皆さんからのコメントを拝見して、地図一枚にも、一人ひとりの思いが詰まっていることを痛感しました。では、これから五万分の一の地図を手に各地を巡った撮影記を続けます。なお国土地理院発行の「五万分の一」は正しくは「地形図」ですが、馴染みのある「地図」で通すことにしました。
第1回は筑豊本線折尾~中間です。非電化の複々線上を、都市間の電車ダイヤ並みに10~15分に一本は蒸機列車が通る、まさに“煙の聖地”でした。
「地図を携えて線路端を歩いた日々」に期待する
総本家青信号特派員氏が投稿された記事を読んで全く同感で こうして投稿しました。私は彼ほどの枚数は無いものの 50枚以上の地図を捨てられずに持っています。私は高校時代「地学部」でハンマー片手に化石採集をしていて、近江鉄道多賀線の奥、西濃鉄道沿線、北恵那鉄道沿線、有田鉄道沿線などの山の中を歩いていたこともあって その時に買った地図もあります。DRFC時代には特派員氏と同様に旅行前には小林地図専門店を訪ねるのが常でした。ガラガラとガラス戸を開けて入る古い町屋造りのお店だったように思います。
この一覧図で予め欲しい地図に当たりをつけておいてお店に行くのですが、出してもらうと線路は端の方に少しだけかかっているだけで わざわざ買うほどのものでは無かったりで 何度も出したり入れたりしてもらいながら選んだものでした。1色刷りが1枚80円でしたが、長い旅になると1枚では済まないので 財布との相談で どうしても必要なものに絞り込んで買ったものでした。
地図を携えて 線路端を歩いた日々 -1-
この齢になってくると、残された時間も考えて趣味活動するようになりました。活動が、今後に有効な成果をもたらすものかを、つねに考えます。資料・蔵書関係の整理も同様です。今までは、集める一方の拡大路線でしたが、一度立ち止まって、今後も有効なのかを熟慮して、時には“縮小”も視野に入れて進めています。かつて撮影時の必携アイテム必需品だった五万分の一の地図を代表とする、国土地理院発行の地図も同様です。
初めての撮影地は、列車の窓から首を出して地図で地形を確認、好適地を見つけると地図に印を付けて、つぎの駅で下車して、目的地へ向かったものでした。当時の鉄道雑誌にも「撮影地ガイド」はありましたが、アバウトなもので、信頼が置けず、やはりちゃんとした地図を購入しました。でも現地に着くと、地図から思い描い
た風景とは違ったり、撮影に適したカーブも、五万分の一の地図では表現しきれないこともあり、撮影適地を発見できないまま、ガッカリして帰ったことも多々あります。 昭和40年ごろから、撮影用に購入したり、また出版社から取材で使った地図を大量に譲り受けたりして、約300枚の国土地理院の地図が残りました。
しかし、いまは多様な地図アプリがあって、鉄道撮影に紙の地図を持参するのは、もはや化石人間以外の何物でもないでしょう。残された時間のなかで、有効に使うことはないと判断し、何枚かの思い出に残る地図や、京都周辺のものを除いて、すべて廃棄することにしました。
▲一枚一枚に思い出が詰まった五万分の一地図、一部を除いて廃棄することに
画像サイズの投稿ありがとうございました。
掲示板管理人さまより投稿画像の寸法についての記事が、阿吽の呼吸でありました。1月26日に48年前の画像を投稿しましたが、初めてスキャン経験で適当に縮小した画像を挿入しました。画像が小さすぎてお見苦しい記事となりました。鉱石ラヂオを組み立て、エナメル線の接触不良を紙ヤスリで磨いていたアナログ爺さまにはネットの仕組みは解りません。見かねての御教示、このOB会は誠にありがたい集団です。さっそく細工をして再掲とさせていただきます。

投稿後しばらくして米手作市さんよりDVDが届きました。EF58150とマイテ492展望車の同志社大学鉄道同好会三十周年記念列車の映像が収録されたものです。あまりの時機の良さに思わず投稿のご褒美かと思いました。

展望車の三軸台車の走行音を聞いて懐かしんでいると、一畑電鉄の古いクハ111が三軸台車だったとの投稿がこれまた米手作市さんよりあって吃驚仰天。1962年に一浪の末に同志社大学に合格。大阪からの通学は当初は国鉄を使っていました。その頃の快速は80系湘南電車で、京都交通博物館にある三枚窓の正面を持つクハ86も現役でした。京都駅の留置線には三軸台車の格下げ客車マハ29を見ることができました。まだ客車の普通列車が残っていて京都姫路間の増結用に使われていたので、下校時に乗ることもあり、独特のジョイント音をがらんとした車内で聞いたものです。京都長崎の夜汽車急行「玄海」の食堂車は三軸台車のマシ29だったのを見たように思います。
この掲示板をご覧の方はたくさん居られるとのことですが、案ずるよりするが易し一度投稿いかがですか。失敗しても教えてもらえます。身近な情報や珍しい画像があればお見せください。コメント投稿ならもっと簡単ですよ。
2016年 西方見聞録 Part31 ウクライナからウイーンへ
▲ ウクライナのリヴィウからウイーンへと向かう機内で満面の笑みを浮かべて働くCAさんです。大した機内食は出ませんでしたがCAさんの笑みはそれにも増しての機内サービスでした。日系JAL/ANAのおもてなし機内サービスは世界中から賞賛を受けています素晴らしいものがありますが、自然と出るこういった温かさも格別のサービスですね。
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50年前の撮影地を歩く -14-
留萠鉄道 幌新駅
北海道ならどこにでもありそうな駅にも、クローバー会の皆さんの思い出が詰まっていること、前出の「恵比島」でも痛感しました。調子に乗って、もうひとつ駅を紹介します。恵比島から分岐していた留萠鉄道は、前記のように昭和44年に休止されましたが、目玉は、終点・昭和駅の奥にあった明治鉱業昭和炭鉱で働いていたクラウス社製のBタンク機15・17号機でした。
炭鉱閉山後の同機2両は、直後に開催の大阪万博でも展示されたあとは、流転の歴史で、各地へ転売・転属を繰り返しましたが、15号機は、留萌鉄道の中間駅でもあった幌新駅近くの温泉施設の公園に安住の地を見つけて、大事に保存されています。
▲昭和炭鉱のクラウス17号機、この可愛らしい姿を見るのが、留萠鉄道乗車の目的だった。この17号機は、栃木県那須烏山市にある那珂川清流鉄道保存会で保存公開されている。
デジ青の写真投稿について
デジ青投稿時における写真のサイズについての問い合わせをいただきましたのでルールと注意事項について申し上げます。そんなに難しい事ではありませんのでサラッと見ていただければと思います。
【ルール】
1、投稿できる写真サイズは、画像解像度72dpi設定で、200KB前後が最適です。
dpiは「Dot Per Inch」の略称で「1インチの中にどれだけのドット(点)を敷き詰めるか」という意味です。印刷する場合はできるだけ細かいデータがあった方が綺麗になりますが、PCのディスプレイは表現できる解像度が大きくはありませんので不必要です。
デジ青では写真投稿時に最大2MBまでの容量はありますが、大きすぎています。サーバーに負担をかけ、アクセスにも時間を要することがありますので、72dpi(=72pixel/inch)、200KB前後に縮小してください。新聞原稿、地図や写真の細部を表現したい時には300~500KBのサイズまで必要とする時がありますが、一般の写真では不必要です。
2、写真の大きさは縦横の最大サイズが1200pixel、または42cm程度にすると画面にキッチリと入ります。また、ボアアップ(写真拡大)した時にもディスプレイにキッチリと収まります。これ以上大きくしますとボアアップした時にディスプレイの画面からはみ出てしまいます。
3、添付ファイルの表示設定については、配置位置⇒中央、設定⇒フルサイズを指定ください。
4、数枚の写真を並べて掲載したい時は、メディアを追加⇒ギャラリーの作成⇒写真を選んでから⇒ギャラリーの設定⇒カラムは1~9までを選び⇒ギャラリーの挿入、以上です。
【写真画像の縮小】
1、写真画像を縮小するには編集ソフトが必要になります。有料になりますがプロも使うAdobe 社のPhotoshop Elements(12,890円)がお薦めです。数十枚以上の画像を一括で自動編集できますので重宝しています。安い廉価版もあります。
またカメラ会社からはそれぞれ無料のソフトが提供されていてHPからダウンロードできます。私はNikonユーザーですのでViewNX2とCapterNXを使っていますが、1枚1枚を丁寧に画像現像する時にはこちらを使っています。かなり優秀ですが昨年違った製品にバージョンアップされました。使用されている各カメラ会社のHPをご覧いただければ、分ると思います。また他社のカメラでも使用できるようになっていますので、自分で使いやすいソフトはどれが良いのか試してみるのも良いでしょう。
全ての編集ソフトにはデジタル写真のJpg、RawやスキャンしたPDFデータからのJpgへの変換・編集機能がありますので簡単に縮小が出来ます。
各カメラ会社の編集ソフトのダウンロードは下記をクリックしてください。
Nikon Canon Casio Olympus Sony Panasonic Ricoh 富士フイルム
2、もし2MB以下の画像でしたらHPにアップロードしてからでも画像編集ができます。画面右上の「添付ファイルの詳細」⇒「画像を編集」を選びクリックしますとサイズを聞いてきますので数字を打ち込んでやれば縮小できます。
以上、よろしくお願い申し上げます。
2016年 西方見聞録 Part30 ウクライナの蒸気機関車を撮る⑤
一畑電鉄クハ111号
50年前の撮影地を歩く -13-
ふたつの駅名がある駅
留萌線の残存区間から留萌、峠下の今昔を紹介しましたが、もうひとつ恵比島駅の今昔も紹介しましょう。恵比島駅も、無人の棒線駅、一日乗車人員1人台と、典型的な北海道の駅ですが、かつて留萌鉄道が分岐していて、石炭輸送の中継駅として賑わいを見せていました。訪れてみると、当時の姿は、すべて草木のなかに埋もれてしまい、面影は全くありません。ところが、NHK朝ドラのロケ地となったことを契機に、ふたつの駅名を持つことになり、ロケセットも観光資源として残され、流行りの聖地巡りか、時おり、観光客もクルマで訪ねて来るという駅になっています。
▲「えびしま」?「あしもい」? 駅名標もふたつ
2016年 西方見聞録 Part29 ウクライナの蒸気機関車を撮る④
▲ 今回はいつもある嬢さんの写真がないのはなぜかとのご意見をいただきました。街や駅を歩くたびに素敵な被写体の方はおられないかと探してはいたのですが若い年齢層に出会うことは少なく、撮りたくとも機会に恵まれませんでした。
今回はもう撮れないかなと思っていましたら今日初めて乗車したウクライナ鉄道の客車列車の中で元気な土地っ子お嬢さんに会えました。撮らせてくださいと申し出ましたらニッコリ笑顔のピースサインで答えてくださいました。
お嬢さんが座っておられるのは寝台車の昼間運用時の座席です。中々凝った作りになっていますので後ほど紹介させていただきます。
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日立笠戸のこと
糸崎と鉄道連絡船
キハニ5000の話題に対して戦後撮影の貴重なお宝画像をご披露頂き、感謝に堪えません。もうひとつだけ糸崎関連の話題を凝りもせずにご紹介させてください。昭和14年8月26日の中国新聞備後版の記事です。
インターネットで見つけました
阪堺線天王寺駅前
以前にINUBUSE氏が阪堺線天王寺駅前の工事状況を載せられていましたが天王寺駅前はほぼ完成しているようです。周辺の道路はまだまだ工事中ですが軌道内はグリーン化され電柱もセンターとなり阿倍野筋もかなり近代化されてきました。
天王寺駅前には歩道橋からも直接アクセスできるようになっています。駅舎そのものも新しくなっており見違えます。※「縦」の写真を入れたのですがこの前はひっくり返っていました、今回は「プレビュー」で見る限り大丈夫なようですが寝ていたらスミマセン。
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2016年 西方見聞録 Part28 ウクライナの蒸気機関車を撮る③
京都で最後の583を見送る
583系天理臨が、青森から長躯、京都まで運転されました。唯一生き延びた編成も、そろそろ先が見えて来たようで、とくに天理臨で京都まで顔を見せるのは最後のようです。25日の京都着は午前5時台で、これは鉄鈍爺さんが驚異の早起きで捕獲されています(No.81136)。583は数日、吹総京都支所に留置され、27日(金)の晩に帰ることになりました。発時刻が不明だったものの、そこは、クローバー会のネットワーク。直前の時変まで共有することができました。到着の2時間ぐらい前からは、京都駅は劇パ状態となりましたが、示し合わせた鉄鈍爺さんとともに撮影場所を変えて撮影することができました。発車の際は、例の中高生の“長い間ありがとう”の絶叫の声に見送られて京都を去って行きました。
50年前の撮影地を歩く -12-
あれから半世紀
私の1日は朝食後にデジ青を見ることから始まります。今朝は驚きました。準特急氏が「少し前の三原、糸崎駅界隈」と題して6枚の写真を投稿されているではありませんか! 撮影が1964年、65年ですから もう半世紀以上が経過しています。でも感覚的には 私も「少し前」と感じます。ここのところ雪が舞う寒い日が続いている当地ですが、今日は快晴の穏やかな日和なのを幸いに 準特急氏が撮影された6ヶ所の今を巡ってこようと 早速出かけることにしました。準特急殿の記事の順に「あれから半世紀後の三原、糸崎駅界隈」をご紹介し、準特急殿への御礼に代えさせて頂きます。
まずは三原駅に到着の急行安芸 C59161のカットからです。1975年(昭和50年)に山陽新幹線三原駅が開業します。その時点では新幹線は山側に高架、在来線は地上のままでした。1989年(平成元年)9月になって 在来線上り線が高架となり、翌1990年に下り線も高架となって 現在の姿になりました。従ってC59を撮影されたと同じ位置での撮影はもうできません。C59の背景にパチンコ屋と「みつわ」という看板が見えます。下の写真で 屋上に赤い看板が載っているのがパチンコ屋の位置です。昔の写真ではパチンコ屋と仕出し屋「みつわ」は接していますが現在は駐車場をはさんで白い5階建ての細いビルが「みつわ」さんです。急行安芸の3両目 オロネ10の位置に踏切がありますが 当時は「東1番踏切」と呼ばれていた開かずの踏切で 丁度「みつわ」さんの前でした。踏切跡の道路は今もあります。また 高架が邪魔していますが、バックの山の形は変わっていません。
東海道の電車を楽しむ-その5-
正月はゆっくり過ごしたが、昔の旅人は正月をどんな思いで歩いていたのだろうか? 日本は地震国で、それに伴う地殻変動による津波の発生や到来は事前通告がないだけに旅人を惑わせるものであった。29宿浜松から西へ辿るには、30宿舞阪から渡船によるものであった。15世紀末まで浜名湖は淡水湖であったが、大津波を受けことにより塩水湖に様変わりしていた。1699年高潮、1707年宝永地震には津波、1854年安政東海地震の津波で宿場や渡船場の位置は変動していた。幕府にとって大きな事業は関所の維持で、今も遺構が残る今切(・いまきり)の関所もその一つであった。宿場(31宿新居・あらい)とは離れた位置だが往年の姿が再現されている。これとは別に津波のために浜名湖を渡ることが出来ない時のため、湖岸を北に辿る道(姫街道)が整備されたのは、非常時の代替となり重要なものであった。










