このシリーズもいよいよ最終回です。
今までになかった「サボ」と「トレインマーク」のコレクションをお目にかけましょう。これについてもいろいろと蘊蓄がある方はご披露ください。
※当該列車の走行線区、車輌形式などがお判りの方はお教えください。特に私鉄については鉄道会社名もお願い致します。
サボとはサービスボードの略で、国鉄時代は「特急」「急行」「準急」「快速」などの列車種別の他、「つばめ」「あさかぜ」などの愛称や「臨時」「座席指定」などのサボもありました。管理局や客車区によっての特徴も違い旅の楽しみでもありました。
最近はLEDやデジタル表示に替わり、特徴がなくなったばかりか表示そのものも無くなりつつあります。
これを見て、走行線区を言えたら大したものですよ!
次は列車のステータスを表すトレインマークです。かつての特急には必ず前と後に付いていました。特に機関車の前には所属する機関区が趣向を凝らしたマークを自作して担当区間を誇らしげに走りました。
※ダブっているものもあるかもしれませんがご容赦ください。
デザインはたびたび変わりましたので、どのマークを見たことがあるのでしょうか?
記念に作られたものもありますので何のマークか分からないものもあるかもしれません。
▼以下、私鉄も出てきます。
▲昔は記念列車には手の込んだ「花飾り」が付いたのですね。走行中に飛ばなかったのでしょうか?
▲個人的には「たから」が懐かしい!
▲「しま」のデザインは“たこ”ではありません。
それぞれの走行中の写真があれば見せてください。
サボ&トレンマーク、これも奥の深~い題材ですネ。
小生も『序で撮り』で結構撮ってますので、ついついヒケラカシ(この言葉、今では死語?)たくなりました。(笑)
ネガからのスキャンでは無いので『写り』はよくありませんが、まあ、何とか判るかと。
ところで、今日は祇園祭の先祭り。以前は毎年のように行ってましたが、故有って『京都を諦めた』まま、数年が経っております。
さっきまでテレビの実況放送を見てましたが、今更の疑問が・・・。
『祇園』祭りなのに、『八坂さんまで行かず何故山鉾は四条河原町で北に折れてまうのだろう?』と。またまた脱線でスミマセン。
河さん、“あきらめないで”来て下さい。
ご質問は祇園祭の取締役、鉄鈍爺さんからいずれ詳しい解説があるでしょうから簡単にご説明すれば、祇園祭は「祇園社」の主催ではなく町衆が主催する祭だからです。
写真の貼付は『1枚だけ』しか出来ないんでしたっけ?
実はレア物?6枚を貼付したつもりが・・・
で、あと2枚だけ・・・。
河様 「なには」の「なにわ」わすごい。?つられて間違いました。はでした。
どですかでん様
種明かしをすれば、1961(昭和36)年10月1日の時刻改正の日に大阪駅で長時間『取材』した時のひとコマで、『えっ!』と思って1枚だけパチリとやったショットです。
ベタを見ると、たったの1枚しか撮っておらず、しかもサボのみを大写しにしてます。
もうチョットましな撮り方が無かったのか、例えばもう少し『引き』にして車体もフレーム内に入れ、状況描写をすべきだったと今になって思えば後悔のみです。
これは多分、この時刻改正で153系の急行電車が『乱造』されたためのミスと考えられ、その後を追跡してはいませんが、比較的短い期間で修正されたと思います。
参考に、その時のベタ焼きの複写を添付しましたが、何故ヒトコマだけしか無いのかは不明ですが、フイルム代の節約?もしくは手持フイルムの本数不足によるコマ数節約だったのか? ⇒ それに引き換えパチパチ、パチパチやれる現在のデジカメの安易さに、時代の進化を痛感です。
河様
4コマ目の「へいわ」に反応してしまいました。平仮名の「へいわ」は戦後初の特急列車として有名ですが、キハ82の「へいわ」が運転されていたとは知りませんでした。5コマ目も「へいわ」でしょうか?
恥ずかしながら本題の「平和」も知らず、異なる時期に三世代の「平和」があったことは、今回初めて知りました。
紫の1863様
三世代の『平和』『へいわ』・・・恥ずかしながら小生は『三世代』に、『?』でした。
戦後直ぐ(?)の『釣り鐘・平和』とDC82系の『へいわ』しか知らなかった自分にとって、又また知ったかぶりしていた我が身を恥じる事となっております。(恥じてばっかり!! 笑)
アチコチ調べて見ると『平和』『へいわ』はなかなか複雑で、尚且つどれもこれも短命で現れては消えている印象を強く感じました。
中には『さくら』や『はと』まがいのデザイン付きトレインマークを使った『へいわ』もあった様で、奥の深さを感じました。
そう、そう、寝台特急の『あさかぜ』と紛らわしいので夜行寝台の『さちかぜ』を『へいわ』に変えたってのも有りましたネェ。
ベタ焼きの3~5の3コマがDC『へいわ』で、3は大阪駅に回送進入する『へいわ』です。← 完全に線路内侵入撮影ですが、この頃は大らかな上に、『小生の様な』良識ある?鉄チャンしかおらず、正しく『自己責任』と『迷惑回避』を心得ていたと自己弁護?
「平和」「へいわ」の名称の列車、結構複雑ですね。
①「へいわ」1949年9月15日に東京駅と大阪駅を結んだ戦後初の特急列車。1950年1月「つばめ」に改称。
②「平和」1958年10月改正。それまで東京~九州の寝台特急「あさかぜ」「さちかぜ」であったが、両列車の名がまぎらわしいので東京~長崎間の「さちかぜ」が「平和」となった。1959年7月「さくら」に改称。
③「へいわ」は1961年10月改正。のダイヤ改正。大阪~広島間の82系気動車特急。1962年6月、東京~大阪間の「つばめ」の運行区間が東京~広島間となったため「へいわ」廃止。
(番外)臨時特急「平和」1983年7月23日(下り)、同24日(上り)EF5861牽引の14系客車列車。
スミマセン! もう1枚。
米手作市さま
懐かしいとおっしゃる「たから」を撮っていました。京都駅東方、京阪との交差地点です。どうして線路際で撮れたのか、今となっては覚えがありません。昭和39年です。
“良識ある鉄チャン”だったからです!
続けてほぼ同じ地点で「九州観光」号です。跨線橋の階段の途中から身を乗り出して撮った記憶があります。東海道新幹線も開業前で、時々試運転電車が走っていた頃です。
西村さん、お久しぶりです。
昭和39年10月東京オリンピックが開催されました。
高校二年生だった私は、オリンピック開催するとともに、九州に修学旅行に出かけました。米原でこの九州観光号に乗り換え長崎に向かいました。初めての九州はもちろんですが、初の寝台車に仲間とともに興奮しました。帰りも九州観光号。家に帰ったら、大松監督率いる女子バレーボールが金メダル!そんなこんなを思い出しました。
マルーン様
九州観光号は修学旅行生にも利用されていたのは知りませんでした。福井から杉津を経て米原に着き、小さな陶器の土瓶に入ったお茶が配られたのでしょうか。誰が上段に寝るのかとさぞ車内は賑やかだったことでしょう。米原から長崎まで、乗りごたえがあったことでしょうね。そんな時代に戻れるものなら、戻りたい気分です。
どうも上の2枚は、この日走った「かえだま」を撮る前座だったようです。157系の「かえだま」ではなく、153系の「かえだま」です。
最後は昭和38年12月 和歌山駅?で撮った準急「なんき」です。多分キハ26でしょう。当時 準急「なんき」は1号、2号、3号があり、天王寺発新宮行きで、5時間を要していたようです。半世紀以上を経た現在でも特急電車で約4時間かかりますから、画期的には早くはなっていないようです。なんき3号は夜行列車でした。
乙訓の老人の甥様
そう、そう、仰る通り『平和 / へいわ』は複雑怪奇。頭の悪い小生のようなボケ老人には覚えきれません。(笑)
ところで、貴殿の解説文中にも有る『つばめ』ですが、小生の中では国鉄を代表する看板老舗路線である東海道本線の列車名との固定観念が有ります。
同時に、鉄チャンとしてはその御膝元で、それを誇りとして居たような気がします。
それが電化の西進に連れて、終点の神戸を越え広島へ入り、更に足を延ばして『本来の東海道』とは陸続きとは言え別物の『山陽道』を驀進、遂には交流区間の九州にまで『無理矢理?』突入。
気が付きゃその名はJR九州の物になっていて、喪失感に打ちのめされている私です。
もっとも、九州とは『物々交換?』で『ひかり』を貰ったジャン(突然ヨコハマ弁)と言われれば、確かに・・・。
そやけど(突然、関西弁)、『つばめ』と『ひかり』は格がチャうんチャうか?って言うのはエゴ?でしょうか。九州の人には、ごめんなさい。
以上、ユーモア文(いや、おフザケ文?)で、失礼しました。
河 昭一郎さんへ
九州から“もらった”『ひかり』(右:ひかり、左:あさぎり)
米手作市様
元祖『ひかり』ですネ。
小生は勉強不足&経験不足も良い所で、九州の『ひかり』は九州横断程度のローカルな列車と誤認していました。(恥)
調べて見ると九州一円を繋いだり解放したり、走り回っていた基幹列車だったんですネ。
御見それしました。(脱帽)
九州の方改めて『ゴメンナサイ』
レアって?の解説。
レアと騒いだ割には、だ~れも無反応にガックリ!の私です。
で、しょうが無く自分で自分をフォロー。(笑)
①クハ86の『試』マーク
これは米原~京都が電化した時のショットで、当時の急電マークの『急』を塗りつぶして限定的に特製『試』看板としたのが結構レア―のつもりでした。
実は更にその上レアと一人で思っているのは、このトレインマーク自体が他の急電看板とは違っていて、殆どの急電マークが白地に紺色だったのに対し、少数(調査未了ですが1組2枚のみ?)が配色を反転させた物でした。
つまり、自分的には2重のレアだった訳です。
②大形看板の『準急』
米原~京都電化に伴って大阪―名古屋に80系300番代車の準急電車がデビューしましたが、実は当初の1カ月は列車名が無く大形円板に縦に大きく『準急』とのみ標記し、空いた部分を黄色で埋めたトレインマークを付けていました。
東京ー名古屋には既に列車名の付いた準急『東海』が有って、同等大の大形円板のトレインマークを付けていたため、それに合わせたか又はそれと張り合ったかでしょう。
或る意味、前代未聞の『準急』とのみ大書した大形円板でした。
その後『比叡』と名乗る事になりましたが、『比叡』と書き改めた大円板の記憶が無く、続いて153系『東海形』になるまで『準急』円板で押し通した気がします。
153系になると、鷲の羽根を広げたような『紙芝居看板』となって、ペラペラめくっては『比叡』『鷲羽』『伊吹』などと変更しながら共通利用してましたネ。
更に話を続けると、このトレインマークは度々デザイン変更があって、当初の大形羽根形⇒二周り小形化した羽根形⇒更に小形化し両側に小さな羽根をあしらった円形内に列車名を書いた物へと変わり、記憶に間違いが無ければ最終的には急行電車とも共通化したような気がします。
上記は写真や資料等での『裏どり』がままならず、記憶を辿っての記述ですので誤りがあった場合はご指摘いただきたく、お手数をお掛けする事をご容赦下さい。
河さん、
失礼致しました。無視をしたわけではなく、価値が分からなかったからです。無知をお許し下さい!
私にはこの準急マークの記憶がありません。ただ、急電マークを付けた80系は何となく見た気がします。結論は「電車は客車よりむつかしい」です。
米手作市様
そうなんです。 守備範囲を外れるとサッパリって事が良くありますネ。
同じ鉄チャンでも、夫々『専門』 ・・・って、私の場合は『大袈裟』、ただ好きな電車(中でもJRではない国電)の事については、チョットは知っている程度です。
従って、デジ青は勉強の場です。
皆様、今後共ヨロシクお願いします。