日本セメント上磯工場


10号機の牽く万太郎沢発の列車

6月9日【21120】で西村雅幸氏より「佐渡金山」、続いて6月11日【21205】でINUBUSE氏より「串木野金山」の訪問記が掲載されているが、昭和50年5月1日に日本セメント上磯工場を訪れた時の様子を紹介したい。

沿革は、明治23年4月函館市の有力者により設立された北海道セメントにより工場建設。大正4年7月アサノセメントに合併。アサノセメントは昭和22年5月日本セメントに社名変更。平成10年10月秩父小野田セメントと合併して太平洋セメントとなり、現在は同社の上磯工場となっている。

工場~峩朗鉱山間 (6.6)、同~万太郎鉱業所間 (3.4)の直流600Vで電化された専用鉄道が敷設され、峩朗鉱山からは石灰石を、万太郎沢鉱業所からは粘土が運搬されていたが、昭和48年に峩朗鉱山~工場間に長距離ベルトコンベアが完成して鉄道と併用となった。平成元年(月日不明)全面的にベルトコンベアによる輸送に切替えられ、鉄道は廃止となった。

〔電気機関車〕
1号機~10号機(4号機は欠)まで9両在籍し、2両が保存されている。連結器は1~5号機がピンリンク式、6~10号機は、自連とピンリンク式の両方を装備していた。

1~3号機/大正11年東洋電機(車体は汽車会社)で作られた。自重16tの2軸の小型電機で、ブレーキは手ブレーキと電磁吸着ブレーキであった。
2号機が生まれ故郷の東洋電機横浜工場で保存されている。

 5号機/1~3号機の増備車として大正12年に作られた。メーカー、仕様等は1~3号機と同じである。
こちらは上磯工場近くの北斗市運動公園に保存されている。

7号機/昭和23年日立製作所製の自重25tD型機で、京福福井支社→えちぜん鉄道のデキ521、522と同形機である。

9号機/昭和59年東洋電機(車体は東洋工機)製の自重35tD型機である。

10号機/昭和61年東洋電機(車体は東洋工機)製の自重35tD型機で、9号機とほぼ同じスタイルである。
 

6号機(昭和10年東洋電機、車体は日本車輌製の自重25tD型機)は庫内で修理中、8号機は(昭和27年東洋電機、車体は日本車輌製の自重25tD型機)は万太郎沢鉱業所に行っていたため撮影していない。

〔客 車〕
201~204の4両在籍し、峩朗鉱山、万太郎沢鉱業所の従業員輸送に使用されていた。連結器はピンリンク式であった。メーカー、製造年等は不明のため写真のみとする。

201号車/客車の中では一番大型で、リベットの目立つ車体は鋼製のようである。2軸車ながらウィングバネがあり乗り心地は悪くなさそうである。扉は片側のみ中央に設置されていた。

202号車/中1扉の小型車で、この車のみ両側に扉があり、吊革が設置されていた。

203号車/物置小屋に車輪をつけたような、いかにも鉱山の人車というスタイルである。車体は木製鉄板貼りのようである。

204号車/203号車と同様の車両であるが車体は木製。

〔貨 車〕
撮影した車両のみ紹介する。

ヲキ1/国鉄のセキ3000と同型で国鉄から購入したのかも知れない。元秩父鉄道にも「ヲキ」が存在するが「ヲ」が何を意味するのか未だに判らない。鉱石の「コオセキ」とか鉱石の英語「ore」からきているとか云われているが、どちらも違うような気がする。石灰石運搬用貨車の形式を「ヲ」にしただけと思っている。

3号車、5号車
片方に自連、もう片方にピンリンク式連結器を持ち、自連付の車両とピンリンク式車両の併結時の控車である。
かつて山陽本線の153系急行電車が瀬野~八本松間の勾配区間を自力で越えることができないため、EF61の補機連結時に使用されていたオヤ35と同様の役割を果たしている。
余談であるがJR東日本の「リゾートエクスプレスゆう」が非電化区間乗入れ時に機関車と間に控車として連結されるマニ502186(ゆうマニ)は両側共に双頭連結器を装備している。

薬剤散布車

架線点検修理車

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