国道電車 秋の甲子園線
正式には阪神電鉄併用軌道線、通称“国道電車”も、廃止されたのが昭和50(1975)年のことですから、もう46年前になります。ちょうど京都市電が毎年のように廃止になっている時期で、掛け持ちで何度も行って、京都では味わえない車窓風景を撮影したものです。機会に恵まれて、神戸在住の皆さんと本を造ることもできました。国道電車は、北大阪線、甲子園線、国道線の3線からなり、三線それぞれに特徴がありましたが、今回は、甲子園線に限定して、カラーを集めてみました。
▲向こうに改修前の甲子園球場がそびえる「阪神パーク前」の電停。その阪神パークとの間を“金魚鉢”の電車が過ぎて行く。ちょうど今ごろの季節で、阪神パークは、家族連れで大にぎわいだった。チープな着ぐるみ人形や焼き芋リヤカーも時代を語っている(昭和49年10月)。
国道電車の甲子園線は、廃止前は上甲子園~甲子園~浜甲子園の2.8kmの路線で、甲子園で本線の電車と接続していた。歴史を探ると、この付近を流れていた、武庫川の分流、枝川・申川を廃川にして際に、阪神は廃川敷地を払い下げを受けて、野球場、遊園地などのレク施設を開業した。河川工事用として敷いた、砂利運搬の引込線を改修して、旅客輸送を転用したのが甲子園線のルーツで、大正15年に開業した。
▲阪神パークの黄金時代は、ちょうど甲子園線が廃止になる頃で、年間130万人余りの入場者があったと言う。阪神パークと言えば、われわれ世代では「レオポン」で名を売った。春秋には催事があり、一時菊人形もあったと言う。
▲短い路線ながら、途中の電停からは時ならぬ乗車が見られる。女子高校の下校時のラッシュだけを狙って行ったこともあった。甲子園九番町▲南へ行くほど庶民的な街並みになった。線路は、つぎの浜甲子園でプッツリ切れていたが、以前は海岸沿いに中津浜まで伸びていた。甲子園九番町
“甲子園”という存在感のある名が、撮影していても身構えるものがあった。準特急さんが、阪神電車の車内アナウンスをよく声帯模写されていた。「つぎは甲子園、甲子園、甲子園、阪神甲子園球場前、甲子園線、上甲子園、浜甲子園方面はお乗り換え‥‥」、何回甲子園って言うねんがオチだが、これも甲子園の持つブランド力だろう。
甲子園線と国道線は、よく会社の帰りに撮影に行きました。
昭和50年5月4日、浜甲子園です。
昭和49年6月22日、浜甲子園を発車した91です。
藤本様
写真、コメント、ありがとうございます。また先日の撮影会のご参加、ありがとうございます。浜甲子園は、終点の雰囲気があふれていて、私も好きでよく行きました。会社帰りに行かれたとのこと、当時は大阪勤めでしたね。甲子園と言えば、京都からずいぶん遠いように思いますが、案外短時間で行けることも、甲子園線通いで感じました。
総本家青信号特派員様
よく覚えておられましね。昔の車掌さんは「ございます、願います」調で2回アナウンスしたものです。「次は阪神国道、阪神国道でございます。国道電車はお乗り換え願います。」というような調子で2回連呼していました。これでも「国道」が6回出てきます。駅間距離が短くてスピードが遅い分静かな今津線など人によってはうるさいなと感じたのでしょう。その後、マルーンさんから2回言うのはやめたと聞きました。
うるさいと言えば関東系では優等列車の車内アナウンスで停まらない駅名を説明するのもどうでしょうか。
準特急様
最後までお読みいただき、ありがとうございます。折りに触れての準特急さんの発言、ぼやき、おちょくり(?)は、いつも気に留めて聞いています。アナウンスは二回でしたから、“甲子園”も倍になったのですね。マイクの音量も気にせず、絶叫型もありました。いまは、ずいぶん静かな車内になりました。
折角だから、阪神パークにあった戦前の飛行塔の写真を出して来ます。
撮影は1997年で、酷かった震災の2年後。ようやく生活が復興して、新しいマンションの建築ラッシュでした。
この年に第3子が誕生して、3児を連れて秋の一日に遊びに行きました。
閉鎖はこの少し後で、上の二人も殆ど記憶がありません。
今の商業ゾーンになった西宮北口や甲子園一帯にくらべて、穏やかな空気が残っていました。
私たちは上甲子園にいたことがあり、1番町から9番町までのうち、3番町あたりが一番高級な住宅街だった記憶があります。
KH生さま
甲子園の思い出、ありがとうございます。阪神電鉄沿線の持つバタ臭さと違って、阪神パークはちょっと上質な遊園地と言った印象がありました。私は最初に阪神パークに行ったのは、幼稚園の遠足で行った時でした。
甲子園の住所表示は、北から一番町、最後は南の九番町でした。数字によって、街の表情が違うのが、また面白いところでした。