最近、同級生とちょっとした論争になりました。負けられない論争です。
論点は昭和三十年代前半の奈良電のことです。私が「子供の頃奈良電に乗ると車掌が扉を手で締めて回っていた。しかも一両と言うことも多かった」といったところ、「アホ抜かせ!それは京阪の電車や、奈良電は自動で閉まったワイ!」と威張っています。彼は久津川の出身ですがその頃は本当に京阪だけが手動開閉だったのでしょうか?乙訓の老人様、覚えておられたらお教え下さい。
最近、同級生とちょっとした論争になりました。負けられない論争です。
論点は昭和三十年代前半の奈良電のことです。私が「子供の頃奈良電に乗ると車掌が扉を手で締めて回っていた。しかも一両と言うことも多かった」といったところ、「アホ抜かせ!それは京阪の電車や、奈良電は自動で閉まったワイ!」と威張っています。彼は久津川の出身ですがその頃は本当に京阪だけが手動開閉だったのでしょうか?乙訓の老人様、覚えておられたらお教え下さい。
SNOWDON MOUTAIN RAILWAY
YVでも公開された「ウエールズの山」という映画(1955年)をご記憶だろうか。原題は「The Englisyman who went up a Hill but came down a Mountain」と長く、けして大作ではないが、心温まるものだった。1917年ウエールズのとある小村に、英国政府測量官2名がやってくる。村人自慢の「山」を測量したら、規程(1,000フィート=306m)に16フィート足らず、「山」から「丘」に格下げになると知った村は大騒ぎになる、というお話。
老齢の司祭が檄を飛ばし、先ずは測量官の自動車に細工=故障させて足止め。その間に村人たちは文字通り老若男女こぞって仕事をおっぽり出し、麓から土を運び上げて1,000フィートを回復しようというのである。しかし無情の大雨が降り折角の土が流出してしまう。鉄道員も協力し、鉄道が雨で不通として測量官の足止めを続け、さらに土を運び上げる。サッカー場の芝まで剥がし土止めに。82歳の老司祭が倒れ、山上に葬られる。
再測量の結果1,000フィートを満足し、若い測量官は村娘とむすばれ、万事めでたしめでたし。六甲山最高峰が931.3m、西宮市の甲山ですら309.4mである。いかに英国に山が乏しいかだが、その英国で登山なるスポーツが発祥したのも不思議である。

この部分のみはほぼレベルに近い 左手の建物は最初の離合地である
ところでウエールズとイングランドで最も高い「山」がこのスノードン山の1085mで、しかも登山鉄道がある。全長7.53km、平均勾配12.5%、最急が18%、2連式アブトで軌間800mm(2フィート7 1/2インチ)とメートル法なのは、スイス方式だから。開業は1896年4月6日、平均速度は5マイル/時(8km)。

DLは流石に強力だが、ブリエンツ・ロートホルン同様、全然面白くない
勿論蒸気機関車だったが、現在ではスイス・ロコ=ウインターツール1895、96、1922年製が4両現役。1986、92年製DLが4両。さらに1995年電気式のディーゼルカーが3両加わったが、最新ホームページには Out of Service とあるのは何故だろうか。不人気なのか、それとも欠陥があったのか。この時は2両重連(総括制御ができる)で運行していた。パンフの表紙に使うぐらいだから、少なくともこの時点では自慢の車両だったろうに。
http://www.snowdonrailway.co.uk/

総括運転の電気式DC 麓側の台車部分床上に機関と発電機が載っている
我々おじん2人はマン島とウエールズの旅の最後にこのスノードンを訪ねた。乗車はせず撮影だけだったが、線路は羊の放牧地をグネグネ延々と曲がって突っ切る。厳重に囲い込まれていながら、それでいて歩行者のための Foot Path が通じており、所々に柵を越すハシゴがある。画面に点々と白いものが見えるのは、ネガのホコリではなく、放牧の羊である。

フットパスを徒歩下山するグループ

借り物の300mm望遠レンズを使い、3個列車を写し込む。画面をクリックし、拡大してご覧あれ
なお長らくご愛顧を頂き?この延々と続いた「おじん」シリーズは、今回を以って終わりとさせていただく。ヤレヤレやっと終わったかと喜ぶ向きもあるかもしれないが、油断は禁物。いつ何時別の「どこまで続くぬかるみぞ」シリーズが始まるか分からない。世の中一寸先は闇なのですぞ。

羊放牧のための厳重な柵を乗り越えるフットパスのはしご 上にいるのは相棒=先達=写真の名手=全行程ボランティア運転手=全プラン立案推進者=ツアーコンダクター
話の前に、訂正があります。前回 『ブルートレインのこと』 の写真3枚目(04917)は、蒸機がC6217【下】となっていますが、正しくはC6225【下】です。
さて、1963年3月、K.Y.さんと九州に出かけました。
行動は常に同一でなく、時々場所と時間を決め一緒になり、主に国鉄の蒸機を撮影しました。一日か二日後には、それぞれのテーマに向けて 別れての行動で、K.Y.さんは非電化の私鉄を、私は私鉄電車でした。
鹿児島で落ち合い、1962年3月24日(日曜日)、西鹿児島 発6レ『はやぶさ』に、二人で熊本まで乗車しました。指定券は旅行出発前に、神戸大丸内交通公社で購入。大枚300円も(旅行中、私の一日の食費に相当する。駅弁は150円で、買えば一日二食になる)払ったその特急券です。 出発は午前11時30分、熊本到着が15時02分、わずか3時間30分間の乗車。車両は7号車、博多までの7両編成の先頭、ナハフ2153(1960年日立製)でした。今となって記憶はほとんどありませんが、K.Y.さんと二人有頂天で乗車、あっという間に熊本に到着だったと想像されます。
下車後、隣のホームから蒸機C6114【鹿】と、わが客車の出発を見送りました。
そして二人は大畑に向い、その夜は大畑のステーションホテル(注・駅のベンチで寝袋に入り寝ることを指す。この回数の一番多いのはT.Y.先輩で、次点が筆者の35回です)に宿泊したのでした。
その後、九州各地で何度かブルートレインを撮影したので紹介します。
潮干狩りか、海岸には人が見えます。
西鉄電車撮影の合間に撮ったもの。
博多からの増結車を従え電機が待機、役目を終えた蒸機と並ぶ。
ヘッドマークを収納して退避線で休む蒸機、そこへやはり役目を終えた『さくら』の蒸機が並ぶ、夕刻18時30分頃、博多での光景でした。
半世紀以上走り続けたブルートレイン。日本での役目を終え、既に海外で活躍中のもの、あるいはこれから活躍予定のものもあるとか。
富山まで移動のため、高岡12:26始発の437Mに乗車すべく駅に行きましたが、何やら改札口周りがざわついています。朝からの悪天候です。糸魚川付近で、強風のために列車が止まっているとの放送がありました。437Mは、本日運転休止です。仕方ありません。
12:50発の439Mは、運行するというので、ホームで北陸名産のかまぼこと揚げ物を”アテ”にビールを飲みながら、待つことにしました。

旧国鉄色の475系3連に乗車、富山は定刻到着でした。ホテルへ荷物を預けてから、富山ライトレール富山駅北を目指しました。
続きを読む
前夜、楽しみにしていたWBC初戦のTV中継は、高岡では放映がなく、見る事ができませんでした。ローカルに行くと、これがあるので、残念なことです。充分な睡眠を取って、夜明けの窓から見ると、既に小雨模様です。日頃の行いを悔いましたが、仕方ありません。氷見線撮影を諦めて、万葉線と富山ライトレールの乗車と撮影に切り替えました。ホテルから高岡駅までは、小雨に加えて強風です。折りたたみ傘は、あっけなくハスの花となりました。嵐は、終日続き、撮影するにもカメラが、濡れないようにするのが、やっとでした。
万葉線は、富山地鉄から加越能鉄道へ譲渡運営されましたが、利用客激減による経営悪化で、廃止される事となっていました。しかし、市民からの路線存続の声に答えるように、高岡市が中心となって、2002年より路面電車としては、全国初の第3セクターとして、復活を目指し引継がれました。
路線は、高岡駅前~六渡寺(軌道線)7.9kmと、六渡寺~越ノ潟(鉄道線)4.9kmの計、12.8kmで、在籍車両は、デ7070形6両(冷房車は、7071と7073の2両)、MLRV1000形4編成と、冬季除雪車として、デ5000形1両が、在籍しています。

続きを読む
今年から晴れて自由人となっての私用旅行は、犬山で行われるDRFCクローバー会イベントが、初めてです。
リタイヤを余儀なくされた持病も、毎日のリハビリ治療が効いたのか、悪化が止まり、徐々にではありますが、痛みが和らぎだしました。それではと、以前より行きたいと思っていた電化された小浜線、富山ライトレール視察を、イベント前の候補にあげて計画を練りました。
氷見線、城端線も乗ってみたい。万葉線も乗車したいと、5:10長岡京発からのダイヤを組みました。しかし、早朝起きは得意だったのに、当日は、なぜか寝過してしまいました。しかし、大丈夫です。もしもの第2案も作成しておきました。
お久し振りです、掲示板読者の皆さん。近頃は掲示板の話題レベルが高く、アマチュアにはなかなか参入のチャンスがありませんでしたが、昨今のブルートレインの話題には割り込めそうと、冬眠から目覚め投稿しました。 学生時代、昼間の関西でブルートレインにはめったにお目にかかれず、ようやく西方の山陽本線でカメラを向けました。 K.Y.さんと二人で、瀬野機関区訪
問と戸田-富海間の撮影行です。夜行で向かい、朝の広島駅構内で特急機関車軍の撮影。
そしてあさかぜの出発。
この日の前夜1962年5月3日、あの三河島事故が発生しました。夜行の車内、ラジオで事故を知り、また、翌朝の新聞で三
河島に住む同姓同名の親戚の名前を見つけましたが、他人と判り旅行を続けたものでした。その日は、広島電鉄を撮影。翌
日に瀬野機関区を訪ねました。機関士の作業服に着かえ、重連補機の前方の機関車に乗車。瀬野-八本松間を往復しました。 翌日は、戸田-富海間で撮影です。天気はよく、瀬戸内の波は静かで絶好の撮影日和でした。午前中、相次いでブルー
トレインが通過。C62の勇壮な姿に接して大満足でした。撮影はいずれも、1962年5月5日。
K.Y.さんは、鉄道施設に昇り撮影を行っていました。その時の写真を、今から4~5年前、例の写真集募集の折りに見つけま
した。普通では撮影出来ぬ見事なものでしたが、昨今なら間違いなく問題になっている事でしょう。 K.Y.さんですか? 某電
鉄に勤め、系列のホテルのトップに上り詰めたあの御仁。なるほど当時から登る事に秀でていました。 次回は、その一年後、やはりK.Y.さんと二人で、鹿児島から熊本まで特急券を買って、『はやぶさ』に乗車した話と、九州各地のブルートレインの写
真を紹介します。 『貧乏学生二人、はやぶさに乗る』。乞うご期待!
一昨日の投稿で写真を添付するのを忘れた。まさしく加齢現象に外ならず、我ながら情けない。改めて明治村で毎日働く2軸客車ハフ13、14の54年前の姿をご覧頂く。
撮影は1955年3月26日、奥羽本線湯沢駅=羽後交通雄勝線の発駅で、当然電車に牽かれていた。1942年国鉄からハ13、14を譲り受けたもので、前身は新宮鉄道ハ13、14、新宮鉄道工場大正元(1912)年11月製とある。新宮の開業は同年12月2日で、南海鉄道から譲り受けた2軸客車と共に、開業時の車輌であった。この年は7月30日までが明治だったから、明治村での動態展示は許容範囲内であろう。
新宮鉄道は孤立していたため昭和に入っても自連換装がなされないままに終始し、1934年7月1日買収で紀勢中線になる。新たに船で送り込まれた機関車、ボギー客車、ガソリンカー等も螺旋連環連結器に付替えており、その中には重見式給水暖め器を装着したC11もいた。
その後紀勢西線と接続し、当然自連化されたが、旧客車は螺旋連環式連結器のままで放置されていた。戦時体制下、車輌不足で旧新宮の2軸客車は天塩鉄道、伯陽電鉄(→山陰中央鉄道→日の丸自動車法勝寺電鉄)、大分交通等に再起。2輌が雄勝鉄道(1944年2月4日横荘鉄道に合併、同年6月1日羽後交通に改称)にやってきたのである。
ついでながら明治村で現役を続ける2軸客車は3輌で、もう1輌のハフ11も上記ハ13、14と共に、1973年4月1日の雄勝線内燃化(先に廃止した横荘線のガソリンカーやDLを投入し電車を廃止)後明治村に引取られ、静態展示の後「陸蒸気」開通で復活し今日に到っている=明治村に来て実に40年以上になる。
先日休んでいたハフ11は、青森鉄道ハ4→高畠鉄道ハ2→雄勝鉄道ハフ11という経歴で、かなり改造され原型が定かでなが、1908年天野工場製。機関車とも、螺旋連環連結器は淡路交通に残っていたものを譲り受けた由。
明治村は数回行っているのですが、例の蒸機牽引の列車の客車で少しガッカリしました。というのは、毎日使っているのでかなり手が入っているのは当然ですが、窓下の本来短冊小割で貼ってあるはずの側板が、実は鋼板だったのです。モニター窓も本来の窓と合わず、内部がいい加減、レタリングも褒めたものでなし。要は木製客車、いや鉄道車輌そのものを全く知らない手合いによって改修されているとしか思えないのです。
ヨーロッパの保存鉄道の車輌にもピンからキリまでありますが、万事にいい加減なイタリアですら、サルディーニャの木製客車を見事に復元しているのはかつて「おじん2人」でご覧頂きました。明治村が名鉄にとって、かなり以前からお荷物になっており、しかもやめる訳にもいかないことは承知していますが、この改修は頂けません。尤も大方の入園者は、そんな事に気づくこともなく喜んでいるのは確かですが。
それに比べれば、N電はしっかりしています。屋根のモニター内部の、京電社紋の擦りガラスも立派です。強いて文句をつけるならば、ポールの紐がいささか興醒めでした。元来ポールには、カウボーイのロープ程ではなくとも、かなり腰の強いものを使いますが、それが軟らかすぎるようで、しかもなぜか途中に絶縁物?があるのは、一体何でしょうか。
蒸気動車キハ6401はJR東海が新たに作る(JR東日本に対抗して)テーマパークに引き上げる由ですな。記号番号がキハ6401のくせに、台枠には「鉄道院」とあり、連結器が螺旋連環式ですから、これはジハ6006にすべきでありましょう。
最後に、昼食時訪ねてきてくれた御仁ですが、その時は記憶が判然とせず、いささかつれない応対をしてしまい申し訳なかったと反省しています。帰りの電車で思い出したのは、平野正彦氏でした。そう、小太りで、名古屋弁丸出しで、別れ際には「ご無礼します」といっていた「赤銅色」のお兄さんでした。卒業以来会ったのは初めて?かな(湯口)
151系電車の「富士」が消えた翌日、昭和39年10月1日からは、別の寝台特急に「富士」の名は受け継がれます。東京~熊本・大分間の特急「みずほ」のうち、山陽本線の全線電化を機に大分編成を単独運転することになり、その名が「富士」となったのです。客車はもちろん20系、牽引は東京~下関間がEF60500番代、門司~大分間がDF50、翌年には東京~下関間がEF65500番代(P形)に変更されたため、EF60500番代「富士」はごく短期間でした。特派員も写している訳はなく、他の特急でその姿を偲ぶことにします。

EF60に牽かれ丹那トンネルを出る「富士」、ではなく「あさかぜ」(昭和40年)
さらに同昭和40年10月改正から西鹿児島まで延長、「富士」は、日豊本線経由で東京~西鹿児島間を結ぶ日本一長距離の特急となります。蒸機を求めて九州を彷徨っていると、DF50のオレンジ・グレーと20系客車の青い車体が絶妙のバランスで、特急への羨望を抱かせたものでした。DF50が門司~西鹿児島間をロングランしたのも特筆されます。

日豊本線大神駅を通過する上り「富士」(昭和42年)

日豊本線田野の鉄橋を行くDF50+20系の「富士」(昭和42年)
いっぽう客車も昭和50年には20系から24系に。昭和51年にはさらに24系25形に置き換えられます。さらに牽引機も昭和53年にはEF651000番代(PF形)に変更されます。趣味的に見れば、昭和40年から50年までの10年間、EF65P+20系の時代が最も輝いていた時代に見えます。

広島駅に到着の下り「富士」。20系客車は15両の長大編成だった(昭和42年)

湯河原付近のカーブを駆け、東京へ急ぐ上り「富士」(昭和49年)
その後昭和60年になるとEF66に牽引機を変更、JRになってからは、ロビーカー、個室寝台ソロなどの体質改善が図られますが、その後の凋落化に歯止めが掛からず、食堂車の営業休止、運転区間も南宮崎、大分と短縮、ついには平成17年に「はやぶさ」と併結となり、14系15形となった編成も半減となり、ついには廃止を迎えることになりました。

EF66牽引となった「富士」。ヘッドマークも戦前の展望車のバックサインに似せたデザインとなった。藤沢付近(平成7年)

「はやぶさ」と併結となった現在の「富士」。名古屋駅(平成20年)
特急「富士・はやぶさ」が3月14日のJRダイヤ改正で姿を消します。東京駅から発着する特急寝台はすべて消えてしまうことになり、毎度のことながら激パの様相を呈しているようです。
今まで冷ややかな眼で見ていた特派員も、さすがに終わりが近づくと、居ても立ってもいられず、上京の機会があるとカメラ持参で行くようになりました。しかし、行くたびにダイヤが乱れてカラ振りばっかり。ついに18きっぷ初日に、これも定期運用がなくなる「ながら」に乗って東田子の浦でやっと最後の姿を捉えることができました。
「富士・はやぶさ」のなかでも「富士」は、「櫻」とともに最初の愛称名であり、まさに日本を代表する特急として格別の思いがあります。「さくら」は九州新幹線で復活することになりましたが、「富士」の名は地域性もあって、再び復活することはないのでしょうか。
「富士」「櫻」は、昭和4年に一般公募によって付けられた初めての愛称で、同年9月のダイヤ改正で、「富士」は東京~下関間の1・2等特急、「櫻」は東京~下関間の3等特急として走り始め、まもなく最後尾にヘッドマークも付けられます。その後、関門トンネルの開通によって「富士」は、長崎まで延長されるものの、太平洋戦争の勃発により、ほかの特急「燕」「鴎」とともに「富士」「櫻」の名は昭和19年に消えます。
戦後の特急復活は昭和24年の「へいわ」から始まります。その一年後には「へいわ」は「つばめ」に改称、続いて「さくら」が昭和26年に臨時特急で、「かもめ」も昭和28年から山陽本線の特急としてそれぞれ復活、戦前の特急愛称のうち、3列車は復活しますが、「富士」だけはその名を表しません。日本を代表する愛称であったため、それに相応しい列車が現れるまでは使用を控えたというのは有名な話です。
ようやく「富士」の名が表れるのは、昭和36年10月、“サンロクトオ”の特急増発のときです。すでに走っていた、こだま型151系の増備によって、東京~神戸~宇野間に新設された電車特急が「第1富士」「第2富士」となります。
写真は、特派員が山科でとらえた唯一のマシな電車特急「富士」です。時は昭和39年9月30日、東海道新幹線の開業を翌日に控えた、東海道本線電車特急の最後の日なのです。当時、特派員はまだ中学3年生、平日だったため、午後3時ごろ学校から帰り、それから京津線に乗って御陵で降り、築堤へ駆け上がって次々に来る本日最終の優等列車をオリンパスペンEで撮りまくりました。
今なら、恐ろしい数が押し寄せてくるはずの最終日にも関わらず、大カーブには誰一人として居ません。天下の名勝、山科大カーブを独り占めしてじっくり最終日をかみ締めたのでした。
井原実さんが、この「富士」に連結されていたクロ151の一等特別席であるパーラーカーに乗るために、アルバイトで溜めた資金を大枚はたいて神戸から東京まで乗り通したことが旧掲示板に記されています。写真の最後部がそのクロ151です。
【1568】でK.H.生氏より「客車に住む」を発表されて以降、【1572】で西村雅幸氏より「電車住宅物語」、【1592】で湯口先輩より「客車住宅」、【1608】で「守口の廃車体」と廃車体の話題が続いた。私自身、廃車体は滅多に撮影しないのであるが、少しだけ写真が見つかったので紹介する。
①京都市電の廃車体
半鋼製単車の200形、300形は昭和30年台前半に廃車されたが、多数の車体が市内の公園施設や自治体の集会所等に再利用されており、京都外大のグランド、嵯峨釈迦堂近くの公園、西村雅幸氏が触れられている建仁寺の境内等何カ所かは覚えている。現在でも254が奈良線JR藤森駅すぐ近くの西福寺幼稚園で倉庫として使用されているのが公道から確認できる。
九条車庫で倉庫として使用されていた300形(車号不詳)/昭和45年4月5日
鉄道友の会が交通局に保存を要請したが実現しなかった。この時点では台車は無かったが、その気になれば復元保存は可能と思われた。
奈良線木幡駅前で内職の作業場として使用されていた349/昭和39年6月15日
②京阪電鉄16/昭和48年10月13日
京阪の16と云えば元貴賓車として超有名な車両で、沿線の中学、高校に通学していた頃は、500、600、700の中間車として主に各駅停車、朝の準急等に使用され、よく乗車した。座席が深く独特の座り心地で、大きな窓を開ける時は一人では無理であった。昭和40年、台車を新700系に譲って廃車後、寝屋川検車区の会議室として使用されていたが何時しか解体されてしまった。元貴賓車の面影をよく残しており、是非保存していただきたかった車両だけに解体は残念であった。
③京福電鉄デナ1形(車号不詳)/昭和43年6月8日
元阪神のデナ500形と交替して廃車となったデナ1形であるが、修学院車庫に1両車体が残されていた。こちらも会議室として使用されていたらしく、綺麗に塗装されていた。
④大和鉄道のガソリンカー(車号不詳)/昭和43年12月24日
湯口先輩より大和鉄道の単端式ガソリンカーが住宅になっていたことが報告されているが、近鉄南大阪線古市検車区で倉庫として使用されていた。もしかすると終戦後の車両不足時に道明寺線あたりでサハかクハとして使用するつもりで運び込んだのかもしれない。
⑤貴生川の元中国鉄道の貨車(車号不詳)/昭和45年9月23日
貴生川駅のすぐ近くに元中国鉄道の貨車が物置として使用されていた。バッファーの跡から明治末期から大正時代に作られたと推定できるが、扉に書かれてあった中国鉄道の社紋がはっきり読み取れた。
⑥蘇った廃車体(加悦鉄道ハ4995)
加悦鉄道は高校生の頃から何回となく訪れているが、加悦SL広場に重要文化財に指定された2号機の後ろにコンパートメント式客車ハ4995が連結されている。初めて見学される方は「よくこんな古い客車が残されていた」と思われるに違いない。これについては次のような裏話がある。
昭和11年10月鉄道省よりハ4999を購入してハ20、昭和10年11月ハ4995を購入してハ21とした。いずれも明治26年新橋工場製のコンパートメント式の客車であったが、入線に際し前後扉の新製と乗せ換え、旧車体は倉庫として使用されていた。昭和45年9月23日訪問時、倉庫になっていた旧車体が台枠の上に載り、車体の修復作業が行われていた。更に1ヵ月後の10月25日には2号機に連結され、構内展示運転が行われていた。
SL広場にはハ21も展示されている。本来はハ4995→ハ21→ハ4995となるべき処、ハ20と振替られたが、超貴重なコンパートメント式客車が蘇り、大切に展示されていることは大変意義深いことである。
倉庫として使用中のハ4995/昭和39年7月25日
ハ20と車体を交換して修復中/昭和45年9月23日
美しく蘇ったハ4995/昭和45年10月25日
2号機に連結され構内展示運転(実際にはDC351が後押ししている)/同上
DC351+ハ10+サハ3104+フハ2+キハ51
ハ4995と車体交換前のハ20/昭和39年7月25日
ハ21/昭和43年12月22日
雨のそぼ降る午後、ある新刊をもって会長・乙訓の老人を訪ねた。会長猊下はいつもの玉座に鎮座まします。
実はこの本は3月からDRFCクローバー会に入会する法学部法律学科78年度生・上原正英氏の作品である。これを会長猊下にご高覧頂きたくて訪問したのである。会長猊下はぺらぺらと一瞥して後、「余はその昔、推理小説に熱中したものである。最近のものはあまり面白くないではないか」「畏れながら申し上げます。猊下はどのような作家をお好みでしょうか?」「よい質問じゃ。余は松本清張、横溝正史、江戸川乱歩、鮎川哲也などを好む」「畏れながら有栖川氏は鮎川哲也の弟分でございます」「なに?では読んでみよう」てな具合であった。
そのとき、長老猊下は表紙を見た瞬間、「この車体は●●鉄道の○○や」と即断を下された。《そんなこと、ほんとに分かるのかいな~?》と思わず疑いましたがなにせこの世界では伝説の方、確認したくてこっそりと皆様にお尋ねする次第です。
この車体の出自をご存じの方、教えていただけませんか?
なお、献上した本は私が先輩であることをいいことに作者にサインを入れてもらって買った本であり、決して巻き上げたりしたようないかがわしいものではないことを明言しておく。
以前の澤村達也さんのコメントに「門鉄デフのD50のバラキットを持っているので、参考になる現物機を紹介してほしい」とのご要望があり、また紹介しますと約束してから、もうかなりの日数が経ってしまいました。やっと該当するネガを探し出すことができました。
門鉄デフはC55・C57に代表される旅客用蒸機がとくに有名ですが、D50・D60のような貨物用の太いボイラーを備えた蒸機に装備すると、まるでゼロワンを彷彿とさせるようなスタイルになり意外と似合うものです。私が蒸機を本格的に撮り出した昭和40年代の前半、D50の総数380両のうち、昭和42年度は63両、昭和43年度では21両と急速にその数を減じていきます。そのうち、撮影できた25両のなかで門鉄デフ装備は7両に過ぎません。うち1両を除いて、門鉄デフの本場、北九州に在籍していました。いずれも分類上、K-7形と称される小倉工場製の切り欠きデフですが、デフそのものの大きさは機によって少し違います。63,129、374は除煙板が比較的小さいタイプ、これに対して105は大きなタイプ、また62,90は除煙板の下辺が斜めになっています。
北九州以外のもう1両は、米原区のD50131でした。この機は長野工場製の切り欠きデフN-2形で、形はだいぶ違います。米原~田村間の交直接続に、他のD50とともに使用されていましたので、ご覧になった方も多いと思います。
模型化の参考になれば幸いです。

大分区で出区待ちの05062(大)は大きな切り欠きデフ

門司区で見かけた〔柳〕のD5063 オーソドックスな門デフを装備

石炭車を牽いて筑前垣生のカーブを行くD5090〔若〕
このたび、和久田康雄さんの「日本の市内電車ー1895‐1945-が成山堂書店から上梓された。20日夕、配達を受け「はて、なにを送っていただいたのか」と思ったが、孫に「じっちゃん、嵐電しょう」とねだられプラレールの組み立てを手伝った。気になる図書を開いたのは深夜3時30分になってからのことである。(するっと関西のおもちゃはすべて嵐電となっている。)
紐解くや、「これはこれは」となった。安楽マニアの老人には、とても嬉しい内容が満載されている。和久田さんは東京大学在学中に学内図書館にある鉄道文書に着眼され、私鉄関係について筆写され、それをまとめ鉄道ピクトリアル誌で連載された。それは世の私鉄研究の原本になり、われわれは教本の一つにしてきた。のちに「私鉄史ハンドブック」となり、私鉄史研究者の参考書となっている。これに加え統計資料から考察を加え、われわれが知りたかった車両群解明の手掛かりを提供された。
かねて現役引退後、「公文書閲覧で国会図書館通いです」とおっしゃったことがあり、須磨の大人、名古屋の朋友:重軽氏から「図書館で出会った」と聞かされていた。学生時代から後期高齢者になられた(なる?)この年まで、われわれに常に情報を提供し続けられた和久田さんに国民、いや鉄路栄誉賞をささげたいと思っているところである。
申込みは〒160-0012 新宿区南元町4番51 (株)成山堂書店 TEL:03(3357)5861、FAX:03(3357)5867 出版案内を貰えるようになると、料金、送料が後払いOKとなる。今回は本体3,570円 送料390円 計4,060をご用意ください。
今日、40数年の時空を越えてあの「須磨のガイコツ」前歯健造君から電話がありました。声だけを聞けば学生時代と変わりません。
実は以前から前歯氏についてよからぬ噂が流れていました。それは彼が「クローバー会には入らん」と言ったきり姿を消して、以来ようとして行方が分からなくなった。雨の降る山間の駅の待合室でオリンパスペンEEを磨いていたとか、北海道の線路端でオリンパスペンEEで写真を撮っていた、とか噂が出ていましたが、その後途絶え数十年が流れてしまったのです。
だまされやすい純粋な性格のため、小海線がいい、と岩波さんに言われると「小海線を愛する会」に入り、客車はスハ43がスバラシイと中林さんに言われると「急行つるぎを愛する会」を創り、カメラはハーフサイズがいいと宮本氏に聞かされるとオリンパスペンEEを買ってきてずっと愛用していました。
そんな彼がなぜかたくなにOB会である「クローバー会」にはいるのをいやがり身を隠したのか積年の疑問でした。そんなとき東京特派員の鬼太郎さんから新宿の居酒屋で前歯さんに会ったとの連絡を頂いたのです。教えてもらったアドレスは会社のものでした。北京特派員の陳さんに相談したら「会社のアドレスへ個人でアクセスするとリストに載せられてあとでひどい目に遭わされるから気をつけろ」とまるでアダルトサイトでひどい目にあったような用心深さです。まさかとは思いましたが用心に越したことはないと売り込みを装いメールしてみました。その返事が先ほどの電話でした。
鬼太郎特派員のねつ造記事で誤解しておりましたがOB会には参加しているとのことでした。ただ、須磨の自宅は早くに引き払い金沢文庫にいるので関西に行く機会がなかったこと、会社のアドレスしかないので書き込みが出来なかったこと、でも子会社に監査役で行ってからは少し自由になって、この4月からさらに転勤するのでこれからは関西出張もありそうなのでぜひ会おうと話してくれました。今後は東京支部の集まりには出席しますと約束して電話を切りましたが40数年の時空は一瞬にして消え去ったのです。
やっぱりDRFCの仲間はいいものですね!
ひと休みをしたらもうお昼です。南京路の食堂に入って、大好きな上海名物、スープの入った小籠包を食しました。広州の飲茶料理にもありますが、551の豚マンサイズの大きな小籠包は、上海だけです。スープを飲むために、ストローを付けた店もあります。