今年の行事先の50年前(2) 名松線今昔
クローバー会の行事先の今昔、続けます。12月12日には、名松線の乗り歩き会に参加して来ました。“歩き”はほとんどなく“乗り”が目的で、列車に乗って終点まで行き、すぐ折り返して来るだけですが、みんなでクロスシートに座って、松阪駅名物の駅弁を食べながら、景色を眺めたり、ダベったりと、ただ乗っているだけが、この時期、こんなにも楽しいことかと思いました。
50年前の昭和46年にも、一人で名松線を訪れたことがあります。この時は、南紀均一周遊券で回った時でした。九州・北海道の均一周遊券は何度か使用したことはあるものの、南紀均一周遊券はこの時だけでした。紀勢本線に夜行の鈍行が走っていて、参宮線・紀勢線東部で写したあと、夜行に乗って次の日は紀勢線西部・和歌山線に行くなど、狭い範囲でも有効な使い方ができたのでした。終点、伊勢奥津、交換駅の家城での、ほぼほぼ定点対比です。▲50年前の名松線の終点、伊勢奥津駅、松阪14:47発429Dに乗って、伊勢奥津に16:06に着いた。島式ホームに、使われていない貨物ホームもあった。C11の時代に使われていた給水塔が印象的だった(昭和46年7月)。▲10日前の伊勢奥津駅、構内は棒線駅になるなど単純化されたが、給水塔がそのまま残っていた。
▲腕木信号機も健在だった。▲▲いまは愛想のない棒線駅に(撮影方向は異なる)。
▲駅名標の今昔。次駅の空白が目立つ旧標のほうが、いかにも終着駅らしい。
▲駅舎の今昔、今の駅舎も木造だが、駅構内の再開発時に建て直されたようだ。
▲50年前のキハ20、松阪発車時はキハ20463+キハ3044の2連だったが、家城でキハ30が解結されて、伊勢奥津に着いた時は単行になっていた。本数は一日9往復だった。
▲ホームに停車中の412C、キハ11306、折返し時間はわずか9分しかなく、忙しい。
▲50年前も途中の家城が唯一の交換可能駅だった。キハ3044+キハ20229と交換。近くの高校生の乗り降りが多かった。▲いまも家城で上下が交換、いずれの列車も10数分の停車で交換シーンが撮影でき、貴重なスタフの交換も見られる。
名松線をどんなふうに楽しんだら良いのか。3セクにもならず青春切符で乗れる貴重な維持されて残る現代の超ローカル線です。
私は近年は松阪駅で気を吐く老舗の駅弁業の方と知りあいになり、マスコミ露出が命のそこの奮闘も知り応援しつつ、本来の伊勢の旅の楽しみの味わい度を広げられないかと思います。
伊勢奥津の町は、本来はお伊勢参りの道中の途中宿場で、今でも駅から歩くと多くの昔の旅籠の家屋が残っているのに驚きます。
名張も近鉄大阪線のイメージが強過ぎるけれど、最初に出来た路線は関西本線から伊賀鉄道初代が上野市を通り西名張まで伸びた線が先でした。
バスで伊勢奥津ー名張を乗車したことも何度かありますが、広い意味での伊勢参りに名松線を包括して、出来れば伊勢奥津で篠山の福住みたいなゲストハウスが復活して一泊できれば、乗り鉄に留まらない旅が楽しめそうな気が致します。
写真は国鉄時代、昭和60年3月撮影
KH生さま
伊勢奥津の思い出、ありがとうございます。50年前と比べて、駅は縮小されていますが、駅横には、観光案内所があり、なかで物販もあり、近くには宿場町の街並みも見られるようです。ところが、肝心の名松線の折返し時間が9分しかありません。駅の写真を撮って、トイレへ行くと、もう時間がありません。名張からのバスも無くなり、公共交通で伊勢奥津の観光は不可能です。せっかく災害から立ち直って復旧した名松線です。JRも協力して、せめて30分程度の折返し時間は確保すべきと思います。クルマ一辺倒の観光振興は、いずれダメになると思います。
総本家青信号特派員殿
折り返しが9分では全く余裕がありませんね。私が平成29年5月11日に訪ねた際には、11:02に着いて11:30に発車と28分ありましたので、駆け足ながら駅周辺を見て回る時間がありました。冒頭の50年前の写真右手、クルマの向こうに瓦屋根の平屋が写っていますが、この建物は日通の事務所で、改装はされていますが残っていました。ご丁寧に「元日通跡」という小さな看板もありました。
西村様
写真、ありがとうございます。行った時もこの建物はありましたが、「元日通跡」は見つけられませんでした。地方の駅前には、必ず日通がありました。昔の街並みを観光資源にしようとすると、近現代の建物として、日通は必須なのかも知れませんね。時刻表を見ると西村さんが乗られた11:02着は、いまでも28分停車ですから、余裕があるのですね。
名松線の誘客キャンペーン(?)として眼を見張ったのが、各駅ごとに制作された女子高生をモデルにしたポスターです。写真の質やキャッチも秀逸で、老人には刺激的なポスターでした。