【9754】「川重製のみぶ型」のコメントで、K.H.生さんが十和田観光電鉄のクハ4406について触れられたので、昭和40年代の状況について少しだけ書いてみたい。同社については、乙訓の長老が昨年9月1日【4255】賛書紹介「あの電車を救え!」で昭和32年頃に撮影された貴重な映像を紹介されておられるので併せてご覧いただくと共に重複部分があることをお許し願いたい。同社を訪れたのは、京阪沿線の高校時代の昭和40年3月、現役時代の昭和42年9月、社会人になってからの昭和46年5月、昭和50年9月の4回である。その後訪れた方がおられたら是非報告をお願いしたい。
【沿 革】
現在の東北本線の前身の日本鉄道は、明治23年11月盛岡まで開通し、十三本木峠を越え、三戸から更に陸羽街道(現在の国道4号線)沿いに北上し、野辺地から陸奥湾沿いに青森に向かう予定であったが、街道沿いの旧宿場町の反対に会い、尻内(現八戸)、古間木(現三沢)、沼崎(現上北町)を経て野辺地に至るルートに変更された。陸羽街道沿いの五戸、伝法寺、藤島(三本木)、七戸の各宿場町は幹線鉄道から取り残され繁栄を失ってしまった。三本木から鉄道に最も近い古間木駅まで16キロ離れており、徒歩か馬車しかなく、この区間に鉄道を望む声が上がるのは自然の成り行きであった。
このような状況下で大正3年6月十和田軌道が設立、大正9年10月十和田鉄道に社名変更、大正11年9月14日古間木(現三沢)~三本木(現十和田市)間を軌間762mmで開業した。戦中、戦後の混乱期を乗り越え、昭和26年6月20日1500Ⅴ電化と1067mmへの改軌を同時に完成させ、一夜にして近代的鉄道に変身した。電化工事一式を日立製作所が請け負い、同社製の電車4両と電気機関車1両が新車で用意された。青森県下では弘南鉄道が昭和23年7月に電化、弘前電鉄が中央弘前~大鰐間を昭和27年1月に新規開業しているが車両はいずれも中古車であった。同年12月30日社名を現在の十和田観光電鉄に変更、昭和30年9月には十和田湖で遊覧船事業を開始した。
昭和43年5月16日に東北北部を襲った十勝沖地震は当社にも大きな被害をもたらし、その復旧費に多額の資金を要したため経営危機に陥り、昭和44年10月経営権を国際興業に譲渡した。被害の状況は、当時の新聞等によると「三本木駅は大破して倒壊寸前、線路は架線の支柱が傾き、レールは軌道床が崩れて梯子のようにぶら下がり、途中駅もメチャメチャに壊れている」と報じられている。余談であるが、尻内(現八戸)~五戸間を営業していた「南部鉄道」は復旧を諦めバス専業となった。
社名のイメージからは十和田湖へのメインルートのように思えるが、十和田市駅から十和田湖(休屋)行のバスは1日1往復しかない。途中の焼山まで7往復あり、青森駅または八戸駅発のJRバスに乗換えることは可能である。十和田湖へは青森駅、八戸駅からのJRバスがメインルートとなり、花輪線十和田南駅からのルートはすっかり寂れてしまい、弘南黒石駅からのルートはバス路線が廃止されてしまった。
【車 両】
昭和50年9月時点での車両は、電気機関車2両(ED301、ED402)、電車7両(モハ2403、2405、クハ2404、モハ3401、クハ4406、モハ1207、クハ1208)であった。電車の車号の下1桁はモハが奇数、クハが偶数になっている。
(1) 電気機関車
ED301/昭和26年7月の電化、改軌時に投入された日立製作所製の30t機関車で、入線時は貨物列車の他、混合列車にも使用されたが、昭和37年ED402の入線後は、構内入換と除雪が主な任務となった。現在も廃車にはなっておらず健在であるが、使用頻度は極めて少ないものと思われる。(42-9-2 三本木)
ED402/昭和37年4月に新製した川崎車輛製の35t機関車である。貨物列車の主力として活躍したが、昭和61年11月貨物取扱が廃止され、以降は工事列車の牽引、除雪等に使用されている。(46-5-29 十和田市)
(2) 電車
モハ2403、2405・クハ2402、2404
昭和26年の電化、改軌時に日立製作所で新製された半鋼製車でモハとクハは同形である。共に両運転台付であったが、昭和42年9月2日撮影時にはクハ2402の三沢寄りの運転台が撤去されて片運化されていた。新製時の車号は、モハ2401、2402・クハ2401、2402であったが、重複車号を避けるため昭和33年8月7日付で現車号に改番された。
昭和43年12月事故によりクハ2402が廃車(日付は45年3月25日)、残りの3両も元東急のモハ3809、3811・クハ3810と代替で昭和56年12月18日付で廃車された。
上から モハ2405+クハ2404 (46-5-29 十和田市) / モハ2405+クハ4406(50-9-1 三沢) / クハ2402(42-9-2 三本木) / クハ2404 (42-9-2 三本木)
*「三本木」は昭和44年5月15日に「十和田市」に改称している。また「古間木」から「三沢」への改称は昭和36年3月1日である。
モハ3401
昭和30年5月に帝国車両で新製された全金車で、広窓の18mを越える車体は当時の地方私鉄の車両の中では最優秀作品であった。平成14年に元東急のステンレスカーと代替で廃車になる予定であったが、動態保存されることになり、現在でもイベント時等に元気な姿を見ることができる。
上 旧塗装(42-9-2 三本木) 下 新塗装(46-5-29 十和田市)
クハ4406
昭和36年6月に川崎車輌で新製された全金車で、車体はモハ3401とよく似ているが、貫通扉に方向幕を埋め込む等、更に洗練されたスタイルになった。基本的にはモハ3401と編成を組んだが、モハ2400、元東急のモハ3800と組むこともあった。平成14年に元東急のステンレスカーと代替で廃車となった。
上 旧塗装(42-9-2 三本木) 下 新塗装(50-9-1 十和田市)
モハ1207、クハ1208
昭和44年11月1日に廃止された定山渓鉄道のモハ1201、クハ1211が前身で、昭和45年に入線した。幅の狭い窓がズラリと並び、座席は一見クロスシートに見えるがロングシートである。モハ、クハ共に正面2枚窓、両運で運転台は右側である。他車とは制御器が異なり連結が不可能なため、モハ1207の単行かモハ1207+クハ1208の2連で使用されていた。平成2年3月、東急からの転入車と代替で廃車となった。
上 モハ1207 下 クハ1208 (46-5-29 十和田市)
(3) たまにはバス (またバス?)
昭和50年に訪れた時は何故かバスを撮影している。今となれば結構珍しい車両もあるので紹介する。(撮影日は50-9-1 十和田市)
青2く6228/青森行急行バス 42年式 いすゞBU10P(川崎航空機)
青2く6234/ 42年式 ふそうMR620(クレハ)
「ふそう」中型車の元祖的なバスで、関西では京阪バス、江若バス、有田鉄道等に存在した。京阪バスはボンネットバスと共通運用で大津市内線、江若バスもボンネットバスと共通運用で和邇~途中線等で使用された。後にB6(B620等)シリーズ→MK(MK115→MK116)シリーズへと進化していった。
青2く6257/ 42年式 いすゞBU20KP(川崎航空機)
「オバQバス」と言われた車両で、関西では丹海バスの京都~間人間の快速バスに長く使用されていた。
青2く6267/ 42年式 ふそうMAR470(クレハ)
青2く6349/ 43年式 ふそうMAR470(川崎航空機)
比較的珍しい「ふそう」「川崎」の組み合わせであるが、登録ナンバーに注目していただきたい。登録ナンバーの下2桁「42」「49」は永久欠番の筈であるにも関わらず、「49」が付番されている。登録作業がコンビ―タ化される前、青2く6000番台が十和田観光電鉄の割当ナンバーで、自社で自由に付番できたことが原因と考えられる。ちなみに現在は希望により付番は可能である。
「丹海のオバQ」懐かしい言葉を、聴きました。
これも川崎でした。
前回のコメントでは分析不足の感は否めませんが、昭和40年代に入っての川崎のバスや車輛の、地方私鉄への売り込み攻勢には、いろいろな要因が考えられます。
ロッキード事件の面白さは、航空機といった大型ビジネスは、どうやって売り込んでいくのか。その裏側にはどんな汚職や、汚い手があり、政治や商社というのはどのような機能なのか。
子供にもよくわかる良い教材でした。
ただ大方の日本人は「政治はクリーンでなければいけない」と汚職や疑獄で、逮捕や証人が変死すると、拒絶反応を示し、新聞もずっとその路線で報じてきました。
リクルートしかり、最近の小沢問題が最後になるかもしれません。
小佐野賢治や、福島交通のドン・小針暦二などの動きと、戦後の地方交通の相関図的な研究というのは、大学の先生レベルでは扱ったことがあるのかもしれませんが、鉄道、乗り物趣味レベルで論じたものは、まだ見ないように思います。
生臭さがもう消えているので、これからゆっくりとこういう分野を趣味的に論じるのも面白いのでは、ないかと思います。
これは湯口さんの名著で、沼尻鉄道が「磐梯急行電鉄」になった経緯でヒントを得ました。
国際興業が十和田観光電鉄を乗っ取ったのは、十勝沖地震以降ですが、小佐野の触手は、昭和40年に入ったあたりからでは、というのが推測です。
確証になりそうなものを、いつか捜してみたいと思います。