▲ 直方駅4番ホーム対比 蒸機時代、ホームの横には直方機関区があり、入出庫する蒸機が黒煙を吐きながら、連なっている光景が日常的に見られた。4番ホームへ到着するのも蒸機。乗客は真っ黒になりながら、列車に乗り込んだ。いまは福北ゆたか線こと筑豊本線は電化されて、留置されるのは電車。DCになった。ホームにいても、乗客が少ないこともあって、妙な静寂に包まれる。音や臭い(匂い?)に包まれて、五感をくすぐられた、あの直方が懐かしい。
思い出探し、次は直方です。直方へは、蒸機が無くなってからも、何度か訪れて、その変化を見届けてきました。これまでも再三に渡って投稿して来ましたが、改めて、直方の今昔を対比してみました。
▲ 駅舎今昔 木造で、正面にエンタシスの柱を持つ旧駅は取り壊されて、2011年に橋上の新駅舎ができた。今までの駅前「坑夫の像」に代わって、郷土の大関、魁皇の像が置かれている。旧駅舎は、初代の博多駅を移築したものではないかと言われたが、調査の結果、そうでないことが分かり、あっさり解体された。▲ 構内対比① 左手に機関区があって、その横を、ひっきりなしに蒸機列車が出入りしていた、下は1990年の構内で、蒸機はなくなり、機関区はDCの検修庫になった。まだ電化は到達しておらず、すっきりした構内。▲ 構内対比② もうひとつ南側には多賀神社へ向かう陸橋があって、ここでもよく撮影した。9600の牽く石炭列車、その横で入換に励むDD13と、つねに複数の列車が見られたものだが、いまは、単行のキハ140が思い出したように通るだけだった。
▲その陸橋のたもとに、謎めいた煉瓦庫が残っていた。駅のランプ小屋似だが、駅からは少し離れている。今はすっかり緑に覆われていた。▲つぎは駅前の今昔、旧景の左の像が「坑夫の像」、背後には雑多な街並みがあった。右端に西鉄直方バスセンターが見える。現在、行ってみると、古い街並みは一掃されて、大きな総合病院が建っていた。
ここからはバスの今昔を。直方は西鉄バスだけでなく、国鉄(JR)バスにとっても一大拠点であり、二社挙げて、筑豊地方に網の目の路線網を広げていた。▲駅前を少し進んだところにある西鉄直方バスセンター。行き先表示を見ただけで、いかに各方面に頻発していたか、よく分かる。▲▲バスセンター目指して、駅前通りはバスが連なっていた。歩道には露店も出ていて、人の通行も多かった。
▲バスの種別もいろいろ、左から「高速」「急行」「特急」。▲なかでも福岡(天神)行きはドル箱路線、筑豊本線、篠栗線(当時)とも非電化で、直通列車は皆無に近く、バスが断然優位にあった。しかし、地域人口の減少、クルマ社会、それにJRも電化して直方~博多は一時間で行けるようになり、西鉄バスも大幅に削減された。
▲現在、西鉄直方バスセンターは、駅の真ん前に移転したが、マンションの一角を間借りしたようなスペースで、以前と同じ「福岡(天神)高速」の幕を出したバスが一台だけ停車していた。
▲いっぽうの国鉄バス、1990年に訪れた時は、JR九州バス直方支店となっていた。廃止されたローカル線の代替バスも含めて、これまた筑豊に細かい路線網を伸ばしていた。「つばめ」の国鉄バスカラーもまだあったが、新車は、RED LINERとして真っ赤なバスに。▲直方バスセンターを発車する、登録番号「1」ナンバー車。その後、直方支店は廃止されて、博多支店の管轄になり、車庫は郊外へ移転、駅前の発着は、西鉄バスセンター前を間借りしている。
旅行も終わり少し経ちました。九州の鉄道の変わりように皆様驚かれたようですが、福岡県は良い方で筑豊にしても随分上向きになってきました。
直方の奥の筑前宮田の宮若市はトヨタのエンジン工場ができて以来見違えっています。
写真は直方駅にあった巨大石炭給炭機です。
K.H.生さま
直方の給炭場、見せていただきました。機関区の設備は、蒸機を撮った時にチラリとは入っていますが、設備だけを撮ったことがありませんでした。改めて巨大な設備だと思いました。門司にも同様の設備があったこと、チラリ写真で分かりました。
いまや自動車産業で栄える若宮町には、たしか貝島炭鉱の発祥碑がありますね。石炭から、自動車産業ですか、筑豊も変わりました。
上から8段目、直方駅の南に見つけた、謎の煉瓦庫ですが、1990年に訪れた時に、現状と同位置で写していたコマも見つかりましたので、添付しました。
もうひとつ、鉄道遺産がありました。直方駅の南、石炭博物館から筑豊本線を渡る人道陸橋ですが、写真のように、明らかにターンテーブルの部材を転用したものです。径間がうまく一致したのでしょうが、どこからの転用かは、いまだ不明のようです。
その陸橋を渡って東側へ行くと、こんな光景が見られます。鳥居は西側にある多賀神社のもので、どうやら、筑豊本線敷設の際に分断されて、鳥居だけ取り残されたようです。