定時に回復いたしました。相模5000型 投稿日時: 2011年6月27日 投稿者: 米手作市 関先生の記事によると、この当時(昭和30年前後)の関東私鉄車両は意欲的な物が多かったのがよくわかります。関西でも阪神や京阪にはその後の電車を大きく変える新技術が試されていました。ただ顔だけは関東ほど86を気にしていたかは疑問です。権威に弱い関東と権威ほど見て見ぬふりをする関西の違い、といえば関東の人に怒られるでしょうか? 関連記事: 羽村さんが遺したアルバムから 〈2〉 宮崎繁幹様からのご質問に答えましょう! 最後の飯山線狂化合宿とC56111
この電車、1958年春、小田急経堂車庫訪問後、海老名から乗りました。ぼろ電で満ち溢れている中、将に掃溜めの中の「鶴」の存在でした。関東は東芝の領域のためか、狭軌電鉄が多いせいか、直角カルダン車が幅をきかせていたようですね。 そのためかトラブル続発のなか、相模鉄道だけは直角カルダン愛用を長く継続していたのは日立とどんな付き合いがあったのでしょうか。1954年、土佐に行った時に日立製の直角カルダン車501号がありました。土電50周年記念号だったのですが、調整中で若松町車庫の奥に押し込んだままでした。アメリカでは1930年頃に登場以来、好評につき5000両を超え増備されたPCCカーに採用されたシステムだったのに!日本で嫌われたのは何が原因だったのしょうか!駆動用カルダン軸、ギヤ等が不調だったようですが、阪神もジェットカー5000形で終わりました。相模はついこの間までの新造車に採用していたようですね。、 返信 ↓
これは相鉄の初代5000形ですね。 関画伯には失礼かも知れないんですが『何か変』。 ・・・そうだ昔の京阪神急電のようなアイスキャンデー色ではなかった筈で、濃い緑色(モスグリーン)だったような気がします。 それとも、以前クハ79のところで紙質その他の関係で茶色がオレンジに見えた老人性錯覚症?かも知れません。 この頃の相鉄はやっと砂利電車から脱皮しかかっていた時代で、一方では黄色系のオレンジに塗られた戦時導入のロクサン形が走っており、この5000形は正に花形でした。 返信 ↓
河様、 そうですか、色が変ですか。手元の記事とモニター画面を見比べていますがほぼ正確に再現しています。私は見たことがないため何ともいえません。どなたか当時の現車をご存じの方はご意見を下さい。カラー写真をお持ちの方は見せていただけませんか? 私が横浜へ転勤して毎日横浜駅を利用したのは5000型が登場して10年以上が過ぎた昭和40年代初旬ですが見たのか見てないのか・・・でも西口にあったボロボロの相鉄本社ははっきりと覚えています。 返信 ↓
河様、米手作市様、相鉄5000系の塗装の件、私が現車を見たのは昭和42年に一度しかありませんが、食パン型の6000系も同じ色であったと思います。 イラストを見る限りでは、河様の仰せの通り復活急電のアイスキャンデー色に見えますが、関画伯が色をお間違いになることは考えられないので、クハ79066の時と同様、印刷の結果このようなになったと思います。特に窓周りの色は明らかにおかしいと思います。 5000系の色は、河様の仰せの濃い緑というか紺に近い緑と、濃い黄色(薄めの黄土色)のツートンに細い赤帯であったと思います。 ピク誌の1960年打代前半の国電のお話、私が未だ中学生の頃ですので、興味深く拝読させていただいております。とりわけ前回横須賀駅で撮影されたクハ76351先頭のモハ72541を連結した写真は貴重です。旧形国電の場合は基本的に自由に連結が可能であったため、このような編成が見られました。クハ76351は後に三鷹に転属し、山スカの一員となり、最後は広島で廃車になりました。 既にご存じのことと思いますが、昭和34年頃大船区にモハ72541、625、626の3両が在籍し、茶色のまま横須賀線で使用されていたことが記録されています。 「急電92」(昭和34年9月号)に次のように紹介されています。 タイトル/横須賀線異変 スカ型70系も更新の時期を迎え、編成も8月初めからすっかり乱れている。特にピンチヒッターとしてモハ72型2両が登場し、従来の塗装のまま編成に加わっている。これらモハ72の車内には、各戸袋部に「車両更新のため35年3月迄代わりにこの車両を使用します」という具合に代用使用の掲示が出ている。 9月1日現在72型を含む編成は下記の通り S31 76037+43024+72626+46003+70090+76032 S32 76303+43032+72541+15000+48018+53006 この内S32は特にガラクタの寄せ集めで76303以外は2、3等とも全くひどいものである。 ところで河様、昭和41年3月頃ピク誌の「読者短信」に京都駅の3番線と4番線の間の留置線で撮影されたクハ76305の写真を投稿されておられませんでしょう。古いピク誌は京都の実家にあり確認はできていませんが、多分同じ日に私も撮影しています。 返信 ↓
この電車、1958年春、小田急経堂車庫訪問後、海老名から乗りました。ぼろ電で満ち溢れている中、将に掃溜めの中の「鶴」の存在でした。関東は東芝の領域のためか、狭軌電鉄が多いせいか、直角カルダン車が幅をきかせていたようですね。
そのためかトラブル続発のなか、相模鉄道だけは直角カルダン愛用を長く継続していたのは日立とどんな付き合いがあったのでしょうか。1954年、土佐に行った時に日立製の直角カルダン車501号がありました。土電50周年記念号だったのですが、調整中で若松町車庫の奥に押し込んだままでした。アメリカでは1930年頃に登場以来、好評につき5000両を超え増備されたPCCカーに採用されたシステムだったのに!日本で嫌われたのは何が原因だったのしょうか!駆動用カルダン軸、ギヤ等が不調だったようですが、阪神もジェットカー5000形で終わりました。相模はついこの間までの新造車に採用していたようですね。、
これは相鉄の初代5000形ですね。
関画伯には失礼かも知れないんですが『何か変』。
・・・そうだ昔の京阪神急電のようなアイスキャンデー色ではなかった筈で、濃い緑色(モスグリーン)だったような気がします。
それとも、以前クハ79のところで紙質その他の関係で茶色がオレンジに見えた老人性錯覚症?かも知れません。
この頃の相鉄はやっと砂利電車から脱皮しかかっていた時代で、一方では黄色系のオレンジに塗られた戦時導入のロクサン形が走っており、この5000形は正に花形でした。
河様、
そうですか、色が変ですか。手元の記事とモニター画面を見比べていますがほぼ正確に再現しています。私は見たことがないため何ともいえません。どなたか当時の現車をご存じの方はご意見を下さい。カラー写真をお持ちの方は見せていただけませんか?
私が横浜へ転勤して毎日横浜駅を利用したのは5000型が登場して10年以上が過ぎた昭和40年代初旬ですが見たのか見てないのか・・・でも西口にあったボロボロの相鉄本社ははっきりと覚えています。
河様、米手作市様、相鉄5000系の塗装の件、私が現車を見たのは昭和42年に一度しかありませんが、食パン型の6000系も同じ色であったと思います。
イラストを見る限りでは、河様の仰せの通り復活急電のアイスキャンデー色に見えますが、関画伯が色をお間違いになることは考えられないので、クハ79066の時と同様、印刷の結果このようなになったと思います。特に窓周りの色は明らかにおかしいと思います。
5000系の色は、河様の仰せの濃い緑というか紺に近い緑と、濃い黄色(薄めの黄土色)のツートンに細い赤帯であったと思います。
ピク誌の1960年打代前半の国電のお話、私が未だ中学生の頃ですので、興味深く拝読させていただいております。とりわけ前回横須賀駅で撮影されたクハ76351先頭のモハ72541を連結した写真は貴重です。旧形国電の場合は基本的に自由に連結が可能であったため、このような編成が見られました。クハ76351は後に三鷹に転属し、山スカの一員となり、最後は広島で廃車になりました。
既にご存じのことと思いますが、昭和34年頃大船区にモハ72541、625、626の3両が在籍し、茶色のまま横須賀線で使用されていたことが記録されています。
「急電92」(昭和34年9月号)に次のように紹介されています。
タイトル/横須賀線異変
スカ型70系も更新の時期を迎え、編成も8月初めからすっかり乱れている。特にピンチヒッターとしてモハ72型2両が登場し、従来の塗装のまま編成に加わっている。これらモハ72の車内には、各戸袋部に「車両更新のため35年3月迄代わりにこの車両を使用します」という具合に代用使用の掲示が出ている。
9月1日現在72型を含む編成は下記の通り
S31 76037+43024+72626+46003+70090+76032
S32 76303+43032+72541+15000+48018+53006
この内S32は特にガラクタの寄せ集めで76303以外は2、3等とも全くひどいものである。
ところで河様、昭和41年3月頃ピク誌の「読者短信」に京都駅の3番線と4番線の間の留置線で撮影されたクハ76305の写真を投稿されておられませんでしょう。古いピク誌は京都の実家にあり確認はできていませんが、多分同じ日に私も撮影しています。