私の愛した“食堂車”

元祖青信号特派員さんのスレをマシ35の話題へと脱線させてしまい、申し訳なく責任を痛感しています。
それにしても「食堂車」には人気があることが分かり、ちょっとうれしく思っております。そこで「食堂車」の写真を集めてみようと思い立ちました。

元来、食いしん坊の私は、旅先でも食べたことがないものを食べるのを楽しみにしています。でも食堂車での食事は値段が高く(ホタテ定食がいくらか知りませんが)カレーライスかサンドイッチくらいしか食べたことがありません。それだけ食堂車にはあこがれと羨望がない交ぜになった感情を今でも持っております。
そんなこんなで食堂車には思い入れがあるので写真を撮り集めて来ました。だのにマシ35だけが満足いかない結果になり今に引きずっています。

皆様の持っておられる「食堂車」の写真も見せてください。まずは私の持っている写真から。

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 なりゆきまかせ “天然色版 昭和の鉄道”  〈1〉

京阪七条駅の近くでやっています写真展の設営・応対も一段落しましたので、また“デジ青”に復帰します。写真展には“デジ青”読者の皆さまにも来ていただきました。ふだんは画面を通したやりとりですか、制約の多い時期に、顔を合わせてナマの話ができることの意義を感じました。“デジ青”投稿が、交流の輪をさらに広げてくれていることを実感しました。手を変え品を変えて、投稿を切らさずに継続して続けることが求められます。

さて、その投稿テーマですが、私もたくさんの鉄道写真を撮ってきました。記録媒体は、モノクロネガ、カラーポジ、カラーネガ、デジカメデータと変遷しています。重複している時期もありますが、媒体によって、保存・保管方法が異なるため横断的な検索ができず、モノクロネガ以外は、なかなか公開につながりません。たとえば、今まで発表してきた北海道の蒸機でも、三脚を並べて同じシーンをポジでも撮っていましたが、気が付かず、公開することはほとんどありませんでした。当時ポジは高価で、多くは撮れず、恣意的に撮らざるを得ず、撮影に連続性がありません。組み写真を旨とするデジ青にはなかなか載せにくい事情もありました。

なら単発でも良いではないか、むしろそれが投稿頻度を上げることにつながると思うようになりました。「思いつきOK、途中変更OK、とにかくやってみる」が私の“デジ青”姿勢です。何が出てくるか分かりませんが、昭和40、50年代に撮ったポジを片っ端からスキャンしてみました。

ポジフィルムは、50年たった今では、褪色、キズ、カビ、何でもありのヒドイ状態、いまも鮮明な画像を残しているコダクロームとは似て非なる、当時の国産ポジだった。ただ、最近の修整ソフトでいじくると、ソコソコになる。ただ書籍の印刷原稿としては問題外と思っていたところ、最近、ある鉄道雑誌に採用されるようになり、“いけるやん”となった。ためらって秘蔵しておくより、ダメ元で、どんどん発信していくべきと思うようになった。カラーポジは約300本あり、今回は、昭和40、50年代の、一駒一駒マウントしていたものを対象とした。

 

 私の好きな電気機関車たち   ⑰(終)

電機の似合う駅

電機シリーズもこれで最終とします。“電機のいちばん似合う駅は?”と考えることがあります。私個人としては、京都駅1番ホーム(現・0番)の西端から見る、上り列車の入線シーンも大好きです。当時、二本あった中線を“ダダッダー”と交差音を残して、外へ編成を振りながら、1番ホームで待つ乗客の前に進んで行きます。その先頭に立つ電機の迫力に惚れ惚れしました。

しかし全国的に見れば、やはり上野駅にとどめを刺すのではないでしょうか。東北地方への出発駅として電機の発着で賑わい、独特の終端駅の雰囲気を持ち、推進運転の入線・回送シーンも見られました。でも列車写真、編成写真として見れば、これほど写しにくい駅もありません。ここは、やはり人も絡めた終着駅としての雰囲気写真になるのでしょう。私も昭和の時代、上野駅は利用した口ですが、撮影はほとんどしていません。上野から出発する時は、座席のことが心配で、落ち着いて写すどころではなく、逆に戻って来た時は、ほとんどが夜行で疲労困憊の体で降りて、撮影意欲など湧くはずもなく、そそくさと去っていきました。

上野駅に似合う電機は、やはりEF57だろう。青森行き「津軽2号」を牽くEF57 5、8月も下旬になると、さすがに盆の頃の混雑はないが、出世列車として名高い「津軽」はよく混む。上野では、前へ行くほど空いているから、とにかく自由席車の一番前の車両に乗車、首尾良く右側窓寄りの席をゲット、編成調べをしてから、やっと落ち着いて牽引のEF575を観察できた。22時22分、“ピーィ”という甲高いホイッスルを残して上野を発車。1両目だから貫通扉の向こうにEF57のデッキがユラユラしているのが見える。気分は、もう東北・北海道だった(昭和46年8月)。

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 私の好きな電気機関車たち   ⑯

幻のEB10

当時愛読していた「機関車ガイドブツク」などを見ると、電機の項で最初に出てくるのがEB10でした。国鉄の制式電機では唯一のEB電機、しかも買収電機ではなく、蓄電池機関車AB10を電機に改造した純粋の国鉄機で、端部はRが付いた、好ましいスタイルの凸電です。最初に憧れたのは、やはり模型の時代でした。ED電機に熱を上げていた中学生時代、天賞堂から発売されたのが、EB10でした。    愛読していた「鉄道ピクトリアル」にもEB10発売の広告が。

「ディテール豊かなプラスティック車体に、ダイカスト製の丈夫な台車」と説明され、いかにも天賞堂らしく、ほかのED電機の仕上りとは一線を画しています。ただ、値段が完成品1990円(東京売価)で、EBのくせに、ほかのED電機より500円以上高くて、中学生にとっては高嶺の花となりました。

DRFCに入るようになって、せめて写真だけでも撮りたい思いが募り、昭和46年2月、東京は王子駅に降り立ちました。当時の数少ない情報では、わずか2両のEB10は田端機関区所属であるものの、普段は、王子から出ている日産化学などがある須賀貨物線で動いていること、本には、その当時には珍しく運用表まで載っていて、王子で待ち構えれば、間違いなくEB10が撮れると、期待感いっぱいの下車でした。鉄道雑誌の記事を手書きでノートに筆写して勇躍、東京へ向かった。

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 私の好きな電気機関車たち   ⑮

懐かしの電蒸運転

この言葉もすっかり“死語”になった感があります。非電化区間の電化工事が進み、まもなく営業開始という頃、電機の試運転と乗務員訓練を兼ねて、電機+蒸機が牽引する列車がありました。電化に当たっては、“オイラン車”という建築限界・車両限界を測定する特別な列車もありましたが、電蒸運転は定期列車で行われていたことが特徴で、また蒸機は非常時の牽引用で、通常はブラ下がっていただけで、協調運転ではありませんでした。当時は、特別な関心もなく、来たら撮っていただけでしたが、いまとなっては、昭和の時代に限られた線区、限られた時期だけに見られた貴重な記録だと思っています。呉線小屋浦を行く電蒸運転、呉線は昭和45年10月に電化が完成、9月に最後のC59・C62の撮影に行くと、盛んに電蒸運転が行われていた。624レを牽くEF58 44+C62 17(昭和45年9月)

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 私の好きな電気機関車たち   ⑭

長岡、直江津、糸魚川で見た電機たち

何十年も昔の数時間、今から見れば一瞬の出来事ですが、妙に記憶に残っていることがあります。否、それは正確な表現ではなく、記憶は消え去っているのに、撮った写真が引き金になって記憶が蘇って来るのです。これも写真の持つチカラだと思います。そんな経験を電機でもしたことがあります。昭和47年2月、東北旅行の最終日、長岡、直江津、糸魚川と駅撮りしました。疲労蓄積と気力低下で、ほんの数枚撮っただけで、覚えも何もないのですが、改めて写真を並べて見ると、さまざまな電機に囲まれていた記憶が蘇ったような気になりました。撮影順に並べて、電機に限らず電車も見ていただきます。前日は米坂線で撮影し、坂町から満員の「鳥海3号」に立ち詰めで揺られて深夜の新津に到着、駅で寝て、翌朝、新津5:43発330レに乗って7:03に長岡に着いた。330レを牽いていたのはEF58 110〔岡〕、ヒサシ付き、スノウプロウ付きと関西では余り馴染みのないゴハチだった。左は上野行きの724Mで、クモニ83002+クモユ141-4+115系11連、当時は、長岡発の上越線経由の上野行き普通が3本あり、うち1本は夜行だった(昭和47年2月、以下同じ)。

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 私の好きな電気機関車たち   ⑬

ED電機の宝庫 中央東線②

では中央東線に沿って、飯田線との接続駅、辰野へ参ります。みどり湖経由の短絡線がまだ開通していなかった時代、辰野は中央東線のすべての列車が発着し、「アルプス」などの急行は全停車、一部の特急「あずさ」も停車するなど、賑わっていました。ただ、周辺は電化しているものの、構内の入換にはC12が煙を上げていました。接続する飯田線へも乗換客が多く、貨物も多く設定されていました。飯田線北部の貨物牽引を当時担当していたのが、伊那電鉄出自のED26と、国産電機で優美なスタイルのED19でした。

辰野の構内で発車を待つED26 11、ED26は、もと伊那電気鉄道のデキ20、昭和4年、輸入機のED11、ED14を模して、国産で造られた。国鉄に買収後に、ED33となり、そのあとED26(2代目)11、12となった。PS13がより無骨さを感じさせている。(昭和45年8月)

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 私の好きな電気機関車たち   ⑫

ED電機の宝庫 中央東線①

ED電機は両数も少なく、使用線区も限定的でしたが、こと中央東線の沿線に関しては縁が深いものがありました。もともと中央東線には、昭和6年に浅川(現・高尾)~甲府の電化完成によって電機運転を開始した長い歴史があります。東京寄りから挙げると、立川では、青梅線、五日市線、南武線のED16が発着し、八王子まで行くと、勾配区間で使われる甲府区のED61が見られました。足を伸ばして辰野まで行くと、そこはED電機の本場、飯田線の始発駅で、ED19、ED26の活躍が見られ、さらに中央東線の実質的な終点である松本まで行くと、大糸線のED21、ED60も見られました。2回に分けて、中央東線沿いのED電機を見ていきます。奥多摩から産出される石灰岩を、青梅線、南武線経由で浜川崎にあるセメント工場まで運ぶのが、立川機関区のED16のおもな仕事だった。5187レ ED16 17  軍畑付近(昭和53年8月)

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 私の好きな電気機関車たち   ⑪

ED電機への憧れ① 阪和線のED60

電気機関車シリーズに戻ります。これまではEF級の電機の思い出でしたが、私はED級の電機にも憧れがありました。思い返すと、小・中学校に頃の鉄道模型に行き着きます。当時、模型化されていた電機は、EF級もありましたが、高価なうえに脱線しやすい欠点もありました。小遣いの範囲で買えるのは小型、と言ってもEB58では、それこそ子供だましで、やはりED級の電機に行き着きます。当時の売れ筋は、ED14、ED16、ED17あたりで、少し経つとED11あたりの少数機も出て来ます。牽くのはやはり客車が相応しく、マツモト模型のオハ31系数両を牽くのが適任でしょうが、結局、私はED14+オハ31だけの編成で終わってしまいました。後年、鉄道写真を撮るようになると、大型のEF級電機が長編成を牽く姿にも惹かれますが、心の中では、客車数両を牽く、ED級の電機を撮ってみたいと言う気持ちがありました。たとえば仙山線でED14、ED17が客車を牽くシーンを思い浮かべるものの、結局は間に合わず、その後の新型、ED60でやっと実現した。場所は阪和線、その頃、定期の客車列車はなかったものの、紀勢本線沿いの海水浴場へ向かう臨時急行「きのくに」が夏休みに多く運転されていた。牽引はEF52が多かったが、ED60が牽く列車もあった。客車は冷房付きの12系になっていて、思い描いたシーンでは無いものの、初めてのEDが牽く客車列車となった。「きのくに53号」 山中渓~紀伊 (昭和47年8月)

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 今日は何の日? 《 60年前の7月31日編 ③ 》

下ノ森の“お別れの会”

紫の1863さん、お待たせしました。下ノ森に特化した写真を、前回のHさんがしっかり記録されていました。この騒ぎ、7月30日に、北野天満宮の特設テント広場で、京都市主催の“お別れ式”が行われた時のもの、当時の高山義三京都市長ほか500人が参加して行われ、表彰式などのあと参会者が7両のN電に分譲して、京都駅前までパレードした時のもの、Hさんは、見事なアングルで、市民の表情や服装まで活写されていました。

下ノ森にズラリと並んだパレードのN電、取り巻く市民、窓に号車札を付けたN電7両が、“お別れ式”の参会者の乗車を待っているところ。一般の乗車は?と思うが、この時間帯は、北野~下ノ森を営業休止して、パレード用車両を留置し、北野車庫前から特発したのだろう。

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 今日は何の日? 《 60年前の7月31日編 ② 》

最後のN電を写す

N電最終日、昭和36年7月31日の様子を続けます。撮影されたのは、いまは首都圏にお住いのHさんです。大阪で生まれ、当時は東京の大学生だったHさんは、ちょうど夏休みとあって、帰省の折に、何度か京都まで出かけられています。快くネガを貸していただきスキャンすることができました。改めてHさんに御礼を申し上げます。7月31日の最終日、光線から考えて朝の時間帯、大阪から来たHさんは北野線に乗って、まず終点の北野まで来られた。すでに市民が集まり、職員も整理に当たっている。到着した5号は、車掌がポールを下ろして、片や運転士のほうはポールを上げて、折り返しの準備を進める。

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 今日は何の日? 《 60年前の7月31日編 ① 》

N電を見送る

最近の京都市電に対する、展示、出版には目を見張るものがあります。京都市交通局の市電関係の簿冊が京都市有形登録文化財に指定されたこと、そして、今年がN電こと北野線が廃止されてから60周年と言うことも関係しているのでしょう。先ほど何気に考えたら、今日7月31日は、まさに京都市電北野線の最終日に当たり、あわてて投稿を立ち上げました。直前のデジ青欄でも、米手さんが撮られた、千中交差点の素晴らしい夜景が披露され、思わず、私もナマ写真を見せていただくよう、おねだりしたところです。

60年前と言うことは、N電廃止をしっかり体験しているのは、70歳台以上の世代でしょう。かく言う私も、辛うじて、自分の手で撮影ができた世代です。たった数枚ですが、いまも鉄道アルバムの最初のページにしっかり貼って、記憶に留めています。最終日の7月31日は、前にも書きましたが、小学校6年の臨海学校で若狭へ行っていて、最終日に立ち会えなかったのは、いまとなっても残念な思いに駆られています。ただ私は、先輩の皆さんから、N電関係の写真、ネガを譲り受けて保管しています。お蔭で、「レイル」のN電特集号でも、先般の関テレの報道番組でも、依頼があれば、写真を提供することができました。理解ある先輩に恵まれたと思いますし、これを大切に引き継いで、機会を見ては発表・発信していくのが、私の使命だと思っています。最近も、別の方から写真、ネガを貸していただきました。そこで、7月31日に当たり、まだ発表できていない写真の一部をご紹介します。最後の一週間、装飾を施した普段とは違う最終らしい写真で構成しました。中立売橋を渡る。最終日の一週間前から、ほとんどのN電がモールで飾られて、側面には廃止告知の横幕が掲げられた。中立売橋はいろいろな角度で撮られ、著名な方の名作も生まれている。この写真で興味深いのは、見物人のほとんどがカメラで写していること、カメラ・スマホ全盛の現在でも、あり得ないようなシーンだ。この時代になると、35ミリカメラが普及していることが分かるが、N電のすぐ右で、二眼レフを覗いている少年がいる。ちょうど私と同じ世代に見える。どこの家でも、使っていないオヤジの二眼レフが転がっていたものだ。少年も、この特別の日に、オヤジから使い方を聞いて、写しに来たのだろう(以下、神戸市Nさん撮影、昭和36年7月)。 続きを読む

 街並みとともに ~京都のバス~  〈13〉

受験生輸送を 同志社に見る

京都市バスならではの車窓風景や系統、街並みなどを紹介してきました。ここらでひと区切りと参ります。これから紹介する大学入試の際の受験生輸送も、ほかの都市ではなかなか見られない、ある時期、一年に数日間見られた、特色のある光景だと思います。普段の通学輸送も大切なことですが、受験の場合は、寄り道することなく、まっすぐ帰宅しますから、試験終了直後の集中ぶりは、たいへんなものになります。お膝元の同志社大学での光景を見てみます。

われわれの時代には、市電烏丸線がその輸送を担っていました。烏丸線が昭和49年に廃止され、その代替輸送は市バスへになります。昭和56年に地下鉄烏丸線が完成すると、当然地下鉄に移りますから、市バスの受験生輸送は7年間だけ見られた輸送形態でした。受験生が今出川キャンパスから続々と吐き出される。終了時刻に合わせて、市バスは烏丸通を南下して、西門前付近に集まって来る。試験を終えた受験生を満載して、四条烏丸、京都駅方面へと向かって行く。市電は廃止、地下鉄は未開業、市バスしか移送手段のない時代に見られた、京都の冬の風物詩だった。

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈12〉

京都駅前、烏丸通で市バス全盛時代を見る

性懲りもなく、京都市バスの思い出を綴っていますが、ふと、市バスの全盛時代って、いつ頃だろうかと急に思いつき、交通局の資料を調べてみました。最近の市バス1日当たりの乗客数は、ここ数年、32~36万人で推移しています。内外の観光客でバスが異常に混んで、オーバーツーリズムが社会問題化していた時代、大型キャリーケースの持ち込み料金を徴収するべきとか、バスを市民用と観光客用を分けるべきとか、真剣に論議されました。みんながみんな、500円の1日乗車券を握りしめて、押し合いへし合いして乗り込んだ、わずか3年ほど前が、今となっては懐かしい気分です。その頃ですら乗客数は36万人程度、いまは、多少持ち直しているとは言え、24万人程度でしょうか。

市バスが最大を輸送したのは、最近ではなく、40年前の昭和55年度になります。1日当たり乗客数が59.8万人、最近の2倍以上を運んでいたのです。市電が昭和53年に全廃され、地下鉄烏丸線はまだ工事中、公共交通は市バスしかない時代でした。当時の1日走行距離11万4千km(現8万5千km)、車両数1061両(現822両)といずれも、昭和の時代が勝っていました。今回は、こんな市バス全盛時代を見ていきます。

朝、午前8時台の京都駅前、烏丸通を続々南下して来たバスが右折レーンを独占して信号待ち、黄信号で一斉に右折して行くのは壮観だった。地下鉄烏丸線の開業前で、市電が無くなったあとは、京都市の公共交通は市バスしかなかった(昭和56年、以下同じ)。

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈11〉

四条烏丸にあったバスセンター

四条室町の南東角、四条烏丸西行バス停の前は、いまでは京都経済センターという新しいビルが建っています。昭和の時代には、おもに地元室町の繊維振興のための事務所などが入居していた京都産業会館があり、一階には「四条烏丸バスセンター」バス停があって、ここを起終点として、おもに多区間を走る市バスが発着していました。地下道からも直結して、3面の乗り場がありましたが、いつ行っても、閑散としていて、末期には照明もほとんどなく、およそ“バスセンター”のイメージとは無縁の陰気な雰囲気が漂っていました。結局、バス停としての「四条烏丸バスセンター」は平成元年に廃止され、発着は、四条通の「四条烏丸」に移され、操車場としての機能は残ったものの、これも建物の老朽化により取り壊されて、今の新しい建物には、その面影もありません。

京都産業会館一階の「四条烏丸バスセンター」から発車する23号系統の沓掛行き、多区間ワンマンカー、沓掛とは京都に似つかわしくないバス停名だが、昭和58年に廃止され、のちに「桂坂口」として復活した(昭和56年5月、以下同じ)。

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈10〉

バスが集中した三条京阪前

私が市バスに興味を持ち始めたのは小学校高学年でした。銀行(三菱銀行だったと思う)のオマケとして、小型判の市電・市バスの系統図がありました。一系統ずつカラー印刷されていて、その径路をたどって行くのが楽しみでした。その図で、異様なまでに、バス径路が集中しているところがありました。それが「三条京阪前」でした。地図では、私の住んでいた丸太町通付近まで、三条京阪付近のラインが膨らんで来る始末でした。

これほど左様に、当時の三条京阪前にはバスが集中していて、当時は、市電は京都駅前、市バスは三条京阪前が、発着場のトップでした。三条京阪は、京阪線、京津線の結節点であり、繁華街にも近く、バスの発着場としては、好適地であることは言うまでもありませんが、市電の補完として空白地域へバス径路が伸びて、とくに市電の敷設が遅れた京都北部、東部に拡充されていった経緯や、バスが操車できる広大な土地が他に無かったことも挙げられると思います。

以下の撮影時期は、京阪は三条まで地下線の工事が本格化、出町柳までの鴨東線の工事も着手され、京津線は地上線の時代で、バスにとってはいちばん賑やかな時代でした。

三条大橋を続々と渡って、三条京阪前を目指す。交通結節点として三条京阪の地位がウンと低下してしまった現在では、こんなラッシュ風景は見られない。橋の上までの不法駐輪も今となっては懐かしい(昭和55、56年)。

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈9〉

こんな通りを走っていた(2) 本町通を走った16号系統

“こんな道を走っていた”市バス続けます。「16」のバスが昭和の時代には走っていました。よく知られているのは、「上賀茂神社前-稲荷・藤ノ森神社」の方向幕の時代です。京都の市街地を北から南まで縦断し、とてつも長い距離を走っていた系統でした。しかも狭隘区間があって、遅くまで中扉のみのツーマン車で残り、車掌を乗せて繁華街の四条通を行く姿は、市民からも怪訝な顔で見られていたものでした。正月の祇園石段下、右折する16号系統の稲荷・藤ノ森神社行き、ほとんどがワンマン化されていた時代、初詣客のなかへ、いきなり現れた古いツーマン車。16号系統は、上賀茂神社前から、千本通、四条通、東山通を通り、稲荷・藤ノ森神社方面に向かって行った。昭和45年8月に一部径路を46号系統と統合し、終端部の藤ノ森付近がさらに複雑な径路になった。師団街道を南下して、聖母女学院、京都教育大学の東側を半周して、藤ノ森神社前へ出て、帰りは本町通を北上して行き、ちょうど「8」の字に一方循環していった(昭和49年1月)。

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈8〉

こんな通りを走っていた(1)

バスは系統の改廃も多いうえ、同じ系統でも、需要の変動や、交通事情、また地下鉄開業など基幹交通の変化によって、途中の径路もよく変わっています。また、市電が健在だった時代は、市電網から取り残された地域に、バス路線を設けることもありました。バスは、あくまで市電を補完する立場だったのです。今回は、昭和の時代、“こんな通りにもバスが走っていた”と思わせるシーンを集めてみました。

四条烏丸を行く7号系統の東寺西門行き、車両は京都22か2670、昭和55年式、いすゞK-CLM470、NSKボデー

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈7〉

初めてのマイクロバス

いま京都市バスには、小型、中型、大型と、さまざまなサイズの車両が走っていますが、かつては、すべて大型車のみでした。初めて小型のマイクロバスが走ったのは、昭和51年4月、衣笠(現・立命館大学前)~ 原谷のM1系統でした。原谷は、しだれ桜で有名な原谷苑もありますが、京都東北部の山あいを開発した新興住宅地で、公共交通は一切ありませんでした。急勾配、狭隘区間もあり、大きな需要も見込めないところから、初めてのマイクロバスの導入となりました。Mはマイクロの頭文字で、市バス系統に英文字が付けられるのも初めてでした。昭和51年4月に、京都市バスに初めて登場したマイクロバスを使ったM1系統、車両は、京22あ‥17、‥18の2両で、いすゞBY31、北村ボディだった(昭和50年4月、以下同じ)。

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 街並みとともに ~京都のバス~  〈6〉

洛西ニュータウンの電気バス

“京都のバス”再開します。シリーズが途絶えている間に、私の住環境もすっかり変わり、二階の窓から見ると大通りを続々と市バスが走って行くのが眺められるスポットとなりました。良くも悪くも、京都の公共交通は市バスが中心であることを実感します。そんな京都とバス、昭和の時代を断片的に見ていきます。

京都市バスにも、以前には電気バスが走っていました。初代の実用車は、本欄でも紹介したトロバス改造の「みどり号」で、そのあとに登場するのが、これから紹介する、昭和54年にデビューした、洛西ニュータウンを走る6両の電気バスでした。

洛西ニュータウンのなかを行く京都市バスの電気バス、洛西営業所に配属された、ふそう製で、ボディは京都市バスとしては珍しい三菱ボデー、通称ブルドッグバス、洛西ニュータウンから阪急桂駅に向かう系統に使われた。写真の「梅津車庫」は誤表示(昭和61年2月、以下同じ)。

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