今年最後の投稿は新聞記事の転載となりました。去る28日(火)20:35頃瀬野・八本松間で上り貨物列車が脱線し、29日、30日と上下線は運休し、どうやら31日午後から運転再開となる見込みです。まずは昨日30日の記事から。
列車が停車している場所は、瀬野・八本松のほぼ中間地点で上瀬野信号場跡(現在は保線用車両の待避線がある)付近のようです。中国新聞デジタルから写真を引用させてもらいました。
模型で編成ものを後補機運転するとカーブで脱線しやすいことを経験していますが、本務機と補機の連携が難しいことは想像に難くありません。補機が押し過ぎてもいけないし、押し足らずに引っ張られてもいけないし、相当な運転技能が必要なことでしょう。そんな技能を求められる機関士はJR貨物の広島の職員だけでしょう。
昔は客貨車の連結器強度が弱かったので、前補機より後補機の方が連結器への負担が小さいとされていましたが、今の貨車なら前補機でも良いのではと思います。昔のように無停車で補機を自動開放するならともかく、停車して補機を切り離すなら前補機の方が連携しやすいのではと思ってしまいます。
今回の事故に関連して今朝の朝刊に載ったコラムをご紹介します。
「石炭をくべると、たき口からまばゆい光が・・・」のくだりは、加太の村田屋2階からの光景を彷彿させます。まばゆい光と言うより、夜空に一瞬拡がるオレンジ色は、あの力強いドラフトとともに忘れられない光景です。また軍馬輸送列車の事故のことも全く知りませんでしたので、調べてみようと思います。
ところで、新聞もテレビの報道でも、事故運休による利用客への影響、迷惑は伝えるものの、東西の貨物輸送の大動脈が止まっているということに触れないのが不思議でなりません。まして年末輸送の時期であり、宅急便も鉄道輸送に依存している昨今ですから、日本の物流の一端を担うJR貨物にもっと目を向けてあげればと思います。今回は3日ほどで運転再開となってよかったですが、3年前の豪雨災害での長期運休で山陰回りというバイパス手術も全く機能せず、幹線と言えども至って脆弱な綱渡り状態であることを露呈しました。積雪運休も同様です。昔は豪雪の中でもなんとか運転を続けようと必死さがありましたが、最近では早々と「計画運休」となってしまいます。と愚痴を言ってもどうにもならず、令和3年はこれでオシマイと致します。どうぞ皆様、良い年をお迎え下さい。
西村雅幸様
事故原因は勾配、カーブ、車両個別特性、補機の問題等々いろいろあり今のところ乗りあがり脱線が考えられているようですが、毎日の運行で同じようなことがあり得たのか専門家の判断によると思います。
この事故とは全く関係がありませんが、1962年10月24日の修学旅行途中で瀬野で乱写したD52398です。架線柱の影が写るなどロクな写真ではありませんが、蒸機に最もあこがれた頃の撮影です。
もう1枚、その修学旅行列車の後半部分でD52が推進しています。瀬野区もこの補機付き列車も古いファンはよく見かけた光景です。修学旅行列車は長崎からC57195が牽引し、C59122牽引の熊本方面からの列車と鳥栖で合体して大阪に向かいました。広島からはEF58牽引でした。いつも投稿有難うございます。良き年をお迎えください。
思い出の瀬野ー八
瀬野八で脱線したのでしたら、以前ならスエ31 58の出番でしたが、今は救援器材を積んだコンテナが出動したのでしょうか。
写真は瀬野機関区のスエ31 58です。一休のEF61と連結されて、ポールと雑草に囲まれてまともな写真がとれませんでした。
井原様
広島からソ31が現地に向かったようです。
50年前シリーズのネガを整理していたら、京都駅で起こった貨物の脱線現場を撮っていました。昭和47年1月26日のことで、未明にEF60の牽く上り貨物が、こともあろうに、京都駅1番ホームの前で脱線、衆人環視のなか、復旧作業が行われているところです。
もう1枚、この時も操縦車が出動して、EF60を吊り上げようとしていました。「名」の文字が見えますから、米原から出動したのでしょうか。
ロソ80は稲沢ではないでしょうか。画像は、稲沢第一機関区でチキ1159を従え自力走行中のものです。ゆっくり走っていました。