さすが南海と言ったところである。関さんが描かれた当時と比較すると、テールライトがトンガリ帽子形から普通のガイコツ形に取り換えられる等多少の変化がみられる。平成12年に廃車となったが解体はされておらず、車庫の一般公開時に見ることができる。

 

【東湊~住吉間の臨時電車他】
東湊~住吉間の臨時電車は「堺まつり」の他正月にも運行されていた。当時は乗客が多く、全車ツーマン運行で広告電車も存在しなかった。ワンマン化は上町線(我孫子道入出庫系統を含む)が昭和51年7月1日、阪堺線は昭和54年10月1日であった。

 

 

350形と500形は系統幕があり、阪堺線は「い」、上町線は「ろ」、平野線は「は」を表示していたが、他形式にはないため、あまり意味はなかった。

【たまにはバス】
泉2あ5525(42年式RB10)
エンジンは日野、車体は川崎のレアな組み合わせの元中1扉(引戸)ツーマン車のワンマン改造車。中扉を廃止して、扉と戸袋部分を窓にして前後に扉を設置したため、このようなスタイルになった。同様の改造車は大阪市バスにも存在した。中1扉ツーマン車の前後扉ワンマン改造車は阪急バス、京都バス、京都交通等にも存在したが、中扉を締切りその部分に座席を設置しただけで、ここまでは手を加えていない。

 

泉2あ5225(43年式BT100)
エンジンが床下にあるため、後部のデットスペースがなく後扉が車端に設置されている。ホイルベースが短く、非常口が後部中央にあるタイプ(BT51、BT71)はローカルバスを中心に相当数存在したが、写真のタイプになってからのものは少なく、関東では東武バス、群馬中央バス、上信電鉄、関西では南海電鉄以外では大阪市バス位かと思われる。大阪市バスはこのタイプが好きで昭和50年まで導入されていた。また、近鉄バスには特注のジャンボタイプが存在した。全くの余談であるが上信電鉄の車両は元大阪万博会場内で使用されていた。廃車後自動車愛好家に引取られ京都府下の某所で保存されている。

半世紀前の淡路交通(3)

電化に合わせ南海電鉄から、運輸省規格形のモハ63型20両割当見返り供出車両として、5両の木造電動車が入線した。南海からは後に2両増車された。次いで阪神電鉄の鋼製廃車体を2両購入。自社宇山車庫で手持ち部品を取付け、電動車とした。以下、奥野師匠に教えられた事を交え述べる。

*モハニ1001・入線1948.01.23→クハ101・制御車化1953.10:1961.06.20廃車。元加太電鉄モ30の旧番号を持つ。車体は南海電化時(1907.8.21)の新造車(1907.07日車)で、電1形10両のうち3号車が昭和初期に鋼体化名義車となり、抜け殻を加太電鉄に売却したものであった。加太電鉄は1942.03.14に南海鉄道に併合されたので、南海電鉄から譲渡されたことになる。車体は【10722】で紹介された軌道線101形に似た面構えの正面3窓で、台車は加藤BW型、電動機はWH101‐1(37kw×4)が加太時代。淡路では台車BL・27GE‐1と電動機は×2になっていた。譲受時価格は1,181,000円、1950年再評価で600,000円、制御車化で400,000円。阪神中古車体の再生後に廃車。

*モハニ1002・入線は前と同じ、鋼体化1955.01.10。元加太電鉄モ31。これも南海時代の1937年に鋼体化名義車になったもので、原車は製造1909.07・天野であった。これが前窓5、関西タマゴ型の最初の電車であった。台車BL27E‐1と電動機はモハ30と同型で×4となっていた。鋼体化は台枠再用で内装は木造、台車をBWタイプ、電動機をTDK‐30に、出力72㏋×4に強化している。購入時価格245,000円は鋼体化後、再評価で4,125,000円となった。1958.09.18にドアエンジン取付、1960.02.01貫通路設置、幌を取り付けた。更に台車をDT10、電動機はMT‐4・に取替、クハ112とMTc編成を組んだ姿を見ている。この届けは翌年1961.07.05らしいが、田舎ではよくある話、気にしない。

*モハニ1003・入線は前と同じ、簡易鋼体化1959.06.15。元加太電鉄モ32である。この電車の来歴は先の1002号と同じ、鋼体化は屋根を残し柱や外板を鋼製とした。台車BL27GE1、出力37kw×4、制御器・制動装置MK15・AMJと、淡路標準方式になった。

*モハニ1004・入線は前と同じ:1961.02.20廃車。次の1005号と共に南海での車歴は同じ。電3形1921年川崎造船所製造とある。その後1940年に改造を受けモユニ525,526となる。これが迷図作家紹介の木造4扉車であった。そして1944年6月開業の多奈川線専用となり、沿線に建設された川崎造船潜水艦工場に向かう産業戦士専用車として無座席車となった。終戦後、この2両は加太線に配置されていたとか。これが縁で紀伊水道を渡った。台車BL77E2、電動機の出力37kw×4、定員90人は1001~1003と同じが座席定員(60)の記載なし。阪神中古車の再生後に廃車。

*モハニ1005・入線は前と同じ、鋼体化1961.05.25。来歴は1004号と同じで車体新造の鋼体化車。淡路唯一のクロスシート車。訪問時に確認できず、後に京都鉄道趣味同好会誌”急電”で概要を知った。ここでは大阪通信員撮影のカラー写真で紹介する。台車DT10、電動機TDK30・53kw×2、制御器はPC型、制動装置はAMJとなっていたが、後年変更があったようだ。

*モハ1010、1011・入線1956.08.24。1010→鋼体化1957.06.05、モハ1011→鋼体化1958.03.20。この2両は入線後に車体新造で鋼体化された。原車は前面5窓タマゴ型の電8形132(1924.10・梅鉢鉄工)号と電5形120(1921.10・川崎造船)号の2両であった。その後、改番を経てモハ1025、1027となり共に加太線用となり、本線新車投入に伴う玉突きで淡路島へ送られた。台車BL・MCB2、電動機GE-218(52kw)×4、制御器は日立PR200、制動装置はAMJ、定員90(52)人となっていた。車体製造は昭和車両工業所と名乗る今も知らないところである。譲受価格は1,025,000円、鋼体化後の再評価で5,654,000円になっていた。

*モハ609、610・竣功1960.06。木造車101、1004号追放のため、阪神電鉄で廃車(1960.02.05)になった車体2ケを購入、宇山工場で手持ち台車と電装品で再生した。この2両、阪神時代とパンタを見れば向きを変えている。台車は609にBWタイプ、610はBL・27GE1をあてがい、電動機はTDK30・53kw×2の出力。単車走行可能である。老人は1954年秋、この2両を伝法大橋で撮影している。その2両と再会出来て感激であった。評価額は不明。

*モニ500・入線1950.07.28→鋼体化1952.10.10。元国電モヤ4003である。鋼体化までの期間が少ないところをみると、相当酷い状態でやってきたものと思える。元モハ1だけに電装機器は国鉄の標準品で送られて来ており、その後の標準化に役立ったと思われる。ただ連結器は間に合わずで、そのくだりは須磨の爺やの薀蓄をお読み下さい。入線時評価額は957,681円と記録されていた。

淡路交通にはその後、2回乗ることが出来た。1961年秋と1966年初夏に「鳴門観潮」のためであった。

1966年の時に外部塗色が変わっているのに気がついた。1960年訪問の時は窓下濃チョコレート、窓上淡クリームであったとの記憶が残っている。準特急氏から「新歓」の帰途に訪ねたと便りがあった。それが紹介されることに期待を寄せている。大阪通信員さんの思い出はいかが?

DRFC現役時代、須磨と行を共にすることは殆どなかった。しかし生中の時だけは別で、この日も15時頃の南海汽船で「深日港」に上陸、愛用していた東福寺口経由、ミュンヘンで大ジョッキを煽りながら島の鉄道について益々の隆盛を祈念した筈あった。

モハ1002

    モハ1002

モハ1003
モハ1003
モハ1005
モハ1005
モハ1010+1011
モハ1010+1011
モハ609
モハ609
モハ610
モハ610
モニ500
モニ500

デト11

年末年始お休みでした、関三平さんの「昭和の電車」シリーズが再開されました。

また、阪堺電車ですが無蓋電動貨車のデト11です。もちろん私は見たこともありません。しかし、昔はこんな電車はどこの鉄道にもありました。国鉄のクルやクモルを始め、京都市電にもありました。京都市電の無蓋電車は中央市場からゴミを運び出すのに使われていたようですが、どこへ持って行ってたのかは知りません。今回も乙訓の長老様にご高説を伺うことにしましょう。

都電8800形カラーを変更して増備

都電8800形の平成22年度分の増備車5両が、昨年10月と12月に登場した。8806と8807の2両が従来のローズピンクからバイオレットにカラーが変更され10月22日より、8808と8809の2両がオレンジ、8810がイエローとなり、12月25日より営業運転を開始した。予備車として待機している8809以外の4両と8801に1月23日までの予定でヘッドマークが取り付けられている。

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-29 荒川車庫前

 


上/
22-11-23 熊野前  下/22-12-28 荒川車庫前

 
上/
22-12-28荒川車庫前  下/22-12-29 飛鳥山

 


上/
22-12-30荒川車庫前  下/22-12-29 飛鳥山

 


22-12-28
荒川車庫前

【他形式の動向】
(1)7500形
             
7500形の動向については、【8261/2010年5月22日】でお知らせした通り、8800形との置換えで順次廃車が進み、平成22年10月末日時点で7505、7510~7512、7520の5両が残るのみとなっていたが、8806、8807の増備により11月に7505、7510が廃車され、残るは7511、7512、7520の3両となった。この3両も8808~8810と交替で廃車されてもおかしくないが、1月8日時点では、7511と7512は常時運用に入っており、7520が予備車となっているようであるが、姿を消すのは時間の問題であろう。7511は【8489/2010年6月6日】でデカンショ祭り号さんの報告の通り阪堺線旧塗装に変更されている。

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-29 荒川車庫前

 
22-12-29
荒川車庫前

(2)9000形
他形式と共通運用で日常的に使用されているが、貸切運行時に指名が掛かることが多い。9002は正月期間中「賀正」の表示板を付けていた。

 
22-11-23
熊野前~宮ノ前

 
23-1-2
町屋駅前

(3)8500形
【8261/2010年5月22日】での紹介時点では8503と8505にラッピング広告が貼られていたが、現在は解除され、8502と8504に貼られている。スポンサーは前回と同じ警視庁でデザインは変更されている。

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-28 荒川車庫前

 


上/
22-12-29 飛鳥山  下/22-12-28 荒川車庫前

(4)7000形
【8261/2010年5月22日】の時点と同様22両が健在で主力として活躍しているが一部の車両のラッピング広告がスポンサーの変更により変更されている。今年度から新車と交替して廃車が始まる予定である。今年度の新車は8800形に変わる新形式車が登場する予定である。

 
22-12-28
荒川車庫

 
22-12-28
荒川車庫前

 
22-12-28
荒川車庫前

「カレチ」という漫画

先日、ふと手にした講談社のモーニングという漫画の見ていましたら、「カレチ」という作品が掲載されていました。モーニング自体は、週刊ですが、月一回の連載の作品です。

文字通りカレチ(専務車掌)がモデルになった作品で、舞台は、昭和40年代後半の大阪車掌区。そこに勤務する新米カレチ荻野の奮闘と成長が描かれています。

DRFC OB諸兄の身近な国鉄が舞台です。

今まで連載をまとめたコミックも発売されており、今まで、コミックを買ったこと無かった私も購入してみました。因みに御代は、一冊533円(税別)です。

中身は、読んでのお楽しみですが、なかなかのものです。下記の内容が描かれています。

ご興味ある方は、是非、立ち読みではなく、購入してご覧ください。

続編を期待しています。