春3月 会員イベントふたつ

佐竹さん鉄道展「東北を旅して」(その5)

被災した東北地方の一日も早い復興と、鉄道の復旧を願って、佐竹保雄さんが、折々に開催されてきた「東北を旅して」展も、5回目を迎えました。今回は、とくに昨年秋に青森市で開催の写真展「青森を走った汽車・電車」の再展示を行います。遠隔地の開催のために写真展を観覧できなかった会員の皆さんには、またとないチャンスです。また、震災2周年の3月11日(月)には、祈りの集いもあります。お越しをお待ちしています。

◎会期 3月11(日)~17日(日)11~17時 10日のみ13時開場  

◎会場 ひと・まち交流館京都 展示コーナー     ※入場無料                                                        (京都市下京区河原町五条下る東側、市バス 「河原町正面」前)

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 青森での写真をフルラインナップで展示

西村さん「昭和40年代の浜大津周辺模型」

これまた昨年秋、多くの来場者に共感を呼び起こした、西村雅幸さん制作の浜大津駅周辺のジオラマが、再び浜大津に帰ってきます。「大津百町大博覧会-博物館とまちなかで歴史探検!!」のテーマのもと、旧大津公会堂で開かれる展覧会に、“昭和40年代の浜大津周辺の復元模型”として再登場します。そのほかにも、浜大津周辺の写真・地図が出展されるとのことで、たいへん興味深そうな展覧会です。

◎会期 3月16日(土)~4月14日(日)9~17時  月曜・3月21日は休み

◎会場 旧大津公会堂3階(大津市浜大津1-4-1 京阪浜大津駅東)※入場無料121103 (24)

 ▲浜大津のかつての賑わいが再び見られる

相模クハ1110と淡路交通モハニ2007

しばらくサボっていた間に田野城会長から、関三平センセの淡路交通と相模鉄道の、いずれも旧ガソリンカー改造車が紹介アップされた。これは最近音沙汰ない後期高齢老人を狙い撃ちし、ケツを蹴り上げたのに違いないと睨んだが、黙っているわけにも参らず、その実ニコニコと、会長の誘いに乗ることに。

先ず相模鉄道のクハ1110を。時は1936年、東京横浜電鉄は川崎車輛製120人乗り―関東では最大のガソリンカーを、しかもポンと8両一挙に導入した。急行として、しかも増発でも変電所の増設が不要で、車齢は多少短くとも利息含みで投資金額が抑えられ、トータル有利との目算であった。連結器含む全長は17,694mmで、戦前私鉄では最大だった江若鉄道キニ一統の18,736mm(機関GMF13)には及ばないが、私鉄唯一のKP170(GMH17)装着車であり、かつ左右対称3扉車でもあった。

東京横浜電鉄キハ2鉄道趣味第4巻4号(33号)

東京横浜電鉄キハ8西尾克三郎撮影上=キハ2 鉄道趣味33号(伊藤東作撮影) 下=急行運転中のキハ8(西尾克三郎撮影)

実は電車線にガソリンカーやディゼルカーを投入し、投資金額を抑えるとのセールスは、日車が先駆け、予想をはるか超える広い範囲に営業活動を展開していた。その中には標準軌間の九州鉄道(現西日本鉄道大牟田線)や大阪電気軌道、参宮急行も含まれ、各種のセールス用図面が残存している。現実の売り込み成功が瀬戸電気鉄道2輌、東京支店では丸子鉄道1輌にとどまったのは、その後石油消費規正が追いかけたことが大きい。

例えば山陽電気鉄道飾磨線1937年4月6日免許取得時点では、動力瓦斯倫だった。故亀井一男氏すらご存じなかったのだから、知る人は少ない。日車はまさか東京横浜電鉄までもとは、予想しなかったのか。まんまとライバルに大魚を攫われた次第であった。

でその東横だが、わざわざ会社定款の「電気鉄道ヲ敷設シ」から「電気」を抜き「鉄道ヲ敷設シ」と改めた程、ただならぬ入れ込み様ではあった。しかしいざ導入してみると、特に勾配区間での加速性能が電車に比し著しく劣り、ダイヤを乱すことが露呈。結構勾配があり、それも急行停車駅に隣接していると、ガソリンカーには不向きなのであった。スタイルは川崎車輛ならではの欧州風であり、妻面は嵌め殺しで、コーナーの三角窓を外に開いて風を入れる。

当初重連使用を見込んだが、結局はラッシュオフの単行走行に止まった。それでも、1937年度は405,664km走行し、ガソリン消費は232,818リットルで、1リットル当たり1.74km。1輌1日160kmしか走行しなかったから、到底投資額に見合ったものではなかったことになる。その年日中戦争が勃発し、石油消費規正が始まったから、不運な車輌ではあった。

神中鉄道キハ6大谷正春1940.12厚木神中鉄道キハ6 1940年12月厚木 大谷正春撮影

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しまかぜ 他

伊勢志摩しまかぜ本日、しまかぜの試乗列車が走るとのことで伊賀神戸へ行ってきました。近鉄沿線に住んでいながら実物を見るのは初めてです。詳細はこれからも紹介されてくると思います。ついでといってはなんですが伊勢志摩ライナーのリニューアル車も撮りました。黄色の場合は外観上大きな変更はありません車体下部のラインの色が変わったのと側面にロゴが入ったくらいです。しまかぜの方は初日の指定券も20分程度で売り切れたようで今後の乗車会が楽しみです。

北海道のたび

1月31日から2月4日まで北海道に行ってまいりました。北海道には学生時代に夏、冬各1回、その後家族旅行で足を踏み入れたものの、それからもう20年以上経ってしまいました。今回行くにあたり、一番の目的は釧路湿原を走るSL湿原号を撮ること、それに函館、札幌の市電の撮影など、雪の風景と一緒に北海道の冬を実感してみたいと思いました。

函館市電と摩周丸

函館空港から湯の川までバスで行き、湯の川で市電の1日乗車券を購入、途中下車しながら函館駅まで行きました。1992年1993年の一部廃止で系統は2番,5番の2系統に減りましたが、この2系統が夜間を除き12分毎に運行しており、両系統が重複する湯の川と十字街の間は6分ヘッドで頻繁に来る感じがします。但し、2009年の時刻表を見ると10分毎の運行になっていて、こ2,3年で減便されたようです。それでも車内は立ち客も多く、特に五稜郭公園から函館駅の間は地元客の利用が多く、函館駅から西の区間では観光客の利用が多いように見受けられました。現在走っている車両で一番古いものは1948~50年に製造された500形で、これを撮りたかったのですが、残念ながら撮影できず、1両だけある800形を撮影することができました。五稜郭公園にて

五稜郭公園にて

最近は広告のラッピングされた車両の多い中、広告のない旧塗装で、やはりこの塗装が函館の町にはしっくりときます。 続きを読む

東急渋谷の記録今昔

昨今の鉄道写真はイベント列車ややらせの写真が多く、うんざりする。その点、天野克正さんの作品は日常の普段着の世界。予め計算されていたのか難しい逆光線をうまく使っておられ、蒸機ならではの味わいがある。天野さんの作品は当時のDRFC明徳館地下1階写真展では傑出していた。心からご冥福をお祈り申し上げます。デジ青ではどですかでんさんが蒲原電車の同種と思われる他社車両について研究し、助言を求められている。もとより私の如き単なる撮り鉄にはわからない話であるが、それでも大変興味深いものがある。さらなる研究発表を期待したい。

さて、本題であるが、先日、電車少年こと乙訓の老人さんが武州詣でに来られ、@ロギング太郎さん、藤本哲男さんと同行した。池袋より東上線急行に乗車し、越生の梅林も見ず、八高線、西武新交通システム経由で駆け足旅行を終え、渋谷道玄坂近くの高級中国料理店で宴を催した。宴に先立ち、老人さんより「この辺に玉電の渋谷駅あったな、確か谷底のような駅や」と言われ、東急、京王、営団(現メトロ)が共同開発した渋谷マークシティの道玄坂口をご案内した。玉電は1969年5月10日に渋谷~二子玉川と砧線を廃止、残存しているのは三軒茶屋~下高井戸の現在の東急世田谷線であるのは皆様ご存じのとおりである。因みにゲージは京王線と同じ1372ミリである。廃止日である1969年5月10日に撮った装飾電車デハ65の写真がある。左に井の頭線3000系が見えるが今はこのような野ざらしのホームではない。当時は4両編成で急行がない時代である。右に僅かに見えるのは営団(帝都高速度交通営団、現東京メトロ)銀座線の折り返し用引き込み線。↓s-1969.玉電渋谷花電車

これが谷底の駅玉電渋谷で停車中の電車は200形204は中間1軸の連接車。右には営団銀座線の車両が見える。多分2000形と思うが定かではない。廃線後はバスが利用し、奥にはターンテーブルがあった。↓

s-1969.玉電渋谷200

東急渋谷駅と言えば3月16日に東急東横線が東京メトロ副都心線と相互乗り入れを行うのに伴い廃止される。このため、私もその一人であるが、連日カメラを構える人で賑わっている。  ターミナル駅全体を撮り、思い出とするのが一般的であるが、マニアは現在習熟を兼ねて営業運転に入っているメトロの車両を今後見られなくなる渋谷~代官山間で記録することに主眼を置く。走らない日もあるので注意が必要である。写真は本日3月1日渋谷駅1番線に到着したメトロ7029の東横特急の到着シーンである。↓

s-13.3.1渋谷メトロ7029

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瀬戸内だより

広島からニュースを2件お届けします。

「トワイライト 呉線を走る」 

去る2月19日に続き、本日もトワイライトエクスプレスの車両を使った団体臨時列車が岡山から呉線経由で広島まで走りました。「トワイライトエクスプレス車両で行く瀬戸内ランチクルーズ」と銘打った企画ツアーで、食堂車での食事がウリのようです。3月以降計6回走るようです。3月19日、28日、4月2日、9日、5月21日、6月4日に予定されています。呉線に電機や客車が走るのは久しぶりで、平日にもかかわらず、レンタカーで追いかける人たちも大勢いました。私の撮影場所は須波ー安芸幸崎間です。来月以降は宮島口まで延長運転されるそうです。この企画ツアーの帰路は新幹線利用なので トワイラはセノハチを越えて空車回送されるはずですが、この回送ダイヤが不明です。田舎町では「ダイヤ情報」が手に入らないので、どなたか教えてください。IMG_6572-1

「ドルトムント電車レストラン 3月末で閉店」

千田町の広電本社前で営業してきたレストランが残念ながら店じまいするそうです。KAWANAKAさま お急ぎください。

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天野克正君の作品

冬隣
『冬隣』

家路
『家路』

雪の晴れ間
『雪の晴れ間』

信じられない、天野君が亡くなったなんて。まだ60歳台でしょう。
最近会ってはいないが、がっしりとした体格で筆者よりはるかに頑丈そうに見えたのに。

筆者が卒業後に、岩波君や宮本君達とよく一緒に居て、その縁で知り合ったと思う。湯口さんの写真を見ると、よく一緒に出かけていたのが判ります。

写真のセンスは湯口さんの言われる通り、筆者などは真似ができない。2006年の第一回写真展(於・大阪富士フィルムギャラリー)の出品が3点あった。デジタル青信号のギャラリーにアップされているのだが、管理人さんに無断で引っ張ってきてここに掲載させてもらった(管理人さんお許しください)。

彼の作品を見ながら、同行した時のことを思い出しています。声高らかに大騒ぎするスタイルでなく、静かであり、それでいてにこやか。穏やかな笑い声は、いつも同じでした。

筆者が特に覚えているのは、筆者の名を呼ぶとき、独特のイントネーションであった。多くの人は『つ』を高く、『る』を低く発音するが、天野君は逆で『つ』を低く『る』を高く発音した。今でもその発音が懐かしく耳に残っている。柔らかな声で、今にも呼ばれそうな気がする。それをもう望めないのは残念で仕方がありません。
ご冥福を心からお祈り致します。
またしても佳人短命、神様はいつも意地悪であると思う。

2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part14 中国最北端の北極村 その3

第15日目 1月6日
漠河22:26(2668次)→翌日23:00哈尔滨

01_北極村今日は北極村での3日目です。ゆっくりとくつろぎました。夜には、夜行列車で哈尔滨へと向かいます。
小竹先生は、朝食後すぐに朝の村の様子を撮りたいと出かけられました。私は、部屋でゆっくりPCで中国鉄路の列車残席情報のチェックです。
と、言いますのも哈尔滨に戻った後、東方江等の国境の町に向かいたいのですが、往路の切符はあるのですが復路がなく、何処にも行くことができません。切符発売の12日前から同じ状態が続いていて、ネット上で検索が不可能状態です。春節は2月10日ですので、民族大移動にはまだ早いと思われます。站で切符を押さえているのか何か理由がありそうです。

03_02_温度9時過ぎに先生が返ってこられ、今度は山の方へ行こうかと言われ付いて行きました。麓には民俗村もありましたが、冬は閉館です。山頂からはアムール川とロシアが見えるそうです。しばらく登りましたが、私はしんどくなってギブアップしました。老体には雪深い登山は無理です。麓の山小屋でストーブにあたって休憩です。外温はマイナス28℃です。山小屋の番人は、昨夜はマイナス38℃だったと言っていました。陽が昇りだすとすぐに温かくなるそうです。

04_魚売り 続きを読む

天野克正君死去

1977.61977.11974.11

天野君が亡くなったと乙訓老人からメールがあった。彼とはここ何十年も顔を合わしていない。名簿を見ると1964年商学部とあるから、乙訓老人と小生は1957年なので、卒業3年後の入学である。付き合いは社会人になり、主に車で撮影に出かけた時だったので、一緒にカメラに収まった機会は結構多かった。その内の何枚かをアップする。上から別府鉄道ハフ7車内(1974年7月13日)、「日本海」ハネ内(1977年1月14日)、木曽森林鉄道(1974年11月2日)。

彼はポッチャリした体格で、気質も同じくおおらかだった。腹を立てたとか、怒ったりした姿は見たことがない。日本海のハネに大挙乗車して津軽鉄道、南部縦貫鉄道に出かけたときは、リュックサックに何とコーヒーメーカーを背負ってきており、ハネの洗面所電源でモーニングコーヒーを入れてくれた。人数が多いから、確か3回ぐらい重ねたはずである。

写真の腕はよかった。センスというより感性といったほうが適当と思うが、何とも言えないいい写真を撮っている。それにもまして文が立った。独特というか、真似のできない、しようのない文をサラサラと書いた。

家業の魚屋を継ぎ、商店街の理事長を引き受けたと聞いていたが、あの性格で、恐らく誰からも文句のでない、穏やかで丸やかな、それでいてけじめはきっちりつけて角は立てない、立派な理事長だったはずである。

2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part13 中国最北端の北極村 その2

第14日目 1月5日

01_外温02_日の出7:30、中国最北端の北極村で極寒の朝を迎えました。温度計を窓の外に出して外温を測ってみましたが、マイナス28℃とそれほどではありません。深夜にはもっと下がったでしょうが、哈尔滨に着いた時の漠河は、マイナス46℃でした。大寒波に見舞われたそうですが、以降は温かくなったようです。今日と明日は、北極村で極寒の世界を堪能する予定です。朝食後、早速に村の様子を見に行くことにしました。
03_国境警備隊今日の記事にはが出てきません。1月6日と合わせて北極村紹介とさせていただきます。ご了解のうえご覧ください。

最初に訪れたのは、国境警備隊の建物でしたが、門衛はいません。北朝鮮との国境とは雲泥の差です。これを見てもロシアとの緊張感がないことが分かります。

04_国境 続きを読む

2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part12 中国最北端の北極村へ その1 古蓮駅、月牙湖駅、漠河駅

第13日目 1月4日

齐齐哈尔10:50(6245次)→9:16古蓮

朝、目覚めると二人だけだった部屋には、あと二人の乗客もおられました。そして、ガラガラだった他の部屋も満員です。爆睡しておりましたのでどこで乗車されたかはわかりませんが、多分加格达奇(ジャガダチ)だったのでしょうね。
11_漠河へ12_DSC_8749▲ 列車は昨日までの雪原ではなく森林地帯を走っていました。1站1站、古莲へと近づいていきます。いよいよ中国最北端に来たなあとの実感がわいてきました。育英を過ぎた頃に朝日が昇ってきました。

10分停車の漠河では殆どの乗客が降りました。我々の下車站は、まだ17キロ先です。
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2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part11 阜新から漠河の北極村への旅路 齐齐哈尔站(チチハル駅)

第11~12日目 1月2日~3日

① 1/2-阜新17:41(4207次)→21:07沈阳(Taxi)→沈阳北
② 沈阳北22:35(K549次)→1/3-7:24齐齐哈尔(チチハル)
② 齐齐哈尔1/3-10:50(6245次)→1/4-9:16古蓮

今夜から小竹直人先生と二人で阜新を出発して、中国最北端の地、黒竜江省漠河のその名も北極村へと向かいます。移動距離は、約2,000キロです。
北極村の極寒の冬はマイナス50℃にもなり、運が良ければオーロラも見えると言われています。鉄道とは無関係の所ですが、小竹先生より「中国の蒸気機関車撮影には数10回も来ているが、最北端の地も一度は行ってみたい。それも極寒の真冬こそ一番。」とのお誘いを受けて、綏棱森林鉄路阜新大爆煙ツアーの後で訪れることにしました。
また丸谷氏からは、グーグルアースを見ていると終着站の古莲から線路が伸びている。古莲站構内にはデルタ線も見えているので、ひょっとして森林鉄道ではないだろうか。古莲には訪れた日本人も少なく情報がない。行かれた方でも列車本数が少なく、周りになにもない站なので直ぐの折り返し列車で戻っている。行くなら是非とも探索をお願いしたいとの依頼もありました。
2つの目的を持って訪れることになりました。
中国鉄路線_地図 続きを読む

2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part10 阜新煤礦鉄路の大爆煙 その2

第10日目 1月1日

新年があけましたが、中国では春節(旧正月)がお正月です。何のお祝い行事もありません。我々にとっては、月夜の大爆煙ショーこそが新年の始まりです。
0時前にすぐに「フライアッシュ号」が来るので、急ぐようにとの連絡が参り、ホテルをでました。凍てつく道をワクワク気分で山へと向かいました。
[googlemap lat=”41.957471594303776″ lng=”121.6317629814148″ align=”left” width=”300px” height=”180px” zoom=”16″ type=”G_HYBRID_MAP”]遼寧省 阜新[/googlemap]
ところがです。撮影ポイントに行くには、205信号所の下の道にあるゲートをくぐらなければなりませんが、鉄柵の門は閉まっていて車では入れません。降りて開けようとしましたが、電動になっていてビクともしません。

仕方ありません。もう1つのゲートがある205信号所上の道に進路を変えて向かいましたが、ここもガッチリ閉まっていて施錠されています。困りました。すでに「フライアッシュ号」は、五龙炭鉱前にある信号所で待機中です。205信号所へと向かうのは時間の問題です。
こうなれば、撮影ポイントに行くには徒歩しかありません。約40分程度は必要です。再度、先ほど通った205信号所に行って、発車を遅らせてもらうように交渉しようとのことになりました。
交渉が上手くいくようにと祈りましたが、やってきた「フライアッシュ号」は、205信号所前を殆ど停車することもなく、我々の前を通過していきました。呆然と見送る以外ありませんでした。

01_月

正月の午前3時、全てが終わって見た阜新の月はとっても綺麗でした

結果論ですが、最初のゲートでチャーター車を降りて山に向かうべきでした。まだ時間がありました。

しかし、月明かりの外は凍てつく寒さです。こんな条件下で待つのには勇気だけではできません。できれば温かい待機場所を必要としていましたので、その時にこの選択は考えられませんでした。

T中さんは、ここでの夜撮のご経験もおありでしたが、いつもは205信号所に一旦停車する蒸気機関車に乗せてもらって向かわれていたそうです。今回は、案内人を入れての8名です。多いので乗せてもらう交渉は始めから不可でした。

と、いうわけで、新年早々は失意から始まりました。

02_踏切前【DATA】 7:11、125㎜、F7.1、1/5秒、ISO200、-03段
02_点検【DATA】 7:22、300㎜、F6.3、1/125秒、ISO2000、-0.3段

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蒲原鉄道保存車両モハ1のこと

  以前にNHKの番組で録画した「思い出の鉄路 本州編1」を久しぶりに見ていた。順番に南部縦貫鉄道、小坂鉄道と見て、そして蒲原鉄道になってから現在の保存車両が写っているのを見ていると、どうも「信貴電の不思議 改訂版」で紹介した信貴電のデハ51とよく似ているのに気がついた。映像を戻し、一時停止してよく見てみるとやはり似ていた。デハ51の絵葉書と見比べてみたが、ドアと窓の配置と数が同じであった。見た感じの大きさも同じのように感じた。保存車両がモハ1となっていたのでインターネットで検索してみるとこの蒲原鉄道モハ1について投稿記事が多くあり、新潟県加茂市の文化財として県内最古の木造電車として加茂市の所有として保存されていることがわかった。蒲原鉄道のモハ1は全長11.455m 定員66名 自重20.03tである。信貴電のデハ51は信貴生駒電鉄社史の車両一覧で全長11.40m 定員65名 自重12.9tとなっていた。全長と定員についてはほぼ同じであることがわかった。

 大和川鉄橋を渡る生駒線の電車

 ∧ かつて信貴電のデハ51が走っていた大和川橋梁を望む。

信貴電デハ51は北大阪電鉄(現在の阪急千里線)のデハ1形(新京阪P1)として大正10年3月に梅鉢鉄工所製で8両製作されたものの中から信貴電に売却されたものであることが知られている。そして、蒲原鉄道のモハ1はインターネット上の投稿記事からまとめてみると当初はデ1、2の2両あり、保存されているのはデ2が倉庫として使用されているのを復元改修して現在の状態で保存されているということである。この電車は大正12年(1923年)に蒲田車輌製作所で製作されたとあった。さらに、この電車は目黒蒲田電鉄(東京急行電鉄の前身)の大正11年(1922年)汽車製造合資会社で製造されたデハ1形と寸法がほぼ同じとあった。そして信貴電デハ51と全長がほぼ同じということは・・・?

 デハ53号電車

∧ 再び信貴電デハ51形53号電車の絵 (信貴山下駅に停まっている絵葉書より作成)

 さて、蒲原鉄道デ1,2(現在の表示形式モハ1)、目黒蒲田電鉄デハ1、北大阪電鉄デハ1形の三つ巴の関係はいかに?まったく関係なく、たまたまに同じようなものがほぼ同じ時期に偶然存在したのか?それとも、なんらかのつながりがあったのか?名探偵金田一さん教えて~

2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part9 阜新煤礦鉄路の大爆煙

第9日目 12月31

① 哈尔滨 前夜21:51(1522次)→4:22沈阳北
② 沈阳北站4:45(チャーターバス)→8:38阜新

01_瀋陽北駅ホーム4:33、まだ夜明け前の沈阳北站に着きました。
12月1日に哈尔滨~大连を結ぶ哈大高速鉄路が開業しましたが、在来線と同じ站は、沈阳站と、ここの2站だけです。
ただ2站間距離は3キロしかないので、両駅とも停車する列車は殆どなく、どちらかになっています。かつては満鉄時代に東京駅を模して建築された沈阳站がメインでしたが、今は、沈阳北站を発着する列車が圧倒的です。両站は地铁、BusまたはTaxiを利用しての移動となっています。

02_瀋陽北駅03_夜明け04_高速道路▲ 沈阳から阜新へ向かうには新义線の利用となりますが、沈阳北站ではなく沈阳站からの乗車となります。1日6往復があります。鉄路利用で行きたかったのですが、接続列車は沈阳站10:17発しかありません。
阜新に行きたいのは、大爆煙を撮るのが目的でしたので、できるだけ早くに着く必要があったためにチャーター車となりました。沈阳北站北口から今夜のホテル中林国際酒店までは、高速道路で約200キロあります。
凍てつく道は、スピードを上げられません。約4時間弱を要して8:38に到着しました。
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2012年~2013年 極寒の中国鉄路の旅 Part8 小竹直人企画「綏棱森林鉄路(スイリン森林鉄道)撮影ツアー

第8日目 12月30日
哈尔滨21:51(1522次)→4:22沈阳北

今日は綏棱森林鉄路の復路です。晴天になればと期待をして6時前には起き上がり、まずは荷物を持って宿泊所を出て、昨夜の夕食をした食堂に置きました。
01_建国駅01今日は朝から失敗はできません。夜明け前の積雪路をカメラのレンズキャップはしたまま、建興站構内へと向かいました。
残念ながら夜空には月はおろか星すらも見えません。

DLから前照灯をいただいて夜撮ならぬ朝撮です。
【DATA】ズーム48㎜、F7.1、
6秒、ISO200、0段

01_建国駅00【DATA】44㎜、F7.1、1.6秒、ISO200、0段
上の写真2カットは、ほぼ同じ場所で同一条件で撮りましたが、三脚を極力使用したくない私的には、シャッタースピードを速くして自然に近い状態で撮影することが好きです。今回は折角三脚を持ってきましたので使用しましたが、この条件下であれば単眼レンズの55㎜F1.4か、35㎜F2.8に換えての手持ちで撮っても良かったと、後で悔みました。

F値については、デジタル一眼レフカメラでは、F8が一番良いとカメラ雑誌に出ていましたので選びましたが、小竹先生によると一般的であって、使用するレンズ特性によって画一ではないと申されます。最近のレンズは解放でもそこそこの画質を得られていて、1段絞れば十分なのが多いそうです。もう少し自分で勉強する必要がありますね。
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大阪市電 801と11

関 三平氏の「昭和の電車」は、年が明けて以降「鋼体化改造車」を取り上げられており、今回は大阪市電801形が登場した。

801形は、昭和7年木製車1001形の鋼体化改造車として801~805が製作された。路面電車としては初の前中扉を持ち、中扉はドアエンジン付の両開きであった。引続き8年から10年にかけて、正面窓を向かって左側を広くして、中扉を片開きのワイドドアにした806形(806~857)52両を鋼体化改造車として製作された。中扉は自動で半開、全開が選択できた。10年に806形と同一車体の新車881形(881~890)が新製された。
戦時中多数の車両が戦災で廃車になったため、残存車は24年の改番で前述の3形式が同一形式にまとめられ、800形801~852となった。

廃車が昭和39年と早かったので我々団塊世代の撮影は、大阪市内または周辺に居住して、路面電車に興味を持っていた人がギリギリセーフと言ったところであろう。私自身801形は辛うじて撮影できたが、流線形の901形は撮影していない。
トップナンバーの801が、森之宮車両管理事務所で保存されている。

廃車後は、神戸市交通局に20両(100形101~120)、鹿児島市交通局に4両(210形211~214)譲渡されたが、いずれも短期間で廃車された。

801/(43-7-7) 三宝車庫 廃車後保存予定車として保管されていた。
43-7-7三宝車庫801

815/ (39-5-16) 港車庫前
815 39-5-16-2
815-2

神戸市電
昭和38年に800形20両、900形15両を譲受けた。正面窓と方向幕を改造して使用されたが、救助網が無かったことで人身事故が発生したことと路線縮小の余波を受け、43年5月1日付けで全車廃車されてしまい、僅か5年間の在籍であった。

115(元836)/ (39-12-23) 三宮駅前
39-12-23 神戸115

119(元849)/ (39-12-23)  長田
PICT0001

107(元818)/ (43-4-14)  兵庫駅
43-4-14 神戸107
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広電1000型運行開始

新型超低床連接車1000型(1001、1002)が本日2月15日から営業運転に就きました。3連接と短い車長のため、従来連接車が入線していなかった江波線、白島線に投入され7号、8号、9号系統で運行されます。特に白島線(9号系統)は今まで全列車八丁堀-白島間の折り返し運転だったのが、始終発の回送車だけが使っていた八丁堀の渡り線を使って白島-江波の直通運転が始まり、乗り換えの煩わしさが軽減されます。この2両の運行ダイヤは広電のHPに載っています。気になるのは旧型車の廃車が進むことですが、1000型投入により京都1900型や大阪900型が次第に減ってゆくことでしょう。一方広電のお家騒動で突如社長の交代劇があり、広島駅前ターミナル構想が地下駅化から高架駅化に変更されるようでもあり、また運賃値上げや全線均一運賃化も白紙に戻される気配があったりで、いろいろな面で広電は要ウオッチです。本日の中国新聞朝刊を添付します。IMG