京都市電北野線に寄せて(2) 北野車庫付近を新旧対比

北野付近は、少し前には、母親の介護先があり、ほぼ毎日のように通っていたところでしたが、それも数年前に終了してからは、全く行っていませんでした。懐かしい思いで、商店街の一軒一軒を見て回り、柱に掲げられたN電の写真もじっくり見て回りました。この付近で先達が撮られた北野線の写真を、私も何点か所蔵しており、その新旧対比をしてみました。

北野商店街の柱に掲げられた北野線の写真、左は京福北野線の北野駅、右がN電北野線車庫。

北野車庫跡付近 新旧対比3題

昭和36年の北野線の廃止数日前の北野商店街、開業当時に復刻されたN電を、多くの買い物客が珍しそうに眺めている。▲▲現在の同地点、旧写真の左に写っていた橋本修美堂が、いまも同名の看板を出して健在だ。上掲の新旧写真から引いて広角気味に見ると、この写真になる。ちょうどN電がいるあたりが「下ノ森」電停だったが、もちろん安全地帯など無かった。鳥居は、北野天満宮の一の鳥居で、当時はこの付近まで北野天満宮の神域だった。▲▲北野天満宮の区域は、次第に後退して、いまのように今出川以北にまで縮小した。一の鳥居も移転して、いまの今出川通の前に移転した。

こちらは明治期、北野線が開業した頃の七本松中立売付近の様子、七条行きが単線上で停車中、ここにも北野天満宮の灯籠が見える(大西友三郎ライブラリーから転載)。▲▲いまの同地点、北野車庫跡地から中立売通を少し東へ入ったところで、現在でも、中立売通が斜めになり、灯籠のあった付近は、三角形の用地として残り、「歌舞伎発祥ノ地」の碑が建っている。

 

 京都市電北野線に寄せて(2) 北野車庫付近を新旧対比」への24件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    廣庭基介様のお名前を拝見し、2011年にサカタニで開かれたお二人の写真展を思い出しました。下ノ森の写真が展示されると新聞で知り、母を連れてお邪魔しました。
    地元とも言える下ノ森は懐かしく、今昔対比は興味深く拝見しました。電車よりも商店や人々の服装に目が行ってしまうのは、鉄道愛好者の風上にも置けぬとお叱りを受けそうですが、時代が分かる写真には夢中になってしまいます。N電が走っていた頃から昭和40年代初めにかけて、買い物と言えば「下ノ森」が安いと評判でした。しかし、次第に活気が失われて、今ではすっかり寂れてしまったようです。日常の買い物はスーパーで済ますことがほとんどで、商店街の個人商店ではめったに買わない自分は偉そうに言えませんが…。
    一の鳥居が下ノ森にあった頃は、まだまだ下ノ森が元気な時代でした。一の鳥居の横を走るN電の写真を見て、幼い日に見たであろう風景を思い浮かべております。

    • 紫の1863さま
      コメント、ありがとうございます。サカタニの廣庭さんとの写真展にもお越しいただいたのですか、ありがとうございます。「下ノ森」の思い出を聞かせてもらいまた。N電廃止後も、露店が並んでいて、つい最近まで賑わっていたことを覚えています。いまは閑散として、すっかり寂れてしまいました。写真は、N電の頃の「下の森」です。ちょうど、一の鳥居前が電停でした。

  2. 良い写真をお持ちですねえ。昭和30年代の賑わっていた頃の、下ノ森が目に浮かぶようです。南側から一の鳥居が写った写真を見る機会がなく、当時の様子がよく分かりました。
    八条口の大きな書店で「レイル」の116号を見かけ、ページをめくると総本家様と米手様のお名前がありましたので、迷わず買って帰りました。「京都市電 北野線を振り返る」のタイトル通り、北野線の特集です。総本家様の「北野で見た謎の駅舎」を拝見し、京福北野駅ホーム跡の記憶がいつ頃だったのかという長年の疑問に、答えが出せました。
    米手様の御父上が「千中」でカメラ店を営んでおられたとは、まったく存じませんでした。「北野線の北野方面行き電停の前」と書かれておりますが、千本通の西側にあったのか、それとも東側にあったのか、興味が湧いてきます。昭和40年代の初め頃、中立売通りを東に入った南側、鮮魚店の近くにカメラ店があったような気がするのですが、関係ないのかもしれませんね。

  3. 紫の1863様
    お買い上げ頂き、ありがとうございます。
    ご質問の件ですが、私の父は大阪千日前で戦前に写真館をしていましたが、戦災で京都へ逃げてきて七条大宮で写真館を再開しました。その傍らカメラ店が時代に乗ると思ったのか、開いたが千中店でした。その後、四条堀川、三条河原町、四条寺町と広げていきましたが、千中店はその原点でした。中立売通の南側を東へ二軒目、三坪ほどの小さな店でしたが、毎日カメラを木箱に詰めてスクーターで通っていたのを思い出します。私は学校へ上がる前でしたが、よく連れて行ってもらったので当時の千中界隈を覚えています。賑やかなことは四条通に負けないくらいで、大晦日などは西陣織の職人さんが銭湯帰りに貰ったばかりのボーナス袋を出してカメラを買っていきました。店を閉めて父が帰るのは午前三時を過ぎていました。
    昭和二十年代から三十年代は、貧しいけれどなにか明るい未来がある、という活気あふれた時代でもありました。いまもその頃の映画を見ると懐かしさで涙が出ます。
    企画して頂いた「レイル」の前里編集長様、青信号特派員様、この場をお借りしてお礼を申し上げます。

  4. 米手さんの初代の千中店、いつもお世話になっている方から見せていただいた当時の住宅地図にも店が載っていましたょ。米手さんからも許諾をいただき、載せました。真ん中が千本中立売の交差点、東へ南側2軒目に小さく「写真機コロナ」とあります。それにしても、当時の千中付近は、たくさんの家々が並んでいたのですね。賑やかさが地図からも伝わってきました。

  5. 米手作一様
    総本家青信号特派員様
    カメラ店・魚屋・家具店の並びは、記憶の通りです。両親と千本通をたびたび歩いた昭和40年前後には、角の京聯タクシーはガソリンスタンドに、南隣の北野劇場はパチンコ屋に変わっていました。
    昭和20年代半ばは大正15年生まれの父が毎夜のように千中界隈を徘徊し、西陣京極や近隣の映画館に入り浸っていたようです。
    当時のカメラ(いや写真機といったほうが良いでしょうか)は高級品で、誰もが買えるものではなかったようです。父は裕福な友人のお古を安く譲ってもらい、しばらく使っていたようです。ベスト判密着の写真が父のアルバムに張ってあります。
    北野線とは関係ありませんが、「千中」は若い日の父の話を思い出します。

  6. カンテレの「報道ランナー」を見ました。総本家様ご提供の写真が出てくるとは露ほども知らず、新聞の番組欄に書かれた意味深なフレーズに魅かれて録画しておりました。この投稿の3枚目の写真ですが、「レイル」116号にも見開きで出ていましたね。N電が走っていた頃の下ノ森の賑わいを感じます。テレビで紹介された写真は左手の宥清寺の塀まで見え、より多くの情報が得られました。
    さて、内容の批判はともかく、ウナギ屋さんの店頭に飾ってある写真に興味を持ちました。時折前を通るのですが、写真には気付きませんでした。
    北野天満宮の神職の話も、アノ年齢では仕方がないのかもしれません。我々のような愛好者は特別で、とことん調べないと気が収まらないのです。
    一の鳥居と同じ時期に移転した、狛犬には疑問が残ります。現在は左右一対の狛犬が鎮座しておりますが、下ノ森の写真には西側の狛犬しか見えません。台座には竹内栖鳳の白梅図・紅梅図が刻まれ、昭和9年に出来たものだそうです。N電が撮影された昭和36年頃、東側の狛犬がどこにあったのか、気になって眠れません。
    個人的な疑問はともかく、下ノ森の住民にとって60年前に姿を消したN電は今も記憶に刻まれ、昨日のことのように思い出を話されるのを見ると、写真が持つ力の偉大さを感じます。

    • 紫の1863さま
      下ノ森の住民であった紫さんに、何も連絡せずにたいへん失礼しました。「伝言板」では触れていたのですが、皆さんに見ていただく掲示板には書いていませんでした。内実を言いますと、まさに、この投稿記事を関テレ関係者が見て、写真使用の申し入れがありました。また写真は、私の撮影では無く、故人の方の写真を預かっていました。でも、多くの方に写真を見ていただき、隠された秘話が明らかになったのは良かったと思っています。北野天満宮の禰宜は、よくTVに出てくる広報担当の方ですが、“記録が残っていない”など、正直、歯切れが悪かったですね。もともと現在地にあった旧の鳥居のことも気になります。狛犬のことまで調査されているのは、さすが、トコトン調べる紫さんらしい証言です。

      • N電時代の鳥居を見ていると、柱に継ぎ目が見えます。狛犬が鎮座する台座も、現在のものとは造作が違うように見えます。気になって現地へ行ったり、ネットを検索して現在の鳥居とは別物と分かった次第です。決め手になったのは一の鳥居に刻まれた年号で、狛犬も台座が決め手になりました。
        N電時代の鳥居は何処へ行ったのか?私も気になります。しかし、柱の継ぎ目と島木と呼ばれる上から二段目の部材端の形状の他に、手掛かりがありません。北野天満宮に訪ねても、答えは出ないでしょう。一の鳥居のように建立された年月がハッキリわかる写真があれば問題はないのですが、残念ながら見たことがありません。ただ、狛犬と対に立っている現在の二の鳥居が同じ特徴を持っていて、この場所へ移されたのではないだろうかと考えました。
        しかし、昭和30年代の航空写真を見ると、山門までの参道には3基の鳥居が見え、建て替えられた可能性があります。
        今年1月の撮影ですが、N電と一緒に写る鳥居ではないかと推察します。

  7. 紫の1863さん
    何を今さら!の投稿をお許しください。
    カメラ店の位置についてご質問を頂いていたのを、今、気がつきました。証明写真を掲載しますが、露出不足・手ぶれですがご辛抱ください。
    撮影は北野線最終日の夜です。京聯タクシーもトリスバー(三太郎)も懐かしい!この南隣には純喫茶『ナポリ』がありますが現在もあるようです。一度行きたいと思いつつ何十年となりました。
    ところで7月23日の報道ランナー「兵藤大介の今昔散歩」を見逃しました。見逃し配信か録画している方、見せてください。

    • これまた凄い! まさに昭和36年7月31日の最終日の晩ですね。イルミネーション輝く装飾電車、見送る人びと、それに米手さんの店の看板、「千本中立売」の看板もバッチリ入っています。60年前の感慨が蘇ってきました。
      「報道ランナー」の録画ですが、私宅には、ビデオ録画機が無く、カメラを三脚に据えて、動画モードで撮ったものならあります。これだと、視ている私などの声まで入ってしまいますが、かえってリアル感があるかも知れません。

      • テレビの画面を8㎜カメラで撮る、なんと昭和な事でしょう!
        見せてください。お願いします。

        • はい、我が家は、4K、8Kとは無縁の21世紀初頭の32インチTVを大事にして見ています。もちろん録画機能などいっさいありません。

      • ついつい写真を米手さんに、おねだりしてしまいました。楽しみにしています。

    • 米手作一様
      オリンピックに夢中になり、返信が遅くなってしまいました。すみません。
      お店の位置が良く判ります。N電廃止時はまだ4歳で、京聯タクシー営業所の記憶はありません。もう少し後の昭和40年頃、両親に連れられて歩いた「千ブラ」で、京聯タクシー南側にあったパチンコ店のネオンサインの瞬きを、いつまでも見ていた覚えがあります。
      N電の装飾電車ですが、これは大丸がスポンサーになった車両のようですね。数多くの電球がまばゆい光を放っていたとは、この写真を見るまで知りませんでした。おかげさまで知識が増えました。ありがとうございます。

  8. 米手作一様
    オリンピックに夢中になり、返信が遅くなってしまいました。すみません。
    お店の位置が良く判ります。N電廃止時はまだ4歳で、京聯タクシー営業所の記憶はありません。もう少し後の昭和40年頃、両親に連れられて歩いた「千ブラ」で、京聯タクシー南側にあったパチンコ店のネオンサインの瞬きを、いつまでも見ていた覚えがあります。
    N電の装飾電車ですが、これは大丸がスポンサーになった車両のようですね。数多くの電球がまばゆい光を放っていたとは、この写真を見るまで知りませんでした。おかげさまで知識が増えました。ありがとうございます。

  9. 紫の1863さん
    遅くなったのは私も同じです。
    でも、過去記事でこれだけ盛り上がれるのもいいものですね!
    N電が「大丸装飾」かどうかを確認しました。
    間違いありません。「大丸」でした。
    写真のN電が北野から折り返して千中交差点を東に渡った所を撮った写真をお見せしますが、なにか気がつきませんか?

  10. 正解!
    「前照灯が点いていない」というよりは、折り返し時に切り替えていなかった、と言うことです。
    その証拠が、コチラ (上記の見送り写真です)

    • 前照灯の切り替えを忘れるとは、珍しい記録ですね。昭和36年では今ほど町は明るくなく、商店街の下ノ森も暗かったと思うのですが、気付かなかったのでしょうか?
      この写真には渡り線が写っています。こんなところに?と疑問を感じますが、廃止後60年を迎えても新しい気づきはあるものですねえ。
      カンテレの「報道ランナー」では、ウナギ屋さんの写真に中立売七本松角の市バス停留所の標識が写ってました。これが下ノ森のバス停なのか、それとも中立売七本松というバス停があったのかと、新たな疑問もわいてきました。
      千本中立売北東角にあったボタン専門店を覚えています。間口に比べて奥行きの無い店でした。

      • GENZO様のサイトによると、七本松中立売バス停のようです。下ノ森バス停とは僅かな距離ですが、買い物客を配慮した細やかなサービスを感じます。

  11. 1955年頃の北野界隈図です。
    この図では今出川通の市電はまだ千本通までですが、北野線終点は既に今出川通の南に後退しています。今出川線延伸工事準備対応でしょうか?

    郵便局の業務用の地図のようですが、白梅町が「しらうめちょう」であったり、「からすまる」(他図)など若干怪しげな記載もあります。

    出典は↓こちらです
    https://lapis.nichibun.ac.jp/chizu/zoomify/mapview.php?m=001936145_o

    • 宇都家
      貴重な地図を見せていただき、ありがとうございます。日文研の地図は、種類が多くて、よく見ていますが、こんな地図があったとは知りませんでした。これで見ると、テレビでも出てきた一ノ鳥居付近は、まさに北野天満宮の境内だったことが分かり、(新)今出川通に向かって参道が伸びていたのですね。

      • ありがとうございます
        古い市街図は眺めているだけでいろいろ発見もあり、見飽きません

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