エリトリア2011年 未開の大地への鉄道の旅 Part12  希望へのエリトリア鉄道の今は その3

第5日目 9月28日 その3
① 午前;アスマラ駅構内と郊外走行撮影、市内観光
② 午後;機関区撮影

アスマラ駅に着くと、ツアーの皆さんも市内観光でストレス気味だったのでしょうか、飛ぶように機関区に向かわれていました。


▲ アスマラ駅の航空写真です。ご覧のように蒸気機関車の車庫・修理等を行う工場と、ディーゼル車と機関車の車庫・工場とは駅の左右に分けて設置されていました。

エリトリア鉄道は、かつてアスマラが終点ではなく、この先まで遠く延伸され、隣国の鉄道と結ぶ計画まであったそうです。上空からアスマラ以降の路線跡を探してみましたが、独立戦争等で破壊され痕跡が見つかりません。市内を移動している時に線路跡を1部見ましたが、街中を走るマレー機の姿を見てみたかったですね。
ただ、アスマラから延伸された104km地点のケレン駅は、典型的なイタリア建築物として、大切に保存されているそうで、駅は現在、バスステーションとして使用されているようです。こちらに案内があります。

【エリトリアの蒸気機関車】
まず、蒸気機関車からご紹介させていただきます。


▲ 最初に迎えてくれたのは、機関区から出てきた、1938年にジェノヴァのアンサルドで製造されたマレー機442式の56号機でした。最盛期には53号機から61号機まで9両が在籍したようです。
今回の訪問では、54・55・56・59号機の4台を確認しております。


▲ 朝のマレー機、442式54号機が牽引する列車の発車シーン動画がアップロードできましたので、ご覧ください。コンデジで撮っております。


▲ 1911年に建築された車庫に並んだ54号機と有火状態の、もう1台の442式59号機。こちらも1938年製造です。 写真右側に吊ってあるのは、車庫に入っている55号機のタンクです。

▲ そのタンクが取り外され修理中の442式55号機。こちらも1938年製造です。


▲ 55号機の前には、初期のマレー機440式8号機が留置されていましたが、無化状態でした。1914年から1939年までに、1号機から31号機まで31台が配置されたようですが、現存しているのは、見たところこの1915年製造の8号機のみのようです。この他1933年に、マレー機441式25号機から32号機までの8台が、1936年33号機から40号機までの同じく8台が配置されたと、イタリアのインターネット上での記載があります。1945年には、この内4台がリビアへ配置転換されたそうですが、いずれも確認することができませんので、参考にしてください。


▲ ミラノのプレダ(Breda)で製造された202式小型タンク機関車。1927年から1937年までの1号機から11号機まで11台が配置されていました。主に入換用として使用されたようです。構内には小型の手動式ターンテーブルが設置されていまして、職員が回そうとしましたが中々上手くいきません。諦めて逆行で出てきました。機回しをして、自力走行できないのか442式59号機を牽引して車庫から出していました。
▲ 202式は、走行可能状態の8号機と修理中の10号機が何とかなるかも・・・。放置車両は野外に11号機と9号機の2台がありました


▲ 外では、442式56号機が機回しをして貨物列車を牽引し、アスマラ駅に入線するシーンが演じられていました。それもツアー参加のドイツ人が、太陽が隠れているのでもう一度とか、もう少し待てとかの注文をつけて何度もやり直しをさせています。まるで映画監督のように納得できるまでOKサインを出しません。ドイツ人の真面目で厳格な気質は、日本人ならこんなもんだろうと思える妥協は一切ありません。ここまでやるとは、ドイツ人恐るべし・・・・。

お恥ずかしい話ですが、この時にはじめて、このエリトリア鉄道撮影ツアーがいわゆる「フォトラン」と知りました。

ディーゼル車・機関車と貨車につきましては、Part13でこれまたこれでもかと紹介させていただきます。   Part13  へ続く 

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