五十年前に見た 当たり前の風景  -2-

山陰本線のDL(1)

ギラリのDD54 2が862レを牽いて馬堀の築堤を行く。DD54一次車特有の特徴あるフォルムが浮かび上がる。50年前の山陰本線のDLは、あのDD51は、まだ一両も入線しておらず、DD54、DF50という、今も関心の高い両機が、旅客、貨物の牽引を担っていた(写真は昭和46年1~4月撮影)。

今から50年前の昭和46年には、京都周辺の鉄道で、二つの大きな出来事がありました。ひとつは、北丹鉄道(福知山~河守)の休止(のちに廃止)であり、もうひとつは山陰本線京都~園部を走っていた、梅小路区のC57の廃止、DL置き換えです。いずれも、DRFCでは、行事を行って見送りをしています。当時の山陰本線の客車列車・貨物列車は、蒸機牽引のC57より、DD54・DF50のDLが多かったものの、どしても眼はC57に向いていました。DLは撮っていたものの、顧みることはほとんどありませんでした。そこで、当時の山陰本線の“当たり前”だった、DLの牽くシーンをまず見てもらいます。

続きを読む

 「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅶ-

貨物を牽いたD52・D62

大カーブを終えて、直線で山科駅に向かうところに、三条通(当時、国道1号)を越すガーダー橋があり、アクセントとなっていた。眼前をゆっくりとD52 203の牽く貨物が通り過ぎる。戦後の荒廃も癒えて、貨物機と言えど、美しく整備されていた。よく見ると、同機にも集煙装置が取り付けられていることが分かる。

佐竹さんに好きな蒸機は? と聞くと、意外にも「D52です」と返事があったことは、準特急さんからの投稿からも伺えます。今回の写真展で、その気持ちが理解できたような気がします。昭和30年代の山科の主役は、C62・C59でもなく、貨物を牽いていたD52・D62であったこと、その当時に撮影した人間でしか分からない実感だったと思います。なにせ、戦後、高度成長の端緒に付いた時代、鉄道の貨物量は、現在とは比較もできないぐらい膨大なものでした。資料を見ますと、昭和31年の鉄道の貨物輸送量は約18,000万トン、現在では4,000~4,500万トンですから、ざっと4倍の貨物量があったわけで、とくに、天下の東海道本線には貨物が集中していたのでしょう。

続きを読む

 「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅵ-

集煙装置を付けたC62

上り「はと」を牽くC62 42 向こうに山科駅が見える(昭和30年5月)。

「これは初めて見ました」と、撮られた佐竹さん自身もまだ気づいておられなかった写真も数点展示しました。上掲の写真もそうです。撮影場所は、山科駅の少し東、大築堤で撮られた写真は数多いのですが、山科駅が入った写真はほとんどありません。いつも完璧性を追求される佐竹さんらしい撮影場所の選択ですが、写真展の場合は、流れの変化と、撮影場所を明確に伝えるという観点から、駅構内も必要と感じて加えることにしました。この写真から、山科駅は二面四線の典型的な国鉄駅の構造だったことも分かります。そして、注目すべきは、C62 42の煙突回り、ヘンなものを付けています。これこそ、C62に唯一取り付けられた集煙装置なのです。

続きを読む

 「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅴ-

ハチロク補機

逢坂山トンネルの西口付近、貨物列車を押し上げるハチロク補機、本務のD62は、もうトンネルに入っている。撒いた砂のため、道床は白くなっている。上りの重量貨物列車は、梅小路~膳所で補機の助けを借りて10‰勾配を上がって行った。

山科にハチロクとは、ちょっと違和感がありますが、写真展では数点を展示しました。このハチロクは、1200tの重量貨物列車の後部補機として、梅小路~膳所の上り貨物で運用されていました。佐竹さんが最初に山科で撮った昭和23年には、なんと補機にC53が使われていたということですが、まもなくハチロクに置き換えられました。

続きを読む

 「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅳ-

蒸機同士の併走

貨物列車を牽くC51が必死に逃げる。それを追うのは、C6235の牽く特急「はと」。たいへん珍しい蒸機の併走が山科で見られた。昭和31年1月

いまの山科は複々線、つまり4線化されていますが、写真展の時代は3線で、外側2線は上り線、内側1線は下り線でした。これは、太平洋戦争前、とくに貨物輸送の増大で、線路容量が逼迫したため、昭和19年12月に上り線が2線化されたものです。大津方に10‰の連続勾配が続き、とくに輸送力貨物列車は極端に速度が遅く、後部に補機を付けても、梅小路~大津が30分も掛かったと言います。特急・急行の優等列車では京都~大津10分ほどですから、本数の増加は困難な状態でした。そこで緩急分離を目的に2線化されたものです。外線を貨物、中線を特急などの旅客に分離されることが多かったようですが、この写真のように逆のケースもあり、適宜。使い分けしていたようです。

続きを読む

 「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅲ-

重油で走ったC59

写真展では、山科の大カーブを行く定番の構図だけでなく、変化をつけるため、ロング、俯瞰など、さまざまな写真を並べました。斜め後部、やや俯瞰で撮ったC59も選びました。背後に山科の“里”が入っていて、いまの山科と比較できるのも選んだ理由の一つですが、このC59だけに見られる特徴のある角度なのです。キャプションに触れておきましたが、気づいてもらえるだろうかという思いがありました。ところが、その写真に近づくなり、「これは重油専燃機じゃないですか!」と、ずばり看破された方がおられたのです。その方こそ、“SL好きの国会議員”のMさんでした。C59のテンダー上に見える重油タンクをしっかり見ておられたのです。東山トンネルを出て、山科の“里”を走る週末準急「ゆのくに」を牽くC59127 煙突からは煙が出ていない。“ゴォー”と言うドラフト音だけが響いていた。山科では、「つばめ」「はと」「さくら」「鳥羽快速」、それに「ゆのくに」がいちばん早かったと佐竹さんは述懐されている。

続きを読む

 「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅱ-

今回から、個別の写真について、“あれこれ”述べてみましょう。写真展の場合、展示する写真候補のなかから、ポスター、はがき、雑誌告知などの事前の案内用として、リリース写真として選ぶことになります。写真展の内容を端的に表す、シンボリックな写真となる訳ですが、どの写真にするか‥‥、普通なら例の「雪のC622つばめ」でしょう。ところが、前回に述べたように、このネガも所在が不明なのです。以前にネガがあった時に、スキャンしたデータを取っていたものの、今回、門司鉄道記念館で作ってもらったビッグサイズの写真も再展示することになり、競合は避けて、新規の写真がふさわしいとなりました。C6230「つばめ」でリリース原稿を作成

▲▲雪の日のC622「つばめ」は文句ない写真だが‥‥。 続きを読む

 「わが“やましな”の記憶」 あれこれ話 -Ⅰ-

11月11日(木)から開催していました、佐竹保雄写真展「わが“やましな”の記憶」、福田静二写真展「煙の旅 はるか」が終了してから2週間が経ちました。多くの皆さんに来場いただき、御礼や経過をデジ青で報告をと思いながらも、その間に、京都のほかの大学で講演があったりして、準備で忙しく、何も投稿できないまま2週間が経ってしまいました。それも終わって、やっとキーボードに向かうことができました。 写真展が行われた、ひとまち交流館京都

続きを読む

広島から小ネタ5題

まずはいつものように新聞記事から。広島カープは今年もBクラス。何とか4位に浮上したとは言え、鈴木誠也の大リーグ挑戦もあって、地元ファンには来季への不安がぬぐいきれない年末を迎えています。一方、芸備線や木次線の存続問題がメディアに取り上げられることも増えつつあります。気動車にラッピングを施しただけで乗客が増えるとは思えないのですが、芸備線、福塩北線を走るキハ120の1両にカープラッピング車が登場しました。

令和3年11月29日 中国新聞朝刊

続きを読む

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈16〉

晩秋の北陸鉄道白山下駅で

石川県下に多くの路線を張り巡らせていた北陸鉄道ですが、石川線加賀一の宮~白山下の金名線もその一つでした。「金」は金沢、「名」は名古屋であり、何とも大仰な線名ですが、免許区間は上記の区間だけで、「金名」はキャッチフレーズのようなものでした。その終点の白山下へ、加賀一の宮のユースに泊まって、朝6時45分に到着しました。土砂降りの雨のなかで降りたのはあと一人だけでした。文字どおり、白山の麓の駅で、シーズンには、登山客や温泉に向かう客で、ささやかながらも賑わいを見せることもありました。

白山下はホーム一面、機回し線一本の終端駅、電車は、金沢市内の野町まで直通していて、金名線、石川線は一体として扱われていた。駅の裏には、手取川の渓谷が見られる。その間の空き地に、バスが二台、うち一台は‥‥、これこそ、朝早くに白山下まで来た理由だった(昭和51年11月)。

続きを読む

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈15〉

秋の嵐山駅

この時期、秋も深まって来た頃の様子です。投稿画面に向かう時間が確保できませんが、“なりゆきまかせ”の趣旨に沿って、テーマもバラバラ、一枚でもいいので、継続して進めることを第一に考えます。

灯籠を模した照明が、京都の風情を増す晩秋の阪急嵐山駅。嵐山線が最後の居場所になった、2300系の運行標識板車が入線しました。時刻はまだ16時台ですが、晩秋の日暮れは早く、ライトを点灯させての入線です(実際は平成の撮影ですが、“昭和”のイメージとしています)。手前2352の2301F編成は、9300の増備による6300系の嵐山線転入により、平成17年に廃車になっている。その後も嵐山線へは、毎年のように秋の臨時列車を写しに行っているが、年々、運転期日や本数が減って来た。昨年のコロナ禍の時は、人流抑制から、ついに臨時列車はすべて中止された。ようやく明るさが見え始めた今年の秋、嵐山線に臨時列車は運転されるのだろうか。

私が接した3軸貨車

先に「私が接した3軸ボギーの客車たち」を投稿しましたところ、思いもかけず36件ものコメント、写真をご披露頂き感激しております。その36件の中に、洒落で米手様よりタサ659が紹介されました。これにヒントを得て、柳の下の2匹目のドゼウを狙うことに致します。とは言え、私が写真に収めている3軸貨車は2両しかありません。まずは米手様の後塵を拝してタサ660です。

タサ660

撮影場所は向日町駅か神足駅かと思います。タサ600形は600~662の63両が存在しましたが、653~662の10両は昭和28年にタラ1形32~41から改造されたグループでした。上の写真でタサの左側には3軸台車TR78を履いたタキが写っているのですが、そのタキの写真は撮っていません。米手様の659もこの660も「ヨンサントウ」を前にした昭和43年9月30日に廃車となっています。

続きを読む

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈14〉

国道電車 秋の甲子園線

正式には阪神電鉄併用軌道線、通称“国道電車”も、廃止されたのが昭和50(1975)年のことですから、もう46年前になります。ちょうど京都市電が毎年のように廃止になっている時期で、掛け持ちで何度も行って、京都では味わえない車窓風景を撮影したものです。機会に恵まれて、神戸在住の皆さんと本を造ることもできました。国道電車は、北大阪線、甲子園線、国道線の3線からなり、三線それぞれに特徴がありましたが、今回は、甲子園線に限定して、カラーを集めてみました。

向こうに改修前の甲子園球場がそびえる「阪神パーク前」の電停。その阪神パークとの間を“金魚鉢”の電車が過ぎて行く。ちょうど今ごろの季節で、阪神パークは、家族連れで大にぎわいだった。チープな着ぐるみ人形や焼き芋リヤカーも時代を語っている(昭和49年10月)。

続きを読む

私が接した3軸ボギーの客車たち

ここのところ、客車の食堂車や一畑のクハの話から、3軸ボギーの客車が話題になっていました。私も何とか参加しようと写真を探すのですが、残念ながら3軸ボギー客車とはほとんど接点がありません。米手様や井原様はじめ客車のオーソリティーの足元にも及びませんが、これが私の接した3軸ボギー客車のすべてです。まずは何といってもマイテ492です。

昭和62年10月4日 安土駅にて

続きを読む

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈13〉

モノクロ版 昭和の南海駅(2) 天下茶屋

続いて、打ち上げ会場となった天下茶屋付近です。西天下茶屋から会場へ向かう途中、天下茶屋駅の西側の商業施設を見て、同行の宇都家さんから「以前、ここには天下茶屋工場がありました」と聞かせてもらい、伝言板には、宇都家さんから当時の写真掲載がありました。その時、私は“餃子とピール”に集中するあまり、気が付きませんでしたが、現役時代に南海天下茶屋工場を見学したことがあり、後年、天王寺~天下茶屋の天王寺支線が廃止になる際に、天下茶屋付近で撮っていました。

地上線の南海本線と並走する天王寺支線の電車。新今宮付近の高架線から、本線は地上に降りると、東側から天王寺支線が寄り添ってきて、並走しながら天下茶屋へ至っていた。天王寺支線は、大阪鉄道(現・関西本線)との相互乗り入れを目的に、天下茶屋~天王寺が明治33年に開通した。その後、関西鉄道、国鉄になってからも接続路線として機能し、旅客だけでなく、貨物の乗り入れもあった。昭和41年に南海に新今宮駅ができると、旅客が激減、貨物も廃止になり、地下鉄堺筋線の延伸工事のため、部分廃止のあと平成5年に全廃となった(以下、昭和46年6月)。

続きを読む

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈12〉

モノクロ版 昭和の南海駅 (1)岸里玉出

先日、行われたクローバー会のイベント、南海汐見橋線の乗り歩きは、コロナ禍後の久しぶりの会合となりました。汐見橋線には何度か行ったことがあるものの、乗るだけの“線”移動に留まっていましたが、今回は、勘秀峰さんの企画で、市営の渡船に乗ったり、ディープな商店街を歩いたりと、“面”のツアーとなり、見識をあらたにしました。終ってからの“餃子にビール”も、たまりませんでした。今回は、モノクロ版となり、看板に偽りありですが、50年前の付近を復習しました。

集合地は、南海の岸里玉出駅。勘秀峰さん作成のミニメモをもらい、概要の説明を受けます。皆さんからは、いろいろな疑問が飛び交います。「岸里玉出って、長い駅名やなぁ」「なんで地下通路がこんな長いねん」、果ては「駅前へタコ焼き買いに行ったけど、休んどったでぇ」とか、さまざまな言葉が飛び交いました。

昭和の時代の岸里玉出駅、当時の岸ノ里駅、難波方面から入線する本線の電車を見ている。勘秀峰さんのミニメモのように、南海本線は地上線、汐見橋線を含む高野線は高架線で、両者は、斜めに交差していてホームは別々にあった。ガードに書かれているように、当時は駅名に「ノ」が入っていた。市営地下鉄に「玉出」があり、その区別のため「ノ」入りとなったようだ(以下、昭和59年5月)。

続きを読む

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈11〉

最後の「びわこ」「びわこ」号こと京阪60型、天満橋~三条~浜大津という線路条件が全く異なる2線区の直通運転のため、数々の新機軸を盛り込んだ二車体連接車として、昭和9年にデビューした。われわれの世代、京津線での活躍は見ているが、私はほとんど記録がなく、旅客営業を止めたあと、末期によく運転されていた、趣味団体の貸切電車を写したに過ぎない。最後まで残った「びわこ」63号は、この年に廃車になった。御陵~京阪山科 昭和45年7月 

9月に行いました「思い出の七条大橋」写真展には、感染状況がきびしいなかにも係わらず、クローバー会はじめ、多くの皆さんにご来場いただき、対面で話ができることの楽しさを改めて感じました。今回の展示は、私の写真だけでなく、多くの先輩方の写真もお借りして、撮影年代の幅を広げるようにしましたが、なかでも皆さんが注目されたのは、京阪「びわこ」号が鴨川沿いを走るシーンではなかったかと思います。

 

ポールとパンタ、高低の側扉の両刀づかいを発揮したのが、浜大津発枚方公園行きの菊人形行きの臨時電車だった。運転されたのは季節限定のごく短い期間で、本線上の記録は極めて少ない。この写真は、須磨の人間国宝さんの撮影、会場には乙訓の国宝さんの写真も展示、クローバー会の先輩の貴重な記録に改めて思いを新たにした。

 

 

 

 

 

続きを読む

こんなん あり?

コロナもようやく下火となり、緊急事態宣言が解除され、各旅行代理店は待ってましたとばかり「ワクチン2回接種者限定」と銘打ったツアーを次々とPRしています。ここにご紹介するのは「ワクチン接種」が条件ではありませんが、「木次線スイッチバック」を目玉とした、広島発着の日帰りツアーの広告です。

令和3年10月5日 中国新聞朝刊

続きを読む

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈10〉

お召の機関士と“文通”

いまから53年前のちょうど今ごろ、昭和43年10月2日に越美北線にお召が走りました。福井国体の際に運転されたもので、DRFCメンバーとともに撮影に向かい、その様子については、“デジ青”にも記していますので省きますが、私はみんなと別れて、一人で越前花堂で下車しました。越前花堂~六条にある、北陸本線から離れて、左へカーブして山あいへ向かっていく区間へ向かいました。現地到着が13時ごろ、お召の通過まであと3時間近くあり、まだ撮影者も送迎の人たちも見当たらず、ゆっくり三脚を立てて、ひたすら待ちます。さっそく警察官が近寄って来て、持ち物検査、害のない人間と分かると、あとは、一緒にダベりながら過ごすと言う、のんびりした雰囲気でした。背後に踏切があって、徐々に近くの人たちが集まってきました。すると、そのなかから、一人のご婦人が近づいて来て声を掛けられます。お召列車の写真をあとで送ってもらえないかというご依頼。聞くと、ご主人のKさんは、お召牽引の次位機18651の機関士で、ぜひ主人の晴れ姿を記念に残したいと言うことです。たまたま、お召機関士の奥さんが近くおられたことの奇遇に驚き、快諾して、手帳に「足羽郡六条町‥‥」と住所を書いてもらいました。

秋晴れのもと目前を通過したのは88635+28651の牽く、越前大野発福井行きのお召列車、Kさんの乗っているのは次位の28651だった。

続きを読む

 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈9〉

キワ90の成れの果て

前項、広島駅前で広電を撮ったあとは、呉線へ向かいました。昭和45年10月改正を目前に控えて、呉線では、電化工事の仕上げの真っ最中でした。C59、C62はまだ走っていたものの、架線は張り巡らされて、電機・電車も通しで運転をしていました。小屋浦で降りると、側線に見慣れない、黄色に塗られた車両が留置されています。「ヤ390」の標記に、どこかで見た切妻のスタイル、後半分には機械類があります。これこそが、写すことも見ることもできなかった、貨物DC、キワ90の成れの果てだったのです。

呉線小屋浦の側線で休む「ヤ390」、電化柱の金具の取付け用に使われている貨車で、「千倉駅常備」の標記もある。これこそ、追い求めていたキワ90の末路の姿だった(昭和45年8月)。

続きを読む