南海のロクサン

モハ63は諸先輩の思い出の中で生き続けていたことがわかりました。たしかに人生と重なる電車でした。今回はtsurukameさんの山陽のロクサンと同じように南海へ売られていったロクサンの話です。ただ読んでみると貧しかった戦後の子供達とおなじようなロクサンの中でちょっと裕福感のあるロクサンです。

南海のロクサン」への5件のフィードバック

  1. 1950(昭和25)年夏休み、兄に連れられ大阪の電車見物の途中、天下茶屋で初めて茶色でない63を見ました。正面デボチンの羽車マークが印象に残っています。それともう一つ、中間車が3扉で腰高のもので、兄から木造車の鋼体化だと教えられました。この時始めて鋼体化車両なるものを知りました。和歌山行きでしたから乗っていません。2人は天王寺から難波へ向かう途中でした。でもこの時の印象が強かったのは確かで、いや、ひょっとすると「子供の科学」に図面が出ていたからかもしれませんが、夏休みの宿題はペーパー車体で63タイプの連接車をOゲージを作りました。校内夏休み展で「秀」左京区も同じ、丸物の市内小学校夏休み工作展に出展された後、行方不明となりました。「もみじ号」と名付け、腰下赤、上濃黄に塗りました。その翌春、京阪特急は類似色で登場! 万歳でした。

  2. 長老様、
    やっぱりこの手の投稿に対する返答は、長老様でないといけませんね!
    正面の羽車輪マークは見たことがあるようなないような。叔母が貝塚にいたものですから時々南海に乗った記憶があります。でもそれが“63”だったのかは定かではありません。
    どなたか写真をお持ちであれば見せて頂きたいものです。

  3. 元関西人の私ですが、住居を中心とした行動範囲が京阪神だったため、南海や近鉄には縁遠く、多くを知りません。
    ただ、幼少時の或る時に難波(だったと思う)で見たロクサンとそっくりの車に目が釘付けになった記憶があり、グリーンの塗装が茶色の国電よりセンスが有るように感じたものです。
    ただ、それは今回の関先生のイラストとは違って前面非貫通で、勉強不足のため貫通改造されたとは知りませんでした。

    長老様
    文中に『天王寺から難波へ向かう途中の天下茶屋でご覧になった』と取れる記述がありますが、私が?と思うのは間違いでしょうか。

  4. 長老様
    天王寺⇒天下茶屋⇒難波のスケジュールだったんですね。従って途中ですね。失礼しました。
    単細胞の私は天王寺から難波へ行くのに何で天下茶屋を通るねんやろうと・・・。
    とうとう後期高齢者になってしまって、文章の読解力不足が露呈してしまいました。
    ところで、天王寺⇒天下茶屋は市電をご利用でしたか?

  5. 河 様。遅ればせながら、その昔は南海天王寺線が天下茶屋と通じておりました。大阪市営地下鉄建設の際、今池ー天下茶屋間が廃線となり、後に今池ー天王寺間も廃線となりました。末期には63のモータ流用の1521型両運が1両で走っていました。
    今頃、5/31気付いて御免なさい。

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