市電が走った街 京都を歩く トロバス編②

トロバスは、京都、名古屋のほか、戦後には川崎市、東京都、大阪市、横浜市と続いて開業し、都市部にトロバスブームが到来します。背景には、石油事情が好転しない問題もあり、路面電車より建設費が安いという事情もありました。しかし、自動車の増加し道路が渋滞し、さらに地下鉄の建設計画などが持ち上がり、昭和30年代後半になると、早くもトロバスの行く末は頭打ちになってきました。
トロバス梅津線の沿線には、戦後、軍需産業から転換した工場などがあり、当時の京都随一の工場地帯を形成し、朝夕の時間帯は、通勤客がトロバスに集中しました。とくに梅津車庫から松尾橋にかけては、まだ一般の路線バスも少なく、トロバスが独占状態でした。ところが、昭和37年、阪急の河原町延伸で、交通事情が変わります。中間駅となった四条大宮は、交通結節点としての地位が低下し、さらに、この頃になると、松尾橋から、四条河原町や京都駅前へ直通する市バス系統が新設・延長され、四条大宮までしか行かないトロバスは分が悪くなる一方でした。
トロバス最終日も間近の土曜日、DRFCのボックスに集まった面々は、最後のトロバスを写すため、西大路四条から梅津車庫、松尾橋へ向かった。


トロバスの末路 それでも、朝のラッシュ時には、いっときの通勤輸送でトロバスは賑わいを見せたが、逆に一極集中がトロバスの首を絞めることになった。限られた車両では増発もままならず、市バスのように柔軟な運行もできず、市電のように大量輸送もできない。車両の更新時期とも重なるが、トロバスの製造費は、ふつうの路線バスの3倍掛かるのも足かせとなった。交通調査では、昭和42年には一日3万2千人の乗客だったが、同44年には2万4千人に減少した。結局、昭和42年9月発表の京都市交通財政再建計画で、トロバスの昭和44年度末の廃止が発表され、昭和44年9月30日限りで廃止されることになった。
 西大路四条今昔 装飾されたトロバスが西大路四条の交差点を渡って行く。左手の高山寺は今もトロバス時代のままだが、背後には大きなビルが建った。西院駅の北・南改札口新設で、マンションも増えた。右手の三菱銀行は、三菱東京UFJ銀行に。

 

最後のトロバスを撮る 実を言うと、トロバス路線と、私自身の生活圏は離れていて、日常生活のなかでトロバスに乗った記憶は残っていない。最後になって、撮影に行ったのも2回だけだった。うち一回は自分一人で、もう一回は、最後となる土曜日の9月27日に、DRFCの面々と撮影に行った。昼にボックスに集合し、西大路四条から歩いて写しながら、梅津車庫へ行き、車庫内で写して、トロバスに乗って終点の松尾橋へ。ここで解散となった。最終日も一人で行くつもりをしていたが、当日は、結構な雨が降り戦意喪失、結局行けずに終わった。

トロバス側面の「ありがとうございました」の白幕、廃止一週間前の9月25日からトロバス全車に付けられた。

梅津車庫前 車庫へ入庫するための架空線が張り巡らされていた。 ▲▲終点、松尾橋でのひとこま、発車したトロバスが、いきなりポールがはずれてしまい、道路の真ん中で急停車、飛び降りた車掌が架空線に戻していた。

 

 

 市電が走った街 京都を歩く トロバス編②」への3件のフィードバック

  1. 総本家青信号特派員様
    横浜のトロバス撮っていました。廃止が1972年3月末でその2週間前の3月15日に相鉄線の天王町駅近くの宮田町という停留所付近で撮りました。海外でも時々見かけた時は撮っておりました。

    • これに乗りました。
      昭和44年2月頃だったかと思いますが、勤め先が横浜駅西口の「おかだや」に出店するため、電話の申請をしに三ツ沢のあった電話局まで乗りました。でも、全く記憶にありません。

  2. 貴重な横浜のトロバスを公開していただき、ありがとうございます。わたしは全く見たことはありませんが、当時の路線図を取り出して確認しますと、たしかに撮影された、宮田町の停留所がありました。横浜のトロバスは、横浜駅西口から、三ツ沢、市民病院(ここは見舞いで行ったことがあります)を経由して、元に戻ってくる、循環路線でした。面白いのは、先に廃止した、川崎市から、トロバスの譲渡があったことで、川崎市700形701~704→横浜市100形121~124になりました。トロバスでは唯一の譲渡車両の例だそうです。

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