半世紀前の淡路交通(2)

それでは2人が眼にした電車などを紹介することにしよう。宇山車庫で見せてもらった形式図や書類を2人は1冊の手帳に分担して記帳している。片方が記帳の時は、もう一人は外へ出て撮影をしていたようである。以下の説明は、一部について鉄道ピクトリアル161,162号を参考にした。

*キハニ1→モハニ2006:電動車化1948年6月、床下に電動機(TDK516A・85㏋×2)取付、内燃動車時代の推進軸により駆動する直接制御車とした。1955年8月、ブリル27GE1台車にすると共に電動機(WH37kw×4)は吊り掛け駆動とし、制御器はGE-PC形、制動方式もAMJ自動ブレーキとした。1957年5月、車体改造を行い上り(洲本側)方の運転台撤去、荷物室仕切撤去、貫通路の開設、定員80人(手荷物4.3頓)を乗客定員90(36)人、制御器統一でMK方式とした。更に1958年9月ドアエンジン取付をしている。

*キハニ6→モハニ2007:電動車化1948年9月、要領は2006号と同一。ところが1955年9月直角カルダン改造とあるが委細不明。1956年3月MK、AMJ化。1958年9月、客用扉閉鎖窓新設(荷扱い扉を客用に)及びドアエンジン、塗油器取付。定員は100(42))人となる。

*キハニ5→モハニ2008:電動車化1950年3月、おそらく南海から譲渡された電動機・50㏋×4と直接制御器を使用したものと思われる。その後1954年12月、当車は台車をブリル77E2からTR10に取り換え、運輸省の補助金を得て神鋼電気製の垂直カルダン方式を採用した。電動機は75㏋×4、制御器はSE・RPC‐101となった。1958年1月、貫通路設置、荷物室と客用扉撤去(荷物室扉を客用に)、ドアエンジン取付とある。定員100(40)人。尚、当車は代燃装置取外し後、トレーラーとして使用されていたらしいとの話もある。

*キハニ3→モハ2009:電動車化1956年3月、木造電動車1001を制御車とし、その電動機WH‐101H、37kw×2にした。この時の台車は日車・菱枠型である。形式図ではBL27GE1とあり、現車は日車製である。藤井信夫氏の記述によれば、後述の111号とMTc編成を組んだとあるが、訪問時は63形供出車1003号とMM編成であった。後に出力強化されたものと思われる。1958年8月車体改造と制御器及び制動装置の変更についても先の2007に倣っている。当時のメモに113→2009とあり、代燃装置を取り外した後、一時期トレーラーとして使用していたのかも知れない。また逆で2009→113として元内燃動車6両を、垂直カルダン編成3本へと目論んでいたのかも知れない。想像するのは勝手で、夢ある話だと思いませんか?

「内燃動車発達史」をお持ちでない方にほんの少し補足しておこう。キハニ1,2は川崎車両製で、全長

12,840粍。キハニ3、4は日本車両製で、全長13,120粍。キハニ5,6も日車だが、全長15,294㍉と長い。価格だが1~3は12,635円、4は16,215円、5は23,145円、6は23,845円となっていた。

*キハニ2→クハ111:制御車化1951年9月、1957年5月乗務員室、客室出入口扉一部変更及び貫通化改造とある。ハニ→ハとなったのであろう。1958年7月ドアエンジン取付。

*キハニ4→クハ112:制御車化1952年3月、1958年8月ドアエンジン化、1960年1月貫通扉設置及び運転室変更。この2両のクハは上り(洲本)方片運転台となった。これら内燃動車改造車は電動車を含め、乗務員扉を両側面に整備したりで窓配置や顔付の変わったものもある。

写真は6枚、連続して掲出する。垂直カルダンの図は三重交通志摩線5401号のものであるが、淡路交通も同一と思われる。これについて、「ぷるぷるさん」が解説してくれるとうれしい。(つづく)

モハ2006

    モハ2006

モハ2007

   モハ2007

モハ2008
モハ2008
モハ2009
モハ2009
クハ111
クハ111
クハ112
クハ112
垂直カルダン駆動の構造図
垂直カルダン駆動の構造図

50年前の淡路交通(1)

1960年11月3日、須磨は山科から、乙訓は京都から東京発姫路行きの客車列車に乗り込んでいる。既に姫路まで湘南型が直通運転していたが、敢えて客車列車を選んだのは理由があった。それはこの場で披露するのは遠慮して別の機会としよう。兵庫で出迎えてくれたのはthurukame氏であった。昼食を済ませ、彼の案内で湊川トンネルを出たところから長田に向かい歩いている。途中、火葬場の裏へまわり川ベリに出たら丸山駅前後の崖淵であった。須磨の目的は元神中、気動車改造の制御車。乙訓は湘南タイプ、WN駆動、対向クロスの温泉電車であった。好天に恵まれ3人は目的を達成することが出来た。

それ以後暫く委細不明。気付いたら2人は中突堤の飯屋で、当時流行って握り鮨(1皿3貫:20円?)で安酒を煽っていた。淡路島への渡船待ちだったのである。

JTB時刻表では淡路島への夜行便の記載なく、夜行列車愛用族はどうしたものかと思案にくれていた。その頃、旦那が新聞輸送の便船があると教えてくれた。2人は卒業後の行き先も決まった事だからと、これに飛びついたのであった。便船は播但連絡汽船の1日一便、岩屋21:20発、神戸22:50着の折返し運用となるもので、100噸位の貨物船に便乗の形であった。24:00乗船開始。案内されたのはデッキ下、エンジンルームと隣合わせであった。板張りに茣蓙、騒音と振動。この時、例え魚の干物の匂いが染みついたオハ60系であっても、汽車の夜行列車の有難味をつくづく思い知ったのであった。乗客も我々2人を除くと行商人風のオッサン連中であった。

24:30出航、志筑2:30着、同3:00発、洲本3:30着。ここで2人は退船を命ぜられた。6時まで仮眠が出来ると聞いていたが、それは嘘だった。抗議する元気もなく。淡路交通の洲本駅の場所を聞いて夜道を歩き待合室に転がり込んだのだが、寒くて寝られない。仕方なく2人は駅周辺でジョギングをすることになった。有難い事に関西汽船6時発神戸行きの初発があり、この頃に夜明けとなり港周辺の店も開店となった。そこで飯屋で定食を賞味したのだが、何を食ったのか覚えはない。

電車の洲本初発は6:10、この電車は福良5:00発→洲本5:47着で、関西汽船神戸便に接続、神戸中突堤8:30着となっていた。当時の関西汽船洲本航路は神戸8:30初発、洲本に10:40着、洲本最終17:50発、神戸19:10着があり、日帰りも可能であった。

目覚めと共に本題に参ろう。淡路交通は淡路鉄道として軌間1067粍、1914年4月10日創立、開業日と区間は次の通りである。洲本口-市村:1922.11.26、市村-賀集:1923.11.22、洲本-洲本口(宇山):1925.05.01、賀集-福良1925.06.01、福良延長線(港湾整備により埋め立て地を延長)1938.04.01、これで全線23.4㎞の開通となった。開業と共に蒸気列車が走りだしたのだが、1号機は1920年9月ポーター製の13.38頓Cタンク、客車は播州鉄道から2軸車6両を購入して対応した。路線延長による車両増備は2,3号機で、同じくCタンク1922年5月コッぺル製、13.82頓と僅かに大きいが、軽便規格と言っても差し支えない。福良延長に合わせ国鉄から18.29頓のこれまたCタンク、1914年3月ポーター製の払い下げを受け4号機としている。これは長州鉄道開業期のもので、国に買収後は形式1045となり1047号となったものであった。客車もその後の路線延長に合わせ、揖斐川電気から2軸単車7両を購入し総計13両とした。蒸機の重量はいずれも運転整備時のもので、空車時重量は9.45頓、10.97頓、15.24頓の順、価格は同じく19,400円、23,175円、5,254円と記録されていた。 

さて1920年代後半から内燃動車が実用化され、非電化鉄道でも旅客輸送が見込める地方私鉄では採用される事例が増えて来た。詳しくは湯口会員の「内燃動車発達史」をご覧ください!としておけばこの場は凌げる。淡路鉄道は1931年にキハニ1~3、1933年キハニ4、1935年キハニ5、1937年キハニ6と6両の半鋼製ボギー車を揃えた。揃ったとたんに燃料統制となり、苦闘の時代を迎えるのであるが、

その話は前著上巻231頁に紹介されている。終戦と共に燃料問題が解決したわけでなく、比較的得られやすい電力を動力源とする鉄道電化が世の風潮となった。戦時統合で鉄道から交通に改名したのは1943年7月、1946年11月電化工事の許可を得、1948年2月11日より電車運転となった。この時導入されたのが南海電鉄の木造電動車で、いずれも63形割当供出車で、淡路では1001~1005となった。それが先日、見事な姿で紹介された訳である。本稿では先輩である内燃動車の電化後の姿を改造順に紹介することにする。それらの車両番号は電動車2006~2009、制御車111、112号となっていた。

 

模型班、新春ミーティング

祇園のデゴイチ(*1)に有志4名が集まり、模型事始を実施しました。

 

私は「きたぐに」を現行色・旧色の2編成持参し、向日町付近で本務と回送が快速線と緩行線を並んで走る風景の再現などをして楽しみました。

 

*1 http://www.club-d51.com/

新年あけましておめでとうございます。

新年明けましておめでとうございます。

昨日、今年の鉄はじめとして、成田臨を撮影してまいりました。

山陰は大雪とのことですが、ここ関東地方は穏やかな三が日です。

2011-1-2 9835M 成田線 安食~下総松崎

ご承知の方も多いと思いますが、首都圏各地より成田山新勝寺を目指し、多くの臨時列車が設定されます。私が毎年通っている自宅近くの成田線我孫子口は、普段E231系しか走っていませんが、この時期は、バラエティが豊富になります。とはいっても、以前のあったような、客車列車やJR東海からの乗り入れなどは無くなり、183系・189系・485系ばかりですが・・・

ここでは、まだまだ、国鉄色が元気に活躍しています。1月下旬まで楽しめます。

国鉄色といえば、正月三が日設定されているホリディ快速鎌倉が115系で運転されているので、今朝は、早起きして東川口まで出かけてきました。

2011-1-3  9524M  武蔵野線 東川口

 

昨年2月のダイヤ改正で、快速むさしのから115系が引退しましたので、もう武蔵野線を行く115系の姿が見られないかと思っていましたが、まだ健在でした。

このホリディ快速鎌倉は、以前は、大宮始発でしたが、この正月三が日設定分は、大宮ではなく南越谷始発でした。逆光ですが、従来走っていなかった区間で、撮影しました。

ゴールデンウィークや秋の三連休にも運転されていますが、今度のゴールデンウィークにも115系の姿を見たいものです。

「びわ湖の銀嶺へ」/昭和22年12月26日の新聞広告

昭和4年12月、琵琶湖汽船の前身の太湖汽船と京阪電鉄が共同でマキノスキー場を開設し、昭和6年、浜大津から海津大崎まで夜行スキー船の運航を開始した。昭和9年、60形「びわこ号」を新製し、夜行スキー船に連絡する天満橋~浜大津間の直通電車を運転したことは余りにも有名である。戦時体制の強化により、世の中はスキーどころではなくなり、夜行スキー船の運航は中止されたが、戦後間もない昭和23年1月に早くも復活したことが判明した。

 大津市内にお住いで、京阪バスを中心に大津地区のバス路線の歴史、変遷を調査、研究されておられる知人の昨年12月26日付ブログに、表題の新聞広告が掲載されていた。昭和22年と言えば、戦後の混乱が未だ続き、板張り窓や座席半減車が走っていた時代であるが、4月1日のダイヤ改正で京阪本線の急行がスピードアップの上、15分間隔になる等、着々と復興しつつある時期でもあった。我が国の高度成長期の原動力となった「団塊の世代」(私も含む)の人達が誕生した時期でもあった。この時期に早くもスキー場の新聞広告が存在したということは、世の中が多少とも落着きを取り戻し、スキーを楽しむことが出来る人がそれなりに存在したということであろう。ご本人の承諾を得てここに紹介させていただいた。

「スキー予約券前売開始」の後は、宿泊券1泊55円朝夕食事付、梅田駅、天満橋駅、三條大橋駅及び現地で10日前発売。京阪バス四條大宮より浜大津まで特別運転スキー船連絡。
「スキー船就航」の後は、1月3日より3月7日まで毎土曜日及び2月10日夜12時浜大津出港後朝7時半到着。定期船奇数日午後1時浜大津発。
  スキー船連絡券(往復)三條より83円、大阪より111円、神戸より127円、浜大津より海津大崎まで38円、往復75円、小人半額
 江若スキー列車 毎日発片道55円、定期船にも通用
と書かれている。

広告主は京阪電鉄分離前のため「京阪神急行」である。阪急沿線の人は四条大宮まで来て浜大津まで特別運転の京阪バスで行き、スキー船に乗換えていたことが判る。江若鉄道もスキー列車を走らせており、乗車券は定期船にも通用となっているが、この時期は未だ京阪の系列ではないため、プール制であったと思われる。四条大宮~浜大津間のバスはディーゼルエンジン車であったのだろうか、江若のスキー列車はC11「ひら号」の引く客車であったのだろうか等想像するだけでも楽しくなる。
また、比良スキー場の場所は「八雲ガ原」ではないと思うが、何処にあったのかも気になるところである。
 ブログの名称は「京阪バス現在完了形」(http://contrapunctus.blog103.fc2.com/)で大津地区のバス路線の歴史を詳細に調査されておられるので、是非ご覧いただきたい。

【参考】JR東日本の数少ないスキー列車「ゲレンデ蔵王号」
583系6連で1月、2月の金曜日の夜、新宿から東北本線、仙山線経由で山形まで片道のみ運転されている。(今シーズンの運転状況は未確認)上りは回送で、仙台を朝出発し一旦東大宮に入るので「ヒガハス」等でも撮影可能である。

賀正・総会・淡路

クローバー会の皆さん、新年明けましておめでとうございます。京都は今のところ穏やかな日照りの中、老人宅の窓から見える新京阪線「キュウミ」ちゃんが満載の初詣の人を運んでいます。今年も仲良く「デ元青」を盛りたてて行きましょう。

春、4月23日(土)に第3回クローバー会総会を、京都駅前・京都タワーホテルで開催します。今夏は役員改選、会則改訂、その他重要案件提案があります。詳細は追ってお知らせしますが、とりあえずカレンダーの4/23にはO印をお願いします。宿泊希望者についてはホテルと相談することにしております。

淡路交通の紹介ですが、1960年11月4日訪問のまとめを当時ガリ版3粍方眼で作ったことを思い出し、すぐ出来ると思い「玉手箱」に潜り込んだのは良いとして、12/30までに見つけることが出来ずがっかりしていました。ところが大晦前に時の手帳が見つかりヤレヤレとなりました。これよりまとめ直しの上、紹介いたします。

以上、ごあいさつ、お知らせ、お詫びで年頭の辞といたします。

36年前 大晦日の京急羽田空港駅


36年前の京急羽田空港駅/飛行機に乗るためには、ここから更にバスに乗り継がなければならなかった。

一昔前の写真を整理していたところ、昭和50年の大晦日に京急羽田空港駅を訪れていた。ちなみに特派員さんも一緒であった。勿論地上駅で現在の天空橋駅の海老取川を隔てた手前にあり、飛行機に乗るには羽田空港行の路線バス(狭隘区間を通過するためマイクロバス)に乗り継ぐ必要があった。蒲田~羽田空港間には路線バスが頻繁に運行されていたため、このルートを利用する人は極めて少なかった。

 
羽田空港駅に進入するデハ257他3連

 
停車中のデハ256他3連

 
デハ276/行先板に注目、現在は「京急蒲田」であるが、当時は「京浜蒲田」であった。

当日の行動を振返ると、京都駅朝1番の6時19分発「ひかり302号」で出発した。名古屋で「こだま204号」に乗換え三島で下車して、東洋レーヨン三島工場の片ボギーのDLと伊豆箱根鉄道の電車を撮影。9時9分発の三島始発東京行に乗り湯河原で下車して、ホームで直ぐ後から来る「みずほ」を撮影。その後、駅の外に出て熱海よりに戻り、上下線が広く空いているところの中央から撮影した。今頃こんなところで撮影していたら、間違いなく逮捕されるであろう。小田原で大雄山線の電車を撮影後、川崎で京浜東北線に乗換え、蒲田で下車。駅の大森寄りで撮影後、京浜蒲田駅まで歩き、羽田空港駅まで乗車した。その後、上野駅で夜行列車を撮影し、八甲田55号で盛岡に行った。
湯河原に行くのにわざわざ三島で下車したのは、東レの片ボギーDLを撮影するためであったと思われる。私にとっては、湯河原でのブルトレはついで撮影で、本命は157系「あまぎ」であった。京浜急行の羽田空港駅はデハ230形を撮影が目的であった。

 


東レ三島工場の片ボギーDL

 
伊豆箱根鉄道モハ62/元モハ31024の復旧車

 
伊豆箱根鉄道クハ76/元西武クハ1450、更にその前があり、元国鉄モハ41001の復旧車

 
特急みずほ

 
特急さくら

 
特急あまぎ


急行東海

 
クモユニ74併結の普通電車

 
EF6098の引く貨物列車

 
113系普通電車

 
京浜東北線103系

 
クモニ13007

 
EF574の引く八甲田52号

淡路鉄道→淡路交通

佐渡ヶ島には長岡鉄道が免許を有しており(両津-相川町、762mm、1926年5月1日免許)、1067mm線に我国最初のディーゼルカーを注文して舞い上がった長岡鉄道は、納品(1928年12月)もされていない1928年2月23日、「佐渡線起業目論見書記載事項中動力蒸気ヲ重油ニ変更」を申請し、4月9日認可。しかしこの線は結局着手に至らず失効した。

従って我国で旅客貨物営業の「島の鉄道」は、沖縄を別にすれば淡路島が唯一になる。淡路鉄道は1912年10月25日免許、開業は宇山-市村1922年11月26日、市村-賀集1923年11月22日、洲本-宇山1925年5月1日、賀集-福良1925年6月1日で、全線23.1km。勿論動力蒸気、軌間1067mmである。

機関車はコッペルC、13tが3両、鉄道省1047(ポーターC、18t、形式1045←長州鉄道)、客車は播州、揖斐鉄道のお古で2軸車ばかり。元をただせば南海やら山陽やら。孤立した鉄道だから、連結器が螺旋連環のままで自連換装も必要なかった。明治村の蒸気動車(現在JR東海が自前博物館展示のため引き揚げて整備中)が装着していた螺旋連環連結器は、展示復元に当って名古屋鉄道が淡路交通から貰い受けたものである。

ガソリンカーは1931年以降。川崎と日車のボギー車が計6両いた。敗戦後燃料入手難と高騰に困窮し、600V電化したのが1948年2月11日である。ガソリンカーの機関に換えモーターを装着し、プロペラ軸で駆動したのが知られている。他に南海から古色蒼然たる電車の供出提供を受けており、米手作市氏紹介の丸妻5枚窓電車がこれである。

お後は乙訓の爺様の受け持ちじゃろ。ハイさいなら。よいお年を。

知らなかった”淡路交通”

関さんのシリーズもかなりマニアックになってきて、浅学非才の私にはついて行けなくなりました。

お恥ずかしい限りですが、そもそも淡路島に電車が走っていたことを知ったのは大学を卒業してからはるか後のことでした。

京都へ淡路交通という観光バスが走っていたのをよく見かけましたが、あれが私鉄のバスだったとは気がつかなかったのです。

今回の記事はぜひとも「その筋」の方に詳しく説明をお願いしなければなりません。当該車両だけではなく、鉄道の生い立ちまで教えて下さい。

お願いします!地元“須磨の大人”、脳内の血管を複線電化したい“乙訓の長老”、永遠の電車小僧・藤本先生!

 

【レポート】関東地区の納めの会

暮れも押し詰まって来ました@ロギング太郎です。
 
昨日、関西から佐竹様ご夫妻が東京へ来られたので、有志で迎撃しました。
称して「今年、納めの会」です。
(宴会後の記念撮影)

 

自己紹介として、自分の「鉄との馴れ初め」を語らいあいました。
なお右から3人目は一見、F氏風の頭部(!)ですが同窓ではなく鉄道研究者の
方です。例によって肖像権の尊重を図っておりますが、小生宛に個人メール
を頂ければ厳重包装のうえ密送します。 (^^;)

来年も新年会(1月中旬)をはじめとし、数回の「例会」を開催予定です。
もし東京へ来られる方が居らっしゃいましたら、事前にご連絡ください。
「臨時例会」として歓迎したいと思います。
もちろん「年末調整で仰山戻ったから、今夜は儂に任せろ」てな太っ腹
ご提案も大歓迎でございます。 \(^o^)/

上田丸子電鉄 クハ252・253他

(1)クハ252・253について
湯口先輩の「1958年 上田丸子電鉄その3」の「びわこスタイルのクハ252」の写真について【10896】本邦初公開と書かせていただいたが、クハ253の「正面3枚窓」の写真も初公開と思われる。「びわこスタイル」から「正面3枚窓」に改造されたのは相模鉄道時代で、併せて乗務員室扉の設置が行われている。ところがいつの間にか正面2枚窓に改造されているのである。京阪の704が事故復旧時に正面3枚窓から2枚窓への改造されたことは有名であるが、あまり例がない。クハ253の2枚窓改造の理由は、クハ252とスタイルを合わせるためだけであったのだろうか。また、書物
(ネットを含む)の中にはクハ253が「びわこスタイル」から直接「正面2枚窓」に改造されたように書かれているものがあり注意が必要である。
クハ252は、昭和61年10月1日の1500V昇圧時に、クハ253は昭和50年3月に廃車された。

 


「びわこスタイル」から「正面2枚窓」改造後のクハ252。(上/45-3-16 下/60-8-8)

 


「びわこ」→「正面3枚窓」から「2枚窓」に改造後のクハ253。非運転台側は3枚窓のままである。(42-3-23)

(2)再びサハ28について
湯口先輩のコメントの通り、今月発売「鉄道ファン2月号/江ノ電全通100周年によせて・1950年代のポール時代をふりかえる(1)」に201、202の鮮明な写真が掲載されている。201は両端に2枚折戸、扉間に2枚ずつセットになった12枚の窓があるが、折戸の前に縦長の窓が無い。202は2枚折戸の前に超狭い縦長の窓が設置されており、扉間には201と同じく、扉間に2枚ずつセットになった12枚の窓がある。ここまでの情報では、湯口先輩も仰せの通り、202の方がサハ28に近い。
一方、201の廃車は昭和31年で、翌32年に撮影されたダルマの写真が掲載されている。202は昭和29年に旧王子電軌174号の3000形への車体更新で不用になった旧車体を購入して振り替えている。サハ28の製造年は昭和33年であり、4年前に廃棄された202の車体よりも、2年前に廃車になった201の車体を流用した可能性が高いと考えるのが自然である。201、202共に「鉄道ファン」の写真でもお判りの通り、扉位置、窓回り等を中心に大幅に手が加えられているが、応急改造感は免れない。また、果たしてダルマになった車体を売買するか?という疑問もあるが、これはあり得ない話ではない。もし昭和29年に廃車になった202の車体が、どこか(例えば東急車両)で比較的良好な状態で残っていたとするならば、こちらの可能性も充分にあり、両端の細い窓と共に非常に気になるところである。
どちらの車体を利用したかは別にして、骨組みだけを残して大幅に手を加え、扉をやや中央寄りに移設、扉間に8枚の窓を設置した。扉と車端の間に窓を1枚設置した結果、僅かに空間ができたので細窓を設置したという可能性は「無きにしも非ず」であるが、この程度の空間にわざわざ幅の狭い窓を設置するだろうか。真相解明は、当時担当された方の記憶に頼る以外には無いと思われる。
私自身はネコパブ社「RM LIBRARY74/上田丸子電鉄(下)」の記述から「201の車体→サハ28」と思っていたが、再考の余地がありそうである。

 (3)【10928】「1958年上田丸子電鉄その4」で紹介された車両について
上から順番に解説する。
①モハ3332
モハ3331、3332の2両在籍した。大正13年日本車輌製で丸子線の前身、丸子鉄道が大屋~丸子町間の電化の際に新製したデ100形101、102が前身である。山梨交通から購入したモハ2340形2341、2342の稼働に伴い、昭和40年5月に廃車された。
②③モハ3552
モハ3551、3552の2両在籍した。大正14年日本車輌製で大屋~上田東間の延長開業時に新製したデ200形201、202が前身である。昭和44年4月19日廃止時まで在籍した。
④モハ4251 ⑤⑦モハ4254
モハ4251~4254の4両在籍した。昭和2年川崎造船所製で真田傍陽線開業時に新製したデナ100形101~104が前身である。湯口先輩が撮影された時点は車体更新前で、荷物扉の戸袋窓が楕円形、窓は下降式であった。昭和36年~38年にかけて車体更新が実施され、楕円形窓は通常の形に、客室窓は2段上昇式となった。⑤の4254の行先板付の写真は非常に珍しい。昭和47年2月20日廃止まで主力として活躍した。

 
車体更新後のモハ4252 (42-3-23)上田
⑥モハ5251
モハ5251~5253の3両が在籍した。昭和3年日本車輌製で、デナ201~203が前身である。「丸窓電車」の愛称で新製時から昭和61年9月30日の1500V昇圧前日まで一貫して別所線で使用された。昇圧後は、5251と5252は別所温泉駅の留置線、5253は長野計器㈱丸子工場に静態保存されている。5251は近々整理される予定で引取り手がなければ解体される予定である。

 
湯口先輩が撮影された27年後の昭和60年8月8日の姿であるが、スタイルの変化は殆ど見られない。
⑧モハ5262 ⑨モハ5263
大糸線松本~信濃大町間の前身、元信濃鉄道の買収車で、共に大正15年日本車輌製であるが、経歴が異なる。
モハ5262は信濃鉄道デハ5として誕生、昭和12年6月1日鉄道省買収によりモハ20004、昭和28年6月1日の改番でモハ1102に、翌29年に電装解除してクハ5110となるが程なく廃車となり、同年11月に上田丸子電鉄に譲渡。再電装の上、別所線に投入されモハ5262に、昭和33年制御器変更(HL→カム軸式)による改番でモハ5362、昭和35年小田急クハ1650形の旧車体と乗替え鋼体化してモハ5371に改番、昭和61年10月1500Ⅴ昇圧により廃車となった。
モハ5263は安曇追分~北池田間を営業していた池田鉄道のデハ1として誕生、昭和11年営業不振による内燃化により信濃鉄道に売却して同社のデハ1(2代目)に(初代デハ1は昭和10年火災焼失により廃車)、鉄道省買収によりモハ20001に、昭和28年の改番でモハ1100に、昭和30年6月上田丸子電鉄に譲渡。別所線に投入されモハ5263に、昭和33年制御器変更(HL→カム軸式)による改番でモハ5363、昭和35年小田急クハ1650形の旧車体と乗替え鋼体化してモハ5372に改番、昭和61年10月1日1500Ⅴ昇圧により廃車となった。旧車体は長らく上田原電車区の倉庫として残っていた。

ここで改めて湯口先輩の写真を見ていただきたい。モハ5262が停車している場所は、上田駅の真田傍陽線側である。別所線と真田傍陽線はどちらも元上田温泉電軌の路線であるが、別所線は600Ⅴ(昭和28年9月750Ⅴに昇圧)真田傍陽線は1500Ⅴのため、モハ5262を真田傍陽線で使用することは不可能である。この場所に停車していた理由は不明であるが、何らかの理由で国鉄長野工場入場時かも知れない。
モハ5263は急行の行先板に注目していただきたい。当時国鉄の急行列車に接続して急行運転が行われていた時の写真である。

 
モハ5263の廃車体 (45-3-16)上田原 
⑩モハ5361
昭和4年日本車輌製で、東武野田線の前身総武鉄道モハ1003として誕生、63形割当による供出車として昭和22年に入線した。当初の車号はモハ1001であったが、後日モハ5361に改番、制御器変更(カム軸式→HL)による改番でモハ4261となった。真田傍陽線廃止後、弘南鉄道に売却され、モハ110に改番の上、大鰐線で使用された。

 
大鰐線で3両編成の先頭に立つモハ110/後2両は元富士身延鉄道の買収車(50-4-28)津軽大沢付近
⑪ED2111
丸子線の前身、丸子鉄道の貨物列車用として昭和12年坂元工業所という聞いたことが無いメーカーで新製された。台車をはじめ電装品は中古品と思われる。ご覧のようにスタイルは独特で他に同形車は見当たらない。北陸鉄道で紹介された「三山工業」は現在も盛業中であるが「坂元工業所」についての現況は不明である。丸子線廃止後解体された。
⑫101 ⑬102
丸子線で使用されていた元伊那電鉄買収車のモハ5261とクハ261の鋼体化種車として入線した元東急のクハ3222とクハ3224である。鋼体化後はモハ5271とクハ271となったが、丸子線廃止後解体された。
機会があれば、改めて昭和40年代の上田丸子電鉄各線の車両の紹介をしたいと思っている。

叡電デナ1

関三平さんのプロフィールがわかりました。

 お尋ねの関三平さんは、とっても有名な迷路図作家です。
 1940年大阪生まれ、70歳。京都工芸繊維大学意匠工芸学科卒。
 1977年に(零)日本迷路公団を創立され、「総裁」を名乗っておられます。

 若い頃から鉄道が好きで、仕事の合間に鉄道会社を訪ねては人脈を築き、資料を集めたり。もちろん趣味で。
 70歳になり迷路を書くのも「しんどくなった」らしく、「それじゃぁ、趣味の鉄道話しでも」と、9月からスタート。とりあえず50回を予定しているらしく、単行本出版も当然、視野に入れているそうです。
 絵は水彩画ですが、色にこだわりがあるらしく、原画を自分でパソコンに取り込み、いい色が出たものをカラーコピーして我が社に渡しているそうです。 

     日本迷路公団総裁「プレジデント・サンペ。

      プロフィール
     1940年大阪生まれ。京都工芸繊維大学意匠工芸学科卒。
     1977年(零)日本迷路公団を創立。
     以来、総裁プレジデント・サンペを名乗る。

     著書
     「迷図の国のケンとマリ」
     「コンピュータ世界のケンとマリ」
     「ケンとマリの迷図紀行」

 

1958年上田丸子電鉄 その4


上田丸子電鉄モハ3332

例により藤本哲男氏から、ピタリと勘所を押さえたコメントが頂戴でき、後期高齢者寸前(来年)の老人は痛く感激し、かつ長年の胸の痞えが消えて、心底嬉しく晩酌が「殊の外」すすんだことであった。藤本氏よ、有難う。

で、上田丸子の残りを片付けるが、全部「本物の」電車ばかり。この解説もして頂ければ、老人は望外の幸せでありまする。何卒良しなにお取り計らいあらんことを。


モハ3552


モハ4251

モハ4254

モハ5251

モハ5254

モハ5262

モハ5263 この2両は信濃鉄道の買収国電だ ぐらいはいくらなんでも小生でも分かる

モハ5361 これは東武←総武

ED2111 台車はブリル27E メーカーは坂元工業社?なるところとか

東急から搬入されたばかりの101 仮台車とはいえ旧ガソリンカーのものだから押し潰されそう

同じく102 こっちはブリルMCB摸造台車?

鉄道スケッチ

重い腰を起こして漸く青信号に投稿しようという気になりました。 先輩諸先生や同期のF氏のような奥深い記事、K氏のような外国の紀行は書けませんが、幼い頃に鉄道に憧れたそんなプロモートが出来たら、ええやないかと思うに至り、またやはりJ氏の尻叩きもあって、拙写を披露するところから始めることになりました。 ヨロシク!! 暫くは、鉄道の季節を追っていきます。1年くらいはクオータリー+臨時便を出して行き、その後、色々書いていこうと考えています。 なに、大した学術的なものは一切ありませんから、適当にあしらって頂いて結構と思います。 さて、もう季節は冬に突入ですが、ちょうど秋が終わったので秋からの風景。目的も無く、思いつきで感じた写真を投稿します。 本格的に秋が深まるころ、同期のJ氏に声を掛けました。小生は長らく関東に勤務していて、関西は浦島亀太郎状態であったので、何年ぶりかに加太に行きまへんかと。30年いやもっと経っています。どないなっているやろうかと訪れた写真です。 すでに加太は無人駅で野猿の天下。駅の横になっている柿を食べてホームを我が物に歩く様子に驚きました。あの築堤にも猿の姿が・・・。 この写真は、昔よく通った場所から少し高い禁断の場所から捕ったものです。

休みの日にふと、同期のM氏の大和川での阪堺電車の写真を思い出し俄かにどないなっているか見に行きたくなりました。その写真とは40年前のものですので、60前後の人は見たことがあるかもしれません。すでに高速道路の橋が架かっていて往年の風景はありませんでしたが、空が高く、秋やなあ!という天気に恵まれました。歩くのが面倒くさいので、橋のたもとで、空を撮ってみました。

住吉さんへ戻ってみました。ちょうど神輿が練り歩いていました。そんな日本の風景を境内からスナップしました。 メタボになって膝が弱っているのでタイコ橋からの撮影は怖かったですが、神輿の向うにちょうど電車がきました。そんなこととは関係なしに神輿は通過していきます。

秋は抜けるような青空が魅力です。仕事で帰ったときについでに寄りました。 1つめは、ひたちなか海浜鉄道。田んぼの中にある中根駅辺りの風景です。 何?国鉄色ではない?ま、あまり気にしない、きにしない。次の那珂湊には、「たま」ほどではなけど、駅員のねこがいます。そのおさむ君に餌をやって家路につきました。 北関東で天気が良いときは、赤城山がよく見えます。上毛電鉄の赤城山は有名ですが、JRだって裏赤城?が見えます。 快晴の中を115系が走ってきました。 *赤城山と思いますが・・・。違えばばゴメンです。 せっかくここまで来たのですから、吾妻線に行かねばなりません。ちょうどダムの建設場所辺りが川原湯温泉です。車中のおばさんは、この温泉も客が減ったねえ、と言っていました。その近所、渓谷を見下ろす鉄橋に来ました。日本最短のトンネルのあるところにはあと2kmくらいのところです。おりしも湘南色の185系がくるので、写真を撮っていた観光客にお「どうせ撮るなら電車もどうですか}と一緒に撮りました。ちょうど一陣の風が吹いて山間で残り少ない紅葉を散らせて行きます。

関西は秋がもう少し長いようです。 またまた休みの日に。能勢電鉄を訪れました。1時間ほどで大阪に仕事で戻ってきましたが、4連でワンマンなのですね。びっくりです。光風台から坂を上って見ましたが、季節を感じさせるものはkの黄色い花くらいです。あとはポジションがあいません。まあ、これでも秋かな、と1枚撮りました。

さて、小生の自宅は、東海道線、トレインビューの場所に ありますが、実は関東勤務の時に無理して購入した自宅が佐倉にあります。写真は今年(ということにしたかったのですが)ではなく1年前ですが載せます。我が家は丘の上にあり、総武線と成田線の分岐近くにあります。そのためにバラエティーには富みませんが、やはりある意味でトレインビューです。佐倉は朝霧が多いのですが、ちょうど通勤時、霧が上がりかけた中を今はなき初代成田エキスプレスが成田からの客を運んで来ました。乗客はまだ寝ているかも。霧が明けたら晴天です。手持ちのエクスリムで来た瞬間をスナップしました。

こちらは東海道の秋。自宅は線路脇なので、いつでもふらりと出かけることができます。このときも天気が良かったので、JRと阪急を撮りにチャリンコで出ました。ススキがきれいです。

まもなく、ススキの季節が終わり白い冬になります。 冬も鉄道はいろんな表情を見せてくれます。 そんな、景色を拙写ではありますが、お届けしたいと思います。

上田丸子電鉄サハ28について

北陸鉄道に引続き、1958年上田丸子電鉄シリーズが始まり、貴重な画像をワクワクしながら拝見させていただいております。特に「びわこスタイル」のクハ252の写真は見たことがなく、本邦初公開ではないかと思います。

湯口先輩が疑問を呈しておられるサハ28について、私の知る範囲で書いてみたいと思います。湯口先輩が仰せの通り確かにパッと見はガソリンカー改造車に見えますが、書類上は昭和33年6月自社製の新製車となっています。実態は昭和31年6月に廃車になった江ノ電(当時の正式社名は江ノ島鎌倉観光)201の廃車体を購入し、モハ3223に車体を流用したサハ25(元飯山鉄道キハニ5)の台車を組合せて作られた車両です。(11月23日付【10474】1958年上田丸子電鉄で記述されておられる通り)ならば江ノ電の201とは何かということになるのですが、昭和11年に新製された夏季専用の納涼車の車体を、昭和24年東急車両で一般車に改造したもので、僅か7年で廃車になっています。江ノ電時代の201の写真は見たことがありませんが、車体の下部の切れ込みから、扉が両端にあったこと、写真では判りにくいですが扉を埋めた溶接の痕跡、車端の縦長の窓は、確かに元江ノ電の車両であることを示しています。201と同じく納涼車改造の202の写真はRP誌「私鉄車両めぐり・江ノ島鎌倉観光」に掲載されています。
参考までに江ノ電の車両も貼っておきます。

 
サハ28 昭和42年3月28日  上田

 


107、110 昭和45年3月12日  極楽寺
いずれも昭和6年川崎車輌製であるが、主電動機が107は37.3kw×2、110は44.7kw×2である。車端に縦長の窓が設置されている。

【番外】電動貨車2 昭和45年3月12日  極楽寺

 
元東急のデト3011(大正11年汽車会社製)を昭和22年に購入したもので、当初荷台に乗客を満載して営業運転をしたこともあると言われている。昭和45年3月31日付けで廃車されたため間一髪でセーフであった。

1958年上田丸子電鉄その3


上田丸子電鉄サハ41←ハフ101←省キハ101←飯山鉄道キハ101

半月開いてしまったが、その3を続ける。旧飯山鉄道のガソリンカーは、第二陣が記号番号もキハ101、102と大きくなっただけではなく、手荷物室がなくなって100人乗り、17.5トンと大型化。機関もウォーケシャ6RBに強化され、端面も2枚窓半流に。なお飯山鉄道ではキハ101のみ代燃化し、それも片側運転室反対側(妻面から窓2個)をベニヤ板で仕切って炉室にして、木炭瓦斯発生炉を床上に設置。当然ながら定員が7人減少した。ヨーロッパには代燃炉室内設置例も結構あるが、我国では鉄道省キハ41000のシンダガス代燃化、私鉄では淡路鉄道と飯山の2例しかない。


サハ42←省キハ102←飯山鉄道キハ102

台車は当然に菱枠だが、端梁を設け、軸箱守とステーで結ぶなどの補強は上田丸子にきてからであろう。連結器も簡易連結器から通常の下作用に交換されているが、車体はよく原形を保っている。


サハ41
サハ252←相模鉄道クハ1501←クハ1051←サハ50←ホハ50←神中鉄道キハ50←キハ40

サハ252は日車東京支店製「びわこ」スタイルのディーゼルカー、神中鉄道キハ40で、よく改番を重ねている。やはり菱枠台車に端梁や鋼板リブを付すなど、加工強化されている。同型だったサハ253は端面を改造しているため、前身がすぐにはピンと来ず、しばしの間悩んだ記憶がある。


クハ253←相模鉄道クハ1502←クハ1052←サハ52←ホハ52←神中鉄道キハ52←キハ42
クハ253 「びわこ」スタイルを残すクハ252とは全く同じ出自だったが こっちは端面を改造しているのでまるっきり違う車両に見える

戦前もっともディーゼルカーが成功したのは、一番遅くに採用した神中鉄道であった。機関に国産品を選び、メーカーの指導が直接受けられたことが大きいと思われる。この80人乗り車は日立649-R2を装着していたが、大型バスやトラック用として、ある程度ではあっても量産され、それだけ供給側も使用データーや経験があったのである。

因みに戦前の国鉄は、ディーゼル車は機関車も動車も、ことごとく失敗―それも手ひどい―した。機関がそれだけのために新たに開発された、未熟もいいとこの不完全品だったのが最大原因である。見方を変えれば、国鉄工作局の仲良しグループ(要は退職者を受け入れ、かつ陸軍肝煎りの「統制機関」開発競争に敗退した負け組でもあった)である新潟鉄工所を中心とした内燃メーカーが、ロクなディーゼル機関を開発できなかったことでもあった。


クハ253連結面 これが「びわこ」スタイルの流線型だったとは思えまい

サハ28 誰が見てもどこかのガソリンカーの成れの果てと思うだろうが その実???

サハ27は東武鉄道キハ30←神中鉄道キハ30で、モハ3121←モハ311←モハ301←善光寺白馬電鉄ゼ100と同型(ディーゼルカーだから床高は20mm高いが)車だが、1番違いのサハ28はご覧の通りの姿で、前歴不詳。車体幅が狭く、かなりの軽量というか簡易な車体で、誰が見てもガソリンカーの成れの果てと思うだろうが、これが難物なのである。台車は間違いなく内燃動車用で、片側は偏心しているから、余計幻惑される。

故吉川文夫氏に尋ねても、ウーン、江ノ島から買ったというんだが、よく分からんのだ、との返事しかもらえなかった。少なくともこれに該当すべき内燃動車は存在しない。小林宇一郎「上田丸子電鉄」鉄道ピクトリアル164号でも、「実は江ノ島鎌倉観光から購入したもの」「出入り口は折り戸だったという」と歯切れの悪い説明しかされず、要するに地元の先輩でも分からないのである。欲求不満がつのるではないか。どなたか解説してくださらんか。

電車・バスでまわる「歩くまち・京都」京都フリーパス

京都市が音頭をとって、お得な?1日乗車券が今月11日~来年3月23日まで発売され通用期間となる。そこで通用区間について検証してみることにした。先ず【鉄道】全線OK:市営地下鉄、叡電、嵐電、一部区間:近鉄・京都~向島、京阪・出町柳~中書島、阪急・河原町~洛西口、桂~嵐山、となっている。京福のケーブル、ロープウェイや京阪京津線が外れたのは仕方ないないとして、京阪宇治線・中書島~六地蔵を適用外としたのはなぜだろう。六地蔵で少し歩けば周回コースとなり、今話題の寺田屋を始め「新酒ブーム」に沸く伏見へ呼び込めるのに・・・・・・。そして【バス】市バス:定期観光を除く全線、京阪バス:定期観光、比叡山線、比叡平線、松井山手線を除く山科、醍醐、中書島地区(該当地区までは市営地下鉄を利用、京都バス:市バス市内均一区間及び広河原線鞍馬温泉以南と岩倉、大原、嵐山地区(大原地区は小出石以南?)。これで京都盆地は雲ケ畑地区以外は含まれる。比叡山線、嵐山高雄線は省かれる。京都シティバス:中書島、淀地区、京阪京都交通:中山営業所全線(京都市内)、西日本JRバス:京都駅~栂尾、阪急バス:向日営業所全線(阪急電鉄との接続駅は洛西口だが、東向日まで150円で清算すれば大原野神社、勝持寺・花の寺、十輪寺、善峰寺に、長岡天神で180円で清算すれば光明寺、乙訓寺に行ける)、ヤサカバス:全線、となっている。通用期間1日、価格:2,000円(小児の設定はなし)ここまで来て「なにっ!」となった。ちょっと高いやおまへんか!市バス1日乗車券500円、それに地下鉄全線つけて+700円で1200円、それが京都市交通局以外を付けたら800円アップとは何ぼにも高い!郊外観光に出たら近場で半日、鞍馬や大原行ったら1日がかりが相場や、しかも冬場、寒い京都や皆さん山の麓までいかはらへん。1000円にして気楽に利用してもらって「京都はええとこどした」と、言ってもらえるように出来ませんか。老人はアムステルダム、ウィーンで24時間キップを利用したことがあるが、ユーロが130円時で700円ぐらいやった。フランクフルト アム マインではゾーン2で前記ぐらい。ベルリン、デュッセルドルフ、その他、ホテルの宿泊カードが市内交通機関のフリーパスとなっているところもあった。【損して得を取れ】の類で、一考を要する価格設定であると思う。折角スルッと関西シリーズで好評を得ているのに、何とかしないと企画倒れになってしまう。京都市長の考え一つや思う。帯をしっかり締めなはれ!

阪堺電車 モ101形

引続き国電の「クハ76形」あたりが紹介されるのかと思っていたところ「阪堺電車モ101形」でした。深い二重屋根の重厚なスタイルは路面電車の傑作の一つと思います。最終的な廃車が昭和42年ですので、乗車、撮影はギリギリ間に合いました。撮影したのは、初めて上町線を訪れた昭和39年11月で、その後廃車になるまで阪堺線は何度か訪れていますが、撮影はこの時のみです。

 
モ117

 
モ113

 
モ170(この時点で既にパンタ化され、連結器は取り外されていた)

 
モ235(台車を振り替え低床化している)

 
モ352(モ101の電装品を流用して作られた)

 
モ504(この時点では連結器が残っていた)

いずれも昭和39年11月3日 姫松で撮影。

今回は阪堺線

朝のNHKドラマを見ていると、阪堺線の旧型電車がよく出てくる。設定は松虫あたりと聞いているがなじみがないのでよくわからない。以前投稿で阪堺線があったがいま残っている電車には木造はない。この絵のダブルルーフもない。果たして乗った人はいるのだろうか。乙訓の長老ぐらいか。ご存じの方は今回も薀蓄をお願いする。

なお、このシリーズはまだまだ続くそうで、後に単行本化も予定されているようです。必ず買います。