五十年前に見た 当たり前の風景  -6-

伊賀上野で、国鉄「柳生号」のキハ35系と並ぶ、当時の近鉄伊賀線のモニ5182 (旧)伊賀鉄道が電化して伊賀電鉄となった大正15年に、デハ1~6として製造された荷物室付きの半鋼製。デハニ1~6と改番され、関西急行鉄道(関急)発足時にモニ5181形5181~5186に改番、近鉄に引き継がれた。(旧)伊賀鉄道の出自で、長らく伊賀線の主として住みついたが、昭和52年に廃車となった(以下、昭和46年5月)。

今年の行事先の50年前(1)

今年もあと10日ほどになり、クローバー会の活動の振り返りとして、最近実施された行事先の50年前を見ていきます。中止されたホームカミングデーの代替行事として、ことしは11月7日に伊賀鉄道で貸切列車を運転しました。現役生も参加して、久しぶりの大人数の行事となりました。東急のオリジナル塗装車を充当していただき、途中駅での停車時間も長く、たっぷり撮影を楽しむことができました。

近鉄時代の伊賀線には、さまざまな出自の個性的な車両がいて、数年ごとに、あらたな転入車両と入れ替わっていて、撮影年代も推察できたものです。ちょうど50年前にも、国鉄と接続する伊賀上野周辺で撮っていました。と言っても、主目的は、伊賀線ではなく、その年に放映のNHK大河ドラマ「春の坂道」の舞台となった柳生への観光客の輸送、また折からの“SLブーム”に乗じて運転された「SL柳生号」(当時の愛称は「汽車ポッポ柳生号」)を撮影するためでした。

モ5252 信貴山の上を走っていた信貴山電鉄が昭和5年に製造した。前身はデ5~7で、戦争期の不要不急路線として休止になり、関西急行鉄道に合併して、モ5161、5162となった(1両廃車)。窓上にRが付いたニコニコ電車、信貴山へも昨年暮れのクローバー会行事で上ったことがある。昭和21年に伊賀線に移り、昭和52年に廃車。向こうに下り「柳生号」で到着した12系客車が見える。伊賀上野の次駅、新居に停車するモニ6201 伊勢電鉄が昭和3年にモハニ201・211として製造した。関急改番でモニ6201・6202に。かつては窓に半月型の飾り窓があった伊勢電タイプだった。名古屋線改軌で昭和34年に養老線へ、昭和36年に伊賀線に転属、撮影後の昭和49年にモニ5201・5202と改番されて、昭和52年に廃車された。最後に本当の目的、下り「汽車ポッポ柳生4号」を撮影する(写真は下り貨物列車)。伊賀上野16:08発、天王寺17:58着で運転された。ほかにも、柳生の里への最寄り駅、笠置を発着するDCにも、冒頭写真のように「柳生号」のヘッドマークが取り付けられた。

 

 

 

 

 五十年前に見た 当たり前の風景  -6-」への11件のフィードバック

  1. 近鉄近鉄伊賀線は、貨物営業を行っており、電気機関車がありました。
    昭和47年10月15日、上野市駅、デ8です。
    伊賀線の前身、大正15年5月、1500V電化時に川崎造船で新製された20t電機で、2両(デ1、2→近鉄デ8、9)在籍していましたが、デ9は昭和42年9月、デ8は50年9月に廃車になりました。

    • 藤本様
      写真、ありがとうございます。10年以上前になりますが、「近鉄電車」の本を編集する時、藤本さん、INUBUSEさんから、多数の写真を提供いただきました。とくに、養老線、伊賀線の転入車の記録は、圧倒的で、あらためて、現役の時からこまめに通っておられたことを感じました。あの近鉄本は、いまでもバイブルになっています。

  2. 伊賀上野には「汽車ポッポ柳生号」を目当てに、何度も行きました。竜華区のD51 452が6両の12系客車を牽引していましたが、一度だけ43系の時もありました。11月のお別れ運転ではD51 172とコンビを組んで、重連になりました。伊賀上野では発車のずいぶん前からD51がホームに据え付けられ、ゆっくりと撮影できました。
    乗客は親子連れが多く、小学生がカメラを手に撮影する姿もよく見ました。乗務員もサービスに努め、運転室に乗せてあげたり、記念撮影に応じる姿も見られ、ほのぼのとした雰囲気を感じたものです。昭和46年は「SLブーム」の最中で、大河ドラマにあやかった天鉄局の商魂を批判する向きもありましたが、マニアではない普通の子供たちが蒸気機関車に親しめた列車だったと考えています。私は柳生号の赤いヘッドマークが、今もまぶたに焼き付いています。
    何度も行った伊賀上野ですが、赤い近鉄電車には目もくれませんでした。当時の私はSLマニアの中学生で、モッサイ田舎電車に興味はありませんでした。いつも柳生号を見に来ていた地元のイガグリ頭の中学生と顔なじみになり、忍者屋敷へ連れて行った貰った時に、乗った電車がモニ5181でした。荷物室は撤去されていたように思うのですが、おぼろげな記憶で確信が持てません。
    子供たちに囲まれる人気者のD51の傍らで、いつもと同じように黙々と働いていた伊賀線の電車こそ、「当たり前の風景」でしたね。

    • そのD51 452が大阪環状線の貨物列車を牽引して天王寺に入ってきたところです。ハトが驚いて飛び立っています。向こうには南海電車がいて、D51には、これが普段の当たり前の風景でした。

      • 井原様
        写真、ありがとうございます。天王寺でも、D51が当たり前に通過していたのですね。私は、天王寺でD51は見たことがありませんが、ハトだけは、いつ行ってもホームにいて、フンにまみれていました。いまは鳩害対策もされたせいか、どの駅でも、ハトを見かけることはなくなりました。

    • 紫の1863さま
      美しい写真を添えていただき、ありがとうございます。オレンジ地色のヘッドマークは、特急「ゆうづる」にも通じる、蒸機によく似合うカラーですね。「柳生号」は、年度によって愛称が変わりましたが、“汽車ポッポ”は、いかにもSLブームの始まりを感じさせますね。私も伊賀上野で感じたのは、赤茶色の地味な電車には、ほとんど興味がなく、暇つぶしにイヤイヤ撮ったようなものですが、それが、まさに“当たり前だけれど貴重な写真”になりました。

  3. 貴重な写真をありがとうございます。
    初訪問時、5181他の魅力的な電車やSL、電機は既にいませんでしたが、まだ関西線の貨物営業はありました。1枚目の写真を拝見し、貨車とからめた写真を撮っておくべきであったと今になって思います。

    • 宇都家さま
      写真、ありがとうございます。私にとっては名古屋線のモ6311の前パン姿のほうが、ずっと魅力的です。近鉄に縁の少なかった私にとっては、端正な関急電車は憧れでした。伊賀線では、まもなく860系と交代していて、それほど長くは活躍していなかったと思います。

  4. 私は伊賀線の電車と一緒に写すという発想がありませんでした。今は猛烈に後悔しております。
    「汽車ポッポ柳生号」が走った翌年、久しぶりに伊賀上野に降り立ちましたが、この一枚を撮っただけでした。
    昭和47年11月の撮影です。

    • 紫の1863さま
      写真、ありがとうございます。横にいるのは5252ですね。D51と並んで時代を感じます。私も目当ての車両を撮る場合、まず目当ての車両がいちばん美しく見える角度を探して撮ります。いちばん美しいためには、周囲の車両、人物などは徹底して排除します。そのあと、時代を記録するために、逆に周囲を入れて、目当ての車両は、その一員として入れます。この二段構えの撮影が、時間が経過すると、奏功すると思います。

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