山陽電車200型

 湯口先輩、後出しですみません。山陽電車と聞けば、黙ってはおれず遅ればせながら投稿しました。
▼先ずは、件の山陽電鉄カラーの塗り分け200型、3扉車。塗装まだ新しい頃、須磨浦公園-塩屋間、1963.1.1撮影。後方の建屋は須磨浦公園駅、階上から鉢伏山上へのロープウェイが発着しています。

▲▼その1年前、100型、200型の暗黒ぶどう色塗装車、同号車、同区間。後方の国鉄山陽本線はまだ複線です。普段波静かな須磨浦に、冬季で白波が立っていました。1962.1.1撮影。
▼同じく200型、206+207、2扉車、同じ区間、1962.1.1撮影。

 さてこの、200型ですが、ここに良い文書と図面がありますので紹介します。
それは職員であり、かつ鉄道ファンでも有名な亀井一男さんや佐々木さんによって記述されたと思える一文が、当時の山陽電車の社報に掲載されていました。少し長文です。無断転載ですが、出所を明示、50年前の文書に免じてお許し下さい。200型の功績と大型化への苦心が描かれています。
山陽電気鉄道株式会社・社報臨時号No.6(昭和36年9月)より、8・9頁を抜粋しました。本文および形式図は原文のままです。

200型車両の大型化改造
200型の生い立ち
 昭和11年、まだ山陽電車という名よりも宇治電とか兵電とか当社の前身の呼名の方が、耳慣れていた頃、この200型は生まれました。当時は神戸姫時間の直通は全ていまの100型総数35両が単車で運転しており、神戸明石間には、通称バッテラと呼ばれた木造社31両が運転されていました。この木造車は明治43年から大正10年までの間に製造されたもので、そのうち7両の車体を新品と置き換え、台車や制御装置を大改造したのがこの200型です。続いて昭和13年に、同型で更に5両の更新が行われ、また昭和16年網干線の開通に対処して、新車として3両が完成し、いまの2扉200型15両が揃ったわけです。

 そのころ流線型という言葉がはじめて普及し、空気抵抗など全く関係のなさそうな低速の市内電車まで、猫も杓子も前面を曲面にするのが流行となり、この車も御同様にそのまねがしてありますが、形として大変まとまっていて、流線型流行時代の電車の前面の傑作の一つに数えられています。

 しかし、700型のような大型車や、2000型のような高性能車が、国鉄や大手各社同様にとばすことになろうとは、夢にも思わぬ当時のことですから、最大幅2m400にも足りぬせまい車体で、一方駅員無配置があたりまえだったので乗務員が集札に便利なように出入口は両端にだけあり、全く現代の混雑時には縁のない構造になっています。

現在の200型
 戦時中の輸送に応ずるため、その後に引続いて新造された200型19両は片側3扉となり、2扉3扉あわせて現在の34両が終戦までに揃いました。ところが、最初の12両は軌道線の車体更新車で600V専用であったので、戦争中もあまり無理な使い方をしなかったせいか、あるいは製作当時の技術が戦前では最も円熟した時代のものであったためか、車体の状況は現在でももっとも良好であります。

きらわれる200型
 残念ながら、現在の200型2扉車はきらわれ者です。毎朝のラッシュ時には、下りの閑散なところを走らされたり、ごく短距離のローカル運転や、予備者としてお茶をひいています。それは、扉が車の両端にだけあって、しかも車幅が狭く、お客様が中央まで入ってくださらないので、出入口付近がひどく混雑しながら中央部は空いていて、結局の収容力が最も少なく、乗降時間も長くかかるという不便さのためです。

 それでは215号以降の車のように中央に扉を設けたら解決するのでしょうか。それには3扉の200型が愛される200型であるのかを考えてみればわかります。今年(筆者注:昭和36、1961年)の末には100型がすっかり姿を消して270型に生まれ変わりますし、来春には(同、昭和37、1962年)新車6両が登場しますと、客車総計122両中、小型車は200型34両だけになります。つまり大型3に対して小型1の割合です。ラッシュには大型車でも満員のダイヤへ、ときどき小型車がまぎれ込みますと扉の数が3つあっても、からだの小さい200型では乗れる限度がありますから、それだけ混雑もひどく、或いは積み残しも多いわけです。からだが小さい限り、扉の数を一つ増やしたくらいで安心はできません。

 また小型車は3両連結にしたら大型車2両連結と同じくらいの輸送力になるのではないかと考えられます。200型を3両連結することができればそれほど簡単なことはありません。しかし残念ながらそれが大変なのです。かりに2両連結3列車を3両連結2列車にすると、たちまち別に1列車を新造せねばなりません。電車は大きくても小さくても、1両はまちがいなく1両ですから、保守費も税金も利子も電力料もみな両数に比例して増加します。それも我慢するとしましょう。法律によって3両以上連結するにはブレーキは自動制動でなければなりません。またすべて貫通式にしなければなりません。

 ところが200型は小さくて自動ブレーキ装置が床下へ入りきりません。またその昔、併用軌道の路面から昇降する構造だったため、台車が中央に寄り過ぎていて、台車から車端までの長さがなみはずれて長く、貫通幌をつないでスムーズにカーブを通ることができません。となれば3両連結もそう容易なことではないわけです。

200型の再生
 なんとしても200型は小さすぎます。中央に扉をつけてもすぐゆきづまりがくるでしょう。さりとて3両連結するには大改造が必要ですし、車両数も増やさねばなりません。270形式の車体を新造してのせかえるにはまだ惜しい気がします。そこで中央扉をつけ、3両以上連結できるよう改造する費用にもう少し足して、巾も大型車なみにひろげれば250型と同じ能力になるのではないかということになりました。これはなかなかむつかしい作業ですが不可能ではありません。いまその具体的な工作方法を車両部で研究しています。出来上がりの姿は、長さは15mで小型車並み、側面の形は3扉の200型に似たかたち、正面は270型そのまま、と考えていただければよいと思っています。そしてとりあえず、250型と同様に大型車2連として使用もできますし、必要に応じ3両編成でも運転できることになります。
第4時輸送力増強計画の車両関係工事の一部として、来春から夏にかけて6両の工事が完成する予定になっています。

 かっての花形であったこの車も会社の発展に伴って、老朽化する以前にこうして姿をかえてゆくことになりました。この機会にその過去の功績をかえりみ、また将来の活躍を期待したいと思います。(原文のまま)
 ▼最後にステップの位置が、判り易い斜め上からの写真です。電鉄須磨駅にて。
手前が下り明石行き200型2扉車、奥が上り兵庫-姫路間の各停200型、第4次製造型。

▼下り明石行きの後部です。右の信号所の建物は使われていませんが現在も残っています。
1961.2.19撮影。

次回は、200型の改良300型について予定をしています。