市電が走った街 京都を歩く 四条線⑦

四条京阪前 ②

「四条京阪前」で京阪電車と交差する。当時は遮断機もなく、交通信号と警手の笛だけで行き来していた。京阪電車のすぐ横を、歩行者が横断していった。

「四条京阪前」の北側には京阪電車四条駅、南側には南座があります。四条河原は、出雲の阿国が舞った踊り、つまり歌舞伎の発祥地と言われ、南座は、公認された踊りを舞う劇場として、その歴史をいまに伝えています。明治時代に北側にあった北座もなくなり、南座だけが、歌舞伎の発祥地に残った唯一の劇場です。昭和4年に由緒ある桃山風破風造りの豪華な劇場を竣工させて、京都の代表的な劇場として、多様な演目を採り上げて来ました。とりわけ歳末の吉例顔見世興行は、一度も絶えることなく続けられてきた京都の年中行事です。

そして眼前からは、警笛の音が聞こえて来ます。四条線と京阪電車が平面交差していて、四条線の開通は大正元年、京阪電車は最初に五条まで開通し、三条まで延長されたのが大正4年、以来、京阪電車と市電の平面交差が60年近く続けられて来ました。市電が消えて、京阪電車が地下に潜って、川端通が拡幅されて、すっかり付近の様相は変わったものの、改修された南座、菊水ビル、東華菜館など、また四条大橋から見る右岸の街並みなどには、50年前と変わらない風景があります。これも京都ならではと言えるでしょう。

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線⑥

四条京阪前  ①

急行運転がはじまった午前7時過ぎ、街には朝陽が射し込み、そのなか、1系統の赤い系統板がいっそう映える。背後の四条京阪でも人の波が。

祇園を出て、四条線に入ると、そこは祇園の繁華街のど真ん中。一力茶屋の赤いべんがら色の土塀が続き、いまも四条通にその歴史を映しています。花見小路は石畳になり、無電柱化されて、風情のある通りに改修されましたが、当時は変哲もない通りで、馬券売り場へ向かう無彩色の集団が黙々と歩いている通りでした。繁華街はなおも続きますが、鴨川から西の四条通と明らかに違うのは、いかにも祇園らしい、伝統的な食材や小物を扱う店が多いことです。一昨年の冬まで、インバウンド観光客が押し寄せ車道まで人がはみ出すほどだった四条通ですが、先ごろの写真展で、一週間、朝晩、この付近を歩きましたが、信じられないほどの閑散ぶりで、いまとなっては、あの異様な混雑ぶりが懐かしくもあります。やがて市電は「四条京阪前」に到着です。一力茶屋のある花見小路通を過ぎて行く。▲▲門に「節分」の文字が見えるが、市電は節分を待つこと無く、1月22日に廃止されている(昭和47年)。早朝の四条通、人もクルマも少ない祇園を発車し四条京阪前へ向かう7系統。

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昨日のエトセトラとウエスト銀河

呉線の観光列車「エトセトラ」と下関行き観光特急「ウエストエキスプレス銀河」の運転日が重なると、備後赤坂駅で折り返し待ちの「エトセトラ」の横を「銀河」が通過してゆく筈なので、そのシーンを撮ろうとクルマで出かけることにしました。しかし、そのためだけにクルマを走らせるのは、燃料高騰の昨今不経済なので、先般連載しました「尾道鉄道跡探索」で まだ調査できていない、御調町市駅周辺の取材も兼ねて出かけました。「尾鉄」については別稿でご報告します。

まずは、尾道で乗客をおろしたあと、折り返し駅である備後赤坂駅まで回送で走ってくる「エトセトラ」を撮ることにして、東尾道・松永間の今津川鉄橋に行きました。丁度干潮で砂地がむき出しで、パッとしないのですがここで撮ることにしました。

令和4年1月29日 東尾道・松永間今津川鉄橋を行く上り回送エトセトラ

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線⑤

「ぎおん」の7系統ツーマンカー時代の1610号と20系統686号、この二枚、何が違うでしょうか。右上の電停看板に注目、昭和43年撮影(上)では「衹園」、昭和47年撮影(下)では「祇園」になっている。この違いはなぜ?

「衹」と「祇」

この交差点の名称は「ぎおん」に違いはありません。ただ行政地名では、祇園町北側と祇園町南側であり、「ぎおん」は通称地名と言えるでしょう。開業から戦前までは「衹園石段下」で、市バス停留所名も四条線時代は同様の名称でした。短縮して「石段下」が、通りも良かったように思いますが、最近はあまり聞かない表現です。市電停留場の表記は、右の写真のように「衹園」ですが、現在では、バス停留所をはじめ、地図上の地名表記も「祇園」になっています。

「祇」と「衹」、どちらでも正解ですが、意外なことに、新字の印象を受ける「衹」が旧字であり、新字は「祇」なのです。流れを見ると、戦後すぐ、国語審議会は当用漢字を決め、「しめすへん」はすべて「示」になります。昭和23年になって、活字の標準となる当用漢字字体表では「しめすへん」は「ネ」となります。市電停留場名も、これに従い、「衹園」にしました。ところが平成12年になって、印刷に用いる字体の拠りどころを示す表外漢字字体表が答申され、その際に「衹」は「祇」に変更され、新旧が逆転したような改訂となったのです。コンピューターのフォントの基準となるJIS規格コードも、平成16年に「祇」が標準字体となります。事実、昭和の地図では「衹園」が多いものの、平成の地図では「祇園」が圧倒的です。冒頭の看板の字体も、この流れのなかで変更されたようです。Vista以降のOSは、この変更規格に合わせて「祇」と出て、旧字体を思わせる「祇」が逆に主流になりました。ただし、手書きの拠りどころとなる楷書、行書の一部(祥南行書など)、またモリサワフォントの秀英書体は、いまでも「衹園」です。

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線④

廃止当日をしのぶ 〈特別版〉 ②

では、50年前の四条線最終日、昭和47年1月22日(土)の様子、後半に参ります。四条河原町新京極から7系統に乗って、一気に九条大宮へ行きました。ここで定番の東寺五重塔バックの市電を撮ります。何度か撮っていたものの、大宮~九条の曲がるシーンは今日が最後です。歩きながら北上、高校生の下校、新幹線交差も狙って、四条大宮まで歩き、お好み焼きで遅めの昼食としました。食後、西南角のビルに上り、交差点付近を写します。当時は“京の新宿”と呼ばれた四条大宮から、明日には市電が全く消えてしまう衝撃が、胸を締め付けます。7号系統に乗って四条通を西へ。右手に大丸。

九条大宮で曲がる、本日最終の7号系統、700形の「7」は比較的珍しい。▲▲東寺前では洛南高校生が大量に乗車。▲▲▲島原口付近、多くの系統が輻輳する。▲▲▲▲新幹線との交差を何度も試したが、それも最後。

壬生車庫へ行ってみると、車庫内には、廃車の700形間接車、1000形が集められていました。聞くと、夕方までに、他車庫からの廃車予定を壬生車庫へ移送するとのこと。土曜の午後とあって、小中学生が異様に目立ちます。立ち入り禁止の車庫内を、職員が監視を続けています。あとこの写真も実は最終日、サラ金ばかりが入っているペンシルビルに勝手に上がって撮った。すぐ近くの郵便局長をされていた、ベテランのKさんに、写真展でこの写真を見せると「ワシも撮ったでぇ」と言われた。

で分かったことですが、この時、関係者のみのお別れ式が密かに行われていて、ヘッドマークも用意されていたとのこと。いったん家へ帰ってから、午後9時に祇園で藤本さんと合流、夜景を撮ります。1時間ほど撮影してから、再び壬生車庫前へ。ますます人が増えて、しかも「市電をまもる会」が抗議集会を行うなど、騒乱状態のなか、21号系統の最終が出て行きます。この時、初めて「さようなら四条・千本・大宮線」のヘッドマークが登場します。続いて、23時10分発(所定)の1号乙系統がヘッドマーク付きで発車、壬生車庫付近では撮れないと判断して、千本三条へ移動して、最終をバルブ撮影。そのあと、運よく四条大宮から7乙の最終に乗り、四条堺町で下車、ここでもDRFCのメンバーと会い、所定23時40分発の四条線東行き最終となる、「臨」錦林車庫行きを、四条繁栄会が見送り行事、続いて西行き最終となる、壬生車庫で見送った1号乙系統が所定23時50分に通過します。混雑で堺町では不可能と判断、四条烏丸まで走って、安全地帯によじ上り、1号乙系統最終を撮ったのが、前号のトップ写真となります。祇園では何度もバルブ撮影を試みた。

今日も写真展に来られた方から、「四条線は急に廃止になったから、他線に比べて写真が少ない」との声を聞きました。私も、廃止が決まった1週間前から、急に撮り始め、最終日も、朝から晩まで追い回していたこと、やっと50年後に理解をした次第です。

千本三条でクルマのすき間からやっと最終電車をバルブ撮影、この付近で、近くにお住いの紫の1863さんが撮影されていて、勘秀峰さんともニアミスをしていたことが判明した。当時は縁もゆかりもない、他人同士、50年後のいま、四条線を語り合う時、不思議な縁を感じる。

 市電が走った街 京都を歩く 四条線③

廃止当日をしのぶ 〈特別版〉 ①

今日が四条・千本。大宮線の廃止から丸50年、廃止反対の世論の絶頂期で、他線の廃止とは様相の異なる最終日となった。「さよなら」のマークは、最終電車のみに取り付け、私は最後の1号乙系統を、四条烏丸西行きの安全地帯によじ上って迎えた。時に昭和46年1月22日23時50分だった。

50年前の様子は、見つかった日記からよみがえった。7時30分に起きて、自転車で祇園へ行き、四条通や一力茶屋を入れて撮影、市電は乗客で一杯で、果たして明日から代替バスで輸送できるのか案じられた。

今日も写真展受付のため、朝、四条通を急いでいると、当会の勘秀峰さんとばったり出会い、話しながら写真展会場に向かっていますと「四条線がなくなって、今日で丸50年ですよ」と聞きました。私も漠然とは意識していたのですが、今日がその日とは初めて知りました。しかも、50年前も同じ土曜日だったと聞き、巡り合わせにびっくりしました。二人で会場に着くと、もうお二人が写真を熱心に見学中です。“いよっ”と挨拶されたのは‥‥。

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線②

祇園〈2〉 ブランドナンバー「1」

前回〈1〉で、四条線を走っていた1系統は、文字どおりのファーストナンバーと記しました。衹園-百万遍-千本今出川-四条大宮-衹園と市内中心部を循環する系統でした。ほかの都市を見ても、東京都電では、品川駅前と上野駅前を結び、銀座通を貫通する系統が1系統であり、大阪市電でも、阿部野橋から四つ橋筋を通り大阪駅前に至り、堺筋を通って阿部野橋へ戻る都心の循環系統もやはり1系統で、「1」は、都市を代表する系統とも言えるでしょう。しかも京都の場合、壬生車庫の系統板の地色は赤で、ほかの車庫の系統板ように、車体色に同化する色ではなく、ひと目でそれと分かる鮮やかな色は、なおさら存在感がありました。ただ私の場合、1系統の循環コースのほぼ中央に住まいしていたので、ふだんの生活のなかで乗車する機会は、ほとんどありませんでした。

今回は、1系統に限定して、しかも四条線の廃止で、消えてしまった車両を集めてみました。こうして見ると、車両だけでなく、並走するバス、撮影のジャマをしたクルマまでも、50年前ならではの価値があります。

1600形ワンマンカーに改造されずに残った、戦前製の600形が4両いたが、四条線の廃止で廃車となった。最後は錦林車庫だったが、撮影時は壬生車庫で、「1」を付けて祇園石段下を曲がっていくのは、須田寬さんも絶賛された“青電”の雰囲気をよく伝えていた(以下、昭和43年5月)。

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 市電が走った街 京都を歩く 四条線①

祇園〈1〉  Gion

新春の「祇園」と言えば、八坂神社の初詣風景しかない。しかし四条線のあった昭和47(1972)年までの初詣風景はなく、やむを得ず、東山線時代の初詣風景で代用。

年が改まって、もう二週間。気を入れ直して、掲示板投稿に励み、日常の記憶を綴っていきます。さて、京都市電の四条・大宮・千本線が廃止されたのが、昭和47(1972)年1月23日で、まもなく廃止50年を迎えることになります。昨年末も、50年絡みの話題を採り上げ、それ以前にも、本欄で廃止後50年の伏見・稲荷線を特集したばかりと思っていたら、もうつぎの四条・千本・大宮線が控えているわけですね。やはり、50年前の昭和40年代は、激動が続いていたことの証だと思います。ことしも「50年前」から始めたいと思いますが、四条・千本・大宮線は、距離も長く、停留所も多くあって、一挙にとは行きません。まずは祇園~四条大宮の四条線として、「祇園」から始めて行くことにします。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -12-

梅小路に集まった蒸機18両

50年前の京都で、もうひとつ忘れられない出来事がありました。梅小路機関区で、昭和46年11月24日に、国鉄百年の記念映画「蒸気機関車-その百年」のファーストシーンの撮影が行われ、全形式の現役蒸機18両が、一時的に梅小路へ有火または無火で回送、集められたのです。翌昭和47年10月には、梅小路蒸気機関車館が開館し、再び保存・動態蒸機が集められます。そのメンバーと重複する蒸機もありますが、あくまで現役のため、異なる蒸機も集められました。

以前に本欄で、このことを掲載したところ、「立ち入り禁止で写せなかった。うらやましい」とか、「極秘に進められたのに、どうやって知ったんや」とか、いろいろな意見をもらいました。実は、どう情報を知り得たのか、全く記憶に残っていませんでしたが、最近、片付けのなかで当時の日記が見つかり、日々の動きがよく分かりました。情報の入手先は、ふたつあって、ひとつは、M模型へ行った時に「もうじき梅小路に蒸機が来るらしいで」と店主から聞かせてもらったこと。そして、決定的だったのは、同年11月18日に、国鉄に就職された、2年先輩のGさんが、午前にBOXへ来訪されて、「梅小路にC622が来とるぞ」と知らせてもらったことでした。“それっ”と午後に、数人で梅小路に出かけました。この時はカメラの持参はなく、見ただけで終わっていますが、C622をはじめ、9633、C551、C59164、D612が来ていて、日記には、「一回で小樽築港、旭川、糸崎へ来た気分」と書かれています。その翌日、10時に改めて十数人で梅小路に集結、平日午前のため、小中学生も見られず、自由に撮影できたのでした。授業は、どうしたんやと聞かれそうですが、学校は、学費値上げに端を発した紛争が再度起こって、キャンパスは校舎が封鎖中、授業に行きたくても行けず、のびのびと撮影に専念できたのでした。これも、50年前らしい背景でした。

梅小路で再会したC62 2、函館本線で見たのは、この3ヵ月前だった。まさか、京都で見られるとは、夢を見ているようだった。撮影した午前は光線もバッチリ、ロッドも下りて、撮影に良好な状態だった。下の表を見ると、11月16日に到着、撮影後、ただちに返却されているので、梅小路にいたのは8日間だけだった。

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瀬野八 脱線事故

今年最後の投稿は新聞記事の転載となりました。去る28日(火)20:35頃瀬野・八本松間で上り貨物列車が脱線し、29日、30日と上下線は運休し、どうやら31日午後から運転再開となる見込みです。まずは昨日30日の記事から。

令和3年12月30日 中国新聞朝刊

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -11-

京都駅1番ホームのC575

年末の連投、失礼します。50年前の昭和46年と言えば、初回にも書きましたが、山陰本線からC57の牽く列車が消えたことが特筆されます。それが4月26日のこと、その後、1ヵ月もしないうちに、サプライズが待ち受けていました。C57が重連で、京都~姫路を往復する臨時列車「青葉の姫路城と蒸気の旅」の牽引でした。京都~大阪では、前年にC57 5牽引の丹後山田行の列車が走っていますが、今度は姫路までの運転、しかもC57が重連で牽くというもの。牽引に当たったのは、人気絶頂のC575が先頭、C5739が次位で、山陰本線の牽引を終えても梅小路に籍があり、このあと、豊岡区などへ転属するまでの間、“SLブーム”に乗っかった、ひと稼ぎと言ったところでした。

C57重連の牽く「蒸気の旅」は、昭和46年5月23日からの土日、6月27日までの計10日間運転された。梅小路から単機で回送されたC57重連が、京都駅1番ホーム横で待機する。もう見られないと思っていたC57の流麗な姿が、京都駅でよみがえった。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -10-

羽後交通 雄勝線を訪ねる

阿仁合線合宿のあと、奥羽本線を南下し、湯沢から分岐する羽後交通雄勝線(湯沢~西馬音内)を訪ねています。当時、奥羽本線沿いでは、横手から分岐していた横荘線が前月の昭和46年7月に廃止になったばかり、これから行く雄勝線の廃止も噂されていて、先手を打っての訪問となりました。雄勝線は、雄勝鉄道によって湯沢~西馬音内~梺の11.7キロが昭和10年に全通、昭和27年に社名が羽後交通雄勝線になり、電気鉄道としてポール電車が客貨混合列車を牽いていました。昭和42年に西馬音内~梺が廃止、湯沢~西馬音内に短縮。横荘線が廃止され、余剰車のDCが雄勝線に移動し、内燃動力に切り換えられたばかりでした。阿仁合線合宿を終えて、湯沢から13時30分発の羽後交通キハ3に乗車して、35分で終点の西馬音内に着いた。以前、趣味誌に「“にしもない”は“なにもない”ところだった」と洒落が載っていたが、どうしてどうして結構な賑わいだった。駅前はまさに昭和そのものの風景で、鴟尾のような屋根飾りを付けた木造の二階建て駅舎、バイクや自転車に乗って集まった来た若者、駅前広場は未舗装、そして、何よりチラリと見えるバスは、ボンネットバスではないか、写している時は、バスに興味も無く、全く気づいていないが、その端部から、いすゞBXD30のようだ。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -9-

夏の狂化合宿先、阿仁合線荒瀬の朝

50年前の夏休み、恒例の“夏の狂化合宿”は、7月に飯田線温田、8月に阿仁合線荒瀬で行われています。私は阿仁合線2泊3日のキャンプに参加し、そのあと、東北各地をメンバーとともに回りました。阿仁合線という、何の特徴もない線区で合宿が行われてたのか、「青信号」27号の旅行記を見ても理由は不明です。阿仁合線始発の鷹ノ巣で食糧を仕入れ、リュックを担いでキャンプ予定地の荒瀬に着いたものの、夕立に見舞われて、キャンプ地は水浸し、急遽、駅前にあった公民館に頼み込み込んで、一泊させてもらい、畳の上で寝て、本当のキャンプは翌日一日だけで、昼間は阿仁合線を写しまわっています。とくに「上杉」という駅は、文字どおり杉林の中を突き切っていて、印象に残り、翌年一人でもう一度訪問したほどでした。阿仁合線は一日旅客が9往復、当時は多く見られた典型的なローカル線、そのなかの荒瀬は、沿線の中心の阿仁合から、ひと駅、終点の比立内へ行ったところにあり、今から見ると、朝のラッシュ時には、信じられないほどの乗降がありました。地方のローカル線の当たり前の風景でした。阿仁合線参加のメンバー

奥羽本線鷹ノ巣から分岐する阿仁合線(現・秋田内陸縦貫鉄道)、当時はC11が一部の旅客、貨物を牽く、ごく当たり前のローカル線だった。この地が、当会の栄えある、狂化合宿の地に選ばれた。乗り降りしたのは「荒瀬」、どこにでもある棒線一本、ホーム一面の無人駅だった。特に朝の時間帯、驚くほどの乗降があった。“日本三大美人”の地らしい雰囲気も漂う(昭和46年8月)。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -8-

一度だけの名古屋市電

前回の「名松線」で誤記がありました。均一周遊券の名称は「南紀」ではなく、「南近畿」でした。また発売は、周遊地に至近な京都・大阪からの発売はなく、名古屋の発売でした。どうやら名古屋に住んでいた知人に頼んで購入したようです。さて、その「南近畿」の帰りに、名古屋へ寄っています。周遊地までのルートは、幾通りもあって、たとえば名古屋からは、関西本線だけでなく、東海道線-京都-奈良線でもいいし、東海道線-大阪-阪和線でもOKという選択自由なものでした。いまの「おトクなきっぷ」のように、二人以上とか一週間前購入とか、制約ばかりではなく、なんともおおらかな切符ではありました。

さて、その名古屋駅前で市電を2枚だけ撮りました。あと名古屋の市電は、別の日に乗換えの間に撮った数枚だけ、それ以外に撮ったことはなく、私としては貴重なシーンとなりました。

名古屋駅前の特徴のひとつ、ロータリーに掛かる11系統の1800型。名古屋と京都をざっと比較すると、最盛期の総延長は、名古屋106キロ、京都67キロ、路線長では京都の1.5倍以上、最盛期の車両数では名古屋422両、京都357両(トロバス除く)で、それほど差がないのは、京都が稠密な輸送を行っていたせいだろうか。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -7-

今年の行事先の50年前(2) 名松線今昔

クローバー会の行事先の今昔、続けます。12月12日には、名松線の乗り歩き会に参加して来ました。“歩き”はほとんどなく“乗り”が目的で、列車に乗って終点まで行き、すぐ折り返して来るだけですが、みんなでクロスシートに座って、松阪駅名物の駅弁を食べながら、景色を眺めたり、ダベったりと、ただ乗っているだけが、この時期、こんなにも楽しいことかと思いました。

50年前の昭和46年にも、一人で名松線を訪れたことがあります。この時は、南紀均一周遊券で回った時でした。九州・北海道の均一周遊券は何度か使用したことはあるものの、南紀均一周遊券はこの時だけでした。紀勢本線に夜行の鈍行が走っていて、参宮線・紀勢線東部で写したあと、夜行に乗って次の日は紀勢線西部・和歌山線に行くなど、狭い範囲でも有効な使い方ができたのでした。終点、伊勢奥津、交換駅の家城での、ほぼほぼ定点対比です。50年前の名松線の終点、伊勢奥津駅、松阪14:47発429Dに乗って、伊勢奥津に16:06に着いた。島式ホームに、使われていない貨物ホームもあった。C11の時代に使われていた給水塔が印象的だった(昭和46年7月)。10日前の伊勢奥津駅、構内は棒線駅になるなど単純化されたが、給水塔がそのまま残っていた。 続きを読む

 五十年前に見た 当たり前の風景  -6-

伊賀上野で、国鉄「柳生号」のキハ35系と並ぶ、当時の近鉄伊賀線のモニ5182 (旧)伊賀鉄道が電化して伊賀電鉄となった大正15年に、デハ1~6として製造された荷物室付きの半鋼製。デハニ1~6と改番され、関西急行鉄道(関急)発足時にモニ5181形5181~5186に改番、近鉄に引き継がれた。(旧)伊賀鉄道の出自で、長らく伊賀線の主として住みついたが、昭和52年に廃車となった(以下、昭和46年5月)。

今年の行事先の50年前(1)

今年もあと10日ほどになり、クローバー会の活動の振り返りとして、最近実施された行事先の50年前を見ていきます。中止されたホームカミングデーの代替行事として、ことしは11月7日に伊賀鉄道で貸切列車を運転しました。現役生も参加して、久しぶりの大人数の行事となりました。東急のオリジナル塗装車を充当していただき、途中駅での停車時間も長く、たっぷり撮影を楽しむことができました。

近鉄時代の伊賀線には、さまざまな出自の個性的な車両がいて、数年ごとに、あらたな転入車両と入れ替わっていて、撮影年代も推察できたものです。ちょうど50年前にも、国鉄と接続する伊賀上野周辺で撮っていました。と言っても、主目的は、伊賀線ではなく、その年に放映のNHK大河ドラマ「春の坂道」の舞台となった柳生への観光客の輸送、また折からの“SLブーム”に乗じて運転された「SL柳生号」(当時の愛称は「汽車ポッポ柳生号」)を撮影するためでした。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -5-

二条駅を偲ぶ(2)

鈴なりの旧二条通踏切の陸橋、土日ともなると近所の小中学生で一杯になった。

先述の旧二条踏切には、鉄骨造りの横断陸橋がありました。本線の列車だけでなく、貨車の入換で踏切の遮断時間も長く、歩行者用の陸橋が設けられたのでしょう。ここから見下ろすと、二条駅を発車した下り列車がカーブを曲がってやって来るシーンが撮れました。もちろん周囲の街並みも、下にいる撮影者も入りますが、逆に時代の証言にもなりました。京都市内では、いちばん手軽に撮影できるところで、蒸機が姿を消すようになると、どんどん撮影者が集まって来ました(昭和46年4月)。

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 五十年前に見た 当たり前の風景  -4-

二条駅を偲ぶ(1)二条駅の北にある旧二条通の踏切から、駅構内に入って、発車する下り列車を撮ることができた。列車は、日曜日の夕方17時10分発の1827レ、日曜日に運休する列車の牽引機を、翌日月曜日に使用のため、次位に回送として連結して、重連で二条を発車するところ、先頭は、梅小路C57のなかで、絶対的な人気のC57 5、次位は煙で隠れてしまった。右手に広い貨物ヤードが広がっていて、ガスタンクも見えていた。左手にも引込線があり、ここは自動車の貨車輸送の積み卸し場で、「ク」が停車している(昭和46年1月)。

山陰本線ほど変貌を遂げた線区も珍しいと思います。50年前は非電化単線、一時間に一本程度、旧型客車やDCが侘しく走っていたものが、今や、複線電化、15分ヘッドで電車が走る、都市近郊路線になりました。前回の馬堀付近も新線、駅移転とすっかり変わりましたが、今回の二条駅周辺も、高架化、付近も再開発されて、劇的に変わったところです。馬堀へ行くにも、市内に住んでいた当時は、二条駅で乗り降りしたもので馴染み深い駅でした。時には、学校を終えて(サボって)、1系統の市電に乗って二条駅まで行ったこともありました。明治37年建築、和風の駅舎も風情がありましたが、ここでは、手軽な撮影地としての二条駅を見てみました。 続きを読む

 五十年前に見た 当たり前の風景  -3-


山陰本線のDL(2)

当時走っていた山陰本線のもうひとつのDL、DF50に参ります。当会にも、DF50信奉者がおられ、当欄でも拝見しています。私もDLのなかでは、いちばん好きというか、もっとも親近感を感じたDLでした。50年の前のもっと前、海水浴行きなどで山陰本線を利用すると、先頭が蒸機でなく、DF50だと、快適な旅が約束されて、ホッとしたものです。当時はまだ茶色の旧色の時代、ドドドッというエンジン音を聞きながら、紫煙の匂いを嗅ぎながら、五感で鉄道が近代化へ向かって行くのを感じたものでした。嵯峨野の竹林を抜けて1826レ DF50 559 (昭和46年4月)

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 嵐山で ひととき鉄気分

割り込み失礼します。冬の京都の誘客策として、各地域で行われた夜間のライトアップ事業ですが、一定の効果があったとして、今年限りでの終了がアナウンスされています。このなかで、17年の歴史を持つ「京都嵐山花灯路」も幕を下ろすことになり、去る12月10日から行われています。観光客相手のイベントには、ほとんど関心が無かったのですが、“今年で終わり”の声には勝てず、とうとう見届けに行ってきました。それを後押ししたのは、京都市民になって手に入れた待望の敬老乗車証、コレを使うと、乗り換えなしの一系統で現地まで到着できる、スグレモノです。ほんとに便利になったものです。さて、点灯開始の頃に着くと、渡月橋付近は多くの人で賑わっています。背後の山までライトアップされて、これはこれで、なかなかのモンです。しかし、ここでも“鉄”の血が騒ぎます。ここから、ちょっと横道に入ってみますと‥。

嵐電嵐山駅は、常設の電照ポール「光の林」があって、ここも見物客でにぎわっている。東側の踏切前から発車前の嵐電を。

▲▲山陰本線の野々宮踏切へ行くと、ラッシュ時の複線に、上下の特急、普通が来て、4本待ちとなった。見物客の列がたちまちできる。開くまでの間、名残の紅葉を入れて‥。