知りませんでした 投稿日時: 2010年12月1日 投稿者: 米手作市 そういえばこんなのがあったような気もしますが、京都-西明石の各停は貫通扉のある関西型でしたね。 それにしてもこの方・関三平さんはただ者ではありませんな。画材は何なのか、色鉛筆のようにも見えますがたいしたものです。一度お会いしてみたい! 11/29産経新聞夕刊より 前回裏写りがあったのをご指摘下さった親切な方、ありがとうございました。以後気をつけます。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 台湾鉄道撮影地ガイド「お立ち台通信」に初掲載 井原鉄道 乗り放題 中国地方から謹賀新年 ご参集御礼 2012年 冬の中国鉄路の旅 総集編 井笠鉄道連載 その6 代理投稿:人間国宝より須磨の大老へ
電車少年はこのような【お下がり】が関西国電となり胸を張って走っていたとは、全く知りませんでした。お上が関西を見下げていた一つの表れや!と言ったら誰かどやすオッサンが現れるかな。いつ頃の話か知らんけど、まさか43系が大挙して田町へ東上(この言葉にカツンと来る)した時の見返りではないだろうネ。哲男君の解説を待とう。 返信 ↓
『関西の国電』ファンより はじめまして。 いつも『デジタル元祖青信号』を拝見させていただいて勉強させていただいております。 関東出自で、1949年に西下したクハ79066には京阪神緩行線で乗った記憶があり(1961年4月1日現在のピク社配置表では大タツ所属)懐かしく思いました。子供心に『変わった電車やなあ』と大変気になったのを覚えています。 後年はオレンジ色の厚化粧で城東線に定着していました。 仰るように関 三平氏は本当に『ただ者』ではありませんね。次が楽しみです。 返信 ↓
戯れにGoogleで引いて見ましたら日本迷路公団総裁関三平氏という方が居りました。画風というか筆致が似ている(と私の感じ)こととサインが「さんぺい」ではなく「さんべ」となっていることから多分間違いないのでは・・・更に調べて行きますと1940年生まれということで自身これらの車両を見る機会は十分にあったと思います。私の地元津田沼に居たことある由ですが記憶にありませんので、多分先頭車に使われることなく付属編成に組み込まれていて、先頭車かぶり付でしたから、気が付かなかったのだと思います。といっても関西からやってきたクロハ69は編成中間に組み込まれていてもめざとく見つけ、勿論ロ側のクロスシートに座っていたのですが。 返信 ↓
皆様、コメントをありがとうございます。 投稿後しばらく開けなかったためお礼が遅れましたことをお許し下さい。 私も毎週の記事を楽しみにしておりますが、元来電車には知識がなく「ふーん、そうなのか」程度に読んでいました。しばらく読み続けるうちに単なるコピー記事ではないようで、かなりの知識と実体験を持っておられる様子で転載してみました。 一度どんな人なのか新聞社に尋ねてみましょう。 返信 ↓
村樫様、 どうもそのようですね。まだ確認中ですがそのようだとの返事をいただいております。 河様、 質問があります。 方向板はこれでいいのでしょうか?緩行電車の方向板に三角形のがあったのは記憶にあるのですが関西だったか、東京だったかはっきりしないのです。 それと車体の色はご本人に聞かないとわかりませんが印刷のために変わって見えるのかもしれません。またチョコレート色にしたら濃すぎて見づらいとの配慮で多少薄くされたのかもしれません。 コメント、ありがとうございました。 返信 ↓
米手 作市 様 (京阪神)緩行電車の方向板デザインは『京都』が三角形で正解です。他に『高槻』の五角形、『西明石』の長方形が有り、見る頻度が少なかったのには『大阪』の丸(円形)と『神戸』の臼形があったと記憶しています。東京でも中央線あたりで茶色ベースの三角形が使われていたような気がしますが定かではありません。 編成ごとオレンジ色と言うのは京都ー吹田間の設定だとすれば『ペケ』ではないかと思います。 当時は大ヨトからオレンジ車の緩行線への移動がありましたので、仮に79066のみがオレンジであれば話は別です。ただし、その頃実際に転入して来たオレンジ車は79035や73033で、大タツ区や京都駅で捕まえて撮影した記憶があります。 とは言え、関 三平氏のオレンジ一色のイラストは多分ご愛嬌のおつもりでしょうから固い事は言わないでおきましょう。 返信 ↓
河様、 ご教授ありがとうございます。 私は会員の中でも全くの無知で、いつも聞いてばかりです。物知りの諸先輩や後輩諸氏の知識にただ乗りをする穀潰し会員ですのでお許し下さい。 沖中会長に代わりまして今後ともご愛読とコメントをよろしくお願いいたします。 返信 ↓
米手 作市 様 しつこく79066の話で申し訳ありません。 昨日4日の小生のコメント記述について訂正です。 真夜中に自身の殻に閉じ篭ってメールしていたためか、考えが非常に狭くなってしまい反省しています。 結果的に貴殿が仰せの車体色についての解釈を全く無視してしまった失礼をお詫びいたします。 その前の12月2日の藤本哲男様の解説にもコメントさせていただいたのですが、そこで勝手に思い込み発言をしてしまっており、オレンジと決め付けてしまいました。 その流れが4日深夜の発言に影響を及ぼしたものと思います。 じっくり見てみると、これは茶色が薄めの色調で、紙質その他も影響しているものと思われます。小生の齢も気が付くと70に向っており、少々耄碌気味ですかね。 もう一つ、資料をチェックして見たところ中央線では三角形の方向板はつかわれておらず、菱形でした。 菱形と言えば、どういう訳か関東に多く、茶色ベースの中央線の他に常磐線(緑色ベース)や横浜線(紺色ベース)、総武線(やはり茶色ベース?)にあったようですが、関西では見なかったような・・・。関東に対する反発でしょうか。 返信 ↓
河様、 なんのなんの、お詫びなどとんでもないことです。 それより方向板のこと、大変な参考になりました。ありがとうございます。 なお、今出川浄福寺さんからのご指摘で写真のリンクをつなぎました。これで老眼諸先輩も記事が読めると思います。 返信 ↓
村樫四郎様 お名前はRM LIBRARY「C54」、鉄道版画等で拝見させていただいており、まさか当HPをご覧になっておられるとは夢にも思っていませんでした。 クロハ69が津田沼から関西に戻ったのは昭和28年1月のことですので、それに乗っておられたとは、貴重な体験をお持ちです。 昭和36年城東線101系化により関東に転属したクハ79066の写真は、三田会会員の皆様が現役時代に誠文堂新光社から発行された「電車ガイドブック」P81に津田沼区で撮影されたものが掲載されております。余談ですが、クハ79066と同時期にクモハ31も000、008、009、011、013の5両が上京して、008が津田沼に、それ以外の車両は東神奈川に配置されたのですが、僅か4カ月で淀川区に戻っています。 返信 ↓
電車少年はこのような【お下がり】が関西国電となり胸を張って走っていたとは、全く知りませんでした。お上が関西を見下げていた一つの表れや!と言ったら誰かどやすオッサンが現れるかな。いつ頃の話か知らんけど、まさか43系が大挙して田町へ東上(この言葉にカツンと来る)した時の見返りではないだろうネ。哲男君の解説を待とう。
『関西の国電』ファンより
はじめまして。
いつも『デジタル元祖青信号』を拝見させていただいて勉強させていただいております。
関東出自で、1949年に西下したクハ79066には京阪神緩行線で乗った記憶があり(1961年4月1日現在のピク社配置表では大タツ所属)懐かしく思いました。子供心に『変わった電車やなあ』と大変気になったのを覚えています。
後年はオレンジ色の厚化粧で城東線に定着していました。
仰るように関 三平氏は本当に『ただ者』ではありませんね。次が楽しみです。
その筋の権威者に回答を賜り有難う御座います。 乙訓の老人
乙訓の老人様
小生はただの電車ファンに過ぎません。『その筋の権威者』だなんて!光栄です。
今後ともよろしくお願いします。
戯れにGoogleで引いて見ましたら日本迷路公団総裁関三平氏という方が居りました。画風というか筆致が似ている(と私の感じ)こととサインが「さんぺい」ではなく「さんべ」となっていることから多分間違いないのでは・・・更に調べて行きますと1940年生まれということで自身これらの車両を見る機会は十分にあったと思います。私の地元津田沼に居たことある由ですが記憶にありませんので、多分先頭車に使われることなく付属編成に組み込まれていて、先頭車かぶり付でしたから、気が付かなかったのだと思います。といっても関西からやってきたクロハ69は編成中間に組み込まれていてもめざとく見つけ、勿論ロ側のクロスシートに座っていたのですが。
追記
解説文の最後に「迷図作家」とあるのに気が付きました。日本迷路公団総裁に間違いありません。
皆様、コメントをありがとうございます。
投稿後しばらく開けなかったためお礼が遅れましたことをお許し下さい。
私も毎週の記事を楽しみにしておりますが、元来電車には知識がなく「ふーん、そうなのか」程度に読んでいました。しばらく読み続けるうちに単なるコピー記事ではないようで、かなりの知識と実体験を持っておられる様子で転載してみました。
一度どんな人なのか新聞社に尋ねてみましょう。
村樫様、
どうもそのようですね。まだ確認中ですがそのようだとの返事をいただいております。
河様、
質問があります。
方向板はこれでいいのでしょうか?緩行電車の方向板に三角形のがあったのは記憶にあるのですが関西だったか、東京だったかはっきりしないのです。
それと車体の色はご本人に聞かないとわかりませんが印刷のために変わって見えるのかもしれません。またチョコレート色にしたら濃すぎて見づらいとの配慮で多少薄くされたのかもしれません。
コメント、ありがとうございました。
米手 作市 様
(京阪神)緩行電車の方向板デザインは『京都』が三角形で正解です。他に『高槻』の五角形、『西明石』の長方形が有り、見る頻度が少なかったのには『大阪』の丸(円形)と『神戸』の臼形があったと記憶しています。東京でも中央線あたりで茶色ベースの三角形が使われていたような気がしますが定かではありません。
編成ごとオレンジ色と言うのは京都ー吹田間の設定だとすれば『ペケ』ではないかと思います。
当時は大ヨトからオレンジ車の緩行線への移動がありましたので、仮に79066のみがオレンジであれば話は別です。ただし、その頃実際に転入して来たオレンジ車は79035や73033で、大タツ区や京都駅で捕まえて撮影した記憶があります。
とは言え、関 三平氏のオレンジ一色のイラストは多分ご愛嬌のおつもりでしょうから固い事は言わないでおきましょう。
河様、
ご教授ありがとうございます。
私は会員の中でも全くの無知で、いつも聞いてばかりです。物知りの諸先輩や後輩諸氏の知識にただ乗りをする穀潰し会員ですのでお許し下さい。
沖中会長に代わりまして今後ともご愛読とコメントをよろしくお願いいたします。
米手 作市 様
しつこく79066の話で申し訳ありません。
昨日4日の小生のコメント記述について訂正です。
真夜中に自身の殻に閉じ篭ってメールしていたためか、考えが非常に狭くなってしまい反省しています。
結果的に貴殿が仰せの車体色についての解釈を全く無視してしまった失礼をお詫びいたします。
その前の12月2日の藤本哲男様の解説にもコメントさせていただいたのですが、そこで勝手に思い込み発言をしてしまっており、オレンジと決め付けてしまいました。
その流れが4日深夜の発言に影響を及ぼしたものと思います。
じっくり見てみると、これは茶色が薄めの色調で、紙質その他も影響しているものと思われます。小生の齢も気が付くと70に向っており、少々耄碌気味ですかね。
もう一つ、資料をチェックして見たところ中央線では三角形の方向板はつかわれておらず、菱形でした。
菱形と言えば、どういう訳か関東に多く、茶色ベースの中央線の他に常磐線(緑色ベース)や横浜線(紺色ベース)、総武線(やはり茶色ベース?)にあったようですが、関西では見なかったような・・・。関東に対する反発でしょうか。
河様、
なんのなんの、お詫びなどとんでもないことです。
それより方向板のこと、大変な参考になりました。ありがとうございます。
なお、今出川浄福寺さんからのご指摘で写真のリンクをつなぎました。これで老眼諸先輩も記事が読めると思います。
村樫四郎様
お名前はRM LIBRARY「C54」、鉄道版画等で拝見させていただいており、まさか当HPをご覧になっておられるとは夢にも思っていませんでした。
クロハ69が津田沼から関西に戻ったのは昭和28年1月のことですので、それに乗っておられたとは、貴重な体験をお持ちです。
昭和36年城東線101系化により関東に転属したクハ79066の写真は、三田会会員の皆様が現役時代に誠文堂新光社から発行された「電車ガイドブック」P81に津田沼区で撮影されたものが掲載されております。余談ですが、クハ79066と同時期にクモハ31も000、008、009、011、013の5両が上京して、008が津田沼に、それ以外の車両は東神奈川に配置されたのですが、僅か4カ月で淀川区に戻っています。