カラーで振り返る 昭和の気動車 -6-

久しぶりの“カラー版気動車シリーズ”、一般形、準急・急行形のつぎは、特急形の80系(キハ81系、キハ82系)の活躍を採り上げました。室蘭本線静狩~小幌(信)を行く「北斗2号」札幌発函館行き、トンネルを抜けて礼文華海岸沿いを疾走する。これから静狩の大カーブに掛かるところ。近くのジャンクションの長万部をも通過して、函館への道を急ぐ。もっとも、この列車に乗っても上野へ着くのは翌朝だが、まだ本州への移動は鉄路がメインの時代、82系は活躍の舞台を広げていた(昭和47年3月)。

話は、昭和34年、非電化の東北本線に、「こだま」並みのDC特急を走らせる構想が突然に持ち上がったことから始まる。DC特急の開発当時、日本には2000両あまりDCはあったものの、支線区の普通列車や、一部の準急・急行に限られていた。そんななか、「こだま」並みの特急形車両を短期間に造ることが至上命題となり、関係者には大変な苦労があったと言う。昭和35年10月改正で、それまで蒸機牽引の客車列車だった東北本線の「はつかり」が、キハ81系に置き換えられた。営業後に連続した初期故障でマスコミにたたかれるなど、散々なスタートだったが、平行して、昭和36年10月の串改正に向けて、第二次特急の82系は、すでに発注・製造中だった。羽越本線今川~桑川の“笹川流れ”を行く、キハ816先頭の秋田発上野行き「いなほ」。 80系特急形のうち、一次形ともいうべきキハ81系は、昭和43年10月の東北本線の完全電化後は、奥羽本線の「つばさ」1往復に充当され、昭和44年には秋田区に転出し、羽越本線「いなほ」と、間合い運用の常磐線「ひたち」に転用された(昭和46年2月)。羽越本線遊佐~吹浦、鳥海山の山麓を行く上り「いなほ」。昭和47年10月、「いなほ」「ひたち」の電車化により、キハ81系は和歌山区に再転出し、紀勢本線「くろしお」に転用されたが、昭和53年の新宮電化により廃車、形式消滅した(昭和46年3月)。

昭和36年10月の白紙ダイヤ改正で、増備型のキハ82系がデビュー、全国各地で新しい特急が運転を開始、DC特急網をつくりあげる。非電化区間の近代化、サービス向上に貢献した。車体構造で大きく変わったのりは、先頭車だろう。6両編成が基本のため、2本併結を考慮して、貫通構造となった。大きな曲面ガラスとともに、特急にふさわしい、優美で気品のある、スタイルとなった。
当時の私自身のキハ82系の思い出、と言えば昭和37年2月に家族旅行で、鳥取まで行った時に乗った「まつかぜ」だ。前年に誕生したばかりのキハ82系には初乗車だった。まだピッカピッカの車体で、まばゆいばかりの室内に大興奮した。子ども心にも何か優越感を感じるほどの憧れの特急乗車だった。ただ京都発松江行きながら、初めての大阪・福知山線経由で、距離、時間とも遠回りの経路設定に、なぜ大阪に花を持たすのかと、京都人のプライドが傷ついたような気だった。石北本線常紋~金華を下る「おおとり」、網走発函館行き。愛称は、それまで東京~名古屋の「こだま」形特急から譲り受け、昭和39年10月に北海道2番目の特急として誕生した。同系に北海道仕様はなく共通の構造だったが、過酷な気候風土に耐えながら、よく走り続けたものだ(昭和44年9月)。
Sカーブの連続する生田原~常紋を行く「おおとり」。このアップのシーンは、通称「146㎞」と呼ばれ、常紋の超定番ポイントになっていると言う。なぜなら、クルマですぐ近くまで行けるかららしい。当時なら、信号場で降りて、亡霊の出るというトンネルを抜けて、無心になって歩き続けていた時代とは隔世の感がある(昭和46年3月)。大沼付近を行く函館発旭川行き「北斗2号」。駒ヶ岳を望む、この場所は、当時からも北海道でメジャーな撮影地で、DRFCの面々とも何度か行ったものだ。函館近くだけに本数は多く、飽きることがなかった(昭和43年9月)。阪和線山中渓~紀伊を行く上り「くろしお1号」、紀勢線には昭和40年3月から、紀伊半島を一周する「くろしお」が設定されている。昭和53年の新宮電化で、西側は電車特急(381系)、東側はDC特急「南紀」となった(昭和46年7月)。山陰本線折居~三保三隅、山陰海岸を行く下り「まつかぜ」。松江行きは、そのあと延長されて博多行きとなり、山陰本線を走り通す特急となった。82系「まつかぜ」は、昭和60年まで活躍は続き、181系化される(昭和46年9月)。長崎本線喜々津~大草を行く長崎発京都行き「かもめ」、ここは昔から有名な撮影地で、当会の先輩方もよく行かれた地だが、私は一回だけの訪問に終わった。当時、客車列車はDLに代わっており、貨物のみD51が使われていた(昭和45年9月)。鹿児島本線隈之城~木場茶屋を行く下り「有明」、同区間は、木場茶屋方に向かって、連続20‰が続いていた。鹿児島本線は、南半分の川尻~鹿児島が未電化で、最後の蒸機の活躍を撮るために降りた。木場茶屋駅が、電化を機に、無人駅化されることになり、待合室には、駅長から永年の利用に対して、駅長から、墨痕あざやかな挨拶が張り出されていて心を打たれた。(昭和45年8月)。こちらは日豊本線高鍋~川南にある、小丸川の橋梁を行く下り「にちりん」、長さは800mあまりで九州では有数の長さ、河口はすぐ海で、塩害防止のため、コンクリート製の橋梁になったと言う。日豊本線は、幸崎以南が未電化で、幸崎~南宮崎の電化完成は、昭和49年3月だった(昭和46年12月)。

 カラーで振り返る 昭和の気動車 -6-」への2件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    蒸機撮影地でもあり、今となってはいろいろな車種が記録されそれもカラーで撮っていたのは羨ましき限りです。若き日の活躍ぶりがよくわかります。笹川流れや駒ヶ岳等思い出が私と重なる部分もありますが「いなほ」、「くろしお」、「有明」、「にちりん」などは撮っておりません。常紋や鳥海山も未訪問ですが、鳥海山は由利高原含め大人の休日で行ける時にトライし始めています。「まつかぜ」は昭和36年10月1日初日に宝塚で撮影しましたが故障か何かで最後まで走ることができなかった記憶があります。いつもながら列車変遷も書き添えていただき大変参考になっております。

    • 準特急様
      お書きの「まつかぜ」初日は、たしか福知山で故障して、数時間遅れて松江に着いたと思います。当時の新聞の切り抜きも残していると思います。若い時代には、それほど全国へ行ったという自覚も無かったと思いまずが、50年後の今から思うと、よくぞ行っていたものと思います。

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