本稿その2に登場した伊豆箱根鉄道及び伊豆急行の本社は三島市内で、その昔の国境(相模、駿河)箱根峠を共有しているので連結させた。観光地としての伊豆半島の存在は大きく、老人お気に入りの景色は箱根峠を登り降りするケーブルカーで、晴れた日は相模湾が一望の下に広がりとても眺望が良い。箱根峠を下り平地に出ると三島に至る。ここは駿河東地区の中心で、徳川時代の伊豆半島は「伊豆」として独立していたが現在は静岡県に併合された。三島から沼津に駿豆電気鉄道と称する路面電車が1906(明治39)年に開通したが、1963(昭和38)年に廃線となった。当線は伊豆地方の電気鉄道事業の先駆者で、以前、須磨の大人がデジ青で紹介したと思う。沼津駅の仮泊が良いと言ってくれたのも彼で、待合室で電気機関車の入れ替え作業を子守唄にしてぐっすり寝込んだ。三島は11番目、沼津は12番目の宿場となる。
やっと御殿場線に乗る。時は流れ沼津仮泊から36年後、岳南鉄道と伊豆箱根駿豆本線に立ち寄り帰京することにした。思い出の沼津駅に着いた時、窓外を見ると御殿場線の到着した特急専用車が動き始めているのに気が付いた。慌ててホームに飛び出したが、最後尾車を取るのが精一杯であった。御殿場線といえばD52時代は横目で見るだけ、電化されてやっと乗る気になった。橋本在のポン友に居宅改装の相談に乗ってくれと言われ、東京出張の帰路に立ち寄った。翌日、相模線から始めての御殿場線へ、モハ113系3連で御殿場で下車した。実は帰路を東名自動車道で帰京する息子に拾ってもらう為であった。そして2009年、JR東海の313系とやらの新車で全線走破が実現した。蒸気時代(1939年)の下り国府津→沼津間:1時間35分、上り沼津→国府津間:1時間32分は、電車となってからは、手持ちの時刻表(2009年)では下り:1時間34分、上り:1時間18分、停車駅数は蒸気時代7か所、電車では17ヶ所、これで比較すれば大きな開きとなる。東海道五十参次とは関係ない話でごめんなさい。
① はじめてお目にかかった御殿場線専用特急車。引退後はどうなったか?② 御殿場線で最初に乗ったのは113系のローカル線仕様のものであった。 ③ 2度目はJR東海の一般車と言っても新品ほやほやの313系であった。
富士川を越え浜辺いや国道や東名自動車道沿いとなると本来の景色は?となる。蒲原(かんばら)宿の次は16番目の由比(ゆひ)の宿で、浜沿いの松原と赤えびの産地として知られている。またこの界隈の路線バスの発着点でもある。駅は東海道線開通時に設置されておらず、遅れて1916年に開業している。老人は電車急行の通過を撮っているが、実はポン友N君の要請によるもので、165系編成の急行が廃止になる、東京方面に行く機会あればスナップでよいから撮って欲しいと頼まれた。幸い1995年12月に会合で東京出張があり、その帰途に駅構内が明るい由比駅を思い出し撮影地としたのであった。
④ 新幹線の補助役は急行東海で165系。1996年3月ダイヤ改正で引退となった。 ⑤ 改装なった駅前広場の一角を、名物赤えび漁のためにさくら丸が占領だ。 ⑥ 関西ではお目にかかれない211系、313系ラッシュで引退が進んでいるようだ?
沼津を出ると湾岸は松林であったのは昔話で、百人一首でお馴染みの田子の浦の現在は様相が一変している。その昔は浜沿いにあった原の宿場(13番目)は姿を消し、今も松並みが残るのは吉原宿(14番目)の浜の一部だ、とのことである。吉原市は現在の富士市に併合され、電車の駅では吉原本町の商店街が宿場の名残りを残しているようだ。この吉原宿の地に国鉄吉原駅から電車が開通したのは1949年11月で、さらに富士の麓目指し延長、全長9.2Kmが全通したのは1953年1月であった。老人は東上の時に横目で吉原駅に停車中の電車を車中から眺めていたが、大井川鉄道に通うようになりやっと腰を上げ1995年8月15日、駿豆鉄道に行く前に立ち寄った。元東急5000形全盛期の時で、沿線を半日うろついた。車庫は無人で、適当に電気機関車を撮影して引き上げた。
⑦ 終点の二駅手前で降りると富士山は別として、落ち着いた雰囲気が望める。 ⑧ ED501は昭和3年川崎車両製で、上田温泉電軌→名古屋鉄道経由である。⑨ ED291は昭和2年日本車両製で、豊川鉄道→国鉄戦時買収の前歴を持つ。 ⑩ ED402は昭和40年日本車両製で、松本電鉄→岳南電鉄。本線牽引の主力機関車。⑪ 合理化の一端として、京王帝都3000系を両運タイプ3両導入、内2両は重連可能。 別途2両永久連結車1組はラッシュ専用車として岳南富士岡に昼、夜間は留置。この訪問をした頃、既に製紙工場衰退でJRが貨物営業廃止を打ち出しており、岳南鉄道は経営危機に陥ると駅前食堂の店主に聞かされた。そんなご時勢であったが車両更新を果たしたのは、親会社の富士急行に加え地元(富士市)が株主として支援したからであろう。JRは岳南鉄道の貨物輸送から手を引いたのは2012年3月のことだが、翌年4月1日に岳南電車と改名して鉄道営業部門だけの会社となった。それには創業以来の株主である富士市の支援あってのことであった。
静岡に足を踏み入れたのは、1959年の東北旅行では2度目の途中下車の時で、その後は折に触れ観察を続けていた。1973年に1000形が投入され、1985年に増備完了となり、車両は一色(同型)となり面白みがない。
⑫ 電車まつりは今年も開催された。こうした地道な努力は会社経営の助けにもなる。 ⑬ 構内が見渡せる駅は少なくなり、左奥のツートンは構内入換車。構えるはだれ? ⑭ 1000形は正面から見ると楽しいが、側面は無愛想だ。新車はどうなのかな?1959年のフィルム、ネオパンSS被害に遭って居らず、少しだけプリントができた。⑮ 元をただせば戦災復旧車。修理後は電動車であったようだが、後にクハとなった。⑯ 昭和14年製の電動車(200,201)の2両は戦災に遭った。5、6号となり復旧。⑰ 昭和12年製の電動車(300~303、305)、301のみ戦火を免れた。昭和29年の改番では5両共に電動車だが、モハは11号だけで残る4両はクハらしい?⑱ 東急が戦時中に合併した池上電鉄デハ101、102の2両で、庄内電鉄にも同型車が。 ⑲ 軌道線専用車。昭和4年日本車両製。旧番号は70形。元は2軸車であったが、昭和30、31年に車体延長でボギーシャとなった。市内線廃止で清水市内線用となった。 ⑳ 市内線用として購入されたが詳細不明。2両市内線用で残存していた。
乙訓の老人様
懐かしい『赤がえる』を見せていただき、しばし『思い出』に浸りました。
転勤で初めて2両固定編成の『赤がえる』に会った時、『まあ、何と品の悪い赤』(岳南電鉄さんゴメンナサイ)と驚いたものです。
それともう一つの想い出は、雨の日には窓から雨水が侵入して座席までベッタリ濡れる部分が有ったのに台所事情が悪く放置状態だった事です。
御大のレポートを読む中で『赤えび』(桜エビ?)の記述があって『赤がえる』の赤はこのイメージかと一人納得した次第。