この記事は河 昭一郎氏が以前に鉄道ピクトリアル誌に掲載されたものをデジタル青信号用に改めてご寄稿下さいました。
米手作市が代理で投稿致します。
阪急京都線が元々は阪急ではなかったのは有名な話で、そのルーツは京阪電気鉄道の子会社であった新京阪鉄道が1925(大正14)年10月15日に天神橋~淡路間を開業したのが始まりである。
後の1928(昭和3)年11月には京都(西院)まで延伸され、大阪(天神橋)~京都(西院)の直通運転が実現した。
その後、北大阪電気鉄道との合併によって十三~千里山間が編入され、その内の淡路~十三間が後の梅田乗り入れの足がかりとなった。
しかし、その後の社会情勢の変化により1930(昭和5)年9月15日には親会社の京阪電気鉄道に合併され同社の新京阪線となった。
この新京阪鉄道は名古屋までの延伸が念頭に有ったため、軌道法を超えた鉄道法に沿って建設されたため、軌道法の阪急とは規格が違いレールは50キロ級、架線方式についても高速対応のコンパウンドカテナリー式(但し、補助吊架線とトロリー線との間隔が広い変形)を採用していた。
写真:爆走する1519他4連の京都行急行・3両目に1550形が混結されている。(1963.7.18.富田)
②京都線誕生
戦時中には国策に沿った合併令によって京阪電気鉄道は1943(昭和18)年10月1日に阪急電鉄を主体とした阪神急行電鉄と合併する事となって、その名も京阪神急行電鉄となった。
ところが戦後京阪電鉄が分離される際、交通体系を淀川の右岸と左岸に分離する案に従って新京阪線は京阪電鉄から離れ京阪神急行電鉄(阪急)に属する事となり、ここに阪急京都線が誕生した。
これにより阪急にとっては棚ボタ式に京都への進出が成ったが、一方の京阪にとってはトラの子の高規格路線を失う結果となってしまい、当時の世間では色々と物議を醸したようだ。その影響も有ってか昭和30年代に沿線に居住していた筆者の印象では、沿線住民の間で『阪急』と呼ぶ者は稀で、圧倒的に『新京阪』が浸透していて『阪急』の名は馴染みがうすかった。
写真上:1509先頭の京都行2連(1962.8.15.総持寺)
③ 新京阪の代表P6(100・1500形)
かつての新京阪には言わずと知れたP6が有って、電動車のデイと付随車のフイ及びフキが有ったが、昭 和30年代の阪急では夫々100形、1500形と成って70数両の大所帯で活躍した。なお、1両のみ存在した貴賓車の フキは格下げの上1500形に編入され、本来京都線方式のトップナンバーである1501とは別に特例的に1500を名乗っていた。
このP6が新京阪にデビューした当時は異例ずくめで、車長は19メートルも有ったのに加えて重量も50トン級の重厚さを誇り、電動車の出力も当時では破格の150キロワット電動機を4個装備した大出力であった。
その理由は、新京阪が当初から末は名古屋まで延伸する遠大な計画を持っていた事で、運用本数の増大化に備えると同時に長距離走行に耐える車両を意識した結果であった。
上記のように高い性能を有していたP6については次のような逸話が有名である。
上り電車が大山崎を出て直ぐ東海道本線を斜めにアンダークロスした後、同線を右に見ながら併走する約1Kmの区間があり、ここではP6が蒸気機関車牽引で最速を誇っていた特急『つばめ』を追い抜いたとの事である。
ただし、東海道本線が電車化された後の昭和30年代にはその場面を見る事は出来なかった。しかし、その名残りは充分あり、この当時4連で特急や急行が通過駅を走り抜ける様は正しく爆走に似た迫力があって、その姿は装甲車と言われた位の重厚感があった。
写真上:143他4連の下り急行・2両目に1550形が連結されている(1963.8.19.富田)
写真下:元貴賓車の1500(1962.4.28.高槻市)
京都線を席巻していたP6と言われた100形、1500形は、どちらかと言えば角ばった外観をしたアメリカン・スタイルで、ヘッドライトも大形で厳つい感じだった。特に貫通幌が他には無い独特の仕様で、太目の幌枠の上下裏側の車体との間に板バネが装備されていて、他車との連結時には幌枠同士が押し付け合う機能があって編成の解結作業の合理化が成されていた。
この前面こそがP6のP6たる所以であったが、後年これが阪急標準に改装される事となって簡易な幌受け枠のみのスタイルとなり『軽~い印象』となって面持ちを一変させた。
また、当初のP6は母線の引き通し線を屋根上に敷設していて車端の屋根上にカプラーが設置されていたのが特徴的であった。
戦後の昭和30年代には実用しておらず、一部の車にカプラーのみが屋根上に残っている状態であったが、このカプラーは電車ファンの筆者にとっては他では見る事のできないスタイルだったため、大変奇異な印象を受けたものである。なお、現在ではこの屋根上カプラーは動態保存されているデイ116に復元されたのを見る事が出来る。
写真:典型的P6顔の103(1962.4.28.高槻市)
京阪電鉄の影響を受けていて、この流線型200形も京阪の1000形流線型車の影響を受けたと考えられる。
しかし、その形状は本家の京阪1000形とは違って『流線型』としては中途半端なデザインとなっており、何よりも全長が15mと言う小ぶりな車体や、電動機も93kwX4個の軽装備だった事から千里山線や嵐山線に終始せざるを得なかった。
従って、運用から推して本線での活躍を期待しない『流線型イメージ』のみの導入に終わったと言える。
写真上:201+251(1962.4.28.桂)
写真下:京阪電車の流線型車1008(1963.8.23.中書島)
⑥ ダブルルーフの小型車(10・50形)
当時の嵐山線は古い小型車で固められており、ダブルルーフの電車が行き来する様はまるで電車の動態博物館のようであった。
この10形と50形は新京阪が開通した当初に導入された木造車がルーツで、後に鋼体化されて生き残っていたもので、それはまるで電車の文化財的存在であった。
当時の筆者には温故知新を地で行く絶好の体感材料で、桂駅で折り返す車両を長時間厭きずに観察したものである。
新京阪時代には10形はデロ10、50形はフロ50とも言われ夫々20両(Mc)と6両(Tc)が投入されたが、総称としてはP6に対してP5と言われた。
嵐山線では写真のように3両編成で運用され、車体巾が狭かったため両側の乗降ドア部外側にホームとの隙間を埋めるステップを設置していた。
写真上:16+56+15 写真下:56ダブルルーフが良く判る 共に(1962.4.28.桂)
嵐山線には流線型の他にも210形と260形の稀少車が存在しており、鉄道ファンにとっては楽しみの多い線区であった。
一見920形以来の阪急スタイルに見える210形も、良く見ると似て非なる『顔』をしていた。特徴としてのアンチクライマーが無く、どちらかと言うと間の抜けた顔で、さらに車体長も15mと短かった。元は新京阪電鉄から継承した2両の貨物電車だったが、京都線での貨物営業廃止に伴って1956(昭和31)年に転用改造され、中間にT車を挟んだ211+261+212の固定編成に生まれ変わったものであった。
当初は千里山線に投入されたが、同線の大形車化に伴って嵐山線に転用された。
写真:212+261+211(1963.7.18.桂)
新京阪が阪急京都線となっても依然として70数両のP6の天下が続き、沿線の住民の間でも『新京阪』と呼ばれる有様だった。
そんな中、1949(昭和24)年11月には先ず5両の1550形が『阪急化』の先兵として投入され、P 6の4連にT車として混結使用された。
続く阪急化は翌年に710形14両の新製配置で行われた。
1550形は車体仕様が阪急形だったため下降式窓となっていてP6に比して上下巾が小さく、その位置も少し高かった。一方の710形は本家神戸線の800形より車長を1m強長くした18m級で、ほぼ特急専用車として使用されたため、スラリとした細面と相俟って一種の憧れ的存在であった。
なお、この710形は当時1500Vだった京都線と神戸線の600Vに適合する複電圧車となっていて、神戸線への直通乗り入れが出来た。
写真上:下り特急最後部の765(1962.8.15.総持寺)
写真下:764他の旧マーク上り特急(1962.3.1.総持寺)
⑨ 千里山線の変則車(700・750形)
戦後の1948(昭和23)年に千里山線に運輸省規格の700形・750形が夫々5両づつ新製配置されたが、本来の阪急スタイルとは似て非なるものであった。
何よりも異質を感じたのは、阪急スタイルの920形に比して車体巾が15cmも広かったため、前面の印象が全く違っていた事で、加えて窓が2段上昇式だったのが更に異質感を増していた。
その後の同車は下記の通り千里山線に於ける車両の遣り繰りの妙に重要な役割を果たした。
Tc車の750形を電動車化して700形に編入するのと同時に、異系列のTc車だった5両の300形(新京阪継承車の1300形を改番)をT車に改造して誕生した2代目750形を中間に挟んだMc+T+Mcの3両編成を5本生み出した。この3両編成は不揃いでチグハグ感は拭えなかったものの夫々に個性が有って、車両の有効利用には感心したものだ。
写真:701他3連(1963.8.18.市役所前)
(つづく)
河 昭一郎様
米手作市様
懐かしい話題を提供していただき有難うございます。
専門家のマルーンさんや新京阪等にお詳しい方も沢山おられることと思いますが不詳ブータレ爺さんの私が多少感想なり質問をさせていただきます。全体に素晴らしい新京阪の印象を感じ取ることができて久しぶりにワクワク感が戻ってきました。
冒頭の部分ですが
(1) 阪急神戸線の架線は600V軌道法時代からコンパウンドカテナリー方式でレールは50kg級ではなかったでしょうか。近鉄の大阪線はどうだったのでしょうか。
(2) ②の京都線誕生の頃で京阪電気鉄道は阪急電鉄を主体とした阪神急行電鉄と(国策により)合併とありますが、阪急電鉄を主体としたは不要ではないでしょうか。
(3)交通体系を淀川の右岸と左岸に分離する案に小林一三は関係したのでしょうか。国策だけではよくわかりません。他社の合併も実際の話はわかりません。
(4)貴賓車のフキ1500は同形式1両のみですがどうして新京阪付番方式の01である1501にならなかったのか初めて気づいたことですが。
(5)p-6は大型幌あってのP-6ですが連結部分に雨水が洩れるとのことを聞いたような気がしますが、せめて雨水漏れに関係の少ないとも思われる先頭だけはそのまま残して欲しかったと思うのは私だけでしょうか。
(6)小型車ながら逸品の木造車P-5は最後の能勢電時代に木が腐食でボロボロはがれるのを確認したことがあります。
(7)もう一つの異端車(210,260)
貨物電車の転用改造でアンチクライマーなしの間の抜けた顔とのことですが、ご存知同時期で同じ様な形の車両に神宝線610系がありました。特に最初の610~660は非貫通で神宝線の800系後期の805~855,806~856も同じ間の抜けた顔です。610系36両は51形34両、1型2両の機器、台車を500型(380形)に振り替え500形(380形)のものは610形に転用するというややこしいものです。実際はもっとややこしく理解に苦しみます。しかし車体長15mでも車体幅が大型車並みでステップなしでそのほとんどが貫通型タイプは好ましいスタイルでした。1969年3月4日甲陽園線で最後の活躍の664+614が夙川に到着する雪の日の姿で後ろのお椀のような山は標高309mの阪神間のシンボル甲山です。
準特急様
ご質問(1)の近鉄部分の証拠写真がありましたので投稿いたします。1963年10月に大阪線の車内から撮影した高架の今里から地平時代の布施に向かって坂を下る辺りですが、左側2線が奈良線、右側2線が大阪線です。この時点では奈良線は600 V、大阪線は1,500 Vでしたが、架線方式はどちらもコンパウンドカテナリー式で軌条は50kgレールを使用していたようです。
準特急さま
(1) 神戸線がコンパウンド方式だったとのお話し。
遠い昔の小生が小学生~中学生の時代の記憶を溯っての記述でしたが、「証拠写真」を家中探し回った(笑)結果が添付の写真です。
(2)「阪急電鉄を主体とした」の件、戦時中の国策により京阪が阪急に吸収された形となったとの理解でしたが・・・。
(3)小林一三の名を出したとすれば、それは小生の勇み足だった様です。
河昭一郎様
(1)コンパウンドカテナリー方式の架線は関西の私鉄の高速鉄道区間に多いと思い興味を持って見ていました。詳しいことはよくわかりませんが新幹線もこの方式ですね。関東では相鉄線の三ツ境付近で見ています。まだあるかも知れません。ダブルカテナリーを採用するところもあるようです。
(2)小林一三の名を出したのは私でして小林一三は商工大臣をやっていましたが同大臣は高橋是清以下錚々たる人が名を連ねています。小林一三は1940.1.16~7.22と時期的にずれており果たして真相はわかりません。
次に1966.5.6神戸線夙川₋芦屋川間を行く2041先頭の神戸三宮行き普通ですが架線が写っています。
懐かしい写真の数々、有り難く拝見しております。
専門家でも何でもない私ですから適切なコメントは出来ませんが読ませて頂いて、昭和44年に京阪神急行電鉄に就職内定し、3年間お世話になった浄土寺下南田町の下宿先のおじさんとおばさんに挨拶に行きました。
お陰様で就職先が決まりましたと伝えたところ、どこへや?とのこと。阪急ですと答えるとそれどこや?という感じ。おばさんの取りなしがあって、あぁ新京阪のことかと納得されたのを思い出しました。
マルーンさま
その頃に私も同様の体験をしていました。就職後の車掌研修時でしたが、早朝からの勤務を終え市バスで帰宅しようとしていた時のことでした。堀川御池に着いた際に年配の方が運転手に、新京阪に乗りたいんだがと訊ねたのでした。まだ20代の運転手は首をかしげ、京阪なら反対方向ですがと返事、様子を見ていた小生が新京阪とは阪急のことだよと声を掛け、件のご老人は四条大宮への案内を受けて降りていかれました。親戚の年寄りもずっと新京阪と言っていました。今では京都でも阪急の名が定着しましたね。
1900生さんの誠に適切な対応に、改めて敬意を表させて頂きます。
もう半世紀以上前のことになるのですね!半世紀とは恐ろしや!
新京阪も昔話になるのですね。
今まで続いた暑さから解放されたのですが、頭は正常になってないようです。
前のコメント、挨拶に行きました。は挨拶に行き、お陰様でと繋いでください。失礼いたしました。
⑤の流線形 201+251のサヨナラ運転の写真です。当日朝の新聞地方版に掲載されて桂駅で写したものです。昭和45年3月1日、中学2年の3学期でした。ホームには50人くらいがカメラを構えていましたが、誰からとなく線路に降り始め、私も右へならえでした。惜別のマークには1937~1970の表記がありました。
運転手や駅員の制服を見ると、当時の阪急は詰め襟だったことが分かります。と言うことはマルーン先輩も入社後しばらくは、詰め襟の制服を着て業務に励んでおられたのですね。
私が入社した昭和45年は3月から日本万国博覧会が開催されました。
入社前に制服調整で運輸部に行ったら、何と詰め襟ではなく、グレーのスーツを見せられました。万博を機会に制服が替わるとか!てっきり詰め襟だと思っていたのですが・・赤のネクタイは自分で締めるのではなくピン留めのものでした!
京阪さんは少し前に詰め襟から濃い緑のスーツに変更されていましたね。
1973年3月11日、正雀~桂間でP-6の「さよなら運転」が行われました。往きは、鉄道友の会の貸切でしたが、当時、京都支部長をされていた大西顧問から声をかけていただき、乗車しました。帰りの回送をこの場所で撮影しましたが、同業者はおらず、特派員さん、井原さんと私の3人だけだったと思います。
昔から阪急京都線と京阪本線はDRFC内でもよく話題に上りました。元々京阪の方は歴史が古くその分カーブに代表されるハンディ持ちの会社でした。これに対して阪急京都線はそのハンディを克服すべく遠大な構想でできた会社であることは河様がお書きになっ通りです。今回は同年代の車両を簡単に比較してみたいと思います。まず吊り掛け時代最後の阪急710に対するのは京阪1700ですが、車両が大きい阪急スタイルの710は全鋼製大出力であって半鋼製で小柄な京阪1700は相手が悪いと言いましょうか同じ特急車でも見劣りがしたことと思います。次にカルダン車の時代の車両に入り阪急1300は数も少なく目立たなかったような印象です。京阪1800、1810はいろいろな新機軸を採用した車両で台車もその一つでした。電車発達に貢献した意味では京阪1800、18010の方に軍配を挙げたいところです。次に私鉄各社は競って新性能車を出しました。京阪2000のスーパーカー、阪急2300のオートカーがそれでどちらも各停から急行まで幅広く使われていました。スーパーカーは後のMT方式の2200共々日祝中心も臨時特急に使われていましたが阪急2300は平日でも堂々と特急運用に組み込まれていてひんしゅくをか買ったものでした。京阪1900と阪急2800ですがハンディをサービスに切り替えテレビや補助椅子を備えた(1800時代からこのサービスはありました)のは京阪1900でした。乗り心地は抜群でしたが京阪間の所要時間は遅かった記憶があります。一方の2800はマルーンにアルミサッシと阪急伝統の内装が見事で編成美と速さを感じたもですが4の編成を除きコイルバネだったのが欠点に感じました。京阪は特に1900は通に人気があった車両だと思います。更新車の阪急1600はP-6のモーターに新しい台車を履いていたので同じような考えの神宝線1200と比べても雲泥の差があり、編成美もあって最高の更新車と思っております。以前にも出したことがありますが1968.10.6長岡天神‐大山崎間の竹林を行く2817先頭の梅田行き特急です。
1971年11月23日は、P-6最後の急行運転でした。大阪方108、京都方1502の7連が疾走しました。何せ重厚で重く、急行通過時に長岡天神のホームで見ていますと、線路のジョイント部分が重みのため5センチ程度下へめり込んでいました。写真は大山崎のガードをくぐる場所です。現在この地点はフェンスが張られ、撮影は出来ません。
阪急音痴の小生の許にも、阪急の写真は結構あります。頂きものやら、他の欲しいものとセットだったので、一緒に入手したものなど。猫に小判ではないが、棚の肥やしになっていたこれらの資料の良い出番と思ったが、イザとなると探し出せず、乗り遅れてしまいました。先ずは戦前の形式写真から。前面の幌が着いていないので、迫力に欠けますが、お許し下さい。特徴ある、角ばったヘッドライトと、屋上の母線引通しの為のカプラーはシッカリ写っています。写真は宮松コレクションにあったもので、残念ながら撮影年月日は不明。場所は正雀の車庫かと。
前投稿の124号の車内です。クロスシートは、昭和16年からロングシート化が始まり、19年には全て完了とのことなので、昭和15年以前の記録と云うことになります。
ちょっと愉快なものをお目に掛けましょう。当時の新京阪の広告です。「つばめ」を抜いたと云うのは、あまりに有名で私だって知っていますが、広告にまで登場とは、さすが大阪商人は抜け目がない! だが、電車のクセにパンタが無いとか、ダブルルーフに描いてあるなんてのは、ツメが甘いような。この広告、スクラップブックに貼り込んであったもので、元の掲載誌が不明です。しかし大国鉄をコケにするとは、なかなかですね。
宮崎様
一瞬「ウン?」とドギマギした「右から左」の旧式書法にカウンターパンチを食らった感じでした。(笑)
この有名な話は、こんなに広告の印刷にも使える位の「確固たる地位」を得ていたんですネェ。
「噂となっている」くらいの話では無かったんですネェ。
今さらながらの再認識でした。
1967年3月11日、長岡天神~大山崎間の124です。
これも宮松コレクションにあった、どこかの駅に停車中の2連の記録です。皆様に教えて頂きたいのは、この駅の名前もそうですが、ヘッドマークにある行先、『グラウンド行』とは、何処のことでしょう。 新京阪の駅に、グラウンドなどと云うのはありませんよね? マークが野球の球を模しているので、野球場だと思います。しかし戦前の京阪間に有名な野球場なんてあったんでしょうか。
ヘッドマークの「グラウンド」である確証はないのですが、西京極の野球場は1932年(昭和7年)4月の開設です。
宮崎様
小生も乙訓の老人の甥さんと同様、西京極球場の事かと思います。
ところで、先頭車のドアのガラスが縦に2分割されていますが、小生が京都線を利用していた頃にも見かけた(しかし、大変レアでした。)気がして懐かしさが込み上げました。 (河 昭一郎)
私も「グラウンド」は西京極球場だと思います。
この駅が西京極なら面白いのですが、残念ながら別の駅です。電車の右手にもホームの上屋が見えてますので、それなりに規模の大きな駅でしょう。また画面の奥で線路は右に曲がっているようにも見え、該当する駅を探すと「天神橋」にたどり着きました。ホームの途中にある信号機もクセ者で、なんでこんなところに?と考え込んでしまいますが、天神橋ではホームの京都寄りで乗客を降ろし、降車が済むと奥へ進んで乗車させたそうです。
古い航空写真では駅ビルの京都寄りに上屋のある二面のホームが確認できますので、天神橋ではないかと考えました。
乙訓の老人の甥、河 昭一郎、紫の1863の御三方からは、素早い御教示を頂き有難うございました。西京極球場とは思い至りませんでした。ましてや、昭和も一桁の時代に開設されていたとは! 紫の1863さんの判断だと、この列車は天神橋に停車中と云うことなので、大阪から西京極への観客輸送目的と云うことになります。そう云う乗客には「グラウンド」と言った方が、「西京極」と言うより、通りが良いと云うことだったのでしょうね。一人で、アレやコレやと、考えるのも面白いが、やはり地元のことは、地元の方に伺うのが一番と再認識致しました。
では私の投稿にコメントを頂戴した方々に、御礼の意味も込めまして、戦後の記録も少し御覧頂きましょう。この123号は、十三で昭和26年8月の撮影だそうです。標識灯が両肩に付き、やや厳めしい顔立ちなった感じです。撮りびと知らずです。
1969年2月4日、西京極駅、123です。
藤本様の西京極の写真を見て思い出しました。上り本線の北側にもう1本副本線があったように思われます。子供の頃の記憶では、梅田寄りにこの副本線用のガーダーが残っていました。グーグルマップで確認してみると、今でも現存しているようです。この副本線が球場観客輸送用の線路だったのでしょうか。
宮崎様の「グラウンド」のお写真ですが、紫の1863様のご意見とは異なり、私は桂駅5号線(私の子供の頃の呼び方です)のように思います。125号の右手に写る地下道への階段の柵があること、その左側に写る信号機は柱のさらに右側にもあるように思われ、最右側の高い信号機が京都線用、その左側の低い信号機が嵐山線用の出発信号機ではないのかと考えています。いかがでしょうか。
四方誠様
私も初めは桂駅ではないかと考えました。地下道へ下りる階段ありましたねえ。昭和46年に写した桂駅に手すりが確認でき、上屋を支えるトラスの構造まで瓜二つで、間違いないと思いました。しかし、125の左手の線路が右にカーブしているように見え、建物のようなものもあるようです。桂駅から梅田方向の線路は直線で、どうも違うように感じます。そこで他をあたってみたところ、天神橋から京都方向に右に曲がる線形が見つかりましたので、天神橋ではないかと考えた次第です。
昭和46年の桂駅4・5番線が写った画像です。ハーフサイズのネガですので、見苦しいのはお許しを。梅田行きの2800系特急が通過してゆきました。
紫の1863様、
桂駅のお写真、ありがとうございます。夕方ぐらいなのでしょうか、そこそこ乗客の方がいらっしゃいますね。
125号の左手の(たぶん)本線は、右へカーブし、その奥で左へカーブして川岡踏切に向かっているものと、私は考えてました。
何か、あげ足をとったみたいで、申し訳ありませんでした。
四方誠様
改めて検討しました。前のコメントにも書いたとおり、私も桂駅を考えていました。地下道へ下りる階段、上屋の鉄骨、125号の左に見える木立など、桂駅から梅田方向を見た風景がぴったりなのです。さらに付け加えると撮影された場所です。左手に見えるのはホームの縁石でしょうか? 125号が5番線に停まっているとすれば、6番線から撮ったことになります。125号の左に見える信号機らしきものや、架線柱のビームの位置も古い航空写真と一致し、線路も右に緩いカーブを描いています。
やはり桂駅の可能性が高いですね。私は線形のみにとらわれ、ほかの要素をすべて無視していました。
四方さまがおっしゃる「上り本線の北側にもう1本副本線」は球場観客輸送用の線路ではありません。西院の地上に計画されていた貨物駅までの貨物線です。現在も分岐部のガーダー橋が残っており、架線柱の幅も本線+貨物線の3線分が確保されていましたが、この貨物線は未成線でした。貨物駅の予定地は西院駅へ地下に下りていく手前の北側、西院変電所の位置になります。添付写真は昭和3年、西京極駅の建設中のものです。
乙訓の老人の甥様、
あの敷地は、貨物線としても副本線としても機能することはなかった、ということですね。
125号の写真と絡めて、勝手に夢を膨らませていたのですが、残念です。冷静に考えれば、子供の頃にもパリーグの公式試合開催時に急行が臨時停車していましたが、たぶん東向日の競輪場観客輸送の際の急行の臨時停車の回数の方が多かったように思われますので、集客力はさほどでもなかったのかもしれませんね。
とにもかくにも、お教えいただきありがとうございました。
「グラウンド行」125号が引き起こした、思わぬ西京極球場・場外論争も無事決着がついた様です。皆さまには、格下げながら、元貴賓車から改造の1500で御休息ください。淀川鉄橋上で昭和28年8月23日の撮影とプリントの裏にあったが、撮影者は不明。ドローンなんて考えも及ばぬ時代、隣接の鉄橋上から撮ったに違いないですが、よくもピタリのタイミングでシャッターを切ったものと感心します。
十三駅北の無電圧区間~梅田駅の間は、天下のP-6でもカメかナメクジかと思う位の遅さでしたから撮影は容易だったでしょう。
元乗務員扉も残っていて綺麗ですね。
井原さま、教えて頂き有難うございました。そんなに遅かったとは、知りませんでした。淀川鉄橋上の写真がたくさん残されているのは、景色のせいだけでは無かったと云う訳ですね!
私の手元に、「大禮記念京都大博覧會 新京阪電車デー 記念絵葉書」と、長たらしい表題がタトウに記された絵葉書セットがあります。発行は、昭和3年12月で、これは新京阪が京都西院まで開業した翌月に当りますが、タトウの下部には、全通時を想定した路線図が載っていて、これが少し面白いのです。京都西院の次駅・終点の四條河原町との間は、点線で描画されていて未成線であることを示しているが、少なくとも終点の駅名は決まっていたようです。また高槻町~京都西院は、太線で描画されている理由が判らなかったのだが、、一挙開業ではなく、二段階に分け開業したのですね。最下段には、新京阪電車の冠りに、「最大急行」が付いています。いにしえの山陽鐡道が使用して以来、死語になったと思っていた「最大急行」が、昭和の御世になっても使われていたとは、ビックリ。実際に走り出してからは、使われなかったと思うが、意気や良し!、と云うところだったのでしょうか。あと、「・・ 新京阪電車デー・・」と書いてあるのに、それが何日かは書いてない。開業は、11月1日だったのだが、万一間に合わぬと困るから、明記しなかったとか? まぁ、色々とツッコミどころのあるものなので、楽しんで頂けるかと思い御紹介しました。
絵葉書の方も、ご覧に入れておきます。絵のほうではなく、宛名面です。なんで? こちらにも「最大急行」が出て来るんです。昭和一桁時代には、「特急」の語はもう浸透していたと思うのだが、新京阪の中には、「最大急行」じゃなきゃ嫌だ!、とダダをこねた人がいたのでしょうか。
宮崎繁幹様
小田急線が帝都線(井の頭線)と連絡した線路のお近くにお住まいの宮崎さんからこのような珍しい絵葉書を拝見することができて嬉しく思います。京都西院の次は京都大宮か(新)京阪京都かと思いますが未成線で四條河原町とあるのも始めて見ました。
喜んで頂き、良かったです。東京で関西のネタを振っても、反応は薄い。デジ青に集う方は、関西人が多いので、投稿し甲斐があると云うものです。感謝して居ります。
宮崎繁幹様
「大禮記念京都大博覧會 新京阪電車デー 記念絵葉書」の事ですが昭和三年というと昭和天皇が正式に即位された年です。京都は御大典奉祝に沸き返った年でもあります。
文字通りに解釈すれば御大典記念の大博覧会が京都で開かれ、その中で開通したばかりの新京阪の日(デー)があったのではないでしょうか。
これは私が考えた事ですのでちがっているかも知れません。
米手さまのおっしゃる通りでしょう。元々、新京阪は御大典記念の博覧会に間に合わせるように、西院まで辿りついたように、聞いております。このはがき、ひょっとしたら博覧会の中に新京阪が出店を設けて売ったのかなぁ、なんて勝手な想像をしております。
御二方よりコメントを頂いたので、絵葉書の絵の方も載せておきましょう。デイ100車内と嵐山です。背景の絵は、京の桜と、工業都市大阪を象徴的に描いたものかと。右下の発行元が「新京阪電車運輸課」とあり、運輸課が、広報・宣伝まで担っていたものと思われます。絵葉書はもう1枚あり、天六の大ターミナル(天神橋駅)が載っていました。