《2月23日に投稿した「ディーゼル車」アラカルト①の続編が会友の河 昭一郎さんより届きました。前回に引き続き、米手が代理投稿でお手伝いさせて頂きます。
前回のレスポンスは52と大評判でしたので、今回もお手持ちの写真を、関連があってもなくても強引に展示しましょう!「ここで見せないと見せる時が無いからね!」》
先に発表させて頂いた「ディーゼル車アラカルト」なる駄作?(って言い切ってしまうと、折角レスポンスを頂いた皆様に水を差すようで失礼ではありますが。)にお付き合いいただき、感謝に耐えません。調子に乗って続編を・・・と、またぞろ登場です。
今回は「路面ディーゼル車」が目玉で、初めて見た印象は違和感その物でしたが、トロリーバス(「道路を走る電車」)が有るんだったら「線路を走るバス」が有って当然、と妙に納得したのを覚えています。更に、ゲテモノの代表?的存在として客車改造のDCを目にするに至り、これは実見しなければとの「使命感」(笑)が芽生えた記憶があります。
今回も皆さんのご批評や思い出話、更には記述間違い等の「ご指摘・ご注意」など、コメントを頂ければ幸甚です。
▼キハ58 249 (天ワカ)1966-3-14 長滝-新家
急行用のキハ58、28は全国を席巻し、紀勢線でも大活躍。
17系キハの華奢な車体とは違って車両限界一杯の丸味を帯びた姿が頼もしく感じた。
▼カニ22 51(東シナ)1964-10-1 東京駅
気動車?電車?客車?なんて誰も迷わない?
パンタも付けて車体は客車でも、ディーゼルエンジンを積んでるのでDCだって?無理矢理コジツケてもDCとは無関係!(笑)
▼DD13 56 [吹一] 1961-9-26 京都駅
ディーゼル入換機の王道?双方向運転台の凸形。
195両(1964年4月1日現在=鉄道図書刊行会)の多くが全国で活躍。一部は定期列車の牽引にも活躍した。
▼DD54 1 [福] 1966-7-29 大阪駅
ほぼ福知山線専用機だったDD54は1971年3月31現在29両(鉄道図書刊行会)が在籍。
SF映画を彷彿とさせる前面のデザインは当時の国鉄に違風?を吹き込んだ。
▼キハ35 158(水タイ)1967-12-7 水戸駅
DCの101系?扉は3か所だが、外吊り式両開きドアの通勤型。
最盛期には413両(1969年3月31日現在=鉄道図書刊行会)が活躍した。
▼キニ55 2(水ミト)1966-8-25 上野駅
小生の中では「珍し車種」のキニが居たので慌ててパチリ。
後で見たら貫通扉が解放に。折返し間合故か? 暑い夏、電機ではコレが常識だったなあ。
▼札幌市交通局D1001 1964-8-17 札幌駅前
麻布や琴似方面の路線延長で、架線設備等の工期を勘案しての「つなぎ導入」とは言え、レールバスの向こうを張った路面ディーゼル車は珍しかった。総数14両が在籍した。
▼キハ45 2(札ナホ) 1964-8-17 札幌駅
当初、写真で見た時「ん?ゲテモノ」と思ったが、実見して即ファンとなってしまった。余った客車の有効活用としては良かったが、重そうな感じは否めず、短命に終わった。
▼定山渓鉄道 7501 1964-8-17 苗穂付近
私鉄のDCが国鉄に乗り入れるケースは他にもあり、国鉄車に伍して走る様がたのもしかった。定鉄の乗り入れ車は洗練されたデザインで好感が持てた。
▼島原鉄道2001 1960-3-17 島原駅
本州、北海道に続く九州編は高校の修学旅行時に撮った1枚のみの寂しさ!
実はDC王国だった四国も手持ち写真0。遠征嫌いだった自分を今になって後悔シキリ。(続く)
口開けに河さん好みの写真をひとつ DD1346(吹1)
①後に初期型の80系がいる
②扉が開いている
米手作市様
「好みの写真」・・・って、バックの80系?、DD13のキャブ扉?
はい、80系は好物ですが、これはどうやら300番台の全金車のようで、湘南型の集大成的車両ですネ。
一方のDD13は夏場の電機の前扉解放に通じる情景ですネ。
ところで、これ吹操近辺ですか?
300番代ですか!失礼しました。
場所は京都駅です。
札幌市路面ディーゼルは先輩方が撮られた琴似方面の非電化区間で雪解け泥水の中を走る姿を見たかったと思います。1966年9月5日札幌駅前のメインストリートを大通り方向に向かうD1012の平凡な写真で恐縮です。
準特急様
平凡な写真? いえいえ、トンデモナイ!
この斜め45度からのアングルこそ、形式写真の理想的撮り方と心得ております。
ただ、小生は前面、側面共に順光の時が「理想」と信じこんでいて、形式写真を撮る時はカメラを構える前に周りをウロウロした記憶がよみがえります。
しかし、貴殿の写真を見てると、小生が経験した最悪の「側面真っ黒」では無く、程ほどの光量が却って細部の「鑑定」には向いている事に気付きました。
小生、学生時代に、撮ってきた電車の写真を安価に焼くと言う姑息な目的で「写真研究部」に「留学?」していた事があり、「追い焼き」や「ボカシ」などの「高度な技術?」も経験したつもりでも、いつもドンくさい結果が有りました。
もっとも、最近のIT時代では修正や補正も常識のようで、隔世の感があります。
実は今回も含め、小生の写真投稿でも何んとか見れる写真になっているのは、米手作市さんのITテクのおかげです。
ところで、島原鉄道の乗り入れ車は「払い下げ」では無く、「自前」との事、デマを飛ばした小生の勉強不足が露呈してしまいました!(笑)
河さんも写真部に所属されていたのですか。京都市電で有名な方も写真部に在籍したやに聞いております。部屋を暗くしてバットの中の液温を気にしながら夜を明かしたことを思い出しました。私は単純でして晴天で太陽光線が斜めにかかるのが好きです。河さんの関西国電や今回の気動車など掘り出し物を期待しております。
準特急様
貴殿も「元写真部員」的な事を? もしくはバリバリの「写真家」?でしたか。
小生は結局ケチが高じて「現像➡定着➡水洗い…の順だったと思う」のバットを用意して自宅の押し入れに現像所を「開設」してしまいました。(笑)
「関西国電」の話が出ましたが、実は集大成的なモノを・・・、とウズウズしているところです。
ただ、その実力の程が判りませんので・・・(笑)
準特急様
以下のコメントは、K.H.生様に宛てた文章が貴殿の枠に混入してしまった物です。
大変失礼致しました事を深くお詫び致します。
↓
『ところで、島原鉄道の乗り入れ車は「払い下げ」では無く、「自前」との事、デマを飛ばした小生の勉強不足が露呈してしまいました!(笑)』
北海道からゲテモノです。オハ62を使ったキサハ45です。1963(昭和38)年に改造されて1966(昭和41)年に廃車されていますから存在したのは3年ですが、この頃の北海道は気動車が不足していたようです。1966(昭和41)年9月4日鷲別区キサハ452
もう一つゲテモノの運用中の姿で1966(昭和41)年9月3日東室蘭駅での542D室蘭発豊浦行きキサハ451札ムロ。
キハ451(札ナホ)
ところで準特急さん、キサハは機関が付いてないトレーラーですが、キサハという気動車に分類されているのはオハとどこかちがうのですか?キハに挟まれて走るだけならオハ62のままでも良かったのでは?
そんなことはわかりません。ゲテモノと思ってのっけただけです。客車から付随気動車にしただけですが、一般の気動車の間にはめ込むわけですから多少機械的な処置をしたのではないでしょうか。キハ82系にキサシというのがあったように思います。あれは客車の転用ではなく最初から気動車の編成に組み込むように設計されたと思いますが基本的にはそんなようなものだと思います。キサハ45は気動車色(?)に変更して一般気動車との連結に耐え得るようような最低限の処置をしただけと思います。答えにならず申し訳ありません。あまりいじめないでください。
米手作市様
確かに仰せの通り「何がチャウねん!」でしょうが、動力車のエンジン制御などの引き通し線がDC仕様になっているのが違っている点ではないでしょうか。
それと、敢て言うなら連結器もただの自連ではなくDC用の軽量小型自連って言うくらいでしょうかネ。(この答えには最後に小っちゃい声で、大阪風の「知らんけど…笑」が付きますけどネ。)
なるほど、なるほど!
扉は自動・半自動になってたのかな?
次は「扉」ネェ!
扉の実体験はありませんので、つまり、撮っただけで乗ってないので判りませんが、(って、威張る事ないけど。)写真で見る限り戸袋のスペースも無く「客車のまま」の様ですネェ。
ところが準特急さん撮影のキサハ写真の中央部窓間にドア開閉知らせ灯らしいものが見えるのです。
確かに側面にランプ標識が写ってますネェ。 これが扉の開閉標識かどうか?ですが。 客車改造車は基本的には元の手動扉のままと言われており、一部四国管内で外吊り自動ドア化した車両が有った様ですネ。
確かにキサハには、何らかの「知らせ灯」らしきものがありますね。
気動車は、「車側扉知らせ灯」のほか「異常表示灯」だったかが装備される場合が有ります。位置的には、キハ20の例で幕板部が「扉」、窓高サぐらいが「異常」です。「異常」とは、エンジンなどの異常時と聞いた覚えがあります。とは言え、エンジンは載っていませんしね・・・
色が分かると良いのですが、扉は赤で、異常表示は乳白色(透明?)だったと記憶しています。
ちなみに、改造時に、何らかの暖房器具を設置しています。写真でも、それらしい箱や燃料タンクらしいものが写っています。あとは、制御引通線が装備されているハズです。また、標識灯が追加されています。さらに、標識灯掛けが、その下に付いている関係か、妻板が下側に延長されていますね。
中途半端な情報で申し訳ありません。
こんなのもありました。
12系客車をイベントトレイン用に改造して58系の中間車になったキサロ591です。種車はオハ12でなく車掌室付きのスハフ12で編成美がありません。
しかし電源用のエンジンを積んでいたのでキハ58が前後に着いて、冷房が使えたという。
列車名の「セイシェル」はいかにも80年代で、高中正義の「憧れのセイシェル」や松田聖子の「セイシェルの夕陽」から付けたのでしょうが、米子や福知山配属でした。あ!、羽合温泉かも。(爆笑)
トップの写真に呼応して、紀勢本線藤並駅を快足で通過する「きのくに」キハ58系の10連急行です。
私がDRFCに入り最初の新歓旅行の行き先が白浜で、翌日の帰りは和歌山県下に残る私鉄探訪を果たし、これは有田鉄道の訪問を終えた直後でした。
新宮電化は前年の53年で特急「くろしお」は新製の381系電車でしたが多数の急行は気動車のまま残り、天王寺と新宮を結んでいました。
キロを挟んだ4両が基本で4+4の編成に週末の観光客が満載で、新宮でキハ2両の増結編成が土日は必ず連結されて10両の堂々たる急行列車が、エンジンの轟音を響かせて、紀勢本線ー阪和線を駆け抜け、天王寺まで南紀を結んでいた最盛期です。
先頭のキハ58は最終増備のパノラミックウインドウのグループです。
昭和54年5月13日 紀勢本線藤並
2両増結は白浜駅でした。
早速の訂正です。撮影日は同じです。
戦後の社会の民主化改革を75年経ちいろいろと批判が出ますが、国鉄一家という親方日の丸ドリームは凄かった。国鉄は社会インフラだった鉄道を民主化という社会主義的テーゼで、容赦なく近代化。画期的な発明が10くらいありますが、九州人の田舎者の私に取り、昭和28年の液圧式ディーゼルカーの発明と30年頃からの総括制御の利を活かしたディーゼル急行列車は、昭和37年のピクトリアル誌の第二次ディーゼルカー特集を持っていますが、闇の中だった田舎に光明をもたらせた喜びに満ちた一大発明で、我も我もと、日本中のローカル区間に2両から4両程度のディーゼル急行を走らせ、戦後社会に新風を呼びました。
北海道から四国九州まで、昭和28年以降に伝わった衝撃は35年以降に本格化。ソーカツセイギョの呪文は私鉄にも飛び火して、長崎県の半島島原の住民も「おらが車両を長崎や博多、遠くは小倉まで走らせられるっちゃ!」と取り憑かれた情熱はついに実現。
小倉に住んでいて「KAZUSA」と書かれた車両を見た時は、隠れキリシタンの呪符かと身体に電撃が走りました。(笑)いやいやそのくらい、地方の人間にとり真っ黒けのSLからディーゼルへの転換の衝撃は、鹿児島交通や島原鉄道に勇気をもたらせたのですよ。
写真は加津佐行き島鉄キハを先頭にした「いなさ+弓張」長崎・佐世保・加津佐行き 昭和49年10月頃 鹿児島本線枝光駅
K.H.生様
先のコメントでも述べました様に、小生も地方路線に於けるDCの貢献度は「目まぐるしい物が有った」と認識しており、電化を中心とした都市部の鉄道の発展に「追い付き、追い越せ」の原動力となったのは事実でしょう。
特に、総括制御が可能となった17系は、同じく総括制御が可能だった電気式の44000をも駆逐し、スカ色酷似の上品な車体色は地方の人々の力強さを喚起したと信じております。
そしてそれは更なる発展を続け、車両限界ギリギリまでの大型車体となった58、28系へと発展、それに続く80系も常磐線に特急車としてデビューした後、新設の大ムコを拠点に北から南までの特急列車群の運用を担う様(サマ)に、たのもしさを感じたものです。
ところで、貴殿の投稿写真に写っている島原鉄道のCDは国鉄車(55系)の払い下げ車でしょうか?先頭車の窓下帯の塗分けが洒落てますネ。
島原鉄道は国鉄乗入れ用に併結可能な両運転台式のキハ55や26をつくり長崎本線から鹿児島本線直通の急行(準急)列車に連結していました。
のちに国鉄58系が冷房化されると自前のキハ26のみ、冷房改造をいたしました。
国鉄型のキハ26で冷房改造はなかったと思います。
さらに島原鉄道のキハ55および26は国鉄同型より上等な、空気バネ台車を履いて、気を吐きました。
南海電鉄の白浜乗り入れ車は同じキハ55系ですが普通の台車で、冷房改造も施行されなかったので、これは九州の車両ながら、自慢の出来た車両です。
K.H.生様
平凡な写真? いえいえ、トンデモナイ!
この斜め45度からのアングルこそ、形式写真の理想的撮り方と心得ております。
ただ、小生は前面、側面共に順光の時が「理想」と信じこんでいて、形式写真を撮る時はカメラを構える前に周りをウロウロした記憶がよみがえります。
しかし、貴殿の写真を見てると、小生が経験した最悪の「側面真っ黒」では無く、程ほどの光量が却って細部の「鑑定」には向いている事に気付きました。
小生、学生時代に、撮ってきた電車の写真を安価に焼くと言う姑息な目的で「写真研究部」に「留学?」していた事があり、「追い焼き」や「ボカシ」などの「高度な技術?」も経験したつもりでも、いつもドンくさい結果が有りました。
もっとも、最近のIT時代では修正や補正も常識のようで、隔世の感があります。
実は今回も含め、小生の写真投稿でも何んとか見れる写真になっているのは、米手作市さんのITテクのおかげです。
ところで、島原鉄道の乗り入れ車は「払い下げ」では無く、「自前」との事、デマを飛ばした小生の勉強不足が露呈してしまいました!(笑)
K.H.生様
手違いで、貴殿宛てのコメントの前部に準特急様宛てのコメントが結合してしまい、大変失礼を致しました。 以下に改めて送信致しますので、どうか失礼をお許し下さい。
↓
『島原鉄道の乗り入れ車は「払い下げ」では無く、「自前」との事、デマを飛ばした小生の勉強不足が露呈してしまいました!(笑)』
413両作られたキハ30系の1号車 亀山
たまたま交換列車を撮ったらキハ351でした。1987(昭和62)年11月27日国吉駅です。この年にJRが発足しています。そしてこの路線は今はいすみ鉄道となっています。
島原鉄道より落ちる(?)南海のキハ55です。1964(昭和39)年8月15日新宮6時20分発東和歌山駅(現在は和歌山)10時32分到着の準急「南紀1号」です。5分停車後の10時37分に前の車両が出発し天王寺に11時29分に到着します。続いて後ろ2両南海車が7分後の10時39分に和歌山市を経由して難波に11時48分に到着となっています。南海のキハ55は9両もあったそうです。写真では分かり難いですが、保護棒とか南海車である行灯式の表示が国鉄車と異なった印象です。
続いて小田急の御殿場線乗り入れの2713D準急「朝霧」です。新宿8時45分発御殿場10時41分着です。1966(昭和41)年2月28日足柄付近を登る姿でキハ5101の単行です。
小田急のキハ5000、キハ5100は御殿場線電化もあり、関東鉄道常総線に譲渡され同社のキハ751系、キハ753系となり1987(昭和62)、88年まで使用されて廃車となっております。特筆すべきはこれも元小田急電車であった1600形と連結していたことです。写真は1973(昭和48)年4月1日水海道-小絹間を行く取手行きのキクハ3+キハ754(元小田急キハ5102の3扉ロングシート化)です。キクハ3の小田急時代の番号は未調査です。
水島キハ38104
平成21年7月28日、上総亀山駅、久留里線時代のキハ38です。
私の撮影したDCの中で、「1形式1両」ならぬ「1形態1両」だったキハユニ25 7の写真をお送りします。
10系DCの郵便・荷物合造車は新造車はなく、電気式や初期液体式の湘南タイプ2枚窓の車からの改造でしたが、これらは寒地向け仕様ではなかったので、北海道向けには本州以南用だったキハユニ26型に先行して、キハユニ25型が6両造られました。当時北海道向けのDCはキハ21型でしたので、キハユニ25の客室はそれに準じて、側窓は上段固定Hゴム支持の2段窓(いわゆるバス窓)で、客用ドアはやや中央寄りでした。
ところが3年ほど後、ラストナンバーのキハユニ25 6が失火事故で焼けて廃車となり、翌年その代替として新造されたのがこのキハユニ25 7です。この頃には道内向け一般車はキハ21に代わりキハ22型が増備されており、従ってキハユニ25 7も客室はキハ22のスタイルとなり、やや小さめの1段上昇窓でドアは車端となりました。というわけで1両だけのキハ22系のキハユニが出来た次第です。
廃車となった6号車の代替ということで、6号車と同じく稚内区に配属され、実見のハードルは高かったのですが、学生時代にSL撮影で北海道を回った際、いまはなき天北線で交換列車に連結されているのに出会いました。とっさのことで、しかも薄暗い曇天時だったためさえない写真ですが、私にとっては数少ない「お宝写真」です。
1974(昭和49)年8月26日、天北線敏音知駅を発車した音威子府行き726Dの後部。交換の稚内行き727D車内からの撮影です。
蛇足投稿ですが、デッキ区分の無いキハユニ25 2の写真も参考に付けておきます。1983年2月28日
日高本線浦河
室内も大サービス。道南とはいえ、デッキ無し気動車の冬季は寒かったです。
まほろばの鉄趣味住人 様
小生の「上っ面」で「総花的な」車両構成に、「1形態1両」と言う大変ディープな話をご紹介頂き、感心して見入りました。
併せて北海道ならではの車両事情の解説も有って勉強になりました。有難う御座いました。
まほろばの鉄趣味人さん!
貴重な写真有難うございます。天北線での撮影は間違いなくキハ22系のキハユニ25ですね。勉強になりました。またお宝ありましたら発表願います。
昭和47年8月6日、山中渓~紀伊間、キハ58先頭「きのくに3号」です。
昭和41年10月13日、京都駅、カニ2251です。台風で大幅に遅れて到着したので撮影できました。
昭和39年12月20日、京都駅、DD13110です。あれだけいたDD13ですが、いつの間にかいなくなりました。
昭和51年4月28日、二条駅、DD5418です。
昭和48年2月11日、名古屋駅、キハ35110他6両編成の武豊行です。
昭和41年3月、雪の降る寒い日に新見~津山間で乗り、凍死するかと思いました。
昭和49年8月26日、土浦駅、キニ551です。
札幌市電、D1041です。
ディーゼル車両の最終増備車で、電車改造はされませんでした。
昭和42年9月4日、厚岸駅、キハ094です。
両運のキハ40はキハ08に、片運のキハ45はキハ09に形式変更されました。
キハ083が加悦鉄道に行き、SL広場に保存されていたのですが、閉鎖後どうなったのでしょうか?
昭和44年9月7日、札幌駅、定山渓鉄道キハ7003です。
昭和44年3月20日、島原鉄道南島原機関区、キハ2001です。
河様の投稿と同じ順序でコメントさせていただきました。
藤本哲男 様
さすが藤本様、写真は何でも持って(撮って)おられますネ。 それも、良質の写真を・・・。
今回も、小生の記事にフォローと言うよりリードして頂き、感謝致します。
札幌のDC・・・そうでした。 追っかけるように電化が完成し、結局電車に改造されて生き延びたのも居たんでしたネェ。
キサハ45の扉について気になっていましたが、鉄研三田会OBで元国鉄に在籍されたM様に訊いてみました。資料が手元になく改造車両の車体屋さんも大半が泉下にあられるということで分かりませんでした。Mさんによりますと形式図で見ると小型密連にわざわざ変たえたようでその理由もよくわからないことですが扉は開き戸のようでドアエンジンは付いていなかったのではないかということでした。答えになっておらず申し訳ないとのことでした。
一方、私はよく知りませんでしたが、50系客車を気動車に改造してキハ141系にした例が北海道に多く見られます。西日本のキハ33系というのも同じ考え方の改造のようです。50系は所謂古い客車タイプではないので気動車に化けてもあまり違和感は感じられません。どなたか発表していただくと幸いです。
オハ50を1988年に改造したキハ33です。2両改造されたとかでこの1002番は2010年頃に解体されましたが1001は津山の鉄道館で保存されています。写真は、2003年6月の米子駅です。境線で運用されていました。
ブギウギ様
早速有難うございます。ボケーと見ているとやはり客車改造には見えないですね。