1957年5月/1958年7月北陸鉄道その3


北陸鉄道加南線モハ1821 大聖寺 近畿車輛で車体新製 台車電気部品は木製車のもの

1957年5月3日北陸路は大聖寺の加南線からだが、夜行で着いて、電車を2本撮っただけである。
中々に整った電車なのは認めるが、小生は木製車を撮りにきたのだから、まあ折角だから撮っておこうか、ぐらいの気持ち。それでもポール付の姿はこれが最後になった。


加南線モハ1812 大聖寺 木南車両1943年製

松任では松任工場に入場する社型国電(旧宇部)モハ1301+クハ5301が止まっていた。これは確かずっと以前にご高覧に供した筈である。

金沢では先ず浅野川線へ。


浅野川線サハ211←浅野川電気鉄道ハフ24 日車1925年製


サハ221←浅野川電気鉄道ハフ23 汽車東京1925年製

サハ606←ハフ21 車体は名古屋市電ボギー車のお古 台車は雑形3軸ボギーからの改造 

モハ572←カ12 浅野川電気鉄道生え抜き 汽車東京1925年製


モハ851←国鉄モハ1900←伊那電気鉄道デ101 汽車東京1923年製

モハ1601←浅野川電気鉄道デハ2 日車1927年製 のち小松線サハ1601 

小生に電車の講釈が出来るわけもないから、サハ600のみを。車体は一見して分るように、かなり細身で、その割には長めのボギー路面電車の成れの果て―名古屋市電を鋼体化改造した際廃棄した木製車体を再生したものと聞くが、詳しくは知らない。乙訓ご老人の出番であろう。

問題は台車で、これが珍物である。国鉄雑形3軸ボギー客車の台車を切断し、2軸に縮めたとしか思えない代物だからである。一般に3軸台車のイコライザーは左右非対称だが、これは対象に見えるから、イコライザーを中間で切断し、継ぎ合わせたか。施行は名古屋市南区にあった三山(さんやま)工業なるところだそうな。車両絶対不足時期ならではの工夫だが、この付随客車は北陸鉄道に6両あった。

1957年5月/1958年7月北陸鉄道その2

落語の枕ではないが「えー毎度お古いお噂で」とでも言わねばならない、半世紀以上前のカビの生えたような写真で恐れ入るが、まあ老い先短い老人に「お付き合いの程、願っておきます」。

今回から、1957年5月に加え、翌1958年7月撮影を加えている。この間にポールからZパンタに変わっているからで、Zパンタだと1958年の撮影である。先ずは大分以前に1954年撮影をご覧頂いた小松線から。この線はすべて尾小屋鉄道に行った時の「ついで撮影」である。旧簸上鉄道ホハ4→省コハ2470→金石鉄道ハ12→北陸鉄道ハ12→サハ511は中妻撤去、密閉化されている。

サハ571は枝光鉄工所製、何とも不細工な車両である。短くてずんぐりむっくり、窓が小さく、低く、屋根が深く、扉幅が狭く、床高は結構あるなど、よくこれだけ泥臭くデザインをしたものと感心するほかはない。温泉電軌ホデハ15→北陸鉄道モハ841→サハ571という経歴で、加南線からの転入だそうな。

モハ501~503は当線生え抜きで、新潟鉄工所製白山電気鉄道デ1~3である。ベンチレーターがやや古めかしい「お椀」型だが、昭和の生まれ。以前ご覧に供した1954年3月撮影時は1本ポールだったが、一人前にZパンタを装着している。モハ503は加南線を経て浅野川線に転出し、EB221と電気機関車に、しかもボギー車に化けている由。

最近の十和田観光電鉄

9852で藤本先輩の昭和40年代の紹介がありましたので、昨年 平成21年9月26日に訪問したときの写真を紹介させて頂きます。車両数は機関車2両(ED301、ED402) 電車10両(モハ7701-クハ7901、モハ7702-クハ7902、モハ7703-クハ7903、モハ7204、モハ7305、モハ3603、モハ3401) 貨車2両(トラ301、トラ302) 当時と車両数はあまり変わっていませんが、運用中の車両はすべて東急からのステンレスカーとなっています。

平成20年3月1日 (旧)十和田観光電鉄から「とうてつ」に事業譲渡し、(新)十和田観光電鉄に社名変更させた上で新会社による運営開始をしているそうです。

下は モハ7703-クハ7903  (元東急デハ7711-クハ7911) です。

 

下は  モハ7701-クハ7901  (元東急デハ7704-クハ7904) です。

 

以上の2本が運用中でした。

クハ7902は庫の中でした。 (元東急クハ7909)

相棒のモハ7702 (元東急デハ7709)は外で待っていました。

下は モハ7204  (元東急デハ7211の両運転改造車) です。

下は モハ7305  (元東急デハ7259の両運転改造車) です。

 

モハ7204とモハ7305の連結部です。2両で仲良く車庫で昼寝中でした。

モハ3401 動態保存 イベント用です。きれいな色ですね。

モハ3401 動態保蝌・?イベント用

モハ3603 動態保存 イベント用です。 元東急デハ3655できれいな東急グリーンになっています。

ED301も元気でした。
ED402はモハ3401、モハ3603、トラ301、トラ302と手をつないでお休み中でした。
以上 青空と稲穂のきれいな秋の十和田でした。  T.INUBUSE

1957年5月北陸鉄道その1


サハ521+サハ604
金石線サハ521←北陸鉄道ハ14←金石鉄道ハ14←省コハ2475←簸上鉄道ホハ10 台車は菱枠型

しつこく九州が続いたので、今回は気分を換え、古いのは同じだが、53年前の北陸鉄道を何回かに分け、ご覧に供することにする。以前1954年3月撮影分は、確か小松線と金石線をご覧頂いたと記憶するが、今回は加南線、浅野川線、金石線で、要は旧簸上(ひのかみ)鉄道買収客車の最終活躍の姿を撮るのが最大目的。他の電車―木製車ならまだしも、半鋼製電車なんぞは、まあつけたりというか、おまけというか、目の前にいるんだから撮っておこうか、ぐらいの気分であった。今回の撮影は全て1957年5月3日で、旧簸上鉄道の客車に絞る。

以前の小松線、金石線の際も少し記したが、その後この一連10両の旧簸上鉄道の小型ボギー客車には、ぞっこん惚れ込んだ。早い話一時期カンカンになっていたのである。バッファーを含めて全長32フィート9インチ(9,373mm)と短く、最大幅は8フィート2インチ(2,480mm)だが、車体実幅は7フィート(2,134mm)と、ニブロク軽便並みである。屋根は浅いダブル、両端は貫通式窓付オープンデッキ。サイドの出入り口上部には飾り金具があった。

木次線は1932年12月18日木次-出雲三成間が開業。宍道-木次間1916年10月11日開業済の簸上鉄道を1934年8月1日買収して木次線につなげ、かつ線路規格を改修。こんな小さい客車も、一旦鉄道省としての形式番号が与えられはしたが、勿論すぐ処分された。

ホロハ1~3はコロハ1620~1622に付番されたが、出石鉄道に行き、そこも戦時中の企業整備で東武鉄道に転じたが、浅草に留置中2両が戦災に遭い、1両のみ日光線コハ120に。あとの7両コハ2470~2476は、ことごとく金石鉄道、温泉電気軌道、金名鉄道と、北陸線沿線の小鉄道に再起し、北陸鉄道に統合されたのであった。

北陸鉄道に集結したこの7両は、製造年次や台車に若干差異はあるものの、まあ同型とみなして差支えない。しかるに北陸鉄道車両課は僅かな寸法的差異等をことさら強調?し、配属先線区毎にサハ501、511、521、551、561と実に5型式に区分した。合体後の三重交通車両課とよく似ている。

前回ご覧頂いた1954年3月撮影のサハ511(小松線)、サハ521、551(金石線)はまだオープンデッキだったが、3年後ではことごとく中妻、貫通路も撤去され、箱型車体に改造・締め直されていた。引戸が設けられ、当然次位の窓は戸袋に、扉下には踏み込みが付された。


サハ552←北陸鉄道コハ2←金名鉄道コハ2←省コハ2475←簸上鉄道ホハ9 妻面の手ブレーキはベベルギヤを使った 日車この時期の小型客車に独特の野上式 台車が菱枠型なのは野上八重治辞職後の製品だからである
サハ562←北陸鉄道ハフ8←温泉電気軌道ハフ8←省コハ2472←簸上鉄道ホハ6 台車は3号野上式弾機台車

なおこの小型ボギー客車は、日車の技師長に鉄道院から野上八重治を招聘した時期に重なる。彼は日車入りするやすぐ欧米視察に出してもらい、帰国するや矢継ぎ早に発明を特許化。軽便用を含め台車の弾機で4種、手ブレーキ2種等々で、当時需要が高かった小型ボギー客車に片端から装着して送り出した。彼なりに外遊のの恩返しでもあったのであろうが、構造が奇抜すぎた。

今回の写真では、最後のサハ560型の台車弾機をよくとご覧じろ。何やらオイルダンパーと間違いそうで、正直小生も最初に見た時はてっきりそう思った。これは野上八重治が3番目に発明した「野上式3号弾機台車」で、一種の原始的な空気バネのようなもの。頚城鉄道のボギー客車全部がこれを装着しており、現在も1両だけ残る旧畳敷客車改造のホジ3に健在である。

彼の発明した弾機台車中、1号型は井笠や宮崎など、温暖地では別段のことはなかったが、皮肉にも北陸、信越の雪国発注の客車に集約して装着され、ことごとく冬季雪を抱き込んで危険状態に陥っている。頚城鉄道では無認可で3号型に有料交換、石川、丸岡、栃尾鉄道では通常のダイヤモンド台車に交換=恐らく日車の無料アフターサービスと思われる。野上は山陽鉄道出身で、豪雪地帯の実情に疎かったのであろう。

こんな台車を売りつけられた方こそ、いい迷惑であった。なお野上式弾機台車4号型は冬季に限らず丸っきりの欠陥台車で、簸上でも1両に装着していたはずが、簸上時代に振り替えられていたと思われる。残りはまとめて兵庫電気軌道に赤字で叩き売り、バラック応急電車といわれた22~28が装着した由だが、長生きはしていない。折角招聘した技術者だったが、その後すぐ辞めた(辞めざるを得なかった?)ので、日車は心底ホッとしたはず(社史『驀進100年』には勿論そんなことは書いてない)である。彼は野上式自動織機を発明し、それを製作販売する会社を興し、独立したのであった。

少し前の十和田観光電鉄

【9754】「川重製のみぶ型」のコメントで、K..生さんが十和田観光電鉄のクハ4406について触れられたので、昭和40年代の状況について少しだけ書いてみたい。同社については、乙訓の長老が昨年9月1日【4255】賛書紹介「あの電車を救え!」で昭和32年頃に撮影された貴重な映像を紹介されておられるので併せてご覧いただくと共に重複部分があることをお許し願いたい。同社を訪れたのは、京阪沿線の高校時代の昭和40年3月、現役時代の昭和42年9月、社会人になってからの昭和46年5月、昭和50年9月の4回である。その後訪れた方がおられたら是非報告をお願いしたい。

【沿 革】

現在の東北本線の前身の日本鉄道は、明治23年11月盛岡まで開通し、十三本木峠を越え、三戸から更に陸羽街道(現在の国道4号線)沿いに北上し、野辺地から陸奥湾沿いに青森に向かう予定であったが、街道沿いの旧宿場町の反対に会い、尻内(現八戸)、古間木(現三沢)、沼崎(現上北町)を経て野辺地に至るルートに変更された。陸羽街道沿いの五戸、伝法寺、藤島(三本木)、七戸の各宿場町は幹線鉄道から取り残され繁栄を失ってしまった。三本木から鉄道に最も近い古間木駅まで16キロ離れており、徒歩か馬車しかなく、この区間に鉄道を望む声が上がるのは自然の成り行きであった。

このような状況下で大正3年6月十和田軌道が設立、大正9年10月十和田鉄道に社名変更、大正11年9月14日古間木(現三沢)~三本木(現十和田市)間を軌間762mmで開業した。戦中、戦後の混乱期を乗り越え、昭和26年6月20日1500Ⅴ電化と1067mmへの改軌を同時に完成させ、一夜にして近代的鉄道に変身した。電化工事一式を日立製作所が請け負い、同社製の電車4両と電気機関車1両が新車で用意された。青森県下では弘南鉄道が昭和23年7月に電化、弘前電鉄が中央弘前~大鰐間を昭和27年1月に新規開業しているが車両はいずれも中古車であった。同年12月30日社名を現在の十和田観光電鉄に変更、昭和30年9月には十和田湖で遊覧船事業を開始した。

昭和43年5月16日に東北北部を襲った十勝沖地震は当社にも大きな被害をもたらし、その復旧費に多額の資金を要したため経営危機に陥り、昭和44年10月経営権を国際興業に譲渡した。被害の状況は、当時の新聞等によると「三本木駅は大破して倒壊寸前、線路は架線の支柱が傾き、レールは軌道床が崩れて梯子のようにぶら下がり、途中駅もメチャメチャに壊れている」と報じられている。余談であるが、尻内(現八戸)~五戸間を営業していた「南部鉄道」は復旧を諦めバス専業となった。

社名のイメージからは十和田湖へのメインルートのように思えるが、十和田市駅から十和田湖(休屋)行のバスは1日1往復しかない。途中の焼山まで7往復あり、青森駅または八戸駅発のJRバスに乗換えることは可能である。十和田湖へは青森駅、八戸駅からのJRバスがメインルートとなり、花輪線十和田南駅からのルートはすっかり寂れてしまい、弘南黒石駅からのルートはバス路線が廃止されてしまった。

【車 両】

昭和50年9月時点での車両は、電気機関車2両(ED301、ED402)、電車7両(モハ2403、2405、クハ2404、モハ3401、クハ4406、モハ1207、クハ1208)であった。電車の車号の下1桁はモハが奇数、クハが偶数になっている。

(1)   電気機関車

ED301/昭和26年7月の電化、改軌時に投入された日立製作所製の30t機関車で、入線時は貨物列車の他、混合列車にも使用されたが、昭和37年ED402の入線後は、構内入換と除雪が主な任務となった。現在も廃車にはなっておらず健在であるが、使用頻度は極めて少ないものと思われる。(4292 三本木)

 

ED402/昭和37年4月に新製した川崎車輛製の35t機関車である。貨物列車の主力として活躍したが、昭和61年11月貨物取扱が廃止され、以降は工事列車の牽引、除雪等に使用されている。(46529 十和田市)

 

(2)   電車

モハ2403、2405・クハ2402、2404

昭和26年の電化、改軌時に日立製作所で新製された半鋼製車でモハとクハは同形である。共に両運転台付であったが、昭和42年9月2日撮影時にはクハ2402の三沢寄りの運転台が撤去されて片運化されていた。新製時の車号は、モハ2401、2402・クハ2401、2402であったが、重複車号を避けるため昭和33年8月7日付で現車号に改番された。

昭和43年12月事故によりクハ2402が廃車(日付は45年3月25日)、残りの3両も元東急のモハ3809、3811・クハ3810と代替で昭和56年12月18日付で廃車された。

 

上から モハ2405+クハ2404 (46529 十和田市) / モハ2405+クハ4406(5091 三沢) / クハ2402(4292  三本木) / クハ2404 (4292  三本木)

*「三本木」は昭和44年5月15日に「十和田市」に改称している。また「古間木」から「三沢」への改称は昭和36年3月1日である。

モハ3401

昭和30年5月に帝国車両で新製された全金車で、広窓の18mを越える車体は当時の地方私鉄の車両の中では最優秀作品であった。平成14年に元東急のステンレスカーと代替で廃車になる予定であったが、動態保存されることになり、現在でもイベント時等に元気な姿を見ることができる。

 

上 旧塗装(4292  三本木) 下 新塗装(46529 十和田市) 

クハ4406

昭和36年6月に川崎車輌で新製された全金車で、車体はモハ3401とよく似ているが、貫通扉に方向幕を埋め込む等、更に洗練されたスタイルになった。基本的にはモハ3401と編成を組んだが、モハ2400、元東急のモハ3800と組むこともあった。平成14年に元東急のステンレスカーと代替で廃車となった。

 

上 旧塗装(4292  三本木) 下 新塗装(5091 十和田市) 

モハ1207、クハ1208

昭和44年11月1日に廃止された定山渓鉄道のモハ1201、クハ1211が前身で、昭和45年に入線した。幅の狭い窓がズラリと並び、座席は一見クロスシートに見えるがロングシートである。モハ、クハ共に正面2枚窓、両運で運転台は右側である。他車とは制御器が異なり連結が不可能なため、モハ1207の単行かモハ1207+クハ1208の2連で使用されていた。平成2年3月、東急からの転入車と代替で廃車となった。

 

上 モハ1207 下 クハ1208 (46529 十和田市) 

(3)   たまにはバス (またバス?)

昭和50年に訪れた時は何故かバスを撮影している。今となれば結構珍しい車両もあるので紹介する。(撮影日は5091 十和田市) 

青2く6228/青森行急行バス 42年式 いすゞBU10P(川崎航空機)

 

青2く6234/ 42年式 ふそうMR620(クレハ)

「ふそう」中型車の元祖的なバスで、関西では京阪バス、江若バス、有田鉄道等に存在した。京阪バスはボンネットバスと共通運用で大津市内線、江若バスもボンネットバスと共通運用で和邇~途中線等で使用された。後にB6(B620等)シリーズ→MK(MK115→MK116)シリーズへと進化していった。

 

青2く6257/ 42年式 いすゞBU20KP(川崎航空機)

「オバQバス」と言われた車両で、関西では丹海バスの京都~間人間の快速バスに長く使用されていた。

 

青2く6267/ 42年式 ふそうMAR470(クレハ)

 

青2く6349/ 43年式 ふそうMAR470(川崎航空機)

比較的珍しい「ふそう」「川崎」の組み合わせであるが、登録ナンバーに注目していただきたい。登録ナンバーの下2桁「42」「49」は永久欠番の筈であるにも関わらず、「49」が付番されている。登録作業がコンビ―タ化される前、青2く6000番台が十和田観光電鉄の割当ナンバーで、自社で自由に付番できたことが原因と考えられる。ちなみに現在は希望により付番は可能である。

関西の電車・巡察の旅 その2

2日目:8月16日(月)。14日は“日本の客車・再版”祝賀会であった。鉄道ピクトリアル・今津編集長をお迎えして佐竹さんの功労を称える集いであった。須磨の大人の裏話、新規入会の通園さん紹介、美作の国で療養中の滝本君から見事な西瓜の差し入れがあり、酷暑の最中でも稔りの多いクローバー会であった。

さて2回目は西の果てへ。京都駅から新快速でぶっ飛ばせば2時間少々で行ける地であるが、5時間あればなんとかなるであろうと、1回目より1時間早く西向日640発とした。運賃と時間の節約を考えれば十三・三宮・高速神戸経由が正規のルートとなるが、後のことを考えると淡路・阪神なんば線経由にすれば変化が見込めそうだ。日本橋745に着くなり先ずWC。奈良からやって来た快急は10両編成で、鶴橋、上六ではどれだけ下車したか分らないが、先頭9726号の4扉から30人ばかりが下車した。残念ながら座れない。難波も同様。西九条からメガホン片手族が乗ってきた。虎狂ではないから静かなものだ。本日は地元校が2校出場する事になっている。伝法を出ると100km/h運転となる。10両ですぞ、50年前は2両だった。尼崎814着。高架留置線に55514Fが休んでいる。舞州へ移転した大阪車両工業が鋼体を造り、正雀のアルナ工機が艤装した、と言われている。この駅の蕎麦屋も何処へ行ったのか見当たらない。サンドウィッチとヨーグルトを購入した。

 

青胴車が伝法大橋を渡る姿は見られなくなった

青胴車が伝法大橋を渡る姿は見られなくなった

赤胴車も橋に向け福駅から力走

赤胴車も橋に向け福駅から力走

 目前に阪神なんば線からの普通が到着、全員降ろして折り返し線に。そこへ直通特急が到着するが1/3残して西へ向う。ガラガラの普通に先乗りしていたら、あぶれた1/3が乗ってきた。こちらも静かな車内。甲子園で降りて三宮行の快急を待つ。満員の近鉄1028号は、高校野球応援団を弾き出すと身軽になって走り出す。近鉄車で神戸入りが出来るとは夢にも思わなんだ。特急が停まる「御影」、外側線を最徐行で通過する快急6連は苦肉の策の一つだ。震災の日の週末から6週連続で神戸へやって来た。阪神復旧の日、625日まで何度も通った。戦災を知らない京都人には見るもの全てが勉強であった。

震災10日後は青木まで開通

震災10日後は青木まで開通

震災で壊滅した石屋川(新在家)車庫-酒井福三さん提供-

震災で壊滅した石屋川(新在家)車庫-酒井福三さん提供-

 三宮からしばらく乗りっ放しとなる。先ずWC。ホームに直通特急が到着した。それなりに乗っていた車内はガランとしてしまった。三宮914発。神戸高速鉄道は阪急阪神HDに統合されたのだから、運賃の一元化を先ずやって、それからスッルト関西を有効利用したら、客を増やせないかと思う。遅い遅いと言われるが、直通特急は明石・飾磨間3駅停車で35.2km28分走行である。新快速は明石・姫路間2駅停車で35.4km26分走行だ。昔、車庫のあった西新町を出ると110の目盛を維持するためにノッチのONOFFの繰り返しとなる。飾磨1013着。網干線乗り換え1020発。車庫を横目に高架線に上がり、降りて少し行って2ツ目の鉄橋、渡るのは夢前(ゆめさき)川、10年ばかり前、木村昌晴さん以下7人、河原でHO運転会をやった。動力源はバイクのバッテリー12Vだ。子供は勿論、大人も取り囲んでくれた。ポン友・木村さんは吉川文夫さんより一ケ月早く亡くなった。僅か15年の付き合いだった。「また来たよ」、黙祷。最西端・網干1038到着、所要時分3時間58分。思惑より1時間早く到着した。

姫路ライナーが加古川を渡る

姫路ライナーが加古川を渡る

 1998221日朝、木村さんと2人、網干駅ベンチで仲間の到着を待っていた。3人がやって来たところで腰を上げ835発で東へ向け出発した。飾磨で215日から走り出した大阪ライナーに乗り換え民鉄による電車最長区間、旅の始まりであった。インタァーバンの好きな木村・沖中コンビはその昔の電車王国アメリカで、2000哩のトロリィーカ-の旅が1910510日スタートしたことを知った。日本ではどうなるか、アメリカでは軌間が同一であったことで実現したのだが、日本ではそれが出来ないのが残念である。乗り換えを繰り返せば何処まで行けるか、西は網干から三河田原迄が最長となる。一度乗ってみよう、その日を姫路・梅田間の直通特急運転開始後としたのだった。

思い出の網干から姫路へ出た。姫路駅の山陽との上下切り替え後に通った事がないからである。これからどうするか、まっ出たとこ勝負で行こうと思う。神戸市内に入り板宿で神市交と接続している。名谷迄は行ったことがあるが、終点・西神中央は未だである。トンネル電車は谷底だけに明かり取り部分があり農村風景が見え、ホッコリする。終点の駅前ロータリィーが広いのにびっくりだ。折返し三宮に直行、ガード下で海鮮丼と生中1杯で満タンになったところで能勢電に行くことにした。

眼を見張った広い西神��央駅前に”そごう”健在

眼を見張った広い西神中央駅前に”そごう”健在

 準特急氏2度目の来阪の時は能勢電と神戸電鉄へ行った。紅葉シーズンなのに暖秋のため晩秋の装いはなく、案内役としては「ごめん」の気持ちが今もある。そして日生NTへは行った事がない。35年前、ニュータウン造成に向け沿線のそこかしこで線路規格向上、複線化工事が始まった。丹波へ仕事に行った帰途、時折り国道173号を南下して工事の進捗を観察した。日生線の開通直後、息子に「阪急の昔の電車に乗りたい」とせがまれた。一も二もなく能勢電にやって来た。320,380,500形がまだ残っていた。日生線は山下始発の320380形の2連で折り返し運転であった。本線は610系、500形の4連で川や崖沿いの線路をきしみながら走った。変わったと言えば大きな複線トンネルが出来たことで、能勢カーブ式電鉄であることには今も変わりはない。せがんだ息子は成人を前に野球一筋となり、今年は不惑を迎えている。その親父は膝小僧を抱いて欠伸をしているうちに日生NTに到着した。

広い構内は将来のため?
広い構内は将来のため?

ホーム端から線路端末まで42本が押し込めそうな留置線がある。延長計画のある北千里に良く似た構内線形だが、行方には山ががんばっている。バブルが何度も飛んでこないと山の向こうを引き寄せるのは無理だろう。駅前広場は西神中央と比べるとひっそりしていた。

これで本日の目的達成。日生中央1529発で帰宅の途についた。蛍が池からモノレールで南茨木へ、西向日1716着。全行程10時間26分、運賃5,610円也の巡察の旅だった。

 

 

 

 

 

川重製のみぶ型

「京22か 402」昭和49年11月4日 四条大宮/市電20系統代替の202系統 

青信号特派員さん投稿の「【9605】山陰線四条踏切のこと」のコメントでK.H生さんが「川重製のみぶ型」という表現をされておられた。私自身は初めて耳にした単語であるが、非常に的を得た表現であると思う。

「川重製のみぶ型」とはコメントで少し触れたが、昭和47年1月22日千本・大宮・四条線の廃止により壬生車庫が廃止になった際に代替バス用として新製されたバスのことで、シャーシはいすず、車体は川崎重工製で型式はBU06Dと称し、当時最新鋭の都市型低床バスであった。窓の大きい車体は京都市交通局の特注である。同形式のバスは、近畿圏では他の都市での導入例は無いと思われるが、関東圏では東京都営バス、東武バス、東急バス、西東京バス、国際興業等で導入された。

登録番号「京22か382~441」の60両が導入され、市電の代替系統に使用された。438~441のラスト4両は側面の方向幕が前後に設置され、市電代替系統以外でも使用可能なようになっていた。

当時の市バスは、均一系統は「前乗り運賃先払い」、整理券方式の多区間系統は「後乗り運賃後払い」であったが、代替系統は均一系統であるにもかかわらず「後乗り後払い」としたため必然的に専用車となった。配置は市電時代の壬生車庫が廃止されたので五条車庫となった。

その後、均一、多区間を問わず「後乗り後払い」に統一されたため、均一区間用車両の側面方向幕の後部への移設工事が行われた。

京22か 429 55年4月10日

 

京22か 440 51年1月8日/市電代替系統以外でも使用するため方向幕が前後に設置されている。

 

その他の47年式車について

47年式車はBU06D以外に、前期13両、後期65両合わせて78両導入されたが、後期車から、いすゞ西工車、ふそう車と日野車の窓の2段サッシ化、後扉の引戸化が行われたためスタイルが大きく変化した。

参考までにメーカー別に画像を表示する。

いすゞ

後期車は「京22か616~638」の23両が作られ、型式はBU05である。車体は616~625が西日本車体工業(以下西工と略す)、626~638が川崎重工である。前期車がBU06Dのため比較ができないので46年式車を表示する。46年式車は「京22か204~210、314~346」(342欠)の39両が在籍し、前者が型式BA30、車体は川崎重工、後者が型式BU05D、車体は西工である。

京22か 210  46年式BA30(川崎重工) 50年1月19日/「210」は市電10系統の代替系統で、この時期起点が当初の九条車庫から京都駅八条口に変更されている。その後、起点を京都駅、終点を玄琢に、系統番号を「6」に変更して現在に至っている。

 

京22か 316 46年式BU05D(西工) 50年6月15日

 

京22か 617 47年式BU05(西工) 50年3月16日

 

京22か 637 47年式BU05(川崎重工) 55年9月7日

 

ふそう

前期車は「京22か443~451」(449欠)で型式MR410、車体はクレハで44年式から続くスタイルである。

後期車は「京22か608~615・672~674」の11両で型式MR470、車体は608、672、673の3両が西工、609~615、674の8両がクレハである。

西工、クレハともに基本的なスタイルは変わらないが、窓の2段サッシ化と後扉の引戸化により印象が大きく変化した。

京22か 443 47年式MR410(クレハ)55年1月5日

 

京22か 613 47年式(クレハ)MR410 50年1月19日

 

京22か 673 47年式MR410(西工)50年1月19日

 

日野

前期車は「京22か455~459」で型式RE100、車体は帝国車体である。「山陰線四条踏切」の上から2番目に「京22か313」が写っているので、同一グループの「311」(46年式RE100、帝国車体)を表示する。47年式前期車は低床車となったが44年式から続くスタイルである。

後期車は「京22か639~671」(642、649欠)の31両で形式RE100、車体は639~663の23両が帝国車体、664~671の8両が西工である。

京22か 310  46年式RE100(帝国車体) 55年11月8日

 

京22か 645  47年式RE100(帝国車体) 50年1月19日

 

京22か 671  47年式RE100(西工) 58年1月1日

 

日産ディーゼル

47年式車は在籍しない。参考までに46年式車を表示する。46年式車は「京22か288~293」の6両在籍し、型式4R95、車体は西工である。

京22か 293 46年式4R95(西工) 50年3月16日

 

日産ディーゼル車は京都市交通局では少数派である。ちなみに、昭和51年9月末現在の在籍車両数は976両(定期観光車15両を含む)でメーカー別の内訳は、いすゞ321両(定期観光車2両)、ふそう278両(定期観光車7両、内1両休車)、日野340両(定期観光車6両)、日産ディーゼル37両)であった。

47年式「川重のみぶ型」の関連で、同年式車のスタイルの変化について簡単に触れたが、あまりバスの話をすると「あいつは何者」と言うことになりかねないので、ここまでにする。

【参考1】市電千本・大宮・四条線廃止時の代替バスの系統

201 みぶ~千本今出川~百万編~祇園~みぶ(1の代替)

202 白梅町~千本今出川~みぶ~祇園~岡崎公園(20の代替)

205 烏丸車庫~千本北大路~四条大宮(5の代替)

207 九条車庫~九条大宮~四条大宮~祇園~東福寺~九条車庫(7の代替)

210 九条車庫~京都駅~七条大宮~千本今出川~白梅町(10の代替)

217 九条車庫~四条大宮~祇園~岡崎公園(1・7の代替)

217甲 九条車庫~西大路七条~七条大宮~四条大宮~四条烏丸(17の代替)

221 九条車庫~九条大宮~四条大宮~千本北大路~烏丸車庫(21の代替)

205と221は西賀茂、210は三哲で担当した以外はすべて五条で担当した。

【参考2】BU06、BUO6Dの使用例

東京都交通局 46年式BU06D  58年6月30日 御茶ノ水駅前

 

東武バス 46年式BU06D 59年1月15日 足立営業所

 

東武バス 46年式BU06D 60年2月11日 新座営業所

多区間用の前後扉車で、スタイルは京都市の「みぶ型」と類似している。前扉が2枚共内側に開くグライドスライドドアー、後扉が引戸でなく折戸である点が異なっている。

 

東急バス 45年式BU06D 59年3月20日 大森操車所

 

西東京バス 46年式BU06D 59年7月24日 八王子営業所

とほほ… 馬路村の魚梁瀬森林鉄道行けず

話は、今年京王百貨店で開催された「第45回 目指せ!駅弁日本一」というTV番組を見たことから始まります。その中で注目したのは、「馬路村の村おこし弁当」です。なぜに鉄道もない高知県山奥の馬路村から駅弁が、それも由緒あるイベントの出展できたのかが不思議でした。早速インターネットで調べてみると、かつて「魚梁瀬森林鉄道」が走っていて、廃線後観光用のトロッコがあるのを知りました。駅弁はトロッコの「馬路温泉前駅」で、日曜日と祝日のみ、山の幸をふんだんに1000円で限定で販売しています。これは行ってみたい、食べてみたいと思い訪問リストにおいておきました。

http://keio-ekiben.cocolog-nifty.com/2010/2010/01/post-0c07.html

6~7月の北の旅路以降、家庭事情で長期の旅が出来ず、それではと短期でいける青春18切符や新幹線指定券等々を購入しズボンに入れていましたら、日頃から洗濯好きのかみさんの藻屑と消え、新たに購入せざるをえなかった不幸となりました。今までにもお札を洗濯され何度も体験しており注意していましたが、お札は結構丈夫で藻屑は免れていましたが今回は無理でした。

再度購入しての乗り鉄をしましたが、この程度では溜まったストレスは解消しません。ちょっと違って、近場でいけるトロッコはないだろうかと、先日、湯口大先輩と神戸でお会いできる機会を得て、四国高地の「魚梁瀬森林鉄道」をお聞きしました。私は行ったことがないが、友人が行った時は運休していて撮影出来なかったと聞いたと言われました。やはり、なぜに駅弁があるのかと不思議がっておられました。

これは是非に確かめたいとチャンスを待っていましたら、9月23日からの連休が高速1000円ディにもなっているので、家を出られると、最近話題の別子鉱山も含めての3泊4日車中泊の食料等の旅支度をして、「ぶんしゅう7号」の出発準備を整えました。
ナビもセットして道路公団にもTELをして坂出ICに0時以降に通過すれば1000円割引が適用されると確認して、準備万端、さて出発となりましたが、湯口大先輩とお話した折に友人が行ったが、運転していなく見ることが出来なかったとの言葉を思い出しました。

自宅から約400キロ余り約9時間をかけての訪問です。念のために馬路村観光協会に電話をしますと、「申し訳ありません。1週間前から機関車の故障で運行していません。夏休みは元気でしたのですが、過労です。運行開始の見込みはたっていません。インクラインは運行していますがどうでしょうか。」との返事です。今、運転席でエンジンキーを回そうかとしていた状態でしたので、言葉を失いました。
湯口大先輩に電話しますと、ご友人の方は、まだ森林鉄道が営業している数10年前に、船・鉄道とバスを乗り継いで山奥に行かれたそうです。それはさぞかし大変な旅だったと思います。そして、運行していなかっただけでなく機関車は車庫に入っていて見ることも出来なかったそうです。それと比べれば、まだ行く前に分って良かったね。お酒でも飲んで忘れましょうと、慰められました。ご友人の落胆とは比較も出来ない程度でしょうが、ショックです。

今年の秋は、湯口大先輩お薦めの紀州鉱山トロッコや天川村のモノレール訪問等を予定しております。乙訓の老人、総本家さんともご一緒します。ご希望の方がおられましたら、ご連絡ください。

1955/57年熊本電気鉄道


旧海軍荒尾工廠のEB2と3 1~3とあって15t 41.3kW×2 国有財産だがこれは横領ならず返却(解体)された

宇部電気鉄道デハ2→宇部鉄道→買収→14 熊本電気鉄道最後の2軸車である

モハ14改造二代目工作車 かつこの時点唯一の2軸車 上の写真から3年後 パンタがなければ屋根で相撲がとれる

久しぶりである。書き込みをサボって読むだけに回るのに慣れると、それはそれで至極気楽なものである。乙訓ご老人も、総本家青信号特派員氏も、どうやら同じらしいと踏んだが。そういえば健筆とどまることを知らない「ぶんしゅう」氏も最近ややお静かな。

で、懲りもせず55年半/53年半前のカビの生えた写真をゾロ並べ、諸兄の非難がましい冷たい視線を浴びながら、只管耐えることにする。1954年高校修学旅行の際、観光を一切拒否して熊延鉄道と熊本電気鉄道を撮ったものを以前「無理やり」ご覧に供した。今回はその翌年および3年後で、ポール姿は1955年3月19日/パンタ装備は1957年3月21日の撮影である。

熊本電気鉄道は1955年時点まだポール集電で、敗戦後に緊急導入した旧海軍荒尾工廠の凸型電機EB1~3も残存し、国鉄モハ90005が入っていたがまだ手付かずで標記もそのまま。1957年ではパンタに、架線もカテナリーになり、2軸車は二代目工作車(←14)以外ことごとく姿を消していた。「もはや戦後ではない」と誇らしげに経済白書が謳いあげたのが1958年だが、その1年前でも木製車両がまだまだバリバリの現役=主役というより、半鋼車は101、102と国鉄から購入しまだ未整備の70型(旧モハ90)しかなかったのである。


日立1944年(銘板は前年)製の実にダッサェー電車 時節柄木製2軸電車の改造名義による新製だから?かも


この時点まだモハ90003広ヨワのまま 右端は旧海軍工廠EB2と3
モハ72は旧モハ90003

モハ71は旧モハ90005

この熊本電気鉄道は、菊池軌道として、3フィート軌間蒸気軌道で1911年10月1日上熊本-広町を開業し、1923年サブロク改軌及び電化し、菊池電気軌道に改称。1942年5月1日鉄道に変更し菊池電気鉄道に、1948年2月20日熊本電気鉄道に改称。1987年2月16日御代志-菊池(旧隈府)を廃止。

旧3フィート時代の車両は蒸気機関車9、客車10(定員合計370人)、有蓋貨車10、無蓋14であった。やはり3フィートの蒸気軌道で、約3か月おくれて開業した西大寺軌道(→1915年鉄道に変更)が、機関車4両、客車7両、貨車3両を引き取っている。

敗戦間際、空襲で甚大な被害=変電設備もやられた。近辺の鹿児島本線鉄橋迂回線建設のため、陸軍が持ち込んでいた100式軌道牽引車や貨車が、敗戦で放置してあったものを、緊急避難は確かとしても、無手続きで燃料とも横領し、緊急運転に充当した由。社長の松野鶴平は政治家で鉄道大臣も歴任し、俗に松野「ズル平」と呼ばれていたぐらい、よく言えば敏腕・したたかな実業家で、彼の政治力には違いないが、国有財産横領も間違いない。

何しろ横領だから、設計申請など、正規の手続きが踏めるわけもなく、1949年4月1日開業の北熊本延長線工事に使った。業務用車両は認可不要なのである。かような例はあちこちで見られ、西武の鉄道聯隊車両一式(後日一部の台枠・台車が山口線の客車に化けた)や、島原鉄道の旧海軍工廠車両横領などがある。

世の中がやや納まった頃、車両の設計申請の際、国鉄の旧車であれば、必ず国鉄資材局長との譲渡契約書の写し添付が義務付けられていた時期がある。すなわち当局もある程度実態を知っており、非合法取得した車両に監督庁がお墨付きを与えるわけにはいかなかったことを示す。

ところで熊本電気鉄道でも、勿論日立製の田舎くさく泥臭い3扉車101、102(谷岡ヤスジのマンガなら「イナカー」と吹き出しそうだ)もいたが。

最も両数の多かったモハ51型、55型は戦時中旧京都市N電のお古!やオリジナルのボギー車を改造したと称して木製食パン型車体を田中車両で新製したもの。焼失したものもあり、55~57は電装を外しホハ58、59、57に。愛想もクソもない四角い半鋼製車=京津22~27などは「鉄のハコ」というが、これは「木箱」、「折箱」か。


モハ55+コハ32 藤崎宮前 55はのちホハ57に


モハ56 のち電装を外しホハ59に
ホハ58モハ55の電装解除 旧ボギー電車1の改造名義である

ホハ58+57+41+コハ31=全部木製車 藤崎宮前
モハ54+コハ32 後者は電化当時客車不足で有蓋貨車を改造 さらに戦時中西鹿児島工機部でデッキ、中妻撤去、多客化改造 粗悪応急車のままで30数年経過
モハ201←国鉄モハ1型 台車はD16か

モハ202←国鉄モハ1型 101とは窓配置が違う

モハ201型+ホハ+モハ101型 半世紀以上前だから今ではぎっしり家が立ち並んでいるだろう

ホハ41←モハ41 モハ63型割り当てによる名古屋鉄道の供出車 元来尾西鉄道

オリジナルの旧ボギー電車車体 宿直用布団が干してあり 未成年の技工見習いが寝小便をしたんだろうと 皆からからかわれていたのが可哀想だった 妻面幕板中央に方向窓あり

1966年房総夏

 「房総1周は始めてで、今日は乗り鉄に徹しますわ」。9月3日、内房線の車内での総本家元祖青信号特派員さんの言葉。撮り鉄の総本家さんは学生時代全国機関区巡りを行い、201番まであるC57を番号別に6割以上押さえたが、千葉方面が漏れたとのこと。一部に廃車も出ていた時期であるが、6割とは見事なもの。 話が進み、「あの頃は特に四国と千葉の人気が無かったのはディーゼル王国であり、蒸機好きには敬遠されたのではないか」と言うのが二人の結論であった。

 1966年7月24日、人気の無かった千葉が賑わっていた。関東の海水浴は小田急の江ノ島、京浜急行の三浦海岸が有名であるが、国鉄の房総西線(現内房線)も全国各地から応援の車両を増結した臨時列車で賑わっており、史上最低と言われたキハ17系の急行やC57、C58が長編成の客車「かもめ」号を牽引し、そこそこ面白い時間過ごすことができる時期があった。電化して72系などが進出する前のことである。

1966.07.24 房総西線竹岡 143レ C5777[新小岩]

143レは千葉発安房鴨川行き143Dを輸送力の大きい客車に列車に置き換えたものと思われる。1両目の客車は3軸のマユニ7827とメモにある。

 

1966.07.24  房総西線竹岡~浜金谷 9133レ 「かもめ」2号千葉発館山行き C578[新小岩]

C578は九州から転属したカマ。

「かもめ」2号の後部客車テイルマーク。 山陽特急の「かもめ」に少し似ている。

1966.07.24 房総西線竹岡~浜金谷 9119D両国発急行「汐風」5号千倉行き

オールキハ17系7連は最低ではあるが、編成美はお見事と言いたい。

 賑わいの一端を紹介したが、メモを見ると144Dの先頭水タイとか118D「内房」4号に四カマ、117D「内房」4号に長ナノあり等の記録があり、じっくり編成を調べればさぞ面白かったことであろうと思う。車社会がこれからと言う時期で千葉鉄道管理局も各地から応援車をかき集めてしのいだことと思われる。

2010.09.03久留里線東清川 926D キハ30100

 さて、ディーゼル王国であった千葉管内の現在は第3セクター化された旧木原線(現いすみ鉄道)を除きJR未電化は久留里線のみになってしまった。久留里線には未だキハ30が残っている。撮影はお早い目に。

イラストは楽しめても……チンプンカンプン

米手作市さんは英語でお手上げらしいが、老人はフランス語らしき文字で説明文入りの書物をパリ土産でプレゼントされた。とても楽しいイラストが溢れかえっている。イラストの順を追うとどうやら鉄道の歴史を語っているようだ。時々「絵」が出てくがどう見てもパリのようだ。終わりの方で我が新幹線も出てくる。開通区間は岡山まである。printed in spain とある。図はとても精巧で、ほれぼれする。「絵」には着色したものがあるが油絵ではない。

本体は幅27.5×高30×厚2.5糎。240頁まで打ってある。表紙は厚紙、ずっしりと重い。新婚旅行に出る前に餞別を渡したら、パリの露天ガラクタ市で見つけてきたと言って、チョコレート代わりに渡された。どなたか引き取っていただけないでしょうか。ただ一つ条件ありで、11月7日のホームカミングディか、鬼の笑う来年の第3回総会でお渡し出来る人である事です。乙訓の老人宅へお出ましになることが一番うれしい。早いもの勝ちです。素晴らしい本です。

フランス語チンプンカンプンの乙訓の老人

江若鉄道三井寺下再現(その3)

琵琶湖疎水鉄橋を渡る1118

琵琶湖疎水鉄橋を渡る1118

三井寺下の工事はボチボチですが、車輌の方に浮気をして オークションで入手したサンゴのB10キットを改造して 1118が完成しました。1118(国鉄1070形)とB10はよく似ていますが 動輪径がφ1400のB10に比べてφ1524と大きいという違いがあります。でも1/80にすれば1ミリ強の違いなので 気にしないことにしてサイドタンクやコンプレッサー、エアタンクの位置を変えて1118らしくなりました。これで当社のSLはC111、6号機に次いで3両となりました。こうなるといよいよ木造のホハ101~103を作らねばならないかと夢をふくらませています。実は今 オークションでバルカンアイアンのB1 サドルタンクを入札中で 落札して1B1の100号(元宇部鉄道100→国鉄205)に改造して 4両目のSLにと目論んでいます。と言うようなわけで 三井寺下の工事は足踏み状態です。

江若鉄道三井寺下再現(その2)

撤??鉄道ハ11

播但鉄道ハ11

連日の猛暑にうんざりしながら、工事が停滞していますが、ようやく朝晩が涼しくなってきて工事を再開する気分になってきました。まずは気分転換のために 三井寺下車庫に鎮座していた旧播但鉄道のハ11を一晩で作りました。ここでも湯口先輩の「丹波の煙 伊勢の径」の写真が大変役立っています。走らせるための模型は数多く作ってきましたが、廃車体を作ったのは初めてです。レイアウトが完成した暁には アクセントになってくれるでしょう。ところで またまたこの廃車体の色がわかりません。塗り分けではなさそうで、それもかなり薄い色のように見えるのですが、ご存知の方があれば 教えてください。実物の屋根にはキャンバスがダラリと掛けられているのをどのように表現しようかと 思い悩んでいるところです。

ところで 藤本氏の標茶、茶内 そして歌登の簡易軌道の写真と解説を興味深く拝見しました。湯口先輩の「簡易軌道見聞録」の話が出てきますが、以前から入手したいと思っていて いまだに手にすることができず どなたかにお借りして拝見したいと思っています。

(旧)江若鉄道近江今津駅本屋

連日の酷暑でこのサイトへの投稿も(拙老を含め)諸兄夏バテと見え、すこぶるはかばかしくないが、老朋友から情報が。トシにもかかわらず125CCの原チャリで元気に走り回っていたつい先日、かつての江若鉄道終点駅、近江今津の本屋の建物が残っているのを見つけた、というのである。

独特の山小屋風トンガリ屋根と、勾配がゆるい片流れ庇を組み合わせた近江今津駅本屋は、諸兄の記憶に鮮明だろう。この老人も、他の(重要なものほど)記憶はかなり怪しく、一部は完全にスッコ抜ケしているが、この駅舎はまだ脳中のメモリーに残存している。

で、今どうなっているかは、彼氏撮影の写真をご覧じろ。最初に見た印象は、もっと大きかったんじゃないかという疑問であった。かつてのプラットホームやヤード、車両留置の建物類はことごとく姿を消し、道路と駐車スペースになっていて、大きさを比較すべきものが周囲にないせいか、意外に小さく見える。しかしこの屋根と勾配は、まぎれもない。

以前このサイトで、秋保電鉄秋保温泉駅舎(というもおこがましい、単なる物置の残骸の如きボロ小屋)が、今も酒屋の車庫で健在、と書いた記憶がある。(仙南交通)秋保電鉄の廃止は1961年5月8日だったから、廃止後現在で実に49年余である。

江若鉄道が三井寺(後の三井寺下)―叡山間初開業が1921年3月15日。浜大津に伸び国鉄線と接続したのがその4年後。近江今津に達したのが1931年1月1日である。湖西線建設に先立って廃止されたのが1969年11月1日だから、現在だと開業以来89年半、近江今津延長から80年近く。廃止後41年を経過する。即ちこの旧近江今津本屋は、80年を経過している次第。よく手が入って増築もされており、昔の姿を知らない人には、旧近江今津駅本屋といっても、信じがたいかも。

元気に次々と江若の車両やシーナリーの製作を継続中の西村雅幸氏は、遠隔地居住故、ちょっと見に行くわけには参らんだろうし、確か(老人の記憶が不確かだが)西村氏の近江今津駅舎はとっくに完工している筈だから、いまさら参考にもならんだろうが。


標茶町営軌道に添えて

 

藤本先輩の標茶訪問記を拝見し、廃止される前の最後の冬 昭和46年3月7日の写真をご紹介します。先の茶内浜中を訪れる約1週間前に開運町へ行ったときのものです。藤本氏の記事を読みながら、標茶駅から開運町まで1.7kmもあったのかとか、標茶川を渡ったのかなど全く記憶にありませんが、多分誰かに場所を聞いて、黙々と雪道を歩いたのでしょう。着いたところが 車輌は雪に埋もれ 運休していると聞いてガッカリした記憶だけが残っています。ニチユ製のDA57と 運輸工業の牽引客車、釧路製作所製6TonDL(No.3), 北炭夕張製の6TonDL, 車庫内で眠る泰和製?自走客車の5両が撮影したすべてです。

 

ニチユ DA57

ニチユ DA57

 運輸工楨??牽引客車

標茶町営軌道

標茶町営軌道を訪れたのは、昭和44年9月6日一度だけである。当日の行動を振り返ると、早朝に釧路市内のYHを出発し、駅前のバスターミナルより新幌呂行のバスに乗り、下幌呂で降りた。目的は廃止された鶴居村営軌道の車両を見るためであった。前日、浜中町営軌道の方から「鶴居村営軌道の車両が未だ残っていると思う」と言われたので、急遽釧路臨海鉄道に行く予定を変更した。雪裡線と幌呂線の分岐する下幌呂に行けば何かあるだろうと思い下幌呂で降りたのであるが、道端にレールの残骸が散らばっていた程度で鉄道車両らしきものは何もなく、通りかかった人に聞いたところ「車庫が役場の近くにあったのでそこではないか」と言われた。役場の場所は中雪裡である。中雪裡を通る川湯温泉行のバスは先程通過したばかりで、次のバスは2時間後のため、やむなく釧路に引き返した。釧路からは9時10分発急行「大雪3号」に乗車、途中の五十石駅でC58127の引く客車列車(623レ)と交換して10時1分に標茶に到着。駅前の道路を真っ直ぐ進み、釧路川にかかる開運橋を渡ると町営軌道の開運町駅であった。構内にはDLが1両、2個ライトの自走客車が1両、廃車になった牽引客車が1両停まっていた。事務所に挨拶に行き、お話を伺うと、自走客車は3両あり、1両は先程上御卒別行で出て行き、1両は沼幌線で使用するため中御卒別にいるとのこと。次の11時50分発の上御卒別行で往復したかったのであるが、午後の予定の雄別鉄道に行けなくなるため諦めた。後日、標茶町のパンフレットと一緒に乗車券、時刻表、運賃表等をお送りいただいたが、中でも開運町で発売されている乗車券は行先毎に色が変えられており、非常に凝ったものであった。残念ながら現物が京都の実家にあるため、今回お見せできないが、実家に帰った時に持ち帰りたいと思っている。開運町には1時間余り滞在後、「しれとこ2号」で釧路に戻り、雄別鉄道を訪れた。

【沿革】

標茶町営軌道は、簡易軌道の中で最も新しく、昭和26年5月に開運町~上御卒別間22.5キロを第1期工事として起工、地元の強い要請により昭和29年冬に14キロ地点の神社前までの工事が完成した時点で運行を開始し、昭和33年12月に全線が完成した。昭和34年より第2期工事として開運町~標茶駅前間1.7キロを起工、昭和36年11月に完成したが、予想に反して利用者が少なく、昭和42年1月に運転休止となった。中御卒別より分岐する沼幌支線は昭和39年6月に起工、昭和41年6月より中御卒別~沼幌間6.4キロの運行を開始したが、既に道路の整備が進んでいたため学生の通学利用程度しか需要がなく、4年後の昭和45年11月に運転を休止した。開運町~上御卒別間も昭和46年8月16日に廃線式が実施され、町有バスの運行に切り替えられた。

【車両】

昭和44年10月1日時点での在籍車両は次の通りである。

ディーゼル機関車4両、内訳/加藤製作所製(KE-21、昭和36年9月購入)・釧路製作所製(KE-25、昭和39年10月購入)・日本輸送機製(DA-57、昭和29年6月購入)・北炭夕張製(DA-120、昭和40年12月購入)

自走客車3両、内訳/釧路製作所製(DS-22、昭和33年11月購入)・泰和車両製(DS-40、昭和36年11月購入)・泰和車両製(DS-60、昭和40年11月購入)

ロータリー車1両泰和車両製(DH-100、昭和38年5月購入)、保線用モーターカー3両有蓋貨車1両、無蓋貨車7両

上記以外に廃車済車両として酒井車両製ディーゼル機関車(DB-50、昭和28年7月購入)、牽引客車(昭和32年運輸工業製)が残存していた。

【運行】

昭和44年10月1日時点での運行状況は次の通りである。

標茶本線 開運町~上御卒別間旅客列車3往復(日祭日は2往復)貨物列車、1月~4月1往復、沼幌支線1往復(日祭日は運休)

下り/開運町発8時50分(休日運休)、11時50分、15時40分、上り/上御卒別発7時20分、10時20分(休日運休)、14時00分

貨物列車 下り/開運町発15時00分、上り/上御卒別発7時30分(下りの休日のみ混合列車として運転)

沼幌支線 下り/中御卒別発16時20分(開運町15時40分発に連絡)、上り/沼幌発7時20分(上御卒別発7時20分に連絡)

所要時間は旅客列車が1時間、貨物列車が下り1時間20分、上り1時間50分、沼幌支線15分となっている。厚生、神社前、中御卒別が交換可能である。

道路の整備が進み、農家のほとんどが自家用車を保有しているため、乗客の大半が通学生で、標茶本線が50名、沼幌支線が7名位である。貨物は本線開通時は木材、木炭等相当の輸送量があったが皆無に等しい。冬季は道路が積雪により悪路になるため、1月~4月のみ牛乳運搬用に貨物列車を運行している。

以上のような状況から昭和45年度政府からの補助金が打切られると廃止はやむをえぬものとされていた。

 

40年泰和車両製の自走客車

 

32年運輸工業製の牽引客車

 

40年北炭夕張製の6tDL

 

39年釧路製作所製の6tDL

 

28年酒井車両製の8tDL

時刻表/発着時刻はすべて5分単位である。

 

五十石駅で交換した623レのC58127

江若鉄道三井寺下再現(その1)

琵琶湖疎水鉄橋

琵琶湖疎水鉄橋

三井寺下駅の再現に向けて、全体配置図も出来たので工事にとりかかることにしました。とは言え、5ブロックに分けて 自室になんとか収まる大きさで ポイントの数も17個、本社屋、駅舎、車庫2棟、数多くの詰所類、給水塔、播但鉄道の客車廃車体等々これから先の工程を考えると完成がいつになるのか見通しがたちませんが(資金繰りも)、車輌の増備も並行して 気長に工事を進めるつもりです。高島町と白鬚を作った際の残材がそれなりにあって、この残材だけで1ブロックができることがわかり、急ごしらえながら先行着手しました。三井寺下の浜大津側の1ブロックです。このブロックのハイライトは琵琶湖疎水を渡る鉄橋と2つの踏切(1つは遮断機があり警手もいる踏切)、そして場内信号機(腕木)で、小さなブロックながら単独でも展示台として使えるものです。琵琶湖疎水鉄橋部分だけが出来たので ご紹介します。ガーダーは真鍮板で作りました。これまたカラー写真がなく、客車たちを塗装した緑色のラッカーの残りを使って 薄緑色にしました。実際は赤茶色(さび止め色)だったかもしれません。ご笑覧あれ。

東海道京都電化前夜

1956年11月3日梅小路機関区にて

1956年11月3日梅小路機関区にて

昔の写真が見つかった。撮影は昭和31年11月3日、京都電化の直前である。以前の湯口先輩による山科電化工事記録と同じ時期。おそらくは梅小路が受け持つ蒸機による東海道線最後のお召しではなかろうか。写っているのは機関区員とその家族だろう。撮影したのは父か写真技師であるがいずれももういない。当時はガラス乾板で、文字は直接筆で書いた。書いた人は現在も八十才を超えて健在である。

後ろにC62のドームが見える。左の給水塔は山陰線脇にあった。

このときのお召し列車運転について詳しいことをご存じの方はぜひともお教え下さい。

江若鉄道 夏の陣

連日の猛暑で白鬚、近江舞子に向かう水泳客をさばききれない中、ようやくオハ27 3両が戦力に加わりました。永らく未塗装のままで放置してあったオハ27とDC30の塗装を大汗をかきながら済ませました。特注のインレタを貼り付けるとグッとそれらしくなり、ビールのおいしいこと。まだ6号機、キハ12、キハ5124、ハフ2、ハフ7が塗装待ち状態、キハ5121-ハ5010-キハ5122、が工場の中と仕掛りが多いのですが、オークションでB10のキットを手に入れたので、1118に改造を目論んでいます。キニ9やキハ20、キハ51も控えていて 当分楽しめそうです。

成田スカイアクセス開業と京成金町線ダイヤ改正

東京都心と成田空港間を最速36分で結ぶ「成田スカイアクセス」の開業については【9071】で「デカンショまつり号」さんが報告されておられる通りであるが、それに伴い京成電鉄全線のダイヤ改正が実施された。その中でも最も大きく変化した金町線について報告する。

金町線のダイヤ改正は全線ダイヤ改正に先行して7月5日に実施された。その内容は、①高砂駅の発着ホームを新設の高架ホーム5番線に変更(従来は一部を除き4番線に発着)②朝夕を中心に運転されていた金町~上野(一部押上)間の列車を廃止して全列車金町~高砂間の折り返し運転とする。③高砂~柴又間を下り線を使用して単線化する。但し、上り線は入出庫線として残し、単線並列とする。④昼間の運転間隔を20分から15分に短縮する。(運転本数は改正前の平日上下各80本/日→89本/日、土休日上下65本/日→75本)

ダイヤ改正前20分間隔の時は1列車が折り返し運転を行っていたが、改正後は2列車使用して柴又駅で交換するようになった。昼間の基本的なパターンは金町駅、高砂駅ともに発車時刻は7分・22分・37分・52分、柴又駅の発車時刻は上下共に9分・24分・39分・54分で、金町、高砂双方の駅を同時に発車した電車が柴又駅に同時に着発することになり、柴又駅での駅撮りが難しくなった。

ダイヤ改正とは別に7月5日より来年3月31日までの予定で、葛飾区のPRの一環として、3300形3341-3342-3319-3320の編成に「寅さん」、3337-3338-3347-3348の編成に「両さん」のラッピングが貼られている。

 

「寅さん」のラッピングのモハ3342と「両さん」のラッピングのモハ3338

【教習所踏切】

高砂~柴又間のほぼ中間地点の踏切で直ぐ近くに京成自動車教習所があり「教習所踏切」と呼んでいる。(正式名称は「高砂(金)4号踏切」)ここまでは自宅から自転車で20分(信号のタイミングがよければ15分)で到着する。趣味誌で「撮影地ガイド」に紹介されたことがあるが、高砂~柴又間で撮影可能な場所は、この場所を含め途中の踏切しかない。

 

高砂駅から柴又駅までのほぼ中間地点まで高架化され、高架から地平に降りる「寅さん」編成と地平から高架に上る「両さん」編成

 

高架完成前の同一区間を走る3341-3342-3319-3320と3337-3338-3347-3348編成

リバイバル塗装車

 

青/3353-3354-3355-3356・赤/3345-3346-3323-3324・オレンジ/3309-3310-3311-3312

3500形

昭和47年12月から57年5月まで4両編成24本96両作られたセミステンレス車。平成8年から大規模な更新修繕が平成13年までに14本が実施された。残りの10本も実施される予定であったが、新車を投入した方が得策との考えから中止となり、既に廃車された車両もある。

 

上/3501-3502-3503-3504・車体更新車、下/3573-3574-3575-3576

【教習所踏切の山側】

 

【「教習所踏切」と柴又寄りの「高砂(金)5号踏切」の間】

 

単線化後

 

複線時代

【「高砂(金)5号踏切」(柴又駅から高砂寄り2つ目の踏切)】

 

この場所も「撮影地ガイド」に紹介されたことがある。

【金町方面から柴又駅進入】

 

【柴又~金町間】 

柴又~金町間は両側に道路がある。金町に向かって右側は交通量が非常に多いが、左側は比較的静かである。

 

ダイヤ改正で廃止された上野行/3341-3342-3319-3320

 

金町駅発車/3589-3590-3591-3592

【北総鉄道リース車について】

昨年9月17日【4342】で3305-3306-3307-3308編成と3313-3314-3315-3316編成が北総鉄道にリースされ7261~7268の車号となっていることをお知らせしたが、4月中旬頃、教習所踏切で撮影していた同業者から7月17日の成田スカイアクセス開業に伴いスピードアップの障害になるため、9000系と共に廃車(リース返還)になるため、新鎌ケ谷駅や東松戸駅では撮影者で賑わっているという話を聞いた。同車の車齢を考えると多分間違いないだろうと思い撮影を試みたが、得てしてこの種の車両はカメラを持っている時には来ずに、持っていない時に限って来るものである。それでも葛飾区役所に行った時に、場所は良くないが何とか撮ることができたが、開業後も特に変わりなく運転されているようである。しかし、いつ廃車されてもおかしくない車両であるのは間違いなく、早めの撮影をお勧めする。

 

上/22年6月29日 立石~四ツ木間・下/22年5月18日 立石駅

 

9001他8連  22年6月29日 立石~四ツ木間