天然色写真で巡る40年前の九州 (10)

最後は筑豊本線

九州の締めは、また筑豊である。九州に入ってまず筑豊で撮り、夜行を駆使して九州各地を転戦したあと、最後は筑豊へ戻ってくる。「筑豊に始まり筑豊で終わる」である。
そのメインラインである筑豊本線、勾配区間で狙うなら、筑前内野~筑前山家間の冷水峠を置いて他はない。両側から25‰勾配がサミットとなる冷水トンネルまで続き、多くの列車に補機が付く。旅客列車では、普通列車の大部分がC55の牽く客車列車である。白眉は、朝に峠へ向かう急行「天草」である。先頭はDD51であるが、飯塚~鳥栖間には、D50またはD60の後補機が付く。
この列車は、筑豊本線経由で熊本へ向かっている。つまり博多を通らない急行列車である。距離だけで見れば、博多経由より若干短いのに加え、沿線の直方、飯塚の下車客の配慮もあったのだろう(当時、博多~飯塚間の篠栗線は全通していない)。今のように博多に一極集中している列車体系からは考えも付かない設定である。

加えて、当時の特急「かもめ」でさえも、小倉で長崎・佐世保編成を分割、長崎行きが鹿児島本線経由、佐世保行きが筑豊本線経由で運転され、両者が再び合流する原田~鳥栖~肥前山口では、2列車が10分の違いで雁行していた。

DD51が牽き、D60が押す「天草」。客車も興味深い編成(昭和44年3月22日)

さて、峠近くの高台から「天草」を迎え打ったのが上の写真。右に見える青年は? なにを隠そう40年前の特派員そのものである。当時は、モノクロとカラー、2台のカメラで写していた。モノクロは手持ち、カラーはヘナヘナの三脚に据え、レリーズを押して写していた。本人を避けてカメラを据えたつもりが、しっかりと画面に入ってしまったという次第。
並行する国道は2、3年前までは未舗装だったが、改良工事で車線も広げられて舗装された。その際に真っ白なコンクリートで山肌が固められてしまい、随分様相が変わってしまった。
いっぽう、貨物列車は、飯塚に集結した石炭列車は、若松や苅田港へ送られるので、この区間を通ることはないが、それでも一時間に一本程度は上下列車が通過する。まだD51はごく僅か、ほとんどがD50、D60だった時代である。

大型の門デフを付けたD5090が、菜の花畑の横を下って行く