しばらく家庭事情により休載しておりましたが1ヶ月ぶりに再開します。
三河島事故に続く記事にもうしばらくお付き合い下さい。
昭和37年は踏切事故が多発します。
京阪でも踏切事故は発生しました。子供の事故はいつでも心が痛みます。
いろいろな事故が発生していたのですね。当時は今より細かい事件事故も掲載していたように思えます。
九州の事故です。この時代は追突事故が日常茶飯事に発生していたことが分かります。
南部線事故でもトラックとの衝突です。
やっと警報器をつけるという事になるようです。今も昔も、死者が出てから対策をするのは変わりません。
これは山陽線での脱線転覆事故です。
こうして昭和37年が過ぎ、昭和38年になります。
ありも有ったり当時はこんなものだったのですね。残念?ながら「金星」の火吹き事件以外は知りません。阪急のオートカーが故障していたというのも悔しながらしりませんでした。知っておれば準特急さまとの論争の材料になっていたのにああ残念。冗談はさておき世間、とりわけダンプカーの運転マナーは相当悪かったのですね。そんな記憶があります。この後40年代に入って経済の高度成長に伴う車の普及や、沿線人口の増大による運転本数の増加等で、未整備の踏切問題が大きな社会問題化してゆきます。民鉄でも積極的に警報機や遮断機を整備する会社もあれば、我々は被害者だという社もあったりして顰蹙を買うことがありました。ことが起きないと改善されないのは情けない限りですが、社会問題というのはこういう経過を辿るものなのでしょう。
記事も時代を反映していますね。病院に収容されたが「死んだ」や、車内から血だらけの若い「女」が出て来て云々などは隔世の感があります。これを社会の進歩というべきなのでしょうか。
不謹慎ながら「白鳥」の高山線回りや山陽線急行等の赤穂線回りには興味をそそられます。因みに白鳥の所定ダイヤによる富山到着は13:09ですから、迂回しても46分しか余計にかかっていません(これは当時の北陸本線といえどもまだ殆どが単線で、線路整備も進んでいなかったことによるのではと思います)。また不思議なのは下り準急「こがね」が金沢で打切りになったことです。はじめは「白鳥」の高山線回りに伴う線路容量の関係かと思いましたが、「こがね」は所定でも富山15:13着ですから、迂回「白鳥」はとっくに新潟方面に行っています。
旅情は減りましたが安心安全な時代に暮らせてよかったと思いますね。
1900生さん
お久しぶりです。
数十年は、遙か彼方か、それとも最近かは人それぞれでしょうが、新聞の表現は隔世の感がありますね。
それと鉄道事故も今では考えられない原因で起きています。1900生さんはじめ、鉄道員の皆様方のご苦労の結果だと、改めて感謝しております。
米手作市先輩
デカンショまつり号です。
阪急特急の事故、初めて知りました。
運転士の方が殉職され、乗客の方も亡くなられたとのこと、ご冥福をお祈りしたいと思います。
写真を見ると、1300系か1600系のようですね。
2扉ロングシート、梅田方ですから、1303か1305または、1601~1606のいずれかと思いますが、事故後、廃車や代替新造の話がありませんから、復旧して使用されたようです。
最近では、事故車両は、廃車となるケースが多いですが、当時は、ものを大切にしていたようね。
デカンショまつり号さま
阪急の事故車両は確たる情報はありませんが1300だと思われます。先日「阪急が新幹線線路を走った時代」にコメントしましたが、その頃に1300の特急に乗った記憶があります。一方で1600の特急は聞いたことがありません(事故時の代用特急を除く。デイ100の代用はありました)ので、小生は1300だと思っています。
デカンショまつり号さん、1900生さん、
私は阪急に詳しくないので、てっきり1300系と思っていました。
仰る通り、当時は車両不足が常態化していたので修理復旧したのでしょうね。それにしても事故車の車内の様子は凄まじいものがあります。こんな写真も今では見られないでしょう。
では、1303か1305ですね。確かに、青信号総本家特派員さんが編集に携わられたJTBキャンブックス「阪急電車」P121の1600系の解説にも、急行など優等列車運用に充てられることは意外と少なかったとの記載がありますね。
時は流れて、1984年の阪急電車の六甲事故では、山陽電車と衝突した2050は、復旧されることなく廃車され、2154がわざわざ冷房改造したうえで、二代目2050となっています。
当日、893-2さんと現場に野次馬として出かけました。