あのC622をこさえた日立製作所が作った携帯電話で撮ったデジタル写真

 総本家青信号特派員さんが投稿された「あの日あの頃・・・~3~」のコメントにはじめてデジカメで撮ったことについて書いたのですが、それより以前にデジタル写真を撮っていました。2005年4月の頃からです。デジタルカメラではなく、携帯電話のカメラ機能を使っていました。それがこの写真の携帯電話です。

 この携帯カメラは結構よく写るのです。では、その写真はこんなものです。今はもう見られなくなった風景です。

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駅名喫茶店(第46回:「三」を含む駅名)

漢数字シリーズの第3回目は、「三」を含む駅名です。

「五」を含む駅名が計48駅名 駅名喫茶店(第36回:「五」を含む駅名)

「六」を含む駅名が計36駅名 駅名喫茶店(第29回:「六」を含む駅名)

であるのに対して、「三」を含む駅名は計178駅名と比較的多かったですね。「一」から「十」までの中で最も多いのは果たして何であるのか、皆さん予想してみてください。【2023/5/26修正】

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芸備線5月下旬まで運休

2017(平成29)年4月にクローバー会の木次線ツアーがあり、新見から備後落合まで満員のキハ120に座れずに揺られ、ようやく着いた備後落合では、肝心の木次線スイッチバック区間が土砂崩れのためにバス代行になっていると知って、一同ガッカリしたのが昨日のようです。早いもので あれからもう6年が経とうとしています。その際に通過した芸備線備後八幡・内名間で去る3月23日に新見発備後落合行き445Dが備後八幡を19:15に発車後、19:20頃に線路上の落石に乗り上げ、キハ120の前の台車が脱線するという事故がありました。乗客はゼロで、運転士にケガはなく、軽微な脱線事故で済んだのは不幸中の幸いでした。

JR西日本のホームページより転載。サラッと5月下旬の運転再開と書かれている。

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つれづれの記 (3)河 昭一郎

昔は・・・の話

『昔は・・・』と、小生のようなロートルはつい口にします。

私も『昔の』学生時代に2度ばかり身延線を写しに行った事があり、その際静フシ区に運用等を照会したところ、本当に親切に車両運用図表や車番入りの電車運用予定表をはじめ運転士仕業図表までお送りいただきました。

 

 

そしてそれは、静フシ区のみならず新ナカ二区でも経験しました。 思うに、この頃の国鉄マンは鉄道趣味人(ファン)に対して「仲間又は理解者」意識をお持ちだったのではないかと思います。
そこには自ずと信頼関係と言うものがあって、昨今の良識なき不心得者や不注意者のせいで色々な点で厳しい規制がかかるような事はありませんでしたねえ。
電車区などでも特に厳しく規制される事は無く『不法侵入』してしまってもカメラを構えていれば職員の方々が「気を付けて」等と声を掛けてくれたもので、時には付き添って留置車両の車内に案内さえしてくれましたよ。
忘れられないのは「こだま形」の中で珍車だったクロ150-3をチタ電に訪ねた時、偶然お会いした職員の方が、ご自身の昼休みを潰して車内に迄案内して下さった時の感動です。

身延線と新潟地方での思い出の写真を貼ります。

まずは身延線。

① 富士山がきれいに見えました。

② 身延線らしい編成

 

⇩次は新潟地区での撮影です。

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~6~

2008年3月29日 三木鉄道の最終日曜日

第三セクターの三木鉄道(厄神~三木6.6km)が2008年3月いっぱいで廃止されました。国鉄三木線が第一次特定地方交通線に指定されて、1985年4月、第三セクターとしては最短の路線として発足しましたが、旅客量は減る一方で、20年余りしか維持できませんでした。当時、三セクの廃止は、北海道ちほく、神岡、高千穂鉄道に次ぐ4例目でした。両端で鉄道と接続しているものの、旅客の行き来はもともと少なく、加古川方面へは厄神で乗り換えを強いられ、神戸方面へは神戸電鉄三木駅への徒歩連絡を強いられるなどの壁もあり、同時期に転換した近くの北条鉄道が、いろいろな施策で話題を作りながら、持ちこたえているのとは対照的でした。三木鉄道へは廃止直前に何度か通った。JRで加古川回りで行くより、神戸電鉄で三木まで行っていた、当時、関西一円で使える、乗り放題のスルッとKANSAI 3dayチケットがあり、格安で三木まで行くことができた。石野付近を行くミキ300形

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JR福間駅 旧跨線橋門柱

九州鉄道が明治23年に博多赤間間を開業、明治44年には福間駅跨線橋が新設、その門柱が現駅の1階に展示されています。明治の鉄道遺産を目の当たりにできる数少ない場所と思います。5月クローバー会ツアーの2日目はここから出発です。皆様のご参加お待ちしています。

西鉄香椎駅前 清張桜

3月25日土曜日 西鉄香椎駅周辺で「点と線」香椎桜まつりが開催されました。駅前の桜の樹、清張桜は満開で多くの皆さんが訪れていました。

近くの香椎公民館では「点と線」ゆかりの写真展が開催、往時の面影をしのぶ写真の数々が展示されてました。

小説に登場のくだもの屋、国鉄香椎駅を出てすぐ左、のはずでしたが写真を見ると右側のようです。謎が深まります・・・5月のツァーで謎が解ければ、と思っています。皆様のご参加お待ちしてます!!

 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~5~

2006年3月25日 南海貴志川線の最後を見に行く

しばらく私鉄を続けます。南海電鉄貴志川線(和歌山~貴志14.3km)は、岡山電軌100%子会社の和歌山電鐵へ運行が引き継がれることになり、初の公募による、民間事業者の鉄道譲渡認可事業となりました。貴志川線としての最終の日曜日、2006年3月26日には、スタンプラリーなどの感謝イベントが行われて、私も行って来ました。同社は「タマ駅長」や「いちご電車」など、奇抜な施策で注目を浴びていますが、それは少し後のことで、南海色をそのまま残しての引継ぎとなりました。以前の貴志川線には1201形が走り、何度かクローバー会の面々と訪れたこともあるが、引継ぎ時には、ズームカー22000系を貴志川線用に改造した2270系の2両編成Mc+Tcに統一されていた。貴志川線は、日前宮・竈山神社・伊太祈曽神社への三社参りの鉄道として、大正5年に山東軽便鉄道が、大橋~山東(のち伊太祈曽)を開業させた。昭和6年には和歌山鉄道に改め、昭和18年、全線電化。その後、和歌山電軌を経て、昭和36年に南海電鉄貴志川線となった。貴志川線は南海の鉄道線からは孤立した存在で、昭和46年に和歌山軌道線が廃止されると、すべての南海線とは離れ小島となり、南海が昇圧後も、貴志川線だけ600Vで取り残された。平成7年から、2270系電車が投入され、ワンマン運転となった。

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駅名喫茶店(第45回:日本一多い駅名)

日本一長い駅名は富山にある。日本一長い駅名ランキング

日本一多い駅名は何かと調べると、おそらく「市役所前」である。全国に計8駅名存在する。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~4~

2007年3月24日 113系を山陰本線で

前回の113系つながりで、デジカメ初期に撮った山陰本線京都口の113系を見てもらいます。今から見ると、ずいぶん興味深い113系が走っていました。

本日の夕方には、今月末で消える草津線直通の113系を求めて、京都駅0番ホームで孫のような世代に囲まれ写していました。なかなか写欲が湧かない抹茶色の113系ですが、なくなるとなると、愛おしさが出てきました。山陰本線京都口の113系は、京都~園部の電化が完成した1990年から走り始めているが、その後、電化の延伸や列車本数の増加で、今では考えられないような改造車や塗装があった。その最たるものが、二丁パンタの113系2両ユニットだった。1996年の園部~綾部の電化時に、113系の中間Mユニットを先頭車化してワンマン対応の2両編成となり、京都~園部では同区間の4両編成との併結運転となった。今回の撮影場所は、千代川~並河で、かつてC57が走っていた頃、一緒に撮っていたT君が、菜の花をボカしてC57と一緒に撮り、「花道を行く」のタイトルを付けて心酔していた場所だ。撮影当時は、複線化工事の真っ最中だったが、田んぼの中を一直線に伸びていた。

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駅名喫茶店(第44回:WBC優勝メンバーの駅名)

6年ぶりに開催されたWBCは、日本が3大会ぶり3度目の優勝で幕を閉じました。大会のMVPに選出されたのは、エンゼルス所属の大谷翔平選手。「大谷」駅は関西に2駅あり、今回初めて、投稿のために「大谷」の駅名標を撮影してきました。京阪京津線ですので、気軽に尋ねることができる「大谷」駅だと思います。https://news.ksb.co.jp/ann/article/14869313

ということで、今回は、WBC優勝記念として、優勝メンバーの駅名を取り上げてみました。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~3~

ほぼ同月同日シリーズ、3月の続きとして、しばらくデジカメで撮ったカラーを見ていただきます。私のデジカメ歴は2003年から始まっていますから、ちょうど20年になります。最初はコンパクトデジカメで、まだ画素数も色調も満足できるものではなく、もっぱら個人ユースとしての使いかたでした。画素数も多くなり、色調も安定してきた頃に、一眼デジカメを購入し、鉄道写真もフィルムからデジタルに移行します。高齢者がデジカメ時代と聞くと、つい最近のようにも思いますが、もう結構な年数が経過しました。初期の時代に撮った写真は、立派な古写真に入っているのかもしれません。事実、デジカメ初期に撮った内容を見直すと、今では見られない車両や鉄道ばかりで、改めて年月の隔たりを感じます。

2006年3月13日 横浜で「出雲」、113系を撮る

京都地区の113系が今月いっぱいで撤退することがアナウンスされているが、東海道本線の東京口で運転されていた国府津車両センターの113系は、E231系の投入で2006年3月18日改正で運用を終了した。これにより“湘南電車”発祥の地から、オレンジとグリーンの塗装が見られなくなった。JR横浜支社では、最後まで残った4編成に意匠の異なるヘッドマーク(シール)を貼付して走った。

小田原行き快速アクティー3715M クハ111-1405F 新子安

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お城と電車(18)備中松山城

備中松山城は現存12天守のうち唯一の山城である。標高420mの臥牛山にあり、JR伯備線備中高梁駅から徒歩で20~25分かかり、高齢者にはタクシーの利用がお勧めである。この地は鎌倉時代から城や砦があったが、関ヶ原の合戦以降家康の傘下となり、小堀新助政次、その子政一が入った。政一は小堀遠州のことで城や庭造りの名人と言われた。現在の城は寛永19(1642)年水野(みずのや)氏の時代のものである。城主は目まぐるしく代わったが水野氏の後には播州赤穂の浅野氏となり大石内蔵助が城代となっている。昭和の初めの古写真を見ると天守はボロボロで崩壊寸前の姿である。明治6(1873)年の廃城令で藩主の居宅等は破壊されたが、天守や櫓、門等は不便な山の上にあったことが幸いし、そのまま放置され昭和16(1941)年に国の重要文化財に指定されている。

訪問したのは2002. 8.18の午後で暑い中を徒歩で行ってみると何と天守は工事中でがっかりした。▼

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美濃から尾張、三河へ(後編)

リニモや愛知環状鉄道の初乗りに満足し、愛環新豊田駅から名鉄豊田市駅に向かいました。ここから三河線終点の猿投(さなげ)に向かいます。

令和5年3月12日 豊田市駅にて 猿投行き6004 隣は名古屋市交鶴舞線N3308

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こんなんあるで韓国版残り

前回、東大邱で撮ったミカド形ボックス動輪の蒸機と狭軌の蒸機を「こんなんあるで韓国版」と称して投稿した。最後にまだナローの客車列車など残りがある旨述べたところ、訪韓実績ナンバーワンの米手作市さんから「余命いくばくない者はぶつぶつ言わんと早よ発表せい」とお叱りを受けた。よく考えたら年齢的にまさしくそのとおりであり、ここに残りを発表する。但し韓国の鉄道に知識がある訳でなく単なる観光旅行の次いでの写真であり説明するに至らない点をお許し願いたい。前回は狭軌ナローゲージのヒョーキ蒸機について乙訓の老人の甥さんに助けていただいたのでここに感謝申し上げたい。

最初は角度を変えて再びボックス動輪のミカド形蒸機であるが、この機関車についてどなたか多少でも経歴がわかれば教えていただきたい 1971.4.24東大邱▼

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~2~

1981年3月 東京で私鉄・バスを撮る②

渋谷で撮ったあとは、以下のように、京王・小田急・都バスを撮り、最後は国鉄の列車も撮って、一日を終えます。前回の東急5000系、6000系、今回の京王3000系、小田急3000形など、その後、地方私鉄で第二の働き場所を見つけた車両も、今では、それもほとんど見られなくなり、時代の隔たりを感じます。京王井の頭線のステンプラカー3000系が製造されたのが昭和37年、当時の「鉄道ファン」の表紙でも紹介され、編成ごとにカラーが異なる正面のFRPのマスクには強い憧れがあったが、乗ることも見ることもなく、今回初めて撮影できた。下北沢~新代田 (以下、昭和56年3月13日)

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駅名喫茶店(第43回:都道府県境に関わる駅名 京都編)

車を走らせていると、都道府県境をまたいだときに「ポン♪ 大阪府にはいりました!」と軽快な声でカーナビ君が知らせてくれます。一方で鉄道を利用していると、いつの間にか大阪府に入っていたという経験はたくさんあるかと思います。

そこで、皆様に鉄道路線での都道府県境またぎを意識していただくために、都道府県境の両サイドの最寄り駅名をまとめてみました。駅名喫茶店の中では、それほど人気のないメニューですが、めげずに4回目の投稿です。今回は京都編です。

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 あの日あの頃 ほぼ同月同日に還る  ~1~

“地元大事”と、関西の蒸機を連載していましたが、同じようなモノクロ写真だけ並べても、単調なこと甚だしく、もう少し地域、車両に変化が必要だと感じています。最近、身体が思わしくなく、自宅に籠って古いデータやフィルムを見直していると、「こんなモン撮ってたんか」というような写真も出てきました。「古い」というキーワードは、50年前であっても、20年前であっても、大きな価値を生みます。発表する機会は、まだ気力の残る今しかないと思いました。ただ成り行きで紹介するのではなく、何かの“括り”は必要でしょう。そこで、タイトルに掲げたように、古いネタであれば、ほぼ同月同日の切り口で何でも載せて行く、ゆるい括りとしました。今まであまり発表していない私鉄電車やバスなども、この際、蔵出ししたいと思います。

1981年3月 東京で私鉄・バスを撮る①

そんな時、ある方から、地元大事はわかるけど人によって地元もいろいろあるでェ、もっと広い範囲、関東方面も紹介せえと、叱咤激励されました。確かにそうですね。そこで、手始めとして、昭和56年3月に行った東京の私鉄・バスめぐりを載せることにしました。この時は、先輩のTさんの結婚式に招かれて、東京へ行ったもので、式の前日に入り一日撮影したものです。乗り換えの合い間はあるものの、東京で丸一日、撮影に費やしたのは初めてでした。特段珍しいものはありませんが、年月が経ってみると、それなりの価値が出てきた例として、まず紹介します。夜行バスに乗って早朝に東京に到着、廃車の始まった東急(初代)5000系を撮るのが第一の目的だった。大井町から大井町線に乗ると、まだ“青ガエル”を多く見かけた。デハ5000の最終車5055先頭の大井町行き 同車は松本電鉄モハ5005として譲渡された。 (以下、昭和56年3月13日)

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つれづれの記 (2)  河 昭一郎

阪急電車・京都線の思い出

阪急京都線特急の『2枚看板』は同線の特徴で、何故2枚も・・・と大変不思議に思っていました。
これは京都線特急が十三-梅田間で神戸線と並走する宝塚線上を走っていたための誤乗防止策だったのではと思ったりもしましたが、結局今もって疑問は解けていません。

また、4両連結のP6急行も懐かしい写真です。2両目には『阪急』が『新京阪』に送り込んだ先遣隊の1550が写っていますが、これも当時若輩の私にはその知識が無く、ただP6とは不揃いなのが不思議に思えたものでした。

4連の急行編成には1550の代わりに元貴賓車のフキを組み込んだ編成もありました。

 

 

 

駅名喫茶店(第42回:JR線の起終点駅名)

今回は、JR線の起点・終点に注目してみました。拠り所によって起点・終点が異なる路線が数多くあり、まとめ作業は、なかなか大変でした。例のごとく、関東は怪しいです。系統の中で、横須賀・総武快速線は載せませんでしたが、埼京線や京浜東北線は載せました。とくに掲載基準は定めておりません。気まぐれであることお許しください。【2023/4/5修正】

↑ 写真はDRFCの現役生(ほたかさん)より頂戴しました。改めて御礼を申し上げます。宜しければ、こちらのブログ

https://hotaka-tetsudo.site/2022/02/hiei-bus-mystery.html

もお読みください。なかなか見栄えが良く、読み応えがあるブログだと思います。

デジ青探偵団の皆様、「京都バス(?)の謎」を解いてみてください。コメントお待ちしております。

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