明けて昭和37年(1962年)、この年も1ヶ月単位で大きな事故が続く。
さらに国鉄が崩壊した原因の一つの「労働争議」が国鉄の体力を奪う。
まず2月26日の事故。
⇧ATSがあれば防げる事故だったろう。
⇧春闘と言う言葉は今の若い諸君にはピンとこないかも知れない。
⇧このころから労働争議は経済闘争からイデオロギーを中心に据えた政治闘争へと変化し、機関車の横っ腹に“合理化粉砕!”などのスローガンが書かれるようになる。
今から考えると、これらの事件や事故はこの後に続く出来事に比べたらそよ風のようなものだった。
米手作市さま
今回のご投稿での遠隔地の事故や労働争議は余り関心が無かったとみえ殆ど知りませんが、少々コエントを。土讃線の長期不通からの復旧再開半年後にここを通っていました。高3の夏休みのクラブ旅行で四国を一周したのですが、この時に急行「浦戸」で通過しています。土砂崩れすら知らず現場で徐行した記憶もありませんが、記事にもあるように後年線路付替えが行われたのちも、その理由を知らぬまま頭の片隅に疑問符が付いたままでした。余談ですがこの旅行では大阪から宇野まで特急「うずしお」に乗車、これが151系こだま型の初乗車体験でした。
「六甲」号回送の脱線事故で「ATSがあれば」とありましたが、当時のATSは警報機能だけで強制的なブレーキ機能はありませんでした。尤も運転士が警報音に驚いて直ぐにブレーキ操作をしていたら防げた可能性はありますが。
国労・動労等の労働争議はこの頃から始まっていたのですね。当時は高校生でノンポリの小生には関心が無かったようです。高崎線宮原駅での乗客による運行妨害事件で関心を持ったように思います。後年、昭和40年代後半の撮影旅行では度々運転速度を遅くする「順法闘争」やSLテンダーへの落書き等による被害を被りました。小海線を撮り終えて新宿へ行く際に小淵沢から急行「アルプス」に乗りましたが、甲府から先を40~50㎞ほどで走られ、小一時間遅れて着いたこともありました。労働条件改善要求を逸脱し、イデオロギー闘争に及んだことが結果的に国鉄解体→JR化という、ある意味組合潰しを目的とした政策に拍車をかけたことは否めないと思っています。いわば自分で自分の首を絞めたのでしょう。またJR化に際し、労働問題だけでなく明確な交通政策に基づく施策が行われておればと、昨今盛んなローカル線廃止議論に疑問を感じています。