毎度の新聞記事で恐縮です。21日、22日と2日連続で中国新聞に掲載されたのでご紹介します。21日は三江南線状態のため汚物処理施設のある浜田に車両をもってゆけず、キハのトイレが使えないという話。かつてのような「黄害」はなくなりましたが、こういう落とし穴には気づきませんでした。一体汚物処理施設はJR各社のどこにどれぐらい設置されているのか気になります。なお現在不通の江津・浜田間は25日に開通予定との記事もあります。22日の記事は三江線廃止を懸念する取り組みの話です。
ラッピングお手伝い報告
先月吉田先輩からお誘いのあった京阪石坂線の「大津ジャズフェスティバル」ラッピング電車のラッピング作業に行ってまいりました。ぶんしゅう先輩、Tさんご夫妻も来ておられ、実行委員会のメンバー含め総勢約20名で作業を始めました。
シートは1両分、片面で9枚、ドア部分は左右とドア下の3枚が1組になっていて一両分全部で15枚で構成されます。
ラッピングシートは長い巻物になっています。 続きを読む
国鉄モハ30形→クモハ11100番代

クモハ11123+クハ16405/ (48-1-28) 可部線中島
東急、京王、京成と関東大手私鉄の戦災復旧車が続いたので、暫く戦災復旧車が続くのかと思っていたところ、予想に反して国電が登場した。
モハ30形は、同形の付随車サハ36形、サロ35形と共に昭和元年から3年にかけて国鉄(鉄道省)初の半鋼製車として258両製作された。内訳はモハ30形205両、サハ36形45両、サロ35形8両である。
元年製と2年製は旧称号のデハ73200、サハ73500、サロ73100で登場して、3年の称号改正でモハ30、サハ36、サロ35に改番された。
サロ35は13年11月東京地区通勤路線の2等車廃止によりサハに格下げされたが、16年から17年にかけて中扉を増設してサハ36形に編入され36046~36053となった。
戦災で60両を失い、戦後は飯田線向けセミクロス化による他形式に改造等で両数が減少、モハ30の電装解除によりクハ化(クハ38050番代→クハ16200番代)、運転台撤去による中間電動車化(モハ30500番代→モハ10)が実施された。
28年6月1日の改番時でモハ30はモハ11000番代(丸屋根改造車は300番代、後に100番代)、中間電動車化(同時に丸屋根改造を実施)された車両はモハ10、クハ38に編入された車両はクハ16100番代(丸屋根改造車は200番代)、サハ36はサハ17000番代(丸屋根改造後は100番代)となった。
二重屋根は26年から31年まで丸屋根改造(更新修繕Ⅱ)が実施されたが、未改造のまま廃車された車両も存在した。
その後も両運改造、事業用車改造が実施された車両が存在したが、文章では複雑になるため画像で解説する。
八月だ、もっと熱くなろう! 2013年 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part17 ジャカルタの国電 乗り鉄、撮り鉄一人旅 2の1
第10日目 8月5日 ジャカルタの国電 2の1
インドネシアSL撮影の旅では、皆さんが帰国された後、1人最後に残りました。前日に帰国することも出来ましたが、1日違いで航空券代が高くなり、もう1泊しても滞在費用を十分にまかなえるくらいありましたのが理由でした。今日は前回、乗車も撮影もできなかったインドネシアの国電のリベンジです。
さすが疲れも最高潮ですので、朝はホテルでゆっくり朝食をとって荷物を整理してからとしました。深夜の便で帰国しますので、チェックアウトをして、荷物をクロークに預けて10時の出発です。
インドネシアで初めて鉄道が開通したのは1867年8月10日、スマラン~タングン約25キロでした。
しかし、ゲージは標準(1,435㎜)であったために工費に膨大な費用がかかり、不採算になりました。
そのため以降のゲージは狭軌(1,067㎜)が採用されることが多くなりました。狭軌鉄道が最初に開通したのは、ジャカルタからボゴールまでの路線で、上の路線図の中央の赤線区間です。
NIS(蘭印鉄道会社)によって建設され、1873年1月31日に開通しています。またこの区間は1925年に初めて電化された区間でもありました。
京阪京津線の運休について
先日の台風18号による大雨では大津市内でも小さな川があちこちで氾濫し、人的被害は無かったものの中心部で広範囲に浸水の被害が出ました。鉄道でも琵琶湖線が膳所駅西側で築堤が崩れたため2日間運休、京阪大津線では御陵駅、追分駅の浸水、大谷から浜大津間の浸水と土砂の浸入で、16日から現在に至るまで不通になっています。今日現在水は引いて、地下三階部分が水没した御陵駅も昨夜復旧、地下鉄東西線は運転再開しました。唯一残っている大谷駅から上栄町にかけては、横を流れる吾妻川が氾濫して、逢坂1丁目の国道1号線と161号線の分岐するところから、161号線の踏み切り(旧上関寺駅)あたりまでが被害がひどく、まだ土砂で埋まったままです。この部分は洪水によって流れが変わってしまって土砂の流入が止まらず、まず河川の改修を先にやっているため開通が遅れています。現場は私の家から歩いて15分くらいのところなので、今日様子を見て来ました。 続きを読む
保存車両とその現役時代(協賛編)その5
毎度山陽路の話題で恐縮です。今回は片上鉄道DD13552です。1991年(平成3年)7月1日の営業廃止から22年が経ちました。柵原鉱山から片上港に硫化鉱を運ぶ鉱山鉄道として長大編成の貨物列車や朝夕の客車列車など独特の雰囲気の鉄道でした。廃止時には2両のDD13がいたのですがDD13551は終点の柵原のひとつ手前の旧吉ケ原駅跡で動態保存されています。柵原ふれあい鉱山公園として整備された吉ケ原駅に 片上鉄道保存会や地元美咲町所有の11両が大切に保存され、そのうち9両が動態という優等生の保存鉄道です。今回はこのDD13551の紹介ではなく もう1両のDD13552のご紹介です。JR赤穂線西片上駅の南西500mほどの海岸に旧片上駅跡があります。1面の旅客ホーム、機関区、数多くの留置線、そして貨物船に硫化鉱を積み込むためのホッパー設備などがある広大な駅でした。その片隅に今もDD13552が保存というより 保管?されています。まず直近の平成25年9月9日の状況をご紹介します。
近鉄内部・八王子線存続へ
存続か廃止かと以前よりヤキモキしていた数少ない軽便鉄道の近鉄内部・八王子線の鉄道存続が四日市市と近鉄の間で合意されたと本日9月19日23時の朝日新聞デジタル版で報道されていました。報道によると車両と施設は近鉄から四日市市へ無償譲渡され、運行は近鉄の子会社が行うという「公有民営方式」を導入されたとあります。年間約1億3千万円の赤字については料金、人件費などの見直しを行い、四日市市と近鉄の両者で負担するということで合意したそうです。さらに詳細について協議を行っていくとの事です。昨年末に訪れた時も思っていたより利用者が多いので廃止になると利用者は不便になるのではないかと思っていましたが、存続が決まって何よりです。しかし、赤字には違いないので合理化をして新しい公共交通機関として生まれ変わることを望む次第です。下の写真は1973年11月に撮影したもので、この時より現在の方が乗客が増えているのではないかと思いましたが、勘違いでしょうか?沿線も畑や田んぼが住宅地に変わっているので利用者を増やす余地があると思うのですが。
保存蒸機とその現役時代(13)
保存蒸機との再会はどちらかというと入場料を払って入る博物館のような専門の展示場所よりも小学校の校庭とか、田舎の駅前とか、公園の片隅のような所の方が好きだ。こんな所に保存されていたのかとその対面の場所に一喜一憂することがある。勿論、雨ざらしやいたずらで荒廃した機関車は見るに堪えないし、鳥かごやおりに入っているのも窮屈な感じで気の毒である。さて、小樽総合博物館であるが、ここは北海道最初の鉄道発祥の地である旧手宮駅の構内を使っており、敷地が広い。北海道で活躍した車両が50両以上あり、中には鉄道遺産に登録されている貴重な車両等がある。しかし、残念なことに屋外展示の車両の多くは雨ざらし状態で塗装が剥げ、錆びが出て、ナンバーが剥ぎ取られた機関車も見受けられた。私よりも少し前に訪問された西村雅幸さんも同様のことを述べられている。小樽総合博物館は平成19年7月旧小樽交通記念館に小樽市博物館と小樽市青少年科学技術館を統合して開館したとのことであるが、鉄道発祥の地という場所柄北海道鉄道総合博物館の印象であった。訪問目的はC5550でこの機関車は1937年汽車会社製造、製番1458で当初仙台に配属され、1955年に旭川に転属後1974年廃車までずっと北海道で活躍した。この機関車は当初C5530のナンバープレートを付けて保存されていたということで若し本当であるならとんでもない話である。家の表札を取り替えたようなもので何を考えているのだと言いたい。
2013.7.4 小樽総合博物館 C5550↓
1969年3月18日 函館本線深川~妹背牛間 331列車小樽発名寄行きC5550[旭川] 小樽行き322列車から撮影 C5550の現役写真はこの1枚のみ↓
“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈3〉
新島旧邸とその周辺
前回紹介の鴨沂高校から、寺町通を200メートルほど南へ行くと新島旧邸がある。現在の建物は、新島襄と八重が住んだ私邸であるが、同時に同志社創設の地でもある。
明治8年11月29日、「同志社英学校」の標札を掲げ、開校の祈祷が、新島と8名の生徒によって行われた。校舎は、華族である高松保美の自邸の半分を借り受けた。もともと、ここには、御所の消防を担当した淀藩の中井主水という人物の屋敷があり、そのため火の見櫓があったと言う。その後、高松保美が住むが、遷都で東京へ移り、屋敷には誰も住んでいなかった。大河ドラマでは、蜘蛛の巣の張った荒れ放題の屋敷を新島襄が下見する場面も描かれていた。屋敷は903坪もあり、現在で言うと、隣の同志社新島会館、さらにその南隣の洛陽教会も含む区域で、のちに全域が同志社の所有となった。
しかし、翌明治9年9月に、校舎は、現在の今出川キャンパスのある薩摩藩屋敷跡へ移転してしまう。したがって、この地で、授業が行われたのは、わずか10ヵ月に過ぎない。明治11年に、コロニアルスタイルの擬洋風建築の現在の建物ができ、襄と八重の住む私邸となった。
明治22年に新島襄は永眠するが、八重は、昭和6年に永眠するまで、一人で住んでいた。大河ドラマの主人公が、私の実家から、数百メートル先で、昭和の時代まで生き続けていたとは、不思議な思いにとらわれる。
さて京都市電との関わり、と言うことで、いろいろ資料を漁っていると、またまた、自分にとっては、初めての写真を見つけた。
「京都市町名変遷史」第一巻に載っていた写真で、出典は不明である。電車の背後の森が、現在の新島旧邸、中央は、同じ敷地にあった洛陽協会である。電車は、前回にも記した京都電鉄出町線であり、撮影時期は、明治34年の開業から、大正13年の廃止までとなる。
が、写真をよく見ると、複線になっている。私は、出町線は単線とばかり思っていただけに、全く意外であった。 乙訓老人にも聞いてみたが、寺町通の拡幅と同時期ではないかとの示唆をいただいた。前述の撮影期間のなかで、大正に入ってからの撮影と思われる。なお、手前の洛陽教会は、同志社の敷地だったが、襄の死後に土地が売却され、明治26年に写真の教会が建てられた。
八月だ、もっと熱くなろう! 2013年 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part16 Purwosari駅機関庫とソロ街角散歩
第9日目 8月4日 Purwosari 駅機関庫とソロのグデ市場
ソロはジャワ島の中心部に位置します。正式名は1745年、マタラム王国の王都がソロ(Solo)の地に移され名付けられた「スラカルタ」ですが、今もかつての名前で呼ばれています。
1749年には王位継承争いが勃発、王都はスラカルタとジョグジャカルタに分裂して、王宮が2つ存在する結果となりました。宮廷文化が残る古都で訪れる観光客も多いそうですが、私はそういったものには関心がありません。日頃家事をしていますので、関心があるのは庶民の暮らしです。暮らしを分かるには市場に行って食材を見るのが一番です。
今日は、タクシマド製糖工場へ行かれるO氏とMさんを見送ってから、アリフさんに知っておられる『ペチャ』を予約していました。
ところが約束の時間になっても来ません。これが『ゴム時間』なのでしょうが、午後からはジャカルタに戻るフライトがありますので、時間を取られるのは困ります。ホテルのお姉さんに頼んでアリフさんに電話をしてもらいました。約40分も遅れての出発でした。

▲ 今日の午前中の軌跡です。
まずはPurwosari 駅の機関区を見てみたいと向かいました。
朝の温度は20℃、とてもすがすがしく、こんな時に乗るペチャは最高です。
ホテルからは、地道をゆっくりと走り、約4キロ強を約20分で到着しました。
JR九州の「ななつ星」
ニュースによると、JR九州ではオリエント急行を彷彿とする超高級列車を作ったとか。
名前を「ななつ星」というらしいが、機関車をはじめ客車に関しての情報が全く出てこない。検索をしても機関車がDF2007001と言うことしかわからないが、JR貨物のDF200を改造したものか、基本性能をDF200と同じにして新たに作ったものかはわからない。客車に至っては新製車だろうが、形式などもわからない。機関車にしてもどこに型式番号を書いてあるのかわからない。
どなたか、機関車はじめ客車の基本性能諸元と、型式番号をご存じの方があればお教え頂けないでしょうか?
八月だ、もっと熱くなろう! 2013年 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part15 タクシマド(PG.Tasikumadu)製糖工場 夜撮編
第8日目 8月3日 その3 タクシマド製糖工場 夜撮編

▲ イスラム教徒は、ラマダン期間中の日の出から日没までの間、飲食はしません。飢えを経験することで食べ物のありがたみを身をもって知り、自らが恵みを受けていることを感謝する事に行う意味があるそうです。
16:44、ボチボチ日没が近づいてきました。チマキや焼き鳥やらの食材、ソースを入れた大きなトレイを頭に乗せて、おばちゃまが歩いてこられました。カメラを向けると、珍しくはにかんでおられます。直径約70㎝はある丸いトレイです。真っ直ぐに歩かれるバランス感覚は、抜群です。姿勢良く歩くスタイルは、日本の女性も見習うべきかも・・・。

15:18、TJさんとIMさんを、お見送りしてから再びタクシマド製糖工場に戻りました。
これから夕刻の『ギラリ』と、日没後の『花火』を期待しての夜撮開始です。
百済貨物駅
少し前になりますが、大阪杭全(クマタ)の近くに行く用事があり、初めて「百済貨物ターミナル」に行って来ました。もともと実家の近くであり関西線に乗った時には通り過ぎに眺める程度でしたが、今年からは梅田貨物駅も無くなったこともあり変わっているかな?という思いでした。近くまで行くとまず目に入ってきたのが大きな「歩道橋」というか「テラス」というか新しい透明感のある高架橋らしきものと新しい駅舎でした。
ターミナル駅は2013.3のダイヤ改正から本格的に稼動しているようでテラスも貨物駅全体を見晴らせるように駅西側に張巡らされています。ターミナルとしては電化され、着発線が4線、出発が2線、留置が5線、26両1300トン対応となっているようです(貨物時刻表参照)。最寄の駅はJR大和路線の「東部市場前」から5分程度または、市バスの杭全停留所の目の前です。大阪南部に来られた時は一見の価値はあると思います。
構内はテラスから俯瞰できます。
八月だ、もっと熱くなろう! 2013年 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Partr14 タクシマド(PG.Tasikumadu)製糖工場
第8日目 8月3日 その2 タクシマド製糖工場
ソロ市内線撮影後は、昨夜行ったタクシマド製糖工場へと再び向かいました。
10;25、Purwosari 駅から約40分で到着です。今日も雲一つなく晴れあがっています。夕暮れの『ギラリ』が期待できます。
[googlemap lat=”-7.57809″ lng=”110.931893″ align=”left” width=”300px” height=”200px” zoom=”17″ type=”G_SATELLITE_MAP”]Tasikmadu, Karanganyar, Jawa Tengah 57721 インドネシア[/googlemap]▲ 左側後方に見えるのは積替え場のクレーンです。ここでトラックからローリーへと積替えて、右側の工場ヤードへと牽引します。
タクシマド製糖工場では、積替えと工場へのヤードが平行して隣り合わせになっていますので、満載ローリー編成を一旦ヤード外に出してからスイッチバックで押し込みます。
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“八重の桜”ゆかりの地を訪ねる 〈2〉
その後の女紅場
女性への教育・教養の場として、明治5年、京都・河原町丸太町東入るに設けられ女紅場で、八重は女子教育に携わるが、キリスト教徒の新島襄と婚約したことにより、明治8年に女紅場を解雇されてしまう(次回の大河でこのシーンが紹介されるようだ)。
女紅場は何回かの改称ののち、明治28年に、京都府立第一高等女学校となり、明治33年には、寺町通荒神口下ルの新学舎に移転する。新島旧邸からは200メートルほど北になる。学舎は新築されたが、門は女紅場のから移築された。戦後の学制改革により、昭和23年には京都府立鴨沂高校となる。
▲現在の鴨沂高校。九条家屋敷の門が、女紅場でも使われ、現在も同高校の正門として寺町通に面して建つ。門は、三代に渡る百数十年の歴史がある。背後は、最近、取り壊しで話題になっている、昭和初期建築の校舎。和風の千鳥破風の屋根が特徴。
京都市電とのこじつけ、となると、鴨沂高校の前の寺町通には、京都電気鉄道の出町線が走っていた。寺町丸太町~出町間が、明治34年に開業するが、平行して市営河原町線が敷設されることになり、大正13年に廃止される。
営業期間が、23年間だっただけに、残された写真は少ない。知られているのは寺町今出川下ルで撮影と言われている、右書きで「でまちばしゆき」と行き先が掲げられた写真、それに、京
極小学校の門前を行く写真、これぐらいしかなかったと思っていた。ところが、ネットで検索していると、上京区役所のホームページで右のような写真を見つけた。たいへん粗い画像で、出典も不明だが、「寺町通荒神口付近を行く電車」とあり、左側の土手は、ちょうど現在の鴨沂高校前付近と同じだ。
保存車両とその現役時代(協賛編)その4
岡山臨港鉄道をもう1両ご紹介します。先のDL102号機から歩いて5分ほどのところにキハ7003がきれいな状態で保存、かつ利用されています。岡山市南区千鳥町7-7 ちどり保育園の園庭にあります。
八月だ、もっと熱くなろう! 2013年 赤道直下のインドネシアSL撮影の旅 Part13 ソロ(Solo)市内線
第8日目 8月3日 その1 ソロ市内線
▲ 我々がチャーターした列車がSoloKota 駅に到着すると、付近の住民の皆さんが一斉に集まってこられます。子供たちにとっては、絶好の動く遊び場です。列車は、たちまち子供たちに占領されてしまいました。
今日は午前中、ソロ市内を走るチャーター列車撮影、その後は再びタクシマド製糖工場へと向かいます。
ソロ市内線は、本線の、Purwosari から分岐して、約33キロ南にあるWonogiri(ウォノギリ)へと向かう支線です。
Purwosari 駅を発車すると、右へ大きくカーブして本線から離れていきます。
そして市内のメインロードを横切り、道路端を行く併用軌道です。
約5キロを自動車やバイク等と一緒に走ります。
少し行きますと、SoloKota 駅へと進入します。
昨年はここから河を超える鉄橋の向こうまで行きましたが、今年はこの支線自体が運休しており、SoloKota 駅までとのことです。
三岐鉄道その後で
先日【しまかぜ】次の日Part2で三岐鉄道を紹介しましたが、そのコメントに三岐鉄道の貨物鉄道博物館の南野様から書き込みを頂きました。
ご案内によると10/6にイベントがあり、先日修理されていたワフ21000の内部も公開されるようです。さらに三岐線でもイベント列車が運転されるようで詳細はHP http://frm.kans.jp/ をご覧くださいとありました。私は残念ながら自治会の文化祭があり(今年は役員をしています)行けませんが興味のある方はぜひ訪問してあげてください。今回に限らず記事にも書きましたが次回は晴れたジャガイモの花の咲くときに訪れたいものです。博物館の横の道からは鉄橋を渡る列車も撮れます、写真は故S氏の車で連れってもらった時のものです(2008.12.12)午後で逆光ですが、もう少し近づけば電柱等も避けられるかなと思います。
新聞切り抜き2題
保存車両とその現役時代(協賛編)その3
国鉄蒸機だけでは息切れしますので、私鉄に手を伸ばしました。今回は岡山臨港鉄道のディーゼル機関車102号機です。終戦間近の昭和19年に軍需工場の専用線として11月に着工したものの、終戦を迎え結局昭和22年2月に汽車会社の専用線として開通したのが岡山臨港鉄道のルーツです。昭和59年12月30日に廃止されました。廃止時点で5両のディーゼル機関車が在籍、江若から来たDD1352もその中の1両です。その5両のうち102号機が現在も良好な状態で保存されています。場所は岡山市南区海岸通2丁目の岡山臨港倉庫運輸の玄関先です。同社は車庫のあった南岡山で現在も盛業中の岡山臨港鉄道の後継会社です。













