もうひとつ、雪にまつわる一件を。
雪を求めてよく行ったのが只見線でした。利用したのが会津柳津駅近くの春江荘というユースホステル。会津柳津には温泉があり、円蔵寺の門前町でもあり、只見川に沿って温泉宿がいくつか建っています。ユースもそのひとつで、副業としてユースも営業していました。この形態は全国でよく見られ、旅館の一室をユースに流用しているだけに、場合によっては結構な設備です。このユースはいつ行っても宿泊客はほとんどなく、一人で広い和室を独占し、温泉にも入って、只見線の旅を満喫したものです。この春江荘ユースホステル、その後、湖畔荘という名に改名されたものの、今は廃業したのか、旅館のリストにも見当たりませんでした。
只見線は昭和46年の夏に行って以来、お気に入りの路線となり、47年からは、毎年雪を求めて只見線を訪れ、ユースにも連泊して、只見線の良さをしみじみ味わったものでした。ところが暖冬続きで、真冬の2月にも全く雪がなく、地肌が見えているという年もあり、只見線らしい大雪が見られたのは、昭和49年に行った時だけ、この時はもう社会人で、会社を終えた金曜日の晩に、新幹線、上野発夜行で只見線を目指しますが、途中の雪で大幅に遅れ、只見線に着いたのは、昼前になっていました。
▲只見線は、当時、貨物のみがC11牽引で残っていたが、なんと、その貨物はすべて運休だった。勢い、DC列車や駅でのスナップを撮るしかないが、逆にそれが、只見線の良さをしみじみ感じさせてくれた。40年足らず前の光景だが、福島県の山奥は、いかにも東北という、木村伊兵衛が撮るような光景が広がっていた。
▲駅長に見送られて、雪を載せたDC列車が会津柳津を出発する。後部はキハ23だが、当時、只見線の運行を担当する会津若松運転区には、キハ16、キハ18、キハ51、キハユニ18と言った希少な車種があり、気動車としても興味深い線区だった。
▲会津柳津駅は、二面三線の典型的な国鉄式の駅。気象板を掲出した光景も思い出のシーンになってしまった。現在、駅は交換設備も撤去されて棒線化され、無人駅になっているという。駅前にはC11244が静態保存されている。
▲2日間、只見線に居て、結局蒸機を写せたのは、この排雪列車だけだった。駅でラッセルが通ると聞き、会津宮下近くの鉄橋で待つ。突然、列車がやって来て、鉄橋から、豪快に雪が落として行った。その後、日中線へ向かったものの、その日、日中線は全列車運休(と言っても日中は走らない、朝夕の数往復のみだが)。駅で見たテレビは、東北地方11年ぶりの大雪と報じていた。帰る時、喜多方から上野行き急行に乗ろうとしたところ、部分運休を知らされ、会津若松まで初めてタクシーの代行輸送を経験し、這う這うの体で帰ってきた。
今年も、今年こそ豪雪でしょう。小出から乗ったのは、前述の学生時代最後の北海道旅行の時です。
83年2月にこんな離れ業ができたのは、周遊券+青春18の抜群に面白い鉄道旅行が可能だったからで、急行「きたぐに」でみんなより一日早く出発した小生は、明け方の糸魚川で大糸線の一番列車に乗り、飯山線経由で十日町から上越線で午後の小出の雪の町を歩いていました。
大白川までが新潟県、ここで3mはありませんでしたが2mの雪を見てたまげました。
SLが見られた先輩たちが羨ましいですが、我らもフルに「青春」を楽しんでいました。
只見線を全線走破したあとは、会津若松から磐越西線の最終列車で郡山へ。
スハフ32の後部デッキに三脚立てて、長時間停車の駅では夜間撮影の雪景色を撮っていました。
郡山から何喰わぬ顔でみんなの乗った「八甲田」か「十和田」の自由席に乗り込んで座っていると、気が付いた仲間が「お前どこから乗ったの?」と面白そうに盛り上がってしまいました。
携帯電話も何もなかった時代の青春。明日はいよいよ北海道と、眠れぬ夜行列車の旅はひた走るのでした。
いつもコメント、ありがとうございます。
只見線全線走破されたとのこと、私は何回も只見線へ行っているのに、会津川口以南を通ったことがありません。一度、18きっぷのシーズンにでも、全線乗りたいとプランを練ってはいるのですが、通しの列車がホントに少なくなりました。
周遊券+青春18の組み合わせ、私はこの経験がありませんが、確かに面白い旅行が可能でしょうね。そうそう、今の「周遊きっぷ」、全く人気のない切符ですが、意外と使い道があるようです。今度、これを使って旅行したいと考えています。