クハ79066

長老よりご指名がありましたので、解説させていただきます。

関 三平さんの解説文を拝見すると「相当なファン」の方と思われます。「元スカ線のクハ47で、①10両すべて改造する筈が2両しか実現せず、飛び番となった。②スカ線時代はいつも中間に入り顔を見せなかった」等の項目は、旧形国電のことを相当勉強していないと書けない内容です。
ちなみに2両目と3両目はモハ70、4両目はクハ68の基本編成です。

 前身は、横須賀線の付属編成用として作られたクハ47形で、昭和5年日本車輌で47001~010の10両新製され、運転台の向きはすべて偶数(下り)向きでありました。
戦時改造で全車4扉化され、クハ85027~036となる予定でしたが、施工されたのは47004→85030、47010→036の2両に止まりました。形式の「85」は、湘南形の「サロ85」が使用するため、4扉のクハ79形に編入されることになり、昭和24年4月に改番が行われ、クハ85030→クハ79060、クハ85036→クハ79066となりました。

昭和26年11月29日付で2両揃って東京(最後の配属は津田沼)から淀川区に転属して城東線等で使用、060は昭和35年8月に高槻区に転属するも35年10月に淀川区にカムバックしています。
一方066は昭和33年7月に高槻区に転属しており、イラストはその時のものと思います。昭和36年9月に森ノ宮区に転属、城東線101系化により1カ月後の10月に東京にカムバックして池袋区に、東京地区で何度か転属があり、昭和40年4月に津田沼区から淀川区に戻り、060と共に片町線で使用され、060は昭和47年2月16日付、066は同年3月11日付で廃車になりました。

この2両の特徴は、更新修繕Ⅰの実施時期の関係から、更新修繕Ⅱが実施されなかったため、ベンチレーターがグロベン化されずにガーランド形のままであったことがあげられ、吹田工場で施工されていた正面窓と戸袋部窓のHゴム化は、060は正面窓のみ実施。それも一気ではなく、最初は運転台部分の1枚のみ、後日残り2枚も実施。066は全く実施されずに最後まで木枠のままでした。両車のスタイル上の差異は、066には正面左窓上に運行表示窓があったのに対し、060には無かったことがあげられます。詳細は写真をご覧下さい。

長老の仰せの通り「その筋の権威者」河 昭一郎様がご覧になっておられたとは吃驚です。

クハ79060 

 
昭和40年11月14日 鴫野 (この時点では正面窓は全部木枠)

 
昭和41年3月15日 河内岩船 (運転台部分の1カ所のみHゴム化)

 
昭和47年1月4日 放出  (最後は3枚共Hゴム化され、1カ月後廃車された)

クハ79066

 
昭和45年11月15日 鴫野  (正面窓は最後まで木枠のままであった)

1958年8月上田丸子電鉄その2

前回ご覧いただいたのは旧飯山鉄道が最初に導入したキハニ1~5(定員60人)の「成れの果て」ばかりであった。飯山はその4年後、今度は手荷物室なし、100人乗り、ウォーケシャ6RB装着のキハ101、102をやはり日車東京支店から購入する。この2両も1944年6月1日の買収で省記号番号は与えられず、飯山時代のキハ101、102のままでほぼ使わなかった。廃車は1948年6月22日。上田丸子電鉄が1949年にキハ101を購入してハフ101を経てハフ41に、翌年102がサハ42に。


上田丸子電鉄サハ41←ハフ101←省キハ101←飯山鉄道キハ101

サハ41
サハ41 台車の補強が目立つ

サハ42←省キハ102←飯山鉄道キハ102

ハフ41←ハフ101←省キハ101←飯山鉄道キハ101

飯山のキハ101は1941年代燃化で木炭瓦斯発生路を片側運転室反対側に炉室を作って納めた。これは私鉄では極めて珍しい例で、他には淡路鉄道キハニ5しかない。ただ国鉄キハ41000形式はやはり室内に、それもシンダガス発生炉を設置していた。欧州でも室内例は少なくなく、新製時から車体中央に炉室を持つものすらあった。ついでながら、木炭による代燃はフランスが本場で、早くから実用化し、日本陸軍は昭和初期にフランスから代燃自動車を購入して研究(真似)をし、陸式なる、薪による乾式炉(瓦斯発生時加水せず、薪の水分を使う)を開発していた。
 

サハ253←クハ1502←相模鉄道クハ1502←サハ52←ホハ52←キハ52←キハ42

これは相模鉄道のキハ42→キハ52が出自である。戦前最後まで「びわこ」スタイルのディーゼルカーだったが、当時ディーゼルでの代燃化技術がなく、客車化→制御車化されていた。台車は通常の菱枠だが、ご覧のように随分とリブを付した補強がなされ、端梁もついている。また妻面がこのように改造されると、内燃動車ファンを自認していても、咄嗟に前身を言い当てることが出来ない。


「びわこ」スタイルのままのクハ252←相模鉄道クハ1501←サハ50←ホハ50←キハ50←キハ40


モハ3224←モハ3222←サハ26←東武鉄道キハ21←省キハ40300←キハ36470←秋田鉄道ジハ6

これは旧飯山キハニ1~5と殆ど同じと思われるだろうが、2扉車で、手荷物扉(右)幅が960mm、客扉は750mm。同系だが客扉を1か所なくし、狭い扉側に小窓1個を設けて辻褄を合わせている。機関がブダBTUと強力だが背高のため床高が1,270mmと高かったが、上田丸子での電動車化の際手前の飯山車と合わされた。勿論台車は電車用に履き替えている。

知りませんでした

そういえばこんなのがあったような気もしますが、京都-西明石の各停は貫通扉のある関西型でしたね。

それにしてもこの方・関三平さんはただ者ではありませんな。画材は何なのか、色鉛筆のようにも見えますがたいしたものです。一度お会いしてみたい!

11/29産経新聞夕刊より

前回裏写りがあったのをご指摘下さった親切な方、ありがとうございました。以後気をつけます。

らくさい便り

臨時直通列車で【紅葉の嵐山へ】一直線!のパンフレットが効を奏したのか、平日昼間でも特急は満員の阪急である。なかでも梅田9:51発、桂10:32発の快速特急は6300系6連とあって、座っている乗客より立っている人の方が多い盛況ぶりである。これに気を良くしたのか、来春「京風」特急-観光特急-を梅田~河原町間で運転させることになった。毎週土日祝日運転で、当面1日1往復の予定。途中停車駅は十三、淡路、桂、烏丸となる。観光特急は6両1編成(6351・6F?)で内装を「京風」に改装するとか。特製HMはもちろん、この1編成に愛称を付けると言っている。南海の「天空」に最初首をひねったが、真言密教にまつわると知り納得したもんだ。これについてはthurukameさんの解説をまとう。平凡だが、京風なら「雅」-まさとは読まないーが王朝風となり平安京を偲ぶものになる。外装の変化には期待はもてないであろうが、内装にはお手並み拝見と参ろう。こうしたリクレーションカーは近鉄の「十八番」だが、南海に続いて阪急(新京阪線)とはこれいかに。本来、行楽列車頻発がお手のもの筈の京阪に、ダブルデッカー以降ヒット商品がない。中之島線不入りの余波を受け、宇治線のワンマン化が近々実行されるようだ。宇治線の再起は京市交東西線との直結だ。なに、車両の寸法が違う。京市交の車両にちょいと手を加え、宇治線に乗り入れさせればなんとかなる。むちゃな事を言っているのではない。アムステルダムへ行けば2.4m幅が3mの線区に直通しておるぞ!ドンマイ、ドンマイ。夢は嵐山、びわこ、宇治を結ぶためだ。

佐竹さんの写真展打ち上げ会と朝がゆ会

佐竹さんが年末に山科青少年活動センターで写真展を開かれることはすでにお知らせしましたが、12月12日に打ち上げ会が近くのおそば屋さんで開かれます。

参加の申し込みを受け付けておりますが11/24現在、沖中・吉田・篠崎・田野城・滝本・小西・円中・四方・福田・井原・玉田各氏の出席が確定しております。あと少し余裕がありますのでご希望の方は田野城までお願いします。

このほかに12/19に七条京阪のサカタニギャラリーの朝がゆ会でお話会も開かれます。こちらは直接サカタニまでお申し込み下さい。案内状を掲載しますのでご覧下さい。

1958年8月上田丸子電鉄

なんで上田丸子へ行ったかは、写真を見ていただければわかる。この電鉄は、実に多数のガソリンカー、ディーゼルカーの『成れの果て」をかき集め、電動車、制御車、付随車にしていたからで、就中旧飯山鉄道のボギーガソリンカー、7両全部を集めていた。飯山には他にキハ51なる、2軸車が1両あった(←南総鉄道キハ103)が、これは飯山鉄道買収(1944年6月1日)に含まれず、日立航空機立川工場の通勤用に転じていた。


上田丸子電鉄モハ3223+モハ3224 3224は秋田鉄道ジハ6買収車

飯山鉄道は1931年7月17日瓦斯倫動力併用認可を得、日車東京支店と5両のガソリンカーを契約したことが、1931年上期の営業報告書に記されている。しかしこの時点日車東京支店はボギーのガソリンカー製造実績がなかった。そのためかどうか不詳だが、設計は本店が行った。1930年10月/11月製の佐久鉄道キホハニ51~56と若干の差異―窓が下降式、寸法も厳密に同一ではない―があるが、ほぼ同様の設計であった。車体実幅は2,200mmと狭いから、扉下に踏み板を張り出している。

組立図は勿論本店が引き、図番組8ハ-831、日付昭6-3-30。ところが支店にも組8ハ-145、昭6-7-27なる組立図一式が存在し、しかも「基図本組8ハ-831」の記入がある。すなわち支店は本店の図を完全にトレース=コピーしたのであった。

それからがややこしい。各車には支店の銘板が張ってあり、従前ファンは、この5両は日車東京支店の製造と信じて疑わなかった。しかし日車売上台帳を見ると、一筋縄ではいかない。それは、本店、支店両方に注文先を飯山鉄道とする売り上げ実績、工号があるからである。工号とは日車内部の符丁で、顧客からの何番目の注文かが分かる仕組みで、本店と支店とで様式が違う。

売上台帳64期(1931年6~11月)での本店は、車両の部ではなく、「製作器具内訳表」に注文先飯山鉄道、品名手荷物室付半鋼製四輪ボギー瓦斯倫客車、数量5両外4点、請負金額39,707円、製作費36,918円63銭、工場損益2,788円37銭。支店は「製作車両内訳表」にやはり注文先飯山鉄道、品名半鋼製四輪ボギー瓦斯倫客車、数量5両、請負金額60,000円、制作費56,786円34銭、工場損益3,213円66銭。常識的には本店の発注先を飯山鉄道でなく、支店とすべきだったのであろう。

これから判断すれば、受注は間違いなく支店。ところが現実には本店が下請けで2/3を製造し、支店へ。支店が残りを仕上げた、と読める。支店の制作費には本店への支払=36,918円が含まれている訳で、飯山鉄道キハニ1~5竣功図記入代価は1両12,500円だから、5両で62,500円。2,500円が搬入経費(運賃、保険料、荷役費)と思えば勘定は合う。

車両業界では下請等の実態がどうあれ、最初に受注したところがメーカーとされ、そこの銘板を張るのが常識で、現にこの飯山5両も竣功図を支店が調整し、製造所名日本車両製造株式会社東京支店、昭和6年9月と明記されている。この5両は日車東京支店製として間違いはないのだが、上記の如き事情が介在した。それも5両の内3両を本店が、2両を支店が作ったのならまだ話は分かるが、付加価値額からは2/3本店で製造した半製品を、支店で仕上げたという、極めて珍しい事例と判断できる。


モハ3223←サハ25←運輸通信省キハニ5←飯山鉄道キハニ5
サハ22←ハフ103←運輸通信省キハニ4←飯山鉄道キハニ4

話が100%脱線した。この5両―飯山鉄道キハニ1~5は、設計認可1931年7月17日、機関ウォーケシャ6SRL、チェーン2軸連動。買収でも省形式はずキハニ1~5のまま。1944年(キハニ2、3)と1948年6月22日(1、4、5)が廃車になり、全部1949、50年に上田丸子電鉄に払い下げられ、1~5の番号順ならサハ23、ハフ102→サハ21、サハ24、ハフ103→サハ22、サハ25に。

サハ23←運輸通信省キハニ1←飯山鉄道キハニ1 この位置の踏み板が原型である

さらにサハ25は台車を電車用に履き替え、モハ3223に改造。但し一旦廃車されていたと聞くから、廃車復活ではなく、単にボディを再用したのであろう。連結しているモハ3224も同系列車には違いないが、飯山ではなく秋田鉄道ジハ6買収車で、鉄道省キハ36470→キハ40300→東武鉄道キハ21→上田丸子電鉄サハ26→モハ3222→モハ3224という経歴になる。

なお飯山の5両は、客扉幅が750mm、手荷物扉幅960mmだったが、小生が見た時点ではすべて手荷物室側の客扉を埋めていたが、面影は十分残している。サハ22、23共、その扉跡が分かるだろう。また連結器は簡易連結器だったが、全車通常の自連に換装しており、モハ3223、サハ22は妻下部に鋼板を重ね張り足している。

ポール時代最末期の能勢電

10月15日付の【9939】「ちょっと気になっていた電車」で準特急様が能勢電を話題にされておられたが、ポール時代の写真は非常に懐かしく思った。
能勢電のポール時代は、諸先輩方が多数記録に残されておられて、私などの出る幕ではないが、少しばかりの写真があるので当時を偲んでいただければと思う。
能勢電鉄がポールからZパンタ、パンタに切り替わったのはDRFC入会以前の昭和41年1月17日である。私が撮影したのは前年の10月から12月にかけて京阪沿線の高等学校に通学していた頃で、滑り込みセーフであった。当時の在籍車両は31形2両(31・32)、50形3両(50~52)、60形2両(60・61)、10形8両(10~15・28・29)、20形6両(20~25)、電動貨車1両(106)の22両であった。
以下、形式毎に画像を並べてみた。

31形(31・32)
大正15年日車製で当初31~36の6両作られた。昭和30年10月に32が鼓滝踏切で大型トラックに衝突して大破し、復旧時に瑞穂工業により半鋼製改造時に31も追加された。(32は31年7月、31は同年9月竣工)残った33~36は鋼体化されることなく、昭和36年に廃車となった。35の部品を流用して電動貨車106が瑞穂工業の出張工事で作られたが、書類上は新造扱いである。
昭和41年、320形導入時にZパンタ化されることなく廃車となった。

 
多田駅を発車する川西能勢口行(昭和40年11月1日)

 
絹延橋車庫(昭和40年12月22日)

50形(50~52)
元阪急37形(37~39)(大正10年梅鉢鐵工場製)の70形(71~73)を昭和28年(71・73→50・51)と30年(72→52)に鋼体化改造したもので、50・51はナニワ工機、52は帝国車両で竣工した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられた。50と52は同年12月に廃車となり、残った51は61と共に川西能勢口~川西国鉄前間で使用、昭和56年12月20日同区間廃止により休車、翌年6月に廃車となった。

 
川西能勢口駅(昭和40年12月22日)

 
鼓滝駅を発車した妙見口行(昭和40年12月22日)

 
多田駅に到着した川西能勢口駅(昭和40年11月1日)

 
建設中の平野車庫の横(昭和40年12月22日)

60形(60・61)
借入中の阪急40形(大正12年藤永田造船所製)の40・41を昭和29年9月に譲り受けてナニワ工機で鋼体化改造して30年1月に竣工した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられた。60は同年12月に廃車となり、残った61は川西能勢口~川西国鉄前間で使用、昭和56年12月20日同区間廃止により休車、翌年6月に廃車となった。

 
絹延橋車庫(昭和40年12月22日)

 
鼓滝~鶯ノ森間の猪名川鉄橋を渡る妙見口行(昭和40年12月22日)

 
鼓滝駅を発車して妙見口に向かう(昭和40年12月22日)

 
平野~多田間を走行する川西能勢口行(昭和40年11月1日)

 
川西能勢口駅(昭和40年11月15日)

10形(10~15・28・29)
元阪急(←新京阪)のP-4、P-5形を昭和32年10月に1500Ⅴ→600Ⅴに降圧、パンタグラフをトロリーポールに取替等の改造を正雀工場で実施の上譲り受けた。翌年3月から下記の編成で常時2連で使用されることになった。( )は阪急時代の車番。
←妙見口
10(11)+11(21)・12(27)+13(22)
14(14)+15(23)・28(28)+29(54)
10~15は2個モーター、28は4個モーター、29はTcである。 
昭和41年1月集電装置変更時にパンタに取り替えられた。320形と置換えで14+156は41年12月に、それ以外の車両は42年10月に廃車となった。

 
急カーブで川西能勢口駅に到着(昭和40年11月15日)

 
鼓滝駅に停車中の川西能勢口行(昭和40年11月15日)

 
鼓滝駅に停車中の川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
猪名川鉄橋を渡る川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
多田駅での交換(昭和40年11月15日)

 
川西能勢口駅停車中(昭和40年11月15日)

 
鼓ケ滝駅に停車中の妙見口行(昭和40年11月15日)

 
多田駅を発車する川西能勢口行(昭和40年11月15日)

20形(20~25)
元阪急(←新京阪)のP-5形を昭和36年5月に借入れた。昭和41年1月集電装置変更時にパンタに取り替えられたが、同年9月に返却され、阪急では直ちに廃車手続きがされて平野車庫で解体された。編成は下記の通りである。( )は阪急時代の車番。
←妙見口
21(51)+20(24)・22(18)+23(52)
24(19)+25(53)
偶数車がMc、奇数車がTc
10形、20形は1両毎に細部が異なり興味が尽きない。

 
絹延橋~川西能勢口間を走行する川西能勢口行(昭和40年12月22日)

 
絹延橋車庫に入庫(昭和40年12月22日)

 
続行車ありの標識を表示して鼓ケ滝駅を通過(昭和40年12月22日)

電動貨車106
31形のところで触れたが、昭和36年8月に35を瑞穂工業で改造した。昭和41年1月集電装置変更時にZパンタに取り替えられたが、保線作業車が導入された結果、仕事がなくなり平成3年3月に廃車となった。
ポール時代の写真が見当たらないため、Zパンタに換装後を貼り付けた。

 
昭和41年11月25日 平野車庫

【番外①】建設中の平野車庫
昭和40年8月21日から手狭になった絹延橋車庫に代わり、平野車庫が建設され、翌年1月25日に完成した。

 
建設中の平野車庫

【番外②】320形
昭和40年5月から8月にかけて阪急320形(320~331)が全車両入線したが、受入体制が出来ていないため、川西能勢口、絹延橋車庫、多田、妙見口に分散留置され、最終的に建設中の平野車庫に集結した。翌年5月から使用が開始され主力として活躍したが、1500形との置換えにより昭和58年から廃車が始まり、61年12月20日付で全車廃車となった。

 


多田駅留置線(上/昭和40年11月1日・下/11月15日)

【番外③】40形
阪急40形は40~45(44欠)の5両作られたが、42は阪神急行時代に昭和6年箕面線で消防車と衝突したため廃車となり、昭和7年2月に41、43、45の3両を借り入れた。昭和23年6月に43が衝突事故で大破したため40を借入れた。43は書類上は休車となっていたが、60形に改造されて不要になった41の旧車体と休車中の電動貨車206の足回りを利用して復活して引続き使用されていた。昭和37年12月43、45共に返却され、43は池田車庫に、45は西宮車庫に留置された後解体された。

 
西宮車庫(昭和39年12月25日)

【番外④】阪急宝塚線

 
川西能勢口駅を通過する回送電車(昭和40年12月22日)

 
石橋駅を発車した宝塚行急行(昭和40年12月22日)

取り急ぎクハ1711、1712

湯口先輩より【10193】「北陸鉄道その6」能登鉄道のホハ、北陸鉄道統合後石川総線でのサハ611の超貴重な画像の公開があり、更に今回その続編とも言える内容の披瀝があり、唯感激するばかりである。いずれの画像も本邦初公開ではないかと思われる。
「北陸鉄道 昭和40年代シリーズ」は、写真と資料を見比べつつ仕事の合間にぼちぼち進めており、現在石川総線を進めているところであるが、不明な点も多々あり悪戦苦闘している。以降加南線、金沢市内線、能登線と進めて行きたいと思っているが、何とか全部終わらせたいと思っている。
表題のクハ1711と1712は現在進行中の「石川総線」の中で登場するが、取り急ぎ画像のみ貼りつけた。クハ1711は46年3月20日野町で、クハ1712は45年10月11日鶴来での撮影である。

 

北陸鉄道サハ611、612

11月2日(10174)/11月8日(10193)の「元祖青信号」に、1925年製北陸鉄道サハ611が、国鉄形式ホ12000の、すこぶる古い―1911年か12年製のものと振り替わっていたことを記した。小生も編集の末席を汚している「鉄道史料」なる、マイナーも極まった季刊誌があり、その112号(Autumn2005)に、「私鉄のボギー客車落穂拾い―国鉄型」なる駄文を弄している。その中で能登鉄道ホハ1、2→北陸鉄道能登線ホハ1201、1202→石川線サハ611、612を簡単に記している。

それから5年経過した今年11月17日―つい先日、地元ご在住(であろう)の山本宏之氏という方から、鉄道史資料保存会にメールが寄せられた。北陸鉄道サハ651、652とサハ611、612に関してで、要約すると以下の通りで、文意を損なったとすれば要約者の責である。

「この車は1949年にホハ3001として能登線に入線し、1952年に石川総線へ移った際にサハ651となっていたが、許認可文書には一度も登場しておらず、無籍車と思われる」
「買い出し客などで能登線の輸送需要が増加し、燃料統制で使用が制限さられていたガソリンカーの代役として、運輸省から1023号蒸機の払い下げを受けていた中で、鉄道統制会の許可を得ずに大型客車を増備したのではないか」
「能登線がディーゼル化され、それが牽引するには荷が重い大型客車は電化路線に転用され、最終的に石川総線にサハ611、612、651の3両が揃った」
「1955年サハ611(湯口注能登鉄道からのオリジナル客車)の台車と台枠を流用してサハ2001を新製する際、車籍を継承せず、サハ611の廃車届もなく、サハ651(湯口注国鉄から購入した無籍車)の車体標記をサハ611に書き換えた」
「翌年にはサハ612も同様サハ2002に流用したが、この時はサハ612の廃車届が出され、二代目サハ611になった元サハ651も1965年廃車になった」

山本氏は恐らくこの掲示板はご覧になっていないだろうが、偶然とはいえ、実にいいタイミングで、これでほぼ実態が判明した。ただ「鉄道統制会」とは、戦時中私鉄の許認可事務の委託を受けて代行していた「鉄道軌道統制会」であろうが、これは敗戦後1945年12月26日解散しており、北陸が古いホハ12000を取得し、無認可で就役させたのはその後と思われる。ホハ12000には当然戦災廃車もあるが、老朽廃車は1948年以降で、翌年からはオハ60系新製のため、台枠の切継ぎ転用も゙始まる。1950年以降は職用車(配給車、救援車等)への改造もなされた。

金鉄管内での形式ホハ12000廃車は1951年度ホハ12047、48、56、12181、1952年度12049~51、53など。今となっては調べようもないが、恐らくはこのうちの1両が、サハ651→二代目サハ611になったのではなかろうか。なお山本氏は「大型客車」を、地方鉄道としては大きな客車ほどの意味でお使いと思われ、国鉄での「大型車」(形式が2万代=長軸・将来標準軌間化できる設計)、「中型車」(1万代)という分類ではあるまい。

また能登線3001とは、芸備鉄道キハ1→鉄道省キハ40308→石川鉄道ハフ20→北陸鉄道石川線サハ801→能登線コハフ3001で、1968年まで在籍、と承知していたのだが。能登線初代3001は無認可での国鉄形式ホハ12000で、石川線サハ801との交換で、番号も引き継いだのだろうか。

で、最後に諸兄にお願いが。まっとうなサハ611、612のUF12類似台枠と、TR10あるいは短軸化TR11台車を流用した北陸サハ2001(自社製)、2002(東洋工機)→クハ1711、1712をお撮りの方は、是非ご提供お願いしたい。

1957年5月金沢機関区



C5776とC5778

北陸鉄道のネガをゴソゴソやっていたら、国鉄車両も出てきた。金沢では機関区、客貨車区も、行きがけの駄賃というか、ついでに覗いていたのである。C57はどうでもいが、E10がズラリ並べられていた。周知のようにE10は1949年4月24日奥羽本線福島-米沢間電化で失業し、その後北陸本線倶利伽羅峠の補機として使われていたが、新随道の掘削で勾配が緩和され、再度失業していたのである。


E101  奇怪な除煙板にご注意あれ



E102(上)とE104(下)

その後北陸本線交流電化で、米原-田村間4.7kmという長大デッドセクションになり、ほぼ勾配のないこの区間が彼らの失業対策―最終職場になった。交流電化開業は1957年10月1日だから、米原区転出の数か月前だったことになる。さらにはこの米原-田村間も1962年12月28日電化され、全く用途を失って廃車された。

 

機関区の片隅に、立山重工製Cタンクが1両、さして荒れずに放置されていた。同類は各地で見られ、軍需工場や陸海軍工廠等で使われていたものが、敗戦後GHQ(General headquarters=占領軍総司令部)から賠償指定され、大蔵省管轄で保管されていたものである。結局は賠償にはならず、車両類は1953年ごろから順次指定解除されて私鉄で再活躍したり、引き取り手がないものは解体されてしまった。このCタンク機も、本当に車両不足が切実だった時期を無為に過ごし、再起したとは聞かない。金沢機関区は単に置場を貸していただけである。


ホユニ5051が完全な姿で残存していたのには一驚

客貨車区を覗いて仰天しかけた。何と、ホユニ5051(形式5050)がまともな姿で残存しているではないか。これは鉄道作業局ニボ17として、1889年神戸工場で誕生したもので、ホイロ5166(5150)→ホロ5508(5495)→ホユニ8605(8600)→という経歴。1950年2月14日名タヤで廃車されているから、この時点7年を経過している。

通常食堂や休憩室、組合事務所などに廃車体を転用する場合、台車を外すのに、これは一体どうしたことか。別段保存や転用などというものでもない。単に解体から漏れていた、というだけなのは、出入り口にハシゴ・階段の類が付けられていないことから分かる。蒸気機関車なら、誰かが画策して密かに残していた―例えば吹田教習所にC5345、555、65が残存―こともあったが、こんな例は珍しい。小生にしても、救援車や配給車化されず、営業車のままの雑形客車で、しかも足つきは、これ以外ほぼ見ていない。


ロ642車体

建物の間に、ロ642の車体を見つけた。形式628、628~680は新橋工場1888~1900年にかけ製造された、サイド2箇所扉のロングシート車で、片隅に便所があり、定員26人。

昭和46年の北陸鉄道浅野川線


クハ1651+モハ3011 46年3月21日 蚊爪

前回の金石線に引き続き、昭和40年代の浅野川線の状況について報告する。金石線は、ほぼモハ3000形で固められていたが、こちらは車両の転出入が激しいため、昭和46年3月時点での状況で報告する。特に同年7月11日加南線廃止後、大幅な車両の動きがあり、今回取上げた元遠州鉄道(車体のみ)のクハ1601、元国鉄のキサハ04のクハ1650形が姿を消した。

【沿 革】
前身は大正13年1月に設立された浅野川電気鉄道で、大正14年5月七ツ屋~新須崎(蚊爪~粟ケ崎間に存在し昭和36年6月廃止)5.3㎞を開業、同15年5月金沢駅前(現北鉄金沢)~七ツ屋間0.8㎞開業、昭和4年7月新須崎~粟ケ崎遊園前(現内灘)~粟ケ崎海岸間2.4㎞間を開業した。同社により砂丘開発の一環として粟ケ崎に大規模なレジャー施設が建設されたが、戦争のため軍部に徴収の上、軍隊の宿舎等に転用され閉鎖されてしまった。戦争末期の昭和20年2月粟ケ崎遊園前~粟ケ崎海岸間1.8㎞間が廃止(昭和27年7月に復活して海水浴シーズンのみ営業したが、昭和49年7月再度廃止)昭和20年7月20日北陸鉄道と合併して同社の浅野川線となった。
平成8年12月8日架線電圧を600Vから1500Vに昇圧して、従来の車両を元京王電鉄3000系改造の8000系に置換え、同時にワンマン運転を開始した。平成8年3月28日、金沢市の都市計画の一環として北鉄金沢~七ツ屋間が地下化された。

【昭和46年3月の状況】
当時から現在まで北陸鉄道各線の中で最も業績が良く、M車に関しては比較的車齢の若い車両が集められていた。運転間隔は朝夕ラッシュ時ほぼ20分、その他の時間帯は30分間隔で運転され、20分間隔の時は3列車、その他の時間帯は2列車使用されていた。この辺りの状況は現在もほぼ同じである。編成はMc+Tcの2連が基本で朝ラッシュ時は2本にMcが増結され3連となった。乗客が多い理由は沿線人口もさることながら、バス路線が並行するのは2つ目の上諸江までで、その先終点内灘までは競合がないことが挙げられる。市内中心部香林坊から内灘を経由して七尾線の宇野気方面に行くバスが1時間に1本程度(現在は更に運転間隔が開いている)あったが途中経路が異なっている。余談になるがバスの方向幕は「宇ノ気」と表示されていたが、現在はJRに合わせて「宇野気」と表示されている。正しい地名は「宇ノ気」である。
北鉄金沢と内灘の間に途中駅が10カ所設置されており、当時「割出」と「蚊爪」が交換駅であったが、現在は「三ツ屋」1カ所である。

【車 両】
昭和46年3月時点での車両は、電気機関車1両(EB221)、電車11両(モハ3010、3201、3301、3551、3561、3563、5101、クハ1001、1601、1651、1652)であった。同一形式が複数両存在しているのは、モハ3560形とクハ1650形が2両のみであとはすべて1形式1両であった。

1)電気機関車
EB221(形式EB22)
小松線の前身白山電気鉄道デ3→北陸鉄道モハ503が化けた電気機関車である。デ3はデ1、デ2と共に白山電気鉄道開業時に昭和3年新潟鉄工所で新製された木製4輪単車である。当件については、湯口先輩が「【9997】北陸鉄道2」で、モハ501、モハ502の画像と共に解説されておられるので、今一度お読みいただきたい。
一旦荷物電車モヤ503となり、加南線に転属し、昭和36年に電気機関車に改造された。昭和43年に浅野川線に転入して北鉄金沢駅構内にあった工場引込線の国鉄貨車の入換えに使用されていたが、昭和47年4月貨物営業廃止により廃車となった。

 
 
(42-3-21
 山代/浅野川線での画像がないため加南線時代を貼り付けた)

2)電車
前述の通りモハは3560形の2両以外は1形式1両、クハも1650形の2両以外は1形式1両であった。
モハ3011(形式モハ3010)
昭和33年日本車輌で新製され石川総線に配置された。主要機器は他車からの流用品であったが自動制御器を持っていた。昭和39年にモハ3000形(3001~3005)と共に金石線に転属したが、予備車的存在で後年主電動機を取り外してクハ代用となっていた。昭和45年HL制御器を搭載して再電装され、浅野川線に転属した。パンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉が設置されていたが、浅野川線転属時にパンタ側にも貫通扉が設置された。

 
46-3-21 蚊爪)

モハ3201(形式モハ3200)・クハ1001(形式クハ1000)
昭和32年、後述のクハ1001と共に日本車輌で新製され加南線に配置され、モハ3201+クハ1001の整った編成で使用された。主要機器も新製されたが他車との互換性を重視してHL制御器を装備した。昭和39年にクハ1001と共に石川総線に転属したが、制御器の違い(石川総線は間接自動制御)から朝夕ラッシュ時以外は休んでいることが多く稼働率は低かった。昭和43年モハ3201が、翌44年にクハ1001が浅野川線に転属となり、再び2連を組むことになった。モハ3201はパンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉設置、クハ1001は片運で運転台側非貫通で、最後までこのスタイルであった。

 


(
モハ3201+クハ1001 46-3-21 蚊爪)


(モハ3201の非パンタ側 
42-3-20 新西金沢)

モハ3301(形式モハ3300)
前述のモハ3011と共に昭和33年に日本車輌で新製され金石線に配置された。金石線は軌道法が適用されるため、連結運転時に全長が30m以下にする必要があり、モハ3011より車長が600mm短く、扉間の窓が1枚少なく5枚となった。機器類は新品で自動制御器を装備した。昭和39年モハ3000形投入により加南線に転属、更に昭和44年制御器をHLに換装して浅野川線に転属した。パンタ側非貫通、非パンタ側に貫通扉が設置されていたが、浅野川線転属時にパンタ側にも貫通扉が設置された。
1500Ⅴに昇圧後も、補助金による新車(実際は中古車)購入の代替車として残り、平成10年に廃車になったが昇圧改造はされていないので自力走行は不可能であった。

 
46-3-20 内灘)

 
(加南線時代 
42-3-21 山代)

モハ3501(形式モハ3500)・モハ3551(形式モハ3550)
モハ3501は昭和36年、モハ3550は昭和37年にそれぞれ日本車輌で新製され浅野川線に配置された。貫通扉は当初から両側に設置されていた。車体の仕様はほぼ同一であるが、モハ3501は、主要機器は新品で自動制御器を装備、モハ3551はモハ850形の廃車発生品を流用して作られ、HL制御器を装備した。モハ850形は元飯田線の辰野~天竜峡間の前身である伊那電鉄の買収車で最後は富山港線で使用後、昭和29年に北陸鉄道が購入した木製車で2両在籍した。
モハ3501は昭和39年に加南線に転属したが、昭和46年7月11日同線の廃止により浅野川線に復帰、その際にモハ3570形3571(昭和36年元遠州鉄道モハ13の車体を利用して自社で製作)の廃車発生品を利用してHL化した。
一方モハ3551は新製以来浅野川線に所属し、頻繁に転属が行われた同社では珍しい存在であった。
モハ3501は46年3月時点では加南線の所属であったが、元々浅野川線用として新製され、同線廃止後復帰したので時期のずれはあるがここで取上げた。

 
(加南線時代 
42-3-21 山中)

モハ3561・モハ3563(形式モハ3560)
加南線の前身、元温泉電軌から引継いだモハ1800(昭和17年木南車輌製)→モハ1831とモハ1810形(昭和18年木南車輌製)を昭和37年にHL制御化の上、前面に貫通扉を設置したもので、経歴はモハ1813→モハ3561、モハ1803→モハ1831→モハ3563である。モハ1801→モハ3562も在籍していたが、昭和45年に再度加南線に転属した。モハ3563はモハ3301と共に1500Ⅴに昇圧後も、補助金による新車(実際は中古車)購入の代替車として残り平成10年に廃車になった。 

 
(
モハ3563/46-3-21  内灘)

モハ5101(型式モハ5100)
昭和26年広瀬車輌でモハ5101~5103の3両が新製され、石川総線に配置された。 HL制御器を持ち、戦後製の新車として活躍していたが、車両の間接自動化が進められた結果、次第に第一線を外れ、昭和44年モハ5101が浅野川線に転属した。石川総線に残った5102と5103は昭和46年に間接自動式の制御器に換装されモハ3761、3762に改番された。(こちらは石川総線で解説する)

 
46-3-21 七ツ屋)

クハ1601(型式クハ1600)
元遠州鉄道のクハ51の車体を昭和37年に日本車輌経由で購入して自社で改造した。遠州鉄道クハ51は同形のモハ13、モハ14、クハ52と共に昭和23年日本車輌で新製され、車体は運輸省規格B`形であった。昭和36年にモハ13+クハ51、モハ14+クハ52の機器を流用してモハ38+クハ86、モハ14+クハ52が製作され、車体のみ北陸鉄道で再起し、モハ13→モハ3571、モハ14→クハ1602、クハ51→クハ1601、クハ52→クハ1603となった。一時は4両共浅野川線に配置されていたが、クハ1601を除き加南線に転属した。(クハ1601の写真がないため加南線転属後のクハ1603を貼りつけた).

 
(クハ
160342-3-21 山代)

クハ1651、1652(形式クハ1650)
元国鉄のキサハ04101、102を昭和36年に購入してサハ1651、1652として使用し、翌37年に運転機器を取付てクハ1651、1652となった。ハ化の際、運転台側正面窓の3枚窓化、非運転台側の貫通化、乗務員扉の取付け等が実施された。
経歴は下記の通りである。
キハ41040(昭和9年日本車輌)→キキサハ41800(昭和25年新小岩工場)→キサハ04101(昭和36年2月新潟区で廃車)→北陸鉄道サハ1651→クハ1651
キハ41041(昭和9年大宮工場)→キサハ41801(昭和25年新小岩工場)→キサハ04102(昭和36年2月新潟区で廃車)→北陸鉄道サハ1652→クハ1652

 
46-3-21 蚊爪)

2010年11月7日 DRFC-OBクローバー会開催

2010年カミングデーにおいて、DRFC-OBクローバー会も開催されました。各自の近況報告や現役生も参加しての活動報告も行われ、親交を深めました。 来年度は、東京にて写真展を開催する予定で、現在場所探しをしている状況だそうです。決定しましたら、またHPにてお知らせがありますので、ふるっての参加をお願い申し上げます。




1957年5月/1958年7月北陸鉄道その6


能登鉄道ホハ 藤浦哲夫撮影 UF12類似台枠を篤と覧あれ この時点まだ赤帯の跡が残っている

先回投稿につき、早速藤本哲男氏から暖かいサポートがあり、老人は感激し「その6」を続けることにする。

能登鉄道ホハ1、2の台枠がUF12類似であること、台車もTR11の短軸化であることは先回記した。比較のため、能登鉄道時代、北陸鉄道統合、石川線転出後のサハ611をお目にかけておく。これがオリジナルの姿なのである。


北陸鉄道サハ611←能登鉄道ホハ1 高橋 弘撮影

さらに石川線では、モハ541の挿入を忘れていた。後期高齢者まであと10か月という老人性痴呆の寸前にほかならない。情けないがどうしようもない。


北陸鉄道石川線モハ541 元能美電気鉄道デ1 

なお金沢市内線も何枚か撮っているので、事のついでにご披露を。

金沢市内線308

金沢市内線2001

金沢市内線2004

洛西たより

以前、阪急京都線洛西口駅周辺の東側で複線工事をしているのを見つけた摂津の御仁が、「あれ洛西NTの新線か?」と質問され、「いや、府道中山稲荷線との立体交差工事だ。」と答えた。下り(梅田行)線は9月11日深夜から早朝にかけて仮線に移動した。上り線は12月11日早朝切り替え予定である。これで工事は本格化するが、仮線とは言え高速で洛西口駅を通過するから「阪急もJR並や!」と言っている人もいる。3年後には高架線、駅が竣工する予定である。

さて今秋の紅葉は期待できると新聞発表があった。それを前に阪急は「紅葉の嵐山へ一直線」と、一大キャンペーンを張っている。11月の土日祝日は4ケ所から快速特急、直通特急が嵐山に向う。桂発を列記すると快特梅10:12、同じ10:32、快特河10:43、同梅10:52、同河11:03、直特宝11:12、直特神11:32、快特河11:43、同じ12:03、となる。この9列車を巡り4、5番線の上り方で場所取り合戦が始まっているようだ。11月7日、それに参入後のホームカミングディ?としたら怒られるやろうな……。阪急もでっかいテルテル坊主を新装成った嵐山駅に吊るしていかがであろうか!

1957年5月/1958年7月北陸鉄道その5

西金沢(のち白菊町)-鶴来-神社前は旧金沢電気軌道、新寺井-鶴来は能美電気鉄道が前身で、北陸鉄道に統合後は両者合わせ石川線。さらに神社前-白山下の非電化線であった旧金名鉄道→金名線を含め石川総線とも称されていた。神社前とは加賀一ノ宮である白山比め(しらやまひめ。「め」は口偏に羊)神社を指す。なお金名鉄道は1日2往復列車(ガソリンカー)が神社前まで乗り入れていた。電化は敗戦後の1949年12月6日である。

さらに金名とは、以前にも書いた記憶があるが、金沢と名古屋の頭文字で、熊延鉄道(熊本、延岡)や大社宮島鉄道(出雲大社、宮島)などと同類の、大風呂敷・大法螺吹き社名。世の中上には上があるもので、日露支通運電鉄なんて会社設立を謳い、詐欺そのもの?の計画もあった。


2軸単車の59 市内線のお古か ビューゲルとポール両方装着は庫内入換用であろう

モハ1502 汽車会社1925年製のオリジナル半鋼車デホニ102の荷物室・扉撤去

モハ3103 伊那電気鉄道買収車 伊那デ122→国鉄モハ1922→北陸

モハ3104 上と同じく伊那デ123→買収モハ1923→北陸
サハ611 能登鉄道ホハ1が前身とは「真っ赤な嘘」

小生は電車なんぞどうでもよく、このサハ611、612だけを撮りに来たのである。これは能登鉄道開業(1925年3月3日、羽咋-能登高浜)時2両購入した日車製の中型並の木製ボギー客車だが、製造が新しいだけあって、台枠はUF12並、台車もTR11を短軸にしたようなものである。北陸統合でホハ1201、1202に改番、さらに石川線に移ってサハ611、622に。蛇足ながら大正末~昭和にかけ、かような省型木製ボギー客車を開業時新製投入した鉄道には、能登のほか、弘南、北海道拓殖鉄道がある。

ところが、である。このサハ611を、目をこすってよっくとご覧あれ。やったらめたらと古い客車であることがお分かりになろう。台枠はUF11、台車に至っては1911年(明治44年)か1912年(45年)の代物である。すなわち、これは能登鉄道のオリジナル客車ではなく、鉄道院形式ホハ6810(→形式ホハ12000)の、最も古いかその直後―明治製の客車に相違ない。高橋 弘氏が1949年に撮られた写真は、オリジナルそのものである。

即ち、北陸鉄道では国鉄で廃車になったホハ12000形式を、恐らく1955年以降に購入し、振り替えたとしか考えようがない。それにしても振替とは、一般により新しい車両とするものであろうが、14年も古い車両との振替なんぞ、聞いたことがない。事故か何かで損傷したのに廃車手続を避けたのか。それとも新しい方の台枠を新製電車に流用した?可能性もあるかもしれない。電車屋さんよ、何ぞご託宣を。

北陸鉄道の車両紹介は極めて少なく、かつて鉄道ピクトリアル215~220号の「私鉄車両めぐり」も、執筆者には大変申し訳ないが、いまいち分かりづらく、内容にも欲求不満がつのった。このサハ611の項でも、正式の経歴が記されているだけで、挿入写真は明白に振替後なのに、失礼ながら全くお気づきになっていない。

「昭和の神戸と市内電車」作品展


以前この掲示板に、神戸元町4丁目のこうべまちづくり会館地下ギャラリーで、神戸市電や和田岬線列車の詳細、かつ何ともいえない温かみのある絵画、三ノ宮付近の立体模型などの作品展の紹介があった。この老人も習慣としての須磨-三ノ宮までのウォーキング中にたまたま拝見し、そのすばらしさを伝えた記憶がある。鈴木 城氏の長年にわたる作品群の由。

今回どうして老人の住所をお知りになったのかは不詳だが、やはり同じ会場で、11月11日(木)~23日(火・祝)「昭和の神戸と市内電車」鈴木 城絵画立体作品展のご案内を頂戴した。これは必見である。鈴木氏とご面識はないが、今回は是非お目に掛かりたいものと念願している。

会場は神戸の元町本通、4丁目と5丁目の堺の4丁目側南角にある「こうべまちづくり会館」で、9時30分~18時。京都からわざわざお越しになったとしても、それだけの価値は充分あると確信する。最寄駅は神戸高速鉄道「高速花隈」、神戸地下鉄海岸線「みなと元町」だが、JR元町、阪神元町からでも徒歩10分とかからない。

蛇足を加えると、冒頭リーフレット上の絵は、元町6丁目の三越前。三越撤退後は結婚式主体のホテルになり、それも震災前から家督争いか何かで閉鎖されたまま、今日に至っている。元町通りの西の入り口である。市電が通っている道路(多門通=現在中央幹線)は神戸高速鉄道建設に際し、左(山)側が拡幅された。

電車のすぐ横に「太井肉店」の看板のある異人館が覗くが、この建物は神戸高速鉄道が補償・全額負担して明治村に移築。最初は大井が牛鍋を営業していたが、現在では別の業者がやっている。なお大井肉店はビルになり、絵とほぼ同じところ(道路拡幅分だけ引っ込んで)で営業中である。

下の絵は、国鉄和田岬線の三菱造船所通勤客満載列車。ヘッドライトの背後に神戸港線名物のエア作動の鐘が見える。背後の誇線鉄橋は神戸市電高松線。この一帯は低地(旧湊川の川口扇状地)で、台風ではすぐ水没し、老人も若かりし日、写真取材で腰まで水に浸かった記憶がある。

飲酒の運転手が、公用車に「偉いさん」を乗せたまま、この誇線鉄橋の標準軌レールの上を、脱線もせず渡り切ったという「武勇伝」?があった。当時宴会中待機している運転手に、酒食が供されるのは至極当たり前というより「当然」であった。

なお和田岬線は旧山陽鉄道時代から存在し、現在では幹線道路の手前で切られ、駅も無人に。利用者は全員定期券のため乗車券自販機もなく、フリの客は無札で乗車し、兵庫駅で精算するシステムである。かつては川崎車両、神戸市中央市場の貨物が相当にあり、鐘紡の工場もあった(その後に競輪場が出来、市電車庫や交通公園にもなり、現在ではサッカー場と公園)のだが、旅客オンリーになり、それも三菱の縮小で昔の超満員など、かけらもない。

神戸市は地下鉄海岸線の開通で、和田岬線の廃止を予想していたが、何と電化までして残存したため、完全にアテが外れた。山陽本線の一部のため単独の収支係数は公表されていないが、平日朝夕のみ17往復、土休日は4/2往復で、黒字のはずもない。三菱が通勤上必要ならタダで譲ってでも、三菱に運行させたらと思うが。世の中にはいろいろ不思議なことがある。

追憶の九州 一人旅 (1)

先週、九州へ旅してきました。
北九州へは最近も何度か行っているものの、南九州となると大学生以来、40数年ぶりの訪問となりました。
同好の士とともに行く旅も楽しいものですが、自分の思いのまま、気の向くままに行動できる一人旅もいいものです。
私も定年退職後一年が経過しましたが、記録・撮影だけではなく、より広い視野をもって旅に出たいと念願しています。
私として心掛けていることは、
①以前に訪れた撮影地・駅を再訪問して、その変貌振りを確認したい。
②今では大きな価値も持たないが、JR全線乗車への努力を継続したい。
③車両だけでなく、鉄道遺産、バス、近代建築など個人的な興味にも時間を割きたい。
④この年齢、この時期だからこそ利用できる特典・割引は最大限に享受する。
といった趣旨のもと、旅を続けたいと思っています。
今回の九州行きも、第一の目的は消えつつある車両の撮影だったのですが、多少なりとも上記の趣旨を受けたものでした。今回は、かつての撮影地・駅の再訪問について、いくつか拾ってみました。
 

 改良工事で消える折尾駅を再訪問
九州上陸後、まず訪れたのは、折尾でした。
ここは、筑豊への入口駅に当たり、高校生の時から、もう何度乗り降りしたことでしょう。しかし、永く親しんだ駅周辺も、大掛かりな連続立体化事業が進展し、駅舎の解体も間近いとの報を受けての訪問でした。

折尾駅は、明治24年2月に鹿児島本線、当時の九州鉄道が開業、同年の8月には筑豊本線、当時の筑豊興業鉄道が開業、それぞれ別地点に駅が設けらた。その後、立体交差の現在地に共同の駅が設けられ、これが日本で最初の立体交差駅となる。寄棟屋根、木造2階建て、コロニアル様式を持つ現在の駅は、大正5年竣工の二代目の駅舎。
連続立体化計画では、筑豊本線の線路を西側に付け替えて、鹿児島本線に寄り添うように高架化し、新しい駅舎を建設しようというもの。折尾駅も周辺の住宅・学校への下車客が増加し、今や北九州市では、小倉に次ぐ第2位の乗降客数となっている。それだけに、明治のままの駅ではさすがに手狭になってきた。

鹿児島本線と筑豊本線が斜めに立体交差する折尾駅は、迷路のように複雑だ。高架下の通路は、煉瓦造りになっている。少し前に、筑豊本線若松駅ホーム側に西口が設けられ、人の流れがさらに複雑になった。また、構外には、鹿児島本線黒崎方と筑豊本線中間方を結ぶ短絡線があり、ここを通る鹿児島本線~筑豊本線の直通列車は折尾が通過扱いになっていたが、ここにも折尾駅が設けられている。構内の各所には、特製の駅案内図が貼ってある。

駅前広場に進入するのは北九州市営バス。西鉄バスが独壇場の北九州にあって、若松、折尾周辺で辛うじて路線を持っている市営バスだ。長らく、クリーム地に紺帯という、いかにも路線バスらしい、塗色で親しんできた同バスだが、黄緑色をベースにした新色に変更中で、見たところ、半数は新色に変わっていた。ちょうど、北九州市の地場企業である、バス車体製造会社の西日本車体工業も廃業してしまった。折尾駅前を特徴付けていたバスの車体・塗色が消える日も近いようだ。

▲鹿児島本線の下をくぐって若松へ向かうキハ47。筑豊本線は、折尾以南は電化され、篠栗線とともに「福北ゆたか線」を名乗っているが、取り残された折尾~若松間は、愛称「若松線」として、DCが行くだけの完全な別線扱いとなり、列車も朝の一部を除き、折尾折り返しになっている。

駅前には、西鉄北九州線の終点として、路面電車が高架の駅舎に乗り入れていたが、平成12年11月に廃止されている。駅舎のあったビル全体も解体中であった。もうひとつ、駅前には、筑豊の歴史を伝える川がある。この川は堀川と言い、江戸時代に遠賀川の氾濫を抑えるために、灌漑・水運用に掘られた運河である。川沿いの道路にびっしり立ち並ぶ、原色看板の飲み屋。これも筑豊が殷賑を極めた時代の遺産でもある。再開発事業が進めば、この光景もどうなるのだろうか。

初めて、折尾に降りたのは、昭和42年の高校2年生のときだった。高架の鹿児島本線ホームから迷路のような通路を通って、地上の筑豊本線ホームに行くと、真正面にC55のスポーク動輪が飛び込んできた。その時の印象が余りにも大きくて、それ以降、何度も筑豊へ行かせる結果となった。雨のホームに到着したのは、逆行C556の牽く若松発飯塚行きの列車。こんな列車が堂々と本線上を走っていた。

対向する若松方面ホームから眺めたC55の牽く列車。ホームがずいぶん低い。この頃、筑豊本線の旅客列車は、DCもかなり入っていたものの、客車列車はすべてC55だった。周りの家並みを見ると、さすがに今昔の感がある。

1957年5月/1958年7月北陸鉄道その4


北陸名物 外見上立派なB-B凸型でもモーター2個のため 律儀にEBを名乗るEB301 ポールは1本 

藤本哲男氏から昭和40年代の写真でご支援を受け、老人は至って機嫌を好くし、いそいそと「その4」に向かって邁進することになる。流石に昭和40年ともなると、木製車、2軸車は姿を消しているようだが、昭和30年代―1950年代後半期では、まだまだ幅を利かしていた。今回は金石線を。


右側はEB301+モハ611+サハ552+サハ604 左は1601 プラットホームの伸延はラッシュ時連結両数増加を示す

半鋼2軸車のモハ611 名古屋鉄道に大量にあった車両と同型であろう ポールは1本  

先回浅野川線で紹介したサハ600型の604 台車を篤とご覧あれ 床下トラス棒の両端はセンターピン位置と一致しないと効果が薄い筈だが これはどう見ても内側である
これは「まとも」な電車 モハ1601 半鋼車だがトラス棒があるのが京福電気鉄道ホデハと違う 浅野川線からの転属で、のちサハ1601として小松線に
サハ521←金石鉄道14←省コハ2476←簸上鉄道ホハ10 小生が情熱を注ぎ込んだ旧簸上鉄道の客車最終車で台車は菱枠様軸バネ入り 

昭和40年代の北陸鉄道金石線

EB123  42年3月21日  中橋(左手の線路が国鉄金沢駅との連絡線)

湯口先輩より10月8日【9875】と10月16日【9947】で昭和30年代の北陸鉄道金石線、小松線を元簸上鉄道の客車を中心にご紹介いただいたが、昭和40年代の金石線の状況を紹介する。

湯口先輩撮影の写真を補足させていただくと【9875】のトップ「サハ521+サハ604」のサハ604は、乙訓の長老の解説の通りで、6両在籍し601~603が石川総線、604、605が金石線、606が浅野川線に所属し、昭和36年から37年にかけて廃車された。台車まで鮮明に写っている写真を見たのは初めてで、改めてクローバー会の諸先輩の実力を感じた。3枚目の写真の手前はモハ611で、金石線の前身、金石電気鉄道の11として昭和2年日本車輌で新製、北陸鉄道合併後の改番でモハ611、昭和35年7月電装解除してサハ701、浅野川線、金石線、小松線と転属して昭和40年10月に廃車された。

【沿革】

金石線の歴史は古く、明治31年2月長田町~金石間4.85kmを金石馬車鉄道として762mmで開業、大正3年8月1067mmに改軌と電化を実施して金石電気鉄道に改称、大正9年10月長田町~中橋間0.6km開業、大正12年8月金石~大野港間2.0km開業、昭和18年10月戦時統合で北陸鉄道に合併し、同社の金石線となり、昭和46年9月1日全線の営業を廃止した。中橋~金石間は県道と並行しており、全線軌道法の適用を受けていた。

【訪問時の状況】

金石線を訪れたのは、現役時代の昭和42年3月と昭和44年3月、社会人になってからの昭和45年10月と昭和46年3月の4回で、電車に関しては諸先輩が撮影された個性的な車両は姿を消し、ほぼモハ3000形に統一されていた。始発の中橋駅は金沢駅の裏手にあり、国鉄とは線路は繋がっているものの乗客は徒歩連絡であった。当時電車は30分間隔で運転されていたが、並行する県道には市内中心部香林坊~金石間に同社のバスが頻繁に運行(現在もほぼ10分間隔)、大野港までも30分間隔(現在はほぼ1時間間隔)で運行され、電車の利用者は通勤、通学客以外は極めて少なかった。

【車両】

昭和46年3月時点での車両は、電気機関車3両(EB123、ED211、ED231)ディーゼル機関車1両(DL21)電車6両(モハ3001~3005、クハ1201)であった。

①電気機関車

EB122/昭和55年9月14日廃止になった能美線(新寺井~鶴来)の前身能美電鉄が開業時に新製した木製4輪車デ2として大正14年日本車両製で新製された車両である。昭和34年に電気機関車に改造され、EB122となり、昭和41年にボギー車化された。白菊町駅の入換に使用されていたが、昭和45年3月金石線に転属となり、同線廃止により廃車となった。

 

上/45年10月11日 下/46年3月20日 金石

ED211/元能美電鉄のデ3として作られた車両で、前述のEB122とは同一グループであった。昭和38年に電気機関車に改造されEB123となり、昭和41年に主電動機を4個に増強されED211となった。

 

46年3月20日 中橋

ED231/元能美電鉄のデ8として作られた車両で、昭和5年日本車輌製の半鋼製4輪車であった。一旦電動貨車モヤ621に改造後EB131となり、昭和41年ボギー車化の時の主電動機を4個に増強されED231となった。長く石川線で活躍していたが、昭和45年3月EB122と共に金石線に転属となり、同線廃止により廃車となった。EB122、ED211とは異なり、電車時代の面影が強く残っていた。

 

42年3月21日  新西金沢(石川総線時代)

②ディーゼル機関車/昭和38年協三工業製の小型DLで、北陸本線の交流電化に伴い、金沢駅での自社の電気機関車による貨車の受渡しが不可能になったため作られた。

 

46年3月20日 中橋

③電車

モハ3000形(3001~3005)/昭和24年日本鉄道自動車で新製され、石川総線の主力であった。昭和39年名鉄から転入したモハ3700形(元名鉄モ700形)の投入により5両とも金石線に転属した。モハ3005は石川総線時代の事故復旧時にノーシル・ノーヘッダー、張上げ屋根、正面に貫通扉の設置が行われ、近代的なスタイルとなった。その他の車両についても前面窓のHゴム化(3001、3002)、窓枠のアルミサッシ化(3004)等が実施された。金石線廃止後は全車両小松線に転属し、従来の車両を置換えた。

 

モハ3001  46年3月20日 金石

 

モハ3003  42年3月21日 中橋

 

モハ3004 上/45年10月11日 中橋 下/46年3月20日 金石

 

モハ3005 46年3月20日 大野港

クハ1201/河南線の前身、元温泉電軌のデハ29が前身で、昭和18年木南車両で作られた。北陸鉄道合併後の改番でモハ1816→モハ1832となり、昭和37年に電装解除してクハ1201となって浅野川線に転属した。昭和45年に金石線に転属となったが、廃止後再度浅野川線に戻った。

 

46年3月20日 大野港

【参考1】金沢機関区一般公開

昭和45年10月11日訪問時、偶然にも金沢機関区の一般公開日であった。現在も鉄道記念日前後の土曜日、日曜日に全国各地で機関区等鉄道施設の一般公開が行われて多くの見学者で賑わっているが、この時はそれほど見学者は多くなかった。

 

【参考2】快速こしじ

快速「こしじ」は、電車急行を特急に格上げした時に余剰になった471系、475系等を使用して富山~福井間で運転されていた快速電車であるが、一部気動車による運転もあった。当時の時刻表が手許にないので詳細は不明であるが、この列車の運転区間は金沢~富山間であったのだろうか。45年10月11日金沢駅の七尾線ホームでの撮影である。