本棚を掃除していると古い絵葉書が出てきました。
眺めているといたずら心が沸いてきて、これを使って場所当てクイズを思いつきました。
古いと言っても「鉄道百年記念写真集」ですから1973年頃の発行です。撮影は石橋康一氏・植松宏嘉氏で、一つは「力闘」、もう一つは「蒸気機関車」です。出版は横浜のFUKUDA CARDです。
では、質問です。撮影場所をお答え下さい。さらにこの機関車、線区その他知っているウンチクをお書き下さい。
デジ青をご覧の方には簡単すぎますが、一般の方に販売する絵葉書ですからやむを得ません。従ってお答えには当時の思い出でも、この機関車に関わる事でも、同じ番号の機関車の写真をお持ちなら貼って下さい。
①正解を貼ります。 奥羽本線二ッ井ー前山 823レ C6124
1971年6月撮影
②筑豊本線 筑前内野ー筑前山家 733レ C5519
1970年7月撮影
③函館本線 目名ー上目名 104レ C622+C6231970年12月
④花輪線 岩手松尾ー竜ヶ森 967レ 88620+68678+486331971年6月
⑥釧網本線 北浜ー浜小清水 627レ C58139
1971年3月
⑦中央本線 奈良井ー木曽平沢 656レ D51
1969年12月
米手作市様
1970年頃と言えば、SL音痴の小生の印象としては「地方へ地方へと身を落として行く時代」との認識です。
事実、写真にはカノ有名な雪と闘う62の2が有り、他に貴婦人や軽快なC55の姿もあります。更には乙線用C61も。
全て煙モクモクの力走は、たくましく感じますネ。
小生の中のSLは、平坦な京阪神間の幹線上を高速で快走する姿で、煙も無く轟音だけを残して走り去る姿が浮かびます。
思えば「つばめ」「はと」も未だ米原までC62が牽いていた時代でした。
添付写真の1枚目は「数少ない」小生の撮った「架線が邪魔?」なSLのショットですが、あまりにも稚拙(中学時代)なので、「チョットはまし」なもう一枚と共にお目にかけます。
河 昭一郎様
旧型国電専門とばかり思っていましたが、C59を撮られていたとは驚きました。あの頃は中学生でカメラを持っていること自体ブルジョアです。京都の梅小路に近いところにお住いの方も蒸機はC59、歌手は春日八郎、漫才はダイラケとうるさいですが貴重な古い写真をお持ちなことから判断させていただきますと多分小学校時代からカメラを持っておられたのでしょう。西宮のC5989号、勿論撮ったことはありませんがこうして拝見させていただきますと綺麗な機関車ですね。有難うございました。
準特急様
は~い。 これですネ。
カメラ初心の頃で、DPE屋から出来上がって来て初めて「エーッ!!」と気付いた痛恨の?ショットです。
ついでに至近だが、チョット遠慮気味に撮った「鷲羽」です。
SLと言えば、小生も臨場感あふれる貴重な体験が有ります。
西宮停車の59を撮った後、そそくさと次位の客車に乗り込み、テンダ―直後のデッキで、豪快で迫力に溢れた走行音を耳にした記憶は未だに忘れることが出来ません! 古き良き時代でした。
準特急様
米手さんへの時と同様、またまた1枚目の写真が飛びませんでしたので、追加送信します。
153の写真を見てどこが『痛恨のショット』かと悩みました。
コメント欄には写真は一枚しか貼れませんのでご注意下さい。
準特急様
14日付けで2本のコメントを頂いていたのに気付かず、返信がテレコになってしまい失礼しました。
貴殿の「2020年10月14日 3:34 PM発信」に対する返信です。
自分では「鉄道ファンやから蒸気も撮っとかな!」と国電の合間にパラパラと撮ってました。
カメラは、当時オヤジがドイツで買って来たツワイスイ―コンの一眼レフでした。(今は戸棚の中に飾ってます。)
図に乗って、今回も拙いけど、もう2度とは撮れないSL風景を2枚。
米手作市様
そうでしたか! 2葉は同時に飛ばせなかったんですか?
今回は始めから2回に分けて送信してみます。
準特急さま
貴殿の「2020年10月14日 3:34 PM発信」に対する返信の②です。
これまたすごい場所ですね!
列車が客レでなくてよかったです。
米手作市様
典型的な都市部のSLです。
先ず往復夫々に内側線、外側線が有る4線が基本で、写真の住吉(神戸・東灘区)の様に貨物取扱駅は更に側線や退避線が有って、敷地は広大そのものでした。
阪神間には芦屋川、住吉川、石屋川等の天井川があり、線路が川の下を突き抜ける風景が有りました。
撮影した場所は正しくその天井川=住吉川の右岸から西を向いて撮影したものです。(右に六甲山、左は大阪湾を望む地点です。)
そして、もう一枚は、その天井川の東側下に降りて「西側から住吉川の下を抜けて来た貨レ」を狙ったものです。
仰る通り、結果としては小生の犯罪現場の証拠写真となってしまいましたが、もう時効と言う事で。
そう、そう客レだったら山科の二の舞だったかも知れません。(笑)
米手作市様
1枚目が飛びませんでした。
再トライします。
トップを切ってのコメント、ありがとうございます。
また、もう二度と撮れない写真を拝見致しました(機関車も撮影位置も!)。場所はどこですか?
米手作市様
「2度と撮れない」線路内ですネ。此処は確か当時の我家前の築堤です。
立花―甲子園口の下り外側線で、もう直ぐ武庫川の鉄橋と言う場所です。
写真で見る限り、警笛の蒸気が吹いている様子はありませんネ。
許されたんですネェ、この頃は「迷惑をかけない限界」と「自己責任」の元で。
その後の「猫も杓子も」時代で、我々も一括りにされて・・・今では厳重な柵が有って、迫力あるショットは望むべくもありません!
もう一枚は西宮駅に山陽本線のS L列車が停車する事になった時、ニュース?ショットのつもりで「取材」した時の1枚です。
この頃撮った写真は撮影日時のデータが散逸し、探さないと判りません。
河 昭一郎様
河様の我が家であられた武庫川築堤にさしかかるあたりでの決死(?)のC59撮影もお見事ですね。撮影位置にもよると思いますがC59にしては煙突が高く感じられます。私は武庫川の対岸の甲子園口付近に撮りに行った覚えがありますが、武庫川橋梁は足回りが見えずやはり築堤狙いでした。それにしましても、河さんの阪神間での蒸機の記録は私にとっては同志社の先輩でもあります西尾克三郎さん以来のものです。私事で恐縮ですが、東海道線での蒸機牽引列車乗車の記憶は昭和31年の電化前後で名古屋から乗車した糸崎行きが京都から蒸機につけかわったのが最後でした。
貴重なショットに驚きました。
このショットは、湯口さんが山科築堤の信号機の上から撮ったショットと“双璧”です!
ア~怖わ
米手作市様
怖いもの知らずの中学生、「迷惑をかけない限界」と「自己責任」ってホンマ?
しかし、こんなに至近でも怖かった記憶は全くナシです。
夢中だったんでしょうネェ、純粋に。
米手作一様
「簡単すぎる」と仰いますが、意外と難しいです。機関車の形式と特徴から、おおよその路線名は分かりますが、撮影場所となるとさっぱりわかりません。
②は現地に行ったことがありますのでわかります。北九州の有名な撮影地です。
⑤はSLブームの頃鉄道ファン以外にも、ハイカーに人気の撮影地で、当時のカレンダーになった場所です。
➇はC57 39ですので京都在住者なら簡単と思いがちですが、場所の特定は困難です。多分、この場所と見当をつけてストリートビューで探しましたが、はっきり此処やと言える場所は見つけられませんでした。
②の撮影地について当時の思い出をちょっと。最寄りの駅から少し離れていて、急いでいました。フイルムは最後まで写しており、入れ替える必要がありました。しかし、立ち止まってフイルムを装填する余裕がなく、早く撮影ポイントに着きたい一心で先を急ぎました。現場に着いてから目的の列車が来るまで、多少の時間があったようです。ところが撮影は早々に諦めてしまい、フイルム交換をしなかったのです。そんな私の目の前を、重連のD60が煙を盛大に噴き上げながらゆっくりと登ってきました。私はただ見送ることしかできませんでした。
「最後まであきらめず、ギリギリまで努力をする」そんな教訓を得た場所ですが、その後に生かせたのかはいささか疑問です。
鉄道を極めることは人生を極めることだ(紫の1863様)
ということですね。
でもこれはあきらめきれないシチュエーションですね。
④は3重連で有名だった花輪線ですね。DRFCに入学する直前の昭和43年3月28日に訪ねています。龍ケ森信号所での交換シーンです。前補機が48685、本務機が38688です。気動車はキハユニ26。右端にかすかに写っているのがオハ31を並べたスキー場用のヒュッテです。ハチロクの後ろにある建物が信号所です。今では「安比高原駅」となり、観光地化して 若いお嬢さんたちがキャリーバッグを引きずりながら乗ってくる駅になっていますが、かつては峠の頂上の寂しい信号所でした。私の中ではいつまでも「龍ケ森信号所」のままです。
⑥は釧網本線北浜駅近くの、オホーツク海とトーフツ湖をつなぐ水路の鉄橋でしょう。1900生様、KAWANAKA様、いかがでしょうか?とにかく寒かった思い出ばかりです。京都の人間には-20℃はこたえました。⑥は国道244号線側からオホーツク海をバックに撮られたと思いますが、私は線路を横切ってオホーツク海側から撮ったようです。⑥のC58の次位は道内でよく見かけたスユニ61だろうと思います。
すべて正解です。
ただし、次位の車輌は「スユニ60301」でした。
米手作市様
スユニ60でしたね。⑦は伯備線布原信号所付近では?③は特派員氏ならよくご存知?①と⑧はお手上げです。
ダメー!外れ
⑦は木曽平沢-奈良井と思います。
正解!
米手作市さま
久しぶりの投稿で、手が震えています。
⑤ 清里ー野辺山間です。
清里から野辺山に向かっての最後の上り勾配区間で、最高地点に近い山梨と長野の県境の二俣川橋梁です。(牽引機はC56で、バックは八ヶ岳)
この列車は新宿発野辺山行の夏季の臨時夜行列車です。(新宿―小淵沢間は松本行と併結)
写真の橋梁の渡ったちょっと先の野辺山方に国鉄の保線小屋がありまして、そこが単独行もしくは湯口さんや重沢さんと同行した際のもっぱらのキャンプ地でした。
湯口大兄の約50年前の雄姿(!?)
だいたいこのような大型のリュックに、寝袋、米、燃料なども持参していました。
残念ながら、写真がうまく張り付けできません。
写真はあらためてトライすることにしますので、しばしご容赦
を・・・。
お元気そうで何よりです。
お送りしたスマホ画像とパソコンでは少し違うようです。この欄の下の方をご覧下さい。⇩
左に{参照….}があります。これをクリックして写真の保存場所を指定下されば投稿できます。
代理投稿⑴
湯口大兄の雄姿by“小海線を愛する会”
代理投稿⑵
野辺山のC56 by“小海線を愛する会”
➇は山陰本線です。1971年1月の日付ですが、多分9日までの撮影でしょう。この列車は下りで、朝の園部行1823レか、お昼過ぎに京都駅を出る敦賀行の923レだと思います。手前の風景は流れてますが、背景は止まっている。ということは、車で並走しながら撮影されたのではないでしょうか。肝心の撮影場所ですが、並河から八木にかけて国道9号線が並走しており、この区間で撮影されたと考えます。ただ、ピンポイントで「この場所」と特定するのは困難です。
⑦は井原様が正解を出されましたが、実はこの場所で私も撮っていました。木曾平沢の鉄橋を連想しましたが、橋脚の形や、退避場所の有無、通信ケーブルの位置など細部に違いがあって、特定には至りませんでした。昔の鉄道誌を片っ端から探したところ、鉄道ファン117号に1969年3月撮影の写真が見つかりました。私が撮影したのは1973年5月ですので、電化直前です。4年余りの間に橋梁にも変化があったようです。
➇は千代川-八木間のように思います。
八木~吉富となっています。
でも正解と同じです。おみごと!
八木-吉富間でしたか。改めて航空写真を見てみると、吉富駅の手前にそれらしき場所がありますね。
しかし、ここでひとつ疑問があります。吉富駅が目前に迫っているのに、C57は力行しているようです。時刻表を見てみると、園部行1823レは吉富に止まりますが、敦賀行の923レは止まりません。なるほど、これでわかりました。
撮影場所は吉富駅の南で、福島鰹の工場が建っているあたり。列車は午後の敦賀行923レだと思いますが、いかがでしょうか?
米手さまの、「その他知っているウンチクをお書きください」に悪乗りし、皆さんが書きそうもないことを、少し記そう。絵葉書発行元のFUKUDA CARDは、他にも色々な絵葉書を発行している。小生は、絵葉書コレクションのデータベースを作成しているが、検索すると、東京駅、青函連絡船、各地のロープウェイ等で、同社発行の絵葉書が結構あった。全て戦後発行のカラー絵葉書です。撮影者のお一人、植松宏嘉氏は、SLブームの頃、リンホフ等の大型カメラで撮影されたことで知られ、大判ネガを原稿にした素晴らしい写真集も出版された。あまり知られていないのは、模型
の方の活動で、大昔のTMSにドイツの蒸機01(だったと思うが)、の製作記を掲載。ドイツ機の自作記事は珍しく、印象に残った。小生は関東合運模型の合同運転会です)で、お目にかかり御挨拶したことがあった。鉄道とは関係なく、小生が卒業した小学校のPTA会長をしていらしたのを知っていた為です。仕事に、趣味にお忙しかったと思うのだが、偉い方だなぁと思った次第。でわ最後に、ひとつ回答にトライ。①は、奥羽本線の二ツ井~前山ではなかろうか。50年前に撮影に行ったが、今は暑い日だった記憶しか残っていない。
宮崎繁幹様
今回の投稿の目的は、皆様方が持っておられる写真を掘り起こすことと、豆知識(ウンチク)を書いていただくことでした。
さすが宮崎さんと河さんの両巨頭はお持ちの財産が違いますね!リンホフの4x5で汽車を撮るなどという技は常人には出来ません。イッパツ必殺の撮影です。いまのデジカメ族には想像も付かない緊張感でしょう。いいお話をありがとうございました。
最後に撮影場所はズバリご正解です。
絵葉書のコメントには
『奥羽本線 二ッ井ー前山間 823レ C6124 1971.6
とあります。
米手作市様
小生の送信がゴチャゴチャで、ご迷惑をお掛けしております。
準特急様から2020年10月14日に連続2本のコメントをいただいていたのに、ソソッカシイ吾輩はそれに気付きませんでした。
返信コメントを添付送信する際に、確認もせずテレコに貼った事から「153系が何で~?」となったんだと思います。
「痛恨」は武庫川橋梁を渡るD52の「おみ足(御御足)」がスッカリ隠れてしまった事でした。
河 昭一郎様
河さんお住まいだったお近くの国鉄武庫川橋梁は足回りが見えませんでしたね。その点、阪急神戸線はよく見えました。新しい鉄橋は撮影向きではなく鉄橋音がしないタイプでもう出向くことはありません。阪神本線は橋梁の上に武庫川駅があってその涼しい感じは京都の川床に少し似た気分がして私の好きな駅の一つです。西宮側から尼崎側に徒歩で行くには国道電車の武庫大橋か甲武橋を渡るしかなかったです。